FINAL FANTASY Ⅶ Revengers 作:オレンジⅩⅢ
遠くで響いた乾いた破裂音は、風にほどけるようにすぐ消えていった。
「……今の、何かしら」
エアリスが小首を傾げる。ユフィも眉をひそめたが、ワンダースクエアの喧噪はいつも通り賑やかで、誰かが慌てて駆け出す様子もない。
(気になるといえば気になるが、今のところ騒ぎになる気配はない。……ひとまず、切り上げるか。)
そろそろクラウドとティファが待つホテルへ戻る頃合いだった。散策の余韻を残したまま、四人は歩き出す。レッドⅩⅢが低く鼻を鳴らし、僅かに歩調を落として辺りを窺っていた。
ゴーストホテルへ続く通路に差し掛かったところで、様子がおかしいことに気づく。普段なら客の呼び込みに忙しいはずのスタッフが、数人がかりで来園者を横道へ誘導していた。声を潜めた指示、張られたばかりのロープ、そして客の一人が漏らす戸惑いの声。
「あの、何かあったんですか」
「申し訳ございません、こちらは只今立ち入りをご遠慮いただいておりまして……」
にこやかな笑みの奥に、隠しきれない緊張が滲んでいる。案内された客の間から、「銃がどうとか」という囁きが漏れ聞こえた。
(さっきの破裂音と、無関係とは思えないな……)
エアリスが不安げに振り返る。
「ジュリアス、これって……!」
「まだ分からない。だが、悠長に構えていい状況じゃないだろう」
短く返し、視線だけで先を促す。ユフィが舌打ち混じりに前へ出た。
「クラウドとバレット、ホテルにいるんだよね。先に合流した方が早いって!」
反論する理由はなかった。踵を返し、ゴーストホテルへの通路を駆ける。レッドⅩⅢが低く唸りながら並走し、鼻先を微かに動かして風の匂いを探っていた。
「さっきまでの散策、あんなに楽しかったのに……」
エアリスが走りながら小さく漏らす。返す言葉を探すより先に、ユフィが横から口を挟んだ。
「今はそれを考える時じゃないでしょ! アタシたちの心配より、まずクラウド達とバレットだって!」
苛立ちに似た焦りが滲む声だった。ウータイでの記憶が、こうした唐突な非常事態への反応を人一倍鋭くさせているのかもしれない。理由の推測を胸に留めたまま、返答の代わりに歩調を速めた。
(何を嗅ぎ取っている……硝煙か、それとも別の何かか)
問いかけたい衝動を抑え、先を急ぐ。派手な照明に彩られた通路を抜けるほどに、賑わいの声は遠ざかり、代わりに人々のざわめきが不安の色を濃くしていく。
ロビーに飛び込むと、既に異変を察していたらしいクラウドとティファの姿があった。ティファの表情は硬く、クラウドは片手で軽くこめかみを押さえている。
「クラウド、状況は」
「分からない……でも、下の階の警備が急に慌ただしくなってる。誰か何か聞いてないか?」
ティファが早口に付け加える。
「フロントの人が言ってた。撃たれたのは神羅の関係者らしいって……犯人は、片腕が義手の男だって」
その一言に、喉の奥が微かに強張るのを感じた。
(片腕が義手の男……まさか、バレットが……)
一瞬よぎった疑念を、すぐに打ち消す。あの男は激情家ではあっても、無関係な人間を撃つような愚を犯す性根ではない。それに、こんな短い間に殺しの証拠を残すほど間抜けでもないはずだ。
(となると、義手を武器に変えた別の誰かがいる、ということか。バレットと似た改造を施した人間が、この街にもう一人)
バレットの姿がこの場にないことに、今更ながら気づく。彼がいつ部屋を出たのか、ホテルの誰かが目撃していないか──そこまで思考を巡らせた直後、明るい関西訛りの声が割り込んできた。
「おやおや、そこの兄ちゃんら、えらいこっちゃで見つけたわ! こない大変な時に、ロビーで立ち話しとる場合とちゃいますやろ!」
