「……お父さん……お母さん……」
戦いが終わった那田蜘蛛山に、累の小さな声だけが響いていた。
首を斬られた累の身体は、すでに崩壊を始めている。白銀の髪が灰へと変わり、細い指先からも少しずつ輪郭が失われていく。
先ほどまで戦場を支配していた強烈な殺気は、もうどこにもなかった。
炭治郎の鼻に届いたのは――鬼としての恐ろしさではない。
寂しさ。
悲しさ。
そして、誰かに愛してほしかったという、あまりにも幼い願いの匂いだった。
「僕……ただ……手をつないでほしかっただけなんだ……」
累は震える手を伸ばした。
けれど、その手を握ってくれる者はもういない。
「どうして……僕は……」
灰になりながら、それでも必死に何かを求めるように手を伸ばす。
その姿を見た炭治郎は、ゆっくりと歩み寄った。
「炭治郎?」
善逸が声を掛ける。
伊之助も何も言わず、その背中を見つめていた。
炭治郎は累の前にしゃがみ込む。
そして――。
消えかけた小さな手に、自分の手を重ねた。
「……もう大丈夫だ」
累の瞳が僅かに開く。
「君は……もう、戦わなくていい」
「……どうして……」
「君がどんなことをしてきたとしても……最後に寂しかったことまで、無かったことにはならないから」
炭治郎の声は優しかった。
「神様……」
祈るように目を閉じる。
「どうかこの人が今度生まれてくるときは――鬼になんてなりませんように」
累の瞳から、一筋の涙が零れた。
「……あたたかい……」
その言葉を最後に。
サラ……。
累の身体は完全に灰となった。
風が吹く。
灰が夜空へ舞い上がり、月明かりの中へ消えていく。
炭治郎はしばらく、その場から動かなかった。
「……終わったんだな」
善逸が小さく呟く。
伊之助も猪の面の奥から灰を見上げた。
「鬼ってのは……最後には消えちまうんだな」
「……ああ」
炭治郎が静かに頷く。
「だからこそ、生きている俺たちが……忘れちゃいけないんだと思う」
少し離れた場所では、獪岳が腕を組んで三人を見ていた。
隣には冨岡義勇。
そして負傷者の治療を終えた胡蝶しのぶもいる。
三人とも、何も言わず炭治郎の姿を見守っていた。
やがて獪岳が口を開く。
「……炭治郎」
「はい」
「鬼は惨めな生き物だ」
獪岳は累が消えていった夜空を見上げる。
「人間だった頃の大事なもんを捨てて、力だけを掴んだところで……結局、最後に残るのは孤独だ」
そして、少しだけ視線を和らげた。
「だが……お前みたいに、その無念を汲んでやる奴が一人くらいいてもいいのかもしれねえな」
「獪岳さん……」
「勘違いすんなよ。褒めてるわけじゃねえ」
そう言いながら、獪岳は炭治郎の頭を――。
バシッ!
「痛っ!」
容赦なく小突いた。
続けて善逸。
「ひえっ!」
そして伊之助。
「なんだと雷男!」
三人まとめて頭を小突かれた。
「よく生き残ったな」
獪岳の声はぶっきらぼうだった。
だが、その瞳には確かな誇りが宿っている。
「泥をすすってでも繋いだ命だ。胸を張れ」
炭治郎は真っ直ぐに獪岳を見つめる。
「……はい!」
善逸も涙を拭いながら頷いた。
「はい……! 兄貴……!」
「おう!」
伊之助だけは胸を張って叫ぶ。
「俺様は当然だ!」
「お前は少し静かにしろ」
「なんでだよぉぉ!」
思わず炭治郎と善逸から笑いが漏れる。
激戦の果てに残された、ほんの僅かな穏やかな時間だった。
その時――。
ポツッ。
炭治郎の頬に、一滴の雨が落ちた。
「……雨?」
ポツ……ポツ……。
やがて雨粒は次々と増えていく。
ザーッ……。
那田蜘蛛山を包み込むように、静かな雨が降り始めた。
血に濡れた大地を。
折れた木々を。
蜘蛛の糸に覆われた森を。
そして、鬼と人間が流した涙さえも洗い流すように。
しのぶは空を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「……慈雨ですね」
炭治郎も顔を上げる。
「慈雨……」
「ええ。きっと、この山に残された悲しみを洗い流してくれているのでしょう」
獪岳は鼻を鳴らした。
「詩人みてえなこと言いやがって」
「ふふっ。獪岳さんも、そう思っているんじゃありませんか?」
「知らねえよ」
そう言いながら、獪岳は雨に濡れた山を見つめていた。
やがて、森の向こうから複数の足音が聞こえてくる。
「こちらです!」
「負傷者を確認しろ!」
「担架を!」
隠の隊員たちだった。
しのぶが彼らへ向き直る。
「皆さん、後はお任せします。重傷者から順番に運んでください」
「はい!」
隊員たちが次々と負傷した鬼殺隊士を運び出していく。
炭治郎も肩を貸してもらいながら歩き始めた。
善逸は全身の痛みに顔をしかめる。
「うう……もう歩けない……」
「善逸、頑張れ!」
「炭治郎、お前は元気すぎるんだよぉ……!」
「俺様はまだまだ戦えるぞ!」
「お前は黙ってろ!」
三人の声が雨の中へ消えていく。
その後ろから、獪岳、義勇、しのぶも歩き出した。
しばらくして雨が弱まる。
雲の切れ間から、柔らかな月光が差し込んだ。
蜘蛛の糸に覆われていた那田蜘蛛山が、静かに光に照らされていく。
そこにはもう、鬼の気配はなかった。
ただ、戦いを生き抜いた者たちの足跡だけが残されていた。
炭治郎は振り返る。
「……累」
もう姿はない。
けれど、確かに覚えている。
あの鬼が最後に見せた、寂しそうな顔を。
そして――。
「俺は、もっと強くならなきゃ」
炭治郎は拳を握った。
禰豆子を守るため。
仲間を守るため。
そして、これ以上悲しい鬼を生み出さないために。
その隣で善逸も拳を握る。
「俺だって……兄貴の弟弟子として、もっと強くなる……!」
「俺様は最強になる!」
獪岳はそんな三人を振り返り、口元を僅かに緩めた。
「だったら、次も生き残れ」
その言葉に、炭治郎たちは力強く頷く。
那田蜘蛛山での戦いは終わった。
だが、鬼舞辻無惨へと続く戦いは、まだ始まったばかりだ。
そして彼らを待ち受ける次なる舞台は――鬼殺隊最高峰の剣士たちが一堂に会する場所。
「柱合会議」。
鳴柱・獪岳。
水柱・冨岡義勇。
そして蟲柱・胡蝶しのぶ。
三人の柱に導かれた炭治郎、善逸、伊之助の前に、さらに過酷な運命が待ち受けていた。
慈雨が那田蜘蛛山の悲しみを洗い流す。
その雨上がりの空の下で、若き鬼殺隊士たちは、次なる戦いへ向けて歩き始めた。
【那田蜘蛛山編・完結】