もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
荒涼たる荒野に、一陣の熱い風が吹き抜ける。
乾いた大地を踏みしめ、ただ一人、前を見据えて歩みを進める大男の姿があった。
元・遠月学園十傑第三席、女木島冬輔。
彼は「ラーメン」という己の道を究めんがため、学園の枠に留まることなく日本全国を行脚してきた。行く先々で経営難に苦しむラーメン店を救い、時には職人同士のいざこざや地上げ屋との諍いの仲介に入り、その圧倒的な腕っぷしと料理の腕で数々のトラブルを解決に導いてきた男。
十傑という地位や名誉に一切の執着を持たず、ただ己の腕という一本の武器のみを携えて渡り歩くその姿は、いわば義理と人情に厚い「風来人」であり、さながら大地を揺るがす『大地の勇者』であった。
どんな困難が立ちはだかろうと、己の信じるラーメンの器ひとつで打ち砕いてきた。
だが今、勇者の行く手を阻むように立ち塞がったのは――全く得体の知れない「影」だった。
灰色。
顔を持たず、蜃気楼のように輪郭をブレさせる、灰色の騎士。
自我も、野心も、驕りも何一つ感じさせない。ただそこにあるのは、食材の声を聴き、そのすべてを研ぎ澄ませるためだけに存在する、絶対的なまでの純度の高い『剣』。
(……チィッ)
顔のない灰色の騎士が、静かにその剣を構えた瞬間。
勇者は本能的な悪寒に背筋を粟立たせ、己の武器を強く握り直した。
――ガツンッ!!
脳裏に響く金属の衝突音とともに、「
「お題の食材は『唐辛子』! 『お茶』! 『牛肉』! 2Bout調理開始ィィィッ!!」
会場の実況が響き渡る中、反逆者側の陣営は、ステージ上で繰り広げられている『異様な光景』に息を呑み、言葉を失っていた。
「な……なんだよ、あれ……」
「気味が悪い……美作のやつ、本当に美作なのか……?」
脱落した生徒、反逆者側の生徒たちが震える声で指差す先。
そこでは、セントラル側の調理台に立つ美作昴が、彼本来の粗野な動きを微塵も感じさせない、極めて静謐で洗練された所作で食材の下処理を進めていた。
「……大丈夫だよ。君たちの持ち味は、俺が絶対に損なわせたりしないからね」
隣の調理台で、司が目前の食材へ静かに、慈しむように囁く。
すると、それに呼応するかのように、美作の口からも全く同じトーン、同じ息遣いで言葉が紡がれた。
『……ああ、いいね。こうして優しく下処理をしてあげないと、君の繊細な香りが死んでしまうから』
それは単なる身体的な「模倣」、コピーではない。全く同じタイミングで動く鏡合わせのドッペルゲンガーというわけでもなかった。
美作の脳内に、司瑛士という人間の思考回路そのものが完全に『搭載』、インストールされているのだ。
『第一席・司瑛士ならば、この唐辛子を前にしてどう考え、どうアプローチするか』。その思考の軌跡を完璧に辿り、司が選ぶであろう最善の調理法を、司と全く同等の繊細な技術をもって実行しているのである。
「おい……見ろよ、あいつら……最初から互いのサポートに入ってねぇか!?」
反逆者側の観客席で、青木が戦慄を隠せない声を上げる。
「普通なら自分のメニューの下ごしらえを最優先にするはずなのに、あいつら一切の無駄なく互いの仕込みを分担し始めてる……!」
「それだけじゃない……」
丸井善二が額に汗を浮かべ、眼鏡の奥の目を限界まで見開いた。
「美作の動きと司第一席の動き……そのすべてが寸分の狂いもなく噛み合っているんだ。調理の第一段階において、理論上考え得る最大限の効率で作業が進められている。だけど、本来なら別の人間同士だ。言葉のやり取りすらなしにここまで同調するなんてありえない……!」
反逆者陣営に漂う異様な違和感。それは美作の隣の調理台に立つ本物の司との連携だった。
言葉を交わすことも、目配せをすることもない。ただ互いが「司瑛士ならばこう動く」という完璧な共通解を持っているがゆえに、別々の料理を作りながらも二人の間にはまるで目に見えない糸で繋がっているかのような、滑らかで無駄のないサポート体制が築かれていたのだ。
『……怖がらなくていいよ。君の良さは、俺が全部引き出してあげるからね』
美作の口から紡がれたのは、彼自身の声帯を使っていながらも、第一席の持つ儚さと威圧感を完璧に孕んだ声だった。自身の自我を完全に消し去り、第一席の圧倒的な実力と精神性をそのまま己の器に降ろした美作。その彼岸と此岸の境界が曖昧になるような蜃気楼の如き佇まいは、まさに先ほど女木島がイメージの中で対峙した「灰色の騎士」そのものだった。
「……ふぅん。気持ち悪ィ真似しやがって」
女木島は低く唸ると、気圧されることなく己の調理台へと向き直った。
彼が引いたお題は『唐辛子』。
女木島が選んだアプローチは、アフリカ大陸の強烈なスパイスと旨味を融合させた『アフリカンラーメン』だった。大地の力強さを象徴するような数種類の唐辛子を巧みにブレンドし、ピーナッツペーストや野性味溢れる肉の出汁と掛け合わせることで、熱く重厚な一杯を創り上げようとしていた。それはまさに、彼自身の生き様である「勇者の歩み」を体現したような、エネルギッシュで泥臭いラーメン道だ。
しかし、対する美作、否。『司』のアプローチは、それとは全く対極にあるものだった。
女木島が唐辛子を「他の強烈な素材とぶつけ合い、渾然一体のパワーを生み出す」ために使っているのに対し、美作のまな板の上にある唐辛子は、極限まで不純物を削ぎ落とされていた。
まるで、一本の美しい名剣を鍛え上げるかのように。
『……君は、とても繊細で、純粋な辛みを持っているね。他の雑味で君を汚すようなことはしない。君自身が最高の輝きを放つステージを、俺が用意してあげるから』
巨体の美作が、うっとりとするような手つきで唐辛子を撫でる。
それは、食材に絶対の敬意を払い、自らは食材を輝かせるための「従者」に徹するという、司瑛士の料理哲学そのもの。
唐辛子の持つ鮮烈な香り、突き抜けるような辛み、そしてその奥に潜むかすかな甘み。それらを一切殺すことなく、最も純度の高い状態で抽出する。余計なものを削ぎ落とし、ただひたすらに唐辛子という素材の「良さ」だけを際立たせ、研ぎ澄まされた一本の剣のような存在感を放つ料理へと昇華させていく。
