キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
「ここが、キキョウの言っていた『大人』の?」
「あぁ。ここが、彼の。向井陽介の墓だ」
喧騒から遠く離れた、百鬼夜行の郊外。
吹き抜ける風が心地よい、静かな小高い丘に、その小さな墓はあった。
シャーレの業務でキヴォトス全土を奔走する日常から少しだけ離れ、私は今、その真新しい墓石の前に静かに佇んでいた。
真新しい墓石の前には、青色のあやとりの紐が、大切に供えられていた。誰が置いたものなのかは、想像に難くない。
「ねえ、ミノリ。……彼は、どんな人だったのかな?」
ふと、隣で腕を組んで立っている彼女に問いかけると、ミノリは大げさに肩をすくめてみせた。
「そうだな……。いっつも古びたちゃぶ台で詰将棋ばっかりしてて、金欠のくせに、生徒からロクに報酬も取らずに厄介ごとばかり引き受けて……」
「労働環境としては最悪だ! 休みもない、給料もない、挙句の果てに自分の命まで投げ出すなんて……あたしたちがストライキを起こす隙すら与えてくれない、究極のブラック労働者だった」
やれやれと憤慨したようにまくしたてるミノリの言葉に、私は思わず小さく吹き出してしまった。
「ミノリにそこまで言わせるなんて、すごい人だね」
「全くだ。……本当に、どうしようもないくらい不器用なお人好しで」
ミノリはヘルメットの鍔を少しだけ下げて、どこまでも優しい声で呟いた。
「……バカみたいに立派な、大人だった」
「……そっか」
静寂が流れる。
「彼は、私の手の届かないところを補完するために。そのためだけに、この世界へ呼ばれたのかな」
ふと口を突いて出た私の独白に、隣で腕を組んで立っていたミノリが、静かに首を振った。
「陽介は誰かの代わりなんかじゃない。誰かに強制されて働いていたわけでもない。あいつはあいつ自身の意志で、自分の守りたいもののために自由に生きていた。あたしはそう思っている」
「……」
彼女の言葉に、私は痛ましげに目を伏せ、冷たい墓石を見つめた。
「……私は、生徒だけじゃなく、救える命はすべて救いたかった」
この世界に生きるすべての生徒を、そして、関わるすべての人々を。
けれど、私という存在が抱えきれる世界には、どうしても限界がある。私が手の届かない場所で、一人の大人がその身を呈して、私の生徒たちを守り抜いてくれた。
「けれど、失われた命、失われた時間までは、私にだってどうにもできない」
キヴォトスにおける大人の力をもってしても、死んでしまった人間を生き返らせることなどできない。
覆水は盆に返らず、壊れた時計の針は二度と戻らない。
だが。
「……私たちの生徒を守ってくれて、ありがとう。向井陽介さん」
私は、心からの深い敬意と感謝を込めて、その名前を呼んだ。
そして、ゆっくりと懐に手を入れ──
"大人のカードを取り出す"
「私には、時間を戻すことも、命を蘇らせることもできない。けれど……。これなら、きっと」
私が持っている、この小さな奇跡の欠片を。
先生としてではなく、同じ一人の大人として。
「私にできる、唯一の手向けです。どうか……」
私がそれを天にかざした、その瞬間だった。
墓石に供えられていた青いあやとりの紐が、呼応するように突如として淡い光を放ち始めた。
それは無数の柔らかな光となって、空へフワリと舞い上がる。
透き通るような美しい青が広がる、キヴォトスの空。
その果てしなく広がる青空を越えて。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「……っ」
ふと、一瞬だけ意識が遠のいたような感覚に陥り、俺は何度か瞬きをした。
「お父さん、聞いてる?」
目の前には、不安そうに俺を覗き込む娘──春の顔があった。
夕食のハンバーグの匂い。狭いアパートの蛍光灯。窓を叩く、冷たい雨の音。
ぼうっとしていた俺を心配した春だったが、彼女はすぐに、先ほどまで話していた深刻な話題へと引き戻されたように、ギュッと服の裾を握りしめた。
「……お父さん? 私、ヤクザの息子に狙われてるんだよ……?」
震える声。充血した瞳。
それを見て、俺は「ああ、分かってる。適当に話をつけてきてやる」と、いつもの大人の余裕で答えようとした。
70%の力で受け流し、風車のようにやり過ごせばいい。そう、思っていた。
だが、その言葉はなぜか、喉の奥でピタリと止まってしまった。
「(……?)」
ふと、自分の手元に違和感を覚えた。
いつの間に持っていたのだろうか。俺の右手には、一本の『青いあやとりの紐』が、強く握りしめられていた。
それを見た瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
何か、すごく、大切なことを忘れているような気がする。
遠いどこかで、泥水にまみれて、血を流して、必死に誰かを守り抜いたような……。
泣きそうな顔で怒っている、青い羽織を着た不器用で優しい少女の顔が、脳裏を掠めたような気がした。
「(……逃げるな)」
誰かの声がしたわけじゃない。
だが、俺の魂の奥底に刻み込まれた『大人の覚悟』が、適当にやり過ごそうとする俺自身を、強く殴り飛ばしたのだ。
ここで手を抜けば、俺は絶対に、永遠に後悔する。
盤面の外に逃げるな。
一番大切なものを守るために、100%で向き合え。
俺は、無意識のうちに握りしめていたあやとりの紐をそっとポケットにしまい、ちゃぶ台越しに春を真っ直ぐに見つめ返した。
「…………春」
俺の真剣な声色に、春がビクッと肩を震わせる。
「さっきの態度は取り消すよ」
「……え?」
「適当に話をつけるなんて、大人の甘えだった。ごめん」
俺は身を乗り出し、彼女の震える両手を、しっかりと、力強く握りしめた。
もう二度と、この手を離しはしない。
「お父さんに、詳しく話を聞かせて。……ちゃんと、一緒に考えよう。何があっても、お父さんがお前を守るから」
その言葉を聞いた春の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は俺の手を強く握り返し、小さく、けれど確かな安堵と共に頷いた。
窓の外の雨音は、いつの間にか止んでいた。
俺はただの無力な『歩』かもしれない。だが、この盤面で娘を守り抜くためなら、どんな理不尽にだって立ち向かえる気がした。
遠いどこかの空の下から、不器用で優しい想いたちが、今の俺の背中を押してくれている。
そんな、不思議で温かい感覚に包まれながら。
完