麻布の井上邸の食堂には、銀器と紅茶の澄んだ気品だけが満ちていた。
階段を降りてきた靚子が身に纏っていたのは、モンペだった。
光の角度で金糸の小紋が怪しく跳ねる、最高級の丹後ちりめん。
「母の形見ですの。
これなら泥の現場でも動きやすく立ち回れますわ」
胸を張る靚子に、真鍮の計算尺を握っていた時子が、低く息を吐いた。
「……おねえちゃん。
そんなん着て行ったら、現場の人らに殺されるで」
白鶴の飛行艇が舞鶴から運んだ大豆が集まる、本所の配給所裏。
ドブ板の隙間から、腐濁した生ゴミと湿った藁の生臭い臭気が立ち上っていた。
そこに、白檀の香気をかすかに漂わせた金糸のちりめんが足を踏み入れる。
首の手拭いで汗をぬぐっていた女が振り返った。
市川房枝だ。
市川は濁りのない太い目を剥き、靚子の足元から胸元までを一瞥した。
「あんたが、井上さんとこの娘かね。
……ええべべ着過ぎてかんわ。
なんも知らんとみえりゃー!」
市川は手にしていた配給帳の角を、靚子の胸元へ叩きつけた。
靚子が息を詰まらせた瞬間、市川の泥にまみれた手が、今度は時子の首根っこを掴んだ。
「時子ぉ! あんたもだわ!」
市川は時子の胸元へ配給帳を力任せに押し付けた。
「物差しパチパチ叩いて分かった気になってんじゃねゃーよ! 『配給の歩留まり零点零四の差』だのなんだの、机の上で弾いとるけどな……
その零点零四で人が生きるか死ぬか、分かっとるんか!」
時子の手指から計算尺が滑り落ち、ドブ板の泥へ刺さった。
市川は手拭いで鼻を拭うと、長屋の腐った木造ドアを泥の靴で蹴り開けた。
「見回り行くで。
ついて来やぁ」
本所。
黒く変色した万年床の上で、母親がゴボッという音とともに血痰を吐き出している。
周囲には肋骨の浮き出た幼子が群がり、カビの生えた大根に蝿がたかっていた。
靚子の足先が止まる。
金糸のちりめんの裾が、濡れた畳に触れていた。
鼻腔を刺すのは、結核の血の臭いと汚物の爛れた臭気。
「時子! はよ包帯まいたれ!」
市川の怒号に、時子が飛びつく。
膿の出ている子供の足首に包帯を巻き付ける時子の手に、生温かい血と黄色い膿がへばりつく。
市川は無言で麻袋から大豆の包みを取り出し、母親の枕元へ置いた。
本所の現場を出た頃には、ふたりの衣服には泥と血膿が固着していた。
時子は無言のまま、泥を纏った靚子の手首を掴み、世田谷の石原邸へと直行した。
玄関の土間に入った瞬間、出迎えたテイ子が息を呑んだ。
「まぁ! そのまま風呂場へ行きなさい!」
テイ子は勝手場から脱衣所へと二人を押し込んだ。
ちりめんの帯が血と泥で固まり、靚子の指が震えて解けない。
時子が冷たい指先で帯の結び目に割り込み、力任せに引きほどいた。
湯気の立ち込める湯殿。
白木の浴槽に、二人は静かに身体を沈めた。
ザザーッと湯が床へあふれ出る。
現場を踏み慣れた時子は、打ちのめされた靚子の背中に手ぬぐいの泡を滑らせた。
本所の黒い泥と血膿の粒が、湯船の中にわずかに浮いては消えていく。
だが、洗っても洗っても、靚子の身体の震えは止まらなかった。
「……消えないのよ、時子ちゃん。
鼻の奥から、あの血とドブの匂いが……」
掠れた声とともに、靚子の華奢な両肩が大きく脈打った。
時子は手ぬぐいを置くと、湯船の中でそっと手を伸ばし、靚子の痩せた背中と首筋を包み込むように抱きよせた。
湯の熱気を挟んで、二人の胸と胸が重なり合う。
濡れた髪の匂いと、皮膚を走る心臓の強い脈動。
