もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
会場のステージが一望できるその場所で、檻のように区切られた部屋越しに、第三次試験までの過酷な連隊食戟前哨戦で散っていった者たちが固唾を飲んで戦況を見守っていた。
ついに始まった連隊食戟、第1Bout。
最大戦力を惜しげもなく投入した反逆者側に対し、セントラル側もまた主力級をぶつけてきた。その中でも一際異彩を放ち、そして因縁めいた空気を漂わせている対戦カードがあった。
薙切えりなと、新戸緋沙子。
かつては主従として、誰よりも近くで同じ時間を過ごしてきた二人が、今は調理台を挟んで敵対している。
掲げられたテーマは『スープ』。
互いの実力も、性格も、得意とする領域も知り尽くした両者だ。余計な言葉は一切なく、ただ静かに、研ぎ澄まされた集中力で己の鍋に向かっていた。張り詰めた静寂の中、トントントン、と規則正しい包丁の音だけが会場に響き渡る。
だが、その静寂とは裏腹に、審査員席には異様な緊張感が漂い始めていた。
「…………っ」
WGO(世界料理人機構)から派遣された二等執行官、シャルムの額を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。彼の視線の先にあるのは、新戸緋沙子の調理台にズラリと並べられた食材――いや、食材と呼んでいいのかすら躊躇われる代物だった。
赤、紫、斑点模様。どう見ても自然界が発する強烈な「警告色」をまとった菌類たち。そう、毒キノコである。
WGOの審査員としてこの場に座っている以上、供された料理は必ず口にせねばならない。それが彼らの絶対的な矜持であり、義務だ。だが、目の前で刻々と調理されていくそれらが、確実に致死量の毒を孕んでいる事実を前に、理知的な彼であっても本能的な恐怖を抑えきれずにいた。
「ふふっ、そんなに強張らないでください、シャルム」
隣に座る一等執行官、アンは冷静に、むしろ楽しげな微笑みすら浮かべてみせた。
「中国の雲南省など、一部の地域で食される火鍋の手法ですね。世界的に見れば、毒キノコを食文化に取り入れている地域は決して珍しくはありません。適切な処理を施せば、通常のキノコでは到底辿り着けない強烈な旨味と幻惑的な香りを生み出します。……もっとも、この国でお目にかかることはまず無いでしょうけれど」
そう解説しながら、アンは視線をスッと横へ流し、セントラル側の総帥として控える薙切薊へと向けた。
「しかし、驚きました。よくあの子はこちら側――“表”の世界に居られますね。あのような食材を完璧に扱うための許容量や毒抜きの調査には、歴史上、少なからず『犠牲』が出ているはずです。先人たちの、正しい意味での犠牲者の死の上に成立している料理。一歩間違えれば、彼女自身も、そして彼女の料理を食べる者も命を落としかねない、闇の領域の技術ですよ」
それは、表の料理人である遠月学園の生徒が扱うにはあまりにも危険すぎるアプローチではないかという、アンなりの鋭い皮肉だった。
その視線を受けた薊は、わずかに苦笑をこぼす。
かつての冷徹な独裁者であれば、ここで底知れぬ威圧感を放っていたかもしれない。だが、今の彼はどこか穏やかな、それでいて確かな信頼を込めた目を緋沙子に向けていた。
「アン殿の懸念もごもっともです。ですが、それでも彼女は己のものにしているのですよ」
薊は静かに言葉を返す。
「これでも私は彼女の料理を……安全性の確認も兼ねてですが何度か食しているのでね。その完成度と安全性は、この私が保証します。それに毒物劇物取扱責任者をはじめ、必要なこの国の資格はすべて特例で取得させてありますので、どうぞ心証を悪くせず安心して審査なさってください」
審査員たちへのフォローをスマートにこなす薊の言葉に、アンは「……なるほど。総帥のお墨付き、というわけですか」と興味深そうに扇子を口元に当てた。
シャルムは未だにハンカチで汗を拭っていたが、薊の言葉になんとか気を取り直そうと息を吐く。
誰かの犠牲の上に成り立つ禁断の旨味。それを我が物顔で操る緋沙子。
対するえりなは、一切の動揺を見せることなく、ただ己の思い描く究極を形にするべく、黄金色の清湯スープを静かに見つめていた。
一方、檻のように設えられた反逆者たちの待機室――そこで戦況を見守る脱落者たちは、えりなの調理台で起きている「異変」に目を見張っていた。
「……信じられない。あの薙切さんが、あんな調理法を選択するなんて」
丸井善二が、ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げながら驚愕の声を漏らす。
