マイペースで少し抜けている彼女は、なぜか昼休みも放課後も、当たり前のように八幡の隣へ座ってくる。
風紀委員を務める一方、eスポーツ同好会の代表でもあるすみれには、「eサキュ」と呼ばれる理由があった。柔らかな声で褒め、無自覚に距離を縮め、相手を勘違いさせてしまうのだ。
交流会の準備を通して少しずつ近づいていく二人。
けれど八幡の不用意な一言をきっかけに、すみれは彼から距離を置いてしまう。
拳一つ分から始まった、風紀委員とひねくれ者の恋のお話。
・学園パロディー
・比企谷八幡×花芽すみれ
・独自設定、設定改変
・恋愛要素
・キャラクター解釈
原作、ご本人、所属団体および関係者各位とは一切関係ありません。
※本作は、作者本人がpixivおよびハーメルンに同一内容を掲載しています。
投稿時期や修正の反映状況により、軽微な表記の違いが生じる場合があります。
朝の校門には、なるべく目を合わせたくない人間がいる。
教師、生活指導、それから腕章をつけた風紀委員だ。
別に悪いことをしていなくても、ああいう人種と目が合うと、なぜかこちらに非があるような気分になる。日頃の行いとは無関係である。たぶん。
だから俺は、校門の脇に立つ女子生徒と目が合った瞬間、わずかに進路を変えた。
「比企谷くん。ちょっと止まって」
手遅れだった。
細くて柔らかい声だった。
威圧感はまるでない。むしろ少し眠そうですらある。
それなのに俺の足が止まったのは、彼女の左腕に巻かれた赤い腕章のせいだろう。
――風紀委員長。
銀色の短い髪を揺らす、その女子生徒の名前は花芽すみれ。
風紀委員長を務める一方で、eスポーツ同好会の代表もしているらしい。
二年生で同じクラスになって以来、廊下や校門で何度かこうして呼び止められている。
俺はネクタイを確認する。
多少曲がっているが、一応は結んである。シャツも出ていない。靴下も規定どおりだ。
完璧だ。
いや、完璧という言葉の水準を著しく下げている気もするが、少なくとも校則違反ではない。
「何か問題があるのか?」
「イヤホン」
「外してるだろ」
「片方だけ」
言われて、右耳に手をやる。
確かにイヤホンが残っていた。
だが音楽は止めている。接続も切ってある。もはやこれはイヤホンというより、耳についた近未来型アクセサリーでしかない。
「再生してない」
「でも、ついてる」
「ついてるだけだ」
「登校中は周りの音が聞こえないと危ないから、だめ」
花芽は胸の前で小さな手帳を開いた。
反論を挟む隙もなく、さらさらと何かを書き込む。
「二年F組、比企谷八幡。イヤホン片耳。注意一回」
「待て。今ので注意一回に数えられるのか」
「数えるよ。風紀委員だから」
「風紀委員の権限が強すぎるだろ。いつから警察組織になったんだ」
「警察じゃないよ」
「なら手帳に記録する必要はないだろ」
「同じ人が何回も注意されてたら、ちゃんと教えないといけないから」
言っていること自体は至極まともである。
俺のような人間にわざわざ声をかける役目を引き受けている点は、多少評価してもいい。
花芽は手帳から顔を上げると、俺の耳をじっと見た。
早く外せ、ということらしい。
仕方なくイヤホンを外す。
「はい。よろしい」
満足そうに頷いたあと、花芽は手帳の端に丸印を書き加えた。
「今の丸は何だ」
「ちゃんと外したから、いい子の丸」
「高校生に使う評価方法じゃないだろ」
「じゃあ消す?」
「丸でいいです」
「ん。素直でよろしい」
なぜ高校生にもなって、風紀委員長から「いい子の丸」をもらっているのだろう。
花芽はもう一度手帳を眺め、眉間にわずかな皺を寄せた。
「比企谷くん、先週も二回注意されてる」
「何の話だ」
「廊下で歩きながら本を読んでた」
「あれは移動時間を有効活用していただけだ」
「前見てなかった」
「誰ともぶつかってない」
「ぶつかってからじゃ遅いよ」
相変わらず声は柔らかい。
だが、目は意外なほど真剣だった。
「もう一回は?」
「昼休みに階段で一人でご飯食べてた」
「それのどこが風紀違反だ」
「立入禁止の札が置いてあった」
「あれは清掃中の札だ。昼には終わってたぞ」
「片づけ忘れかもしれないから、確認するまで入っちゃだめ」
「妙なところで真面目だな」
「風紀委員だから」
「その割に、今お前が校門の柱にもたれていた件については」
花芽が無言で柱から背中を離す。
「……今ので注意一回?」
「自分にもつけとけ」
花芽は少し迷ったあと、手帳に何かを書いた。
「花芽すみれ。勤務中にもたれていた。注意一回」
「本当に書くのかよ」
「自分だけなしは、ずるいから」
そこまで律儀にする必要はないと思う。
だが、悪い奴ではないらしい。
「比企谷くん」
「何だ」
「今日も階段で食べる?」
「さあな」
「立入禁止じゃないか、ちゃんと確認してね」
「善処する」
「善処は、やらない人が言うやつだよ」
「言葉の意味は分かるんだな」
「失礼」
花芽は少しだけ頬を膨らませた。
その顔を見なかったことにして、俺は昇降口へ向かう。
背後から、再び声が飛んできた。
「イヤホン、帰りも気をつけてね」
どうやら風紀委員の監視対象に認定されてしまったらしい。
