2026.04.25
東京都渋谷区・代々木公園
前日の秋葉原でオーディナル・スケールのボス戦を観戦してから一日も経たないうちに、獅織は早くも見る側でいることに飽きていたらしい。
夕方に届いたイベント告知を確認した時点ではまだ夕食の途中だったというのに、食器を片付け終える頃には自分のオーグマーにオーディナル・スケールを導入し、出発前には初心者向けのクエストをいくつか済ませて最低限の操作まで覚えていた。零奈から見れば、説明も読まずに飛び出していかなかっただけ以前よりは随分ましだったが、詩乃からすれば、ボス戦へ参加したいという理由だけでそこまで短時間に準備を終えること自体が十分に獅織らしかった。
今回のイベントの開催地点として指定されたのは代々木公園だった。
開催場所が告知されてから開始までの猶予は30分と短く、三人が到着した頃には夜の公園へ既に大勢のプレイヤーが集まり始めており、普段なら街灯の光と木々の影ばかりが目立つ園路の周囲には、オーグマー越しに表示されるプレイヤーネームやランキング、イベント参加を示す半透明のアイコンが幾重にも浮かんでいる。
現実に存在する景色へ仮想の情報だけが重なっている感覚には一日で慣れるものではなかったが、昨日のように外から眺めているだけではなく、自分の手元へ武器選択のウィンドウまで表示されている分、今夜は随分とゲームらしく見えた。
シノンが選んだのは、本人が昨日の帰り道で話していた通り銃だった。
GGOで使っている対物ライフルほど巨大ではないものの、現実には存在しない近未来的な輪郭を持つ長銃身のライフルが視界の中へ形成され、実際の手には武器操作に使う棒状のコントローラーが残っている。肩へ構えて数回照準を動かしたシノンは、GGOと違って銃そのものの重量も反動も存在しないことに多少の違和感を覚えたらしいが、照準線と仮想銃口の位置を確かめ終えると、それ以上は特に文句を言わなかった。
その隣でエレーナの視界へ形成されたのは、彼女の身長と比べてもかなり長い両手剣だった。クロスガードの付いた幅の広い刃は現実の街灯とは無関係に仮想の金属光沢を返し、両手で柄を握っているように見えるものの、実際に指が触れているのはやはり棒状のコントローラーでしかない。細身のエレーナが自分の身体ほどもある大剣を持っている姿は、随分と不釣り合いに映りそうだった。
シノンも同じことを思ったらしく、自分の武器を確かめ終えるとエレーナの大剣へ目を向けた。
「ずいぶん思い切ったのを選んだわね。SAOでも両手剣なんて使ってたの?」
「使っていた。常用していたのは投剣だが、それだけではない。細剣、片手剣、両手剣も必要に応じて持ち替えていた。攻略中は必ずしも予定した人数や役割を維持できるとは限らなかったからな。前衛が不足すれば剣を持つし、装甲の厚い相手なら軽い武器へ固執する意味もない」
「投げナイフ以外も使えるとは聞いてたけど……実際に持ってるところは初めて見るわね」
シノンが改めて大剣を眺める横で、自身の武器の片手剣を確かめていたリオは別のところが気になったらしい。エレーナの周囲を半周して刀身の長さを確かめると、何やら自分で振り回すところを想像するように両手を広げた。
「なあ姉ちゃん。それ、身体ごとぐるぐる回ってプロペラみたいにしたら強そうじゃないか?近付いてきたやつ、まとめて吹っ飛ばせそうだよな」
「リオ、ゲームのしすぎだ。両手剣は回転数を上げて使用する武器ではない」
「今からゲームするんだけどな……」
真顔で返されてリオが不満そうに口を尖らせ、そのやり取りを聞いていたシノンが小さく笑った。
エレーナはそのまま両手剣を右肩近くまで引き、足の位置を少し変えた。
昨日の秋葉原では、キリトが仮想世界と同じ感覚で身体を動かそうとしてタイミングを外していたが、実際に武器を持ってみればその理由はよく分かる。SAOであれば規定の初動姿勢を取った時点でシステムがソードスキルを認識し、本人の技量だけでは再現できない速度と軌道に身体を導いてくれたが、オーディナル・スケールでは何も起こらない。構えを取ったエレーナの身体は当然ながら静止したままで、そこから先へ進むには自分の脚を踏み込み、自分の腰を回し、自分の腕で存在しない大剣を振らなければならなかった。
「それ、ソードスキル?」