「通常、極上の清湯(チンタン)スープを作るには、スープが濁らないよう弱火で何時間もかけて旨味を抽出し、さらに挽肉を使ってアクを吸着させる『掃湯(サオタン)』という気の遠くなるような作業が必要不可欠だ。二時間という制限時間では到底、本来の深みには到達できないはずなんだが……」
「丸井くん、見て! えりなっちが挽肉に混ぜ込んでるあのペースト……!」
吉野が指さして身を乗り出す。その隣で、榊がハッと息を呑んだ。
「あれ、私が極星寮でみんなに振……完成させた『特製塩麹(しおこうじ)』と『酒粕』のブレンド液だわ……!」
「なるほど……!」
丸井が合点がいったように声を張る。
「麹の持つ強力な酵素の力を使って、肉のタンパク質を強制的に、かつ超速で旨味成分であるアミノ酸に分解しているんだ! さらに悠姫が得意とするジビエや鶏の様々な部位の骨を砕いて混ぜ込み、野性味とコクをブーストさせている!」
それだけではない。モニター越しに映し出されるえりなの手元には、しわしわに萎びた根菜やキノコ類が用意されていた。
「おいおい、あれって田所がよくやってる『干し野菜』じゃねーか」
「ああ……天日干しして水分を抜き、旨味と香りを極限まで凝縮させてあるんだ。それを、あの特大の圧力鍋に放り込んで、一気に超高温で抽出する気か……!」
郁魅と伊武崎の解説に、檻の中の面々はどよめいた。
極星寮のメンバーたちが日々持ち寄り、切磋琢磨してきた泥臭くも斬新なアプローチの数々。えりなは今、それを自身の「神の舌」による完璧な計算式のもと、寸分の狂いもなく一つの鍋に統合しようとしているのだ。
そして、圧力鍋から極上の黄金スープが抽出された直後、えりなが取り出した「ある道具」を見て、脱落者たちはさらに目を丸くした。
「嘘でしょ……サイフォン!?」
それは、街の喫茶店などでコーヒーを淹れるために使われるガラス製のフラスコ器具、サイフォンだった。
えりなは下のフラスコに黄金の清湯スープを注ぎ、上のロート部分に、高麗人参やクコの実、ナツメといった繊細な薬膳素材とハーブをセットした。アルコールランプで加熱されたスープがコポコポと上昇し、薬膳素材と短時間だけ触れ合い、そして再び下へと落ちていく。
「……すげぇ。薬膳のデリケートな香りと有効成分を、煮込みすぎて揮発させることなく、最も純度の高い状態でスープに移してるんだ……」
「あんな大衆食堂や喫茶店みたいな裏技、昔の薙切なら絶対にやらなかったぜ……!」
かつての薙切えりなは、高級食材を伝統的かつ完璧な技法で調理するだけの「氷の女王」だった。
だが、極星寮で過ごした日々が、仲間たちの自由な発想が、彼女の凝り固まった価値観を打ち砕いたのだ。
高級も大衆も、和も洋も中も関係ない。ただ「最高の一皿」を創り上げるために、あらゆる技術とアイディアを貪欲に取り入れ、それを神の舌で絶対的な高みへと昇華させる。
アルコールランプの火を消し、静かにフラスコを見つめるえりなの横顔は、かつてないほどに生き生きとした、本物の料理人の顔をしていた。
だが、極星寮の面々が感嘆の声を上げる中、ふと疑問を口にする者がいた。
「……なぁ。なんか、違和感ないか?」
ぽつりと呟いたのは佐藤だった。彼は腕を組み、眉をひそめながら調理場を見下ろしている。
「食戟と言えば、互いの料理へのプライドをぶつけ合ったり、盤外からの揺さぶりとして煽り合ったり、感情をぶつけ合うのが普通だろ? なのに……あの二人、さっきから一言も喋ってねぇぞ」
言われてみれば、調理が始まってからというもの、えりなも緋沙子も視線すら交わさず、ただひたすら静かに手元の作業だけに没頭していた。かつて主従として誰よりも近くにいたはずの二人が、対立する陣営に分かれた途端、まるで遮断された世界にいるかのように完璧な沈黙を保っている。
「もしかして……敵味方に分かれちゃったせいで、そのまま本気で仲違いでもしちゃったのかな……」
吉野が不安そうに語気を弱め、周囲の様子をうかがう。長年寄り添ってきた二人の深い関係性を知っているからこそ、その冷ややかな静寂が余計に不気味に思えたのだ。
「――いいえ。互いに、そんなお喋りをする『余裕』なんて無いのよ」
その不安を撥ね退けるように、静かだが凛とした声が響いた。声を上げたのは、アリスだった。
アリスは腕を組み、真剣な眼差しで従姉妹であるえりなと、かつてその側にいた緋沙子の背中を見つめている。
「毒なんていう、一歩間違えれば料理どころか凶器にしかなり得ない代物を扱っているのよ? 緋沙子がいくら薬膳の知識に長けていて、それを『扱うことが可能』だとしても……それに『慣れている』わけがないわ」
アリスの指摘に、脱落者たちの部屋に緊張が走る。
「そもそも、慣れることができる料理人が遠月の生徒にいるわけがないでしょう。年齢的なものも含めて、そんな危険な経験を積めるような状態にあるはずもないわ。……だからこそ無駄な感情を一切排して、思考を極限まで研ぎ澄ませて集中しているの」
