Case13 E.C.H.O.インパクト
2026.04.24
東京都文京区・朝田詩乃の部屋
四月も下旬に入り、窓を閉め切らなくても過ごせる程度には夜の冷え込みが緩んできた。午後の日差しも冬の頃とは随分違い、薄いカーテン越しの白い光がローテーブルの端から床までを広く照らしている。その明るさの中で、朝田詩乃は学校から持ち帰った一枚の用紙を前にしたまま、ここ十分ほどほとんど同じ姿勢を続けていた。
高校二年生になって、まだ三週間ほどしか経っていない。
それにもかかわらず、学校はもう卒業後について考え始めろと言ってくる。
机の上に置かれているのは進路希望調査だった。第一希望、第二希望、現時点で興味を持っている分野、進学を希望するなら大学や学部について分かる範囲で書くこと。もちろん二年生の春に提出した内容がそのまま進路を決定するわけではないし、担任からも今後何度か同じ調査を行うと説明されている。
そういうものだと理解はしている。
ただ、鉛筆で一度文字を書いてしまえば、それまで頭の中だけにあった将来が少しだけ具体的な形を持つような気がして、詩乃は結局まだ何も書けずにいた。
以前から考えている職業ならある。
警察官。
強盗事件の後、警察という存在は長い間、自分にとって人生で最も触れたくない記憶と結びついていた。その一方で、あの日の自分が誰かの助けを必要としていたことも知っている。だからこそ、今度は自分が誰かを守る側へ回ることができないかと考えた。
今も、その選択肢を捨てたわけではない。
ただ最近になって、その横にもう一本、別の道が見え始めていた。
詩乃が手の中のシャープペンシルを一度回したところで、向かいのソファに座っていた零奈の視線が僅かに横へ動いた。
何もない空間へ指を伸ばし、軽く払う。詩乃の位置からは見えないが、本人の視界には何かしらのウインドウが浮かんでいるのだろう。
「……それ、さっきから何をしてるの?」
声をかけると、零奈は手を止めずにこちらを見た。額から左のこめかみに沿って固定されているのは、昨日購入したばかりの《オーグマー》だった。
「質問の対象が直前の操作だけなら、大学から送付された来週分の講義資料を分類していた。それ以前を含むなら、午前中に届いた連絡の確認、予定表の再構築、必要な買い物の抽出、それから移動経路の比較も行っている」
「……昨日買ったのよね、それ」
「ああ……15時42分に購入手続きを終えているな」
「そこまで聞いてないわよ」
詩乃が言うと、零奈はそこでようやく指を下ろした。
「購入から約24時間経過し、基本操作については把握できた。オーグマーの基本操作は視線入力とジェスチャー、それに音声入力が中心で、既存の携帯端末やAR機器と操作思想が大きく乖離しているわけではない。初期設定と視界内配置への馴化を含めても、日常利用に支障がなくなるまでは数時間あれば十分だ。むしろ問題になるのは操作方法そのものではなく、表示する情報量と注意資源のバランスだろう」
「ちゅういしげん?」
床に寝転んでいた獅織が、携帯端末から顔を上げた。
零奈はそちらへ視線を向ける。
「人間が一度に注意を向け、情報を処理出来る能力には限界がある。その有限な処理能力を、便宜上『注意資源』と呼ぶ。人間が同時に処理出来る情報には限界がある。AR機器は現実空間を見ながら情報を追加出来るという点では便利だが、視界へ表示出来るからといって、表示した全てを同時に確認出来るわけではない。歩行中に文章を中央視野へ重ねれば現実側の情報取得量が減るし、周辺視野へ複数の通知を常時置けば、それだけ注意が分散する。したがって、移動中は現在地、目的地、必要な警告だけを残し、それ以外は周辺へ退避させるか閉じる方が合理的だ。停止している時だけ表示量を増やせば、利便性を失わず危険性も抑えられる」
獅織は少し考えてから、自分のオーグマーを指で触った。
「じゃあ、姉ちゃんはいっぱい出してるからって、ずっと全部見てるわけじゃないんだ?」
「当然だ。全てを表示する必要もない。現在必要ではない情報を視界へ残しておくのは、机の上へ関係のない資料を広げたまま作業するのと大差ない」
「へえ……」
獅織は納得したらしく、今度は自分の視界へ何かを呼び出してから、いくつか消し始めた。
「じゃあアタシも減らそう。通知、いっぱい置いといた方が便利だと思ってた」
「便利さは情報量に比例しない。必要な時に必要な情報へ到達出来る方が重要だ」
「分かった。じゃあこれは消して……あ、でもオーディナル・スケールのイベントは残す」
「それは君が決めればいい」
素直に頷いた獅織を横目に、詩乃はもう一度零奈を見る。
この人に「新しいものを買ったら、とりあえず遊んでみる」という感覚は無いのかもしれない。もっとも、本人に言わせれば、今やっていることも十分「遊んでいる」うちに入るのかも知れないが。
「で、さっきから何を調べてるの?」
詩乃が改めて尋ねると、零奈は視界の端へ出していたらしい表示を一度閉じた。
「君の進路希望調査に関係しそうなものをいくつか見ていた」
「私の?」
「ああ。現在、君は進路希望調査を前にして十分以上筆記を行っていない。用紙の内容から考えれば、記入そのものが困難なのではなく、記入する情報が確定していないと考える方が自然だ。将来の進路について悩んでいる場合、少なくとも問題は三つに分けられる。候補そのものがない、候補はあるが比較する情報が不足している、情報はあるが選択の基準が定まっていない。このうち第一なら、まず職業や進学先の情報を広く集める必要がある。第二なら候補ごとの教育課程や実際の業務を比較すればいい。第三なら、君自身が何を重視しているかを整理する必要がある。紙を見続けるだけで改善する可能性があるのは三番目の一部だけだろう」
詩乃は黙ったまま聞いていた。
零奈は続ける。
「一方で、君は二年生になったばかりだ。今日中に職業を一つへ固定する必要はないし、現時点の希望が一年後に変化していても問題はない。逆に、今決める必要がないという理由で何も調べなければ、次回も同じ情報不足の状態になる。したがって、今日行うべきなのは将来を決定することではなく、今の君が候補として考えているものについて、判断材料を増やすことだと思うが」
そこで零奈は言葉を止めた。
詩乃は進路希望調査へ視線を落とす。
最後の一言はない。つまり──そこまで言われれば、次に何をするべきか自分で分かるだろう、ということだ。
詩乃は額へ手を当てた。
「……本屋でも行けってことでしょ?」
「私は何も指定していない」
「指定してないだけで、それ以外ほとんど潰したじゃない」
「君が自宅で資料を検索する方法も残っている」
「そういうところよ」
詩乃が言うと、獅織が吹き出した。
「姉ちゃん、詩乃に選ばせてるように見せて、大体もう決めてるよな」
「決めてはいない。必要な条件を示しただけだ」
「それで最後に一個しか残らなかったら同じじゃん」
獅織が詩乃の方を見て笑う。
零奈は何がおかしいのか分からないという顔をしていた。
「それで、何について悩んでいる?」
零奈が改めて尋ねた。
詩乃は少し迷ったあと、シャープペンシルを机へ置いた。
「警察官は前から考えてた。今も候補。でも、最近ちょっと別の方も気になってる」
「別の方?」
獅織がすぐにこちらを見る。
「人の話を聞く仕事。カウンセラーとか。それと、精神科医も少し」
「医者?」
予想通り、獅織の視線が零奈へ飛んだ。
「詩乃も姉ちゃんみたいになるの?」
「まだなるって言ってないでしょ。それに、カウンセラーと精神科医は別」
「あ、そっか。じゃあ白衣着るかもまだ分かんないのか」
「そこが重要なわけじゃないから」
「でもちょっと見たい」
「何をよ」
「白衣の詩乃」
「か、勝手に想像してなさい」
獅織は楽しそうに笑ったが、零奈だけはすぐに会話へ乗らなかった。
詩乃を見る──沈黙が数秒続いた。
「……何?」
「理由を確認している」
「私の?」
「ああ。警察官という選択肢は以前から聞いている。君自身の過去に加えて、同じような状況に置かれた人間を守る側へ回るという目的も理解出来る。一方、心理職や精神科医に興味を持ち始めた時期は比較的新しいはずだ。少なくとも、昨年の夏以前に君からその話を聞いた記憶はない。ならば、その後に生じた経験が影響している可能性は高い」
「私自身のことがきっかけだ、って言いたい?」