声の主は、招き猫のような姿をした一体のぬいぐるみだった。虎の背に乗ったそれが、身振り手振りを交えて喋っている光景に、思わず足が止まる。
「……喋る、ぬいぐるみ?」
ユフィが目を丸くして呟いた。だがクラウドとティファの反応は、それとは違っていた。
「ああ……さっきの、占いの」
クラウドが呟くと、ぬいぐるみは得意げに胸を張った。
「よう覚えとってくれはりましたな! さっき兄さんらの運勢見たったやろ、ケット・シーや!」
ティファが小さく頷く。
「わたしたちがホテルへ向かう前に、園内の占い小屋で見てもらったの。……この子、当たるのか外れるのか分からない占いばっかりで」
「人聞きの悪いこと言いなや! わての占いは百発百中でおますで!」
初対面の自分たちに対しては、ケット・シーは改めて胸に手を当てて名乗り直した。
「わては占いロボット、ケット・シーや! 今日び運試しに来た客がえらい騒ぎに巻き込まれとるさかい、ちょっと様子見に来ましてん」
友好的な口調の裏に、値踏みするような観察の視線が一瞬覗いた気がした。無駄のない立ち位置の取り方、この騒ぎの直後を狙ったかのような現れ方──クラウドたちが先に接触していたと知った今も、不自然な手際の良さそのものは拭えない。
(占い小屋の主が、事件の直後にわざわざ客を追ってここまで来るか……ただの愛想とは思えないな)
胸の内でそう記録しながらも、今はこの喋るぬいぐるみに構っている余裕はない。踵を返しかけたところへ、警備兵の一団を引き連れた男が姿を現した。
派手な衣装を纏い、堂々とした足取りで近づいてくる恰幅の良い男。ゴールドソーサーの支配者、ディオその人だった。
「クラウド殿、それにご一行。折り入って話がある」
朗々とした声には、普段の陽気さの代わりに硬い重みが乗っていた。
「先ほど当園内で発砲事件が起きた。撃たれたのは神羅の観光客だ。犯人は片腕の義手を持つ大男──目撃証言と一致する人物が、あんたらの連れの中にいるそうじゃないか」
クラウドが一歩前へ出る。
「バレットは、そんなことをする人間じゃない」
「私だって信じたくはないさ。だがな、この街の秩序は絶対だ。疑わしきは罰する、それがゴールドソーサーの流儀でな」
ディオの目には、感情の揺らぎよりも先に、決定を翻す気のない静かな断固が見えた。周囲を固める警備兵の配置も、突発的な混乱に対応したものではなく、あらかじめ想定されていた手順をなぞるような整然さがある。
(この男は怒っているわけじゃない。感情で処分を下しているわけでもない。……見せしめの落としどころを、もう決めている。テーマパークの秩序という体裁を守るための、儀式めいた処理だ)
その見立てを胸のうちで固めながら、食い下がろうとするクラウドの肩に手を置いた。
「クラウド、待て」
「でも」
「ここで声を荒げても、ディオの決定は覆らない。園の秩序を守るための処分だと言っている以上、感情論は響かない相手だ。むしろ抵抗すればするほど、こちらの心証を悪くするだけだろう」
ティファが不安げに視線を寄越す。
「じゃあ、どうすれば」
「今は逆らわず、状況を見極める。無実の証明は、暴れて勝ち取るものじゃない。頭を使う場面だ」
静かに告げた言葉に、ディオが片眉を上げた。
「ほう、話が分かる坊やもいるじゃないか」
ディオが小さく笑う。芝居がかった仕草の裏に、値踏みするような冷たさが一瞬覗いた。
「悪いようにはしない、と言いたいところだが、私にも立場ってものがある。何百人という客の前で殺しが起きたんだ、この街のオーナーとして、目に見える形でケリをつけなきゃならん」
「けじめは分かる。だが、証拠もないまま処分を下すのは、筋が違うんじゃないか」
「証拠、証拠ね……。だったら聞くが、君達はあの片腕の男の潔白を、この場で証明できるのか?」
