一番隊舎へと続く白亜の石畳には、穏やかな初夏の風が吹き抜けていた。
長大な白壁と黒瓦の屋根が連なる回廊を、神代宗弦と如月弦の足音が規則正しく進んでいく。弦の手には、黒漆の木箱がしっかりと抱えられていた。厳重な霊圧遮断符と注連縄で封じられたその中には、異界より持ち帰った四本の白銀の封印筒――ペテルギウス、レグルス、バテンカイトスから抽出した大罪因子、そして『強欲の魔女』エキドナの残留魂魄が収められている。
一番隊執務室の重厚な引き戸の前に立つと、門番を務める隊士たちが宗弦の羽織の背に刻まれた「十四」の文字を一瞥し、畏敬の念を込めて音もなく戸を開け放った。
室内に漂っていたのは、どこか肩の力の抜けた微かな酒の香りと、沈香の落ち着いた薫香であった。
上座の畳の上に腰を下ろし、黒塗りの盃を傾けていた男が、開いた扉へと視線を向けた。
派手な女物の花柄羽織を肩に掛け、右目には黒革の眼帯。無精髭を生やした口元に飄々とした笑みを浮かべながらも、残された左目の奥には、歴戦を生き抜いた総隊長としての底知れぬ深淵を宿す男――護廷十四隊総隊長兼一番隊隊長、京楽春水。
「やあ、お帰り。神代くん、如月ちゃん」
京楽は盃を盆に置くと、独特の緩やかな声音で二人を迎えた。
「無事に戻ってきてくれて何よりだよ。……いやぁ、西方虚数領域の計器があまりにも派手に暴れてたからさ、流石のボクも今回はちょっとばかり胃が痛くなっちゃってねぇ」
宗弦は段の下、定位置へと進み出ると、純白の隊長羽織の裾を正して片膝をついた。半歩後方に弦が控える。
「護廷十四隊隊長、神代宗弦。異界における因果観測および特異点解体の任務、完了の報告に参上いたしました」
宗弦の声は、総隊長の柔らかな物腰に対しても、いささかの油断なく研ぎ澄まされていた。
「うむ。楽にしておくれよ」
京楽は軽く手を振って座り直すと、眼帯のない左目を細め、弦が抱える漆塗りの木箱へと視線を落とした。
「技術開発局から大雑把な報告書は届いてるよ。あちらの世界で『死の巻き戻し』なんていう途方もない因果の歪みを引き起こしていた元凶……綺麗さっぱり片付けてきてくれたそうだねぇ」
「はっ」
宗弦は淀みなく言上を始めた。
「原因たる特異点、現地名ルグニカ王国において観測された因果の破綻を特定。事象を歪めていた大罪司教三名、ならびに四百年にわたり魂魄を現世に繋ぎ止めていた魔女の思念体を回収・封印いたしました。また、巻き戻しの起点となっていた少年の魂魄より、魔女の因果の糸を直接切断。現世および尸魂界への境界侵食は、完全に遮絶されました」
「……少年の魂に巣食っていた因果を、直接切り離したかい」
京楽の瞳の奥に、わずかな鋭さが宿る。
「君の『断業』の腕前は相変わらず見事なものだね。一歩間違えれば、その少年の魂魄ごと三界の狭間に吹き飛んでいたかもしれない綱渡りだ。……だけど神代くん、君がわざわざ危険を冒してその少年を生かした理由は、単なる任務遂行だけじゃないんだろう?」
宗弦は表情を変えず、淡々と答えた。
「少年――ナツキ・スバルは、己の死を都合の良いやり直しの道具とする亡者ではありませんでした。命を賭して現実の盤面を繋ぎ止めんとした生者です。不純物たる魔女の呪詛は断つべきですが、理に抗って生きようとする魂魄そのものを削ぎ落とすことは、護廷の平準の理念に反します」
「……相変わらず、堅苦しいようでいて根っこが優しいねぇ、君は」
京楽は小さく苦笑を漏らし、盃に再び酒を注いだ。