緋沙子は、わずかな手元の狂いや火入れの誤りが命取りになる毒素のコントロールに、全神経と命を削るような集中を注ぎ込んでいる。
そしてえりなは、かつての付き人が人生を懸けて挑んでくるその危険極まりない一打を、真っ向から迎え撃つために、一瞬の隙も作らず己の鍋と対峙しているのだ。
その沈黙は、拒絶でも仲違いでもない。
言葉などを挟む隙間すら存在しないほどに高められた、料理人としての互いへの敬意と、極限の集中が生み出す密やかな熱量そのものだった。
2時間の調理時間のタイムリミット。それが終わり、静寂が破られた調理場から、まず一歩を踏み出したのは新戸緋沙子だった。
緋沙子が恭しく運んできたのは、重厚な銀の蓋(クロッシュ)が被せられた特大のスープチュリーンだった。審査員台の前に立つと、彼女は一切の迷いのない洗練された所作でクロッシュを静かに持ち上げる。
その瞬間、立ち上ったのは――甘美で妖しい、スパイスと茸の芳醇な香りだった。
「私の品……『特製麻辣薬膳湯(マーラー・ヤクゼンタン) 〜毒即是薬(どくそくぜやく)〜』でございます」
「……ほう」
イストワールが眉をぴくりと動かす。
緋沙子は手元に用意した銀食器――彫刻が施された美しく磨き上げられたスプーンを手に取り、審査員たちの目の前で鍋から具材とスープを器へと丁寧に取り分けた。
そして、そのまま審査員へ差し出すかと思われた、その時。
緋沙子は小さめの銀のスプーンでスープをすくい、躊躇うことなく自らの口へと運んだ。
「――っ!?」
シャルムが息を呑む。だが、緋沙子は静かに喉を鳴らして飲み干すと、何事もなかったかのようにすっと背筋を伸ばし、両手を前に揃えて深く一礼した。
「ご試食くださいませ」
「……ふふ、毒見、ですか。なんとも古風で趣のあるパフォーマンスですこと」
アンが扇子を口元に当て、楽しげに目を細めた。
「毒抜きが完璧である証明はもちろんのこと……最高級の銀食器に、徹底された宮廷の毒見役を思わせる恭順の作法。単なる演出にとどまらず、これから提供する料理の世界観を完成させるパフォーマンスですね。料理人の心構えとしても、心証はきわめて良好です」
「ええ……! では、いただきます……」
安堵と期待が混ざり合った表情で、シャルムが銀のスプーンをスープに浸した。
スープの色合いは、赤く澄んだ辣油の層と、下に潜む黒紫色の濃密なスープが二層に重なり合っている。そこに、異様な色彩を放つ数種類のキノコが佇んでいた。
シャルム、アン、イストワールの三人が同時にスープを一口、口に含んだ――その直後。
「―――っ!〜〜〜〜〜っ!?」
ドクン、と審査員たちの心臓が大きく脈打った。
(な……なんだ、この劇的なまでの『衝撃』は……!?)
シャルムの脳裏に、突如として禍々しくも美しい深紅の花畑が広がった。
舌に乗った瞬間、痺れるような花椒(ホアジャオ)の刺激と唐辛子の痛烈な辛みが口腔を支配する。しかし、その激痛を突き破って溢れ出してきたのは、これまで食べたどのキノコとも異なる、脳の奥底を直接揺さぶるような爆発的な旨味だった。
「はぁ、ぁ……っ! 身体が……熱い……! これが毒なのか、それとも……っ!?」
シャルムは衣服の襟ぐりを掴み、息を荒らげた。全身の肌が熱を帯び、汗が吹き出す。恐怖ではなく、あまりの快楽に全身の筋肉が収縮し、着ているスーツが内側からの圧力ではじけ飛ぶ錯覚――おはだけをしそうになりそうな熱さに襲われていた。
「素晴らしい……! なんという旨味の深さ……!」
イストワールも目を見開き、恍惚の表情を浮かべている。
緋沙子は静かに、だが誇り高く胸を張って語り始めた。
「主食材として使用したのは、中国雲南省の深林にて採取される『見手青(ミショウセイ)』をはじめとする、ごく一部の地域でしか食されない特殊な食用毒キノコ群です。これらは生の状態では強い幻覚作用と消化器系の毒素を持ちますが、一定以上の高温で精密な時間をかけて加熱・下処理を施すことで、毒素が完全に不活性化します」
緋沙子の瞳が、鋭い光を放つ。
「そして毒が消え去った後とに残るのは……通常の松茸やポルチーニの十数倍にも及ぶ、圧倒的な『グアニル酸』と『コハク酸』の結晶です。私はこれを、山椒や八角、特製薬膳ベースとともにテンパリングし、香気成分と旨味を限界までスープに溶け込ませました。痺れ(麻)と辛み(辣)は、毒素を熱分解したキノコの旨味を極限まで引き立てるための『触媒』となります」
「毒を完全に打ち消し、旨味の極致だけを抽出したというの……!? まさに毒即是薬……危険と隣り合わせの奇跡のスープ……!」
アンは恍惚とした溜息を漏らし、震える手で二杯目のスプーンを鍋へと伸ばしていた。
客席と反逆者たちの待機室は、審査員たちの常軌を逸した反応に静まり返っていた。
