そして、彼はなった。正義のヒーロー「ワナイダーマン」に。
これは、ワナイダーマンの正義の物語。
パルデア地方。
広大な大地の南部に位置する、小さな町──プラトタウン。昼間には若いトレーナーたちが行き交い、広場には陽気な話し声が絶えないその町も、夜が更ければ穏やかな静寂に包まれる。
雲ひとつない夜空には、磨き上げられた銀貨のような満月が浮かんでいた。淡い月明かりが石畳を白く染め、遠くの草むらからは、野生のポケモンたちの鳴き声が時折聞こえてくる。
その町の一角に、周囲の建物とはどこか趣の異なる木造家屋があった。
黒ずんだ柱に、緩やかな傾斜を描く瓦屋根。軒先には風鈴が吊るされ、夜風が吹くたび、涼やかな音を響かせている。パルデアにありながら、その佇まいは遠く離れたジョウト地方の民家を思わせる。
そしてその月明かりの差し込む縁側に、二つの人影が並んで腰を下ろしていた。
一人は、深く疲れた顔をした40代くらいの男。
もう一人は、まだ幼さの残る少年だった。
二人の間には、よく冷えた飲み物と、半分ほど残った木の実の皿が置かれている。けれど、どちらもそれに手を伸ばそうとはしない。
男は庭先に落ちる月光を眺めながら、懐かしい記憶を掘り起こすように、静かに口を開いた。
「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてたんだ」
少年は思いがけない言葉を聞いたように、隣へ顔を向けた。
「なんだよ、それ」
少しだけ眉をひそめ、男の横顔を見つめる。
「憧れてたって、諦めたのかよ」
「うん。残念ながらね」
男は苦笑した。
それは自分自身を笑っているようでもあり、遠い昔の誰かを懐かしんでいるようでもあった。
「ヒーローは期間限定でね。オトナになると、名乗るのが難しくなるんだ」
そう言って、男はゆっくりと空を仰いだ。
満月の光が、白髪混じりの黒髪を淡く縁取っている。
その目に映っているのは、今夜の月だけではないのだろう。遠い昔、まだ何者にでもなれると信じていた頃の自分を、男は静かに見つめていた。
「そんなコト、もっと早くに気付けば良かった」
「そっか」
少年は膝を抱え、庭へと視線を戻した。
「それじゃ、しょうがないな」
「そうだね」
男は、小さく息を吐いた。
「本当に、しょうがない」
風が庭木の葉を揺らした。
さわさわと重なる葉音の向こうで、風鈴が一度だけ鳴る。
男は目を細めた。
「ああ。本当に──いい月だ……」
少年は答えなかった。
男の言葉を胸の中で何度か転がすように、しばらく黙って月を見上げていた。
やがて、何かを決めたように鼻を鳴らす。
「うん。しょうがないから、俺が代わりになってやるよ」
「……え?」
男が目を瞬かせる。
少年は縁側から立ち上がった。
夜風を受けながら胸を張り、老人を振り返る。その表情には迷いなどなく、子供らしい無鉄砲さと、それ以上に強い決意が浮かんでいた。
「爺さんはオトナだから、もう無理なんだろ?」
挑むような笑みを浮かべ、少年は庭先へ目を向ける。
木の枝と枝の間。
月光の届かない影の中で、六本の脚を持つポケモンがじっとこちらを見守っていた。
「でも、俺たちなら大丈夫だ」
少年が呼びかけるように拳を掲げると、ワナイダーは静かに身を起こした。
その瞳が、月明かりを受けて鋭く輝く。
「まかせろって」
少年は力強く言い切った。
「爺さんの夢は──」
一陣の風が吹き抜けた。
木々が大きくざわめき、少年の髪と服の裾を揺らす。
「俺とワナイダーが、ちゃんと形にしてやっから」
男は何も言わない。ただ目を見開き、少年と、その傍らへ歩み寄ったワナイダーを見つめていた。
やがて、その顔にゆっくりと笑みが広がっていく。それは先ほどまで浮かべていた、自嘲を含んだ寂しい笑みではなかった。
心の奥に長くしまい込んでいた何かを、ようやく誰かに託すことができた者の笑顔だった。
「あぁ」
男は目元を緩め、静かに頷いた。
「安心したよ」
月は何も語らず、縁側に並ぶ三つの影を優しく照らしていた。
***
「…………今朝は、また随分と懐かしい夢を見たな」
俺はそう零しながら、オレンジアカデミーへ続く通学路を足早に歩いていた。
プラトタウンを出てから、もう随分と時間が経っている。朝日はとっくに東の空へ昇り、乾いた街道を眩しいほど明るく照らしていた。道の両脇には背の低い草が広がり、ところどころに咲いた白い花が、穏やかな風に揺られていた。
遠くではヤヤコマの群れが青空を横切り、街道脇の木陰からは、こちらを警戒するグルトンが鼻先だけを覗かせている。
いつもなら、もう少しゆっくり眺めていたい景色だ。
けれど今朝に限っては、そんな余裕はない。
「まずい、まずい、まずい……! このままじゃ本当に遅刻する!」
肩に掛けた鞄を押さえながら、俺は坂道を駆け上がる。
新品だった制服も、入学して年月を経た今では、すっかり身体に馴染んでいた。ネクタイは少し曲がり、シャツの裾も走るたびにずれかけている。
早起きには、それなりに自信があった。少なくとも、目覚まし時計を三つ並べていた頃よりは。
けれど昨夜、久しぶりに実家へ帰ったのが良くなかったのだろう。
懐かしい縁側に腰を下ろし、月を眺めているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。目を覚ました時には、既に太陽が屋根の向こうから顔を出していた。
そして、あの夢だ。
何度も見た、昔の夢。
月明かりの下で、爺さんと交わした約束。
『爺さんの夢は──俺とワナイダーが、ちゃんと形にしてやっから』
子供の頃の自分の声が、今でも耳の奥に残っている。
我ながら、随分と大きなことを言ったものだ。
正義の味方になる。
困っている人を助け、悪いやつを懲らしめ、どんな時でも颯爽と駆けつける。
子供が思い描くヒーローそのものだ。
けれど、あの日の俺は本気だった。
そして今も、そのつもりは変わっていない。
「とはいえ、遅刻しそうなヒーローっていうのは……ちょっと格好がつかないよな⋯⋯」
「ワナッ!」
頭上から、呆れたような鳴き声が降ってきた。
見上げれば、街道沿いに立つ木々の枝から枝へ、一本の白い糸が張り巡らされている。
その糸を伝い、六本の脚を器用に動かしながら、ワナイダーが俺と並んで進んでいた。
昔に比べれば、随分と立派になった。
身体は大きくなり、脚も太く逞しい。鋭い目つきも相まって、初対面の人間からは怖がられることも少なくない。
けれど俺にとっては、子供の頃からずっと一緒にいる相棒だ。
「そんな顔するなって。まだ間に合う。たぶん」
「……ワナ」
「今の間はなんだよ」
ワナイダーは答える代わりに糸を切り、前方の木へと跳び移った。
完全に呆れられている。
まあ、寝坊したのは俺だ。
言い返す資格はない。
そんなやり取りを続けながらテーブルシティを抜け、ようやくオレンジアカデミーの正門前まで辿り着いた。
そして俺は、目の前にそびえる光景を見上げる。
「…………」
アカデミーへと続く、馬鹿みたいに長い大階段。
何度通っても、この段数だけはどうかしていると思う。
