『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
四人は霧に覆われた街を進んでいた。
先頭を獅子劫が歩き、その少し後ろを
グレイとルヴィア、アリアンナが続いている。
道を知っているアリアンナが時折足を止め、
建物や通りの形を確かめながら進む。そのおかげで、
三人だけで歩いていた時よりも迷うことはなかった。
だが、安心できるわけではない。
霧の向こうから、時折人の声が聞こえてくる。
それも一人や二人ではない。
獅子劫が手を上げると、三人は足を止めた。
遠くの通りから、複数の足音が響いている。
「……人が来る」
グレイが小さく呟いた。
獅子劫は周囲を見回し、身を隠せそうな場所を探す。
すぐ近くに、建物の壁と積まれた木箱が作る狭い陰があった。
「こっちだ」
四人は音を立てないように身を寄せた。
獅子劫が先に入り、その後ろへグレイとルヴィアが続く。
最後にアリアンナが身を滑り込ませた。
その時、彼女の衣服が木箱に触れた。
小さく、乾いた音がする。
四人が一斉に動きを止めた。
霧の向こうから聞こえていた足音も、一瞬だけ止まった。
アリアンナが息を呑む。
獅子劫は振り返り、人差し指を唇へ当てた。
アリアンナは小さく頷く。
やがて、再び足音が聞こえ始めた。
霧の中から、人影が現れる。
一人ではない。
数人の市民が、武器を手にして通りを歩いている。
誰も会話をしていない。
ただ黙々と歩き、時折周囲へ視線を向けている。
そのうちの一人が、四人の隠れている建物へ顔を向けた。
獅子劫の手がサーベルへ伸びる。
だが、抜かなかった。
隣ではグレイも身を固くしている。
ここで戦えば、アリアンナまで巻き込むことになる。
彼女を守りながら戦う余裕はない。
市民が一歩、こちらへ近づく。
アリアンナの呼吸が僅かに乱れた。
獅子劫は振り返らず、手だけで動くなと示す。
しばらくして、市民は何事もなかったように歩き始めた。
やがて足音が遠ざかっていく。
獅子劫はさらに少し待ってから、ようやく身体を起こした。
「……行くぞ」
四人は再び歩き始めた。
しばらく進んだところで、今度はアリアンナが足を止めた。
「……あら」
彼女の視線の先に、道端へ倒れている人影があった。
獅子劫が先に近づく。
「死んでるな」
グレイとルヴィアも後から続いた。
男の死体だった。
衣服は乱れ、身体にはいくつもの傷が残っている。
だが、獅子劫が見たのは傷だけではなかった。
「……なんだ、こりゃ」
男の顔を見る。
両目は、本来の形を失っていた。
瞳が溶けたように歪み、眼窩の中へ沈み込んでいる。
さらに片方の腕は、人間のものとは思えない形へ変わっていた。
皮膚は裂け、その下から太く硬い肉が盛り上がっている。
指先も長く伸び、獣の前脚を思わせる形になっていた。
グレイが息を呑む。
「……獣に、変わりかけていたのでしょうか」
「分からん」
獅子劫は死体を見下ろした。
「だが、普通の死体じゃねえな」
アリアンナは顔を背けかけたが、すぐには目を逸らせなかった。
その表情から、さっきまでの不安とは違うものが浮かんでいる。
恐怖だった。
「……こんな……」
小さな声が漏れる。
獅子劫は彼女を見る。
「見ない方がいい」
「ええ……」
アリアンナは一歩下がった。
だが、死体のそばから離れたところで、ふと足を止める。
「……この人、狩人だったのかしら」
獅子劫が死体の服装を見る。
「たぶんな」
その時、彼の目が死体の傍に置かれている物を捉えた。
「……銃か」
古びた長銃だった。
細長い銃身を持ち、木製の銃床と金属製の機構が組み合わされている。
獅子劫は拾い上げ、銃身を確認した。
「単発式だな」
撃鉄を含む機構を確かめる。
古い造りだが、手入れはされていたらしい。
完全に壊れているわけではない。
「まだ使えるかもしれねえ」
獅子劫は銃を肩へ回した。
銃床を下にして、長い革帯を背中へ斜めに掛ける。
長銃が背に収まり、両手が空いた。
続いて死体の衣服を調べる。
ポケットの中から、小さな弾薬が数発見つかった。
「弾もある」
獅子劫が手のひらへ取り出す。
グレイが覗き込んだ。
「それは……普通の弾とは違うのですか?」
「ああ」
獅子劫は一本を指先でつまんだ。
弾頭そのものは普通の銃弾に近い。
だが、内部を確認すると、火薬だけが入っているわけではなかった。
透明な部分の奥には、銀色に光る液体が入っている。
その中には赤黒い色が混じっていた。
光を受けるたび、水銀に血を溶かしたような不気味な輝きを見せる。
「……水銀か」
獅子劫が目を細める。
銃弾の中に封じられたそれは、少なくとも普通の弾薬には見えなかった。
「水銀に、血を混ぜたみてえだな」
ルヴィアも弾を見つめる。
「血を……弾丸の中へ?」