□■□■□■□■□■□■
昼休み。
俺はいつものように、人の少ない特別棟の階段へ向かった。
教室で食べても構わないのだが、わざわざ青春群像劇の背景役を引き受ける必要はない。
男女が机を寄せ合い、昨日見た番組や次の休日の予定について語る空間で、一人黙々と弁当を食べるのは難易度が高い。
一人でいること自体は平気でも、一人でいるところを集団に観察されるのは精神衛生上よろしくないのだ。
階段の入口を確認する。
立入禁止の札はない。
これで風紀委員様から文句を言われる筋合いもないだろう。
踊り場に腰を下ろし、弁当箱を開ける。
小町が作った卵焼きを口へ運ぼうとしたところで、上から足音が聞こえた。
規則的だが、妙にゆっくりとした足音だ。
一段。
間。
もう一段。
間。
階段を下りているというより、下りるという行為を一つずつ確認しているような歩き方だった。
「いた」
花芽すみれが俺を見下ろしていた。
「いない」
「いるよ」
「これは残像だ」
「残像がお弁当食べてる」
花芽は俺の一段上で立ち止まる。
片手には購買の袋があり、その中からメロンパンが覗いていた。
「札、なかった?」
「なかった。校則違反でも何でもないぞ」
「ん。確認したなら大丈夫」
花芽は小さく頷いた。
これで用件は終わったはずだ。
にもかかわらず、彼女はその場から動こうとしない。
「何だ」
「ここ、座っていい?」
「他にいくらでも場所あるだろ」
「でも、比企谷くんがいる」
「俺がいないところを選べと言ってるんだが」
「教室、ちょっとうるさかったから」
花芽は購買の袋を持ち直す。
「それに、比企谷くんも一人だったし」
「一人でいるためにここへ来てるんだよ」
「じゃあ、静かにする」
「話を聞いてたか?」
「聞いてたよ」
返事だけは立派だった。
花芽は俺の許可を待たず、すとん、と隣に腰を下ろした。
「っ――」
思わず息が詰まる。
近い。
明らかに近い。
肩が触れているわけではない。だが、二人の間にあるのは拳一つ分ほどの隙間だけだ。
女子との適正距離は、最低でも教室の机一つ分。
俺の中ではそう定められている。今のこれは完全に安全基準を下回っていた。
「……近くないか」
「そう?」
花芽は不思議そうに首を傾げる。
その仕草で銀色の髪が揺れ、ほのかに甘い匂いがした。
シャンプーなのか、柔軟剤のせいなのかは知らない。
判別するために嗅ぎ直すわけにもいかないので、永久に未解決である。
「近いだろ」
「でも、ぶつかってないよ」
「ぶつからなければ適正距離というわけじゃない」
「じゃあ、どれくらい空けるの?」
「少なくとも、もう少しだ」
「もう少しって?」
「具体的な数値を求めるな」
「難しいね」
何がだよ。
こいつは本気で分かっていない顔をしている。
分かったうえでやっているなら警戒もできるが、無自覚でこの距離感なのが質が悪い。
俺は何も言わず、反対側へ少しだけ腰をずらした。
数センチほど距離が広がる。
これなら多少は落ち着けるだろう。
そう思った直後、花芽は俺が空けた分だけ何気なくこちらへ寄ってきた。
「待て」
「何?」
「今、詰めただろ」
「うん」
「なぜ素直に認める」
「比企谷くんが場所を空けてくれたから」
「お前のために空けたんじゃない。俺が離れたんだ」
「同じじゃないの?」
「結果だけ見れば同じだが、意図が正反対だ」
「意図?」
「俺は距離を取りたかったんだよ」
花芽は二人の間に残された、わずかな隙間へ目を落とした。
「すみれのこと嫌だった?」
柔らかな声だった。
責めるような響きはない。
ただ純粋に答えを待っている。
「……そういう意味じゃない」
「じゃあ、いいじゃん」
「何がいいんだ」
「隣にいても」
あっさりと言って、花芽は購買の袋へ視線を戻した。
俺だけが何かを意識しているようで、ひどく居心地が悪い。
ここで再び離れれば、また詰められる可能性が高い。女子生徒と階段の上で横移動を繰り返すという、意味不明な競技を始めるつもりもなかった。
仕方なく、その場にとどまる。
「近いと思ったら言ってね」
「さっきから言ってるだろ」
「もっと近くなったら」
「これ以上近づく予定があるのか」
「ないけど」
「なら最初から言うな」
花芽は購買の袋からメロンパンを取り出した。
袋を開けようとして、なぜか上側ではなく下側を引っ張っている。う~んと言いながら力むも、当然、開かない。
二度、三度と試したあと、袋を光へ透かして観察し始めた。
「何してるんだ」
「開かない」
「反対側だろ」
「こっちにもギザギザあるよ」
「それは製造工程でついただけだ」
「詳しい」
「常識だ」
「比企谷くん、頭いいんだね」
たった今、菓子パンの袋を開ける知識で知性を評価された。
人生における偏差値の底を見た気がする。
「はぁ……貸せ」
俺が袋を受け取ろうと手を伸ばす。
花芽も同時に差し出したせいで、指先がわずかに触れた。
「――っ」
反射的に手を引きかける。
だが、それではあまりにも意識していることが丸分かりだ。俺は何事もなかったような顔を作り、袋を受け取った。
「どうしたの?」
「何でもない」