「それも一つだ。だが、それだけなら私の治療内容へ関心を持つだけで済む。職業として考え始めたなら、君の中で別の意味付けが生じたと考えた方がいい」
詩乃は少しだけ黙った。
「……前の私は、治るって、怖くなくなることだと思ってたのよ」
獅織の表情から、先ほどまでの軽さが少し消えた。詩乃は机の上の紙を見ながら続ける。
「銃を見ても何とも思わなくなって、あの日のことを思い出しても身体が反応しなくなって、それでやっと治ったって言えるんだと思ってた。でも零奈は、最初からそこだけを目標にしてなかったでしょ」
零奈は何も言わない。
「怖いものが残ったままでも生活は戻せるとか、BoBで勝ったから治ったとか、負けたから駄目になったとか、そういう話にしなかった。……あれを見てて、こういう仕事もあるんだって思ったの」
少しだけ言葉を探す。
「誰かを助けるって、危ないところから引っ張り出すだけじゃないんだなって」
詩乃が話し終えるまで、零奈は一度も遮らなかった。
しばらくしてから、静かに口を開く。
「まず、君が経験した治療をそのまま職業理解へ置き換えるのは避けた方がいい。精神科医療や心理支援には多くの方法があり、対象となる疾患、患者の年齢、生活環境、併存症、利用出来る支援資源によって介入は変わる。君に行った方法は、君の病歴、症状、回避行動、GGOという特殊な環境、それから君自身が治療について相当量の知識を持っていたことまで含めて設計したものだ。したがって、『精神科医とは私が君へ行ったことをする職業だ』と理解すれば誤りになる」
「うん」
「その上で、君が関心を持った部分が、恐怖の消失だけを治療の成功と見なさず、生活機能や本人の選択を回復させる過程そのものにあるなら、それは精神医学だけに限定されるものでもない。臨床心理、学校心理、犯罪被害者支援、司法、福祉、警察の被害者支援部門にも近い領域がある。警察官を志望することと、人の心理へ関心を持つことは互いに排他的ではない」
零奈はそこで一度、獅織の方を見た。
獅織は珍しく口を挟まずに聞いている。
「一方、進路として考えるなら教育課程は明確に異なる。精神科医を選ぶなら医学部へ進学し、医学全般を学び、国家試験、臨床研修を経てから専門領域を選択する必要がある。心理職なら心理学を中心に学ぶことになるが、職種と資格によって学部だけで終わるものと大学院課程を必要とするものがある。警察官なら採用試験と警察学校、その後の配属になる。時間、費用、求められる学力、実際に患者や被害者へ関与する立場は全て違う」
詩乃は黙って聞きながら、途中で一度だけ頷いた。
「そして、もう一つ区別する必要がある。君が『自分が助けられた方法を誰かへ返したい』と思っているのか、『人間の心理そのものを学びたい』と思っているのか、それとも『苦しんでいる人間が自分の生活を取り戻す過程に関わりたい』と思っているのか。この三つは似ているようで、進む先が必ずしも同じではない。前者だけなら、感謝や経験の反復が動機になっている可能性がある。二番目なら研究も選択肢に入る。三番目なら医療以外の支援職も含めて考えるべきだ」
また、止まる。
詩乃には次に来る言葉が何となく分かった。
「だから、今決める必要はないってことね」
「そう判断するなら、それでいい。君の進路だからな。私が結論を出す理由がない」
その返答だけは、ひどく簡単だった。
獅織が机へ頬杖をつきながら首を傾ける。
「でもさ、詩乃が精神科医になったら、毎日ずっと病気の人の話聞くんだろ?」
「精神科医の仕事は話を聞くだけではないが」
「姉ちゃん、それは分かってる。今、ざっくり言っただけ」
「そうか」
零奈が引くと、獅織は続きを口にした。
「悲しい話とか、怖かった話とか、ずっと聞くのって結構きつそうだな。アタシだったら、聞いた後も気になってずっと考えちゃうと思う」
「そういうのも向いてるかどうかのうちでしょ」
詩乃が答える。
「興味があるからって、そのまま仕事に出来るとは限らないし」
「じゃあ、やりたいかと、出来るかを両方見るんだ」
「そうね……で、本屋行く?」
詩乃が一度シャープペンシルを置いて聞く。
「君が情報不足を解消するつもりなら、その方法が最も早いだろう。一般向けの心理学入門書、職業案内、医学部進学についての資料まで一度に確認出来る可能性が高い。インターネット上にも同様の情報はあるが、今の君は何を詳しく調べるか自体がまだ確定していない。検索語を決めて個別に調べるより、関連分野が並んでいる場所で実際に範囲を見る方が適していると思う。近さだけなら上野にも大型書店はある御茶ノ水周辺でも医学や受験関係の資料は探せるだろう。ただ、今の君が確認したいのは医学だけではない。心理学、資格、職業案内、大学進学まで一度に比較するなら、書店と古書店が集中している神保町の方が選択肢は多い。最初の店で必要なものが見つからなくても、移動距離をほとんど増やさず別の店へ移れる点も都合がいい」
そこまで説明して、零奈は一度言葉を切った。
「もちろん、今日中にそこまで調べる必要がないなら上野で済ませてもいい。目的は本を買うことではなく、君が判断するための情報を増やすことだからな」
「……そこまで聞いたら神保町でしょ」
詩乃は少し呆れたように笑う。
「まだ私は──」
「大丈夫、分かったから」
詩乃が笑いながら立ち上がると、獅織も勢いよく身体を起こした。
「アタシも行く!」
「君は心理学の本を探す予定があるのか?」
「ないよ。でも三人で出かけるんだろ?だったら行きたい」
「獅織」
零奈が呼ぶと獅織の笑顔が少し固まった。
「……な、なに?」
「今日提出予定の課題は?」
「提出は月曜だよ」
「質問を変えよう。現在、どの程度終わっている?」
「……ちゃんとやってる」
「量を聞いている」
「昨日もやったし」
「昨日行ったことは、今日残っている量の説明にはならない」
「分かってるよ。えっと……半分よりちょっと少ないくらい」
詩乃が横から見る。
「つまり半分以上残ってるのね」
「でも帰ってからやるつもりだった!今出ても夜には戻れるし、今日の分はちゃんと終わらせられる。明日やるつもりで後回しにしてるんじゃないからな」
獅織は一気にそこまで言ってから、零奈を見た。零奈は数秒考える。
「現在時刻から神保町までの移動、書店での滞在、夕食、帰宅までを考慮しても、極端に遅くなる予定ではない。課題量について君の申告が正確なら、帰宅後に一定時間確保すれば今日予定していた分は終わるだろう。一方、外出を理由に疲労した、眠い、時間が遅いという理由で翌日へ回せば、明日以降の自由時間が減る。君は週末にオーディナル・スケールも試したいと言っていたはずだ」
「うん」
「なら、今日課題を残すことが何に影響するかは分かるな?」
「……帰ったらやる。分かってるって。ちゃんとやるから、一緒に行きたい」
「なら構わない」
「やった!」
十十十十十十十十十十
2026.04.24
東京都千代田区・神保町
神保町へ着いた頃には、午後四時を少し過ぎていた。
金曜日の夕方を迎えた靖国通りには、学校や仕事を終えた人間が少しずつ増え始めており、古書店の低い軒先に積まれた本を覗き込む学生や、紙袋を片手に駅へ向かう会社員が歩道を行き交っている。大通り沿いには新刊を扱う大型書店のガラス張りの入口がある一方、一本脇へ入れば専門書ばかりを並べた小さな店もあり、本を探すという一つの目的だけで街の一区画が成り立っているような景色は、湯島や秋葉原ともまた違って見えた。
零奈は駅を出てから一度も道を確かめるために立ち止まらなかった。オーグマーの視界上へ経路を表示しているらしく、信号へ近づけば歩行速度を僅かに落とし、交差点では人の流れを避けながら必要な方向へ曲がっていく。数日前まで所持していなかった機器を、既に長年使っていた道具のように扱っている様子を見ると、新しいものを買った時にまず説明書を閉じて適当に弄り始める類の人間とは、おそらく根本的に楽しみ方が違うのだろう。
最初に入った大型書店では、零奈が案内表示を一度確認しただけで、三人は心理学関係の棚へ向かった。
詩乃は端から背表紙を追い、比較的薄い入門書を一冊抜き取った。目次を開いてみると、臨床心理学、認知心理学、発達心理学、社会心理学、神経心理学と、同じ心理学という名前の下に予想以上の分野が並んでいる。漠然と人の心を扱う学問だとは知っていたものの、実際には対象も方法も随分細かく分かれているらしい。
