白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二章『日常』(1938年 8月)

第二章

『日常』(1938年 8月)

 荻窪。

近衛邸。

 朝靄の中に沈香の香が漂う板敷きの能舞台に、乾いた足擦れの音が小さく響いていた。

 時子は白足袋の爪先に意識を落とし、軸を微動だにさせず目付け柱へ向かう。膝の裏が引きつり、足裏の皮が板擦れで熱を帯びていた。

「……もとより衆生済度の誓ひ。様々なれば。

或ひは天女の形を現じ」

 謡を切り、扇を構えて型を納める。

呼吸は乱れず、肩の上下すらない。

 濡れ縁に腰を下ろした近衛文麿が、長身を折り曲げるようにして静かに拍手を二つ打った。

足元には冷めた薄茶の茶碗が置かれている。

「……体軸が全く振れていないね。なぜかね」

 近衛の声は、公家特有の低く澄んだ響きを持っていた。

時子は深々と頭を下げ、板敷きを見つめたまま答える。

「……とうちゃんに仕込まれたスキーの滑りです。

骨盤を立てて膝を深く落とし、重心の水平移動に上体を乗せると揺れません」

「あの石原君の仕込みか」

 近衛はフッと細い目を細め、膝の上の扇子を指先で遊ばせた。

「極地の雪山を歩く兵站の術が、能の『構え』と重なるとはね。

……時子。

型に己を嵌めるのではない。

己という軸の周りに、型を纏わせるのだ。

天女の形を現すのも、泥に塗れるのも、すべては人を動かすための仮の姿。

その揺れぬ軸を持たぬ者は、三宅坂の泥沼に入った瞬間、己を見失ってただの肉の塊になってしまうよ」

 沈香の香りの向こうから漂う冷ややかな圧迫感に、時子は背筋の泡立つような寒気を覚えた。

 竹芝。

阪急浜離宮大回廊。

 東京湾からの汐風が吹き抜けるガラス張りの部屋に、強烈なスパイスの匂いが充満していた。

 大卓の上に置かれているのは、銀の皿に盛られた阪急特製のライスカレーと、冷やされたガラス鉢のトコロテンだ。

「時ちゃん、ここや。

この三井の出してきた決算書、どこに嘘が仕込まれてるか分かるか?」

 小林一三がスプーンを握ったまま、太い指で帳簿の束を叩いた。

 時子はカレーを呑み込み、手元の帳簿に目を走らせる。

数字の羅列が目まぐるしく交差する。

「……割引率の計算、旧来の運賃体系のままになってる。

天保山の規格に揃えてへん」

「甘い!」

 小林がパシッと卓を叩いた。

「割引率の陰に隠して、二百万の運行予備費を上海の雑銀へ流し込もうとしてるんや。

数字の表を見たらアカン、数字の『後ろにいる人間の欲望』を見るのや。

三井のタヌキどもがどこで銭を洗おうとしてるか、匂いで嗅ぎ分けるんやで」

 小林のギラついた目が時子を射抜く。

時子は生唾を呑み込み、トコロテンの黒蜜の重い甘みとカレーの熱い辛味が胃の中で不快に渦巻く感覚に耐えた。

 日差しが西に傾き、麻布の井上邸の庭石に雨の垂れ口が重く落ちていた。

 書斎には五年前に亡くなった妻、喜子の線香の匂いが仄かに残っている。

「……時子さん。

この『provided that』の但し書きを、お読みなさい」

 白い夏用軍服の井上成美は、寸分の乱れもない姿勢で洋書を指し示した。

時子は不器用に英文を追う。

「……ただし、本協定の適用範囲は、民間運送事業に限る……」

「違いますよ」

 井上の静かな声が落ちた。

「その但し書きは、条件の限定ではなく『例外規定に見せかけた責任の回避』でございます。

英国海軍がこの一文を楯に臨検を強行した際、我が方の海軍省が手出しできないよう仕組まれている。

単語の意味を追うなと申し上げたはずですが。

法理の仕掛けた罠を見抜けぬなら、英語など何の役にも立ちません」

 井上は一転して静かに立ち上がった。

「今日はここまでにいたしましょう。

……靚子(せいこ)、お茶を時子さんに」

 ふすまが静まり返った室内へ滑るように開き、十九歳の靚子が入ってきた。

 衣擦れの音すら立てぬ足取りは、井上の厳格な躾けが骨の髄まで染み付いている証左だった。母の形見の地味な着物を纏い、細い肩を窄めている。

 井上は書類を折る指先すら止めず、一瞬たりとも娘の顔を見ないまま、静かに書斎をあとにした。

 重い玄関の扉が閉まる音が響く。

茶の間には、二人の少女だけが残された。

 靚子が慎重な手つきで、薄い煎茶の湯飲みを置く。

指先が微かに震えていた。

広すぎる屋敷に満ちる静寂と、冷徹な父の不在の圧迫感が、その指先に凝縮されている。

「……時子ちゃん。

お茶、熱くないかしら」

 靚子の消え入りそうな声。

時子は湯飲みを両手で包み、静かに啜った。

 井上成美が背負う英国との法理闘争の重圧も、母親を失ったこの屋敷の冷たさも、十四歳の時子には言葉にできなかった。

