秋の冷気が、白梅館の敷居を滑り落ちてくる。
夕飯のちゃぶ台には、煮干し出汁の味噌汁と、秋刀魚の焼けた脂の匂いが満ちていた。
時子は二杯目の麦飯を茶碗に盛りながら、吐息まじりに言った。
「……とうちゃん。
わたしらの修学旅行、白鶴で行くねんて。
みんな、飛行艇乗れる言うて、昼間から跳びはねて大騒ぎしてたわ」
膳の向こうで箸を動かしていた石原は、ふっと鼻で息を鳴らした。
身のほぐれた秋刀魚を口に運び、ゆっくりと噛む。
「またぁ……小林さんの悪知恵だぁ」
庄内弁の低い声が、醤油の香りに混ざる。
「なんか企んでるな。
おおよそ参急(近鉄)との張り合いだべ。
……ったく、子供出汁にして小細工すんのは、小林さんの悪い癖だ。もっと世界見ねぇとなぁ」
「ほんまに」
時子はたくあんをポリポリと噛み砕いた。
「耳キーンてなるし、エンジンの音で頭グラグラするねん。
わたしだけフツーに参急の電車で行きたいわ。
お菓子食べながら、ガタゴト揺られて行きたいのに」
「贅沢言うもんじゃありません」
テイ子が汁椀を置きながら苦笑する。
「大泊にも台北にも、オマケに大連にまで乗せてもらって、もう飽きてしまったの?
普通は、一生に一度乗れるかどうかの乗り物ですよ」
「でも、うるさいねんもん……」
時子は真っ赤な頬を膨らませ、お茶をすすった。
池田。
尋常小学校。
校長室。
秋の陽が差し込む応接室には、高級な刻みたばこの紫煙が重く漂っていた。
小林一三は、象牙の吸い口がついた煙管を灰皿の縁でトンと叩いた。
白灰が零れ落ちる。
「……文部省や神社局が何と言おうと、関係ありませんわ」
小林の声は静かだが、部屋の空気を完全に支配していた。
対面に座る池田尋常小の校長と町長は、膝の上で固く手を握りしめている。
「参急の鉄の車輪で神域の山を叩き切って詣でるより、二見の海から波を祓って入る白鶴の『雲参宮』のほうが、よっぽど古式に則った清浄な禊や。
海軍省の臨時水上飛行訓練という名目も通してあります。
これのどこが不敬ですか?」
「は、はぁ……しかし、積立金の不足や、新聞の世論が……」
校長が冷や汗を拭う。
小林は煙管の先で、机の上の『大阪朝日』の紙面をトントンと突いた。
「積立金が払えん家の子の分は、すべてうちの阪急奨学基金から出します。
一人残らず、全員連れて行く。
……あ、ついでに横浜におったアメリカの新聞記者も便乗させてやりますわ。
日本の子供らがどれほど健やかに育っとるか、あいつらにも見せてやればよろしいな」
十月十五日。
白鶴天保山ターミナル。
潮風の中に、高オクタン価ガソリンと焦げたオイルの匂いが濃く立ち込めていた。
秋晴れの空の下、ターミナルに浮かぶ白亜の巨躯――『白鶴』三艇が、陽光を弾いて冷やかに輝いている。
「うわあぁぁっ!」
「大きい!」
「ほんまにこれ乗んの!?」
背嚢を背負った百五十人の児童が、甲高い歓声をあげて群がっていた。
周りでは新聞記者と、小林の手配で横浜から便乗してきた外国特派員たちが、閃光電球(フラッシュ)をバチバチと焚きつけている。
その喧騒から少し離れた堤防の脇で、時子は脱脂綿を丸め、耳の穴へ押し込んでいた。
「……君らの学校、小林社長にお恵みしてもらって飛行機に乗るんだろ。
お父様が『下品な見せ物だ』って言ってたで」
声をかけてきたのは、市内私立の制服を着た男子児童だった。
両親に付き添われ、嫉妬の混じった視線を向けてくる。
