鏡に映っていたのは黒い装束と、紫に光る仮面。
どうやら俺は――あの「黎明卿」ボンドルドになってしまったらしい。
原作の未来を知る俺は、この立場を利用して少しでも結末を変えようとする。
けれど、イドフロントで過ごすうちに、少しずつ奇妙な違和感が増えていく。
果たして、本当にこれはただの「憑依」なのだろうか。
目を覚ましたとき、最初に見えたのは自分の顔だった。
正確には、鏡に映った仮面だった。
黒い外套。金属質の装甲。顔を覆う巨大な仮面。その中心に、紫色の光が薄く灯っている。
見間違えるはずがない。
俺は数秒間、鏡を見つめた。
それからもう一度目を閉じた。
十秒数える。
目を開ける。
いる。
相変わらず、あいつがいる。
「…………は?」
口から出た声は、俺が知っている自分の声ではなかった。
低く、穏やかで、妙に響く。
その瞬間、背筋が凍った。
鏡へ駆け寄る。
重い。
身体が重いというより、着込んでいる装備が異常に重い。
両手を鏡についた。
黒い手袋。
腕。
肩。
仮面。
「いやいやいやいやいや」
首を振る。
鏡の中の男も首を振る。
「待て」
仮面に触れる。
「待ってくれ」
指先に金属の硬い感触。
「嘘だろ」
心臓の鼓動だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれていた。
俺は、この姿を知っている。
知りたくもないくらい知っている。
漫画を読んだ。
アニメも見た。
友達と何度も話した。
好きなキャラクターを聞かれて、こいつだけは絶対に挙げなかった。
嫌いというより――怖かった。
善悪という秤がまるで通用しない。
愛を語りながら人を壊す。
未来を語りながら子供を使い潰す。
狂っていると言えば簡単だが、あいつは狂っているわけではない。
狂っていないからこそ怖い。
自分が何をしているのか完全に理解した上で、それを必要な行為だと思っている。
黎明卿。
新しきボンドルド。
「……最悪だ」
俺は鏡の前で頭を抱えた。
よりによって。
よりによって、こいつか。
転生とか憑依とかいうものが本当にあるとして、他にいくらでもいただろ。
リコ。
レグ。
ナナチ。
オースの一般人。
孤児院のモブ。
なんなら原生生物でもいい。
なんでボンドルドなんだ。
俺がそんなことを考えていると、背後の扉が静かに開いた。
「ボンドルド様」
身体が跳ねた。
振り返る。
黒い装束に身を包んだ男が一人、入口に立っている。
仮面。
祈手。
その単語が頭に浮かぶより先に、別の何かが理解していた。
――ゲラズ。
名前が、自然に出てきた。
知らない。
いや、知っている。
どっちだ?
「お目覚めでしたか」
「あ、ああ」
反射的に答えてしまった。
祈手――ゲラズは微かに首を傾ける。
「何か問題でも?」
「いや」
俺は咳払いした。
「問題ありません」
自分で言って、ぞっとした。
語尾が自然に変わった。
こいつっぽい。
今の言い方。
俺じゃない。
「本日の第五試験ですが、予定通り行いますか」
第五試験。
何だそれ。
分からない。
だが、頭の奥を探ると、奇妙な感覚があった。
記憶を思い出すというより、本棚から必要な本を抜き出すような感覚。
被験者。
上昇負荷。
深界六層由来の生物組織。
薬剤。
子供。
「中止です」
即答した。
ゲラズが止まった。
「……中止、ですか」
「ええ」
「理由をお伺いしても?」
「必要性がありません」
俺は胸の内側で冷や汗をかいていた。
必要性がないかどうかなんて知らない。
でも子供を使うなら中止だ。
全部止める。
俺がこいつの身体にいる間は、絶対に。
「承知しました」
ゲラズはあっさり頭を下げた。
あまりにも素直だった。
「他の実験も?」
「……他?」
「本日予定されている三件です」
三件。
俺は沈黙した。
もう一度、頭の奥に触れる。
浮かんだ情報に吐き気がした。
「全部です」
「すべて中止で?」
「ええ」
「承知しました」
ゲラズは何も言わず去っていった。
扉が閉じる。
俺はその場に座り込んだ。
勝った。
何に勝ったのか分からないが、とりあえず今日は誰も実験台にならない。
その事実だけで少し安心した。
そして次の瞬間、最も重要なことを思い出した。
「……プルシュカ」
立ち上がった。
時系列。
今はいつだ。