圧倒的な熱量で大地を突き進む女木島のラーメンを、自我なき灰色の絶対剣が静かに、そして確実に包囲し始めていた。
一方、その異様な光景を別の調理台から鋭く睨みつけている男がいた。元・第八席、久我照紀である。
彼にとって、第一席である司瑛士との対決は、自身のすべてを懸けたリベンジマッチだ。かつて完膚なきまでに叩き潰された絶対王者に対し、己の成長をぶつける絶好の舞台。
しかし、その王者は今、自分との勝負の最中でありながら、隣の美作と不気味なほどの連携を見せている。久我は中華鍋を振るう手を止めず、挑発するように口角を上げた。
「……いやー、驚いたね。あの司サンが他人のサポートをフルに受けるなんてさ。一人じゃさばききれなくなっちゃった? それとも、俺との勝負から逃げたくなったのかなー?」
軽口を叩きながら、久我は対戦相手の調理台へと視線を向ける。
『……別に、逃げてるわけじゃないよ。ただ、俺の料理にはこの工程が必要だから、『俺』が合わせてくれているだけさ』
「お前が――あ?」
司ではなく美作の発言に、お前じゃないと言い返そうとした久我の言葉が、喉の奥でピタリと止まる。
声の主は間違いなく美作だ。しかし、その声の発音の仕方、息継ぎのタイミング、そして独特の儚げな間の取り方が、司瑛士と全く同じで――それは対戦相手である女木島と対面する場の調理台から聞こえていなければならないはずだった。
ゾクリ、と久我の背筋に冷たいものが走る。
自身の調理へと集中していたその一瞬に向けた意識。久我の網膜に、まな板に向かう美作の巨体がブレて見え、そこに銀髪の騎士――司瑛士の幻影が蜃気楼のように重なって見えた。
「――っ!?」
思わず目を見開いた次の瞬間、久我は気がついた。いつの間にか、調理台に立つ二人の位置が『入れ替わっていた』のだ。
久我の正面には美作が立ち、久我の対戦相手である本物の司は女木島の正面へと移動している。
恐るべきはごくごく自然に入れ替わりの動作が行われたこと。
それぞれが全く同じ思考で、『二つの料理を自分二人で作る』ことを理解しているからこそ成立する異常な光景。最も効率の良い導線をなぞり、二人は無言のまま立ち位置をすり替え、まるで何事もなかったかのように、先ほどまでもう一人が握っていた包丁をそのまま引き継ぎ、調理の続きを行っている。
(……なんだよ、これは……!)
もしも自分がもう一人いたら、どんなに多くのことができるだろうか。
厨房に立つ料理人ならば、誰もが一度はそんな夢想をするはずだ。しかし、現実には自分と全く同じ技量、全く同じ思考回路を持つ人間など存在するはずがない。だからこそ、料理人たちは部門を分け、スー・シェフを置き、作業を分担することで効率化を図るのだ。
しかし、もしもそれが『本当に自分がもう一人いる』としたら?
司瑛士の料理へのアプローチ。それは『いかに自分の
それは裏を返せば、どういうことか。
司と全く同じ超絶的な調理技術を持ち、司と全く同じ食材への判断を下すことができれば――その料理は、誰にでも再現可能だということだ。
ゆえに、対象の思考から一挙手一投足に至るまでを完全に読み取る『
遠月学園において、最も優れた技術と絶対的な感覚を持つ第一席。
その男がもう一人いて、互いに完璧な連携とっている。
そんなふざけたチートに、追従できる存在などいるはずがない。誰もが頭の片隅で思い描き、しかし絶対に不可能だと切り捨てた究極の理想形が、今、この食戟の舞台で現実のものとして再現されていた。
「ちょっと待ってよ!」
その異様な光景に、たまらず声を上げたのは反逆者側の待機席で見守っていた極星寮の面々をはじめとする脱落者たちだった。
「対戦相手もお題も、もう決まってるんだぞ!? 調理の途中でシェフを丸ごと交換するなんて、どう考えてもルール違反じゃないのか!?」
悲痛なまでの抗議の声。それに答えたのは、会場の最上段から優雅に見下ろす男――遠月学園総帥、薙切薊だった。
「ああ、通常の食戟であればその通りだ」
マイクを通した薊の穏やかで静かな声が、波立つ会場をスッと撫でつけるように響き渡る。
「食戟において、本人の代わりに別の者が調理を行う代行、替え玉のような行為は、当然ながら対戦相手の合意がなければ成立しない。……しかし」
薊は愉悦に口元を僅かに歪め、言葉を続けた。
「これは『連隊食戟』。チームメンバー同士のサポートが公式に認められたルールに基づく戦いだ。そして――そのサポートが『どこまで許されるか』という線引きは、規則のどこにも記載されてはいない」
「なっ……屁理屈だろ、そんなの!」
「はたしてそうだろうか? なぜなら、彼らもまた相応のリスクを背負っている」
反発する生徒たちを諭すように、薊は滑らかで冷酷な口調で語る。
「自分の苦手なお題だからと逃げるような真似をすれば、当然、審査員の心証を著しく損ねるだろう。それに……自分のものではない料理によって、自分自身の評価を決定づけられる。それは、誇り高き料理人にとって己のプライドを粉々に砕かれるに等しい屈辱的な行為だ。それに納得してまで行うというのであれば、止める理由はない。……ただ、この光景を見て、審査員の方々が何を思うかは私の知る所ではないけれどね」
そう言って、薊は意味深な視線を審査員席へと向けた。
一方、その視線を向けられた審査員たち――アンをはじめとするWGOの執行官たちもまた、深い困惑の渦中にあった。
(薙切総帥の言う通り……もしも連隊食戟の途中で、あのように相手と料理を丸ごと入れ替えるような行為をすれば、本来であれば心証も評価も大きく下がってしかるべきです)
アンは額に冷や汗をにじませながら、目まぐるしく入れ替わり続ける第一席と美作の姿を見つめていた。
料理の放棄。他者への依存。それは料理人としての自我の欠如とみなされてもおかしくない。
だが――。
(目の前で起きているこの出来事は……私たちがこれまで遭遇してきた『料理の常識』から、あまりにもかけ離れすぎている……!)