シノンが尋ねると、エレーナは構えを解いた。
「初動だけだ。《カスケード》の動作を確認した。アシストが存在しない以上、同じ姿勢を取ってもソードスキルそのものにはならないが、動作の順序は覚えている。完全な自己流で振るよりは再現しやすいだろう」
「昨日はキリトが苦労してるのを随分冷静に見てたけど、今日はあんたも同じ側ね」
「同じ失敗まで再現する必要はない」
「そういうところは変わらないのね」
シノンは呆れたように言ったものの、その声には僅かな面白がりが混じっていた。
十十十十十十十十十十
開始時刻が近付くにつれて、公園へ集まったプレイヤーの数はさらに増えていった。前日の秋葉原を経験している者も少なくないらしく、イベント開始前から前衛武器を持つ者と遠距離武器を持つ者が自然に分かれ始めていた。
その中に見覚えのある赤い装備の一団を見つけたシノンは、エレーナたちへ声を掛けるまでもなく、そちらへ歩調を速めた。
中心にいたのはクラインだった。
「クライン。今日はちゃんと間に合ったのね」
「おう、シノンじゃねえか!なんだ、お前もとうとうオーディナル・スケール始めたのかよ。昨日は高いところから見物してたんだって?」
「見てたらやってみたくなったの。エレーナとリオも一緒よ」
クラインはシノンの後ろへ視線を移し、まず大剣を持ったエレーナを見て、それから隣で既に戦闘開始を待ちきれない様子のリオへ目を向けた。
ALOでも何度か顔を合わせているため完全な初対面ではなく、エレーナについてはそれより遥か以前、SAO時代から互いの存在を知っている。ただし、最前線で攻略組の一翼を担っていた《風林火山》と、はじまりの街を拠点にしていた《蒼十字救道団》とでは、活動拠点が大きく異なっていたため、直接顔を合わせる機会は少なかったが。
「いやあ、それにしても両手剣は意外だな。蒼十字の先生っていやあ、俺の中じゃ投剣の印象が強いんだが」
「それは間違っていない。ただ、投剣しか扱っていなかったわけでもない。君も私の戦闘を全て見ていたわけではないだろう」
「そりゃそうだけどよ。先生呼びはまだいいんだな?」
「今さら訂正する必要もない。好きにしろ」
クラインが楽しそうに笑い、そのまま昔話でも始めそうになったところで、全員の視界中央へ大きな数字が表示された。
十から始まったカウントダウンが一つずつ減るにつれて周囲の話し声が途切れ、各々が武器を構え始める。エレーナも両手でコントローラーを握り直し、シノンはライフルを肩へ据え、リオはいつでも飛び出せるように身体を僅かに前へ傾けた。
数字がゼロへ到達する。
直後、地面が赤く染まった。
血のような色をした薄い円が石畳の上へ広がり、すぐに何重もの模様へ変わると、その中心から赤色の光粒が激しく噴き上がった。現実の地面そのものは微動だにしていないはずなのに、視界と聴覚へ与えられる情報が精密なため、巨大な何かが本当に地下からせり上がってくるような錯覚が生まれる。
赤いエフェクトを突き破り、炎をまとった巨体が現れた。
全身を覆う装甲の隙間から火炎を噴き上げ、異様に長い武器を手にした牛のような巨人。その頭上へ表示された名称を見たエレーナは、記憶の中に残っていた攻略記録と一致させた。
《Zehghi the Flame Caller》。
「……第十一層か」
「知ってるの?」
「《ゼーギ・ザ・フレイムコーラー》。フィールドボスだ。攻略記録には残っている。私自身が討伐に参加した相手ではないが、攻撃パターンはある程度把握している」
エレーナがそう答えた直後、木々を挟んだ別方向からも大きな歓声が上がった。視界を向ければ、遠くに巨大な翼が一瞬だけ覗き、その直後には暴風を模した赤いエフェクトがより高く舞い上がっている。
《ザ・ストームグリフィン》。
本来、今夜のイベントで告知されていた主目標はそちらだった。
しかし、どちらへ向かうべきか考える時間をゼーギは与えなかった。巨体が武器を振り上げると、風林火山の面々はクラインの指示が最後まで飛ぶより早く左右へ散っていく。長く同じギルドで戦ってきただけあって互いの動きをよく理解しており、誰か一人が細かく指示しなくとも前衛と後衛が自然に役割を分けていた。
その中で、リオだけが前へ出た。