知識を得るためには、まず足腰を鍛えろということなのだろうか? だとしたら、ずいぶんと体育会系な教育方針だ。
俺はスマホロトムを取り出し、時刻を確認する。
始業まで、あと二十分。ここから教室までの距離を考えれば、決して余裕があるとは言えない。それでも、この階段を全力で駆け上がれば、どうにか間に合うはずだ。
「よし。ここから全力で走れば──」
気合を入れ直し、最初の一段を蹴る。
その直後だった。
「キミもスター団に入れば、お星さまのように輝けるのよ!?」
階段の少し先から、やけに芝居がかった声が聞こえてきた。
思わず足を止める。
声のした方へ目を向けると、踊り場の隅で、二人組の生徒が、ひとりの少女を取り囲んでいた。
二人とも、アカデミーの制服を自分勝手に改造したような格好をしている。派手なサングラスに、星形の装飾。傍らには、毒々しい色合いの旗まで立てかけられていた。
見間違えようもない。
アカデミーでも何かと噂になっている集団──スター団だ。
「またまたぁ! そんなこと言って、本当は興味あるんでしょ?」
「スター団に入れば、退屈なアカデミー生活とはオサラバだぞ!」
「だから、そういうのは……」
少女がさらに身を縮める。
断っている。どう見ても、はっきりと。
それでも二人は気にした様子もなく、左右から少女との距離を詰めていく。
「…………仕方がない、か」
俺は小さく溜息をつき、踵を返した。
「ワナ」
「逃げるんじゃない。準備だ、準備」
怪訝そうな声を上げるワナイダーを連れ、階段脇の細い路地へ駆け込む。
周囲に人影がないことを確認すると、俺は鞄を地面へ下ろした。教科書や筆記用具を掻き分け、その一番底に押し込んである細長い包みを引っ張り出す。
黒い布で厳重に包まれた、俺の秘密兵器。
紐を解けば、中から現れたのは一着のスーツだった。
濃い緑を基調とした全身衣装。
胸元には白い糸で描かれた、六本脚の蜘蛛を思わせる紋章。顔を覆うマスクには鋭く吊り上がった複眼風のレンズが取り付けられ、手首と足首にはワナイダーの糸を固定するための射出装置が備わっている。
そう。
これこそが、正義のヒーロ──―。
ワナイダーマンのスーツだ。
「よし。ワナイダー、見張りを頼む」
「ワナ……」
相棒は明らかに嫌そうな顔をした。
「そんな顔をするな。正体を隠すヒーローにとって、着替えを見られないことは何より重要なんだ」
「ナイナイ」
「路地裏で着替えること自体がどうなんだって顔をするな」
時間がない。俺は制服の上着を脱ぎ捨て、急いでスーツへ足を通した。
このスーツは、俺とワナイダーが長い年月をかけて作り上げたものだ。
素材にはワナイダーの糸を織り込んだ特殊な布を使用している。薄手ながら刃物や衝撃に強く、伸縮性と通気性も抜群。背中には制服を収納できる小型ポーチまで縫いつけてある。
ただし、着るのには少々時間がかかる。
「くそ、背中の留め具が……!」
「バカ」
「頼む、閉めてくれ!」
ワナイダーが器用に糸を伸ばし、背中の留め具を引き上げる。
「助かった!」
「ワナイ……」
「最初から前開きにすればよかったとか言うな。見栄えの問題なんだよ」
最後にマスクを被り、レンズの位置を調整する。
視界良好。
糸の残量も問題なし。
胸元の紋章を軽く叩き、俺は路地裏に置かれた木箱へ片足を乗せた。
「どうだ?」
「…………ワナ」
「間が長いな」
相棒の反応はともかく、これで準備は整った。
さぁワナイダーマン、出動だ!!
***
私が「スター団」とかいう人たちから、イーブイのリュックを背負った女の子を助けようとしていた──まさに、その時だった。
「天が呼ぶ! 地が呼ぶ! 人が呼ぶ!」
突如として、辺り一帯に朗々たる声が響き渡った。
「悪を倒せと、助けを求める声が呼ぶ!」
「な、何!?」
スター団の二人が、驚いて周囲を見回す。
声は上から聞こえてくる。私たちが揃って顔を上げると、アカデミーへ続く大階段の脇──建物の屋根の上に、何者かが立っていた。
朝日を背負い、風にはためく深緑色のマント。
全身を覆うのは、ワナイダーを模したらしい、緑と白を基調とした奇妙なスーツ。顔は鋭い複眼のついたマスクに隠され、胸元には六本脚の蜘蛛を思わせる紋章が輝いている。
その傍らには、本物のワナイダーが堂々と脚を広げていた。
「助けを求める声に応え──今ここに推参ッ!!」
謎の男が高らかに叫ぶ。
次の瞬間、彼は屋根から勢いよく飛び降りた。
「えっ」
思ったより高い。
大丈夫なのだろうか。
そう思った直後、ワナイダーが屋根の縁へ糸を放った。男はその糸を掴み、振り子のように大きく宙を舞う。
一回転。
二回転。
無駄に綺麗な三回転。
そして私たちとスター団の間へ、片膝をついて着地した。
遅れてワナイダーも舞い降り、その背後で六本の脚を大きく広げる。
謎の男はゆっくりと立ち上がり、スター団の二人へ指を突きつけた。
「嫌がる少女を無理やり勧誘する悪党ども!」
今度は胸元へ拳を当て、顔を斜め上へ向ける。
「貴様らの悪行、この私が見逃すと思うな!」
「だから、アンタ誰なのよ!?」
女の団員が、半ば悲鳴のような声を上げた。
その問いを待っていたのだろう。
謎の男は大きく両腕を広げ、全身を使って奇妙な決めポーズを取った。
「地獄からの使者──」
たっぷりと間を取る。
「ワナイダーマッ!!!」
「ワナァッ」
ワナイダーの鳴き声と同時に、二人の背後で何かが爆発した。
ボンッ、と派手な音が鳴り、白い煙が舞い上がる。
「きゃっ!?」
「何、今の爆発!?」
「演出だ!」
ワナイダーマンと名乗った男は、何故か誇らしげに言い切った。
「いや、危ないでしょ!?」
「安全には最大限配慮している!」
煙の向こうで、小型の煙玉らしきものが階段を転がっていく。たぶん、あれを使ったのだろう。
「……ワナ」
傍らのワナイダーが、どこか疲れた様子で顔を背ける。どうやら、この演出に納得しているのは本人だけらしい。
「ワ、ワナイダーマン……?」
イーブイのリュックを背負った女の子が、小さな声でその名を繰り返す。
「ああ!」
奇妙な格好をした男──ワナイダーマンは、待ってましたと言わんばかりに勢いよく振り返った。
「もう安心してくれ、名も知らぬ少女よ! このワナイダーマンが来たからには、悪の好きにはさせない!」
朝日を背に受けながら、胸を張って言い切る。
緑と白を基調とした全身スーツに、鋭い複眼を模したマスク。その傍らでは、本物のワナイダーが六本の脚を広げ、堂々と構えている。
本人は至って真剣なのだろう。ただ、あまりにも突然の登場だったせいで、助けられたはずの女の子も、スター団の二人も、どう反応すればいいのか分からない様子だった。
「……む! いつの間にか、一人増えているな!」
「私のこと? 私は最初からいたけど……」
「君も安心したまえ!」
「いや、私は──」
「何故なら──私が来た!!!」
「ワナァッ!」
ワナイダーマンは、こちらの言葉を聞く気がないらしい。
そんな周囲の空気など意にも介さず、ワナイダーマンは勢いよくマントを翻した。
「さて!」
びしり、とスター団の二人へ指を突きつける。