「今、びくってしたよ」
「静電気だ」
「今ので?」
「状況を選ばないタイプの静電気だ」
「そんなのあるんだ」
「ない」
「嘘ついた?」
「お前が追及してくるからだろ」
切れ目から袋を開け、花芽へ返す。
「ほら」
「ありがと」
花芽は小さく笑った。
距離が近いせいで、その表情が嫌でも視界へ入る。
普段の眠そうな目が少し細まり、口元が柔らかく緩んでいる。
俺は逃げるように弁当箱へ視線を戻した。
「これくらい自分でできるようになれ」
「できるよ。今日はたまたま苦手だっただけ」
「袋の開封に日ごとの得手不得手があるのか……」
花芽はメロンパンを一口かじる。
それから、俺の弁当箱を覗き込んだ。
当然、覗き込むために体もこちらへ傾く。
銀色の髪が俺の腕へ触れそうになり、背筋が勝手に伸びた。
「卵焼き、おいしそう」
「やらんぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「一個ほしいなって思っただけ」
「言ってるじゃねぇか」
「交換する?」
花芽は食べかけのメロンパンを差し出した。
「それを交換に出すな」
「こっち側は食べてないよ」
「そういう問題じゃない」
「潔癖?」
「常識人だ」
「すみれも常識人だよ。風紀委員だし」
「風紀委員と常識人はイコールじゃないことを、お前自身が証明している」
花芽は少しだけ首を傾げた。
意味が分からなかったらしい。
考えることを早々に諦めたのか、再びメロンパンをかじる。
「比企谷くんって、怖そうだけど優しいね」
「どこを見てそう思った」
「パン開けてくれた」
「それだけで善人認定するな。詐欺に引っかかるぞ」
「大丈夫。知らない人にはついていかないから」
「知ってる人ならついていくのか」
「うん」
「もっと駄目だろ」
花芽はメロンパンを持ったまま、こちらを見た。
ただでさえ近いのに、正面から視線まで向けられると、どこを見ればいいのか分からない。
目を逸らせば意識しているように見えるし、見つめ返すのは難易度が高すぎる。
「比企谷くんになら、ついていくかも」
柔らかい声で、何でもないことのように言った。
俺の箸が止まる。
心臓に悪い。実に悪い。
本人にその気はないのだろう。
深い意味もない。
なのに、受け取る側だけが勝手に余計な意味を見つけてしまう。
そういえば、花芽はeスポーツ同好会の代表だった。
クラスの連中によれば、オンライン対戦中も柔らかな声で味方を褒め、失敗しても責めない。そのうえ普段から人との距離が近く、思わせぶりなことを無自覚に口にする。
そうして相手を勘違いさせることから、いつしか「eスポーツサキュバス」――略して「eサキュ」などと呼ばれるようになったらしい。
なるほど。誰が最初に言い出したのかは知らないが、今なら由来がよく分かる。
「eサキュ」
ぽつりと漏らすと、花芽の動きが止まった。
「……それ、誰から聞いたの」
「クラスの連中が話してた」
「違うから」
「何が」
「すみれ、サキュバスじゃないよ」
「知ってる。比喩表現だろ」
「ちゃんと調べたら、夢に出てくるやつだった」
「わざわざ調べたのか」
「最初は、eスポーツが上手な人って意味だと思ってた」
「サキュバス要素をどこへ置いてきたんだ」
「eは、いい感じのeかなって」
「頭文字ですらなくなってるぞ」
花芽はメロンパンの袋を握り締める。
怒っているというより、少し恥ずかしそうだった。
「みんな、面白がって言うけど。すみれ、誘惑してないよ」
「実際、今みたいなことを無自覚に言ってるなら、呼ばれる理由は分からなくもない」
「今みたいなこと?」
「俺にならついていくとか」
「だって、パン開けられるし」
「基準が幼児なんだよ」
「あと、悪いことしなさそう」
「ずいぶん信用されてるな」
「一人でいる人って、だいたい真面目だから」
「偏見だろ」
「比企谷くんも真面目だよ」
「どこが」
「注意したら、ちゃんとイヤホン外した」
あまりにも低い評価基準だった。
だが花芽は冗談を言っているようには見えない。
真面目な顔で、本当にそう思っているらしい。
「……誰にでも、そういうこと言ってるのか」
「そういうこと?」
「優しいとか、信用してるとか、ついていくとか」
「んー。分かんない」
「自分の発言だろ」
「覚えてないから」
「だからeサキュって呼ばれるんだよ」
「違うってば」
花芽は拗ねたように頬を膨らませた。
確かに、誘惑する悪魔には見えない。
どちらかといえば、菓子パンの袋を開けられず困っている、少し抜けた女子生徒である。
「じゃあ、比企谷くんには、もう言わない」
「それが賢明だな」
「優しいと思っても言わない」
「ああ」
「信用しても言わない」
「そうしろ」
「隣にいたいと思っても言わない」
「……そういうのを今言うな」
花芽は不思議そうに俺を見た。
「難しいね、男子って」
「お前が難しくしてるんだよ」
□■□■□■□■□■□■
放課後、担任に呼び止められた。
嫌な予感というものは、過去の経験をもとに脳が導き出す精度の高い未来予測である。
ゆえに、嫌な予感がした時点で逃げるのが最善なのだが、教室の前後を教師と風紀委員長に挟まれていてはどうしようもない。