リコたちはもう来たのか。
プルシュカは。
カートリッジは。
間に合うのか。
俺は部屋を飛び出した。
*
イドフロントの構造を、俺は知らないはずだった。
漫画に出てきた部分しか知らない。
なのに足は迷わなかった。
廊下を右。
階段を下りる。
縦穴を囲む回廊を進む。
三つ目の扉。
身体が勝手に知っている。
気持ち悪い。
だが今はありがたかった。
扉を開く。
「プルシュカ!」
「ひゃっ!?」
少女が飛び上がった。
長い髪。
幼い顔。
ベッドの上で、小さな生き物を抱えている。
メイニャ。
間に合った。
生きている。
普通の身体で。
俺は全身から力が抜けるのを感じた。
「パパ?」
「…………」
パパ。
そう呼ばれる。
分かっていたはずなのに、想像以上の破壊力だった。
プルシュカがベッドから降りる。
「どうしたの?」
「いや、その」
何と言えばいい。
本人を前にすると言葉が出ない。
この子が何をされるのか知っている。
少なくとも、俺が知っている原作では。
愛されている。
間違いなく愛されている。
それなのに、その愛の帰結があれなのだ。
「体調は?」
「え?」
「体調です。どこか痛いところは?」
「ないよ?」
「気分が悪いとか」
「ない」
「食欲は」
「ある!」
元気に答える。
俺は頷いた。
「なら良かった」
プルシュカがじっと俺を見る。
「パパ」
「はい」
「今日、変」
やっぱりか。
「そうでしょうか」
「うん」
彼女は俺の周りを一周した。
「歩き方も変だし、さっき走ってた」
「私は走らないのですか」
「走るけど、あんな感じじゃない」
「なるほど」
「あと」
プルシュカが仮面を覗き込む。
「なんか、慌ててる」
子供は鋭い。
「少し考え事をしていました」
「研究?」
「……まあ、そんなところです」
嘘ではない。
人生をどうするかという研究だ。
「今日、実験ないの?」
「ありません」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ遊べる?」
俺は詰まった。
ボンドルドとプルシュカは普段どう過ごしていた?
知らない。
俺の中の知識を探る。
研究。
食事。
観察。
会話。
誕生日。
断片的な映像が浮かぶ。
プルシュカが笑っている。
ボンドルドが見ている。
その視線に――。
温度がある。
俺は思考を止めた。
「もちろんです」
そう答えた。
プルシュカの顔が輝いた。
「やった!」
その日の午後、俺はメイニャに顔面を踏まれた。
*
三日経った。
俺は少しずつ、この状況に慣れ始めていた。
いや、慣れていいのかは分からない。
ただ、生きるためには適応するしかない。
幸い、ボンドルドの知識はある程度使えた。
遺物。
薬学。
アビスの生態。
イドフロントの設備。
祈手たち。
必要なことを考えると、答えが頭のどこかから出てくる。
恐ろしいほど便利だった。
知識チート。
転生ものなら喜ぶところだ。
ただし、その本棚には絶対に開きたくない本も大量にある。
実験記録。
解剖。
被験者。
カートリッジ。
俺はそれらを可能な限り見ないことにした。
そして、予定されていた人体実験はすべて凍結した。
最初は祈手たちに反対されると思った。
だが誰も反対しなかった。
「中止です」
「承知しました」
「この計画も破棄してください」
「かしこまりました」
「被験者は地上へ帰します」
「手配します」
あまりにも簡単だった。
拍子抜けするほど。
俺はボンドルドという男の権力を改めて思い知った。
誰も止められなかったのではない。
そもそも、止める者がいなかったのだ。
なら俺が止めればいい。
それだけのことだった。
プルシュカについては、最優先で計画を変更した。
カートリッジ関連の資料を封印。
彼女の身体情報を利用した研究を中止。
代替手段を探す。
俺はアビスの専門家ではない。
でもボンドルドの頭脳はある。
それを使えば、犠牲を出さずに何かできるかもしれない。
そう思っていた。
「最近のパパ、優しいね」
夕食中、プルシュカが言った。
俺の手が止まった。
「以前は優しくなかったですか」
「優しかったよ」
彼女は首を傾げる。
「でも、なんか違う」
「どのように?」
「んー」
メイニャに食べ物を分けながら考える。
「前のパパは、私が転んでも見てた」
