国民的アイドルの彼女を信じられなかった僕の話 作:Notes871(かざり)
目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む光はすっかり朝のものになっていた。
篠宮律はしばらく天井を眺めていた。
昨日は、あまり眠れないと思っていた。
テレビで見た熱愛報道。
月城莉央と久我晴臣。
見覚えのあるホテル。
そして、古いスマートフォンに残していた下書き。
何週間も消せなかった文章を、自分の手で消した。
もっと何かあると思っていた。
後悔するとか。
胸が苦しくなるとか。
夜中にスマートフォンを取り出して、もう一度莉央とのメッセージを読み返すとか。
けれど、何もなかった。
普通に眠った。
そして朝になった。
「……腹減ったな」
普通に腹も減っている。
ベッドから起き上がる。
顔を洗って、冷蔵庫を開けた。
昨日ほとんど手をつけなかった弁当が入っている。
捨てるのももったいない。
電子レンジへ放り込み、適当に朝食を済ませた。
今日は三連休の最終日。
仕事もない。
予定もない。
昨日実家へ顔を出したから、母親から催促されることもないだろう。
律はソファに座った。
いつもの癖でリモコンへ手を伸ばす。
指先が止まる。
昨日、テレビから聞こえてきた名前を思い出した。
「……やめとくか」
リモコンをテーブルへ戻した。
静かな部屋。
以前なら耐えられなかった静けさにも、最近は慣れてきた。
代わりに新しいスマートフォンを手に取る。
通知が一件。
『高瀬紗季』
昨日交換したばかりの名前だった。
『今日暇?』
時刻を見る。
午前九時十三分。
「早いな……」
律は返信する。
『昨日、今度みんなで飯行こうって言ってなかった?』
既読はすぐについた。
『言った』
『じゃあ今日は違うだろ』
『みんな予定合わなかった』
『なら延期では』
『私は空いてる』
『そういう問題か?』
少し間が空く。
『律は?』
『特に予定ないけど』
『じゃあ12時駅前ね』
『まだ行くって言ってない』
『じゃあ12時半』
『なんで30分譲歩したんだよ』
『優しさ』
「意味わからん」
口ではそう言いながら、少し笑った。
最後に届いたのは、
『じゃ、12時半』
という一方的な決定だった。
律は断ろうと思えば断れた。
けれど、予定がないのは事実だった。
『わかった』
送信する。
すぐに猫が親指を立てているスタンプが返ってきた。
◇
「遅い」
「十二時二十八分だけど」
「私は十分前からいた」
「知らんがな」
駅前で待っていた紗季は、昨日とは違う黒いパーカーに長めのスカートという格好だった。
律を見るなり腕時計を指差したが、約束の時間にはまだ二分ある。
「で、他の奴は?」
「来ないよ」
「本当に二人なのか」
「だから昨日言ったじゃん。みんな予定合わなかったって」
「じゃあ別の日にすればいいだろ」
「律」
「何」
「もうここにいるのに?」
「……」
確かにその通りだった。
「何食べる?」
「切り替え早いな」
「お腹空いた」
「誘った側が決めろよ」
「じゃあラーメン」
「昨日再会したばっかの男女が二人で食うものか?」
「何食べると思ったの?」
「もうちょっとこう……」
「デートじゃないんだから」
即答だった。
「それもそうか」
「何。ちょっと残念?」
「帰るぞ」
「嘘嘘」
紗季が笑いながら隣へ並ぶ。
結局向かったのは、駅から少し離れたところにあるラーメン屋だった。
洒落た店でもない。
昔からある有名店でもない。
最近できた、ごく普通の店。
券売機の前で何を食べるか迷い。
カウンターではなく空いていたテーブル席へ座り。
注文したラーメンが来るまで、昨日の続きみたいな話をした。
ただ、それだけ。
「いただきます」
紗季はそう言うと、迷いなく麺をすすった。
律も箸を持つ。
そのとき、ふと思った。
楽だ。
別に紗季だから、というわけではない。
店へ入る前に周囲を見る必要がない。
席の位置を気にする必要もない。
誰かに顔を見られていないか確認する必要もない。
写真を撮られる可能性も考えなくていい。
食べ終わったあと、どちらが先に店を出るかなんて相談もしなくていい。
ただ二人で店に入り、二人で飯を食べる。
そんな当たり前のことを、久しくしていなかった。
「何?」
「ん?」
「こっち見てた」
「見てない」
「見てたけど」