緋沙子が提示したのは、かつてえりなの背中で控えていた少女の料理ではない。誰の影でもなく、ただ己の技術と知識を極限まで磨き上げた、一人の独立した天才料理人の「毒」だった。
「……ふぅ……っ」
審査員たちの絶賛の声を背に受けながら、緋沙子は小さく、深く息を吐き出した。
極限の緊張状態から解き放たれ、どっと押し寄せてきたのは激しい疲労感だった。連隊食戟という対戦形式が強いる重圧、そして何より「薙切えりな」という絶対的な存在を相手に毒キノコという極限の食材を扱いきった代償はあまりにも大きい。
全身の体力が削り取られ、膝が笑い、今にもその場にへたり込んでしまいそうだった。緋沙子はただ気力だけで、辛うじてその場に立ち続けていた。
審査員席へ静かに一礼し、自分の調理台へと下がろうと踏み出した、その時――。
「――っ」
ふっと視界が揺れ、緋沙子の身体が大きく体勢を崩した。倒れそうになったその肩を、すっと差し出された柔らかい腕が優しく抱きかかえる。
「……おつかれさま、緋沙子」
耳元で聞こえたのは、穏やかで温かい声だった。
驚いて顔を上げた緋沙子の視界に映ったのは、敵対する陣営の将であるはずの、薙切えりなの顔だった。そこには、かつての氷のような冷酷さも、高圧的な態度もない。どこまでも優しく、緋沙子の健闘を心から称えるような眼差しがあった。
「え……えりな、様……?」
「自分で立てるかしら?」
「あ……は、はい……っ!」
慌てて背筋を伸ばした緋沙子の背中をぽん、と軽く叩くと、えりなは静かに自分のスープチュリーンを持ち上げた。そのまま迷いのない足取りで審査員台の前へと進み出る。
「反逆者側、薙切えりなです。お題『スープ』に対する私の答え……『極星・黄金清湯(オーゴンチンタン) 〜薬膳サイフォン仕立て』。ご賞味ください」
運ばれてきたスープの蓋が開けられた瞬間、会場に広がったのは――まるで深く静かな森の朝靄を思わせる、どこまでも澄み渡った清涼な香りだった。
「これは……清湯(チンタン)スープか……?」
シャルムが驚いたように目を見張る。
緋沙子の赤と黒の劇的な火鍋とは対照的に、えりなの器に注がれていたのは、一切の濁りがない透明な黄金色のスープだった。そこに、薄切りの極上肉と繊細に散らされたハーブ、そしてナツメやクコの実がまるで美しい水彩画のように浮かんでいる。
審査員たちがスプーンを伸ばし、そのスープを口に含んだ――その直後。
「――――――〜〜〜〜っ!?」
衝撃、ではなかった。それは、包み込まれるような圧倒的な『全能の癒やし』だった。
「あぁ……っ……なんだ、この温かさは……っ!?」
先ほどまで緋沙子の麻辣と毒キノコの刺激で熱く昂ぶっていた審査員たちの胃腸と神経が、スープが喉を通った瞬間にすーっと鎮まり、全身の細胞が瞬く間に歓喜の声を上げて活性化していく。
シャルムのスーツのボタンが弾け飛び、アンとイストワールもまた、まるで暖かい春の光の中で衣服をすべて脱ぎ捨て、聖なる泉に浸かっているかのような深い官能と安らぎ(おはだけ)に囚われていた。
「素晴らしい……! なんというアミノ酸の純度、そして薬膳の薫り高い調和か……!」
イストワールが涙すら浮かべて感嘆の声を上げる。
「先ほどの新戸さんの激しい刺激で火照った体を、完璧なバランスで整え、解毒し、内側から活力をみなぎらせていく……! 彼女はあえて……新戸さんの主戦場である『薬膳』の領域で、真っ向から勝負を挑んだというの!?」
「ええ……それだけではありませんね」
アンは恍惚とした表情のまま、器の中の黄金の液体を見つめた。
「これは、単なる薬膳スープではありません。新戸さんが提示した薬膳の知識と技術……それをもし、彼女がこの先何年も研研鑽を重ね、自らの極致へと到達させたとしたら……という『未来の完成形』を見せつけられているようです……!」
極星寮の仲間たちから学んだ塩麹と酒粕による超速アミノ酸抽出。天日干し野菜のコク。サイフォン抽出によるアロマの極致。そして、それらすべてを「神の舌」によってミリ単位の狂いもなく調和させた究極の清湯。
緋沙子が「毒を排した旨味」で挑んだのに対し、えりなは「生きとし生けるものすべてを癒やす完璧な滋養」で応えたのだ。それは緋沙子の挑戦を突っぱねるのではなく、彼女が目指した薬膳という道を全肯定し、その遥か先の高みを示して包み込むような、圧倒的なまでの格の違いだった。
「……緋沙子」
審査員たちの絶賛の声が響く中、えりなは静かに振り返り、もう一つの小さな磁器の椀を手にして緋沙子の元へと歩み寄った。
椀の縁からは、ほのかに甘く清涼な湯気が立ち上っている。
「飲みなさい。今のあなたには、これが必要よ」
「……えりな、様……」