「比企谷。悪いが花芽を手伝ってやってくれ」
担任は薄い紙束を俺へ差し出した。
表紙には『校内eスポーツ交流会・実施計画書』と書かれている。
「なぜ俺が」
「花芽が推薦した」
隣を見る。
花芽が小さく手を挙げた。
「おいすー」
「今する挨拶じゃないだろ」
「挨拶はいつしてもいいよ」
「よくない。あと、なぜ俺を推薦した」
「パソコン詳しそうだから」
「根拠は」
「イヤホンつけてた」
「音響機器一つで情報処理能力まで推測するな」
担任は俺たちの会話に構わず、仕事を押しつけ終えた人間特有の晴れやかな笑顔を浮かべた。
「来月、近隣校とオンラインで交流戦をやる。花芽が代表を務めているeスポーツ同好会の企画だ。本番はパソコン室を使う予定だが、書類関係が少しな」
「少し?」
計画書をめくる。
開催予定日が五月三十二日になっていた。
参加予定人数は一チーム五人、全六チームで、合計二十五名。
五人が消えている。
予算の欄には、ゲーミングマウス十台、一台八千円、合計八万円と書かれている。これは合っている。
その下に、ゲーミングチェア十脚、一脚一万五千円、合計十五万円。これも合っている。
さらにその下。
お菓子代三千円。
合計金額、二十三万六千円。
「惜しい」
「でしょ?」
「褒めてない。三千円増えてるぞ」
「お菓子、三千円じゃ足りないと思って」
「ならお菓子代を六千円に直せ。合計だけ増やすな」
「難しいね」
「足し算の話だぞ」
花芽は納得していない顔をしている。
だが計画書の別紙には、参加者の注意事項や機材の確認手順が細かくまとめられていた。
ケーブルに足を引っかけないよう床へ固定すること。
水分は蓋つきの容器に限ること。
大声や暴言、煽り行為があった場合は試合を中断すること。
体調が悪くなった生徒を無理に参加させないこと。
文章は拙いが、安全面についてはかなり真剣に考えているらしい。
「こういうのは、ちゃんと書けるんだな」
「事故があったら危ないから」
「計算もちゃんとしろ」
「そこは比企谷くんがいるから大丈夫」
「最初から他人任せじゃねぇか」
担任は俺の肩を叩いた。
「そういうわけだ。普段の準備は同好会の部室で進めてくれ。頼んだぞ」
「拒否権は」
「花芽からの推薦だ。光栄だろ」
「権力者に目をつけられた結果の強制労働なんですが」
教室を出ていく担任を見送り、俺は改めて計画書へ目を落とした。
誤字、脱字、計算ミス。
開催目的の欄には、『ゲームを通じて学校同士で仲良くなる。煽り禁止』としか書かれていない。
「小学生の学級会でも、もう少し具体的に書くぞ」
「分かりやすいほうがいいかなって」
「提出先は生徒会と教師だ。最低限の体裁を整えろ」
「じゃあ、比企谷くんお願い」
「自分でもやれ」
「すみれは機材の準備するから」
「そっちだけやたら得意なんだな」
「適材適所だよ」
「お前の不得意部分を俺一人に適用することを、適材適所とは言わない」
◇
放課後、俺は花芽に連れられ、特別棟の端にある部屋へ入った。
扉の上には、コピー用紙に印刷された『eスポーツ同好会』の文字が貼られている。
紙の端は少し剥がれ、透明なテープで雑に補修されていた。
室内には五台のパソコンが並び、壁際にはモニターの空箱や予備のキーボードが積まれている。
棚にはゲームの攻略本と菓子の袋が並び、窓際には用途不明のクッションまで置かれていた。
いかにも、生徒が好き勝手に作った空間である。
「ちゃんと部室があるんだな」
「うん。すみれは、ここの代表」
「風紀委員と兼任してるのか」
「偉いでしょ」
「肩書の数と人間の賢さは比例しないらしい」
「失礼」
花芽は少し頬を膨らませ、自分の席へ座る。
机の横には菓子の袋が何個も積まれていた。
「風紀委員として、これはいいのか」
「非常食だからいいの」
「どう見ても日常食だろ」
「部員がお腹空いたら大変だから」
「ほぼ全部お前が食ってるんじゃないのか」
「半分くらい」
「過半数に近いじゃねぇか」
文句を言いながらも、俺は空いている机へ計画書を広げた。
花芽は自分のパソコンの電源を入れると、先ほどまでの頼りなさが嘘のように手際よく機材を確認していった。
ネットワークの設定を開き、必要なソフトを更新し、マウスの感度まで一台ずつ調整する。
操作に迷いがない。
「そこは本当にできるんだな」
「何その言い方」
「五月三十二日を生み出した人間と同一人物とは思えん」
「ゲームは分かるから」
「勉強も分かろうとしろ」
「文字がいっぱいあると眠くなる」
「説明書は?」
「読まない」
「設定はどうしてる」
「触れば分かる」
どうやらこいつは、理屈より感覚で覚えるタイプらしい。
計算や文章では盛大につまずくくせに、ゲームに関することだけは、考えるより先に手が動く。
「比企谷くん、こっち来て」
「何だ」
「動作確認するから、一回入って」
「俺はゲーム要員じゃない」
「一人足りないの」
「五人いるんじゃなかったのか」
「五人いるよ。すみれと比企谷くんで二人、あと三人」
「俺を最初から数に入れるな」
「でも、もう登録した」
「扱いが雑すぎる」