言葉に詰まる。できない、それが答えだった。ディオはその沈黙を見透かしたように、大仰に肩をすくめる。
「……よし、決めた。お前たちには、地下の治外法権地帯──通称コレルプリズンへ行ってもらう。そこで身の潔白を示してみせろ。できるならな」
抗弁の余地を与えぬまま、ディオが指を鳴らす。足元の床が唸りを上げ、巨大な昇降機の扉がせり上がってきた。
エアリスが小さく息を呑む。ユフィは奥歯を噛みしめたまま、拳を握っていた。
(先ほどワンダースクエアで小耳に挟んだ噂──不審者は治外法権地帯へ送られる、か。まさか自分たちがその実例になるとはな。)
抵抗すれば余計に立場を悪くする。判断を胸のうちに収めたまま、昇降機へ足を踏み入れる。
「ほな、わても道案内したろか! コレルプリズンは初めてやろ、あそこは勝手が分からんと痛い目見るでぇ」
ケット・シーが呑気な調子でひょいと乗り込んでくる。警備兵はそれを止めようともせず、むしろ当然のことのように見送った。
(客の案内役という立場、ということか。だとしても、この男の顔の広さは異常だな)
胸の内にその違和感を仕舞い込む。重い扉が閉まり、機械音とともに床が沈み始める。地上の煌びやかな光が遠ざかり、代わりに乾いた砂と鉄錆の匂いが鼻をつく。
狭い箱の中に沈黙が満ちる。誰も口を開かないまま、機械の唸りだけが等間隔に響いていた。ティファは腕を自分の身体に回すようにして俯き、エアリスはそんな彼女の肩にそっと手を置いている。ユフィは苛立ちを隠しきれない様子で、爪先で床を小刻みに叩いていた。
(この空気のまま底へ着けば、誰かが余計な火種を抱えたまま飛び出しかねない。)
そう見立てながらも、今は下手に声をかけるよりも沈黙を保つ方が得策だと判断する。動揺を鎮めるための言葉は、状況が見えてから初めて意味を持つ。今はまだ、材料が足りなさすぎた。
そうしているうちに、昇降機が底に達した。重い震動とともに、扉がゆっくりと開いていく。
たどり着いた先は、荒廃した集落だった。
崩れかけた建材と、砂に埋もれかけた鉄屑。日差しを遮る屋根はどれも継ぎ接ぎで、行き交う人々の目には一様に、諦めと警戒が同居していた。
「……ここが、コレルプリズン」
ティファが呟いた声は、風にすぐさま攫われて消える。
エアリスが辺りを見回しながら、静かに口を開いた。
「ゴールドソーサーのすぐ下に、こんな場所があったなんて」
「表向きの華やかさを保つための、掃きだめってわけね……」
ユフィが吐き捨てるように言う。反論する材料はなかった。
集落の奥へ視線を巡らせていると、崩れた壁の陰から見覚えのある巨躯が姿を現した。
「……クラウド! みんなも、無事か!?」
バレットだった。安堵の表情を浮かべたのも束の間、すぐに苦渋の色がその顔に差す。
「悪い、俺のせいだ。あの銃声の犯人……片腕が銃の男ってのは、たぶん……」
言葉を濁すバレットに、クラウドが静かに問う。
「心当たりがあるのか?」
「……ダインだ。あいつが、生きてやがる」
その名前に、ティファが息を呑む音が聞こえた。北コレルで語られたばかりの傷が、再びうずいているのが表情から見て取れる。
「俺のせいで、みんなまでこんな所に落とされちまった。ケジメは……俺がつける」
バレットが踵を返しかけた瞬間、間に割って入る。
「待て」
「止めるな! これは俺の……」
「死に場所を探すな」
叩きつけるように言い放った言葉に、バレットの足が止まる。
「怒りに任せて単身飛び出せば、無実の証明どころか、神羅かプリズンの人間に蜂の巣にされて終わりだ。ダインとやらに会う前に、お前が死ぬ。それだけの話だ」
「……っ、お前に何が分かる!」
「分からないさ。お前の過去も、コレルの痛みも、俺には推し量ることしかできない」
一拍置いて、声を落とす。
