藤襲山での最終選別から、数日後――。
朝靄の漂う狭霧山。
長い試練を終えた竈門炭治郎は、懐かしい山道を一歩、また一歩と歩いていた。
身体は傷だらけだった。
腕にも、脚にも、まだ包帯が巻かれている。
それでも足取りは軽かった。
帰ってこられた。
生きて帰ってこられた。
そして――。
「鱗滝さん!」
「炭治郎……!」
山小屋の前に立っていた鱗滝左近次は、炭治郎の姿を認めた瞬間、駆け寄った。
「よく……よく戻ってきたな」
「はい!」
鱗滝は何も言わず、炭治郎の身体を強く抱きしめた。
「……!」
炭治郎は驚いた。
面越しでも分かる。
師の肩が震えていた。
「心配を……かけました」
「馬鹿者……」
その声は、僅かに震えていた。
「生きて戻ってくる。それだけでいい」
「……はい」
炭治郎の目にも涙が浮かぶ。
その時だった。
「……お兄ちゃん?」
小さな声が聞こえた。
「禰豆子!」
振り返った炭治郎の目に映ったのは、布団から身体を起こしている妹の姿だった。
「お兄ちゃん……おかえりなさい」
「禰豆子……!」
炭治郎は駆け寄り、妹の手を握る。
温かい。
ちゃんと、生きている。
「ただいま、禰豆子」
その再会を、鱗滝は静かに見守っていた。
やがて炭治郎は、藤襲山での出来事を一つずつ話し始めた。
手鬼のこと。
錆兎のこと。
真菰のこと。
そして――。
「錆兎も真菰も、最後は笑っていました」
「……そうか」
鱗滝の拳が僅かに震える。
「二人とも……ようやく、逝けたのだな」
「はい」
炭治郎は深く頭を下げた。
「二人から伝言を預かっています」
「……何と言っていた?」
「『鱗滝さんによろしく』と」
しばしの沈黙。
やがて鱗滝は空を見上げた。
「……そうか」
それだけを呟いた。
だが、その声には長年抱えていた師としての痛みと、僅かな救いが滲んでいた。
その数日後。
「カァー! カァー!」
二羽の鎹鴉が狭霧山へ舞い降りた。
「炭治郎! 善逸! 刀、到着!」
「刀……!」
炭治郎と善逸が外へ飛び出す。
そこには刀箱を抱えた隠の隊士たちが立っていた。
「お待たせしました。あなた方の新しい日輪刀です」
炭治郎は緊張しながら刀を抜いた。
鞘から姿を現した刀身は――。
漆黒。
光を吸い込むような、深い黒色だった。
「黒……」
善逸が目を丸くする。
「なんだか炭治郎らしいじゃん」
「そうかな?」
「うん。真っ黒で、真っ直ぐで、なんか頑固そう」
「それ褒めてるのか?」
「褒めてるよ!」
その横では善逸も自分の日輪刀を抜いていた。
刀身には鮮やかな稲妻を思わせる刃紋が走っている。
「おお……!」
善逸は目を輝かせた。
「雷だ……!」
「お前の呼吸に相応しい刀だな」
低い声が響いた。
「獪岳さん!」
炭治郎が振り返る。
縁側には鳴柱・獪岳が座っていた。
その隣には、藤の花の香りを纏った胡蝶しのぶ。
獪岳は立ち上がると、炭治郎の刀を受け取って光にかざした。
「漆黒か」
刀身をじっくりと眺める。
「珍しい色だ。だが――悪くねえ」
「本当ですか?」
「ああ」
獪岳は炭治郎を見る。
「お前の性格には合ってる」
「性格……?」
「頑固で、妙に真っ直ぐで、何度叩き潰されても立ち上がる」
「……」
「黒い刀ってのは、そういう奴が持つと案外強い」
炭治郎は嬉しそうに刀を受け取った。
「ありがとうございます!」
しのぶも微笑む。
「黒は、どの呼吸に適性があるのか判断しにくい色とも言われています。でも――」
しのぶは炭治郎を見る。
