白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第四十二章『覚靚』(1940年 10月)

麻布の井上邸の食堂には、銀器と紅茶の澄んだ気品だけが満ちていた。

 階段を降りてきた靚子が身に纏っていたのは、モンペだった。

光の角度で金糸の小紋が怪しく跳ねる、最高級の丹後ちりめん。

「母の形見ですの。

これなら泥の現場でも動きやすく立ち回れますわ」

 胸を張る靚子に、真鍮の計算尺を握っていた時子が、低く息を吐いた。

「……おねえちゃん。

そんなん着て行ったら、現場の人らに殺されるで」

 白鶴の飛行艇が舞鶴から運んだ大豆が集まる、本所の配給所裏。

 ドブ板の隙間から、腐濁した生ゴミと湿った藁の生臭い臭気が立ち上っていた。

そこに、白檀の香気をかすかに漂わせた金糸のちりめんが足を踏み入れる。

 首の手拭いで汗をぬぐっていた女が振り返った。

市川房枝だ。

 市川は濁りのない太い目を剥き、靚子の足元から胸元までを一瞥した。

「あんたが、井上さんとこの娘かね。

……ええべべ着過ぎてかんわ。

なんも知らんとみえりゃー!」

 市川は手にしていた配給帳の角を、靚子の胸元へ叩きつけた。

靚子が息を詰まらせた瞬間、市川の泥にまみれた手が、今度は時子の首根っこを掴んだ。

「時子ぉ! あんたもだわ!」

 市川は時子の胸元へ配給帳を力任せに押し付けた。

「物差しパチパチ叩いて分かった気になってんじゃねゃーよ! 『配給の歩留まり零点零四の差』だのなんだの、机の上で弾いとるけどな……

その零点零四で人が生きるか死ぬか、分かっとるんか!」

 時子の手指から計算尺が滑り落ち、ドブ板の泥へ刺さった。

 市川は手拭いで鼻を拭うと、長屋の腐った木造ドアを泥の靴で蹴り開けた。

「見回り行くで。

ついて来やぁ」

本所。

 黒く変色した万年床の上で、母親がゴボッという音とともに血痰を吐き出している。

周囲には肋骨の浮き出た幼子が群がり、カビの生えた大根に蝿がたかっていた。

 靚子の足先が止まる。

金糸のちりめんの裾が、濡れた畳に触れていた。

 鼻腔を刺すのは、結核の血の臭いと汚物の爛れた臭気。

「時子! はよ包帯まいたれ!」

 市川の怒号に、時子が飛びつく。

膿の出ている子供の足首に包帯を巻き付ける時子の手に、生温かい血と黄色い膿がへばりつく。

市川は無言で麻袋から大豆の包みを取り出し、母親の枕元へ置いた。

 本所の現場を出た頃には、ふたりの衣服には泥と血膿が固着していた。

 時子は無言のまま、泥を纏った靚子の手首を掴み、世田谷の石原邸へと直行した。

 玄関の土間に入った瞬間、出迎えたテイ子が息を呑んだ。

「まぁ! そのまま風呂場へ行きなさい!」

 テイ子は勝手場から脱衣所へと二人を押し込んだ。

ちりめんの帯が血と泥で固まり、靚子の指が震えて解けない。

時子が冷たい指先で帯の結び目に割り込み、力任せに引きほどいた。

 湯気の立ち込める湯殿。

白木の浴槽に、二人は静かに身体を沈めた。

ザザーッと湯が床へあふれ出る。

現場を踏み慣れた時子は、打ちのめされた靚子の背中に手ぬぐいの泡を滑らせた。

本所の黒い泥と血膿の粒が、湯船の中にわずかに浮いては消えていく。

だが、洗っても洗っても、靚子の身体の震えは止まらなかった。

「……消えないのよ、時子ちゃん。

鼻の奥から、あの血とドブの匂いが……」

掠れた声とともに、靚子の華奢な両肩が大きく脈打った。

時子は手ぬぐいを置くと、湯船の中でそっと手を伸ばし、靚子の痩せた背中と首筋を包み込むように抱きよせた。

湯の熱気を挟んで、二人の胸と胸が重なり合う。