「多いわね。心理学って、もっと一つのまとまった分野だと思ってた」
ページをめくりながら口にすると、隣の棚を眺めていた零奈がこちらを向いた。
「人間の心理という対象が一つだからといって、観察する現象まで一つになるわけではない。知覚、記憶、学習、感情、発達、人格、集団内での行動は互いに関係しているが、全てを同じ方法で説明することも難しい。例えば君が現在興味を持っているものを、以前話した内容から臨床領域に近いものだと仮定しても、臨床心理学だけを独立して学べば十分ということにはならないだろう。恐怖反応がどのように形成され、回避によって維持されるのかを考えるなら学習理論が関わるし、特定の刺激へ注意が偏る過程や、経験した出来事をどう記憶しているかを見るなら認知心理学とも接続する。精神医学まで範囲を広げれば、心理状態だけでなく神経系、薬理作用、睡眠、身体疾患、発達歴、生活環境まで考慮する必要がある」
まだ最初の一冊の目次しか見ていない段階で、棚一つ分の話が始まった。
詩乃は零奈の説明を聞きながら数ページ進めたところで、片手で本を閉じた。
「私、まだどの本を読むか決めてるところなんだけど」
「範囲を誤解したまま進路を選ぶよりはいいだろう」
「嫌だとは言ってないわよ。ただ、読む前から解説が始まるとは思ってなかっただけ」
詩乃がそう返すと、零奈はほんの僅かに間を置いた。それを説明を中断しろという意味には取らなかったらしい。
「なら、必要になった時に続けよう」
「そうして」
それからしばらくは、二人ともそれぞれ棚を見ることにした。
獅織も最初のうちは隣で本の背表紙を眺めていたが、臨床、認知、発達と似たような文字の並ぶ棚を十数分も見ていれば、さすがに興味が続かなかったらしい。途中から少しずつ周囲へ視線を向け始め、やがて「あっち見てくる」と一言だけ残して別の通路へ消えていった。勝手に店外へ出たり、何も言わず遠くへ行ったりするようなことはしないと分かっているため、詩乃も零奈も特に引き留めなかった。
詩乃はその後、臨床心理学の入門書を何冊か見比べていたが、先ほど零奈が並べた言葉を目次の中に見つけるたび、同じ分野について話していても見えている範囲が随分違うのだと改めて思わされた。
そう考えたところで、別の疑問が浮かぶ。
「そういえば零奈は、どうして医学だったの?」
隣の棚から一冊抜き取っていた零奈の手が止まった。
「どうして、とは?」
「さっき私には、何に興味があるのかを先に考えた方がいいって言ったでしょ。だったら零奈はどうだったのかなって。最初から医者になろうと思ってたの?」
零奈は手にした本を棚へ戻すと、少し考えるように詩乃を見た。
「職業として医師を認識する以前まで含めるなら、最初に興味を持ったのは生物の構造だ」
「ふうん……人を助けたい、じゃないのね」
「少なくとも最初ではない。その二つは排他的ではないが、私の場合は順序が逆だった。生物が何によって生命活動を維持し、個々の器官がどの機能を担い、その一部が損傷した時に全体へどう影響するのかを知りたかった。人体は部品ごとに分離して理解出来る機械ではない。例えば循環が破綻すれば、血液を送り出す機能だけの問題には留まらず、脳への酸素供給も腎血流も維持出来なくなる。腎機能が失われれば水分量や電解質、酸塩基平衡が崩れ、その結果として神経や心筋の働きまで変化する。一つの異常が別の異常を生み、それがさらに最初の臓器へ影響を返すこともある。個別の構造を理解するだけでは全体を説明出来ない。その相互依存性には、昔から興味があった」
結局、人体の話を始めればこうなるらしい。
詩乃はしばらく真面目に聞いていたものの、話が循環から腎臓へ、そこから電解質を経由して心筋にまで戻ってきたところで、思わず口元が緩んだ。
「やっぱり最初からそういう人だったのね」
「……どういう意味だ?」
「一個聞いただけなのに全部の話が返ってくる人」
「人体について局所だけ説明すれば、原因と結果を誤解する場合がある」
「分かってるって」
詩乃は笑いを残したまま手元の本へ視線を戻したが、今度はすぐにはページを開かなかった。
零奈が医学へ向かった出発点そのものは、思っていたより彼女らしい。誰かを救いたいという理想より先に、まず知りたいものがあった。だからといって今の零奈が患者を単なる研究対象として扱っているようには見えないことも、詩乃自身がよく知っている。
自分が治療を受けた時もそうだった。
零奈は銃を恐れなくなれば治療成功だとは言わなかったし、GGOで勝てば克服したことになるとも言わなかった。どうすれば以前出来なかったことが出来るようになるかだけでなく、恐怖が残ったままでも生活を狭めずに済む方法を、一つずつ詩乃と相談しながら決めていた。
そこまで考えたところで、詩乃は顔を上げた。
「じゃあ、私の時は?」
「何がだ?」
「私の治療。零奈のやり方って、少なくとも私が自分で調べてたものを、そのまま順番通りやったわけじゃなかったでしょ」
「ああ」
「それも、分からないから試してたの?」
問いかけた瞬間、零奈の表情が変わったわけではなかった。ただ、先ほどまで本棚へ向いていた意識が完全にこちらへ戻ったことだけは分かった。
「いや。その二つは分けて考える必要がある」
零奈はそう前置きすると、詩乃の手にある本へ一度視線を落としてから言葉を続けた。
「臨床で個々の患者に合わせて治療手順を調整することと、未知の効果を確認するために新しい介入を試すことは同義ではない。君の場合、恐怖刺激への反応、回避の程度、日常生活への影響、GGO内で銃器を扱えることと現実の拳銃へ反応することが一致していない点を確認した上で、既存の治療法をどう適用するかを調整した。例えば暴露を行うにしても、刺激の強度を機械的に上げ続ければいいわけではない。本人が何を恐れているのか、どの状況なら耐えられるのか、その反応が治療による一時的な負荷なのか、それとも生活全体を悪化させる負荷なのかを見なければならない。君が途中で継続を望まなければ別の方法を検討する必要もあったし、明確に害が利益を上回ると判断すれば、本人が続けると言っても止める必要がある場合もある」
詩乃は何も挟まず、その説明を聞いていた。
聞き覚えのある話でもあった。実際、零奈は治療中に何度も詩乃自身へ選ばせた一方で、何でも詩乃の希望通りにしたわけではない。無理に先へ進もうとすれば止められたこともあったし、逆に怖いというだけで避けようとした時には、それが本当に避けるべき負荷なのかを随分長く説明されたこともあった。
「研究の場合は条件がさらに変わる。新しい知識を得ること自体には価値があるが、その価値が被験者へ与える危険を自動的に上回るわけではない。本人の同意があるか、予測される利益と危険が釣り合っているか、より侵襲の少ない代替手段が存在しないか、そもそも人間を対象にしなければ得られない情報なのか。治療目的なら、その介入が患者本人へ何をもたらすのかも考えなければならない。知りたいという欲求は研究を始める理由にはなり得るが、手段を正当化する理由にはならない」
そこで零奈は一度だけ言葉を切った。
先ほどまでと同じ調子で説明していたはずなのに、次に続いた言葉だけは、不思議なくらい余分な条件が付かなかった。
「人間を対象にする以上、人道から外れる方法は、最初から選択肢に含めるべきではない」
詩乃は返事をしなかった。
内容そのものは当たり前のことに聞こえる。
医者が患者を好き勝手に実験へ使ってはいけないというだけなら、高校生の詩乃にだって分かる話だった。ただ、零奈がそれを「してはいけない」と言わず、「選択肢に含めるべきではない」と表現したことだけが、僅かに耳へ残った。
まるで何かを判断する時、最初に引く線の名前を口にしたような言い方だった。それでも、この場で問い返すほどの違和感ではなかった。
「じゃあ、私にやってたのは実験じゃなかったのね」
詩乃が今必要な一点だけを確認すると、零奈は当然のことのように頷いた。
「少なくとも、君を未知の結果を得るための対象として扱ったことはない。経過から得られた知見を今後の診療へ生かすことと、知見を得るために君を治療することは順序が違う」
「そこは分かった」
詩乃はそう答えて、ようやく手元の本を開き直した。