「そう見える」
獅子劫は弾を軽く傾けた。
内部の液体が僅かに揺れる。
「普通の弾とは違う。こいつは、この街の狩人が使ってる弾なのかもしれねえ」
「では、その長銃も……」
「専用かもしれんな」
獅子劫は長銃へ目を向けた。
単発式の古い銃。
それに合わせるように作られた、奇妙な弾薬。
少なくとも、この街ではこれが実用品として使われていたのだろう。
獅子劫は弾薬を慎重にしまった。
「使えるなら、持っていく」
背中の長銃を一度確認する。
「こいつもな」
アリアンナが長銃を見た。
「それ……使うつもりなの?」
「ああ。銃は弾がなきゃ役に立たねえが、弾があるなら話は別だ」
アリアンナは少し不安そうに長銃を見つめた。
先ほど見た死体と、その傍に残されていた銃。
その二つを思い出しているようだった。
「……できれば、使わずに済むといいわね」
「俺もそう思う」
獅子劫は短く答えた。
四人は再び歩き出した。
霧の中を進む。
今度は、さっきまでよりも慎重に。
遠くから聞こえる足音に注意しながら、アリアンナの案内に従って道を進んでいく。
途中、何度か人影が霧の向こうを横切った。
そのたびに四人は立ち止まり、身を隠した。
アリアンナも何も言わず、それに合わせた。
彼女自身が道を知っているからこそ、先へ進むことができる。
だが、彼女がいる以上、無理に戦うわけにはいかなかった。
やがて、霧の向こうに見覚えのある建物が浮かび上がった。
「……あれです」
アリアンナが指差した。
大きな建物。
見慣れた教会の姿だった。
「ようやくたどり着いたか」
獅子劫が呟く。
四人は足を速めた。
ようやく戻ってこられた。
そう思ったところで、獅子劫が足を止めた。
「……待て」
教会の前を見回す。
そこには、以前見た車両がない。
「ルヴィアの車がねえ」
キャンピングカーが停められていたはずの場所には、何もなかった。
グレイも周囲を見回した。
「本当です……」
「師匠たちが移動させたのでしょうか」
「その可能性はあるな」
ルヴィアもキャンピングカーがあった場所を見つめた。
「少なくとも、勝手に消えたわけではないでしょう」
その一方で、少し離れた場所には獅子劫の大型バギーが残されていた。
アリアンナがそれを見つめる。
「……あれは何なのかしら?」
「俺の車だ」
「車……?」
アリアンナは大型バギーと獅子劫を交互に見る。
「随分と変わった馬車ね」
「馬はいないがな」
獅子劫が苦笑する。
アリアンナはまだ納得していない様子だったが、それ以上は尋ねなかった。
獅子劫は教会へ目を向ける。
「とにかく、中を確認するぞ」
教会の入口へ向かう。
三人とアリアンナも続いた。
扉を開けた瞬間、外とは違う空気が流れてきた。
最初に感じたのは、匂いだった。
鼻先をくすぐる、独特の香り。
獅子劫には覚えのないものだった。
「……この匂い」
アリアンナが小さく呟く。
「獣除けの香よ」
教会の中には、香が焚かれていた。
細い煙が器から立ち上り、建物の中へゆっくりと広がっている。
外の霧とは違う。
香の煙だった。
アリアンナはその匂いを確かめるように、小さく息を吸った。
「……まだ残っていたのね」
その声には、僅かな安堵が混じっていた。
教会内は暗くなかった。
壁際や柱の近くには蝋燭が灯され、いくつものランタンも置かれている。
揺れる明かりが床や長椅子を照らし、
奥まで完全に見通せるわけではないものの、足元を確かめるには十分な明るさがあった。
そして、その明かりの向こうから物音が聞こえた。
足音。
何かを動かす音。
そして、人の声。
一人ではない。
複数の声が、教会の奥から聞こえてくる。
四人は足を止めた。
グレイが小さく息を吸う。
「……誰か、います」
獅子劫も黙って耳を澄ませる。
確かに人がいる。
しかも、一人ではない。
ルヴィアが教会の奥へ目を向ける。
その視線の先には、蝋燭とランタンの明かりが続いている。
アリアンナも三人の後ろから教会の中を見つめていた。
彼女の表情から、安堵が少しずつ消えていく。
オドン教会が避難所になっていることは知っている。
だが、そこにいる者が誰なのかまでは知らない。
獅子劫は背中の長銃へ一度手を添えた。
革帯の位置を確かめるように握り、すぐに手を離す。
サーベルにも手を掛けたが、まだ抜かない。
今のところ、声の主に敵意があるとは限らない。
グレイが一歩進む。
ルヴィアも続く。
アリアンナは少しだけ遅れて、その後ろを歩いた。
教会の奥から、また別の声が聞こえる。
何人かが話している。
その声は、蝋燭とランタンの明かりが届く奥から続いていた。
だが、そこにいる者の姿は、まだ見えない。
四人は互いに顔を見合わせると、声のする方へゆっくりと歩き出した。
オドン教会の静かな空気の中に、複数の人の声だけが響いていた。