結局、俺は空いている席に座った。
花芽から渡されたヘッドセットを装着し、ゲームを起動する。
対戦が始まると、花芽の雰囲気が変わった。
姿勢が少し前のめりになり、普段の眠そうな目が画面をまっすぐ見据える。
「右から二人来る。比企谷くん、下がって」
「了解」
「そこじゃない。もうちょっと右」
「ここか」
「うん。いい位置」
短い指示が飛んでくる。
不思議と分かりやすかった。
余計な説明がなく、必要な情報だけが耳へ入る。俺が操作を誤っても責めることはなく、すぐ次の動きを伝えてくる。
「比企谷くん、今の上手」
「偶然だ」
「偶然でも上手は上手だよ」
「次、来るぞ」
「大丈夫。すみれが見てるから、そのまま撃って」
柔らかい声が、ヘッドセット越しに届く。
「焦らなくていいよ」
画面の向こうでは敵が迫っている。
なのに、花芽の声を聞いていると妙に落ち着いた。
「比企谷くんなら、できる」
敵に照準を合わせる。
一人。
二人。
最後の一人を倒したところで、勝利を知らせる文字が画面に表示された。
「おおー」
隣で花芽が小さく拍手する。
「すごいじゃん、比企谷くん」
「お前の指示がよかっただけだ」
「でも、ちゃんと動けてたよ。えらい」
こちらを見て、ふにゃりと笑う。
なるほど。
これは危険だ。
普段は気の抜けた様子なのに、ゲーム中だけは頼りになる。的確に指示を出し、失敗しても責めず、成功すれば柔らかい声で褒める。
しかも本人には、相手を喜ばせようという計算がない。
だからこそ質が悪い。
「……eサキュ」
「だから違うって!」
花芽の声が部室に響いた。
□■□■□■□■□■□■
それから二週間、俺たちはほとんど毎日のように放課後を同じ部室で過ごした。
俺が書類を直し、花芽が機材を準備する。
仕事の分担だけを見れば合理的だったが、花芽はなぜか自分の作業が終わったあとも残った。
「そっちは終わったんだろ」
「終わったよ」
「なら帰れ」
「比企谷くんが終わってない」
「お前が待つ必要はない」
「一人で残すのはよくないから」
「また風紀か」
「うん。風紀」
便利な言葉である。
花芽は自分の椅子を引きずってくると、俺のすぐ隣へ置いた。
部室には空いている席がいくらでもある。
それなのに、花芽は毎回、俺の隣を選ぶ。
「もっと向こうに座れ」
「なんで?」
「近い」
「ぶつかってないよ」
「その基準はもう聞いた」
「じゃあ、拳二個分空ける」
「最初からそうしろ」
花芽は椅子を少しだけ動かした。
拳一個分が、拳二個分になっただけだった。
ほとんど変わっていない。
だが、これ以上言えば俺だけが意識しているように見える。
仕方なく黙って書類へ視線を戻す。
五分もすると花芽は机に頬杖をつき、十分後には完全に寝ていた。
一人で残さないためについてきた人間が先に意識を手放してどうする。
それでも、彼女がいる放課後は不思議と嫌ではなかった。
会話を強要せず、静かな時間を気まずがりもしない。目を覚ませば唐突に菓子を差し出し、また何事もなかったように黙り込む。
ただ隣に座り、同じ時間を過ごしている。
本人がどこまで分かってやっているかは怪しい。だから俺も、深く考えないことにした。
階段で隣に座ったことも、離れた分だけ詰めてきたことも、放課後まで待っていることも、花芽にとっては特別ではない。
そう思っておけば、間違えることはない。
◇
交流会の前日。
最終確認を終えて部室を出ると、廊下の先から男子生徒が二人歩いてきた。
二人とも参加メンバーだった。
「花芽先輩、明日よろしくお願いします」
「うん。遅刻しないでね」
「絶対行きます。花芽先輩に褒めてもらいたいんで」
「勝ったら褒めるよ」
「マジですか。頑張ります」
男子生徒たちは嬉しそうに去っていく。
花芽は何も気にせず、その背中に手を振っていた。
「相変わらずだな」
「何が?」
「いや、何でもない」
「変なの」
俺たちは昇降口へ向かう。
花芽は俺の半歩前を、いつものゆっくりした足取りで歩いていた。
「比企谷くんも、明日頑張ってね」
「俺は運営補助だ。試合には出ない」
「人数が足りなかったら出て」
「足りる予定だろ」
「予定は変わるものだから」
「お前が言うと単なる準備不足に聞こえる」
「勝ったら、いっぱい褒めてあげるよ?」
足が止まった。
先ほど男子生徒へ向けていたのと、よく似た言葉だ。
分かっていた。花芽は誰にでもこうなのだ。
俺だけに優しいわけでも、俺だけを信用しているわけでもない。階段で隣に座り、作業が終わるまで待っていたことにも、きっと深い意味はない。
それでも胸の奥がわずかに冷えたのは、俺が勝手に何かを期待していたからだろう。
「やめとけ」
「何を?」
「そうやって、誰にでも期待させるようなことを言うの」
花芽が立ち止まる。
「期待?」
「勝ったら褒めるとか、お前ならできるとか。一緒にいたいとか」
「最後のは、みんなには言ってないよ」
「似たようなもんだ」
「違うけど」
「相手は違うと思わない」
少し強い口調になった。
花芽は俺を見ている。
いつも半分眠そうな目が、今は静かに開いていた。