零奈なら「患者を助けるため」とだけ言って終えることも出来ただろうに、それをしないところも相変わらずだった。けれど、少なくとも先ほどの問いに対する答えは十分だったし、その先を聞く必要も今は感じなかった。
ちょうどその時、棚の向こうから聞き慣れた足音が近づいてきた。
「詩乃、姉ちゃん。これ見て!」
声の方を振り返ると、戻ってきた獅織が一冊の本を両手で抱えていた。心理学とは全く関係のないスポーツ科学の本で、表紙には走行中の身体を何枚にも分けて撮影した写真と、その上から関節角度や重心位置を示す線が描かれている。
「やっぱり自分の本探してたのね」
「だって、ずっと心理学の棚見ててもアタシ分かんないし。向こうにスポーツの本いっぱいあったから見てたんだよ」
獅織はそう言いながら早く中身を見せたくて仕方がないらしく、詩乃へ説明する途中ですでに本を開いていた。ページには短距離走の接地位置や踏み切り時の姿勢が図解されており、それを零奈の方へ向ける。
「ほら、走る時に足をどこへ置くとか、跳ぶ前に重心をどう動かすとか載ってるんだ。アタシ、こういうのほとんど感覚でやってるだろ? ちゃんと何してるか分かったら、もっと上手く出来るかもしれない」
そこまで言ったところで、獅織は少し考えるように本を自分の方へ戻した。
「……姉ちゃん、これ買っていい?」
「何故私に許可を求める?」
「だって読んだら試したくなるし」
獅織は隠す気もなく即答した。
「姉ちゃん、絶対その辺でやるなって言うだろ。だったら先に聞いた方が早いじゃん」
零奈は獅織の顔を見た後、差し出された本を受け取り、表紙から目次まで一通り確認した。獅織の予想を否定する様子はない。
「読むこと自体には問題ない。むしろ、自分が感覚的に行っている動作を、言語化された知識と比較することには意味がある。君は身体感覚だけでも動作を修正出来るが、それだけでは何故その動きが成功したのかを他者へ説明しにくいし、自分自身でも条件が変化した時に同じ結果を再現出来るとは限らない。重心位置、接地時間、関節の角度といった要素へ分解して理解出来れば、何を変えれば結果が変化するのかを考えやすくなる」
獅織の表情が見るからに明るくなる。
「じゃあ買う!」
「まだ終わっていない」
予想していたらしい獅織は、それでも嫌そうにはせず、零奈から本を受け取ると胸の前へ抱えた。
「その本に記載されている運動方法は、基本的に一般的な身体能力を持つ読者を想定している。書かれている反復回数や負荷をそのまま採用する必要はないし、逆に君が問題なく出来る動作だからといって、周囲の人間にとっても安全だとは限らない。特に市街地では、自分が転倒しないという条件だけで安全とは判断出来ない。歩行者は通常、周囲の人間が一定範囲の速度と方向で移動することを前提に行動している。そこから大きく外れる動きをすれば、接触しなくても避けようとした相手が転倒する可能性はあるし、手すりやベンチ、店舗設備を足場として利用すれば、自分の身体を支えられるかどうかとは別に構造物側の耐荷重も問題になる」
獅織は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。内容そのものは、零奈から何度も言われてきたことと大きく変わらないのだろう。
「要するに、遊ぶなら場所選べってことだろ?」
「それだけではない。内容も確認する必要がある」
「うん。じゃあ、やってみたいの見つけたら先に姉ちゃんに見せる。場所も一緒に決める。それならいい?」
自分なりに条件を拾い直して尋ねる獅織に、零奈はすぐに否定を返さなかった。
「少なくとも、何も確認せず試すよりはいい。自分で条件を確認する習慣がつけば、いずれ私へ聞く必要のないものも増えるだろう」
「ほんと?」
獅織はぱっと顔を上げた。
「判断出来る情報が増えれば当然そうなる」
「よし。じゃあちゃんと読む!」
本人へ向かって「成長した」とは言わないあたりまで、いかにも零奈だった。
それでも獅織には十分伝わったらしく、先ほどより大事そうに本を抱え直している。
その様子を見ていた詩乃は、ふと自分の手元へ視線を落とした。いつの間にか候補として残した本が二冊になっている。一冊は心理学全般を広く扱う入門書で、もう一冊は心理職や関連資格、進学経路についてまとめられた高校生向けの職業案内だった。
「君の方は決まったのか?」
ちょうど零奈から聞かれ、詩乃は二冊を少し持ち上げて見せた。
「とりあえずこれ。心理学の入門と、心理関係の仕事がまとまってるやつ。医学の方まで今日買うと、たぶん全部途中になるし」
「それでいい」
思ったより短い返事が返ってきたため、詩乃は一瞬だけ零奈を見る。
「もう少し比較しろって言うかと思った」
「今日の目的は、進路を確定させることではない。君は来る前より心理学の範囲を知り、臨床心理と精神医学が同じものではないことも確認した。必要な進学経路を調べるための資料も選んでいる。現時点で判断材料は増えているし、ここからさらに何冊か増やしても、一度に読める量が増えるわけではない。むしろ情報量だけを増やせば、何を比較するために読んでいるのか分からなくなる可能性がある」
零奈は詩乃の抱えている二冊を一度見てから続けた。
「読み終えた後で不足しているものが分かれば、その時に追加すればいい。少なくとも今は、買う量より実際に読む方を優先した方が、次の判断には繋がるだろう」
そこまで聞いて、詩乃は二冊を抱え直した。
「じゃあ、今日はこれでいいわね」
「ああ」
詩乃は先にレジの方向へ歩き始めた。
その後ろでは、獅織が自分のスポーツ科学の本を抱えたまま零奈の隣へ並び、早くもどのページから読むかを相談している。零奈は内容を見てから決めろと返していたが、そのまま会計へ向かうあたり、少なくとも購入そのものを止めるつもりはないらしかった。
十十十十十十十十十十
書店を出た時には、神保町の空はすでに夕方の色へ変わっていた。
四月も下旬に入り、日中は上着が邪魔に思えるほど暖かい日も増えていたが、陽が傾けばまだ春の冷たさが戻ってくる。靖国通りを挟んで向かい合う古書店や飲食店には少しずつ明かりが入り始め、昼間には店先へ積まれた本の背表紙ばかりが目についた街にも、仕事を終えた会社員や学校帰りの学生が増えていた。
詩乃は先ほど買った二冊の本が入った紙袋を片手に、店先で一度足を止めた。
結局選んだのは、心理学そのものを広く扱った入門書と、大学や資格、職種についてまとめられた進路関係の本を一冊ずつ。今日ここへ来るまで空欄だった進路希望調査の答えが決まったわけではない。それでも、警察官という以前から持っていた選択肢の隣へ、これまで輪郭さえ曖昧だったいくつかの道を並べられるようになっただけで、来た時よりは随分と考えやすくなっている。
だからといって、帰ってすぐ何かを書こうという気にもならなかった。
まだ読むべき本が二冊ある。
そう考えながら歩き出したところで、少し先へ出ていた獅織が振り返った。
「姉ちゃん、詩乃。腹減らない?」
本人にとっては、書店へ入ってから随分長い時間が経ったという感覚なのだろう。獅織はもう本より周囲の飲食店へ意識を向けており、通りに漂う匂いの出所を探すように何度か顔を動かしている。
零奈が僅かに目線を動かす。オーグマーに表示されている時刻を確認したのだろう。
「もう夕食にしていい時間だな」
「だろ?アタシ、肉がいい」
「聞く前から決まってるじゃない」
「詩乃は嫌なのか?」
「別に。お昼と同じようなのじゃなければ何でもいいわ」
そう答えた詩乃の隣で、零奈も特に異論を挟まなかった。
三人とも神保町へ来てからそれなりの時間を書店で過ごしている。目の前には飲食店がいくらでもあり、三人とも腹が減っている。それ以上の理由は必要なかった。
獅織がいくつかの看板を見比べた末、三人は大通りから少し入った場所にある洋食店へ入った。
金曜の夕方だけあって店内は混み始めていたものの、幸い待たされるほどではなく、窓際の四人掛けのテーブルに案内された。厨房からは油の弾ける音が絶え間なく聞こえ、店員が料理を運ぶたびに焼いた肉とソースの匂いが広がる。席へ着くなり獅織はメニューを大きく開き、料理の写真を上から順に眺めていった。
「これにする。あと、こっちも食べたい」
獅織が指したのは、ハンバーグのセットと鶏肉のグリルだった。
詩乃がメニュー越しに顔を上げる。
「二つ?お昼も結構食べてたわよね」