促されるまま、緋沙子は震える両手で器を受け取った。先ほどの極限の疲労で、器を持つ手すらおぼつかない。それでも、黄金色に輝く清湯をすくい、ゆっくりと口へと運んだ。
――その瞬間。
「あっ…………!」
緋沙子の大きく見開かれた瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
猛烈な毒キノコの刺激と、限界を超えた集中によってボロボロにすり減っていた彼女の身体に、温かな黄金の雫が優しく、どこまでも深く染み渡っていく。
強張っていた筋肉がふわりとほぐれ、極度に張り詰めていた神経が鎮まり、枯渇していた活力が細胞の隅々から静かに湧き上がってくる。先ほどまで立っていることすら辛かった激しい疲労と消耗が、まるで嘘のように溶けて消えていく。
ただ美味しいだけではない。薬膳の道を究めんとする緋沙子だからこそ、そのスープの真の恐ろしさと、そして深すぎるほどの『慈愛』を痛いほどに理解してしまった。
配合されたハーブ、ナツメ、クコの実。そして抽出されたアミノ酸の比率。
そのすべてが――見手青(ミショウセイ)の毒素を中和し、激しい麻辣の刺激で火照った粘膜を保護し、極限の神経疲労を回復させるための「完璧な処方箋」として組み上げられていたのだ。
えりなは、対戦相手であるはずの緋沙子が己の命を削るような劇物で挑んでくることを見抜いていた。その上で、彼女の挑戦を真っ向から受け止め、さらに戦いの後に傷ついた心身を癒やすための『答え』を、たった2時間の調理の中で同時に創り上げていたのだ。
「あなたの道は、決して間違っていないわ」
驚愕と感動に打ち震える緋沙子へ、えりなはかつてないほどに優しく、慈しむような微笑みを向けた。
「でも……少し、無茶をしすぎよ。緋沙子」
敵として対峙し、包丁を交えながらも。
えりなの眼差しは常に緋沙子を案じ、見守り、そしてその背中を導こうとしていた。ただ勝負に勝つだけでなく、最愛の付き人へ向けて「極上の癒やし」を届けること。それこそが、この盤上における薙切えりなの真の目的だったのだ。
審査員席では、3人の執行官たちが静かに、しかし確信に満ちた表情で頷き合っていた。
「……勝負は、決しましたね」
アンが目を閉じ、ふう、と熱い溜息を吐き出す。
「新戸さんの『特製麻辣薬膳湯』は、己の限界を超えた素晴らしい一皿でした。猛毒を極限の旨味へと転化させる技術は、間違いなく今の彼女が到達し得る最高到達点。一切の妥協なく研ぎ澄まされた、完璧な『刃』です」
「だが」と、イストワールが厳かに言葉を継ぐ。
「薙切の一皿は、その刃を真っ向から受け止めた上で、さらに刃を振るった相手すらも癒やしてみせた。……それだけではない。驚くべきことに、この『極星・黄金清湯』は、新戸さんの激しい麻辣の刺激を食した後に味わうことで、初めて完璧な調和を迎えるようにアミノ酸と薬膳の配合が緻密に計算(アジャスト)されているのです」
「なっ……!?」
檻の中から戦況を見守っていた反逆者たちから、驚愕の声が上がる。
「それって、つまり……!」
「ああ……」
丸井が戦慄したようにモニターを見つめた。
「薙切は、最初から新戸が極限の刺激で攻めてくることを見越した上で……新戸の料理すらも、自身のスープを完成させるための『前菜』として盤上に組み込んでいたんだ……!」
単なる技術の差ではない。
己の存在証明のためだけに極限まで身を削った緋沙子と、泥臭い技術をも柔軟に取り入れ、相手のすべてを包み込むために鍋に向かったえりな。
それは料理が向いているベクトル――料理人としての『器(スケール)』の絶対的な差だった。
「……遠いな」
緋沙子は空になった容器を手にふっとほほ笑んだ。
絶望はない。最初から、自分は彼女の広大な掌の上で、ただ必死にもがいていただけなのだという、どうしようもない安堵と敬服。
審査員たちの脳裏を揺さぶる恍惚の渦の中で、その「視象(イメージ)」はあまりにも鮮烈に繰り広げられていた。
かつて第二次残党狩りの食戟において、 ある審査員は新戸緋沙子の圧倒的な薬膳の冴えをこう例えた。他の料理人がナイフ一本で泥臭いバトルロワイヤルに挑む中、彼女一人だけが研ぎ澄まされた日本刀を携え、主君を守るため毅然と立ちはだかる「研ぎ澄まされた刀を据えた侍従」のようだと。
己の命すら削り、鍛え上げられた禁断の一刀は、並の料理人であれば近づくことすら許されず一刀両断される絶対の領域。
だが――そのナイフを手にするのが、それを遥かに凌駕する天賦の達人であったなら、どうか。
脳裏に浮かぶ静謐の中、緋沙子は渾身の力を込め、毒の気を纏った漆黒の日本刀を振り下ろす。空間をも切り裂く絶望的な一閃。
しかし、えりなは一切の動揺を見せることなく、まるで舞を踊るかのような滑らかな足さばきで刃の軌道をかわし、極限の隙を突いてすっと緋沙子の懐へと深く潜り込んだ。
――カツン!