そこにあるのは手抜きでも、単なる代打ちでもなかった。ただ純粋に、「二つの身体を持った一つの思考」が、最適解の効率で二つの極上の品を同時に組み上げているだけなのだ。
所謂裏の――真夜中の料理人たちの行う調理ですら児戯に思えるほど、見たことのない異常な調理風景。そしてそこから生み出されようとしている圧倒的なまでの美食の気配。未曾有の事態を前に、世界最高の舌を持つ審査員たちでさえ、今の段階で即座に判断を下すことも、止めることもできずにただ戦慄するしかなかった。
そんな静かな狂気が支配するステージ上で、不意に声が上がった。
「……ねぇ、叡山クン。そっちは大丈夫? 必要なら、俺たちが手を貸そうか?」
掛けられたのは、どこか申し訳なさそうで儚げな、司瑛士のそれだった。
『牛肉』のお題と向き合っていた叡山は苛立ちを隠さずに声のした方へと顔を向ける。その視線の先に立っていたのは、巨体を丸めて包丁を握る美作――。
「あぁん!? テメェ美作、余計な世話焼いてんじゃ――」
いつもの癖で横柄に怒鳴りつけかけた叡山だったが、その言葉は途中で途切れた。
話しかけたのは美作がトレースしている司瑛士ではなく、司本人そのものであることに気付き、脳が瞬時に状況を認識しきれず、一瞬の『間』が生まれる。
(……チッ! 気味が悪い真似しやがって……!)
味方であるはずの叡山でさえ、見た目と声のギャップに判断を狂わせられ、即座に対応できないほどの違和感。叡山は忌々しそうに盛大な舌打ちを噛み潰すと、吐き捨てるように返した。
「……けっ、問題ねぇよ司先輩。自分の分くらい、俺一人で十分だ」
「そっか……ならいいんだ。邪魔してごめんね」
視線をそらした叡山からは、本物の司なのか、それとも『司』となった美作なのか。もはや区別すらつかない返答が風のように吹き抜ける。
そのやり取りを、対面する調理台から静かな眼光で見つめていた男がいた。叡山の対戦相手――タクミ・アルディーニである。
「……ずいぶんと余裕ですね、叡山」
タクミは調理の手を止めることなく、冷ややかな、しかし凛とした声を放った。
「第一席のサポートを断るほど自分の料理に絶対の自信があるのか……それとも、あちらの異様さに気を取られて、目の前の勝負に集中できていないだけですか?」
「……あァ?」
挑発的な言葉を受け、叡山はタクミの方へと緩慢に向き直った。その顔には凶暴な笑みが浮かび、額には不快感を示す青筋が浮き出ている。
「ハッ! 言わせておけば調子に乗りやがって、イタリアのド田舎シェフが。誰に向かって口叩いてんだ? テメェら反逆者どもが束になって挑んでこようが、足元にも及ばねぇんだよ。……いいか? お前のその青くさいプライドごと叩き潰してやるぜ」
ギラついた蛇のような視線で煽り返す叡山。だが、タクミの表情は一切崩れなかった。
取り乱すことも、感情を露わにすることもなく、ただ静かに己のまな板の上にある極上の牛肉へと視線を戻す。
「言いたいことはそれだけですか。……なら、余計なお喋りはここまでにして調理に集中してください。俺は己の料理で、あなたを倒すだけだ」
一切揺らぐことのないタクミの冷徹なまでの集中力と、隙のない佇まい。
その静かな覚悟に触れた瞬間、叡山の脳内から司や美作の存在、そして会場の異様な空気すらも一瞬で吹き飛んだ。
(……チッ、このクソガキが……! 徹底的に絶望させてやる……!)