時子のあごが、靚子の肩口に触れた。
「わたしもな、最初そうやってん。
市川先生に連れられて初めて見たとき、三日ご飯食べられへんかった。
……消えへんよ。
消さんでええねん。
あれを忘れたら、わたしの弾く計算も、おねえちゃんの書く書類も、ただの紙くずになるもん」
時子は腕に力を込め、湯船の中で靚子を強く抱きしめた。
靚子は時子の肩口に顔をうずめ、喉を詰まらせて静かに湯の熱を吸い込んだ。
風呂上がり、テイ子が用意したのは、湯気の立つ白飯と、大根と揚げのたっぷり入った温かい味噌汁だった。
「さあ、冷めないうちに召し上がりなさい」
テイ子は何も尋ねず、ただ穏やかに二人のお鉢に飯を盛った。
出汁の豊かな薫りと、炊きたての米の甘い湯気。
茶碗を持つ靚子の手指が細かく震えた。
出汁をひとくち口に含むたび、喉の奥にこびりついていた血痰の味が、温かい液体とともに洗い流されていく感覚があった。
食後、テイ子が茶間の黒電話で世田谷のハイヤー営業所を呼び出した。
やってきた黒塗りのハイヤーの後部座席に、靚子は一人押し込められた。
シボレーのエンジン音が静かに響き、車は代沢の静寂を抜けて青山通りへ躍り出る。
街灯の光が、車窓を規則正しく照らし出していた。
沿道のカフェーからは明るい照明とジャズの音色、平和を謳歌する人々の笑い声が漏れていた。
後部座席で一人、肘掛けを固く握りしめた靚子は、その光の群れを冷めきった瞳で見つめていた。
湯船で時子に抱きしめられた体温と、テイ子の出汁の匂い。
麻布。
井上邸。
車から降りた靚子は、静まり返った洋館の階段を駆け上がった。
自室の三面鏡の前。
ドレッサーの上に置かれた、パリ製の白檀の香水瓶。
靚子は震える手でそれを掴み、蓋を開けた。
濃厚で甘ったるい香気が、ふわりと広がる。
次の瞬間、靚子の顔が猛烈に歪んだ。
「うっ……く……っ!」
靚子は絨毯に両手をつき、酸っぱい胃液を吐き散らした。
涙と吐瀉物でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
三面鏡の中に、いつもの自分がいた。
靚子は、その顔から目を逸らさなかった。
胃液を拭い、素肌に質の良い木綿の洋服を着た靚子は、成美の書斎のドアを開けた。
卓上灯の下、万年筆を動かしていた成美が顔を上げる。
「お父様。
……条約の紙切れは、あの子たちの腹を膨らませましたか?」
成美は静かに万年筆を置いた。
「いいえ。
条約によって動く『金と米』だけが、人の腹を満たします」
靚子は父を見た。
「では――わたくしが、その条約を書きます」
成美は眼鏡を外した。
「……よろしい。
英国とアメリカが作ったその条約の『隙間』に、日本国民の命を滑り込ませる手筈を整えましょう。
ただし、条約は怒りで書くものではありませんよ」
翌朝。
玄関前で真鍮の計算尺をポケットから覗かせている時子の前に、靚子が降りてきた。
金糸のちりめんは消え、飾りのない地味な木綿のモンペ姿だった。
靚子は時子の前で足を止め、その顔を見つめた。
「時子ちゃん。
あなたが国内の歩留まりを削り出すなら、わたくしは外から米と油を強奪してくるわ」
時子は鼻で息を鳴らすと、泥の落とされた計算尺を指先で弾いた。
「……その恰好なら、市川先生も文句言わんわ」
時子が歩き出す。
靚子はそのとなりにすっと肩を並べた。
二人の足音は重なり合い、朝の街へ響いていった。