乾いた衝撃音が響く。えりなの手元で閃いたナイフの柄が、緋沙子の刀の柄頭を的確に撃ち抜いていた。
指先を襲う激痛とともに、緋沙子の手から離れた日本刀が空中で弧を描き、遥か後方の地面へと突き刺さる。
丸腰となり、驚愕に目を見開く緋沙子。その体勢が完全に崩れた瞬間、えりなはそのまま彼女の身体を優しく、けれど抗いようのない確信をもって地面へと押し倒した。
押し伏せられた緋沙子の上に重なり、えりなは手にしたナイフの先を、彼女の白く細い首元へとそっと突きつける。
息が触れ合うほどの至近距離。見下ろすえりなの瞳は、かつての氷のような冷酷さではなく、愛しい付き人のすべてを捉え、包み込んだ者だけが浮かべる、耐えがたいほどに蠱惑的な笑みを湛えていた。
「――捕まえた」
耳元で溶けるように囁かれたその一言が、緋沙子の心と戦意を、甘く、そして決定的に打ち抜いた。
「判定が出ました! ……勝者、反逆者側――薙切えりな!!」
会場を揺るがす実況の声とともに、アン、シャルム、イストワール三人の審査員ランプが、一切の躊躇もなく同時に輝かしい光を点灯させる。
全会一致の完全勝利。かつての主従による死力を尽くした攻防は、圧倒的な格の違いと深い絆を見せつけたえりなの勝利によって、静かに幕を閉じた。
――
全会一致の完全勝利。
会場を揺るがす実況の声とともに、アン、シャルム、イストワール三人の審査員ランプが、一切の躊躇もなく同時に輝かしい光を点灯させる。
「…………」
その煌々たる光を見上げながら、緋沙子の胸の内に広がっていたのは、敗北の絶望でも、自身の無力への嘆きでもなかった。
あったのは、ただ静かな「安堵」だった。
(終わったか……)
極限の緊張状態から解き放たれ、ふっと肩の力が抜ける。
薙切えりなという、自分にとっての絶対的な太陽。彼女と初めて盤上を挟み、真正面から互いの料理と意地をぶつけ合った。全身全霊を尽くし、命を削る思いで組み上げた自らの最高傑作は、彼女の果てしない器の前に届かなかった。
だが、結果はともあれ、今回の連隊食戟において「えりな様と戦い、その想いを知る」という自分の最大の役目は、これで終わったのだ。憑き物が落ちたような清々しさが、今の緋沙子を満たしていた。
一方で、えりなは戸惑っていた。
「……あの、緋沙子」
勝利を告げられたというのに、えりなの表情にはどこかぎこちなさがあった。
かつての「氷の女王」であった頃なら、敗者に対して冷徹に背を向けていただろう。だが、今の彼女にとって緋沙子はただの従者ではなく、大切な親友だ。親友と初めて本気でぶつかり合い、そして自分が引導を渡したという現実に、どんな言葉を掛ければいいのか分からず、視線を泳がせていたのだ。
そんなえりなの不器用な様子に、緋沙子はふふっ、と柔らかく微笑んだ。
「えりな様。そんな顔をなさらないでください」
「え……?」
「こういう時は……普段通り、堂々と胸を張って、ご自身の圧倒的な勝利を誇ってくださいませ。えりな様には、それが一番似合います」
敗れた側であるはずの緋沙子からの、いつもと変わらぬ、いや、今までで一番穏やかで誇らしげなその言葉に、えりなもまた、張り詰めていた表情をふわりと緩ませた。
静かに見つめ合い、微笑みを交わす二人。
だが、そのあまりにも穏やかで美しい光景は、極限の料理の真髄を理解できない一部の観客たちには、ひどく異質なものに映った。
『……おい。なんかあの二人、ずいぶん和やかじゃないか?』
『ああ……新戸の奴、やっぱり“元・側近”だからって、手心を加えたんじゃねえの?』
『どう考えてもあんなヤバそうな毒キノコ使うなんて自滅行為だし。わざと負けるための八百長だったんじゃ……』
観客席の一般生徒たちから、心無いひそひそ話がさざ波のように広がり始める。
そのざわめきを耳にした瞬間、えりなの美貌がサッと険しいものに変わった。自らの全霊を尽くした戦いと、緋沙子の決死の覚悟を侮辱するその言葉は、到底看過できるものではない。
審査員席のアンもまた不快感を露わにして立ち上がろうとした。あのような命を削る極限の料理の応酬を「八百長」などと宣う愚か者どもを、WGO一等執行官の権威をもって黙らせるために。
だが、アンが声を上げるよりも早く――。
パン……、パン……、パン……。
静かな、けれど会場の喧騒を一つ残らず叩き落とすような、緩やかな拍手の音が響き渡った。
