大総統がオラリオにいるのは間違っているだろうか 作:みずぎの
一旦、畏まっています。
評価感想ありがとうございます。
「【エリス・ファミリア】発足。」
その報せは、瞬く間に迷宮都市オラリオを駆け巡った。
女神一柱に、男性眷属一名。たった二人だけの、あまりにも小さな新設ファミリア。それだけの規模で、これほどまでにオラリオが騒然となったのには、もちろん理由があった。
無名の超大型新人――その戦闘技術や、異様なまでに統率の取れた出で立ちに、人々が単純に驚嘆しているわけではない。
もちろん、偶然その姿を目にした下級冒険者たちは、一様に言葉を失っていた。振り下ろされる拳の速さも、踏み込みの鋭さも、常人の理解が及ぶ範疇を超えている。
モンスターとの戦闘は、もはや戦闘と呼ぶことすら憚られた。悲鳴を上げる暇も、抵抗する隙もなく、次々と沈黙していくモンスターたち。それはむしろ、手際の良い解体ショーとでも呼ぶべき光景だった。
だが、その噂を又聞きで耳にした人々の多くは、話半分に聞き流した。下級冒険者特有の、誇張と武勇伝が混じった噂話だろう、と。
――そう、神々を戦慄させていたのは、ブラッドレイではない。
女神、エリスだ。
天界に轟く、その悪名。
引き起こしてきたトラブルは、もはや数えることすら放棄されている。
争いと不和を司る、超弩級の地雷女神。
嫉妬深く、感情の起伏は激しく、そして何より、タチが悪い。
個人的な私怨から始まる小さな嫌がらせから、時には国家間の戦争にまで発展させたという逸話すら囁かれる。神々の間では、半ば伝説的な畏怖の対象ですらあった。
その、闇派閥の首魁候補にすら数えられていた女神が――ついに、下界へ降りてきた。
何をしでかすか分からない。
またこの街に、新たな厄災をばら撒くのではないか。
噂話を好む神々の間で、そうした懸念と憶測は、瞬く間に広がっていった。眉をひそめる者、興味本位で笑う者、様々な反応があったが、根底に流れる緊張感だけは共通していた。
そして、その予兆を裏付けるかのように――程なくして、ゼウス・ヘラ両派閥が相次いでオラリオを去った。抑止力を失った街では、それまで鳴りを潜めていた【闇派閥】の活動が、再び牙を剥くように激化していく。
不安と混乱が、静かに、しかし確実に、迷宮都市の底に沈殿していった。
――そして、五年の歳月が流れた。
「いやほんま……未だに信じられへん」
カップを片手に、彼女は心底納得いかないといった顔で呟いた。眉間には深い皺が寄り、視線は宙のどこか一点に留まったまま動かない。
向かいに座るアストレアが、静かに紅茶を口へ運ぶ。白磁のカップが立てる、かすかな音だけが、一瞬、二人の間を満たした。所作の一つひとつに、彼女らしい落ち着きが滲んでいる。
「何がですか?」
「エリスや」
即答だった。迷いのない、確信めいた響き。
「絶対もっと早く問題起こすと思っとったんやぞ、うちは」
ロキは机へ突っ伏しそうな勢いで言った。長年神々の間で培われた勘、その予測が根底から覆された苛立ちが、声の端々に滲んでいる。フィンが小さく苦笑した。呆れとも共感ともつかない、微妙な笑みだった。
ロキが偽善者と罵るアストレアをわざわざ昼下がりのコーヒーブレイクに誘ったのには訳がある。エリス周辺についての情報収集――それも、半ば意地になった探究心からくるものだった。
「天界ん頃から超弩級の地雷女神やったんやからな、あいつ」
アリーゼがきょとんとする。灯りに照らされたその表情には、まだ実感の伴わない戸惑いが浮かんでいた。年若い神造の少女らしい、素直な困惑。
「そんなになんですか?」
「そんなにや」
ロキは真顔で頷いた。窓の外を一瞥し、遠くバベルの塔の頂を見上げるように目を細める。その瞳の奥には、天界時代の記憶――苦い経験の断片がよぎっているようだった。
「嫉妬。気に食わん。退屈。面白そう。――その辺の理由で厄災ばら撒く女神やぞ」
「言い方」
アストレアが苦笑する。カップを受け皿に戻す、その所作は変わらず穏やかだった。指先の動きひとつにも、乱れがない。
だが、否定はしなかった。その沈黙こそが、何よりの肯定だった。
ロキは続けた。言葉を重ねるごとに、苛立ちよりも呆れのほうが色濃くなっていく。