「食べたよ。でも今も腹減ってる」
あまりにも当然のこととして返され、詩乃はそれ以上何も言わなかった。
獅織の食事量については、三人で過ごすようになってから何度も目にしている。初めの頃こそ驚いたものの、今では自分より遥かに多く注文すること自体には慣れていた。
その横で零奈がメニューを閉じる。
「私はこれにしよう」
詩乃は零奈が示した料理へ目をやり、それから本人へ視線を戻した。
「ちゃんと一人前食べるのね」
「そのつもりだが」
「ならいいわ」
以前なら、そのあとにもう一言くらい付け加えていたかもしれない。
だが最近は、零奈の生活も少しずつ変わっている。三月までのように何日も姿を消すことは減り、帰ってくれば詩乃の部屋で夕食を取る日も珍しくなくなった。放っておけば食事を忘れる性質そのものが消えたわけではないものの、少なくとも詩乃や獅織と一緒にいる時にまで、研究や作業を理由に食事を後回しにすることは減っていた。
注文を終えると、獅織は水を一口飲んでから背もたれへ身体を預けた。
「でも詩乃、学校に出すやつはどうするんだ?」
「まだ決めてないわよ」
「警察って書くんじゃないの?」
「それも候補。ただ、今日見たのも読んでから考える。今すぐ一生の仕事を決めろって紙じゃないし」
「そっか」
獅織は素直に頷いた。
詩乃自身、書店へ来る前より考えが固まったわけではない。むしろ知ったことが増えたぶん、選べるものも増えている。ただ、何も知らないまま一つへ絞るより、その方がいいと思えた。
そこでふと、向かいに座る獅織へ目を向ける。
「獅織は?」
「何が?」
「そういうの。将来どうするとか、学校で聞かれたことないの?」
「アタシ?」
予想していなかったらしく、獅織は少し目を丸くした。
「将来って……仕事?」
「そう」
「……うーん」
普段なら、分からないことでもまず思ったことを口にする獅織が、その時だけはすぐに答えなかった。
ほんの数秒、テーブルの上へ視線を落とし、それから首を傾げる。
「そういうふうには、あんまり考えたことないかな」
「そういうふう?」
「何の仕事に就く、とか。そういうの」
「まだ中学生だものね」
「うん」
答えはそこで終わった。
詩乃も続きを求めなかったし、零奈も何も言わなかった。ただ、獅織はいつものようにすぐ別の話へ飛ぶこともなく、少しの間だけ自分のコップへ視線を落としていた。
やがて料理が運ばれてくると、その沈黙も自然に消えた。
テーブルの上へ三人分の皿が並び、会話も進路から今日見た本や学校のことへ移っていく。獅織は買った本の中に載っていた写真で気になったものを話し、詩乃はどうせ帰ったらすぐ読むつもりなのだろうと笑い、獅織はその前に宿題をやるつもりだと妙に力強く言い返した。
零奈は二人の話を聞きながら、特に手を止めることもなく自分の料理を食べていた。
「詩乃、それ食べない?」
しばらくして、獅織が詩乃の皿を見ながら言った。
「食べるわよ」
「ずっと残ってるから」
「最後に食べようと思ってたの」
「そっか」
「狙わないで」
「狙ってないって」
そう言いながらも獅織の視線がまだ皿の上に残っていたため、詩乃はわざとゆっくりその一切れをフォークで刺し、そのまま口へ運んだ。
「だから狙ってないって!」
獅織が不満そうに言う。
零奈は二人を一度だけ見て、そのまま水を飲んだ。
「姉ちゃんも何か言ってよ」
「何をだ」
「アタシ、狙ってなかったよな?」
「見ていたのは事実だ」
「姉ちゃんまで!」
「そこは庇えないでしょ」
詩乃が笑うと、獅織は納得がいかないという顔をしながら、自分の皿に残っていた最後の一口を食べた。
それからしばらくは、特別な話もしなかった。
獅織が学校で聞いた話をし、詩乃が適当に返し、零奈が必要なところだけ会話へ入る。食事が終わる頃には、書店で続いていた進路の話もすっかり遠くなっていた。
店を出たのは、二十時を少し過ぎた頃だった。
神保町はすっかり夜になっており、書店の中にはすでにシャッターを下ろしたところもある。昼間には本を探す人間で埋まっていた歩道も、今では駅へ向かう会社員や学生の方が多く、道路を走る車のヘッドライトが途切れることなく舗道を照らしていた。
三人はそのまま湯島まで歩いて戻ることにした。
電車を使えば早いが、急ぐ予定もない。神保町から御茶ノ水を抜けて湯島へ戻る程度なら十分歩ける距離で、詩乃も零奈も特に異論はなかった。
獅織だけは夕食を二人分近く食べた直後とは思えないほど軽い足取りで先を歩いていた。
「帰ったら宿題やるからな。ちゃんと」
「誰も聞いてないけど」
「詩乃、絶対あとで聞くだろ」
「そりゃ、獅織が忘れてたらね」
「忘れないよ……たぶん」
振り返りながら抗議した獅織だったが、前から来た人とぶつかりそうになって慌てて身体を戻す。
「前を見ろ」
「う……見てるって」
零奈に言われた獅織は一度だけ肩を小さくして、それからは素直に前を向いた。
その後ろを歩きながら、詩乃は紙袋を持ち直した。
店を出てからしばらくは、書店で考えていた進路のことがまだ頭の片隅に残っている。警察官になること。心理学を学ぶこと。あるいは医学という、今まで自分の進路として考えたことすらなかった道。そのどれも、今日一日で答えを出せるものではないが、少なくとも今は帰れば読むものがあった。
御茶ノ水へ近付くにつれて道には緩やかな高低差が増え、周囲の景色も古書店街から学生街へ変わっていった。楽器店や飲食店の明かりが並び、駅の周辺には金曜の夜らしく若者の姿が多い。耳に小型の銀色デバイス──オーグマーを装着している者も珍しくなく、視界の中にだけ存在するウインドウを操作しているのか、何もない空間へ指を動かしながら歩いている人間もいた。
オーグマーが発売されてから、そうした光景は急速に日常の一部になりつつある。
零奈もその一人だった。
もっとも、歩いている最中に視界へ出しているものは少ない。時刻と必要な通知が視野の端へ置かれている程度で、何かを詳しく確認する時には足を止めてから操作していた。
その零奈が、不意に歩みを止めた。
少し前を歩いていた獅織は数歩進んでからそれに気付き、詩乃も零奈の隣で足を止める。
「どうしたの?……あっ」
零奈は視界の端へ入った通知を開く。零奈の視界へ通知が開いたのとほぼ同時に、詩乃も耳元へ手をやった。
「オーディナル・スケールからか」
その言葉を聞きつけ、獅織がすぐに戻ってくる。
「何が来たんだ?」
「イベント告知だ。フィールドボス戦らしい」
半透明のウインドウへ、イベント情報が展開される。
開始時刻──21時。
開催場所──秋葉原UDX。
零奈が現在時刻を確認する。
20時30分。開催地が発表された時点で、開始までは30分しか残されていなかった。
「秋葉原!?」
獅織が真っ先に反応した。
「近いじゃん。姉ちゃん、これ見に行けるよな?」
零奈は現在地から開催地までの経路を確認した。
「間に合う」
「じゃあ行こう!」
答えを聞くなり、獅織は今度は詩乃へ向き直る。
「詩乃も行くだろ?」
「私はいいけど……」
詩乃は秋葉原方面へ続く道を見た。
「直前だとは私も聞いてたけど、たった30分前なのね」
周囲を見ると、同じ通知を受け取った人間は他にもいるようだった。
駅へ向かっていた何人かのオーグマーユーザーが立ち止まり、連れと何かを話したあと、それまでとは違う方向へ歩き始める。少し離れた場所でも同じような反応が起こり、中には早くも足を速めている者もいた。
通知が届いてから一分もしないうちに、御茶ノ水駅周辺を行き交う人の流れの一部が、目に見えて秋葉原側へ傾き始めていた。
詩乃はその様子を眺めてから、零奈へ顔を戻す。
「零奈はどうする?」
「行こう。ゲームとしての興味もあるが、多人数が現実空間で同時に戦う以上、攻撃判定や安全処理がどう機能しているのかは確認しておきたい」
「じゃあ、帰りに寄って行きましょうか」
行くと決まってしまえば、それ以上話し合うこともない。
もともと三人は御茶ノ水から湯島へ戻る途中だったため、予定していた帰路を東へ変えればそのまま秋葉原へ向かうことができる。開始までは三十分を切っているが、今いる場所からなら急いで走る必要もなかった。
獅織はすぐに歩く速度を上げたものの、一人だけ先へ飛び出すことはせず、何度か後ろを確認しながら進んでいた。
「走る必要はない。開始までまだ時間がある」