「ぼーっとしてただけ」
「失礼だなあ」
紗季が不満そうに言って、またラーメンを食べ始める。
律も麺を口へ運んだ。
楽だと思った直後なのに。
思い出したのは莉央だった。
大学生のころは、莉央ともこんな店に来た。
向かいに座って。
どちらがチャーシューを一枚多く食べたとか。
そんなことで言い合った。
いつから、それができなくなったのだろう。
「律?」
「……何?」
「伸びるよ」
「ああ」
律は考えるのをやめた。
◇
食事を終えて店を出たあとも、すぐに解散することはなかった。
「せっかくだし、ちょっと歩かない?」
「どこまで?」
「適当に」
「一番困る回答だな」
そう言いながらも、律は紗季の隣を歩いた。
天気はよかった。
日差しはあるが、風は冷たい。
歩いているぶんにはちょうどいい。
「そういえばさ」
「ん?」
「律、東京長かったんでしょ?」
「大学からだから、まあ」
「彼女とかいなかったの?」
律の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
紗季は気づいていないらしい。
前を向いたまま歩いている。
「……いたよ」
「へえ」
短い返事。
それから、紗季がこちらを見る。
「いた?」
「いた」
「過去形?」
「……たぶん」
「何その曖昧なの」
予想通りの反応だった。
「別れたんじゃないの?」
「たぶん別れた」
「だから、その『たぶん』は何」
律は答えなかった。
紗季が横から顔を覗き込んでくる。
「何。複雑なやつ?」
「まあ」
「浮気されたとか?」
冗談めかした言葉だった。
律は黙った。
紗季の笑顔が消える。
「……え」
「たぶん」
「また、たぶん」
「本人に聞いたわけじゃないから」
「どういうこと?」
話すつもりはなかった。
けれど、不思議と口が動いた。
「男とホテル入るところ見た」
「……」
「昨日、その男との熱愛報道も出た」
紗季が完全に足を止めた。
律も数歩進んでから振り返る。
「それ……」
「だから、たぶん」
「いや、たぶんっていうか……」
さすがに紗季も言葉を選んでいるようだった。
「キツいね」
「まあな」
「大丈夫なの?」
「もうこっち来て一ヶ月近いぞ」
「時間の話じゃないでしょ」
「仕事もあるし、普通に生活してる」
「それを大丈夫って言うのかな」
「少なくとも死んではない」
「そういう極端な話してない」
再び歩き始める。
しばらく無言だった。
紗季が聞いてきた。
「長かったの?」
「何が」
「付き合ってた期間」
「大学から」
「……長いじゃん」
「まあ」
「それで、別れ話したの?」
「してない」
紗季がまた止まった。
「え?」
「何」
「別れ話、してないの?」
「してない」
「じゃあ、彼女は律が仙台にいること知ってる?」
「……知らない」
「は?」
今度は明らかに呆れた顔をされた。
「いや、何その顔」
「何その顔じゃないでしょ。何も言わずに引っ越したの?」
「そうなるな」
「そうなるな、じゃなくて」
紗季が額を押さえた。
「私、今までの話聞いて律かわいそうって思ってたんだけど」
「過去形?」
「ちょっとだけ減った」
「理不尽だろ」
「理不尽じゃない」
紗季はきっぱり言った。
「浮気したかもしれないのは向こうが悪いよ。それはそう」
「ああ」
「でも、別れるなら別れるって言いなよ」
「……」
「何も聞かないで、何も言わないで、勝手にいなくなったんでしょ?」
「ホテル入っていくの見たんだぞ」
「それとこれは別」
「別か?」
「別」
即答だった。
「私が彼女だったら普通に怒る」
「浮気した側なのに?」
「だから、それとこれは別だって」
律は何も言い返せなかった。
母親にも似たようなことを言われたばかりだ。
別れ話をしていない。
仙台へ行くことも伝えていない。
何も聞かなかった。
何も言わなかった。
「……でも、昨日報道も出たしな」
「それはまあ……そうなんだろうけど」
紗季は少し考えてから言った。
「律って昔からそういうところあるよね」
「何が?」
「嫌なことあると、一人で勝手に結論出すところ」
「昔から?」
「昔から」
「覚えてない」
「本人はそうだろうね」
「何かあったっけ」
「いっぱいあったよ」
「例えば?」
「教えない」
「なんでだよ」
「自分で思い出してください」
「無理だな」
「即答すんな」
紗季が笑った。