目の前で不敵に佇むタクミ・アルディーニという男の料理も矜持も、跡形もなく踏みにじること。
叡山は完全に意識を目の前の戦いへと切り替え、猛毒を孕んだ手つきで自身の調理へと没頭し始めた。
――
その頃、司と美作の陣営は、もはや一切の淀みもない完璧な静寂の中で調理の佳境を迎えていた。
二人の間には依然として言葉すらない。しかし、片方がソースの火加減を調整するほんの数秒の間に、もう片方が仕上げのハーブを寸分の狂いもなく刻み終え、流れるように手渡していく。それはまさに、四本の腕を持つ一人の天才シェフが厨房を支配しているかのような、美しくも恐ろしい光景だった。
やがて、二人は全く同時にコンロの火を止め、皿の上へと最後の彩りを添えた。
カチャリ、とカトラリーを置く微かな音が重なる。
残り時間、20分。
連隊食戟という最高峰の舞台において、あまりにも早すぎる完成。そこに濃縮された作業工程の密度は、一人で行うのならたとえ司であったとしてもギリギリかそれ以上もかかるものだ。
「ん……想定よりも時間が余ってしまったか。これならもっと深くまで食材と向き合うことができたけれど……それはまた次回かな」
完成した二つの料理を乗せたサーブ用のワゴンを、美作が静かに押し始める。
その後ろ姿を追いかけるように歩き出した司は、ふと足を止め、背後で調理を続ける二人へと視線を向けた。
「……先に行くよ、久我。女木島も」
そこに侮蔑や嘲笑は一切ない。ただ純粋に、己の仕事を終えた者が次へと向かうだけの、どこまでもフラットで残酷な宣告。第一席と『もう一人の第一席』は、全力で追いすがる反逆者たちを彼方へ置き去りにして、優雅な足取りで審査員席へと歩みを進めていった。
「お待たせしました」
アンをはじめとする審査員たちの前に、ワゴンを押した美作が恭しく頭を下げる。
美作の洗練された所作によって、次々と審査員のテーブルへと皿が配膳されていく中、本物の司が静かに一歩前へと進み出た。
「料理の説明をさせていただきます」
「……え?」
その言葉に、アンは思わず困惑の声を漏らした。
配膳されているのは、司が担当した『お茶』の料理と、美作が担当した『唐辛子』の料理の二品だ。しかし、司はまるで当然のことのように「自分が両方説明する」とでもいうように言葉を口にしたのだ。
「あの……司君。その、美作君の作った品を、あなたが説明するというのですか?」
アンの問いかけに、司はきょとんとした表情を浮かべた。
まるで、なぜそんな当たり前のことを聞かれるのか本気で理解できないといった様子で、瞬きを一つ落とす。
「ええ。だって、『俺』の作った料理ですので」
一切のてらいもなく、悪びれる様子もなく放たれたその言葉。
驕りではなく、それが彼にとっての『絶対的な事実』であるという異常な認識に、アンは背筋に冷たい氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。
「では、まずはこちらから」
司が優雅に手を差し示す。
それは、美作が手掛けた――否、『司瑛士』が美作の身体を使って創り上げた『唐辛子』の品。テーブルに置かれたその深皿を覗き込んだ瞬間、審査員たちは一様に息を呑み、目を丸くした。
「こ……これは……!?」
「信じられん。お題は『唐辛子』だったはず……!」
そこに、唐辛子を象徴する暴力的で鮮烈な『赤』は一切存在しなかった。
深皿に満たされているのは、まるで湧き水のように透明で、どこまでも澄み切った黄金色のスープ。そしてその中央には、純白の雪山を思わせるふんわりとした白身魚のムースが鎮座し、周囲には真珠のように艶やかな泡が添えられているだけ。
それは見た目だけならば、あまりにも繊細で静謐な、完全なる『白と透明』の世界だった。
「品名は、……『唐辛子と白身魚のコンソメ・ナージュ 〜純白の舞台(ステージ)〜』です」
司が、我が子を慈しむような柔らかな声で語り始める。
その横で、美作もまた全く同じタイミングで小さく頷き、静かに目を伏せていた。
「唐辛子という素材の持つ辛みは、とても美しく純粋なものです。ですが、あの強烈な色味や雑味のある青臭さは、時として素材そのものの繊細な香りを隠してしまう。だから……削ぎ落としました。低温のオイルとアルコールを用いた特殊な抽出法で、唐辛子の持つフルーティーな甘い香りと、透明な『辛味の純粋なエッセンス』だけを取り出したんです」
「辛味のエッセンス……だけを取り出したというのか!?」
「はい。その透明なエッセンスを極上のコンソメと合わせることで、唐辛子の持つ良さだけが輝くクリアなスープに仕上げました。中央の白身魚と帆立のムースは、いっさいの主張を持たないよう、極限まで滑らかに、純白に仕立ててあります。……さぁ、どうぞ」
促されるまま、アンは震える手でスプーンを取り、その透明なスープと純白のムースを掬い上げ、そっと口へと運んだ。
――次の瞬間。
「…………っ!!!」
アンの身体がビクリと大きく跳ね、その頬がカッと紅潮した。
痛いほどの辛さではない。しかし、それは間違いなく『唐辛子』の圧倒的な存在感だった。
舌に触れた瞬間、透明なスープの中から、クリスタルのように研ぎ澄まされた鋭くも美しい「辛み」が爆発的に広がる。雑味が一切ないため、辛みそのものが持つ甘さと、花のような華やかな香りがどこまでもダイレクトに脳髄を突き抜けていく。
(ああ……なんという純度……! なんという切れ味……っ!)
アンは目を閉じ、全身を突き抜けるような熱と歓喜に打ち震えた。
合わせられた純白のムースは、その暴力的なまでの透明な辛みを優しく受け止めるための『キャンバス』。他の味で対抗するのではなく、唐辛子という名剣を最も美しく振るわせるためだけに存在する、絶対的な献身の舞台。
「すごい……! 唐辛子の辛さをここまで洗練させ、これほどまでに気高く昇華させるなんて……! これは間違いなく、己を消し食材の良さのみを極限まで引き出す『
恍惚とした表情で絶賛するアンの言葉に、反逆者たちの顔が絶望に染まっていく。
美作の姿をした男が生み出した、完璧なる第一席の味。
一切の破綻のない究極のシンクロナイズド・クッキングがもたらしたその一皿は、女木島と久我を包囲する絶望の壁として、これ以上ないほど重く、高くそびえ立ち――、
――
立て続けに供された本物の司による『お茶』の品もまた、久我が持てるすべての技術と執念を注ぎ込んだアプローチを赤子のように捻り潰し、審査員たちを抗いようのない美食の深淵へと叩き落とした。
――ガッ!!