「邪智暴虐なるスター団の末端構成員ども! これ以上、貴様らの好きにはさせん!」
「末端構成員って言うな!」
男の団員が顔を真っ赤にして叫んだ。
「さっきから好き勝手言いやがって! お前、いったい何なんだよ!」
「名乗りは既に済ませたはずだ!」
「そういう意味じゃねえよ!」
「貴様らの悪事を糸で絡め取り、正義の名のもとに改心させる者──」
「もういい! ちくしょう、やってやる!」
男の団員は半ば自棄になったように、腰のモンスターボールを掴んだ。
「やられる前に、こっちからやってやる! いけ、マフォクシー!」
投げ放たれたボールが空中で開き、眩い光が踊り場へ降り注ぐ。
炎のような赤い体毛に、杖のような木の枝を携えたポケモンが姿を現した。
「フォクシーッ!」
マフォクシーが枝を振るうと、先端に赤い炎が灯る。
周囲の空気が一気に熱を帯び、階段を吹き抜けていた風が歪んだ。
「ほう……」
それを前にしても、ワナイダーマンは微動だにしなかった。
腰のボールへ、ゆっくりと手を伸ばす。
「そうか。あくまでも抵抗を貫くか」
マスクの複眼が、朝日を反射して鋭く光る。
「ならばよし!」
大げさな動きでモンスターボールを掲げ、声高らかに宣言した。
「この私が手ずから、貴様らを改心させてやろう!」
そして、勢いよくボールを投げる。
「出撃だ──ワナイダー!」
ボールから白い光が飛び出し、ワナイダーマンの前へ着地する。
太い四本の脚。
頭部から伸びる一本の角。
黄色と紫の縞模様が入った、丸みを帯びた腹部。
「アーリアドッス!」
「…………」
私たちの間に、静寂が落ちた。
どこからどう見ても、アリアドスだった。
ワナイダーではない。
むしタイプで、糸を使うポケモンではある。
脚も多い。
けれど、それ以外はまったく違う。
スター団の男が、モンスターボールを投げた姿勢のまま固まっている。
女の団員は何度も目を瞬かせ、アリアドスとワナイダーマンを交互に見比べていた。
イーブイのリュックを背負った女の子も、前髪の隙間からアリアドスを凝視している。
たぶん、私たち全員が同じことを考えていた。
「あの……」
私は恐る恐る手を挙げる。
「その子、アリアドスじゃない?」
「…………」
ワナイダーマンは答えない。
腕を組み、堂々とマフォクシーを睨んだままだ。
「聞こえてる?」
「……ワナイダーだ」
「違うよ?」
「ワナイダーだ」
今度は、はっきりと言い切った。
「いや、アリアドスだろ!」
敵であるはずのスター団員からも、即座にツッコミが飛ぶ。
「図鑑を見せてやろうか!? そいつはどう見てもアリアドスだぞ!」
「黙れ、悪党!」
「悪党でもポケモンの名前くらい分かるわ!」
もっともな言い分だった。
アリアドス自身も不服そうに、ワナイダーマンを振り返った。
「ドス……」
「心配するな、ワナイダー。お前の魂を、私は誰よりも理解している」
「ドス!」
「絶対に抗議してるよね」
アリアドスは深く頷いた。
「いいか、諸君! ワナイダーとは単なる種族名ではない!」
「種族名だよ」
「生き方だ! 闇を恐れず、糸を操り、悪を捕らえる者──その魂を持つ者は皆、等しくワナイダーなのだ!」
長い沈黙の末、イーブイのリュックを背負った女の子が呟いた。
「……つまり、ワナイダーは概念ってこと?」
「その通りだ!」
「納得するの!?」
「もう、それでいいかなって……」
「ふ、ふざけやがって!」
スター団の男が、苛立ったように頭を掻きむしる。
「ワナイダーでもアリアドスでも、どっちでもいい! こっちの方が速いんだ! マフォクシー! 『マジカルフレイム』で燃やし尽くせ!!」
「フォクシーッ!」
命令を受けたマフォクシーが、手にした枝を勢いよく振り上げる。
先端に灯っていた火が膨れ上がり、赤紫色の炎となって渦を巻いた。階段を吹き抜ける風が熱に歪み、私の頬にまで焼けつくような熱気が押し寄せてくる。
炎に弱いむしタイプへ、先手のほのお技。
「危ない!」
私が叫ぶ一方で、ワナイダーマンは微動だにしなかった。
「悪党のやることなど、見え透いておるわ!」
「アリア──」
一瞬、言葉が止まる。
「……間違えた。ワナイダー!!」
「今、完全にアリアドスって言いかけたよね!?」
「先ずは『どくのいと』だ!!!」
「アーリアドッス!」
私の指摘を無視して、ワナイダーマンが命令を下す。
しかし──悲しいかな。その一瞬の言い淀みが、両者の命運を分けた。
「遅えんだよ! マフォクシー!」
「フォクシーッ!!」
アリアドスが糸を吐き出すよりも早く、マフォクシーの枝先から赤紫色の炎が放たれた。
激しく渦巻く『マジカルフレイム』が、階段の上を這うように走る。
逃げ場などない。
アリアドスの身体は瞬く間に炎へ呑み込まれ、その姿が完全に見えなくなった。
「アリアドス!」
思わず声を上げる。
むしタイプであるアリアドスに、ほのお技は効果抜群。しかも、あのマフォクシーが放った一撃は、どう見ても生半可な威力ではなかった。
炎が弾け、熱風が大階段を吹き抜ける。
イーブイのリュックを背負った女の子が、熱から顔を守るように腕を上げた。
「アハハハッ!」
スター団の男が勝ち誇った笑い声を上げる。
「見たか! タイプ一致で効果抜群! そんな攻撃をまともに食らって、立っていられるわけ──」
やがて炎が収まり、黒い煙がゆっくりと晴れていく。
その奥に、一つの影が見えた。
「……え?」
スター団の男から、間の抜けた声が漏れる。
焼け焦げた階段の上。
四本の脚を震わせながら、それでもアリアドスは立っていた。
「ア、ス……」
全身は煤にまみれ、息も絶え絶えだった。
今にも倒れてしまいそうなほど満身創痍。
けれど、その脚は確かに地面を踏み締めている。
戦闘不能にはなっていない。
「う、嘘だろ!?」
スター団の男が目を見開く。
「何でだよ! タイプ一致で効果抜群のほのお技だぞ! どうして耐えられるんだよ!!」
「フッフッフ……」
ワナイダーマンが低く笑う。
腕を組み、マントを風になびかせながら、ゆっくりと顔を上げた。
「簡単なことだ」
その指先が、アリアドスの身体を指し示す。
よく見ると、首元に巻きつけられた細い布が、淡い光を放っていた。
「『きあいのタスキ』さ」
「きあいの……タスキ!?」
「いかなる強烈な一撃であろうとも、体力が万全である限り、一度だけ踏み止まることができる!」
ワナイダーマンは大仰に両腕を広げる。
「相性だけを見て、勝利を確信した貴様の慢心! それこそが最大の敗因よ!」
「まだ負けてねえだろ!」
言っていることはもっともだった。
アリアドスは耐えた。しかし、体力はほとんど残っていない。次に何か攻撃を受ければ、間違いなく倒れてしまう。一方のマフォクシーは、まだほぼ無傷。有利なのは、どう考えてもスター団の方だった。
けれど。
「アリアドス……!」
炎を耐えたアリアドスの目は、まだ死んでいなかった。
それどころか、技が当たったことで勝利を確信したマフォクシーを、鋭く睨みつけている。
「マフォー……?」
マフォクシーが僅かにたじろいだ。
まさか立っているとは思わなかったのだろう。