「だが、感情で動いた人間から先に死んでいくのを、嫌というほど見てきた。頭を使え。生きて疑いを晴らし、生きてダインとやらに向き合え。死んでからじゃ、何も伝わらない」
沈黙が落ちる。バレットの拳が、震えたまま下ろされた。
「……ジュリアス」
バレットが絞り出すように名を呼んだ。その声には、反発と同時に、縋るような響きが混じっていた。
「お前は、いつもそうやって……冷たい正論をさらっと言いやがる。だが」
言葉を切り、拳を握り直す。
「……分かってる。頭に血が上ってた。すまねえ」
「謝る必要はない。お前の怒りが正しいことと、その怒りに従って行動していい場面かどうかは、別の話だ」
淡々と返した言葉に、バレットは苦笑とも呻きともつかない息を吐いた。北コレルでコレルの過去を語り尽くしたあの夜から、この男の怒りの矛先は少しずつ変わりつつある。神羅への憎悪だけでなく、自分自身の弱さへの苛立ちが、今この瞬間も彼を内側から焼いているのが分かった。
(この男が本当に向き合わなければならない相手は、ダインじゃない。……いや、それだけでもないか。)
そこまで考えて、思考を打ち切る。今はまだ、答えを出す段階ではない。
「今は情報を集める。この集落を仕切っている人間がいるはずだ、住民の怯え方を見れば分かる」
視線を巡らせる。荒れ果てた街並みの奥、比較的頑丈な造りの建物へと続く道に、住民たちが目を伏せながらも足を向けている。物資の流れも、その一角へ集約されているように見えた。
「あの建物の主──おそらくボスだろう。そこと交渉するのが、一番の近道だ」
ティファがバレットの背に軽く手を添えた。
「バレット、大丈夫だよ。一人で抱え込まないで」
「……ああ」
短く応じたバレットの声には、まだ震えの余韻が残っていた。それでも、拳を振り上げる代わりに、ゆっくりと深く息を吐き出す姿には、確かな理性の色が戻りつつあった。
ティファとエアリスが住民に声をかけ、情報を集め始める。ユフィも負けじと聞き込みに加わり、レッドⅩⅢは低い姿勢で集落の外周を探っていた。
しばらくして戻ってきたエアリスが、困ったように眉を寄せる。
「みんな、口を揃えて『あの男には関わるな』って言うだけで……名前すら教えてくれないの」
「無理もない。恐怖で口を封じられている証拠だ。名前を口にすることさえ、報復の対象になり得ると思っている」
ユフィが腕を組み、鼻を鳴らした。
「それにしたって、腹立つよね。こんな場所に人を放り込んで、勝手に恐怖で縛り付けて……これも神羅のやり口ってわけ?」
「おそらくな。故郷を焼かれた人間からすれば、聞き飽きた話だろう」
視線を交わす。ユフィの表情には苛立ちと、それ以上に深い共感の色が滲んでいた。ウータイを踏みにじられた記憶と、目の前の光景が重なっているのは想像に難くない。
(この場所を前にして冷静でいられる方が、むしろおかしいか。)
そう心中で結論づけながらも、口には出さず、聞き込みの続きを促す。
浮かび上がってきた話は、断片的ながらも一つの輪郭を結んでいく。
──定期的に姿を現しては、気に入らない者を容赦なく撃ち殺す、片腕が銃に変わった男。
──かつてコレルを率いていた人物に、瓜二つだという噂。
──この集落には、明らかに神羅の物資と思しき残骸が転がっている。
崩れた輸送コンテナの側面に刻まれた社章、朽ちかけた警備端末の型式──タークス時代に嫌というほど目にしてきた規格と一致する。だが、その中に一つ、見覚えのない意匠の部品が混じっていた。過剰な出力を前提にした無骨な接続端子。兵器開発部門特有の、実用性より威力を優先した設計思想が透けて見える。
(この癖のある造り……兵器開発部門、あの女の管轄か。相変わらず悪趣味な実験場を選ぶものだ。)