「でも、折角ならいい場所で見たい」
獅織もオーディナル・スケールは本格的に遊んだことはなく、今日これから始まる戦闘がどのようなものなのかも知らない。だからなのか、今は自分も参加したいというより、まず実際に見てみたいという興味の方が強いらしい。
御茶ノ水の坂を下り始める頃には、同じ方向へ向かうオーグマーユーザーが明らかに増えていた。
最初は数人ずつだった流れが、交差点を一つ越えるたびに別の道から合流し、次第に一つの人波になっていく。友人同士で誰が参加するか話している者、オーグマーのメニューを開いたまま歩いている者、ランキングの話をしている者。三十分前まで互いに別の場所で別のことをしていたはずの人間たちが、一つの通知を境に同じ場所へ集まり始めていた。
坂を下るにつれ、建物の隙間から白く明るい街並みが少しずつ現れ、その上には巨大な広告や電光掲示板の光が幾重にも重なっていた。
「あ、見えてきた!」
獅織が振り返る。
「姉ちゃん、詩乃。あっちだろ!」
段々と興奮を隠しきれなくなってきた獅織と同じように、周囲を歩く人々の速度も少しずつ上がっていた。
21時まで、あと20分ほど。
三人は増え続ける人波の中を、秋葉原へ向かって坂を下りていった。
十十十十十十十十十十
2026.04.24
東京都千代田区・外神田
秋葉原へ近付くにつれ、人の流れは歩道の幅では収まりきらないほど膨らんでいった。
駅前へ出た時には、普段から人通りの多い金曜の夜というだけでは説明できない数のオーグマーユーザーがUDX周辺へ集まり始めており、歩道の脇では友人を待っている者や、イベント開始前に装備を確認している者の姿が目についた。まだ戦闘そのものは始まっていないにもかかわらず、頭上へ何も装着していない通行人との間には、同じ場所にいながら見えているものだけが少し違うような奇妙な隔たりが生まれている。
詩乃たちは正面から人混みへ入ることを避け、そのままUDX側へ回った。
参加するつもりがない以上、戦闘区域へ近付く必要はない。UDXへ着いた三人は地上の人混みへ降りず、アキバブリッジから続く二階の屋外デッキへ回った。駅側から建物へ接続するこの高さなら、眼下の道路と広場を見渡すことができ、戦闘へ参加せず様子を見るには都合がいい。
三人はその中でも人の少ない端へ移動した。
下を見れば、戦闘へ参加するオーグマーユーザーたちが道路上へ散らばり、互いの間隔を取りながら開始を待っている。現実にはただの夜の秋葉原でしかないはずの場所へ、彼らの視界の中ではすでにオーディナルスケールの各種表示が重ねられているのだろう。頭や腕を動かすたび、何もない空間へ視線を合わせる者がいる一方で、参加していない詩乃の目には、それらの動作だけが少し不思議なものとして映っていた。
「結構いるなー」
獅織は手摺へ近付きすぎない位置で下を覗き込み、集まった人数を数えようとして途中で諦めた。
零奈はオーグマーを操作し、イベント情報を表示させる。
開始まで残り数分。
参加登録をしていないため戦闘用のインターフェースまでは表示されないものの、周囲のオーディナル・スケールプレイヤーやイベント区域そのものは認識できるらしく、視界の隅には開催中のイベント名と残り時間が浮かんでいた。
その数字が減っていくのを眺めていた獅織が、ふと下の一角を指した。
「詩乃。あれ、明日奈じゃない?」
「どこ?」
「あそこ。赤っぽい服の隣」
詩乃も手摺越しに目を凝らした。
人の間に見覚えのある顔を探すのには少し時間が掛かったが、やがて一団の中に明日奈を見つけ、その近くに和人とクライン、それに風林火山の面々らしい男たちがいることにも気付く。
「本当ね。キリトもいる」
「参加していたのか」
零奈も二人の姿を確認した。
「やっぱり折角なら参加すればよかったかな」
獅織が言ったが、詩乃は首を振った。
「もう始まるし、今挨拶してたら邪魔になるだけでしょ。終わってからでいいわよ」
「それもそうだな」
獅織はすぐに納得して、また眼下へ意識を戻した。
やがて21時を示した瞬間、周囲で一斉に電子音が鳴った。
零奈たちのオーグマーにも観戦用の簡易表示が浮かび、現実の秋葉原へ重ねられていた夜の街並みが、それまでとはまったく異なる景色へ塗り替えられていく。
舗装された道路の一部を覆うように乾いた地面が広がり、ビルの壁面には巨大な古びた構造物が重ね合わされる。現実の街灯も信号機も消えたわけではない。だが、それらへ精密に位置を合わせて異世界の風景が被せられたことで、見慣れた秋葉原の道路だけが突然別の世界へ切り取られたように見えた。
そして、その中央へ巨大な人影が現れた。
重い甲冑、異様に長い腕。人間を遥かに超える巨体に、大振りの刀を構えた武者。
頭上には赤いHPゲージとともに、その名が表示されている。
《Kagachi the Samurai Lord》。
獅織が目を見開いた。
「でっか……!」
零奈はその姿を見ながら、僅かに目を細めた。
「奴か」
「零奈、知ってるの?」
詩乃が尋ねる。
「旧アインクラッド第十層のフロアボスだ。攻略時の記録には残っている」
「姉ちゃんも戦った?」
「いや。私は交戦していない。攻略記録で見ただけで直接見るのは初めてだ」
そこで零奈は言葉を切り、眼下のボスへ視線を戻した。
巨大な武者が刀を抜いた瞬間、戦闘区域にいたプレイヤーたちが一斉に散開する。
その瞬間、戦場の上空から軽やかな歌声が響き始めた。
現実には存在しないはずの声が、UDXの壁面や周囲のビルへ反響し、広場全体へ広がっていく。続いて、戦闘区域の上空へ鮮やかな光が集まり、一人の少女の姿を形作った。
長い髪を揺らしながら、ARアイドルが歌っている。
「YUNAだ!」
獅織がすぐに気付いた。
YUNAの歌声が戦闘開始を告げるように響き渡ると、眼下にいる参加者たちの身体へ次々と光が重なり、HPゲージの近くに複数のアイコンが追加されていく。
「バフか」
「みたいね」
零奈はYUNAの姿と、参加者へ付与されていく表示を交互に見た。
「歌そのものがイベント開始の演出を兼ねているらしい。効果も同時に発生している」
歌声が広場全体へ流れ始める中、カガチが大刀を横薙ぎに振るった。
現実には何も存在しないはずの刃が数人のプレイヤーをまとめて捉え、攻撃範囲に入っていた者たちが慌てて後退する。ゲーム側で設定された衝撃まで感じているのか、斬撃を受けた者は反射的に身体を仰け反らせ、中には足をもつれさせて転ぶ者までいた。
それを見た獅織の表情から、先ほどまでの単純な興奮が少し消えた。
「あれ、ちゃんと自分で避けないと駄目なんだな」
「フルダイブではないからな。アバターへ回避動作を入力するのではなく、現実の身体そのものを攻撃範囲から移動させる必要がある」
零奈は眼下の動きを追いながら続けた。
「ただし、ボスの刀が現実の障害物を無視しているわけではないようだ。プレイヤーの立ち位置と現実空間を照合した上で、危険な方向へ回避させないよう攻撃範囲か誘導側のいずれかを調整している可能性が高い。少なくとも今のところ、人間同士が正面から衝突する場面は少ないように見える」
ボスの一撃を避けた直後、別のプレイヤーへぶつかりそうになって動きを止めた者がいる。それとは反対に、早めに周囲を見て安全な方向へ回り込んでいる者もいた。
「GGOより面倒そう」
獅織が呟く。詩乃自身も、もし自分があそこへ立つならどこを見るだろうと考えていた。
カガチの武器、肩や腰の動き、次に攻撃されるプレイヤー。
そこまではVRと変わらない。
だが同時に、足元の段差や他の参加者、現実に存在する柵や縁石まで把握しなければならない。狙撃手として遠距離から戦場を切り取ることに慣れている詩乃から見ても、処理しなければならない情報の種類が妙に多かった。
YUNAは歌い続けていた。その歌声に合わせるように、参加者たちの身体へ重なった光が脈動している。
それまで散発的に攻撃を仕掛けていた参加者たちが次第にまとまり始め、カガチの正面へ立つ者と側面へ回る者が分かれていく。特にクラインたち風林火山の動きは周囲より一段安定しており、誰かが攻撃を受ければ別の者がすぐ前へ入り、ボスの注意が逸れたところへ別方向から攻撃を加えている。
「やっぱり慣れてるな」
獅織が感心したように呟いた。
「SAOで攻略組として戦ってた人たちでしょ?」
「ああ。集団での戦闘経験は相当なものだろう」