その顔には、はっきりと動揺が浮かんでいた。
「今だ、ワナイダー!」
ワナイダーマンの声が飛ぶ。
「ドッス!!」
アリアドスが大きく口を開く。
その瞬間、紫色に染まった糸が勢いよく吐き出された。
「マフォクシー、避けろ!」
「フォク──」
スター団の男が叫ぶ。
だが、命令を受けたマフォクシーの反応は僅かに遅れた。
倒したはずの相手が立っている。その一瞬の動揺が、マフォクシーの反応を遅らせたのだ。
「フォクシーッ!?」
紫色の糸が、マフォクシーの脚へ絡みつく。
そこから糸は生き物のように這い上がり、胴体や腕へと次々に巻きついていった。
「な、何だ、この糸!?」
「『どくのいと』」
イーブイのリュックを背負った女の子が、小さく呟いた。
「相手を毒状態にして、素早さも下げる技……」
「その通り!」
ワナイダーマンが勢いよく彼女を指差す。
「見事な解説だ、名も知らぬ少女よ!」
「ボタン……」
「む?」
「わたしの名前、ボタン」
「そうか! 見事な解説だ、ボタン少女よ!」
「少女はいらない……」
ボタンが小さく顔を背ける。
そんなやり取りをしている間にも、紫色の糸はマフォクシーの身体を締め上げていく。
「フォ、フォクシー……!」
マフォクシーが枝を振るい、糸を焼き切ろうとする。しかし、糸が腕へ幾重にも絡みつき、思うように動かすことができない。
さらに、紫色の毒が少しずつ身体へ回り始めていた。
マフォクシーの呼吸が荒くなる。先ほどまで軽やかだった足取りも、目に見えて鈍っていた。
「くそっ! だったら、もう一度『マジカルフレイム』だ!」
「フォク、シー……!」
枝の先端に炎が灯る。
だが、その炎は先ほどよりも明らかに小さい。
ワナイダーマンは、それを見て不敵に笑った。
「今だ!」
ワナイダーマンが腕を振り上げる。
アリアドスは立っているのが不思議なくらい傷ついている。
それでもワナイダーマンは、まるで勝利を確信しているかのように拳を握り締めた。
「毒に侵され、速さを失った今──!」
アリアドスが、身体に残された最後の力を振り絞るように脚を踏み込む。
「もはや、先手を取るのはこちらだ!」
ワナイダーマンが大きく腕を振り上げた。
「ワナイダー! 後続のために──『ねばねばネット』!!!」
「ドス!?」
「ここは攻撃じゃないの!?」
思わず声を上げてしまった。
マフォクシーは毒に侵され、『どくのいと』によって素早さも落ちている。今なら、アリアドスが先に攻撃できるはずだ。
残り少ない体力を考えれば、ここで一気に勝負を決める。
そうするものだと思っていた。
けれど、アリアドスはマフォクシーへ飛びかからなかった。
大きく腹部を持ち上げると、口元と腹部から大量の白い糸を一斉に吐き出す。
「スッ!」
粘り気を帯びた糸が、マフォクシーの頭上を越えていく。
一本、二本どころではない。
幾重にも重なった糸はスター団の二人が立つ階段一帯へ広がり、手すりや街灯へ絡みつきながら、巨大な網を形成していった。
朝日を受けた無数の粘糸が、銀色にきらめく。
「な、何だこりゃ!?」
男の団員が慌てて足元を見る。
階段の表面は、既にアリアドスの糸で覆い尽くされていた。
「攻撃を外したのか?」
「違う……」
イーブイのリュックを背負った女の子──ボタンが、張り巡らされた糸を見つめながら呟いた。
「『ねばねばネット』は、相手の足場に罠を仕掛ける技。これから出てくるポケモンは、あの糸に足を取られて素早さが下がる」
「その通りだ、ボタン少女!」
「少女はいらない」
ワナイダーマンはボタンの訂正を聞き流し、スター団の二人を真っ直ぐに指差した。
「これで貴様らが次にどのポケモンを繰り出そうとも、先手は我らがいただく!」
「次って……」
スター団の男が顔を引きつらせる。
「まだマフォクシーは倒れてねえぞ!」
「承知している」
「だったら、そいつを倒す方が先だろ!」
「否!」
ワナイダーマンはマントを翻し、胸を張った。
「目先の一勝に囚われ、戦い全体を見失う。それこそ未熟者の思考よ!」
「今にも倒れそうなのは、そっちのアリアドスだろうが!」
言われて、アリアドスの脚がぐらりと揺れた。
「アリ……」
先ほど受けた『マジカルフレイム』のダメージは、決して軽くない。
全身は煤にまみれ、四本の脚は小刻みに震えている。どうにか踏み止まってはいるものの、残された体力は僅かだ。誰の目にも、次の一撃には耐えられないことが分かった。
ワナイダーマンは、今にも倒れそうな相棒へ親指を立てた。
「よくやった、ワナイダー! お前が残した糸は、後続を勝利へ導くだろう!」
「ドスッ!」
「まだ倒れてないよ?」
「無論、分かっている!」
「じゃあ、別れみたいに言わない方がいいと思う」
「む……」
アリアドスも激しく頷いた。
「だが、貴様にはまだ役目が残っている!」
「アリア……」
嫌な予感を覚えたらしく、アリアドスの目が細くなる。
「というわけで──『かげうち』で最後っ屁よろしく!」
「アリアドスッ!?」
「言い方!」
「最後まで敵へ一矢報いる、不屈の精神を表した賛辞だ!」
「絶対、今考えたよね」
「…………」
沈黙が答えだった。
「ふざけてる場合か!」
スター団の男が苛立たしげに声を上げる。
「マフォクシー! 今度こそ『マジカルフレイム』で倒せ!」
「フォクシーッ!」
マフォクシーが枝を掲げる。
毒に侵され、素早さを落とされているとはいえ、アリアドスの体力はもうほとんど残っていない。
炎でなくとも、攻撃が掠りさえすれば倒れるだろう。
枝の先端へ、赤紫色の炎が集まり始める。
「無駄だ!」
ワナイダーマンが腕を振り下ろした。
「『かげうち』は、相手よりも先んじて襲いかかる技!」
アリアドスの身体が黒い影に包まれ、足元へ溶け込むように姿を消す。
「なっ!?」
スター団の男が目を見開いた。
マフォクシーが慌てて周囲を見回す。
だが、遅い。
マフォクシーの背後。階段に落ちたその影が、突然大きく膨れ上がった。
「今だ、ワナイダー!」
「ドッス!!」
影の中から飛び出したアリアドスが、マフォクシーの背中へ全身で体当たりを叩き込む。
「フォクシィッ!?」
不意を突かれたマフォクシーが前方へよろめいた。
大きな威力ではない。
アリアドス自身にも、もう満足に力は残っていなかった。それでも確かに、その一撃はマフォクシーへ届いた。
「よし!」
ワナイダーマンが拳を握る。
「見事な最後っ屁だ!」
「ドスッ!!」
褒められたアリアドスは、着地と同時にワナイダーマンへ向けて糸を吐いた。
「ぶっ!?」
白い糸がマスクの正面へ直撃する。
複眼も口元も、一瞬で真っ白に覆われた。
「な、何をするワナイダー! 前が見えん!」
「アリア!」
「最後っ屁って言った仕返しでしょ」
「そんな……私は純粋に称賛を……!」
「称賛の言葉としては最悪……」
ボタンが冷静に呟く。
アリアドスは少し満足したように鼻を鳴らした。
しかし、それが本当に最後の力だったらしい。
「アリ……」
四本の脚から力が抜ける。
ぐらりと身体が傾き、そのまま階段の上へ倒れ込んだ。
「アリアドス!