「……見ていた」
「うん。で、自分で立てたら褒めてくれた」
「なるほど」
「今のパパはすぐ来る」
俺は黙った。
「嫌ですか」
「ううん」
プルシュカは笑った。
「どっちも好き」
胸が痛んだ。
どっちも。
俺はボンドルドじゃない。
心の中で繰り返す。
この子の父親じゃない。
姿を借りているだけだ。
だからこそ、守る。
少なくとも、知っている未来にはさせない。
「プルシュカ」
「なに?」
「もし地上へ行けるとしたら、行きたいですか」
彼女の目が丸くなった。
「地上?」
「ええ」
「パパも一緒?」
「……私は」
言葉に詰まる。
この身体が地上へ行けるのか。
そもそもゾアホリックはどうなる。
いや。
そんなことより。
「一緒なら行きたい!」
プルシュカは即答した。
「でも、パパは行かないでしょ?」
「なぜそう思うのです」
「だってパパ、アビス大好きだもん」
俺は笑えなかった。
正しい。
ボンドルドなら、そうだろう。
俺は違う。
そう思った。
*
五日目。
異変に気づいた。
研究室で書類を整理している時だった。
古い記録の中に、一つだけ見覚えのないファイルがあった。
見覚えがないこと自体がおかしい。
イドフロント内の資料は、題名を見れば大体内容が分かる。
ボンドルドの知識がそうさせる。
だが、そのファイルだけは何も浮かばなかった。
表紙には番号だけ。
BD-0。
嫌な予感がした。
開く。
一枚目。
実験概要。
俺は読んだ。
そして閉じた。
「……何だこれ」
もう一度開く。
文字は変わっていない。
実験名称。
外部人格定着試験。
目的。
異質な倫理観を持つ人格構造を疑似生成し、精神隷属機を介して主観系へ導入。その意思決定と既存人格への影響を観察する。
俺の手が震えた。
「精神……隷属機」
ゾアホリック。
読み進める。
人格モデル構築。
既存記録から、未知世界を想定した文化情報を作成。
対象人格には「自身が別世界の人間である」という自己認識を付与。
対象世界に関する物語知識として、当世界の人物・出来事を第三者視点から再構成。
……。
文字が頭に入らなくなった。
「違う」
口から言葉が漏れた。
ページをめくる。
記憶。
家族。
学校。
電子端末。
漫画。
アニメ。
友人。
俺の人生。
「違う」
全部、書いてある。
いや。
細部は違う。
名前はない。
でも構造が同じだ。
俺の記憶の構造。
現代日本。
メイドインアビスという作品。
ボンドルドというキャラクターへの嫌悪。
プルシュカの未来。
「違う」
声が大きくなる。
「俺は……」
俺は誰だ。
思い出せ。
母親。
顔は?
浮かばない。
父親。
仕事は?
知らない。
学校。
名前は?
出ない。
友達。
一緒にメイドインアビスについて話した。
誰と?
名前。
名前は。
「…………」
一人も出ない。
住所。
電話番号。
誕生日。
俺の名前。
俺は。
「俺の名前……」
思い出せない。
今まで気づかなかった。
なぜ?
ボンドルドになった混乱で考えなかった。
自分が誰だったか。
名前すら。
ただ「現代人だった」という確信だけがあった。
ファイルの最後のページ。
実験開始予定日。
五日前。
俺が目覚めた日。
「……嘘だ」
椅子から立ち上がる。
机を倒した。
金属音が研究室に響く。
「嘘だ!」
扉が開く。
「ボンドルド様?」
祈手が入ってきた。
「出ていけ!」
叫んだ。
祈手は一瞬止まり、頭を下げた。
「承知しました」
「待て!」
自分でも何をしたいのか分からなかった。
祈手が振り返る。
「これを知っているか」
ファイルを突きつける。
祈手は表紙を見る。
「はい」
あっさり。
「……はい?」
「存じております」
「誰が作った」
「ボンドルド様です」
「誰だ」
俺は一歩近づいた。
「どのボンドルドだ」
祈手が沈黙する。
その間が答えだった。
「どこにいる」
「…………」
「答えろ!」
俺は祈手の胸倉を掴んだ。
「本物はどこにいる!」
祈手は抵抗しない。
静かに俺を見ている。
仮面の奥の顔は見えない。
「第九観測室です」
俺は手を離した。
走った。
*
第九観測室はイドフロントの最奥に近い場所にあった。
俺の記憶には存在しない部屋。
いや、違う。
俺に与えられた知識から意図的に抜かれていた。
扉の前に立つ。
手を置く。