「まあ、かつての山爺なら『異界の理不尽など根こそぎ焼き尽くせ』と一喝したかもしれないけれど……ボクは君のその判断、嫌いじゃないよ。世界を守るってのは、ただ理屈を押し通すことだけじゃないからね」
京楽の声音が、ふと静けさを帯びた。
「で……その木箱の中身だ」
京楽の視線が、弦の抱える木箱を真っ直ぐに射抜く。
「持ち帰った『魔女因子』とやら。……涅くんがさっきから『早く寄越せ』って隊舎の外で涎を垂らして待ってるんだけどさ。ボクたちとしても、この瀞霊廷にどんな爆弾を持ち込まれたのかは、きっちり把握しておきたいところでね」
弦が一歩進み出て、木箱を畳の上へと丁重に置いた。
「失礼いたします、総隊長。十四隊監査室における初期解析データを言上いたします」
弦は眼鏡を正し、報告書を紐解いた。
「回収された因子は、霊子でもマナでもなく、純粋な『概念の寄生体』であります。宿主となった魂魄の原罪を極限まで増幅させ、世界の物理法則や事象を局所的に強制改変する性質を有しております。極めて危険な性質ではありますが、現在、特務封印符および隊長の霊圧障壁により、外部への影響は完全にゼロに遮断されております」
「概念の寄生体、ねぇ……」
京楽は顎の髭を撫で、小さく息を吐いた。
「ユーハバッハの残滓とも、虚(ホロウ)の変異とも違う。三界の境界の外には、まだまだボクらの知らない理不尽が転がっているってわけだ」
京楽は宗弦を見据え、真剣な面持ちで告げた。
「その因子の監査、および西方虚数領域の監視は、引き続き十四隊に一任する。技術開発局への引き渡しは、君たちの安全確認が完全に終わるまで凍結しておこう。涅くんにはボクから適当に言い訳しておくよ」
「寛大なご配慮、感謝いたします」
「ただし、神代くん」
京楽の左目が、底知れぬ凄みを帯びて光った。
「因果の糸を切ったってことは、その糸の『反対側』にいた存在……眠っていた魔女の本体が、黙っちゃいないんじゃないかい?」
「……御意にございます」
宗弦は深く頭を下げた。
「スバルの呪いを断ったことにより、大瀑布の近傍に封印されている『嫉妬の魔女』本体が、失われた因果を求めて覚醒の兆候を示しております。西方虚数領域への干渉波の監視を最大震度で継続いたします」
「よろしく頼むよ」
京楽は盃を掲げ、静かに告げた。
「瀞霊廷の十三隊が表の平穏を守る盾なら、君たち十四隊は世界の理の綻びを縫い止める針だ。……頼りにしているよ、神代隊長」
一番隊舎を出た回廊には、正午の眩い陽光が降り注いでいた。
だが、その陽だまりを断ち切るように、柱の陰から異様な霊圧を纏った影が音もなく滑り出してきた。
白と黒の奇怪な化粧を施した顔面、異形を思わせる長大な黄金の爪、そして三日月の如き歪んだ笑みを浮かべた男――十二番隊隊長兼技術開発局局長、涅マユリ。その半歩後方には、無表情な副隊長の涅ネムリが控えている。
「ヒヒ……ヒハハハハ! 随分と長話だったじゃないかネェ、神代隊長ォ!」
耳障りな甲高い声が回廊に響き渡る。
マユリは死覇装の袖から長い爪を覗かせ、奇妙な足取りで宗弦たちの前に立ちはだかった。その黄色い双眸は、弦が抱える黒漆の木箱へと爛々と注がれている。
「京楽の野郎が妙な根回しをしてくれたようだがネ、私の目は誤魔化せないヨ! 虚数領域の時空境界を突き破り、あちらの世界の因果律を強制書き換えしていたという未知のサンプル……! 早く私に渡し給えヨ!」
マユリの全身から、紫色の毒々しい霊圧が湯気のように立ち上る。