」
私は思わず駆け寄ろうとする。
けれど、それよりも早くワナイダーマンが動いた。
顔に絡みついた糸を乱暴に剥がし、倒れかけたアリアドスの身体を両腕で抱き留める。
「よくやった」
先ほどまでとは違う、静かな声だった。
アリアドスは薄く目を開き、ワナイダーマンを見上げる。
「アリア……」
「ああ。後は任せろ」
ワナイダーマンはアリアドスの頭を一度だけ撫でると、モンスターボールを取り出した。
「お前が繋いだ勝利への糸、決して無駄にはしない」
「アリア」
赤い光がアリアドスを包み、その身体をボールの中へと戻していく。
完全に姿が消える直前、アリアドスは前脚を伸ばし、ワナイダーマンの胸を軽く叩いた。
怒っているようにも見えたし、後を託したようにも見えた。
「……安心して休め、ワナイダー」
ボールが小さく揺れた。
「最後までアリアドスとは呼ばないんだね……」
「コイツはワナイダーだからな!」
ワナイダーマンは新たなモンスターボールを放った。
「行け、ワナイダー!!!」
白い光から現れたのは、頭部を巨大な水泡に包み、黒く長い六本の脚を持つポケモンだった。
「クモォォッ!」
「オニシズクモだよね?」
「ワナイダーだ!」
即答だった。
「訂正するのも面倒だな……」
スター団の男が額を押さえる。
「名前とは他者から与えられるものではない! 己が何者であるかは、己の魂が決めるのだ!」
「シズクモッ!」
オニシズクモは誇らしげに頷いた。
「本人もその気になってる……」
「蜘蛛の心を持つ者は、皆ワナイダーだ!」
「ワナイダーって、心の在り方なんだ……」
「騙されないで、ボタン」
「それにしても……」
私は改めてオニシズクモへ目を向けた。
先ほどまで戦っていたアリアドスとは、明らかに雰囲気が違う。
身体は大きく、脚も太い。何より、頭部を包む巨大な水泡が、炎を使うマフォクシーに対して強い圧力を放っているように見えた。
「フォクシー……」
マフォクシーも、その姿を警戒している。
毒と『どくのいと』で弱り、さらに足元には『ねばねばネット』が広がっている。
対するオニシズクモは、無傷。
しかも、みずタイプだ。
「炎タイプに、みずタイプを出すなんて卑怯だろ!」
「先ほど貴様は、むしタイプへほのお技を放ったではないか!」
「それは普通の戦術だ!」
「ならば、これも普通の戦術だ!」
「ぐっ……!」
名前の話と違い、今度は反論の余地がなかった。
「さあ、ワナイダー!」
ワナイダーマンはマフォクシーを指差す。
「アリアドスが残した糸を辿り、奴へ接近しろ!」
「シズクモッ!」
オニシズクモが、長い脚で地面を蹴った。
その瞬間、足元に張り巡らされた『ねばねばネット』が大きく沈み込む。
「えっ?」
私は目を疑った。
普通なら、触れた者の動きを鈍らせるはずの粘つく糸。けれどオニシズクモは、その弾力を利用して大きく跳び上がったのだ。
まるで巨大な跳ね橋に弾き飛ばされたように、その身体が空高く舞い上がる。
「シズクモォッ!」
「フォクシー!?」
頭上から落ちる巨大な影に、マフォクシーが慌てて枝を構えた。
「マフォクシー! 『マジカルフレイム』だ!」
「フォクシーッ!」
赤紫色の炎が放たれる。
だが、オニシズクモは避けようとしなかった。
水泡に覆われた頭を正面へ向け、そのまま炎の中へ突っ込んでいく。
「そんな!?」
炎がオニシズクモの身体を包む。
しかし、水泡に触れた火は勢いを失い、白い蒸気へと変わっていった。
「フッフッフ……!」
立ち込める蒸気の中で、ワナイダーマンが低く笑う。
「このワナイダーの特性は──『すいほう』!」
「オニシズクモの特性だよね」
「細かいことを言うな!」
白い蒸気を突き破り、オニシズクモが飛び出した。
炎を正面から受けたはずなのに、ほとんど傷ついている様子はない。
「『すいほう』は、ほのお技の威力を半減させる!」
「そ、それだけじゃない……」
ボタンが、オニシズクモを見上げながら呟く。
「みず技の威力も強くなる」
「その通りだ!」
ワナイダーマンが拳を握り締める。
「マフォクシーへ見せてやれ!」
オニシズクモの頭部を包む水泡が、大きく震えた。
透明だった水が渦を巻き、青白い光を帯びていく。
「我らが蜘蛛の一撃──」
「シズクモォォッ!」
「『アクアブレイク』!!!」
空中から振り下ろされたオニシズクモの前脚が、水の塊を纏ってマフォクシーへ襲いかかる。
「フォクシィィーッ!?」
激しい水音と共に、マフォクシーの身体が階段へ叩きつけられた。水飛沫が辺り一面へ舞い上がり、朝日を受けて小さな虹を作る。
マフォクシーは何度か起き上がろうとしたものの、毒に侵された身体では力が入らない。
そのまま枝を取り落とし、倒れ込んだ。
「マ、マフォクシー!」
スター団の男が駆け寄る。
けれど、マフォクシーは目を回したまま動かなかった。
「勝負あり!」
ワナイダーマンは、着地したオニシズクモを指し示した。
「これぞワナイダーの意志を受け継いだ、ワナイダーの力!」
「シズクモッ!」
「本人までその気になってる……」
腰のボールが激しく揺れた。中のアリアドスは納得していないらしい。
「クソッ……まだだ!」
スター団の男は、倒れたマフォクシーへモンスターボールを向けた。
「戻れ、マフォクシー!」
赤い光が伸び、傷ついたマフォクシーの身体をボールの中へ収める。
男は手元へ戻ってきたボールを強く握り締めた。
「よくやった。あとは休んでろ」
先ほどまでの苛立ちに満ちた口調とは違う。
短い言葉だったが、マフォクシーを労わる気持ちは確かに込められていた。
男はマフォクシーのボールを腰へ戻すと、残る一つへ手を伸ばす。先ほどまでの苛立ち任せな顔ではない。目の前の相手を、倒すべき強敵として認めた顔だった。
「マフォクシーの戦いは無駄にしねえ。次はコイツが、その先を繋ぐ。征け、エルレイド!」
白い光から、白銀の身体を持つ人型のポケモンが現れた。
緑色の頭部から伸びる鋭い突起。両腕には、磨き上げられた刃を思わせる赤い肘。
「エッッッッッ
!」
音もなく構えを取っただけで、周囲の空気が張り詰めていく。
「あの子、かなり鍛えられてる……」
ボタンの声に、私も頷いた。先ほどのマフォクシーとは、圧力がまるで違う。
「ほう。仲間の意志を背負う覚悟はあるらしい」
「上から目線がムカつくんだよ!」
「だが、嫌いではない!」
「余計ムカつく!」
男は左腕を突き出した。手首のキーストーンと、エルレイドのメガストーンが虹色に輝く。
「エルレイド。いくぞ」
「エッ!」
ポケモンの刃とトレーナーの拳が、僅かに触れ合う。
「見せてやろうぜ。俺たちの、本当の力を!」
光が二人を結び、エルレイドの輪郭を変えていく。
両腕の刃は長く鋭く伸び、白い身体には騎士の外套を思わせる形が現れた。
「メガシンカ!」
「エッッッッッッ!!」
光が弾け、白き騎士──メガエルレイドが切っ先を向ける。
