大阪城本丸の空気は、春の湿り気を孕んで柔らかく澄んでいた。
天守の上がらぬ古風で無骨な天守台の石垣と、昭和六年に建てられた第四師団司令部庁舎の重厚なスクラッチタイル。
市民の寄付を大天守復元などの懐古趣味に一文も回さず、すべて天保山ハブ港と梅田の巨大ドームへ注ぎ込んだ証が、その剝き出しの石垣だった。
本丸の古い桜が、頭上から淡い花弁をハラハラと散らせていた。
「時子ちゃん!
ほら、口開けてぇな!」
汗と古びた羊毛の匂いをさせた第四師団の吉川曹長が、軍服の襟をはだけ、真っ赤な顔で甘芋の紙包みを差し出す。
酒臭い息が時子の頬をかすめた。
「おっちゃん、昼間から呑みすぎやよ。
とうちゃんに怒られるで」
十二歳の時子は、膝の上の袴の裾を揃えながら、下唇をわずかに突き出した。
だが、差し出された熱い芋を素直に受け取る。
指先に伝わるホクホクとした重み。
目と鼻の先では、白鶴の大きな手ぬぐいを首に巻いた将兵たちが、託児所の幼子らを肩車して芝生を走り回っていた。
遠く眼下に見える梅田の巨大ドームと天保山大回廊のシルエット。
そこから吐き出される市電の警笛が、春空に溶けていく。
東京を完全に凌駕した、世界飛行艇首都の熱気が風に乗って届いていた。
「時子さん、トコロテンの角のちっと緩うなっとっばい。
酢の勝ちすぎてから」
少し離れたベンチで、大石和三郎が黒蜜の小鉢を前に偏屈そうな眉を寄せていた。
「わさじい、文句言うんやったら食べんといて。
それ、小林のおっちゃんが阪急百貨店から運ばせた特上品なんやからね」
「ふん。
気圧の落ちると味覚も鈍るけんね。
まあ、食うばってん」
大石はブツブツ言いながら箸を動かした。
その横で、石原は軍帽を深く被り直し、両手を懐手にしたまま、じっと広場を見つめている。
支那の泥沼も、銃声もない。
兵士たちが、白鶴の物流株の配当と、満州の大豆、医療用モルヒネが稼ぎ出す巨額の金で肥え太り、子供のように笑っている。
「……囲うたら、終わりだ」
石原の低い呟きが、春風に消えた。
「え?」
「……流す。白鶴で回して、流す」
それ以上、石原は語らなかった。
ただ鋭い瞳を一度だけ細めた。
時子は黙って芋を噛み締め、父の横顔を見つめた。
大阪のこの温かい日常は、奇跡でも偶然でもない。
小林一三の資本と、父の兵站と、大石の気象、そして自分が叩き込んしてきた「規格」が手繰り寄せた、必然の勝利だった。
その夜。
池田。
白梅館。
行燈の薄暗い光の中、石原は文机の前で静かに木珠の数珠を繰っていた。
永田鉄山からの電報が、机の端で白く光っている。
障子があき、足音がした。
時子が煎茶の載った盆を持って入ってくる。
湯気がふわりと立ち上り、部屋に広がった。
「とうちゃん」
時子は盆を置くと、畳の上に整然と正座した。
下唇を尖らせる。
必死に感情を押し殺すときの癖だ。
「……大阪を離れるんは、嫌や。
五月山も、第四師団のおっちゃんらも……
離れたない」
小さな手が、膝の上の生地を強く握りしめた。
爪が白くなるほどに。
「でも………
わたしが、とうちゃんと一緒に東京行かな。
この国、いつかおかしなる気がするねん。
とうちゃんが行くってゆうなら」
呼吸を一つ、深く呑み込む。
「………行く」
石原は数珠を止め、喉を鳴らした。
深く刻まれた眉間のシワの奥で、じっと娘を見る。
「……東京は、遠いぞ」
「何ゆうてんの!」
時子はふっと下唇の力を抜き、いたずらっぽく目を細めた。
細い指を一本、立ててみせる。
「おっちゃんらは、みんな大騒ぎするけど……