重くなりかけていた空気が、少しだけ軽くなる。
律も小さく笑った。
◇
気づけば、二人は昔の通学路近くまで来ていた。
「あ」
紗季が声を上げる。
「ここ覚えてる?」
「何が?」
「ほら」
紗季が道路脇を指差した。
そこには小さな公園がある。
遊具は新しくなっているが、場所そのものは昔から変わっていない。
「公園?」
「高校二年のとき」
「高校二年?」
「雨の日」
「……」
「覚えてないでしょ」
「まったく」
「だと思った」
紗季が呆れたように笑った。
「あの日、急に雨降ったの」
「ああ」
「覚えてないくせに相槌打たないで」
「話を促してる」
「はいはい」
紗季は公園を見ながら続ける。
「私、傘持ってなくて。ここで雨宿りしてたんだよね」
「へえ」
「そしたら律が来て」
「俺が?」
「傘貸してくれた」
「俺はどうしたんだよ」
「走って帰った」
「馬鹿じゃん」
「自分の話だからね?」
「全然覚えてない」
「知ってる」
紗季は笑っていた。
けれど、その横顔はどこか懐かしそうだった。
「次の日返したら、『何これ』って言ったし」
「それは酷いな」
「自分だからね?」
「昔の俺に言ってくれ」
「昔の律もこんな感じだったよ」
律は公園を見る。
何も思い出せない。
雨の日。
傘。
紗季。
どれだけ記憶を探っても、引っかかるものがなかった。
「悪いな」
「別に謝ってほしいわけじゃないよ」
「じゃあ何で覚えてるんだ?」
何気なく聞いた。
紗季が一瞬黙った。
「……さあ」
「何だよ」
「覚えてるものは覚えてるの」
「変なの」
「うるさい」
紗季は少しだけ歩く速度を上げた。
律は気にせず、その後を追った。
◇
夕方。
二人は駅前まで戻ってきた。
「結構歩いたな」
「明日筋肉痛になったらどうしよう」
「何歳だよ」
「律と同い年」
「じゃあ俺もなるじゃん」
「おじさん二人だ」
「勝手に巻き込むな」
紗季が笑う。
そして、改札の手前で立ち止まった。
「じゃあ、私こっちだから」
「ああ」
「今日はありがと」
「誘ったのそっちだろ」
「付き合ってくれてありがとうって意味」
「どういたしまして」
紗季が数歩歩く。
そして何かを思い出したように振り返った。
「律」
「ん?」
呼ばれて、少しだけ違和感があった。
「何で急に名前?」
「昔そう呼んでたでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「覚えてない」
「本当に何も覚えてないね」
紗季は呆れながらも笑っていた。
「じゃあまたね、律」
「ああ。また」
紗季が背を向ける。
人の流れに紛れていく背中を、律は少しだけ見送った。
久しぶりに聞いたはずの呼ばれ方。
なのに、不思議と耳に馴染んだ。
◇
帰宅したころには、空は暗くなっていた。
靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーへ掛ける。
ソファに腰を下ろしたところで、スマートフォンが震えた。
『高瀬紗季』
『今日はありがと! また行こう』
その下には、昼間と同じ猫のスタンプ。
「猫好きなのか?」
誰に聞くでもなく呟く。
『こちらこそ。またな』
送信。
すぐに既読がついた。
少しして、またスタンプが返ってくる。
律は画面を閉じようとした。
その瞬間。
ニュースアプリから通知が表示された。
『月城莉央、久我晴臣との熱愛報道について――』
指が止まる。
昨日なら。
あるいは、一ヶ月前なら。
迷わず開いていたかもしれない。
本人が何を言ったのか。
事務所が何を発表したのか。
あのホテルについて何か説明したのか。
知りたいと思ったはずだ。
律は数秒、通知を見つめた。
それから。
横へ払った。
通知が消える。
ニュースは開かなかった。
スマートフォンをテーブルへ置く。
今日は久しぶりによく歩いた。
昔の話もたくさんした。
知らない店も増えていた。
懐かしい人にも会った。
仙台での生活は、少しずつ律の日常になっていた。
東京にいたころとは違う日常。
莉央がいない日常。
それでも、時間は進んでいく。
そしてその日。
律の新しいスマートフォンに残った最後の通知は、月城莉央ではなく。
『またね、律』
高瀬紗季から届いた、そんな短い言葉だった。
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