「フッフッフ……私の眼前で変身を披露するとは、実にいい度胸だ!」
「変身じゃなくてメガシンカだ!」
「細かな分類など今はどうでもよい!」
「ポケモンの名前にはあれだけこだわるくせに!」
腰のアリアドスのボールが抗議するように揺れた。
「……過去の話はさておき!」
「逃げた……」
ワナイダーマンが腕を振り下ろす。
「ワナイダー! 『アクアブレイク』!」
「シズクモォッ!」
オニシズクモが水泡を震わせ、一気に踏み込んだ。
「エルレイド、『サイコカッター』!」
白銀の刃から放たれた斬撃が、水の塊を真っ二つに割る。
「シズクモッ!?」
斬撃はそのままオニシズクモの巨体を捉え、階段へ叩きつけた。
だが、倒れる直前に伸ばされた前脚が、メガエルレイドの肩を強く打つ。
「エッ……!」
「ワナイダー!」
ワナイダーマンは倒れかけたオニシズクモを抱き留めた。
「よくやった。お前の一撃は、確かに次へ繋がった」
「シズクモ……」
満足そうに目を閉じた相棒を、赤い光が包む。
「相手が本気を示したのなら、こちらも全身全霊で応えるのみ!」
ワナイダーマンは新たなボールを掲げた。
「出撃だ──ワナイダー!!!」
ワナイダーマンがモンスターボールを天高く放り投げる。
弾けた光は大階段の上ではなく、頭上に張り巡らされた糸の網へと飛び込んだ。
直後、白銀の糸が大きくたわむ。
その中央から、黄色い影が勢いよく飛び降りてきた。
「チュラァッ!」
鮮やかな黄色の体毛。
青紫色に輝く複数の瞳。
電気を帯びた四本の脚で糸を伝い、軽やかに階段へ着地したそのポケモンは──どう見ても、デンチュラだった。
「デンチュラだな」
「ワナイダーだ!」
「あっそう……」
「目の前にいるのは、雷を纏いし電光のワナイダー! 我がチーム屈指の高速戦闘員だ!」
「チュラァ!」
本人は誇らしげに前脚を掲げた。
腰のアリアドスのボールが、抗議するように揺れた。
そんなやり取りをよそに、メガエルレイドは静かにデンチュラを見据えていた。
両腕の刃を下げ、僅かに腰を落とす。相手が何という名前で呼ばれているかなど、関係ない。
目の前のポケモンを強敵と認め、ただ斬るべき対象として観察している。
「エルレイド」
低い声。
それだけで、ふざけた空気が一瞬にして引き締まった。
「気をつけろ」
男の団員もまた、デンチュラを油断なく睨んでいる。
「アイツ、最初から上にいた。戦いをずっと見てやがったんだ」
「よく気がついたな」
「見下すな。これでもメガシンカできる程度には修羅場を潜ってんだよ」
メガエルレイドは、相手の呼び名など意に介さず、静かに刃を構えた。
ワナイダーマンが咳払いをし、改めてメガエルレイドへ向き直った。
「さて──貴様のエルレイドは確かに速い」
「当然だ」
「アリアドスの残した『ねばねばネット』も、先ほどの『サイコカッター』で大半が千切れてしまった」
大階段へ目を向ければ、白い粘糸は至るところで切断されている。
それでも完全に消えたわけではない。細い糸は階段の隙間や手すりへ残り、朝日を反射しながら揺れていた。
「だが、糸とは地に張るものだけではない」
ワナイダーマンが指を鳴らす。
その瞬間。
頭上から、ばちり、と乾いた音が響いた。
「……何?」
男が顔を上げる。
建物と街灯の間。
いつの間に張られたのか、無数の糸が空を覆っていた。
アリアドスの粘つく糸とは違う。
細く、鋭く、黄色い電流を纏った糸。
その一本一本が、デンチュラの脚へと繋がっている。
「地上の網が破られることなど、初めから想定済み!」
「デンチュラァ!」
デンチュラが前脚を振り下ろす。
張り巡らされた糸へ、一斉に電気が流れ込んだ。
ばちばちと火花が散り、頭上に巨大な雷の巣が浮かび上がる。
「これぞ我が第三の布陣!」
ワナイダーマンは両腕を広げた。
「天空を支配する──電撃蜘蛛網陣だ!!!」
「そんな技はないよね?」
「今、私が名づけた!」
「技名ですらなかった……」
ボタンが遠い目をする。
「なるほどな」
男の団員は頭上の網を一瞥すると、僅かに口元を上げた。
「確かに厄介だ」
「怖じ気づいたか!」
「まさか」
男が腕を振り上げる。
「糸だろうが電気だろうが──全部まとめて斬り払えばいい!」
「エッッッッッ!」
メガエルレイドの両腕が白い光を帯びる。
鋭く伸びた二本の刃を交差させ、その切っ先をデンチュラへ向けた。
「相手が上を取るなら、こっちは正面から叩き落とす!」
男の瞳が、鋭く細められる。
「エルレイド──『サイコカッター』!」
「エッ!」
メガエルレイドが両腕を振るう。
二つの刃から放たれた念力の斬撃が、階段の上を走り抜けた。
「ワナイダー!」
「デンチュラァ!」
デンチュラが糸を引き、自らの身体を一気に上空へ跳ね上げる。斬撃が直前までいた場所を切り裂き、背後の階段へ深い傷を刻んだ。
「避けたか!」
「まだだ!」
男が叫ぶ。
メガエルレイドは既に次の動作へ移っていた。
階段を蹴り、一気に跳躍する。
残された糸を足場にして、さらに高く。
「糸を足場に!?」
「エッ!?」
雷の巣へ、自ら飛び込んでいく。
「馬鹿め!」
ワナイダーマンが腕を振り下ろした。
「ワナイダー! 『でんじは』!!!」
「デンチュラァッ!」
糸から糸へ、青白い電流が迸る。
空中にいるメガエルレイドへ向かい、無数の雷が殺到した。
「正面から受けるな!」
男の声が飛ぶ。
「全部──斬れ!」
「エッッッッッッ!」
メガエルレイドの両腕が閃いた。
白い斬撃と青白い電流が、空中で激しく衝突する。
雷が弾け、糸が千切れ、眩い光が大階段を照らした。
「すごい……」
私は腕で顔を庇いながら、それでも二匹から目を逸らせなかった。メガエルレイドは、降り注ぐ電撃を刃で切り払いながら進んでいる。一方のデンチュラも、切断される寸前に糸を渡り、次々と位置を変えていた。
剣と糸。
白銀の騎士と、雷を纏う蜘蛛。
空中に張り巡らされた網の上で、二匹の影が激しく交錯する。
「ワナイダー! 右だ!」
「エルレイド、上!」
二人の指示が飛ぶ。
デンチュラの脚から電撃が放たれ、メガエルレイドの刃がそれを斬り裂く。
メガエルレイドが糸を蹴って迫れば、デンチュラは別の糸へ飛び移って刃を躱す。
一進一退。
どちらも決定打を許さない。
「なかなかやるではないか、悪党!」
「そっちこそな、変態!」
「誰が変態だ!」
「その格好で他に何て呼べばいいんだよ!」
「正義のヒーローだ!!!」
「チュラッ!」
「エッ!」
トレーナーたちの口喧嘩とは対照的に、二匹の視線は一瞬たりとも相手から外れない。そして、ほとんど同時に動いた。
「ワナイダー!」
「エルレイド!」
「『かみなり』!!!」
「『せいなるつるぎ』!!!」
デンチュラが全身から電撃を放つ。
電撃は巨大な雷霆となり、メガエルレイドへ降り注ぐ。
対するメガエルレイドは、両腕の刃を一つに重ねた。
