白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第四十三章『血帳』(1940年 11月)

永田町。

 首相官邸地下。

 分厚いコンクリートの壁の向こうで、六十ヘルツの送電線が不気味な重低音を響かせていた。

 カビと湿気、それに冷えた脂汗の匂いが漂う密室の卓上に、マニラからの緊急打電と一束の薄青い複写紙が置かれる。

 黒革の手袋に擦られた紙の端には、微かな黒鉛の染みが滲んでいた。

「触媒も四エチル鉛も、天保山へ搬入済みであります」

 陸軍大臣、石原莞爾が直立不動のまま告げた。

 総理大臣、永田鉄山は黒革の手袋を嵌めた手で、伝票の端を静かに撫でる。

「もたん」

「ハッ。

比島領空を封鎖されて以来、白鶴の南洋脚は停止したままでございます」

 国家戦略院院長、井上成美の冷徹な返答に重ねるように、石原が喉の奥で濁った息を吐き出した。

「……マニラで200万ドルと南の空ば差し出し、血で買い叩いた二ヶ月も、これが限界か」

 井上が、解読紙を卓上へ静かに滑らせた。

「フォーレスタルが来ます。

二洋艦隊法の巨額予算を背負い、対日兵站封鎖の全権を握って。

……オハとバタヴィアの即時封印。

太平洋航路の開放。

拒めば即刻、全拠点を遮断し開戦へ移行すると」

 永田は卓上の日本地図へ視線を落とした。

 黒革の指先が、箱根から常磐へかけての境界を深く押し付ける。

 旧東京も、横浜も、その下に蠢く数百万の飢えた皮膚も、ひとすじの指の幅に収まった。

「……東を落とす」

「総理」

「物資も資金も通すな。

東の破綻をそのまま放置し、暴動ごと奴らに買わせる」

 永田の指が、東半分を地図の裏へ追いやるように冷たく押し潰した。

「……大震災以来の西への人口流出、これで歯止めが効かなくなります。

技術も胃袋も、雪崩を打って西へ流れてきますぞ」

「流れてくる技術と若い肉体だけを関門で拾え。

不良債権と飢えた年寄りどもは東へ押し戻せ。

タダで買えたと喜ぶフォーレスタルに、そのまま食わせろ」

 莞爾が顎を硬く引き、直立姿勢を崩さぬまま応じる。

「井上院長、特使の仕込みは」

「整っております」

 井上が差し出した紙片を、永田は折られた吸殻の尖端で突いた。

「提示書の裏……

隠し集計表でございます。

あちらの欲の皮を利用した罠です。

仕掛けを叩いた瞬間、フォーレスタルの足元は追証不足で即死いたします」

「北のカードは」

 永田の眼鏡の奥で、統制の光が鋭く瞬いた。

 莞爾は胸ポケットの分厚い封書にそっと手を置き、固く口を結んだまま深々と頷いた。

「扶桑は」

「天保山に着底済みでございます。

六十ヘルツ超高圧急速給油、送電の仕込みも完了しております」

 莞爾が図面を指で強く叩いた。

乾いた爪の音が狭い地下室に響く。

「敵のパンナム四発艇は、パラオ沖で落ちます」

「確かなのか」

「時子の弾き出した結果であります。

冬の低気圧と波浪で給油時間が二時間遅延し、気化器が氷結して100%海没いたします。

……狂いはございません」

 井上が、薄い報告書を一目だけ開いて伏せた。

「最高演算官、石原時子。

ヘンミ計算尺の擦過熱と真鍮粉による親指の損傷。

第四班班長、真下ミサヲ。

右腕のケロイドより継続出血。

……ですが、演算精度に一切の狂いはございません」

 永田は書類の表紙すら見なかった。

皮手袋の奥で、指骨が微かに鳴る。

「損耗率のみ、毎時報告させろ」

「ハッ」

 莞爾の指先が、図面の端を深く押し潰した。

 パリ、と乾いた繊維の裂ける音が地下の空気を切り裂く。

伏せられた紙面——「石原時子」の四文字が透ける紙の裏へ視線を落としたまま、莞爾は喉の奥の肉を噛み締めた。

「……続けさせます」

 噛み切った血の味が口中に広がる前に、莞爾は即座に直立し直した。

視線だけを黒革の手袋へ落とす。

「総理。

女子たちの軍服を外します。

……小林一三の仕込み通り、純白のドレスと、真珠。

肘の上までを覆う特注の白絹手袋を」

「……ふっ、この期に及んで」

「擬態であります」

 莞爾の目が、暗がりの中で異やかな光を宿していた。

「傷も血も隠せます。

向こうが『可憐な名家の令嬢』と油断した瞬間、その白手袋を血と真鍮で汚してでも、無言の計算機として喉元を噛み千切らせます」

 永田は黒革の手袋を深く嵌め直した。

「……ですが総理。

万一、交渉が破綻いたしました場合は」

 井上の静かな声が切れた。

「破綻すれば開戦だ」

 永田は地図から目を離さなかった。

「その先を計算するな」

 黒革の手袋が、指の根元で軋んだ。

「明朝、終わらせる」

 ふたりが同時に一礼した。

 地下回廊。

 コンクリートを踏む靴音が、一定の拍子で遠ざかる。

 第一演算室の分厚い鉄扉の隙間から、乾いた打撃音が漏れていた。

 ジャッ、ジャッ、チリッ。

 算盤の木珠が弾かれ、計算尺の真鍮が滑る。

 その規則正しい打撃音の合間に、擦り切れ破れた皮膚が乾いた木枠に擦れる音と、途切れがちな呼吸を殺す微かな息遣いが混じっていた。

 靴音は聞こえなくなった。

 計算音は、止まらない。

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