永田町。
首相官邸地下。
分厚いコンクリートの壁の向こうで、六十ヘルツの送電線が不気味な重低音を響かせていた。
カビと湿気、それに冷えた脂汗の匂いが漂う密室の卓上に、マニラからの緊急打電と一束の薄青い複写紙が置かれる。
黒革の手袋に擦られた紙の端には、微かな黒鉛の染みが滲んでいた。
「触媒も四エチル鉛も、天保山へ搬入済みであります」
陸軍大臣、石原莞爾が直立不動のまま告げた。
総理大臣、永田鉄山は黒革の手袋を嵌めた手で、伝票の端を静かに撫でる。
「もたん」
「ハッ。
比島領空を封鎖されて以来、白鶴の南洋脚は停止したままでございます」
国家戦略院院長、井上成美の冷徹な返答に重ねるように、石原が喉の奥で濁った息を吐き出した。
「……マニラで200万ドルと南の空ば差し出し、血で買い叩いた二ヶ月も、これが限界か」
井上が、解読紙を卓上へ静かに滑らせた。
「フォーレスタルが来ます。
二洋艦隊法の巨額予算を背負い、対日兵站封鎖の全権を握って。
……オハとバタヴィアの即時封印。
太平洋航路の開放。
拒めば即刻、全拠点を遮断し開戦へ移行すると」
永田は卓上の日本地図へ視線を落とした。
黒革の指先が、箱根から常磐へかけての境界を深く押し付ける。
旧東京も、横浜も、その下に蠢く数百万の飢えた皮膚も、ひとすじの指の幅に収まった。
「……東を落とす」
「総理」
「物資も資金も通すな。
東の破綻をそのまま放置し、暴動ごと奴らに買わせる」
永田の指が、東半分を地図の裏へ追いやるように冷たく押し潰した。
「……大震災以来の西への人口流出、これで歯止めが効かなくなります。
技術も胃袋も、雪崩を打って西へ流れてきますぞ」
「流れてくる技術と若い肉体だけを関門で拾え。
不良債権と飢えた年寄りどもは東へ押し戻せ。
タダで買えたと喜ぶフォーレスタルに、そのまま食わせろ」
莞爾が顎を硬く引き、直立姿勢を崩さぬまま応じる。
「井上院長、特使の仕込みは」
「整っております」
井上が差し出した紙片を、永田は折られた吸殻の尖端で突いた。
「提示書の裏……
隠し集計表でございます。
あちらの欲の皮を利用した罠です。
仕掛けを叩いた瞬間、フォーレスタルの足元は追証不足で即死いたします」
「北のカードは」
永田の眼鏡の奥で、統制の光が鋭く瞬いた。
莞爾は胸ポケットの分厚い封書にそっと手を置き、固く口を結んだまま深々と頷いた。
「扶桑は」
「天保山に着底済みでございます。
六十ヘルツ超高圧急速給油、送電の仕込みも完了しております」
莞爾が図面を指で強く叩いた。
乾いた爪の音が狭い地下室に響く。
「敵のパンナム四発艇は、パラオ沖で落ちます」
「確かなのか」
「時子の弾き出した結果であります。
冬の低気圧と波浪で給油時間が二時間遅延し、気化器が氷結して100%海没いたします。
……狂いはございません」
井上が、薄い報告書を一目だけ開いて伏せた。
「最高演算官、石原時子。
ヘンミ計算尺の擦過熱と真鍮粉による親指の損傷。
第四班班長、真下ミサヲ。
右腕のケロイドより継続出血。
……ですが、演算精度に一切の狂いはございません」
永田は書類の表紙すら見なかった。
皮手袋の奥で、指骨が微かに鳴る。
「損耗率のみ、毎時報告させろ」
「ハッ」
莞爾の指先が、図面の端を深く押し潰した。
パリ、と乾いた繊維の裂ける音が地下の空気を切り裂く。
伏せられた紙面——「石原時子」の四文字が透ける紙の裏へ視線を落としたまま、莞爾は喉の奥の肉を噛み締めた。
「……続けさせます」
噛み切った血の味が口中に広がる前に、莞爾は即座に直立し直した。
視線だけを黒革の手袋へ落とす。
「総理。
女子たちの軍服を外します。
……小林一三の仕込み通り、純白のドレスと、真珠。
肘の上までを覆う特注の白絹手袋を」
「……ふっ、この期に及んで」
「擬態であります」
莞爾の目が、暗がりの中で異やかな光を宿していた。
「傷も血も隠せます。
向こうが『可憐な名家の令嬢』と油断した瞬間、その白手袋を血と真鍮で汚してでも、無言の計算機として喉元を噛み千切らせます」
永田は黒革の手袋を深く嵌め直した。
「……ですが総理。
万一、交渉が破綻いたしました場合は」
井上の静かな声が切れた。
「破綻すれば開戦だ」
永田は地図から目を離さなかった。
「その先を計算するな」
黒革の手袋が、指の根元で軋んだ。
「明朝、終わらせる」
ふたりが同時に一礼した。
地下回廊。
コンクリートを踏む靴音が、一定の拍子で遠ざかる。
第一演算室の分厚い鉄扉の隙間から、乾いた打撃音が漏れていた。
ジャッ、ジャッ、チリッ。
算盤の木珠が弾かれ、計算尺の真鍮が滑る。
その規則正しい打撃音の合間に、擦り切れ破れた皮膚が乾いた木枠に擦れる音と、途切れがちな呼吸を殺す微かな息遣いが混じっていた。
靴音は聞こえなくなった。
計算音は、止まらない。