刃先へ眩い光が集まり、巨大な剣の形を作り上げる。
「チュラァァッ!」
「エッッッッッッ!」
雷霆と白銀の刃。
二つの大技が、空中で真正面から激突する。
互いを呑み込もうと膨れ上がった二つの力は、やがて眩い閃光となって弾け、爆風が大階段を駆け抜ける。張り巡らされていた糸は次々と千切れ、細かな光の粒となって宙を舞った。
私は思わず腕で顔を覆う。
耳を打つ轟音。
肌を刺すような電気。
静寂。
風が収まり、立ち込めていた煙がゆっくりと晴れていく。そこに立っていたのは、メガエルレイドだった。
「エッ…………!」
荒い息を吐き、両腕をだらりと下げている。
全身には電撃を受けた痕が残り、片膝も今にも崩れ落ちそうなほど震えていた。けれど、倒れてはいない。
白銀の騎士は最後まで踏み止まり、その鋭い眼差しをワナイダーマンへ向けていた。
一方。
「デン……」
黄色い身体が、切断された糸と共に落下してくる。
ワナイダーマンは両腕を広げ、倒れたデンチュラを受け止めた。
「ワナイダー!」
デンチュラは力なく脚を垂らし、目を回していた。完全に、戦闘不能だ。
「……ワナイダーがやられたか」
ワナイダーマンは腕の中のデンチュラへ手を添えた。
「お前の雷は、確かに奴を追い詰めた。後は任せろ」
「デンチュラ……」
最後に名前を訂正するように鳴きながら、デンチュラはボールへ戻っていった。
これで三匹目。
アリアドスは毒と網を残し、オニシズクモはメガエルレイドへ傷を刻み、デンチュラは麻痺を与えた。
誰も一匹で勝とうとしていない。次の仲間へ、勝利への糸を繋いでいるのだ。
「エルレイド……!」
メガエルレイドの身体に、青白い電気が走る。
「エ……ッ」
その脚が一瞬硬直した。
さっき受けた電撃の影響だ。
「デンチュラの攻撃で、麻痺してる……」
ボタンが呟く。
「でも、まだエルレイドは立ってる」
「ああ!」
男の団員は、苦しそうな相棒を鼓舞するように拳を握った。
「耐えろ、エルレイド! 多分あと一匹だ!」
「エッ!」
メガエルレイドが両腕の刃を掲げる。
傷ついてなお、その構えには一切の揺らぎがない。
「さあ!」
男の団員がワナイダーマンを指差した。
「次は何を出す!」
「ワナイダーだ!」
「今度こそ本物なんだろうな!」
「無論だ!」
ワナイダーマンは勢いよくマントを翻した。
「貴様のエルレイドが、仲間の想いを背負って立つというのなら──」
胸元へ拳を叩きつける。
「こちらも、我がチームの全てを託せる者を出すまで!」
その声に、男の団員が身構えた。
「来るぞ、エルレイド!」
「エッ!」
私も息を呑んだ。今度こそ、彼が最も信頼する切り札が現れるのだろう。
ワナイダーマンは大きく息を吸い込んだ。
「いけ!」
腕を天高く掲げる。
「強靭にして無敵!!!」
その声が、アカデミーの大階段へ響き渡った。
「我が魂!!!!」
マントが風を受け、派手に広がる。
私たち全員の視線が、彼の手元へ集中した。
「ワナイダー!!!!」
ワナイダーマンが勢いよく腕を振り下ろした。
けれど何も起こらなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
何も出てこない。
大階段に、気まずい沈黙が流れる。
「……どこだ?」
男の団員が辺りを見回す。
「逃げたんじゃない?」
ボタンが小さく言う。
「逃げてなどいない!」
ワナイダーマンが慌てたように周囲を見回す。
「ワナイダー! 出番だぞ!」
返事はない。
「我が魂! 正義の化身! 今こそ戦場へ──」
「ワナ」
背後から、気の抜けた鳴き声が聞こえた。
振り返る。
階段脇の手すりの上。そこに、一匹のワナイダーがいた。
本物のワナイダーだ。
緑色の胴体。
長く伸びた六本の脚。
鋭い眼光。
間違いなく、図鑑に記載されている通りのワナイダー。
ようやく現れた本物は、こちらの緊迫した空気などまるで気にしていなかった。
手すりの上へ腰を下ろし、前脚でオボンの実を抱えている。
「ワナ」
しゃくり。
のんびりと果実を齧る。
口元から果汁が垂れ、顎の下を濡らした。
「…………」
ワナイダーマンの決めポーズが、ゆっくりと崩れていく。
「何をしている」
「ワナ?」
「何をしていると聞いているんだ、我が魂よ!」
ワナイダーは手にした果実を掲げた。
「ワナ」
「食事中なのは見れば分かる!」
しゃくり。
ワナイダーは再び果実を齧る。
まったく急ぐ様子がない。
「さっきからずっと、あそこで食べてた……」
ボタンが指差す。
「最初からいたの?」
「うん。アリアドスが戦ってる時くらいから」
「そんな前から!?」
どうやら私たちが激しい勝負へ夢中になっている間、本物のワナイダーはずっと手すりの上で食事をしていたらしい。
「お前、仲間たちが戦っている間、ずっと木の実を食べていたのか!?」
「ワナ」
「堂々と認めるな!」
ワナイダーは残りの果実を口へ放り込み、ゆっくり咀嚼した。
「もういい。今はお前の出番だ、相棒!」
「ワナァ……」
深い溜息が返ってきた。
「さて!」
ワナイダーマンは何事もなかったかのようにマントを翻した。
「遊びはおしまいだ!」
「ずっと遊んでた自覚はあるんだな」
スター団の男の呟きを無視し、手すりの上の相棒へ勢いよく腕を振り下ろす。
「それ征け、我が魂!」
ワナイダーは前脚で口元を拭うと、ようやく手すりから飛び降りた。
のそのそと階段を下り、メガエルレイドの正面で足を止める。
「ワナァ……」
「さあ、いつものやつを頼む!」
もう一度溜息を吐き、ワナイダーは酷く義務的に六本の脚を広げた。
形だけは鋭く勇ましい決めポーズ。けれど、本人の視線は明後日の方向を向いている。
ワナイダーマンも隣で同じ構えを取った。
「蜘蛛糸戦士──ワナイダーマンと、その魂の相棒!」
「ワナァ」
最後の鳴き声は、どう聞いても欠伸だった。
「……やる気あるのか、あいつ」
「ないと思う」
ボタンが即答する。
「たぶん、やらないともっと面倒だから付き合ってるんだよ」
「ワナ」
ワナイダーが小さく頷いた。
「それもまた絆の形!」
「便利な言葉だな、絆! もういい! 最大火力で終わらせる!」
男の団員が、苛立ちを振り払うように腕を振り下ろした。
「エルレイド! 『せいなるつるぎ』!」
「エッッッッッッ!」
メガエルレイドの両腕に、眩い白光が集まる。
刃を思わせる肘が鋭く伸び、その周囲で空気が震えた。
デンチュラとの激戦で全身に傷を負い、麻痺まで残っている。それでもなお、白銀の騎士から放たれる圧力は衰えていない。
むしろ、この一撃で全てを終わらせるという決意が、先ほどまで以上の威圧感となって大階段を満たしていた。
「いけぇぇぇ!!! エルレイドォォォッ!」
メガエルレイドが踏み込む。
足元の石段が砕けた。
一瞬にして間合いを詰め、白銀の刃をワナイダーへ振り下ろす。
「ヴァカめ!」