「我が技術開発局の全生体解剖チャンバーと霊子分離器をフル稼働させれば、その『魔女因子』とやらの分子構造からマナ変換効率、果ては魂魄改変の全プロセスを三日で解き明かして見せるサァ! 科学の発展のために、これ以上の検体はないだろうがネェ!」
マユリが長い爪を伸ばし、木箱へ触れようとしたその刹那。
宗弦が一歩、前に出た。
ただそれだけの動作。だが、宗弦の足元から放たれた極小の霊圧の揺らぎが、マユリの伸ばした指先を不可視の壁となって完全に押し止めた。
「相変わらず浅ましいな、涅」
宗弦の声は、真冬の氷刃のように冷え切っていた。
「此度の封印物は、貴様らの玩具ではない。概念そのものが魂魄に寄生・変質する極めて危険な因果物だ。技術開発局の浅薄な知的好奇心でメスを入れれば、封印が暴走し、瀞霊廷の霊子循環そのものが汚染される危険がある」
「浅薄だと……!? フンッ、聞き捨てならないネェ!」
マユリの額に青筋が浮かび、紫色の霊圧が激しく渦を巻いた。
「未知の事象を解明し、制御下に置くことこそが科学の至高であり、防衛の第一歩だろうがネ! 危険だからと箱に閉じ込めて拝んでいるだけの貴様ら十四隊のやり方こそ、旧態依然とした怠慢というものだヨ!」
「科学を否定はせん」
宗弦は薄墨色の瞳を眇め、マユリを冷ややかに見据えた。
「だが、世界の理の平準化を担う我が十四隊の監査を終えぬ限り、一滴の霊子たりとも貴様らには渡さん。……総隊長の命を無視し、実力で奪うつもりか、涅隊長」
宗弦の左手が、腰の佩刀『断業』の鍔へと音もなく添えられた。
カチリ、と微かな金属音が響く。
その瞬間、回廊の空気が完全に凍りついた。
宗弦の放つ研ぎ澄まされた霊圧は、爆発的な破壊力ではなく、触れるもの全ての因果を寸断しかねない絶対の静寂を帯びていた。マユリの放っていた紫色の霊圧が、まるで刃を恐れる小動物のように萎縮し、霧散していく。
「……チッ」
マユリは忌々しそうに舌打ちをし、伸ばした手を引っ込めた。
「相変わらず融通の利かない堅物め。……まあいいサ。京楽の手前、ここで貴様と斬り結ぶのは得策ではないからネ。だが覚えておきたまえヨ、神代隊長。その因果の箱が暴走して瀞霊廷が吹き飛んだ時、泣きついてきてもタダでは済まさないからネェ!」
マユリは身を翻し、奇妙な足音を立てて回廊の闇の中へと消え去っていった。
弦は小さく息を吐き、眼鏡の位置を直した。
「……相変わらず、食えない御仁ですね」
「放っておけ。己の知的好奇心に殉じるだけの男だ。理を乱さぬ限り、相手にする価値もない」
宗弦は羽織を払うと、自隊の隊舎を目指して歩みを再開した。
午後、護廷十四隊隊舎・地下演武場。
地下深く、霊子を完全に遮断する特殊な漆黒の石材『断霊石』で四方を囲まれたその広大な空間では、鋭い太刀筋の風切り音が絶え間なく響いていた。
「――『鏡眩・連閃(きょうげん・れんせん)』!」
弦の澄んだ号令とともに、演武場の大気が七色に乱反射した。
光の屈折によって幾重にも分裂した弦の幻影が、四方八方から同時に宗弦へと殺到する。手にした木刀の白刃が、実体と幻影の境目を完全に曖昧にしながら、宗弦の頸動脈、鳩尾、膝裏を目がけて音もなく一閃される。
だが、宗弦は木刀を中段に構えたまま、目すら動かさなかった。
息を深く吸い、ただ一足の沈み込み。
宗弦の振るった木刀が、何もない虚空――光の屈折が最も不自然に歪んでいる一点を、正確無比に薙ぎ払った。
ガギィィィンッ!