濡れた髪の匂いと、皮膚を走る心臓の強い脈動。

時子のあごが、靚子の肩口に触れた。

「わたしもな、最初そうやってん。

市川先生に連れられて初めて見たとき、三日ご飯食べられへんかった。

……消えへんよ。

消さんでええねん。

あれを忘れたら、わたしの弾く計算も、おねえちゃんの書く書類も、ただの紙くずになるもん」

時子は腕に力を込め、湯船の中で靚子を強く抱きしめた。

靚子は時子の肩口に顔をうずめ、喉を詰まらせて静かに湯の熱を吸い込んだ。

風呂上がり、テイ子が用意したのは、湯気の立つ白飯と、大根と揚げのたっぷり入った温かい味噌汁だった。

「さあ、冷めないうちに召し上がりなさい」

テイ子は何も尋ねず、ただ穏やかに二人のお鉢に飯を盛った。

出汁の豊かな薫りと、炊きたての米の甘い湯気。

茶碗を持つ靚子の手指が細かく震えた。

出汁をひとくち口に含むたび、喉の奥にこびりついていた血痰の味が、温かい液体とともに洗い流されていく感覚があった。

食後、テイ子が茶間の黒電話で世田谷のハイヤー営業所を呼び出した。

やってきた黒塗りのハイヤーの後部座席に、靚子は一人押し込められた。

シボレーのエンジン音が静かに響き、車は代沢の静寂を抜けて青山通りへ躍り出る。

街灯の光が、車窓を規則正しく照らし出していた。

沿道のカフェーからは明るい照明とジャズの音色、平和を謳歌する人々の笑い声が漏れていた。

後部座席で一人、肘掛けを固く握りしめた靚子は、その光の群れを冷めきった瞳で見つめていた。

湯船で時子に抱きしめられた体温と、テイ子の出汁の匂い。

麻布。

井上邸。

車から降りた靚子は、静まり返った洋館の階段を駆け上がった。

自室の三面鏡の前。

ドレッサーの上に置かれた、パリ製の白檀の香水瓶。

靚子は震える手でそれを掴み、蓋を開けた。

濃厚で甘ったるい香気が、ふわりと広がる。

次の瞬間、靚子の顔が猛烈に歪んだ。

「うっ……く……っ!」

靚子は絨毯に両手をつき、酸っぱい胃液を吐き散らした。

涙と吐瀉物でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

三面鏡の中に、いつもの自分がいた。

靚子は、その顔から目を逸らさなかった。

胃液を拭い、素肌に質の良い木綿の洋服を着た靚子は、成美の書斎のドアを開けた。

卓上灯の下、万年筆を動かしていた成美が顔を上げる。

「お父様。

……条約の紙切れは、あの子たちの腹を膨らませましたか?」

成美は静かに万年筆を置いた。

「いいえ。

条約によって動く『金と米』だけが、人の腹を満たします」

靚子は父を見た。

「では――わたくしが、その条約を書きます」

成美は眼鏡を外した。

「……よろしい。

英国とアメリカが作ったその条約の『隙間』に、日本国民の命を滑り込ませる手筈を整えましょう。

ただし、条約は怒りで書くものではありませんよ」

翌朝。

玄関前で真鍮の計算尺をポケットから覗かせている時子の前に、靚子が降りてきた。

金糸のちりめんは消え、飾りのない地味な木綿のモンペ姿だった。

靚子は時子の前で足を止め、その顔を見つめた。

「時子ちゃん。

あなたが国内の歩留まりを削り出すなら、わたくしは外から米と油を強奪してくるわ」

時子は鼻で息を鳴らすと、泥の落とされた計算尺を指先で弾いた。

「……その恰好なら、市川先生も文句言わんわ」

時子が歩き出す。

靚子はそのとなりにすっと肩を並べた。

二人の足音は重なり合い、朝の街へ響いていった。

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