ワナイダーマンがマントを翻し、勝ち誇ったように叫んだ。
「『スレッドトラップ』だ!」
「ワナ」
対するワナイダーは、酷く気の抜けた声で鳴いた。
六本の脚を僅かに持ち上げる。
それだけだった。
次の瞬間。
ワナイダーの全身から、無数の白い糸が噴き出した。
「なっ!?」
糸は幾重にも折り重なり、一瞬にして巨大な繭を形作る。
メガエルレイドの刃が、その表面へ真正面から叩き込まれた。
凄まじい衝撃音が響き渡る。白い糸が大きくたわみ、衝撃の余波が大階段を駆け抜けた。私とボタンの髪が風に煽られ、周囲に残されていた粘糸が一斉に震える。
けれど。
「エッ……!?」
刃は、ワナイダーへ届いていなかった。
細く柔らかいはずの糸が、メガエルレイドの渾身の一撃を完全に受け止めている。
「防いだ……!」
私が驚きの声を上げる。
「否!」
ワナイダーマンが勢いよく指を突きつけた。
「ただ防いだだけではない!」
「エルレイド、離れろ!」
男の団員が叫ぶ。
メガエルレイドもすぐさま腕を引こうとする。
しかし、その刃には既に白い糸が幾重にも絡みついていた。
「エルレイドッ!?」
引けば引くほど、糸は伸びる。
粘りつく糸が両腕へ絡まり、メガエルレイドの動きを鈍らせていく。
「接触技を防ぎ、触れた相手の素早さを下げる。技、『スレッドトラップ』……」
ボタンが呟く。
「その通りだ!」
ワナイダーマンはメガエルレイドを指差した。
「アリアドスの網、オニシズクモの一撃、デンチュラの麻痺──そして今の糸!」
メガエルレイドの身体へ青白い電流が走り、両腕に絡む糸が動きを奪う。
「仲間たちが繋いだ糸は、今ここで一つとなった!」
メガエルレイドは糸を斬って後退したが、着地は大きく崩れた。それでも白銀の刃を階段へ突き立て、再び立ち上がる。
ワナイダーマンが片腕を掲げた。
「さあ、リn正義の集団戦法で畳みかけるぞ!」
「さっきリンチって言おうとしなかった?」
「気のせいだ!」
「エルレイド! 『せいなるつるぎ』!」
メガエルレイドが震える脚で踏み込み、白銀の刃を振り下ろす。
「ワナイダー、『シザークロス』!」
ワナイダーは街灯へ伸ばした糸を巻き取り、刃を紙一重で躱した。そのまま宙を旋回し、交差した前脚を背中へ叩き込む。
「エルレイドッ!」
白銀の騎士がよろめく。だが、倒れない。
トレーナーの声に応え、傷だらけの身体をもう一度起こした。
「見事だ」
ワナイダーマンの声から、ふざけた調子が消えた。
「仲間たちとの戦いを越え、なおも立ち上がるか」
「そいつ以外はワナイダーじゃなかったけどな……!」
「訂正する元気があるなら、まだ大丈夫そうだな!」
「俺じゃなくてエルレイドを見ろ!」
「無論だ。だからこそ、これ以上は長引かせない」
ワナイダーマンは相棒を見た。
「昔からの約束だ。最後まで付き合ってくれ」
「ワナ」
かったるそうな態度のまま、ワナイダーの複眼が真っ直ぐにメガエルレイドを捉えた。
「次で終わらせろ、相棒」
「ワナ」
ワナイダーが六本の脚を広げる。
周囲へ張り巡らされた糸が、一斉に張り詰めた。
「エルレイド!」
男もまた、最後の命令を下す。
「残ってる力を全部使え! 『せいなるつるぎ』!」
「エッッッッッッッ!」
メガエルレイドが立ち上がる。両腕の刃を重ね、残された全ての力を白銀の光へ変えていく。
「ワナイダー!」
ワナイダーマンが拳を掲げた。
「我らの正義を、十字に刻め!」
「ワナァァァッ!」
「『シザークロス』!!!」
二匹が、同時に動いた。
メガエルレイドの聖剣が振り下ろされる。
ワナイダーの交差した刃が、白銀の光を迎え撃つ。
一瞬の交錯。
ワナイダーは、メガエルレイドの横をすり抜けた。
「…………」
「…………」
二匹は互いに背を向けたまま、動かない。
静寂の中、ワナイダーの前脚を覆っていた光が静かに消えていく。
次の瞬間。
「エッ…………」
メガエルレイドの膝が折れた。
白銀の身体を包んでいたメガシンカの光が砕け、元のエルレイドの姿へ戻っていく。
「エルレイド!」
男の団員が駆け寄る。
倒れかけた相棒を抱き留め、その身体を支えた。
「よくやった……もういい」
「エッ……」
「ああ。負けだ」
エルレイドは悔しそうに目を細めたが、やがて力を抜き、トレーナーの腕へ身体を預けた。
その姿を確認してから、ワナイダーはゆっくりと振り返る。
「ワナ」
そして何事もなかったかのように、前脚で口元を掻いた。
「見たか! これぞ必殺、正義の『シザークロス』!」
「最後だけ急に普通だな……」
「技は心だ!」
「やっぱり便利だな、その理屈!」
ワナイダーは戦いが終わったと知ると、のそのそ手すりへ戻ろうとした。
「待て、相棒! まだ勝利の決めポーズが残っている!」
「ワナァ……」
敗北した男の横で、私とボタンは同時に首を振った。
「正義あるところに、悪は栄えた試しなし!!」
朝日を背負い、ワナイダーマンは天高く人差し指を掲げた。
隣では、ワナイダーが心底かったるそうに前脚を上げている。
「スター団よ! これに懲りたら、嫌がる相手を無理に勧誘するのはやめることだ!」
「ちょっと強引だっただけじゃない!」
「それを世間では悪さと呼ぶ!」
女の団員は言葉に詰まった。
男はエルレイドをボールへ戻し、ワナイダーマンを真っ直ぐに見る。
「次は絶対に負けねえからな」
「よかろう! さらに強くなった正義で迎え撃ってやろう!」
「その変な名前の呼び方も直しとけよ!」
「断る!!」
腰のアリアドスのボールが激しく揺れた。
「では、私は急いでいる故、これにて失礼する!」
ワナイダーマンは手首から糸を放ち、街灯を支点に大きく宙を舞った。
「さらば!!!」
朝日に照らされた後ろ姿は、悔しいけれど、少しだけ本物のヒーローらしく見えた。
「ワナ!」
残されたワナイダーが、走り去る主人へ向かって鳴く。けれど彼は振り返らず、階段を下りる方向へ走り続けている。
「ワナ!」
ワナイダーはアカデミーの校舎を指し、次に主人が消えた方向を指した。
「もしかして……あの人、学校に急いでたんじゃ……」
ボタンが呟く。
しばらくして、遠くから絶叫が聞こえた。
「方向を間違えたァァァァァッ!!!」
緑色の人影が猛然と引き返してくる。
「どいてくれたまぇぇぇぇ!!!!」
先ほどまでの威厳を欠片も残さず、ワナイダーマンは私たちの横を駆け抜け、大階段を上っていった。
「さらば!! 今度こそ本当にさらばだ!!!」
「ワナ」
ワナイダーは呆れたように首を振り、のそのそ主人の後を追う。
「……ワナイダーマン」
私は遠ざかる二つの背中を見つめた。
奇妙なスーツに、大げさな口上。ポケモンの名前を頑なに間違え続ける、理解しがたいこだわり。
正義の味方を名乗るには、あまりにも⋯⋯いや、止めておこう
「⋯⋯いったい、何者なの⋯⋯⋯⋯」
私の呟きは、テーブルシティを吹き抜ける朝の風に流されていった。