「私は、この刀が炭治郎くんによく似合っていると思いますよ」
「しのぶさん……!」
「ええ。芯の強さも、温かさも」
炭治郎は照れながら頭を掻いた。
その横で獪岳は善逸の刀を見る。
「善逸」
「はいっ!」
「雷の刃紋が出たからって浮かれるなよ」
「はい!」
「雷の呼吸は速い。だからこそ、判断を間違えれば自分が死ぬ」
「……はい」
「お前は怖がりだ」
「うぐっ……」
「だが、怖いからこそ生き残ろうとする」
善逸が顔を上げる。
獪岳は、ほんの僅かに口元を緩めた。
「その臆病さを恥じるな。生き残るために使え」
「……兄貴」
善逸の目が潤む。
「俺……頑張るよ」
「泣くな」
「だってぇ……!」
「泣く暇があるなら刀を振れ」
「はい!」
二人の前に、畳まれた隊服が置かれる。
黒を基調とした鬼殺隊の隊服。
炭治郎と善逸は、それぞれ袖を通した。
「……」
炭治郎は自分の姿を見下ろす。
これまで着ていた服とは違う。
腰には日輪刀。
背中には羽織。
もう、自分はただの炭焼きの少年ではない。
鬼殺隊士だ。
「今日からお前らは正式な鬼殺隊士だ」
獪岳が告げる。
「刀を持つってことは、同時に責任を背負うってことだ」
炭治郎は真っ直ぐに獪岳を見る。
「はい!」
善逸も震えながら頷いた。
「……はい!」
その時。
「カァー! カァー!」
炭治郎の鎹鴉が大声で鳴いた。
『竈門炭治郎! 我妻善逸! 初任務!』
『北北西! 北北西ノ町へ向カエ!』
『少女ガ消エル! 少女ガ次々ト消エテイル!』
炭治郎の表情が引き締まる。
「初任務……!」
善逸は一瞬で青ざめた。
「えええええ!? もう!? 隊服着たばっかりだよ!?」
「善逸!」
「嫌だぁぁ! 俺、もうちょっと家で休みたい!」
「行け」
獪岳の一言。
「はい……」
善逸は即座に姿勢を正した。
炭治郎は思わず笑う。
「善逸、行こう!」
「炭治郎ぉぉ……!」
二人が歩き出す。
その背後から獪岳の声が飛んだ。
「炭治郎!」
「はい!」
「善逸!」
「はい!」
「どれだけ不細工な戦い方になっても構わねえ」
獪岳は腕を組む。
「勝て」
二人の足が止まる。
「そして――」
獪岳の眼差しが鋭くなる。
「絶対に生きて帰ってこい」
炭治郎は深く頭を下げた。
「はい!」
善逸も涙を拭いながら頷く。
「絶対……帰ってくる!」
「よし」
獪岳はそれ以上何も言わなかった。
二人が山道を駆け出していく。
しのぶが、その背中を優しく見つめる。
「立派になりましたね」
「……ああ」
「あなたの育てた後輩たちですよ」
「違えよ」
獪岳は少しだけ照れたように顔を背ける。
「俺が育てたんじゃねえ」
「では?」
「アイツら自身が、泥の中から這い上がってきたんだ」
しのぶは微笑む。
「それでも、あなたが与えた言葉は、きっとあの子たちの力になっています」
「……」
獪岳は答えない。
ただ、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。
「……死ぬなよ、バカども」
その声は小さかった。
けれど、確かな願いが込められていた。
炭治郎と善逸は、新たな日輪刀を携え、初めての任務へ向かって走っていく。
その胸にあるのは、鬼への恐怖だけではない。
守りたい人がいる。
帰る場所がある。
そして――。
自分たちを信じ、背中を押してくれる先輩がいる。
霹靂の雷に導かれ、慈雨の温もりに支えられた若き鬼殺隊士たち。
その長い戦いの旅は、今ここから始まった。
【最終選別編・完】