開く。
暗い。
中央に、一人。
黒い外套。
長い仮面。
紫の光。
俺と同じ姿。
その男が、ゆっくり振り返った。
「おや」
声。
俺と同じ声。
「予定より早かったですね」
頭の中が真っ白になった。
「……ボンドルド」
「ええ」
男は嬉しそうに両手を広げた。
「初めまして、と言うべきでしょうか」
「ふざけるな」
「ふざけてはいませんよ」
「俺を何だと思ってる」
声が震える。
「俺は誰だ」
ボンドルドは少し首を傾げた。
「あなたです」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
「では、どのような答えをお望みで?」
「俺は……別の世界から来たんじゃないのか」
「いいえ」
即答。
胸を刺されたような感覚。
「俺の記憶は」
「作られたものです」
「家族は」
「存在しません」
「学校は」
「存在しません」
「友達は」
「存在しません」
淡々と。
何の悪意もなく。
「メイドインアビスは」
「あなたがこの世界を俯瞰的に理解するために構築した物語体系です」
「お前が作ったのか」
「私たちが、ですね」
「私たち……?」
「ゾアホリックには、多くの記憶が蓄積されています。探窟家。子供。研究者。犯罪者。祈手。様々な人間の経験から、あなたの世界を組み上げました」
俺は壁に手をついた。
立っていられない。
「じゃあ……俺は」
「私です」
その言葉で顔を上げた。
「違う」
「より正確には、私を素材として生まれた、新しい人格です」
「違う!」
「ええ」
ボンドルドが頷いた。
「違います」
予想していなかった返答。
「……何?」
「あなたは私とは異なる」
「だったら」
「だからこそ価値がある」
ボンドルドが近づいてくる。
俺は一歩下がった。
「人間の判断は、経験に強く依存します。では、もし私自身に、私とはまったく異なる経験と倫理体系を持つ人格を形成したなら」
「やめろ」
「その人格は、私と同じ知識、同じ身体、同じ環境を与えられた時」
「黙れ」
「どのような選択をするのでしょう」
「黙れ!」
俺は殴った。
拳が仮面に当たる。
硬い音。
ボンドルドは避けなかった。
「素晴らしい」
「何がだよ!」
「私は、怒りによって私を殴ったことがありません」
「当たり前だ!」
「非常に興味深い」
「俺は実験動物じゃない!」
「その通りです」
「……は?」
「あなたは人間です」
俺は言葉を失った。
「少なくとも私は、そう扱っています」
「作ったくせに」
「生まれ方が人格の価値を決めるのでしょうか」
「……」
「肉体から自然に発生した人格だけが人間であり、遺物によって形成された人格は偽物だと?」
「それは」
「あなたの怒りは偽物ですか」
言葉が止まる。
「プルシュカを守りたいと思った気持ちは?」
胸が締め付けられる。
「彼女と過ごして楽しかった記憶は?」
「黙れ」
「それらが人工的な人格から生まれた感情だからといって、存在しなかったことになりますか」
「黙れ」
声が弱くなった。
ボンドルドは俺の前に立つ。
「私はそうは思いません」
「……何が目的だった」
「申し上げた通りですよ」
「プルシュカを使って?」
「ええ」
俺の中で何かが切れた。
再び拳を握る。
「やっぱりお前は」
「誤解がありますね」
「何が!」
「あなたが変更した計画を、私は一つも元に戻していません」
拳が止まった。
「……何?」
「第五試験は中止。対象者は既に地上へ移送されています。他の実験についても同様です」
「プルシュカは」
「彼女のカートリッジ化計画は破棄されました」
「……嘘だ」
「確認しますか?」
俺はボンドルドを見る。
何を考えているのか。
まったく読めない。
「なぜ」
「なぜとは?」
「どうして止めない」
「あなたの選択だからです」
「俺はお前の研究を潰してるんだぞ」
「ええ」
「何年もかけた研究を」
「ええ」
「プルシュカも使えなくした」
「はい」
「なのに何で」
ボンドルドは少しだけ首を傾けた。
「それが実験ですから」
寒気。
「あなたに自由を与えず、私の望む選択だけをさせたところで、何が分かるのでしょう」
「……」
「私は、私とは異なる私が何を選ぶか知りたい」
「狂ってる」
「よく言われます」
初めて少しだけ、人間らしい冗談に聞こえた。