炎が地面を舐める直前、最後の一歩で攻撃範囲から身体を外す。そのまま速度を落とさずゼーギの側面へ回り込むと、手にしたコントローラーを右から左へ振り抜き、仮想の片手剣の刃が巨人の膝裏を深く薙いだ。損傷を示す光が弾ける頃には既に二撃目へ移っており、ボスが振り向けばその反対へ抜け、追い掛けるように振り下ろされた武器の軌道から身体一つ分だけ横へ外れて再び斬り込む。
「リオ、最初から飛ばしすぎ。まだ始まったばかりよ」
シノンはそう声を掛けながらも、リオが作った隙を見逃さずゼーギの肩に一発を撃ち込んだ。仮想弾が命中し、炎とは異なる白い損傷エフェクトが大きく散る。
「大丈夫だって!こいつ、思ってたより動き遅いぞ!」
「それを基準にしない方がいいわよ。たぶん普通はあんたみたいに動かないから」
シノンが呆れたように返している間に、エレーナも前へ出た。
SAOであれば両手剣を右肩へ引き上げて初動姿勢を作った時点で、ソードスキルを認識したシステムが身体を加速させていた。しかし今は何も起こらない。記憶の中に残る速度をそのまま再現しようとしても身体の動きが追いつかない以上、エレーナは速度ではなく、長い年月を経ても忘れていない動作の順序だけを利用した。
一歩を踏み込み、腰を回しながら両腕を振り下ろす。
《アバランシュ》──もちろん剣技名が表示されることも、刀身がソードスキル特有の光を纏うこともない。それでも何百回と繰り返した動作の順序まで完全に忘れたわけではなく、リオに向けて伸びていたゼーギの腕へ大剣が叩き込まれると、攻撃判定を受けた巨体が僅かに傾いた。
「姉ちゃん、普通に出来てるじゃん!」
「形を覚えているだけだ。アシストがなければ速度も威力も別物になる」
ゼーギが身体を反転させ、巨大な武器を横薙ぎに振るう。
エレーナは後方へ逃げる代わりに間合いを測り、攻撃が通過した直後へ一歩踏み込むと、今度は両手剣を身体の横へ引いた。
SAOで《サイクロン》に繋いでいた動きを思い出し、自分の脚で軸を作って身体を一回転させながら大剣を走らせ、その刃をゼーギの胴へ叩き込む。
「やっぱり姉ちゃん回ってるじゃん!プロペラみたい!」
「一回転とプロペラは同義ではない。ゲームとはいえ戦闘中に説明させるな」
今度はシノンだけでなく、近くにいたクラインまで声を上げて笑った。
そこからしばらくは、風林火山を中心として戦況が安定していった。ゼーギが炎を広げれば前衛が散り、攻撃後の隙にシノンが集中射撃を加え、その間を縫うようにリオが何度も懐へ潜り込む。エレーナも最前列へ張り付き続けるのではなく、敵の向きと味方の配置を見ながら空いた箇所へ入り、SAO時代の剣技を現実の身体でなぞるように一撃ずつ斬撃を加えていった。
やがてゼーギのHPが半分を割り、さらに三割近くまで落ちた頃、離れた場所から続いていた歓声の質が変わった。
グリフィン側だった。
空に雷のエフェクトが散り、遠くに見える巨体が地上へ降りている時間も短くなっている。シノンも射撃の合間にそちらを確認すると、ゼーギの残存HPへ目を戻した。
「向こう、少し押されてるみたいね」
「ああ。こちらは攻撃パターンが安定している。残存HPも三割を切る。風林火山だけでも十分継続できるだろう。飛行型なら君の武器はこちらより有効だ」
「なら、そっちへ行きましょ。リオも聞こえた?」
「聞こえてるよ。クライン、こっちは任せていいか?」
リオに声を掛けられたクラインは、ゼーギの攻撃を避けながら片手を大きく振った。
「おう!あとちょっとだ、こっちは俺らで片付けとく!そっちの鳥にも一発食らわせてこい!」
三人は戦闘範囲から離れ、木々の間を抜けてグリフィン側へ走り始めた。
その時点では、誰一人として後ろを振り返らなかった。
十十十十十十十十十十
《ザ・ストームグリフィン》の周囲は、ゼーギ側より遥かに混雑していた。
巨大な翼を持つグリフィンが地上すれすれまで降下するたびに何十人ものプレイヤーが一斉に武器を振るい、その直後には羽ばたきと共に発生する暴風によって人の列が崩される。中央付近ではアスナが刺剣を手に戦っており、昨日の秋葉原と同様、仮想世界で培った判断を現実の身体へ可能な限り落とし込んでいるのが遠目にも分かった。