時子は耳栓を押し込む手を止め、ゆっくりと振り向いた。
相手の頭からつま先までを、まるで冷えたガラス玉のような瞳で一瞬だけ検分する。
「……あんなん、高度上がったら吐くだけやし」
ぼそりとそう呟くと、時子はフンと鼻を鳴らし、関心すら失って背を向けた。
男子児童は自分の存在そのものを無視された冷たさに顔を真っ赤にし、言葉を失って立ち尽くした。
数刻後。
爆音と猛烈な水しぶきが、二見浦の静かな海面を切り裂いた。
灼熱したエンジン排気管に海水がかかり、塩くさい白い蒸気が立ちのぼる。
着水の衝撃で揺れる機内。
同級生たちが歓声をあげる中、時子は手すりにしがみつき、青ざめた顔で目を閉じていた。
(ほらな……飛行艇酔いと船酔いが同時に来たわ……)
だが。
二見興玉神社での禊を終え、外宮、内宮の厳かな参拝が済む頃には、秋の潮風が時子の頬の赤みを取り戻させていた。
参道の解散合図が響いた。
時子の鼻が、ぴくりと動いた。
人ごみの隙間、古い木造茶屋の軒下に揺れる藍色ののれん。
湿った木と醤油の匂いの中に、甘い香りが混ざっている。
『名物 黒蜜心太』
時子の目が、爛々と輝いた。
小銭を握りなおし、人ごみをすり抜けて茶屋の床台へ一直線に走る。
「おっちゃん! トコロテン! 黒蜜多めで!」
突かれた透明な糸が、ガラスの鉢に滑り落ちる。
上からとろりと回しかけられる、波照間産黒蜜の濃厚な香り。
箸で透明な固まりをごっそりとすくい上げ、口を「あーん」と限界まで大きく開けた、まさにその瞬間。
――バシャッ!!
目の前で激しい閃光が爆発した。
「ふぎゃっ!?」
激しい光に目を白黒させ、喉にトコロテンを詰まらせかけた時子の前で、アメリカ人カメラマンが興奮気味に「Fantastic!」と叫びながら、夢中でフィルムを巻き上げていた。
十二月下旬。
寒風が吹く夜の白梅館。
ちゃぶ台の上に、一冊の分厚い雑誌が放り投げられた。
太平洋を渡り、横浜港経由で届いたばかりのアメリカ『LIFE』誌創刊号(11月23日付)。
表紙を飾っていたのは、巨大な『白鶴』の白亜の翼……
ではなく。
茶屋の床台で、箸にすくったトコロテンを前に口を「あーん」と限界まで開け、真っ赤なホッペを膨らませてカメラの閃光に目を丸くしている少女のドアップ写真だった。
垂れた黒蜜が、顎の先で怪しく光っている。
見出しには太字でこう踊っていた。
『JAPAN'S FUTURE AND HER SWEETS(日本の未来と、彼女の甘味)』
それを見つめていた石原が、腹を抱えて大爆笑した。
「ハッハッハ!
小林さんの『太平洋空輸実験』の大宣伝も、時子の『あーん』一口に全部持ってかれたべ!
がははは!」
「とうちゃん見んといてっ!」
時子は顔を真っ赤にして叫び、下唇を尖らせて雑誌をひったくると、奥の部屋へ逃げ込んでいった。
パタンと障子が閉まる。
……静まり返った居間。
石原の顔から、さっきまでの爆笑の色がすうっと失われた。
畳の上に転がった『LIFE』誌の表紙を、鋭い眼光で見つめ返す。
(……軍用巨大飛行艇の脅威を世界に晒すはずだった爆音を、時子の『あーん』一口で、全部『平和で豊かな日本の日常』に化けさせやがった)
アメリカ人の警戒感を削ぎ、軍部の脅威論を無害化する、完璧な対米プロパガンダ。
それも太平洋空輸便のスピード感を誇示するオマケ付きだ。
「……怖い商売士(あきんど)だべ」
石原は低く呟き、冷たい息を一つ、吐き出した。