「しかも本気の悪意のくせに悪気ないんが最悪なんや。“なんかこうした方が面白いやん?”くらいのノリで爆弾投げ込むタイプや」
「それは……」
アストレアが遠い目をした。窓の外へ視線を逃がすように。過去の記憶を手繰るような、わずかな間があった。
思い当たる節が、多すぎる。
「せやろ?」
ロキが勢いよく頷く。カップの残りを一息にあおぐ。行儀の悪さすら気にならないほど、彼女は自分の主張に夢中になっていた。
「下界来た時も、“絶対そのうち都市半壊させる”って神連中みんな思っとったんやぞ」
「そこまでは……」
「いや思っとった」
フィンまで苦笑交じりに認めた。彼の視線は、遠く別のテーブルで談笑する神々の輪へ、ちらりと向けられている。あの中の誰もが、かつて同じ懸念を抱いていたのだろう――そんな確信を込めた、静かな一瞥だった。
アストレアは小さく肩を竦める。ドレスの裾が、椅子の下でわずかに揺れた。
「確かに、私も最初はそう思っていました。エリスが真面目にファミリア運営をするとは考えていませんでしたし」
「やろ!?」
ロキは食い気味だった。卓を軽く叩き、その音に近くの給仕が一瞬びくりと肩を震わせる。周囲の視線をわずかに集めたことにも、今は構う余裕がないらしい。
「なのに蓋開けたら何や!? 闇派閥と戦っとるわ、市民人気そこそこ高いわ、ギルドからも普通に信用されとるわ!」
「そこそこではなく、かなり、ですね」
アストレアが静かに訂正する。指先で、テーブルクロスの皺を撫でるように整えながら。淡々とした口調の裏に、正確さへのこだわりが垣間見えた。
「特に生活の苦しいかたがたからは支持が厚いですよ。エリス・ファミリアは頻繁に治安維持へ介入していますから」
ロキが頭を抱えた。長い髪が乱れ、その隙間から深い溜息が漏れる。理解の追いつかない現実を前に、ただただ困惑するしかないといった様子だった。
「意味わからん……」
天界時代を知る神々ほど、その反応になる。
エリスは“善良”な神ではない。
争いと不和を司る女神。
嫉妬深く、感情的で、気紛れ。
しかも、“面白そうだから”という理由で行動する。
最悪である。
だからこそ、今の状況が理解不能だった。過去の記憶と、目の前の現実との落差が、あまりにも大きすぎる。
「……でも」
アストレアが穏やかに口を開く。窓から差し込む月明かりが、その横顔を淡く照らしていた。
「神も変わるものですよ、ロキ」
「はぁ?」
「あなた自身、下界へ降りた当初と今では随分違うでしょう?」
ロキが言葉に詰まった。串を持つ手が、宙で止まる。反論しようとして、けれど言葉が見つからない――そんな一瞬の停止だった。
フィンが口元を押さえて笑う。肩が僅かに震えていた。
「それは確かに」
「フィンまで!?」
「昔のロキは、好き放題でしたからね」
「うっさいわ!」
ロキが抗議する。頬を膨らませ、カップを卓へ叩きつけるように置いた。子供じみたその仕草に、思わずといった様子で
アリーゼが小さく笑みをこぼす。
だが、完全には否定できない。
ファミリアを持ち、子供を導き、都市の中で責任を背負う。それは神々にも変化をもたらす。かつて自由気ままに天界を渡り歩いていた自分と、今、この席で子供たちの安否を気にかけながら座っている自分。その違いを、ロキ自身が一番よく知っていた。
アストレアは静かに続けた。窓の外へと視線を投げかけながら。その声には、どこか祈りにも似た響きがあった。
「エリスも変わったのかもしれません」
「いやぁ……」
ロキは露骨に顔を顰めた。眉間に深い皺を刻み、腕を組む。簡単には受け入れられない、という抵抗が全身から滲み出ていた。
「でも相手エリスやぞ?」
「信用がありませんね」
「当然や。地雷女神やで?ヘラがゼウス関連クラスの嫌がらせに送り込むレベルの厄災やで?」
即答だった。過去の忌まわしい記憶が、その一言に凝縮されているようだった。
アリーゼが思わず吹き出す。控えめな笑い声が、静かな一角に小さく響いた。
「そんな異名みたいに……」
「異名やなくて事実や」
ロキは真顔だった。灯りの下、その瞳には冗談とは言い切れない真剣な色が宿っている。
「昔なんて、“エリスが暇してるから誰か止めろ”って神界で言われとったくらいや」
「【大総統】のおかげかもしれませんね」
アストレアの声には、確信めいた穏やかさがあった。