再び、脳裏に重厚な金属音が響き渡る。
吹き荒れていた熱風が完全に止み、静寂だけが支配する「
見上げる先、勇者の眼前に立つのは、蜃気楼のように輪郭をブレさせる『顔の無い灰色の騎士』。
その兜の奥から、美作昴という一人の料理人の顔や自我が覗くことは、ついぞ最後まで一度としてなかった。彼はただ静かに、一切の淀みなく「食卓の白騎士」が持つ気高き名剣の軌跡を完璧に再現しきり、勇者の息の根を止めたのだ。
己の役目を終えた灰色の騎士は、膝をつく女木島に一瞥をくれることもなく、無言のまま刃を納め、霧の彼方へと歩み去っていく。
さらに、そのすぐ傍ら。
激しい戦闘の末に焦土と化した中華の陣地で、大の字になって仰向けに倒れ伏している男がいた。久我照紀だ。
荒い息を吐き、虚空を睨みつける彼の喉元には、本物の『白騎士』たる司瑛士の純白の剣先が、寸分の狂いもなくピタリと突きつけられていた。
そこに悪意や嘲笑は微塵もない。ただ、絶対的な高みから静かに下された、残酷なまでの王者の宣告であった。
『勝負ありだ。……泥臭い歩みも嫌いじゃないけど、少し不純物が多すぎたかな』
二人の騎士が重なるように呟いたその言葉とともに、視象の世界は真っ白な光へとフェードアウトしていく。
現実に引き戻された食戟会場は、水を打ったような異様な静寂に包まれていた。
腕を組み重い息を吐く女木島と、悔しさに唇を噛み締めながら天を仰ぐ久我。彼らの出した皿もまた、審査員のあらゆる感情を揺さぶるそれであった。だが――
「判定――ッ!!」
沈黙を切り裂くように、川島麗が張り詰めた声を上げる。その声には未知なる美食を味わった歓喜と、人智を超えた料理人たちへの畏怖が入り混じっていた。
「勝者……司瑛士! 美作昴!! そして――」
2Boutの鮮烈な決着。それと同時に、勝敗を示す電光掲示板には、美作の勝利と、司の圧倒的な勝利を告げるランプが、無慈悲なほど鮮やかに点灯していた。
「そして――タクミ・アルディーニ!!」
川島麗の悲鳴のようなアナウンスが会場に響き渡る中、司は静かに頭上へと視線を向けた。
電光掲示板に点灯する、勝者と敗者を残酷に分かつ光の明滅。自分と美作の勝利を示すランプの横で、反逆者側の陣営に一つだけ煌々と輝くランプがあった。
(……ああ。叡山くんは、負けたのか)
司は微かに首を巡らせ、離れた調理台で立ち尽くす男を一瞥した。
顔を歪め、屈辱と怒りにわななく叡山枝津也。そしてその対面で、涼やかな表情を崩さないタクミ・アルディーニ。
勝敗の決手は、詳しく聞かずとも司には容易に想像がついた。叡山の得意とする盤外戦術――食材の特性を利用した妨害や、あるいは何らかの心理的な罠を仕掛けようとして、逆にタクミにそれを利用され、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
かつて自治組織を潰しにかかったとき見せたものと何ら変わらない、彼特有の悪癖が出たのか。それとも、叡山の集中を司たちから自分へと向けさせ、罠を仕掛けるよう仕向けたタクミが一枚上手だったのか。両方だろうな、と司は当たりをつける。
司は静かに視線をさらに上へと移した。会場の最上段。特等席からこの勝負を見下ろしている遠月学園総帥、薙切薊の姿がある。
1Boutにおいて敗北を喫した白津、紀ノ國、新戸の三人に対し、薊は一切の叱責を行わなかった。ただ静かに敗北を受け入れさせ、この連隊食戟という未曾有の死闘を経た後の奮闘を、さらなる成長を望んだ。
それはかつての「失敗した者を容赦なく切り捨てる」冷酷な遠月ではなく、完全なる管理下において「失敗すらも糧として己の血肉とさせる」という、今の薊政権ならではの理にかなった対応だった。司自身は甘いと判断しつつも、その方針には一定の理解と共感を抱いている。
――ただし。
それはあくまで、薊の思う遠月の生徒が『失敗を糧にできる最低限の凡夫以上であること』が大前提だ。
では、『失敗から学べず、かつてと同じような愚かな失敗を繰り返した凡夫以下』に対してはどうか。
(……あーあ。怒ってるなぁ、総帥)
特等席に座る薊の顔に激昂の色はない。しかし、叡山を見下ろすその瞳の奥には、絶対零度の冷徹な光が宿っていた。
そのひどく冷やかな視線に気づき、司は内心で密かにため息を吐く。
(せめて純粋に自分の料理の腕だけで競って負けたのなら、まだ言い訳もきいただろうに)
小細工を弄し、相手の料理を陥れることに固執した結果、自身の料理すらも凌駕されて敗れる。それも一度は警告をし、釘を刺した上でのこの失態だ。目も当てられないだろう。
(……良くて今と同じか、もっと下の席。最悪、外されるだろうな)
司は、歯を食いしばりながらタクミを睨みつける叡山を見やり、酷く冷淡な予測を立てる。同じ集まりで活動をしていた仲とはいえ、それ以上の関係は叡山との間には無かった。
「……さて」
司はそれ以上叡山に意識を割くことをやめ、前を向いた。
熱狂と絶望が入り混じる歓声の中、司は隣で静かに息を整えている『もう一人の自分』――否、美作へと声をかけるのだった。
(1Boutの三連敗に続いて、叡山まで負けたとなると……反逆者側に対して、少しビハインドな状況になってしまったね)
司は内心で現状の戦力を天秤にかけ、これからの展開を予測する。この連隊食戟において戦力を立て続けに失った事実は決して軽くはない。勢いづいた反逆者たちを確実に屠るためには、出し惜しみをしている余裕はないだろう。