三人が加わると、シノンはすぐに後方へ位置を取り直した。空中に逃げる相手なら近接武器より銃の方が攻撃機会を確保しやすく、翼が大きく開いた瞬間を狙って仮想弾を叩き込んでいく。一方のリオはグリフィンが地上へ降りてくるたびに他の近接プレイヤーより早く懐へ入り、攻撃判定が発生するぎりぎりまで斬撃を重ねてから、次の攻撃の予備動作とほぼ同時に外へ抜ける。
最初の数回こそ周囲のプレイヤーが驚いたように彼女を見ていたが、やがてリオが切り開いた場所へ続いて攻撃を入れる者まで現れ始める。本人はまだ余裕があるらしく、攻撃を避けるたび楽しそうに笑っていたが、少なくとも昨日まで外からオーディナル・スケールを眺めていた少女が初参加しているようには到底見えなかった。
エレーナはその二人を追うようには動かなかった。飛行型の敵を両手剣で追い回しても意味は薄く、地上へ降りた瞬間に確実に一撃を入れる方がいい。グリフィンの前脚が地面へ触れ、首がアスナたちの側へ向いた瞬間を待って両手剣を上段へ構えると、今度は先ほどより滑らかに踏み込み、記憶の中にある《カスケード》の軌道をなぞって首筋へ刃を振り下ろした。
大きな損傷エフェクトが弾ける。
SAOで使っていた本物のソードスキルとは比較にならない。それでも、仮想の身体で何百回と繰り返した動作の順序までは失われていない。そこへ現実の筋力と重心移動を合わせ直せば、完全な自己流で振るよりは遥かに形になる。
その事実を確認したところで、エレーナは攻撃後の姿勢を戻しながら何気なく後方へ顔を向けた。
先ほどまで戦っていた場所は、木々に遮られてここから直接見ることができない。
ゼーギのHPは残り三割を切っていた。風林火山なら既に討伐を終えていても不思議ではなく、戦闘音が聞こえなくなっていること自体に異常はない。歓声についても、この人数が集まったグリフィン側の音に掻き消されているだけかもしれなかった。
エレーナは数秒そちらを見た後、再びグリフィンへ視線を戻した。
だが、妙な感覚だけは残った。
理由を明確に説明できるほどの材料はない。だからこそ、まだ判断には使えない。
グリフィンが再び空に上がり、シノンがその動きを追って銃口を上げる。リオも次の着地点へ走り始めていたが、エレーナはその二人へ近付くと、次の攻撃が終わるのを待って声を掛けた。
「一度戻るぞ」
シノンがライフルを下げた。
「ゼーギの方?」
「ああ。こちらは人数が十分にいる。向こうも既に終わっているとは思うが、確認しておきたい」
シノンはエレーナの顔を少し見たものの、何を気にしたのかまで尋ねなかった。グリフィンのHPも既に大きく削れており、自分たち三人が離れたところで戦況が崩れる状態ではない。
「分かった。リオ、戻るわよ」
「え、また?……まあいいか。姉ちゃんが気になるなら行こう」
三人は来た道を引き返した。
最初の十数秒は、何もおかしくなかった。
グリフィン戦の喧騒が背後へ遠ざかり、代わりに夜の公園本来の静けさが戻ってくる。先ほどまでゼーギが暴れていた場所へ近付いても炎のエフェクトが見えないことから、少なくとも戦闘自体は既に終了しているらしい。
だからシノンも、最初は何の警戒もしていなかった。
木々の隙間から、地面へ横たわっている赤い服が見えるまでは。
「……クライン?」
歩みが止まったのは一瞬だけだった。
次の瞬間、詩乃は走っていた。
「クライン!」
先ほどまでの戦闘で保っていた距離も、周囲を確認する余裕も、その時だけは頭から抜け落ちたらしい。倒れている一人を越え、少し先に見えたクラインのところまで駆け寄ると、その傍へ膝をつく。
「クライン、聞こえる!?ちょっと、返事して!」
返事がない。
そこでようやく周囲へ目を向けた詩乃の表情から、血の気が引いた。
クラインだけではなかった。
先ほどまで一緒に笑いながら戦っていた風林火山のメンバーが、数メートルずつ離れて地面へ倒れている。ボスに敗北してゲーム上のHPを失ったというだけなら、現実の人間が揃って意識を失ったまま倒れているはずがない。
追いついた零奈は、詩乃とは別の一人へ真っ直ぐ向かった。
頸動脈へ指を当て、同時に胸郭を見る──脈はある、呼吸もある、外表から確認できる大量出血はない。
零奈が次の一人へ移ろうとした時、背後から詩乃の切迫した声が飛んだ。
「零奈、クラインが起きない!」
「詩乃、こちらを見ろ」
普段より僅かに強い零奈の声に、詩乃が顔を上げた。