「【大総統】キング・ブラッドレイなぁ。アストレアのとこは一緒に動いてることもあるやん?実際のとこどないなん?」
ロキが身を乗り出す。好奇心を隠しきれない、子供のような目つきだった。
アストレアが目線でアリーゼに発言を促す。促されたアリーゼは、少し姿勢を正した。話す機会を与えられたことへの、
密かな嬉しさが表情に滲んでいる。
「おじさまは、ほんっとうに強いです。それと、結構ユーモアに溢れています。事務仕事が嫌でパトロールに逃げてきている時が一番楽しそうにしていますよ」
思い出しながら話しているのか、その口調は自然と柔らかくなっていった。
「闇派閥とみるや抹殺するバーサーカーや聞いてたけど」
ロキが半信半疑といった表情で問い返す。
「そうなんです!すごいんですよ!パッと行って気がついたらもうみんな倒れてるんです。早すぎて怖いくらいですよ」
アリーゼの声が、興奮を隠しきれずに一段高くなる。
なによりもと、もったいつけてアリーゼが続けた。焦らすような、けれど無邪気な間だった。
「攻撃が当たらないんですよね。ほんとにぜーんぜん。剣も弓も魔法も。あの技術は学ばないとね」
「彼がイメージと違って情にあついというのは僕も聞いたことがあるな。なんでも、団員や仲間の葬儀の際に悲しみに震えていたとか」
フィンが穏やかに付け加える。伝聞ながらも、どこか納得したような口ぶりだった。
「正確には、柄を握る拳が、ですね」
アストレアが静かに訂正する。細部へのこだわりが、そのまま彼女の観察眼の鋭さを物語っていた。
「鬼の目にも涙ってか?いや、そんなことよりや。いくら出会いが大きかったとしてあのエリスがトラブル起こしてないのが気持ち悪すぎる」
ロキは再び本題へと話を引き戻す。納得しかけた自分を振り払うように、わざと大きく首を振りながら。
「まあ確かに、今んとこ悪さしてへんのは分かった。分かったけど――」
ロキは腕を組み、椅子の背もたれに体重を預けた。天井を仰ぎ、少し声のトーンを落とす。
「もし、や。もしもの話やけど」
「はい」
アストレアが姿勢を正す。予感めいたものがあったのか、その表情がわずかに引き締まった。
「レベル的にも負けるなんてあり得へんけど、エリスんとこが暴れて、まあ【大総統】が暴れたら結構な被害出るよなあ」
フィンの表情から、笑みが静かに消えた。仮定の話とはいえ、口にするだけで空気が変わる。それだけの重みを持つ問いだった。
「ギルドが公式発表しているレベルは3。ステータスの差は歴然だよ。いくら個人技が高いと言ってもね。ただ、信頼が一転する影響は計り知れないかな」
フィンの言葉に、ロキが小さく頷く。
「そこはうちも同意見や。レベル3程度なら、正直第一級はおろか、うちの中堅どころでも数揃えたら押し切れる。純粋な戦力としては、そこまで脅威やない」
「わたしは、そもそもあり得ないと思います」
アリーゼがきっぱりと言い切った。真剣な表情でロキを見つめる。
「みんなをたすけてきたエリス様やおじさまが、闇派閥に手を貸すなんて。今までの活動、絶対に嘘じゃないです」
「そらまあ、うちも本気で疑っとるわけやないで。あくまで“もしも”の話や」
ロキが両手を軽く上げ、宥めるように言った。
「せやけど、可能性はゼロにしとかへんのが、神やった頃からの癖でな」
「……そうですね」
アリーゼは小さく息を吐いた。少し落ち着きを取り戻したように、続けて口を開く。
「ただ、もし――本当にもしもの話として、おじさまと一対一になったら、危険だと思います」
「せやろな。タイマンは避けたいとこや」
ロキが顎を撫でながら同意した。
「レベルの差はあっても、おじさまの剣は『殺す』ことに関して洗練されています。」
アリーゼは少し考えるように視線を落とし、それから顔を上げた。
「一対一を避けて、複数人で連携して対応すれば、勝機はあると思います。特に、範囲攻撃と組み合わせれば」
「さっきうちらで話しとった通りやな」
フィンが小さく微笑む。
「ま、構成員も本拠地も割れとる訳やし、考えすぎやな」
すまんすまんとロキが笑う。
アストレアが静かに頷いた。それまで黙って耳を傾けていた彼女が、ゆっくりと口を開く。
「エリスも子供たちと出会い、変わった。とても素晴らしいことですよ」