(明日、全試合で俺たちが出るしかないか。……でも、美作がいればどんな相手でも今日みたいな完璧な連携が組めるし、心強いな)
そう考え、これからの算段をすべく、司は隣の調理台へと振り返った。
「ねぇ、美作。明日のことなんだけど、今日と違って全試合を――」
声をかけた直後。
言葉の続きは、間抜けなほど呆気なく宙に消えた。
「えっ……!?」
司は目を丸くし、自分の調理台の陰を覗き込む。
そこには、まるで空気が抜けきった巨大な風船のように、へなへなと床にへたり込んでいる美作昴の姿があった。
ただへたり込んでいるだけではない。その巨体からは文字通りすべての生気が抜け落ちており、まるでそこだけ照明が当たっていないかのように真っ白に燃え尽きている。激しい戦いを終えて作画のカロリーが完全に尽き果てたかのような、見事なまでの『作画崩壊』を起こした白黒の粗い線画状態になっていたのだ。
「ちょ、ちょっと!? ど、どうしたんだい美作!? 大丈夫!?」
つい先ほどまで会場全体を震え上がらせていた『食卓の白騎士』の威厳はどこへやら。司はいつもの気弱で心配性な素の顔に戻り、わたわたと慌てふためきながら美作に駆け寄った。
「き、急に倒れ込んだりして……! もしかして調理中にどこか火傷でもしたの!? それとも体調が……!」
「……どうしたも、こうしたも……ねぇよ……」
死にかけのセミのような、力ない声。美作は恨めしそうにジト目で司を見上げると、深く、深ーく、口から魂が抜け出そうなほど重いため息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの司瑛士を完璧にトレースしていた冷徹さや静謐さは微塵も残っていない。ただひたすらに、「もう一歩も動きたくありません」というストライキ宣言のような、呆れと疲労感が漂っていた。
「ハァー……ッ。あんた……このレベルの相手に、よくこの集中力を維持しつづけられんな……」
美作は呆れたようにボヤき、ズンッと重い頭を壁に預けた。
『
己のエゴを完全に消し去り、食材の声だけを聴き、その良さを極限まで引き出すためだけに奉仕する。言葉にするだけなら簡単だが、それをあの尋常ではないプレッシャーが支配する食戟の最中、しかも女木島という圧倒的な強者を相手に、一切のノイズを挟まず最初から最後まで完璧に遂行するなど、常人の精神力で成し遂げられる芸当ではない。
少しでも気を抜けば己の自我が混ざり、食材の純度を濁らせてしまう。その綱渡りのような極限状態の精神世界を、美作は司の思考をトレースすることで、同じように体験し続けていたのだ。
3年の十傑たちの技術を吸収し続けてそれを身に着け、司の間近にいて観察もし続けた。料理人として基礎力とレベル、そして司に対する理解とトレース力を格段に上げた。実際に練習で同じように司同士で連携も試運転はした。
――それにもかかわらず、連隊食戟での司の完全なトレースにはそれだけの負荷がかかる。
「同格やそれ以上の相手との食戟であんたのトレースをするのが、ここまで異常な作業だとは思わなかったぜ……。もうキャパオーバーだ……」
もはや指一本動かす気力すら残っていないのだろう。白黒の線画状態のままズルズルと床に突っ伏した美作は、疲労困憊の顔に引きつったような笑みを浮かべ、底知れぬ化物を見るような目で司を見上げた。
「……マジでバケモノかよ、あんたは」
心底からの実感を込めて呟いた美作の言葉に、司はきょとんと目を瞬かせた。そして、どこかズレた、まるで他人事のような相槌を打つ。
「そっかぁ。やっぱり、本番の食戟でずっと俺に合わせ続けるのは大変だったんだね」
「……あぁ、わかってくれたなら――」
「それで、明日のことなんだけど、全試合俺たちで出ることにするから」
「今の話聞いてたのかおい!?」
労いの言葉から一秒も経たずに本題へ戻ろうとする司に、美作はたまらず、掠れた声に無理やり力を込めてツッコミを入れた。先ほどまでの「もう一歩も動きたくありません」というストライキ宣言を、この男は一体どう解釈したのだろうか。
「えっ? うーん……やっぱり、一日で連続でやるには難しそうかなぁ?」
司は心底不思議そうに首を傾げた。その顔には悪意など微塵もなく、純粋に「少し休めば回復するんじゃない?」くらいの軽い認識しか持ち合わせていないことが窺える。その天然っぷりに、美作は重い頭を抱え込んだ。
「アンタなぁ……。あの極限の精神状態を何戦もキープしろって? 途中で完全に作画崩壊して、フライパンの中身ごと料理を斜め上に吹っ飛ばしていいってんなら、やってやってもいいがな……」
もはや疲労で言葉を選ぶ余裕もない美作は、半ばヤケクソ気味に嫌味を吐き捨てた。いかに自分の精神のキャパシティが限界を突破しているか、皮肉を込めて伝えたつもりだった。
しかし、美作のその精一杯の嫌味を受け取った司は、顎に手を当てて真剣な顔で考え込み始めてしまった。
「斜め上に……? ええと、つまり……俺の料理に、美作なりの新しいアレンジを混ぜたいってこと?」
「何をどう判断したらその発想になるんだアンタ……!!」
ツッコミを入れ、美作は再び床へと突っ伏した。結局のところ、この第一席の頭の中は「自分の料理(エゴのない純粋な一皿)を完璧に仕上げる」ことしかないらしい。
「まぁ、それなら仕方ないかな。……やっぱり、明日以降はとりあえず俺は全部出るしかないなぁ」