内心で吐き捨てながらも、表情には出さず、観察の結果を頭の中で組み立てていく。
「ここは神羅にとって、都合のいい掃きだめだったんだろう。反抗分子や、用済みになった人間を落とし込む場所として」
「そんな……」
「治外法権を謳っているのも、責任の所在を曖昧にするための建前に過ぎない。表向きは治安維持、裏では見捨てた人間の管理場所だ。加えて言うなら、実験的な物資の廃棄場としても使われていた形跡がある」
バレットが低く唸る。
「くそったれが……どこまで人を利用しゃ気が済むんだ」
「怒りは分かる。だが今は、それをボスとの交渉材料に変える方が建設的だ」
集落の奥、ひときわ頑丈な館の前に、屈強な男たちが並んでいた。その中央、悠然と椅子に腰掛ける人物こそが、この地を仕切るボス──ダイアルだろう。
見定めるような視線が、一行を舐め回すように動いた。
「よそ者が、こんな数で乗り込んでくるとはな」
低く重い声だった。
「俺たちは濡れ衣を着せられて、ここへ落とされただけだ。無実を証明したい」
クラウドが前に出て告げる。ダイアルは口の端を歪めた。
「証明、ねぇ。この地じゃ、そんな上等な言葉は通用しねえよ」
椅子の肘掛けを指で叩きながら、続ける。
「だがまぁ、退屈しのぎにはなりそうだ。……お前らに、一つ試してもらおうか」
その言葉に応えるように、周囲の男たちが一斉に武器を構える気配を見せた。
クラウドが得物に手を掛けかけるのを、目配せ一つで制する。
「まだだ。話を聞く」
ダイアルが片手を挙げると、男たちの動きが止まった。値踏みするような視線が、今度は自分へと向けられる。
「……ほう。連れの中に一人、頭の回る奴がいるみたいだな」
「あんたが望むのは、殺し合いじゃないはずだ。この地を回している人間なら、無駄な血を流すことがどれだけ割に合わないか、分かっているだろう」
ダイアルの口元に、初めて薄い笑みが浮かんだ。
「言うじゃねえか。……いいだろう、詳しい話は館の中でしてやる。だが、勘違いするな。お前らの無実とやらを証明するかどうかは、俺の気分次第だ」
「それで構わない。話を聞く機会があるだけ、上等だ」
短く応じると、ダイアルは椅子から立ち上がり、館の奥を指し示した。武装した男たちが、道を空けるようにして両脇へ退く。
砂塵の匂いが濃くなる。乾いた風が、集落の奥から吹き抜けていった。
視線を巡らせ、武装した男たちの数と配置、逃走経路になり得る隙間の位置を、瞬時に頭の中へ描き出す。戦闘になれば勝ち目がないわけではない。だが、それでこの集落の反感を煽れば、無実の証明という本来の目的からは確実に遠ざかる。
(力尽くは最後の手段だ。まずは、この男が何を望んでいるかを見極める)
そう結論づけながら、ダイアルの出方をじっと待つ。バレットの視線は既に、集落のさらに奥──ダインがいるはずの方角へと向けられたままだった。焦燥は消えていないが、暴発を留める理性の糸は、まだ辛うじて繋がっている。
その均衡がいつまで保つのか、確信は持てなかった。
館の奥へと続く扉を潜りながら、視線だけを僅かに背後へ流す。バレットの横顔には、まだ隠しきれない焦燥が張り付いている。ダインという名前が、この男の中でどれほどの重みを持っているのか──北コレルで語られた過去の断片を思い返しながら、改めてその深さを噛みしめた。
(妻子を失い、故郷を失い、それでも生きてきたバレットが、最後に縋る相手か。……向き合わせるにしても、今のままじゃ危うい。)
胸の内でそう結論づけつつも、口には出さない。今この場で必要なのは、感傷ではなく、次の一手を見誤らないための冷静さだった。
砂交じりの風が、開いた扉の隙間から吹き込んでくる。乾いた砂漠の匂いの奥に、微かな血の匂いが混じっている気がした。気のせいだと切り捨てるには、あまりに現実味を帯びた予感だった。