「今確認した一人は呼吸も循環もある。クラインもまず呼吸を見てくれ。胸が動いているなら無理に起こすな。そのまま救急へ連絡して、複数人が倒れていると伝えろ。私が全員を見る」
何をすべきか具体的に示されたことで、詩乃の表情に判断力が戻った。
クラインの呼吸を確かめ、胸が上下しているのを見届けてから端末へ手を伸ばす。
「……分かった。五人ね?」
「今見えている範囲では五人だ。全員の確認が終われば追加で伝える」
詩乃は頷くと、すぐに救急へ電話を掛けた。
獅織も先ほどまでの楽しそうな様子を完全に消していた。零奈が二人目へ移るのを見て自分も別の一人へ向かおうとしたが、触れる直前で一度手を止める。
「姉ちゃん、アタシも見る。呼吸と反応だけでいいんだよな?」
「ああ。強く揺する必要はない。呼び掛けへの反応と呼吸を確認してくれ。異常があればすぐ私を呼べ」
「分かった」
獅織は膝をつき、倒れている風林火山のメンバーに声を掛けた。
零奈は残るメンバーを順番に確認していった。いずれも呼吸と循環は保たれているものの、身体に複数打撲があり、転倒しただけでは説明しづらい傷も混ざっている。少なくともゼーギに負けて倒れたというだけではなく、現実の身体へ何らかの外力が加わったことは間違いなかった。
最後にクラインのところへ戻る。
詩乃は救急への説明を続けながら、その傍を離れようとしなかった。
零奈が呼び掛けながら意識状態を確認すると、今度は瞼が僅かに動いた。
「……う……」
「クライン?」
電話口へ場所を伝えていた詩乃が思わずそちらへ顔を向ける。
クラインはしばらく焦点の合わない目で夜空を見ていたが、やがて自分を覗き込んでいる詩乃と零奈に気付いたらしい。
「……シノン……?先生……?」
詩乃の肩から、目に見えて力が抜けた。
「よかった……何があったのよ、あんたたち。さっきまで普通に戦ってたじゃない」
「待て。先に状態を見る」
零奈が止めると、詩乃は何か言い返しかけたものの、すぐに口を閉じた。
クラインの右腕は明らかに状態が悪かった。身体を起こそうとした瞬間、右上肢へ力が掛かって顔が大きく歪み、零奈はすぐ肩を押さえてそのまま横になるよう促した。
「起きるな。右腕も動かす必要はない」
「いや……腕、いてえんだけど……何だ、これ……」
「骨折の可能性がある。救急車は既に呼んでいる」
「マジかよ……」
苦笑しようとしたらしいが、痛みの方が強かったのか途中で表情が歪んだ。
零奈は必要以上に腕を触らず、意識状態と頭部の外傷を先に確認した。瞳孔に明らかな左右差はなく、会話も成立しているが、頭部への衝撃を受けた可能性がある以上、それだけで問題なしとは判断できない。
「何が起きたか覚えているか?」
「何って……ボス戦だろ。あの燃えてるデカブツ相手にしてて……お前ら、途中で鳥の方行ったじゃねえか」
「その後だ」
クラインは答えようとして、止まった。眉間へ皺が寄る。
「その後……?」
「無理に思い出す必要はない。覚えている範囲だけでいい」
「いや……倒した?と思うんだけどな。たぶん……」
クラインは左手で額へ触れた。
「なんか……誰かいたような……」
「知っている相手か?」
「分かんねえ。つーか……顔、見たっけな……」
言葉を探すほど、クライン自身が苛立っていく。
「くそ、駄目だ。なんか頭ぼんやりしてやがる。腕いてえし……」
「なら今はそれでいい。頭部を打った可能性もある。思い出すことより今は安静にしていろ」
零奈はそれ以上質問しなかった。
直前の記憶が曖昧であることは、それだけなら珍しい所見ではない。突然の負傷、強い疼痛、意識消失、頭部への衝撃、そのどれがあっても前後の記憶が不明瞭になることはある。ましてクライン自身が何をされたのかさえ明確に説明できない状態で、原因を決めつけるべきではなかった。
ただ、風林火山の五人が揃って負傷している。それだけは事実だった。
通報を終えた詩乃が、今度こそ零奈の隣へ戻ってくる。
「救急、もう向かってる。……他のみんなは?」
「全員、生きている。現時点では呼吸と循環も維持されている。ただし、複数の打撲がある。病院で検査が必要だ」
詩乃はそこでようやく大きく息を吐いた。
安堵したというより、それまで息を詰めていたことへ今になって気付いたような呼吸だった。
「……何なのよ、これ」
零奈も倒れている五人を見渡した。