ただ、何度もこの部屋に通ううちに、この少女の中に自分と同じ「怪物の影」を見ていた。

「……おねえちゃん。

井上先生の英語、すごく厳しい……」

 時子がポツリと言うと、靚子は伏せ目になり、悲しげに口元を緩めた。

「お父様は……

どなたに対しても厳しくいらっしゃいますの。

お母様が亡くなった日も、軍務局の部屋で一度も書類から目を離されませんでしたわ。

私、お父様の淹れてくださったお茶の匂いしか覚えておりませんの……」

 靚子の長いまつ毛から静かに涙が溢れ、着物の膝に小さな点を作った。

 時子は湯飲みを置き、膝の上で少し口を尖らせた。

「……わたしのとうちゃんも、大概やで」

「え……?」

 伏せ目だった靚子が、濡れた瞳を上げて時子を見た。

「家帰ってきたら、軍服脱ぎ散らかしてな。

夕飯も下着一枚でバクバク食べはったりするねん。

汗くっさいし、ほんまかなん……」

 時子が心底嫌そうに肩をすくめて溜息をつくと、靚子は涙を浮かべたままで固まった。

 下着一枚。

陸軍の将校が、家庭でそのような姿で食事をするなど、麻布の静寂の中で育ったお嬢様の頭では到底理解が追いつかない。

「……したぎ……一枚、ですか……?」

「そうや。

醤油バシャバシャかけて豆腐食べて、鼻息荒くて、珍獣みたいやで」

 時子が真顔でうなずくと、靚子はポカンと口を半開きのままキョトンとした。

 数秒の完全な沈黙の後、靚子の細い肩がピクッと跳ねた。

「……ふっ……くふ……っ」

 ハンカチを大急ぎで口元に押し当てたが、溢れ出る笑いを抑えきれない。

鼻を鳴らし、涙の溜まった目を細めて、体を折り曲げるようにしてクスクスと笑いはじめた。

「まあ……まあ、時子ちゃんったら……お父様が、下着姿で……くふっ、失礼よ、そんな……っ」

「ほんまのことやもん。

格好なんか全然つけへんねん」

 くすくすと肩を揺らす靚子を見て、時子も口元を緩めた。

 氷のように冷たかった麻布の部屋の空気が、ふっと和らいでいく。

時子はポケットの中で、硬く冷たい天保山のボルトのネジ山をそっと指先で撫でた。

 言葉の罠と法理で身を固めた父と、汗と泥に塗れて下着姿で飯を喰らう父。

二人の怪物を親に持った少女たちだけの、密やかな温もりがそこにはあった。

 暮れ泥む代沢の石原邸。

 台所から出汁と味噌の煮立つ匂いが漂い、テイ子が静かに夕食の配膳を進めていた。

 ガタリと玄関の引き戸が荒々しく開き、靴を脱ぎ散らかす音と荒い息遣いが響く。

三宅坂の陸軍省から戻った石原莞爾だ。

軍服の襟をはだけ、汗と土と三宅坂の紙臭さを撒き散らしながら上がってくる。

「とうちゃん、汗臭い」

 時子が茶碗を並べながら呟くと、莞爾は手ぬぐいで首筋の脂汗をガシガシと拭き、畳にドカリと座り込んだ。

「三宅坂のバカども相手に一日中脳みそ削らっちゃ、風呂なんか入ってらんねえだ」

 莞爾はテイ子の出した冷や奴に醤油をドバドバとぶっかけ、白飯を猛然と掻き込む。

顎の骨がガツガツと音を立て、醤油の染みた豆腐と米粒を喉の奥へ押し込んでいく。

その惨烈な咀嚼音は、陸軍省で永田鉄山と盤面を詰み合ってきた獣そのものだった。

「……井上先生、すごかったわ。

英語の罠、一つも見抜けんかった」

 時子がポツリと言うと、莞爾の箸がピタリと止まった。

口の中に飯を放り込んだまま、太い眉を寄せて時子を見つめる。

「当たり前だの。

あの男はな、己の一語一句に部下の命と国家の命運懸けでんだ。

遊びで英語読んでんじゃねぇだ」

 莞爾はクチャックチャッと豆腐を噛み砕き、鼻から荒い息を吐き出した。

「型に嵌められ、銭に試され、法理で叩かれろ。

それが出来ねねばやめちまえ。

お前が背負うのはそういう流れださけ」

 莞爾はそう吐き捨てると、豪快に味噌汁をズズと啜った。

椀を叩くように卓へ置くと、鋭い眼光で時子の顔を真っ直ぐに射抜く。

「時子。

明日、洞庭湖さ飛ぶぞ。

ついて来くっか?」

「……なんで?」

「三宅坂の紙の上の戦争と、現場で支那人の首絞める空気はまるで別物ださけな。

天保山の規格で人間叩き潰す現場、今のうちその目で見ておぐんだ」

 近衛の沈香も、小林のスパイスも、井上の線香もない。

ここにあるのは、汗と脂を撒き散らし、泥臭く飯を食らい、時子を「西日本白鶴文明の申し子」として容赦なく戦場へ引きずり出す父の無骨な現実だけだった。

 時子は小さく息を吐き、熱い白飯を口に運んだ。

噛み砕く米の甘みが、今日一日で叩き込まれた過酷な教育の傷口にしみ込んでいった。

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