二週間前の伊勢参宮の興奮が冷めやらぬ、池田尋常小学校の木造校舎。
北摂の山々から吹き下ろす秋風が廊下のガラス窓をカタカタと揺らす隅で、信子は仕立直した銘仙の袖から、角の擦り切れたエンジ色の小冊子をそっと覗かせた。
『阪急白鶴渡航月賦積立手帳』。
「……時子ちゃん、見て。
四年……四年かかって、やっと判が全部埋まったんや。
今度な、うち、お父ちゃんと二人で大連へ行けるねん」
信子の声は弾んでいたが、その笑顔の奥に影が差した。
「伊勢の修学旅行でうちが『飛行艇すごかった!』って大はしゃぎしたらな……
お父ちゃん、押し入れの奥からこれ出してきてん。
新町の炭屋(炭吉)の狭い帳場に座って、爪の間の黒い炭粉(すみこ)を火鉢でこすり落としながら言われたわ。
『ガスや電気に押されて炭が売れんようになってからも、お父ちゃん、梅田の阪急へ毎月五円通い続けたんや』って」
信子は手帳のスタンプ欄を指で撫でた。
「ほんまは……
お母ちゃんと、ちっちゃい清も連れて行きたかったんやけどな。
四年間、炭の粉にまみれて貯めても、ふたり分が限界やってん。
お母ちゃん、『清が大きくなったら、またみんなで行こうね』言うて笑ってはったけど……
うち、知ってんねん。
夜、二人が行灯の横で帳簿見て溜息ついてたん……」
時子は鉛筆を削る手を止め、信子が抱える手帳を見つめた。
(揃ってへん……)
小林の銭のシステムは、修学旅行というタダの餌で子供に夢を見せておいて、いざ家族で飛ぼうとすれば、その家庭を容赦なく真ん中からふたつに引き裂いていく。
父の権力と小林の資本で、家族揃ってタダで白鶴を乗り回す自分。
その横で、爪を黒く染めてなけなしの炭代を毟り取られ、家族半分を家に置き去りにする信子。
テイ子が言っていた「一生に一度」という言葉の冷たさが、鋭い針となって時子の胸に刺さった。
「……耳栓、持っていかなアカン」
時子は視線を逸らし、再び鉛筆の芯に刃を当てた。
「耳の奥まで固く詰めとかんと、頭キーンてなって、大連のサンドヰッチの味なんか分からんようになるから」
「うん……
伊勢の時も耳痛かったもんな。
おおきに、時子ちゃん」
信子は大事そうに手帳を胸に抱きしめた。
十月二十四日。
天保山ポンツーン。
「うわぁ……お父ちゃん、やっぱり大きいなぁ!」
信子は父親の『炭吉』の腕にしがみつき、白鶴一型のハシゴを登った。
父親の着物の袖からは、どんなに洗っても落ちない木炭の酸っぱい匂いが漂っている。
留守番のお母さんが、着物の切れ端でつくってくれた新しいリボンが、塩くさい海風にはためいた。
客室には分厚い絨毯が敷かれ、甘い香水の匂いとベークライトの灰皿の匂いが充満している。
「……炭吉さん、あなたも積立ですな?」
隣の席の米屋が話しかけてきた。
「へぇ、うちは新町で炭の仲買をやってますけど、近頃は電気やらガスやらに押されてさっぱりでしてな。
爪の中に炭粉詰めて毎月五円……
梅田の阪急百貨店へ通いましたんや。
ふたり分が精一杯でしたわ」
「四年!