「だからeサキュなんて呼ばれるんだろ。お前にその気がなくても、言われたほうは勘違いする」
「比企谷くんも?」
問い返され、言葉に詰まる。
「……一般論だ」
「比企谷くんも、勘違いしたの?」
「してない」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくない。俺じゃなきゃ勘違いするといってるんだ」
「比企谷くんは、しないんだ」
花芽は視線を落とした。
何かを考えるように、腕章の端を指でなぞる。
「そっか」
それだけ言って歩き出した。
俺はその背中を追わなかった。
□■□■□■□■□■□■
翌日の交流会は、パソコン室で行われた。
ネットワーク障害も参加者同士の揉め事もなく、花芽が心配していた暴言や煽り行為も発生しなかった。
試合の合間には配線を確認し、飲み物が机の端に置かれていれば中央へ移すよう注意する。
負けて落ち込んでいる生徒には、次の試合へ切り替えるよう声をかける。
体調の悪そうな生徒を見つければ、すぐに休憩させていた。
計算や書類は壊滅的だったが、企画責任者としては真面目に働いている。
交流会は成功だったと言っていい。
ただし、花芽は一度も俺の近くへ来なかった。
必要な連絡は他の同好会員を通し、目が合っても小さく会釈するだけだ。休憩中も離れた席を選び、勝った生徒には結果だけを伝えていた。
昨日の俺の言葉どおり、誤解を招く言葉と距離を避けている。
俺が望んだのは、こういうことだったのだろうか。
なのに、見ているだけで妙に落ち着かなかった。
◇
交流会の終了後、俺は借りていたヘッドセットと予備のケーブルを部室へ戻しに来ていた。
機材を棚へ収め、机の上に残された箱を片づける。
花芽がいつも使っている席には、小さな手帳が置かれていた。
忘れ物だろう。
届けるべきか迷ったが、風紀委員長の業務記録を放置するのはよろしくない。
中身を見るつもりはなかったが、持ち上げた拍子に、挟まれていた紙が床へ落ちた。
拾い上げる。
紙には手書きで、『注意した人』と書かれていた。
その下に、いくつかの名前が並んでいる。
俺の名前もあった。
『比企谷八幡』
その横に小さな文字が続いている。
『イヤホン』
『歩きながら読書』
『一人でお昼』
ここまでは知っている。
さらに、その下。
『パン開けてくれた』
『書類全部直してくれた』
『ゲーム上手だった』
『隣に座ったら、ちょっと変だった』
『離れたら詰めても怒らなかった』
『部室で待ってても帰れって言うだけだった』
『一緒に帰りたい』
最後の一行だけ、二重線で消されていた。
「何見てるの」
背後から声がした。
振り向くと、花芽が部室の扉の前に立っていた。
「落ちてたんだ」
「返して」
いつもの柔らかな声だったが、少しだけ低い。
俺は紙を手帳に戻し、花芽へ渡した。
「悪かった」
「別に」
「忘れてたぞ」
「取りに来た」
「そうか」
「うん」
会話が切れる。
花芽は手帳を胸元へ抱えたまま、その場を動かなかった。
「比企谷くん」
「何だ」
「すみれ、ちゃんと気をつけたよ」
「何を」
「今日は誰にも、期待させるようなこと言わなかった。必要なことだけ話した」
「別に、そこまでしろとは」
「でも、みんな頑張ってたのに褒められなかった」
「なら褒めればよかっただろ」
「でも、勘違いさせるって」
「程度の問題だ」
「難しい」
「お前は極端すぎるんだよ」
「分かんないよ。比企谷くんが言ったんじゃん」
花芽の声がわずかに震えた。
怒っているのか、困っているのか、俺には判断できない。
「すみれ、みんなと仲良くしたいだけだよ」
「ああ」
「ゲームしてるとき、味方が上手だったら上手って言うし、失敗したら次頑張ろうって言う」
「ああ」
「変な名前をつけられるのは恥ずかしいけど、だからって冷たくしたくない」
「分かってる」
「分かってない」
花芽が一歩近づいた。
それでも、いつものように俺のすぐ隣までは来ない。
わざと距離を残して止まった。
「比企谷くんには、もっと分かってほしかった」
「どうして俺に」
「それが分かんないから困ってる」
「おい」
「比企谷くんのことは、いっぱい褒めたいし、一緒にいたい。でも、それを言ったら勘違いするんでしょ」
「俺はしないと言った」
「それも嫌だった」
意味を理解するまでに数秒かかった。
花芽は俯いたまま続ける。
「すみれは、比企谷くんには勘違いしてほしかったのかも」
「それは勘違いとは言わないだろ」
「じゃあ何?」
「正解を伝えようとしてることになる」
「何の正解?」
「そこから説明が必要なのか……」
思わず額を押さえる。
花芽は本気で分かっていないらしい。
自分の言葉が何を意味するのか理解しないまま、俺の逃げ道だけを正確に塞いでいる。
恐ろしい才能である。
「俺にだけは、期待してほしかったってことか」
「んー」
花芽はしばらく考えた。
「たぶん」
「俺にだけ、一緒にいたいと思ってた?」
「うん」
「俺が他の女子と一緒にいたら?」
「風紀が乱れる」
「具体的には」
「すみれの気持ちの」
「それは風紀とは言わない」
「じゃあ、何?」
「嫉妬だろ」
「それ、よくないやつ?」