顎に手を当てて、ふぅ、と小さくため息をつく司。
この激戦を終えた直後だというのに、明日以降のすべての試合に一人で出場して勝ち抜くという異常な前提を、さも「今日の夕食はカレーにするかぁ」くらいのトーンで呟くその姿は、やはり美作の目には規格外の化け物にしか映らなかった。
「よっ! 司も珍しく頭抱えてんじゃん!」
不意に、二人の背後から陽気でからかうような声が投げかけられた。
振り返ると、そこには竜胆が、ニシシと八重歯を覗かせて笑いながら歩み寄ってきていた。一応は反逆者側に裏切った立場だというのに普段通りの様子を隠そうともしない。
その様子に、遠巻きに様子を窺っていた反逆者側のメンバーもセントラル側のメンバーたちも息を呑んで立ち尽くした。
司は振り返ると、いつもの気弱そうな表情をさらに困らせて、ふにゃりと眉を下げた。
「あぁ、竜胆……。笑い事じゃないよ。叡山が負けちゃって、反逆者側にスコアのリードを許しちゃったし」
「そうだなー、あたしが居ないぶん、ちゃんと後輩を慰めてやるんだぞ。叡山かわいそうだからな」
「俺が? うーん……竜胆やっぱりこっちにきてやってくれない? ほら、俺ってそういうことすると怒られてばっかりだからさ」
「あたしがぁ!? さすがのあたしだって裏切った側に行ってまでそんなことするほどノンデリにはなれないって!」
「そっかぁ」
「……いや、小林先輩も十分ノンデリだと思うが……」
美作の突っ込みにはほぼ全員が頷きながらも、竜胆はケラケラと笑いながら司の背中をバシバシと叩く。
司のそのやり取りには、連隊食戟という極限の勝負の最中とは思えないほどの余裕が漂っていた。
「でもさ、竜胆。俺、連隊食戟が始まる前、薊総帥には言ったんだよ」
「あ? なんだっけ?」
「うん。……複数人一度に出す必要あるかって。こっちの要求は全部一人にして、全部俺が出ればいいじゃないかって」
司は首を傾げ、まるで今日の夕飯の献立でも話すように、とんでもないことを口にした。
その場に居合わせ、二人の会話を耳にした反逆者側のメンバー全員が、絶句した。
あたり前のことのように放たれたその言葉。それはハッタリでも驕りでもなく、司瑛士という男が本気で「自分一人で全員を叩き潰せる」と確信しているからこそ出る、純粋な疑問だったのだ。
だが、司はふと会場の電光掲示板へと視線を移し、困ったように眉を下げた。
「でもそんなこと言って、セントラル側は今負けてるだろー?」
なんの遠慮もなく言う竜胆に司も苦笑する。
「確かに……今のこのスコアだと、セントラル側の俺としてはその言葉も格好がつかないかな」
十傑という圧倒的な戦力を投入しながら、すでに反逆者側に黒星をつけられている現状。いくら自分が完璧に勝ち進んだとしても、セントラル側が敗北しているのは事実だ。
「美作、そろそろ立てる?」
「……なんとか、な」
美作は重い息を吐きながら、調理台に手をついて自身の巨体をゆっくりと持ち上げた。疲労困憊ではあるが、その瞳にはかつてないほどの濃密な経験を積んだ料理人としての鋭い光が宿っている。
「じゃあ、戻ろうか。明日のためにも、少しでも休まないとね」
「……可能なら後半に出してくれ」
「善処するよ。ゆくゆくは余裕になってほしいけれどね」
そう言って、司は反逆者たちを一瞥することもなく、美作と優雅な足取りでその場を後にしようとして、ふと足を止める。
セントラル側へと向かう司とは反対に、己の陣営である反逆者側へと戻るべく立ち止まっていた竜胆へ、司は静かに振り返った。
「……じゃあ、竜胆」
振り返った司の眼差しは、先ほどまでのふんわりとした気弱そうなそれから一変していた。底知れぬ深淵を思わせる、冷徹で圧倒的なプレッシャーを放つ瞳。
彼は、かつての仲間であり、今は明確な『敵』として立ちはだかる彼女へ向けて、淡々と告げた。
「明日は、よろしくね」
それは、紛れもない宣戦布告だった。
いかに相手がかつての同胞であろうと、己の料理の前にすべてを平伏させるという絶対王者の矜持が込められた一言。
その言葉を正面から受けた竜胆は、一瞬だけ目を丸くした後――堪えきれないといった様子で、口角を限界まで吊り上げた。
特徴的な八重歯が覗き、その黄金色の瞳に猛獣のような好戦的な光がギラリと宿る。
「……ああ! 楽しみにしてるぜ、司」
かつての盟友からの宣戦布告を全身で浴び、竜胆は獰猛で、心の底から楽しげな笑みを作った。
――
「タクミくんの勝利により、1Boutの三連勝と合わせて、スコアは私たち反逆者側がリードしています。……ですが」
腕を組み、険しい表情でモニターを見つめていたえりなが、重苦しい声で呟く。
「誰も、今の状況を『優勢』だなんて思えない……そんな空気だね」
えりなの言葉を引き継ぐように、一色慧が静かに目を開いた。いつもは飄々としている彼の顔からも、今は微塵も笑みが消え去っている。
「ええ……。女木島先輩と久我先輩。私たち陣営でも最強クラスの矛を、二本同時に折られてしまったのですから」
「……面目ねぇ」
低く、地を這うような声が響く。腕を組み、目を閉じている女木島だった。
「いいえ。……少なくともあの連携と同調に対しては、誰が出ようと初見ではどうすることもできなかったでしょう。これが連隊食戟であることが幸いでした、が」
えりなが悔しげに唇を噛む。女木島の圧倒的なパワーと経験、久我の執念と研ぎ澄まされた中華の技。本来であれば、十傑の上位陣と十二分に渡り合えるはずの二人が、司と美作という予想外の「完全な