それが余計に怖かった。
「そして」
ボンドルドは続ける。
「興味深い結果が得られました」
「何だよ」
「あなたは私と同じ記憶を持ちながら、プルシュカを守ることを選んだ」
「当たり前だ」
「私も彼女を愛しています」
吐き気がした。
「それを愛って言うな」
「では、あなたの愛と私の愛は何が違うのでしょう」
「違うに決まってる!」
「結果でしょうか」
「そうだ!」
「ならば、感情とは行為によって定義される?」
「……」
「興味深い」
「研究するな」
「すみません。癖で」
こいつ。
本当に。
殴りたい。
でも同時に、俺は気づいてしまった。
俺は、この男の問いに答えられない。
ボンドルドがプルシュカを愛していなかったとは言い切れない。
愛していた。
だからこそ最悪なのだ。
「俺を消すのか」
俺は聞いた。
ボンドルドは首を傾げる。
「なぜ?」
「実験は終わったんだろ」
「まだ始まったばかりですよ」
「……」
「あなたはこれから何をするのです?」
俺は答えられなかった。
何をする。
俺は別世界の人間ではなかった。
帰る場所もない。
家族もいない。
名前もない。
俺自身だと思っていた過去は全部偽物。
じゃあ。
これから。
「プルシュカを」
口から出た。
「はい」
「守る」
ボンドルドが沈黙した。
「俺は……あの子を、お前みたいな方法では愛さない」
「素晴らしい」
「褒めるな」
「では、あなたの方法を見せてください」
俺は拳を握った。
「俺はお前じゃない」
「ええ」
「絶対に」
「もちろんです」
その返答が、なぜか一番腹立たしかった。
*
その夜。
プルシュカの部屋へ行った。
彼女は眠っていた。
メイニャが枕元で丸くなっている。
静かな寝息。
俺はベッドの横に座った。
仮面を外そうとして、やめた。
どうせ顔も俺の顔ではない。
俺の顔って何だったんだろう。
思い出そうとして。
笑った。
最初からなかった。
「パパ?」
プルシュカが目を開けた。
「起こしましたか」
「ううん」
目をこする。
「どうしたの?」
「少し、顔を見たくなりまして」
「変なパパ」
「そうですね」
「今日も変だった」
「……そうですか」
「泣いてる?」
心臓が止まりそうになった。
「泣いていませんよ」
「でも、そんな感じする」
仮面なのに。
どうして分かる。
プルシュカが手を伸ばす。
俺の手を握る。
「大丈夫?」
何が。
俺は誰でもない。
偽物。
実験で生まれた人格。
世界に五日しか存在していない。
でも。
この手の温かさは本物だった。
「大丈夫です」
今度は少しだけ、本当に言えた。
「プルシュカ」
「なに?」
「私は」
続きが出ない。
俺はあなたの父親じゃない。
言うべきか。
でも、何をもって父親とする?
身体?
記憶?
人格?
俺の中にはボンドルドの記憶がある。
プルシュカが小さかった頃の姿を知っている。
初めて笑った時。
初めて自分で食事をした時。
メイニャと出会った時。
全部。
俺の記憶ではない。
でも見れば懐かしい。
「私は……」
「パパはパパだよ」
プルシュカが言った。
息が止まる。
「え?」
「なんか言おうとしてたでしょ」
「……どうして」
「だってパパだもん」
あまりにも簡単に。
俺が何時間も悩んだことを、彼女は一言で終わらせた。
「寝ますか」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ、パパ」
俺は部屋を出た。
廊下を歩く。
自分の部屋へ戻る途中。
突然、視界が揺れた。
「……?」
立ち止まる。
一瞬。
別の景色が見えた。
白い廊下。
自分はそこにいない。
いや。
誰かの目で見ている。
祈手。
ゲラズ。
そんな名前が浮かぶ。
次の瞬間、元に戻った。
「疲れてるのか」
頭を振る。
数歩進む。
また。
別の視界。
研究室。
祈手が機材を運んでいる。
俺はそこにいない。
なのに見える。
「……待て」
胸騒ぎ。
壁に手をつく。
視界が増える。
一つ。
二つ。
三つ。
イドフロントの異なる場所。
祈手たちの視界。
声。
温度。
身体感覚。
「やめろ」
俺は頭を抱えた。
「やめろ……!」
頭の奥で、何かが開いていく。
扉。
今まで閉じられていた場所。
そこに無数の意識がいる。
いや。
境界がない。
俺。
祈手。
ボンドルド。