「分からない」
その返答だけは、普段の零奈にしては珍しいほど短かった。
「少なくとも、ゲームの中だけで完結した負傷ではないだろう。あとは警察と病院が確認することになる」
詩乃は黙ってクラインを見た。
先ほどまで三人と一緒に笑っていた男が、今は地面に横たわったまま折れた腕を動かさないようにしている。その事実だけで十分だったのか、誰がやったのか、なぜやったのかといった問いを重ねることはなかった。
木々の向こうから、大きな歓声が上がった。
《ザ・ストームグリフィン》が討伐されたのだろう。夜空へ白い光が舞い上がり、ユナの歌声とイベント終了を告げる音が微かに届いてきた。
十十十十十十十十十十
救急隊が到着してからは、それまで妙に長く感じられていた時間が一転して慌ただしく流れ始めた。
公園の入口から赤色灯を反射させながら入ってきた救急隊員たちは、通報内容から複数傷病者がいることは既に伝わっていたらしく、到着した複数の救急隊は、担架と救急資器材を手にすると迷うことなく五人のもとへ散っていった。
零奈は最初に確認した意識状態と呼吸、目立った外傷の位置を順番に伝え、特に右上肢の骨折が疑われるクラインについては、本人が一度意識を失っていた可能性があることも付け加えた。それ以上は到着した救急隊へ任せ、自分は処置の邪魔にならない位置まで下がった。
獅織もそれを見てすぐに後ろへ下がったが、詩乃だけはクラインが担架へ移されるまでその場を離れなかった。
救急隊員が右腕を固定するたびに僅かに顔をしかめるクラインを見ながら、先ほどまでゼーギを相手に笑っていた姿との違いをまだ呑み込み切れていないようだった。
最後に搬送されることになったクラインが、担架を持ち上げられる直前にゆっくりと顔を動かし、傍に立っていた詩乃へ気付いた。
「シノン……」
声は弱かったが、少なくとも先ほどよりは焦点が合っていた。
「何?」
「悪いな。せっかく遊びに来たのによ……こんなんなっちまって」
詩乃は数秒黙ってクラインを見たあと、少しだけ眉を寄せた。
「そんなこと気にするくらいなら、ちゃんと診てもらってきなさい。腕折ってる人に遊びの心配までされる趣味はないから」
「相変わらず手厳しいなあ……」
クラインは口元だけで弱々しく笑った。
普段と同じ調子を出そうとしているのが分かったからか、詩乃の表情もその時だけ僅かに緩んだ。それでも、救急隊員が担架を車内へ収めて扉を閉じると、その笑みはすぐに消えた。五人を乗せた複数の救急車はそれぞれ公園を離れていき、赤い光が並木の幹と路面を交互に照らしながら、やがて街路の向こうへ見えなくなっていった。
その後に残ったのは、警察による事情聴取だった。
とはいえ、三人が説明できる範囲は限られていた。オーディナル・スケール中に、風林火山のメンバーと共に《ゼーギ・ザ・フレイムコーラー》と戦っていたこと。途中で別地点に出現した《ザ・ストームグリフィン》側の戦況を見てその場を離れたこと。戻ってきた時には既に五人全員が倒れており、襲撃そのものを目撃した者は三人の中にはいないこと。クラインは一度意識を取り戻したものの、負傷する直前について「誰かがいたような気がする」としか話せず、相手の容姿も人数も明確には答えられなかったこと。
零奈は自分が聞いた内容をそのまま伝え、それ以上の推測は加えなかった。
事情を聞いていた警察官の側からも、現時点では特殊な事件として扱っている様子はなかった。警察としても当面は、イベント会場となった公園で何者かが参加者へ暴行を加えた可能性を前提に、周辺の防犯映像や他の目撃者を確認していくという程度の説明に留まっていた。
それは妥当な見立てだった。
公園という開けた場所で、多数の人間が同じARゲームへ集中していた。その最中であれば、周囲への注意が普段より薄くなる者もいる。そこを狙った暴行や強盗、あるいはゲーム参加者同士の何らかのトラブルが起きたとしても、それ自体は不自然ではない。クラインの記憶が曖昧なのも、負傷と疼痛、意識消失、頭部への衝撃の可能性を考えれば十分に説明できる。
そう考える方が遥かに単純だった。
ただし、それだけで全てが綺麗に収まるわけでもない。