「場合による」
「風紀違反?」
「校則には書いてない」
「じゃあ、いいか」
よくない。
いや、よくないこともない。
どちらだ。
俺までこいつに引っ張られて、思考が雑になっている。
花芽は少し顔を上げた。
「比企谷くんは?」
「何が」
「すみれが他の男子を褒めるの、嫌だった?」
「……多少は」
「じゃあ同じだ」
「認めたくはないがな」
「なんで?」
「みっともないだろ」
「そうかな」
「そうだ」
「すみれは嬉しいけど」
花芽が笑う。
いつものような柔らかい笑みだった。
だが、まだ俺たちの間には一歩分の距離が残っている。
「比企谷くん」
「何だ」
「近づいていい?」
「今さら許可を取るのか」
「昨日、気をつけろって言われたから」
「そこまでは言ってない」
「でも、嫌だったら困る」
階段では、俺が離れた分だけ何も考えずに詰めてきた。
その花芽が、今は俺の返事を待っている。
俺が勝手に引いた線を、勝手に越えないようにしている。
「……嫌じゃない」
「じゃあ、いいじゃん」
階段のときと同じ言葉だった。
花芽は一歩進み、いつもの距離まで戻ってくる。
それだけで、なぜかようやく息がしやすくなった。
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「比企谷くん、すみれのこと好きなの?」
「直球すぎるだろ」
「遠回しに聞いたら、分かんないから」
「聞く側が分からないのかよ」
「で、どうなの?」
花芽は俺のすぐそばに立ったまま、じっと答えを待っている。
ここで否定するのは簡単だ。
お前が誰にでも優しいから、俺が勝手に意味を取り違えただけだと、いつものように理屈を並べて何もなかったことにすればいい。
だが、それではたぶん、もう遅い。
こいつが誰かを褒めるたびに気になった。
他の男子へ笑いかければ、面白くなかった。
階段でも部室でも、当たり前のように俺の隣を選ぶことを、いつの間にか特別なものだと思っていた。
それを全部、勘違いの一言で片づけるのは無理がある。
「お前が誰を褒めようが、どこに座ろうが、本当なら俺には関係ない」
「うん」
「なのに、他の奴を褒めてるのを見たら腹が立った」
「うん」
「俺の隣にいるのも、誰にでもやってることだと思ったら、嫌だった」
口に出すたび、自分でも呆れるほど格好が悪い。
独占欲だとか嫉妬だとか、そんなものはもっと単純な人間が抱く感情だと思っていた。
どうやら俺も、十分に単純だったらしい。
「つまり?」
「……本当に、ここまで言っても分からないのか」
「ちゃんと言ってほしい」
花芽はそう言って、俺の制服の袖を指先で摘まんだ。
逃げ道を塞ぐには、あまりにも頼りない力だった。
それでも俺は、もう逃げる気にはなれなかった。
「勘違いじゃない」
「うん」
「お前には、俺の隣にいてほしい」
花芽の目が、わずかに見開かれる。
「他の誰かじゃなくて、俺の隣を選んでほしい。そう思ってる」
「それって」
今度は誤魔化さず、花芽の目を見る。
「俺は、花芽すみれが好きだ」
言い切った瞬間、花芽の指に少しだけ力が入った。
「……ほんとに?」
「ああ」
「eサキュだからじゃなくて?」
「それを理由に好きになる奴がいるか」
「いるかもしれない」
「少なくとも俺は違う」
「じゃあ、何が好きなの?」
「追加質問が多いな……」
「大事だから」
花芽は袖を摘まんだまま、返事を待っている。
「真面目なくせに抜けてるところとか」
「褒めてる?」
「ゲームのことになると急に頼りになるところとか」
「ん」
「一人でいたいときに、無理に話しかけてこないところとか」
「うん」
「何も言わずに隣にいるところとか」
そこまで言うと、花芽の口元が少しだけ緩んだ。
「やっぱり、隣が好きなんだ」
「お前じゃなきゃ意味がない」
言ってから、自分の口を塞ぎたくなった。
今のは明らかに余計だった。
だが花芽は、眠そうだった目を柔らかく細める。
「今の、もう一回言って」
「断る」
「風紀委員長命令」
「職権乱用だ」
「じゃあ、お願い」
「それも断る」
「すみれも好きだよ」
あまりにも自然に返されて、今度は俺が言葉を失った。
「……軽くないか」
「軽くないよ。ずっと考えてたから」
「いつから」
「階段で隣に座った日から、気になってた」
「早いだろ」
「好きだって分かったのは、部室で一緒にいたとき」
「いつだよ」
「比企谷くんが書類を直してる隣で、寝てたとき」
「ほぼ毎日じゃねぇか」
「だから、いつの間にか」
花芽は俺の袖を摘まんだまま、楽しそうに笑った。
「帰れって言うのに、本気で追い出そうとはしなかったから」
「都合よく解釈するな」
「違った?」
「……違わない」
花芽の口元が嬉しそうに緩む。
「じゃあ、付き合う?」
「順序が逆だろ」
「すみれも好きって言ったよ」
「そういう問題じゃない」
「分かりやすく言ってくれないと、すみれ、あんまり頭よくないから」
「それを免罪符にするな」
俺は一度息を吐く。ここまで来て、今さら曖昧な言葉に逃げても仕方がない。
「花芽」
「ん?」
呼び止めたまではよかった。だが、その先が喉につかえる。