記憶。
人格。
全部が一本の根から枝分かれしている。
「違う」
呟く。
誰かが同じ言葉を口にした。
別の場所で。
俺の口ではない。
「違う!」
今度は三人が同時に言った。
俺の声。
祈手の声。
遠くの誰かの声。
足音。
前方から一人の男が歩いてくる。
ボンドルド。
本物。
いや。
本物って何だ。
「何をした」
俺は睨む。
「私は何も」
「嘘つけ!」
「あなた自身ですよ」
俺は凍った。
「……何?」
「精神隷属機は、人格を共有する遺物です」
「知ってる」
「あなたは私を基礎として形成された」
「だから何だ」
「つまり」
ボンドルドがゆっくり両手を広げる。
「あなたもまた、接続する側なのです」
「……やめろ」
「私は止められません」
「止めろ!」
「それはあなたの意識です」
「俺はそんなこと望んでない!」
「意識的には」
ボンドルドが一歩近づく。
「ですが、人間の自我は実に興味深い」
「来るな」
「一つの身体に閉じ込められることを当然と思っている」
「来るな!」
「あなたは今」
紫の光が近づく。
「その前提から解放されようとしている」
俺は後退した。
視界がまた増える。
五。
七。
十二。
イドフロントの各所。
自分が同時に歩いている。
作業している。
眠っている。
食べている。
考えている。
「俺は」
口を開く。
「私は」
別の場所で声がする。
「違う」
また別の声。
ボンドルドが静かに言った。
「あなたは、あなたですよ」
その言葉。
数日前なら救いに聞こえたかもしれない。
今は呪いだった。
「俺は……ボンドルドじゃない」
「ええ」
「俺は……」
名前。
ない。
過去。
ない。
身体。
借り物。
記憶。
作り物。
じゃあ俺とは何だ。
プルシュカ。
守りたい。
その気持ちだけは。
俺のものだ。
俺はそれに縋った。
「俺はプルシュカを守る」
ボンドルドが頷く。
「ええ」
「絶対に」
「ええ」
「お前からも」
少し間があった。
「もちろん」
その答えが、妙に優しかった。
*
翌朝。
俺はプルシュカと朝食を食べた。
パン。
保存肉。
薄いスープ。
「パパ」
「はい」
「今日はもっと変」
「そうでしょうか」
「うん」
「どこが?」
プルシュカは少し考えた。
「いっぱい居る感じ」
スプーンが止まった。
「……何です?」
「分かんない」
メイニャが俺を見る。
鳴く。
まるで同意するように。
「パパって一人でしょ?」
「…………」
「でも今日、なんかいっぱい」
俺は笑った。
笑えているか分からない。
「気のせいですよ」
「そっか」
プルシュカは気にせず食事を続ける。
俺は彼女を見る。
同時に。
廊下からも見ている。
研究室からも。
遠くの回廊からも。
複数の視界が重なる。
怖い。
でも。
不思議と昨日ほどではなかった。
慣れた?
違う。
もっと恐ろしい答えが浮かぶ。
境界が薄くなっている。
俺自身が。
「パパ?」
「はい」
「今日遊べる?」
俺は答える。
「もちろんです」
その瞬間。
少し離れた廊下で歩いていた祈手が、同時に呟いた。
「もちろんです」
プルシュカは気づかない。
俺だけが聞いた。
いや。
俺たちだけが。
食後。
俺は研究室へ向かった。
途中で鏡の前を通る。
立ち止まる。
五日前。
ここで目覚めた。
自分の顔だと思った仮面。
あの時は。
鏡の中の男を見て。
ボンドルドだと思った。
今。
鏡の中に映る姿を見る。
同じ仮面。
同じ外套。
同じ身体。
なのに。
どこか違う。
俺は鏡に触れた。
「私は黎明卿ではない」
口にする。
鏡の男も言う。
その声に。
少し安心した。
まだ俺だ。
まだ。
背後から足音がした。
振り返る。
誰もいない。
だが別の視界では。
俺がこちらへ歩いてきている。
黒い外套。
紫の仮面。
そして。
俺の後ろで止まる。
鏡の中。
二人のボンドルドが並んでいた。
「おや」
声がした。
どちらが言った?
俺は言っていない。
そう思った。
でも。
口元の感覚がある。
声帯の震え。
どちらの身体のものだ。
分からない。
「これは」
誰かが続ける。
「実に」
俺は息を止めた。
「興味深いですね」
鏡の中の二人が。
同時に首を傾けた。
俺は。
笑ったのだろうか。
それとも。
あの人が笑ったのか。
もう。
私には。
よく分からなかった。