零奈の視線は風林火山だけではなく、その周囲を動くプレイヤー全体へ向いていた。
少し離れた場所ではキリトが明らかに苦戦していた。
カガチに近付こうとして勢いよく駆け出していったは良いものの、カガチの前で思いっきり躓いて前のめりに転倒してしまっていた。幸い持ち前の反射神経でギリギリ回避したものの、その間に攻撃の機会は失われてしまった。
獅織が思わず口元を緩める。
「キリト、全然動けてないな」
「笑ったら悪いでしょ」
「だってGGOじゃあんな動きしないじゃん」
「現実だからよ」
詩乃自身も少しだけ可笑しかったが、それ以上は言わなかった。VRではシステムアシストと鍛え上げた仮想身体の感覚を存分に使えるキリトも、ここでは自分自身の肉体を使わなければならない。その差は、本人が思っている以上に大きいのかもしれない。
戦闘はその後もしばらく続いた。
参加者の数は多いものの、カガチの攻撃範囲も広く、単純に人数だけで押し切れる相手ではない。巨大な刀が道路を抉るように振り下ろされるたび、プレイヤーたちが左右へ散り、攻撃を終えた直後の僅かな隙へ何人かが同時に飛び込んでいく。
その最中、戦場の端から放たれた飛翔物がカガチへ向かった。
何らかの遠距離攻撃武器らしい。
しかし、カガチが身体を捻って回避したことで、攻撃はそのまま奥へ抜け、歌い続けているYUNAの方向へ飛んでいく。
次の瞬間、一人の男がその軌道へ割り込んだ。
それまで戦闘へ積極的に参加していなかったはずの人物が、ほとんど助走らしい助走もなく跳び、攻撃を弾き飛ばす。
周囲の参加者がどよめいた。
男の頭上に表示された数字を見て、獅織が声を上げる。
「二位!?」
オーディナル・スケールランキング《2》。
着地した男はそのまま止まらず、カガチへ向けて一気に距離を詰めた。
それまでの参加者とは、明らかに動きが違った。
一歩ごとの移動量が大きいだけではない。走り出しから最高速度へ達するまでが異様に短く、方向転換の際にも身体がほとんど流れない。カガチの刀が振り下ろされる直前まで攻撃を続け、それでも刃が到達する頃にはすでに範囲の外へ抜けている。
「すご……」
獅織が身を乗り出しかけ、すぐに自分で止まった。そのまましばらくランク2位の男の足運びを追っていたが、不意に零奈の表情へ目を向ける。
「姉ちゃん?」
零奈は答えず、数秒だけランク2位の男を見続けた。
「……妙だな」
その一言に詩乃も反応する。
「何が?」
「加速だ。単純に身体能力が高いというだけなら説明は可能だが、それにしては踏み込みの前に生じる荷重移動が小さい。特に今の方向転換は、直前の速度に対して身体の流れが少なすぎる」
詩乃は再び眼下へ目を向けた。
「オーグマーのアシストじゃないの?」
「可能性はある。ただ、オーグマーそのものには筋力を物理的に増幅する機構はない。ゲーム側が視覚表示を調整している可能性もあるし、本人が相応の訓練を積んでいる可能性も否定できない。ここから見ただけでは判断材料が足りない」
零奈はそこで考察を切った。その横で獅織はまだランク2位の男を目で追っていた。
「あれくらいならアタシも──」
「獅織」
零奈が名前を呼ぶ。
大きな声ではなかったが、獅織は途中で口を閉じた。自分が何を言いかけたのかに気付いたらしく、獅織は一度だけ頬を掻いてから、今度は声を落とした。
「……分かってる」
詩乃はそのやり取りを横で聞いていたが、単に獅織が自分の運動能力を過信しかけたのだろうと思った。
眼下では、ランク2位の男の参戦によって再び戦線が動き始めている。
先ほどまで散らばっていた参加者が彼の動きへ合わせるようになり、風林火山も再び前へ出た。クラインたちがカガチの注意を引きつけ、その横を抜けるように明日奈が距離を詰める。
ボスのHPゲージは、すでに残り僅かまで減っていた。
ランク2位の男がカガチの胴体に連撃を加え、そのまま走り抜けて距離を取る。
そして、最後の一撃を加えようと横を通り抜けた明日奈に何かを告げた──ように見えた。
人々の歓声やYUNAの歌声が重なっているため、高所にいる三人までははっきり届かない。だが、アスナが迷うことなくそのまま前へ出た動きを見れば、零奈には何が起こったのか想像できた。
「……スイッチか」
「何だそれ?」
獅織が尋ねる。
「SAOで使っていた交代の合図だ。ソードスキルの後隙をカバーするため、攻撃を継続させたまま前後を入れ替える戦法だ」
入れ替わるようにアスナが滑り込む。
カガチが体勢を戻すより早く、その身体へ細剣の一撃が突き込まれ、巨大な武者の動きが止まった。
一拍遅れて、全身へ無数の亀裂が走る。
次の瞬間、カガチの巨体は色とりどりの光片へ変わり、夜の秋葉原を埋め尽くすように弾け飛んだ。
高架デッキの上まで歓声が届いた。
「やった!」
獅織も思わず声を上げる。
眼下では参加者たちが武器を掲げ、互いに勝利を喜んでいる。戦闘区域を覆っていた異世界の風景は少しずつ薄れ、巨大な岩壁の向こうから現実のビルが透けて見えるようになっていった。
その中央へYUNAが舞い降りる。
参加者へポイントが配布されたらしく、周囲で次々と効果音が鳴り始め、そのあとYUNAはアスナのところへ向かった。
何をするのかと思って見ていると、そのままアスナの頬へ顔を寄せる。
獅織が目を丸くした。
「えっ、キスした!?」
「MVPの報酬みたいね」
詩乃は周囲の男たちが一斉に騒ぎ始めた様子を見て、少し呆れたように笑った。
「アスナ、すごい顔してる」
「本人も予想していなかったようだな」
「そりゃそうでしょ」
アスナは明らかに戸惑っていたものの、その頃にはYUNAの姿も薄れ始めていた。
イベント終了を知らせる表示が現れ、戦闘区域へ重ねられていた異世界の景色が完全に消えていく。少し前まで巨大な武者が刀を振り回していた道路には、当然ながら傷一つ残っていない。光で作られていた武器もモンスターも消え、そこに残ったのは興奮冷めやらぬ参加者と、普段と変わらない夜の秋葉原だけだった。
獅織はしばらく眼下を見たままだった。
「あれ、面白そうだな!」
「やりたい?」
詩乃が尋ねる。
「うん。見てるだけでも面白かったけど、あそこにいたらもっと分かるだろ?自分で避けて、自分で走って、それで攻撃するんだろ」
獅織は戦闘区域だった場所を指しながら続けた。
「ALOともGGOとも全然違う。ゲームなのに、動くのは本物の身体なんだな」
声音には単純な好奇心があった。
自分の身体を動かすことそのものを好む獅織にとって、VRよりオーディナル・スケールの方が性に合う部分があることは詩乃にも理解できる。
ただ、零奈はすぐに賛成も反対もしなかった。
「参加するなら、先に通常のクエストで操作体系を把握してからだな。今日は観戦しただけで、被弾時のフィードバックや戦闘区域の境界処理までは分からなかった。少なくとも初回からボス戦へ入る必要はない」
獅織は少し考え、それから頷いた。
「じゃあ普通のやつからやる。姉ちゃんも一緒にやろうよ」
「構わない」
「詩乃も!」
今度は詩乃へ話が回ってくる。
「私まで?」
「三人でやった方が面白いだろ?」
詩乃はすぐには答えず、下で和人たちと話している明日奈へ一度目を向けた。
オーディナル・スケールにはそれほど強い興味を持っていなかった。GGOで十分楽しめているし、身体を使って戦うゲームならVRとは勝手も違う。それでも今日一度見ただけで、少なくとも知らないまま興味がないと決めるほど単純なものではないことは分かった。
「まあ、暇な時ならね」
「よし!」
「まだ日時も決めてないのに喜ばないで」
「でもやるんだろ?」
「暇ならって言ったでしょ」
獅織はその条件をほとんど聞いていないような顔で笑った。
零奈は二人のやり取りを聞きながら、もう一度だけ眼下へ視線を向けた。和人たちはまだ戦闘区域の近くに残っている。
その一方で、先ほどまで中心にいたランキング二位の男の姿はすでに見当たらなかった。人が多いため、単にその中へ紛れただけかもしれない。
零奈は数秒探したものの、見つからないと分かるとそれ以上追わなかった。
「下へ行く?」
獅織が明日奈たちの方を見ながら尋ねる。
詩乃は時刻を確認した。
「今日はいいんじゃない?向こうもみんなで来てるみたいだし。それに、私たちは帰る途中だったでしょ」
「そうだった」