「くっ……!?」
幻影が一瞬で消滅し、本物の弦の木刀が宗弦の一撃によって斜め上方へと弾き上げられた。
体勢を崩した弦の喉元へ、宗弦の木刀の切っ先が寸分の狂いもなくピタリと突きつけられる。
「太刀筋が綺麗すぎる」
宗弦が木刀を収めながら告げた。
「幻影で敵の視界を惑わすことにとらわれ、本撃の踏み込みがわずかに遅れている。実体を隠すのではない。幻影の乱反射そのものを、本撃の軌道の延長線上に重ねろ」
「……ご指導、痛み入ります」
弦は息を整えながら、深く一礼した。額に浮かんだ汗を拭い、木刀を脇に抱える。
「隊長。……やはり、異界での戦いを経て、隊長の『断業』の間合いはさらに研ぎ澄まされているように感じます」
「異界の理不尽に触れたことで、世界の理の結節点がより明瞭に見えるようになっただけだ」
宗弦は演武場の隅に置かれた水桶から手酌で水を汲み、口を湿らせた。
「大罪司教ども、そしてエキドナ……奴らの力は、己の欲望のままに世界の理を歪めることで成立していた。だが、どれほど強大な異能であろうと、因果の糸を引いて現世に干渉している以上、そこには必ず『繋ぎ目』がある。その繋ぎ目を断つことこそが、我が十四隊の剣だ」
「はい。……ですが、隊長」
弦の表情が、真剣なものへと変わった。
「総隊長のお言葉……そして、地下監査室の観測データについてです」
弦は懐から取り出した通信端末を操作し、演武場の壁面に青白い霊子スクリーンを展開した。
映し出されたのは、西方虚数領域――あの異世界へと通じる境界線の立体マップであった。
「スバルの魂魄から『嫉妬の魔女の思念』を切断した直後から観測されていた周期的な干渉波……その波形が、ここ数時間で明確な変化を見せています」
弦の指先が、マップ上に示された激しいパルス波を指した。
「これまでは単なる覚醒の予兆――無秩序な霊子放射でした。しかし現在、その波長は一定の指向性を帯び始めています。まるで……失われた己の半身(スバル)を探し求め、世界の境界の薄い箇所へとその思念を集中させているかのように」
宗弦の薄墨色の瞳が、スクリーンに映る黒紫色のパルスを静かに見つめた。
「……サテラ本体の覚醒か」
「はい。それだけではありません。この干渉波に呼応するように、あの世界の別座標――現地名『水門都市プリステラ』、ならびに東方の砂漠に位置する『プレアデス監視塔』の周辺において、残存する大罪因子が異常な活性化の兆候を示しています」
弦の報告は、事態が静かに、しかし確実に次なる破局へと向かって転がり始めていることを示していた。
スバルという少年を救い、因果の巻き戻しを断ち切ったこと。それはあの世界を救うための正しき選択であった。だが、それによって生じた因果の空白を埋めるように、四百年前の怨念の本体が、そして残された大罪の狂気たちが、水面下で動き出しているのだ。
「隊長。もし魔女サテラの封印が完全に決壊すれば、あの世界はもとより、境界を接する我々の尸魂界にも、未曾有の時空崩壊が波及します。……中央四十六室へ再出撃の具申を出すべきでしょうか」
弦の問いに、宗弦は静かに首を横に振った。
「焦るな、弦。まだその時ではない」
宗弦は演武場の壁に掛けられた己の斬魄刀『断業』へと歩み寄った。
黒漆の鞘に手を触れると、刀身の奥底から、静謐な霊圧が宗弦の掌へと伝わってくる。
「生者の世界には生者の領分がある。かの地には、己の足で立ち上がったあの少年(スバル)や、騎士たちがいる。彼らが自らの手で運命に抗い、盤面を維持しようとする限り、我々が拙速に介入することは世界の自浄作用を損なうことになりかねん」
宗弦の視線は、虚空の先にある遥かなる異界へと向けられていた。
「だが――境界の均衡が真に破綻し、人の理を超えた不純物が三界の秩序を侵そうとするその刹那には、我ら護廷十四隊が再びその因果を断ち切る」
宗弦は『断業』を手に取り、帯へと佩いた。
「弦。観測網の感度を最大に保て。そして隊士たちに告げろ。いかなる事態が訪れようと、一瞬で境界を穿ち、理を正す刃となれるよう、鍛錬を怠るな、とな」
「はっ! 了解いたしました!」
弦は迷いのない声で深く敬礼を捧げた。
演武場の天井を見上げれば、通気口から差し込む夕暮れの光が、白砂の床を静かに照らしていた。
瀞霊廷の静謐な日常の裏で、静かに研ぎ澄まされていく死神の刃。
異界の深淵に眠る魔女の目覚めと、再び交錯するであろう因果の決戦へ向けて、護廷十四隊の静かなる備えは、着実にその密度を増していた。