わたし、もう何回も白鶴に乗ってるやん」
「……」
「東に行く時は偏西風に乗るから天保山から東京まで一時間半で着く。帰りは強い向かい風を受けるから二時間半かかるけど……
まぁ、合わせてもたったの四時間や。
朝、東京に出て天保山でトコロテン食べて、夕方東京へ戻れる。
……いつでも日帰りで帰ってこれるやん」
時子の声には、湿っぽさなど微塵もなかった。
あるのは、大石から叩き込まれた気象計算シートと、白鶴という翼がもたらした「距離の無効化」に対する、冷徹で不敵なまでの確信だ。
「せやから、全然遠ない。
五月山も、おっちゃんらも、すぐ隣におるのと一緒やもん」
石原は短く息を吐いた。胸の奥から熱い塊がこみ上げ、瞬時に猛烈な毒気へと変わる。
「……ふん」
石原は軍帽を鷲掴みにすると、短く言い捨てた。
「……行くぞ。
バカどもの帳簿を叩き割る」
翌朝。
朝露の降りた池田の玄関先。
行李を抱え、特急「燕」に乗るために大阪駅へ向かおうとしていた石原一家の前に、けたたましいクラクションが響いた。
漆黒の阪急高級外車が砂利を跳ね上げて止まり、後部座席のドアが弾け飛ぶように開く。
「石原さん! あほか! 何考えてんねん!」
怒鳴り散らしながら降りてきたのは、小林一三だった。
仕立てのいい三揃のスーツから、高級石鹸と煙草の匂いが撒き散らされる。
「小林さん……朝から何事だ」
「何事やない!
なんで電車なんや!
白鶴で乗り込んだらええねや!」
「東京にはまだ白鶴の港も着水設備もない」
「港がなかったら海に着水せえ! 浜離宮の沖にドカンと降りて、小船で上陸したらおしまいや!」
小林は腕を組み、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「海上と東京湾の縄張りは海軍と逓信省や。
井上さんに話通して、『海軍特設水上基地視察』名目で決裁捺させたわ。
水上警察も臨検なんかでけへん。
……うちも今年中に東京行くで。
阪急東京支社の設立決定や。
永田さんの決裁も出た」
石原と時子は顔を見合わせ、同時にふっと口元を緩めた。
「……乗るぞ、時子」
「うん!」
天保山飛行場。
潮の匂いと、ガソリンの甘く焦げた匂いが充満している。
海面に張り出した天保山大回廊の巨大なガラス屋根の横に、無数の浮きドックが並び、世界各地へ向かう大型飛行艇が異様な熱気を吐き出していた。
その中心に浮かぶ巨躯――白鶴一型。
四発エンジンの始動音が腹の底に響く低音を奏で始め、プロペラが朝光を浴びて透明な円を描いた。
タラップを駆け上がり、機内の革張りの座席に深々と身体を沈める。
「離水します!」
パイロットの叫びとともに、スロットルレバーが押し込まれた。
轟音が鼓膜を突く。
巨体が前傾し、大阪湾の海面を猛烈な勢いで叩き始めた。窓の外で、白い波飛沫が爆発するように舞い上がる。
ズズ……
重力が肩に重くのしかかり、一瞬の静寂の後、浮力艇が海面を離れた。
「……浮いた」
時子が呟く。
窓の下で、世界飛行艇首都、大大阪が急速に小さくなっていく。天守の上がらぬ古風な天守台の石垣、本丸の桜、おっちゃんらの第四師団本部。
銀色に光る梅田のドームと阪急天保山大回廊、網の目のように走るマルーン色の線路。
そして、霞んでいく五月山の山肌。
時子は膝の上で、革表紙の「白鶴規格ノート」を強く握りしめた。
「親戚」たちの愛と、大阪で掴み取った「流」の勝利。
それらを胸に抱き、機首は東へ。
雲を切り裂き、まっすぐに東京の空へ躍り出ていく。
(第一部 完)