ご苦労なさったんやな。
わたしらなんか米屋の小僧を減らして五年ですよ。
……いやあ、阪急さんには足向けて寝られへん。
真面目に働いて阪急にお金預けてたら、生きているうちに外国が見られるんですな」
二人は顔をほころばせ、給仕の元兵士から配られたカルピスを飲み干した。
炭と米という旧時代の泥臭い商売から搾り取られた小銭が、新時代の高オクタン価ガソリンへと吸い上げられていく。
阪急の毒に心地よく侵された庶民の幸福が、そこにあった。
瀬戸内海を抜け、黄海へ差し掛かった頃だった。
ゴオオオと不快な重低音が頭蓋骨を揺さぶる。
耳栓をしていても頭の奥がキーンと痺れた。
その時、カルピスの甘い香りを切り裂いて、異様な「匂い」が漂ってきた。
高オクタン揮発油のツンとする臭気と、濡れた軍服の酸っぱい汗、そして焼けた皮脂の悪臭。
父親がうとうとと眠りについた隙を突き、信子は席を立った。
匂いの元は、客室の後方――「阪急航空関係者以外立ち入り禁止」の真鍮プレートが留められた、分厚い防音隔壁の向こうからだった。
給仕が通路を離れた隙を狙い、信子は隔壁の小さな覗き窓へ顔を寄せた。
暗い貨物室の床。
そこに、無地の作業服を着せられた十五名ほどの男たちが身を寄せ合っていた。
伊吹山と関ヶ原で捕らえられ、「満州石油発掘調査護衛隊」という名目の極地流刑に処される過激派将校たちだ。
その最前列、ボサボサの頭髪に泥をこびりつかせ、左足に痛々しい帯を巻いた男が、ギロリと顔を上げた。辻政信だった。
落ちくぼんだ眼孔。
血の気の失せた皮膚。
完全に死んでいるのに、底なしの怨念だけが揺らめく「死人の目」。
(ひっ……!!)
辻と目が合った瞬間、信子の心臓が凍りついた。
息ができなかった。
足の裏が、急に冷たくなった。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
男は、まだこちらを見ている。
自分たちが払った積立金で飛ぶこの絢爛豪華な白鶴の足元に、こんな生ゴミのような人間たちが詰め込まれている。
あまりの恐ろしさに膝の脂汗が吹き出し、声も出ないまま、這うようにして自分の座席へ逃げ戻った。
毛布を頭からかぶり、ガタガタと震えながら、信子は二度と後ろを振り返れなかった。
黄昏時。
白鶴は大連港へ滑るように着水し、着底固定された『阪急軍艦ホテル山城』の側面に横付けされた。
旧戦艦の主砲跡に作られた大広間で、豪勢な割烹料理が運ばれてくる。
「すごいなあ、お父ちゃん……! これ、全部阪急のホテルなん?」
信子は箸を伸ばした。
真っ赤に焼き上げられた大連名物の高麗蝦の太い身をむしり、口へ運ぶ。
香ばしい塩の風味と甘みが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
父親が笑った。
信子も笑った。
昼間見た男の顔は、もう思い出さなかった。
父親は高価な清酒を煽り、行程表を嬉しそうに眺めている。
「明日は朝から阪急の専用バスで星ヶ浦温泉へ行ってな。
明後日は連鎖街で買い物して、露領時代の歴史館巡りや。
最終日には大連阪急百貨店で、お母ちゃんと清にお土産買わんとな。
……二人にも、この豪華な景色見せてやりたかったなあ」
「うん……
清には、流線型のカッコええ『あじあ号』のブリキの汽車、買っていったろ!」
信子はほっぺたを膨らませて笑った。
その夜。
豪華な客室のベッドに入った信子は、カーテンの隙間から下層甲板を見下ろした。
スポットライトが照らす華やかなタラップの裏側。暗い艦尾ハッチから、昼間見かけた無地作業服の男たちが、銃を構えた兵士たちに突かれて、無言で無蓋トラックへ押し込まれていた。
辻の引き摺る左足が、タラップの鉄板に空しく乾いた音を立てる。
「……あの人たちも、阪急の旅行者なんかな」
信子は小さく呟いた。
返事はない。
信子はカーテンを閉めた。
枕元には、昼間連鎖街の下見で見つけた大連手編みのレースハンカチの小さな包みが置いてある。
「お母ちゃん、喜ぶかな……」
そう呟いて、信子は布団へ潜り込んだ。ふかふかの羊毛の匂いがした。
遠くで、重い鉄の扉が閉まった音がこだました。
信子はもう、眠っていた。