「……あれだけの技術と情熱を前にして、このような浅ましい言葉が出てくるとはね。遠月の教育もまだまだ改善の余地があるようだ」
静まり返った会場に理知的な声が響く。セントラル総帥、薙切薊だった。
「お父様……!」
えりなが息を呑む。彼女は咄嗟に身を翻し、一歩前に出ると、まるで薊の視線から緋沙子を庇うように、二人の間に自身の腕をすっと差し挟んで立ちはだかった。
自分のために敗北を喫した緋沙子に、薊が冷酷な言葉を投げかけるのではないか。そんな警戒と敵意が、えりなの細い肩を強張らせている。
だが、薊はそんな娘の刺々しい態度を一瞥し、ふと短く息を吐いた後、えりなの背後に立つ緋沙子へと真っ直ぐに視線を向けた。
「……新戸くん」
「っ……総帥……」
緋沙子が微かに肩を震わせる。しかし、薊から紡がれたのは、予想に反してどこまでも穏やかで、慈愛すら感じさせる声だった。
「よく頑張ったね」
「え……?」
思いがけない労いの言葉に、緋沙子は呆然と目を丸くした。庇うように立っていたえりなもまた、驚きに目を見開いて父親の顔を見つめる。
「君が先ほど提示したあの料理の技術と練度は、間違いなく本物で見事なものだった。……ただ、あと少し。ほんの少しだけ周りを見る余裕を持つことができていれば、結果はどう転んでいたか分からなかっただろうね」
それは、彼女の技術を正当に評価し、敗因が「己の料理に没入しすぎたこと」にあると見抜いた上での、料理人としての正確な講評だった。
「残りの時間はゆっくりと休むといい」
そう優しく微笑みかける薊に対し、緋沙子は痛みを堪えるように伏し目がちになり、ぽつりとこぼした。
「……申し訳、ありません。私は……セントラルの代表として出陣しながら、負けてしまいました。総帥のご期待に、沿うことができず……」
己の敗北から自身の全てを失う前兆。その恐れや罪悪感から目を逸らす緋沙子へ、薊は静かに首を横に振った。
「何を言うんだ。それならば今回のこの食戟の経験を踏まえて、君が明日から『より優れた料理人』になれるということだろう?」
薊の言葉には一片の嫌味も、敗者を切り捨てる冷酷さもなかった。
「真の美食を追求し自らを高めようとする者を、私は決して見捨てはしないよ。今回のこの結果だけを切り取って、君の扱いや君に対する私の考え方を変えるつもりはない。だから何も気に病む必要はないんだ」
「総帥……」
その底知れない、けれど確かな包容力を感じさせる言葉に、緋沙子の胸の奥底で張り詰めていた最後の糸が、ふっと解けていく。
「さあ、先に戻っておくれ」
薊は緋沙子に下がるよう促すと、ゆっくりと視線を動かし、己を睨みつける実の娘――えりなへとその暗い瞳を合わせた。
「僕は、セントラルの指導者らしく……反逆者の『大将』と、少し話すこともあるからね」
その言葉に含まれた静かな圧に、えりなの表情が再び引き締まる。
緋沙子はえりなの背中に一度だけ深く一礼をすると、勝負を終えた者としての静かな誇りを胸に、ゆっくりとその場を後にした。
その背中が見えなくなったのを確認してから、えりなは再び鋭い視線を実の父へと向けた。
「……彼女に罰は、無いのですか」
絞り出すような、硬い声だった。
セントラルの代表として出陣し、そして敗北したのだ。十傑の座を剥奪する、あるいはセントラルから除籍処分を下すなど、えりなの頭には敗者に対する容赦のない罰の形がいくつも思い浮かんでいた。
だが、薊は咎めるような気配を一切見せず、むしろ余裕に満ちた優雅な笑みを浮かべたまま答えた。
「罰? なぜそのようなものが必要なんだい?」
「なぜって……彼女はあなた方の陣営の代表として戦い、そして敗れたのですよ……!?」
声を荒らげるえりなに対し、薊はやれやれと困ったような、ひどく穏やかな仕草で肩をすくめた。
「遠月にある『食戟』というシステムが日常化しているせいか、皆、勘違いしがちだ。料理の勝負において勝者と敗者が出るから……負けた側の料理人が、不出来で情けない存在に仕立て上げられることが当然だと思ってしまうのだろうね」
「……っ」
「食戟とは、あくまで『その場、その瞬間』における皿の優劣をつけたに過ぎない。ましてやこのような極限の大舞台に立てる料理人たちは、等しく素晴らしい料理人であることに変わりはないんだ。今回の敗北が彼女のさらなる成長につながるのであれば、私にとってこれ以上喜ばしいことは無いよ」
さらりと紡がれたその言葉に、えりなは言葉を失い、絶句した。
(お父様が……何を、言っているの……?)