風林火山は成人男性を中心とする五人組で、つい数分前まで一人も大きな負傷なく戦闘を続けていた。それが三人が離れていた短い時間のうちに全員行動不能となり、少なくともクラインには骨折を疑うほどの外力が加わっている。他の四人にも、転倒やボス戦の動作だけでは説明しにくい打撲が複数あった。それでいて周囲から大きな騒ぎが聞こえた様子もなく、三人が戻った時には襲った者の姿もない。
少し出来過ぎている──零奈はそこまで考えたところで、それ以上を追うのを止めた。
疑問を持つことと、仮説を事実として扱うことは別だった。説明のつかない部分が残っているからといって、既に説明できる部分まで捨てる必要はない。まして、今の段階でその違和感を詩乃や獅織へ話しても、得られるものより不安を増やす方が大きい。
それに──零奈自身、自分が何を疑っているのかをまだ正確な言葉にはできていなかった。
警察が現場の確認を続けている間、獅織は珍しく大人しく零奈の隣に立っていた。先ほどまでボス戦の中を走り回っていた時の高揚はとうに消えており、救急車が去っていった方向と、地面に残された警察官たちを何度か見比べてから、小さく息を吐いた。
「……姉ちゃん。明日のイベント、どうする?」
いつもの獅織なら、新しいゲームで初日からあれだけ動けたとなれば、次の開催場所や順位の話を真っ先に始めていただろう。それをしない程度には、本人も今日起きたことを遊びの延長として片付けてはいなかった。
零奈はすぐには答えず、まだ多くの参加者が残っている公園へ視線を向けた。
今日の負傷がオーディナル・スケールそのものと関係している証拠はない。特定のイベント参加者を狙った傷害事件なのか、風林火山個人に対する恨みやトラブルなのか、偶発的に巻き込まれただけなのか、その切り分けさえ出来ていない。ましてSAOのようにゲームの機能が現実の身体へ何らかの異常を起こしたと考える材料は、現時点では一つもなかった。
ならば、取るべき対応も必要以上に大きくするべきではない。
「明日のボスイベントには参加しない。直接の原因が分からない以上、今日と同じ状況へ続けて入る必要はないだろう。ただし、通常のオーディナルスケールの利用まで止める根拠はない。警察の確認とクラインたちの検査結果が出るまでは、イベントへの参加だけ保留にする。それで十分だ」
獅織は少しだけ残念そうな顔をしたものの、それ以上食い下がることはなかった。普段なら「ボスバトルだって見るだけならいいだろ」とでも言いそうなところだったが、今日は一度地面へ視線を落としてから素直に頷いた。
「うん。アタシもそれでいい。今日みたいなのがまたあるかもしれないなら、わざわざ行くことないもんな」
「ああ。少なくとも、明日でなければならない理由はない」
隣で二人の話を聞いていた詩乃も異論はないらしく、少し遅れて頷いた。
「明日奈たちにも伝えておいた方がいいわね。今日ここで何があったかくらいは。ゲームが原因だって決まったわけじゃないけど、同じイベントに参加してるなら、不審者がいるかもしれないって知ってた方がいいでしょ」
「ああ。風林火山の五人がイベント中か、その直後に負傷、もしくは何者かから暴行を受けた可能性がある。伝えるなら、その範囲でいい」
「分かってる」
詩乃はそう返しながら端末を取り出したが、すぐには画面へ文字を打ち込まなかった。
救急車が走り去った方角をもう一度見る。
つい少し前までそこにいたクラインは、ゼーギを相手にいつも通り騒ぎ、三人がグリフィン側へ移る時にも笑って送り出していた。その男が十分もしないうちに地面へ倒れ、腕を固定されて運ばれていったという変化を、詩乃の中ではまだ完全には日常の側へ戻せていないらしい。
やがて詩乃は画面へ視線を戻し、明日奈へ短い文章を打ち始めた。
今日、代々木公園のイベントでクラインたちが負傷したこと。自分たちが戻った時には既に全員倒れていたこと。警察も現場を確認しており、何者かによる傷害事件の可能性があること。オーディナルスケール中の出来事だったので、明日以降ボスバトルに参加するなら一応気をつけてほしいこと。
それ以上のことは書かなかった。
零奈もそれ以上追加で連絡をすることはなかった。
少なくとも今夜の段階では、警察が考えている通り、公園内へ入り込んだ何者かによる暴行事件と見る方が妥当だった。
少し前まで三人の手にあった武器は、イベントの終了と共に既に消えている。