「その……俺と」
「うん」
「いちいち相槌を打つな」
「じゃあ黙る」
花芽は自分の口を手で押さえた。
本当に黙るのかよ。
俺は一度目を逸らし、それから覚悟を決めて向き直る。
「……俺と付き合ってほしい」
最後まで言い切ると、花芽が一度瞬きをした。
俺の袖を摘まんでいた指に、少しだけ力が入る。
「……うん」
短い返事だった。
けれど、普段よりわずかに弾んだ声と、緩んだ口元だけで十分だった。
「すみれも、比企谷くんと一緒にいたい」
「ああ」
「これからも、隣にいていい?」
「今さら聞くことか」
「ちゃんと聞いたほうがいいかなって」
「……好きにしろ」
「ん。好きにする」
花芽は嬉しそうに頷いた。
それから、いつもの手帳を開いて何かを書き込む。
「何を書いた」
「比企谷八幡。告白一回」
「記録するな」
「返事は、成功……の丸」
俺の名前の横に、大きな丸が描かれる。
「だから高校生に使う評価方法じゃねぇ」
「じゃあ消す?」
「丸でいいです」
「ん。よろしい」
花芽がにこりと笑う。
あの日の朝と似た言葉なのに、今度は不思議と悪い気はしなかった。
花芽はその下に、さらに何かを書き足した。
「何だ、それ」
「eスポーツ同好会、書記」
「聞いてないぞ」
「書類できるから」
「付き合った瞬間に役職を押しつけるな」
「適材適所だよ」
「そういう使い方だけは正しいのが腹立つな」
花芽は満足そうに手帳を閉じた。
「じゃあ、明日も一緒にお昼食べてね」
「それは風紀委員と関係ないだろ」
「階段で」
「教室で食べろ」
「うるさいから嫌」
「なら別の場所を探せ」
「比企谷くんの隣がいい」
何でもないことのように言う。
付き合う前と同じ柔らかな声なのに、今度は言葉の意味を誤魔化せない。
「……近いんだよ」
「付き合ってるから大丈夫」
「付き合ったら距離の規定が変わるのか」
「今作った」
「だからお前に立法権はない」
「風紀委員長だよ?」
「風紀委員なら、むしろ校内でいちゃつくな」
「隣に座るだけだよ」
「拳一個分は近すぎる」
「じゃあ、拳二個分」
「ほとんど変わってないだろ」
「これ以上離れたら、卵焼き見えない」
「目的はそっちかよ」
「卵焼きも好きだけど」
花芽は一度言葉を切る。
少しだけ目を逸らしながら、俺の袖を摘まんだ。
「比企谷くんの隣も好き」
「……そうか」
「顔、赤いよ」
「暑いんだよ」
「部室、冷房ついてるけど」
「うるさい」
花芽は楽しそうに笑い、俺の袖を掴んだまま部室の出口へ向かう。
「放課後も一緒に帰る」
「風紀委員の仕事か?」
「見回り」
「二人で帰るだけだろ」
「だめ?」
花芽がこちらを見上げる。
眠そうな目。
柔らかな声。
銀色の髪の隙間から覗く、わずかに赤くなった耳。
本人は知らないだろうが、こんな顔で頼まれて断れる男子はそう多くない。
電子の戦場でなくても、その効力は十分らしい。
「……好きにしろ」
「うん。好きにする」
花芽は俺の袖から手を離す。
代わりに、その指先が俺の手へ触れた。
恐る恐る指を重ね、やがて小さく握る。
「これなら、離れないよ」
「校内だぞ」
「誰もいない」
「風紀委員が率先して規則の隙を突くな」
「手を繋いじゃだめって、校則に書いてないよ」
「そういう問題じゃない」
「難しいね」
最初に階段へ来たときと同じ言葉だった。
だが、あのときよりも距離は近い。
拳一個分どころか、手のひら一枚分すら空いていない。
おそらく彼女は、これからも多くの人間を無自覚に勘違いさせる。
柔らかく褒め、自然に頼り、少しだけ近い距離から笑いかける。
そのたびにeサキュと呼ばれ、本人は違うと否定するのだろう。
だが少なくとも、今この瞬間だけは違う。
花芽すみれは、自分の意思で俺の手を握っている。
それが分かっていれば十分だ。
「比企谷くん」
「何だ」
「今日、一緒に帰ったら注意一回ね」
「なぜだ」
「男女交際で風紀が乱れてるから」
「お前も当事者だろ」
「すみれは風紀委員長だから免除」
「史上最低の風紀委員長だな」
「でも、真面目だよ」
「自分で言うな」
「比企谷くんが注意されないように、ずっと隣で見てるから」
「それが一番の職権乱用だろ」
花芽は楽しそうに笑った。
たぶん、こいつはサキュバスなんかではない。
勉強はあまり得意ではなくて、やたらマイペースで、真面目なくせに人との距離を測るのが少し下手な風紀委員長だ。
そして俺は、そんな彼女から逃げるには、ほんの少しだけ手遅れだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、比企谷八幡×花芽すみれの読み切りでした。
マイペースで少し抜けているけれど、真面目なすみれさんを書けていたら嬉しいです。
感想やお気に入りの場面などがありましたら、コメントで教えていただけると励みになります。
次回は、比企谷八幡×花芽なずなのお話を予定しています。
花芽姉妹、いいよね。
それでは、また次のお話で。
※本作は、作者本人がpixivおよびハーメルンに同一内容を掲載しています。
投稿時期や修正の反映状況により、軽微な表記の違いが生じる場合があります。