「あの司先輩と美作の連携……マジでエグかったな。美作のやつ、本当に司先輩そのものになりきってやがった」
創真が頭を掻きながら、ステージ上で繰り広げられた異様な光景を思い返す。
「だけどよ、美作のやつ、試合が終わった途端にスッカスカの灰みたいになってぶっ倒れてたぜ? あんな綱渡りみたいなトレース、何度もやれるもんなのか?」
創真のその指摘に、一色が一呼吸置いてから静かに頷いた。
「ああ。創真くんの言う通りだ。あの極限の精神状態を維持し、司先輩の思考に完全に同調し続けるなんて芸当……肉体的にも精神的にも『一日一試合』が限度だろうね。つまり、明日以降もあの完璧な連携を組んでくるとしても、一日につき一回きりだ」
「じゃ、じゃあ、明日組まれるカード全試合であの理不尽なコンビが出てくるわけじゃないんだ!」
恵がパァッと顔を輝かせるが、一色の表情は晴れない。
「そうだね。だけど問題は……司先輩の方だよ」
一色の言葉に、明日に向けた作戦会議を行っていた室内に再び重苦しい緊張が走った。
「熟達者同士の食戟となれば、本来は相応の精神的、そして肉体的な負荷が激しくのしかかるはず。だけど今日の司先輩にその様子はあまり見られない。尋常ではないプレッシャーの中で、彼は美作くんという『自分自身』にサポートを任せていた。そのせいかむしろ普段の食戟よりも、リラックスして料理に没頭できていたように見えた」
その推測は、反逆者たちにとって最悪の事実を突きつけるものだった。
「少なくとも、美作くんと組んだことで司先輩自身の消耗は抑えられている。明日以降も全試合に参戦し連戦になったとして、今日受けた疲労など彼にとって大きな負担ではないだろうね。……そして、セントラル側がスコアがビハインドになっている現状、向こうが最大戦力である第一席を出し惜しみする理由もない」
「つまり……明日、美作くんとの連携がない試合だとしても、疲労の少ない状態の司先輩が出てくる可能性が高いってことね……」
えりなが神妙そうに呟く。
無敵の絶対王者が、一切の疲労を持たずに再び自分たちの前に立ち塞がる。タクミは鋭く目を細めて前を見据えて呟いた。
「ならば、二人が分断されたそのタイミングで、司先輩を叩くしかないということか」
「まっ、そーなるんじゃない? 多分鍵になるのは……りんどー先輩かぁ」
タクミと久我が視線を向けた先。そこには、反逆者陣営の最大のジョーカーであるはずの小林竜胆がのんきそうにこの会議を眺めていた。
「ふーん……ならどうする? あたしは3boutから全部で立ってもいいぜ? 正直料理をしたくてうずうずしてるからなー」
「いえ――小林先輩は4boutからお願いします」
「その心は?」
「はい。司先輩の疲労が影響でないようにするのであれば、美作くんと組んで出てくるのは3boutになるでしょう。勿論私たちがあの連携ごと勝利するのがベストですが……」
「それができなかった場合、確実に仕留められるよう最大戦力を置くってことか」
えりなの冷静な分析に、室内にいた誰もが息を呑んで頷く。
反逆者陣営にとって最大級の脅威となった『二人で一人の第一席』。それをどう打ち崩すかという極めて深刻な議題の中――、
「ならさ、明日のその司先輩と美作のコンビには、俺が戦わせてほしいんだけど!」
重苦しい空気をぶち破るように、創真が元気よく片手を挙げてニカッと笑った。
竜胆がふっと小さく、どこか優しい笑みを零した。
「いや。……そーまが司と戦うとしても、それは一番最後だ。これはあたしの我儘だから無視してくれてもいいけれどな」
「え?」
意外な言葉に創真が目を瞬かせると、竜胆はどこか遠くを見るような瞳で創真とえりなを交互に見やった。
「この連隊食戟の始まりは、お前と薙切だからさ」
竜胆の脳裏に浮かぶのは、吹き荒れる雪原の中で総帥である薊に対し、一歩も引かずにこの全面対決を叩きつけた創真の姿だった。
「だから、全部の終わりも二人に任せたいんだよな。この連隊食戟の末がどうあれ……あたしはそれが一番、納得できる」
冗談めかした様子はない。それは、遠月という学園の頂点に立っていた者としての、そしてこの大勝負の行方を見届ける者としての、竜胆なりの筋の通し方だった。
創真もえりなも、そして周囲の反逆者たちも静かに押し黙り、その覚悟を噛み締める。全員その言葉に否は無いと、そう示していた。
そんなしんみりとした空気を、今度は柔らかくも鋭い声が撫で斬りにした。
「――それなら、司先輩と美作くんの連携には、先に僕が挑ませてもらおうかな」
静かに進み出たのは、一色だった。
いつもと変わらない、ふんわりとした優しげな微笑み。しかし底知れぬ闘志が青白い炎のように揺らめいていた。
「僕が先に司先輩を倒してしまうから……こちらに来てくださった小林先輩には、出番が回らなくて申し訳ないですが」
一色はニコリと、背筋が凍るほど美しい笑みを浮かべてみせる。
その言葉に込められた圧倒的な自信と、反逆者陣営の『矛』としての気迫。それを真正面から浴びた竜胆は、一瞬だけ目を丸くした後、愉快そうに鼻を鳴らした。
「ちぇー。……言ってくれるぜ、一色」
互いに不敵な笑みを交わす二人の姿に、明日の3Boutへ向けた反逆者たちの士気は、静かに高まっていくのだった。
Q.連隊食戟で食戟の内容で相手の精神力や体力を削れる設定は?
A.粉みじんになって消えた。常識的な疲労はあります。