イベントが始まってからすっかり忘れていたらしく、獅織はようやく思い出したように笑う。
「それなら帰ろう。明日奈たちには後で連絡すればいい」
零奈の言葉にも異論はなく、三人は二階デッキを離れた。
イベント終了直後の秋葉原は、来た時以上に人が多かった。
戦闘へ参加していた者と観戦していた者が一斉に移動を始めたことで、駅に向かう流れと次の店へ行こうとする流れがぶつかり、歩道のあちこちに小さな滞留が生まれている。三人は急いでその中へ入らず、人の波が少し落ち着くまで建物沿いを歩いてから、来た時とは逆に湯島方面へ向かった。
獅織は帰り道に入ってからも、しばらく戦闘の話を止めなかった。
「カガチが刀振った時さ、右に避ける人多かっただろ?あれ、左側の方が空いてた時もあったよな。あと二位の人、途中で側転したりして避けてたからやっぱり体操選手とかなのかな?」
「よく見ていたな」
「だって気になるじゃん。アタシならどう動くかなって考えてた」
零奈が僅かに頷く。
「それなら、次に見る時は敵だけではなく参加者の動きも見ておくといい。オーディナル・スケールでは回避先も現実空間だ。衝突すればまた入院することになるが」
「うっ……分かった。じゃあ周りも見る」
獅織はそう答えたあと、一度前へ向き直ったが、数歩進んだところで今度は詩乃へ顔を向けた。
「詩乃だったら何使う?」
「オーディナル・スケールで?」
「うん。やっぱり銃?」
「当然よ。さっきも光学銃みたいな武器を使ってるプレイヤーがいたから。銃は確定ね」
「詩乃らしいなー、姉ちゃんは?」
「武器体系を閲覧してから決める」
しばらく歩くと、イベント帰りの人間も少しずつ減っていった。
秋葉原の明るい看板が背後へ遠ざかり、御徒町から湯島へ近付く頃には、通りを歩く人の数も普段の金曜夜と変わらない程度まで落ち着いている。獅織の話題もいつしかオーディナル・スケールから明日の予定へ移り、やがて夕食前に宣言していた宿題のことを思い出して、帰ったら本当にやると自分から言い始めた。
行きに神保町へ向かった時にはまだ夕方だった道を、今度は三人で夜の中を戻っていく。予定していたのは書店へ行って、そのまま夕食を取って帰るところまでだったはずなのに、その途中へ突然ボス戦が入り込み、帰宅時刻は思っていたより遅くなった。それでも翌日に響くほどではなく、明日は土曜日でもある。
詩乃は歩きながら、今日買った二冊の本が入った紙袋を持ち直した。
その動きを見た零奈が口を開く。
「今日は読むのか?」
「少しだけ。そのつもり」
「進路の方か?」
「たぶん心理学。さっき最初のところしか見られなかったし」
零奈はそれを聞いて頷いた。
「そうか」
会話はそこで一度途切れた。
以前の零奈なら、どの章から読む方がいいか、入門書の構成からどこまで理解する必要があるかと説明を続けていたかもしれない。しかし今は詩乃が自分で選んだ本であり、何から読むかも本人が決めればいい。
詩乃も零奈が何も続けないことを不思議には思わなかった。代わりに少し歩いてから、自分の方から尋ねる。
「今日、面白かった?」
零奈が詩乃を見る。
「書店か?」
「それも含めて。オーディナル・スケールも」
問いの範囲が広かったためか、零奈は少し考えた。
「面白かった」
返ってきたのは、それだけだった。
詩乃は一瞬だけ零奈を見た。
「随分簡単に言うのね」
「詳細が必要か?」
「別に。聞いただけ」
「なら、面白かった。それで十分だろう」
零奈はそう答えて前へ視線を戻す。詩乃もそれ以上は聞かなかった。
書店で話し、夕食を食べ、予定になかった場所まで歩いてボス戦を見た。何がどの程度面白かったのかを一つずつ分類してもらわなくても、本人がそう言ったならそれでよかった。
住んでいるアパートに着いた頃には、二十二時を少し回っていた。
階段を二階まで上がると、獅織は廊下へ出るなり大きく伸びをして、そのまま零奈と暮らす部屋へ向かった。
「アタシ宿題やってくる。終わったら本読むから。詩乃、おやすみ。たぶん!」
「たぶんって何よ」
「分かんないところあったら行くかもしれない」
「先に零奈に聞きなさい」
「姉ちゃんの説明、難しいんだよ。聞いたことより答えの方がずっと長いし」
「必要な範囲を説明している」
「それだって」
獅織は笑いながら扉を開けた。
「数学なら姉ちゃんに聞く。それ以外は詩乃に聞くから!」
「勝手に決めないで」
「じゃ、おやすみ!」
扉が閉まり、廊下が静かになった。
詩乃は自分の部屋の鍵を開けた。
後ろを確認することもなく扉を開けたまま中へ入り、紙袋を机の横へ置く。少し遅れて零奈の靴音が続き、背後で扉が閉まった。
それについて、どちらも何も言わなかった。
詩乃が上着を脱いでいる間に、零奈はオーグマーを机へ置き、壁際のいつもの場所へ腰を下ろす。以前なら入っていいかと尋ねたことも、詩乃が誘ったこともあったが、今では玄関からそこまでの間に必要な言葉はなくなっていた。
詩乃は買ったばかりの心理学の入門書を取り出し、ベッドへ座った。
「私、ちょっと読むから」
「ああ」
「退屈しても知らないわよ」
「問題ない」
零奈はオーグマーを起動し、先ほどの戦闘記録を開いた。
それからしばらく、会話はなかった。
詩乃は本を読み、零奈は眼前の表示を追う。壁の向こうからは獅織が椅子を動かす音が聞こえ、時折、窓の外を走る車の光がカーテン越しに天井を滑っていった。
詩乃が数ページ進んだところで、隣室から何かを落とした音が響いた。続いて獅織の「あっ」という声がする。
詩乃が本から顔を上げた。
「大丈夫?」
「物を落としただけだろう」
その直後、何事もなかったように椅子を引く音が聞こえてきた。
「……よく分かるわね」
詩乃は本を開き直し、零奈もまた記録へ戻った。
さらに時間が過ぎ、零奈がオーグマーを閉じた。
確認したかったものはもうないらしい。それでも立ち上がらず、端末を机へ置くと、そのまま壁へ背を預けている。
詩乃はページをめくりながらそれを横目で確認したが、帰るのかとは聞かなかった。代わりに、ベッドの上に置いていたクッションを取って零奈へ放る。
零奈が受け取った。
「使ったら」
「ああ」
背中へ挟む、それだけだった。
詩乃はまた本を読み始め、零奈も何をするでもなくそこにいた。
やがて一章分を読み終えたところで、詩乃は本を閉じた。時計を見ると、もう二十二時半を過ぎている。
顔を上げれば、零奈はまだ同じ場所にいた。
「零奈」
「何だ?」
詩乃は少し考えてから、ベッドの端へ寄った。それまで自分が座っていたところに、一人分の空きができる。
「こっち来たら?」
零奈は空いた場所を見る。
「いいのか?」
「今さら何聞いてるのよ」
「そうだな」
零奈はクッションを持って立ち上がり、そのまま詩乃の隣へ腰を下ろした。
マットレスが沈み、詩乃の身体も僅かにそちらへ傾く。
肩が触れたが、詩乃は座り直さなかったし、零奈も離れなかった。しばらくそのままでいると、詩乃が机の上に置かれたオーグマーへ目を向けた。
「……もう見るものないんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、何してるの?」
零奈は少しだけ考えた。
「特には」
「……そう」
詩乃はそれ以上聞かなかった。
床へ下ろしていた脚をベッドへ上げ、壁へ背中を預ける。動いた拍子に肩が先ほどより深く零奈へ触れたが、そのままにした。
「今日、面白かった?」
「ああ」
「私も」
短く答えたあと、詩乃は少しだけ頭を零奈の方へ傾けた。
完全に凭れるほどではない。けれど、髪が零奈の肩へ触れても戻さなかった。
「こんな時間も悪くないでしょ?」
零奈は一度だけ詩乃を見る。
「ああ。私もそう思う」
詩乃の動きがほんの一拍だけ止まり、零奈が軽く目線をやる。
「……何かおかしかったか?」
「別に」
詩乃は顔を上げなかった。
「私も嫌いじゃないわ」
零奈はそれ以上意味を尋ねなかった。
机の上ではオーグマーが置かれたままになっており、閉じた心理学の本の隣には、まだ手を付けていない進路の本が残されている。
詩乃の髪はまだ零奈の肩に触れていたが、零奈はやはり動くことはなかった。
オーグマーに映るものは、本当はそこにいない。
実はそれがARの本来の姿。
君に合わせて、そこにないものを映していくよ。
でもあの歌姫だけは本当にそこにいるように見える。
きっと既に、誰かの魂を映しているんだ。