えりなの脳裏にフラッシュバックしたのは、幼い頃の暗い記憶だった。
光の差し込まない部屋。目の前に並べられた無数の皿。そして、完璧な真の美食と、それ以外の『不出来な皿(ゴミ)』とを徹底的に区別し、自らの手で容赦なく仕分けさせられた、あの凄惨な教育の日々。
その絶対的な価値観を植え付けた張本人こそが、目の前にいる薙切薊なのだ。
えりなのイメージの中にある薊は、敗北という『不出来な結果』を出した緋沙子を、あの日の美食以外の皿と同じように、冷酷に切り捨てる男のはずだった。それなのに。
(嘘をついているの……? それとも、審査員や観客たちに向けた、ただのパフォーマンス……?)
探るように薊の暗い瞳を見つめるが、その底には微かな感情の揺らぎすら見えない。あの言葉が彼の真実なのか、それとも底知れぬ狂気から来る芝居なのか。今のえりなには、目の前に立つ父親という存在が、まるで得体の知れない怪物のように思え、その真意を全く判断することができなかった。
沈黙し、ただ立ち尽くすしかないえりな。
そんな娘の混乱を置き去りにするように、薊はふっと目を細め、労うように微笑みかけた。
「1Boutは、君たちの勝ちだ。……おめでとう、えりな」
「え……?」
その時、初めてえりなの耳に、会場を包み込んでいる熱狂的な歓声が飛び込んできた。
弾かれたように顔を上げ、メインモニターを見上げる。
『決着ゥゥゥ!! 第1カード勝者薙切えりな! 第2カード、白津樹利夫を下した一色慧!! 第3カード、紀ノ国寧々を下した幸平創真ぁぁっ!!』
「あ……」
己の調理と、緋沙子との対峙に全神経を注ぎ込んでいたせいで、周囲の状況が完全に抜け落ちていた。
モニターには、堂々と勝ち名乗りを受ける一色と、いつものようにほどきながらニカッと笑う創真の姿が映し出されている。
反逆者側、3勝。セントラル側、0勝。
えりなは今更ながらに、自分たち反逆者チームが、この過酷な連隊食戟の緒戦において、これ以上ない完璧なストレート勝利を収めたのだという事実を理解したのだった。
――
会場の喧騒と熱狂を背に、セントラル側の待機席――十傑たちが集う場所へと、緋沙子は重い足取りで戻ってきた。
極度の疲労で今にも倒れそうになりながらも、決して背筋を曲げずに歩みを進める彼女を出迎えたのは、美作昴と茜ヶ久保ももだった。
ももは抱き抱えたぬいぐるみのブッチーに顔を埋め、「うーん」と少しだけ小首を傾げて悩む素振りを見せた後、緋沙子を見上げて率直に口を開いた。
「……ひさにゃん、慰めとか要る?」
その唐突でストレートな気遣いに、緋沙子はふっと小さく笑みを浮かべた。
「……いえ。大丈夫です」
気丈にそう答えながらも、体の横に下ろされた彼女の掌は、白くなるほどにぎゅっと強く握りしめられていた。
えりなと全力でぶつかり合ったことへの安堵。極限の調理から解放された重圧の喪失。それらの感情が波のように引いていき……その後に彼女の胸の奥底に残ったのは、真正面から戦って負けてしまったという、誤魔化しようのない純粋な『悔しさ』だった。
その様子を見ていた美作が、ふんと鼻を鳴らした。
「覚えがあるなぁ、その顔」
「……美作?」
「憑き物が落ちたみたいに視界が広がったようなすがすがしい気分はあるってのに、はらわたが燃えるぐらいに自分に怒りが湧いてくるんだ。……いつか必ずリベンジしてやるぜ、ってな」
かつて秋の選抜で幸平創真に敗れ、自らのプライドと在り方を打ち砕かれた己の経験を重ね合わせているのだろう。美作は、緋沙子の心を正確に代弁するように、にかっと意地悪く笑みを見せた。
図星を突かれた緋沙子は、忌々しげに美作をにらみつけた。
「……酷い気分だ」
「おう、そうだろうな」
悪びれもせず笑う美作の図太さに、緋沙子は小さくため息をつく。そして、次なる戦いへと向かう大男を見上げ、視線を鋭くして問いかけた。
「……貴様は大丈夫なのか」
反逆者側の圧倒的な連勝で幕を開けたこの食戟。セントラル側にかかるプレッシャーは計り知れない。それに答えるため、美作が口を開いた――その瞬間。
「おう、チューニングは十分だ。あとは――食材たちが俺を導いてくれるからさ』
「――っ?」
『新戸はゆっくりと休んでいるといいよ』
空気が、がらりと変わった。
先ほどまでそこにあった美作の野卑で図太い気配が、一瞬にして消え去った。代わりに現れたのは、どこまでも透明で、繊細で、しかし絶対的なまでの静かな『威圧感』。
疲労から緋沙子の視界がかすんでいたせいだろうか。一瞬、蜃気楼のように美作の巨体がブレて――そこに、全く別の存在の幻影が重なって見えた。
銀糸のような髪。儚げでありながら、食材の声を誰よりも深く聴き取る、第一席――司瑛士の姿を、緋沙子は確かに認識させられていた。