獅織が嬉々として走り回っていた戦場も、ゼーギが地面からせり上がった際に広がった赤い光も、グリフィンが巻き起こしていた暴風も、オーグマーを通して現実へ重ねられていただけのものは何一つ残っていない。
照明に照らされた夜の公園にあるのは、立入を制限するために張られたテープと、現場を行き来する警察官だけだった。
仮想の戦場が消えた後に残ったものだけが、妙に現実的だった。
十十十十十十十十十十
警察から解放された頃には、三人が公園へ来た時より随分と夜が深くなっていた。
最寄り駅へ向かう道を歩き始めても、獅織はしばらくオーディナル・スケールの話をしなかった。初参加で自分がどれだけ動けたかも、零奈が両手剣を使っていたことも、明日になれば普段なら何度でも話題へ戻しそうな材料はいくらでもあったのに、今夜だけは前を向いたまま歩いている。
詩乃もランキングを確認しようとはしなかった。明日奈からは既に短い返信が届いており、クラインたちを心配する言葉と、自分たちも気をつけるという内容が表示されていたが、それに簡単な返事を送った後は端末をしまっている。
三人の中で、零奈だけが一度立ち止まらない程度に歩調を落とし、オーグマーの履歴を開いた。
画面には、今日オーディナル・スケールを起動してからの記録が時系列に並んでいる。
イベントへの参加時刻、ゼーギとの戦闘開始、戦闘区域の移動、それからグリフィン側を離れ、元の地点へ戻るまでの時間。そこへ特殊な警告や不自然なエラーが残っているわけではなく、少なくとも端末上から読み取れる範囲では、一連の出来事は通常のゲームプレイとして処理されている。
零奈は指を止めた。
三人が風林火山から離れていた時間は、それほど長くない。
その短い間に、五人全員が倒された。
ボスとの戦闘直後だったとはいえ、五人とも成人男性で、そのうち少なくとも数人はSAO時代から戦闘への反応に慣れている。現実の喧嘩に強いこととゲーム内の経験は別物だが、誰か一人が襲われれば残る四人が何の反応も出来ないほど無防備な集団でもない。
もちろん、説明はいくらでも作れる。
複数人に襲われたのかもしれない。突然だったのかもしれない。凶器を持っていたのかもしれない。最初の一人を人質に取られた可能性さえある。
だが、それらはどれも確認されていない。
確認されている事実は、三人が離れた後という限られた時間に五人が負傷し、その場から何者かが去ったらしい、というところまでだった。
零奈は履歴を閉じた。
今は、それ以上の判断は出来ない。
その判断に反して、クラインの姿だけが妙に鮮明に残っていた。
右腕の痛みに顔を歪めながら、それでも何が起きたのかを説明しようとしていた時の表情。誰かがいたような気がすると言ったあと、知っている相手なのかと尋ねられ、答えを探すように眉間へ皺を寄せていた姿。
顔を見たのかさえ、分からない。
あれだけの怪我をした直前の出来事なのに。
前を歩いていた詩乃が、零奈の歩調が僅かに遅れたことへ気付いて振り返った。
「零奈?」
零奈は既に閉じたオーグマーの表示から顔を上げた。
「何でもない。行こう」
詩乃は一瞬だけ零奈の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。代わりに少しだけ歩調を緩め、獅織も二人が追いつくまで先へ行かなかったため、ほどなく三人の足音は再び同じくらいの間隔で夜道に重なった。
零奈はもう一度、履歴を開くことはなかった。
クラインが思い出せなかったことも、五人が短時間で倒されたことも、今はまだ警察が追っている一件の傷害事件の中に収めることができる。明日の朝になれば病院で何か分かるかもしれず、警察が犯人を見つける可能性もある。そのどちらかで説明がつくなら、今夜の違和感はそれ以上の意味を持たない。
駅へ続く交差点の信号が青へ変わり、詩乃と獅織が横断歩道へ足を踏み出した。零奈も二人に続きながら、無意識にオーグマーの縁へ触れていた指を離した。
背後では、代々木公園の木々の上にまだ警察車両の赤い光だけが断続的に瞬いていた。
オーグマーは出会った人と記憶を深く結び、
失われたものまで映し出す宿命を背負った端末だ。
まだ新しいので悪い輩に利用されてしまったりも
するが、そんな時は助けてあげてくれ。
さあキミも、オーグマーで戦場へ♪