もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
秋の選抜、そして紅葉狩り会での顔合わせから数日後のこと。
遠月学園の敷地内にそびえ立つ、十傑評議会第一席のみに与えられた専用の特別調理室。その重厚な扉の向こう側を、美作昴は音もなく探っていた。
(第一席、司瑛士……)
美作の視線の先には、純白のコックコートを身に纏い、静謐な空気の中でただひたすらに食材と向き合う司の姿があった。
美作が行っているのは、彼が得意とする『周到なる追跡(パーフェクト・トレース)』のための情報収集、いわゆるストーキングである。だが、今回はいつものように「相手を叩き潰す」ための刃を研ぐような真似ではなかった。
紅葉狩り会での、司の純粋すぎる言葉が頭をよぎる。
『最初から普段の俺のトレースをしていれば、君はそこにいる一年生全員に勝てただろう?』
(あんなこと言われて、試さない手はねぇからな)
美作の動機は、あくまで「試しにやってみよう」という程度のものであった。
秋の選抜で幸平創真に敗れ、自らの模倣というスタイルを見つめ直した美作。もしも、学園の頂点である一席の料理の向き合い方を、その深淵なる技能を『トレース』し、自らのものにすることができたなら。それは、他でもない「美作昴の皿」を探し出すための、一つの強力な足がかりになるのではないかと考えたのだ。
美作は息を潜め、メモ帳に司の包丁の角度、火加減、歩幅、そして表情の微細な変化に至るまでを猛烈な勢いで書き込んでいく。
だが、その直後だった。
調理台に向かっていたはずの司がふっと手を止め、困ったように眉を下げて扉の方へと振り返った。
「あの……美作くん、だよね? ずっと外にいると冷えると思うんだけど」
「……チッ」
完全に気配を殺していたはずだったが、あっさりと見破られていた。美作は舌打ちを一つ落とし、巨体を揺らして堂々と調理室の中へと足を踏み入れた。
「……気づいてたなら、さっさと追っ払えばいいだろうが。不審者だぜ、俺は」
「いや、追い払うなんてとんでもないよ。君の実力はよく知ってるからさ」
司はふんわりと人の良い笑みを浮かべ、あろうことか調理場から備品のコックコートとエプロンを取り出し、美作の方へと差し出した。
「せっかくだし、一緒に料理してみない? 俺のトレースをするなら、外からこっそり見るより、隣で同じようにやった方が分かりやすいんじゃないかなって思って」
「……ハッ。あんた、自分がどれだけ恐ろしい提案をしてるか分かって言ってんのか? 俺はあんたの思考も手技も、全部丸裸にして骨の髄までしゃぶり尽くす男だぞ」
「うん。だからこそ、楽しみだよ」
美作の挑発的な凄みすら、司は悪びれることなく純粋な期待の眼差しで受け止めた。
美作は微かに頬を引きつらせながらも、無言でコックコートを受け取り、自身の愛用する包丁を取り出して司の隣へと並び立った。
「それじゃあ、今日は『仔鹿のロースト・二種のソース添え』を作ろうか。まずは下処理から……」
「……うす」
調理が始まった瞬間、美作の瞳から感情の色が消え失せた。
歩幅、呼吸の深さ、筋肉の動かし方、まばたきの回数。そのすべてを隣に立つ司瑛士と完全に同調させていく。
これまでに積み上げてきた情報と、今まさに隣で感じ取れるリアルタイムの動き。美作の脳内で、司の思考回路が凄まじい速度で構築されていく。
(……見えたぜ。これが、第一席の……!)
しかし、司の深淵に触れた瞬間、美作の全身に悪寒のような震えが走った。
――自己の消失。
司の料理に対するアプローチは、あまりにも異常だった。己のエゴや主張を完全に殺し、ひたすらに食材の声に耳を傾け、その魅力を限界の先まで引き出すためだけに尽力する。そこにあるのは、料理人としての強烈な自我ではなく、食材に仕えるための極限の『無』。
「……ッ、ぐ……!」
普段、他者の強烈な個性や思考をトレースしてきた美作にとって、この『限りなく無に近い、深遠なる対話』への同調は、脳と肉体に想像を絶する負荷を強いていた。
仔鹿の筋引きをしながら、美作の額から滝のように汗が噴き出す。息が上がり、巨体が小刻みに震え始めた。
すぐ隣で観察し、完全に思考をトレースしているというのに、手技の繊細な感覚が追いつかない。
「はぁっ……はっ……!」
荒い息を吐きながら、必死に司の領域に食らいつこうとする美作。
その限界に近い様子を見て、司はそっと手を止め、優しく声をかけた。
「あ、ナイフの角度、あとほんの少しだけ寝かせた方が繊維を傷つけないよ」
「……ッ!」
「そう、そこ。うん、上手いね。じゃあ、次の火入れなんだけど……肉の温度、俺が普段やってるより0.5度だけ低く設定してみようか。君の力強い手の熱が、少しだけ肉に伝わってるから」
的確すぎるアドバイス。司は美作の限界と個体差を瞬時に見抜き、美作が司のトレースを成立させるための微調整を自ら行い始めたのだ。
そして司は、美作を無理に自分と同じ土俵に立たせ続けるのではなく、自然な流れで自身のサポート役へとスライドさせていった。
「美作くん、ごめんね。そっちのソースの裏ごし、お願いしていいかな? その後、付け合わせの火入れを頼みたいんだけど」
「……っす」
トレースから、スーシェフへの移行。
だが、それは美作にとってただの敗北や妥協ではなかった。むしろ、ここからが美作昴の真骨頂だった。
(……ソースの裏ごし、シノワのメッシュは一番細かいやつ。温度は65度をキープ……次は、付け合わせの皿の用意……)
司の思考を
司が言葉を発するよりも早く、必要な器具が手に渡る。絶妙なタイミングで最適な温度の皿が差し出され、ソースの仕上がりは司が求めるミリ単位の粘度を保っている。
二人の間に言葉はない。しかし、調理室の中では、長年連れ添った熟練のコンビすら凌駕するほどの、異常なまでに息の合った調理が展開されていた。
司の隣で、司の求めるものを察し、司の求める動きを完璧に再現する。
それは紛れもなく、美作の中に『食卓の白騎士』の研ぎ澄まされた技術と、料理への異常なまでの向き合い方が、濁流のように流れ込んでくる時間だった。
息の詰まるような研鑽。自らの血肉となっていく確かな感覚に、美作は荒い息を吐きながらも、ニヤリと口角を吊り上げた。
やがて、美しく皿に盛り付けられた『仔鹿のロースト』が完成する。
調理台の上に静かに置かれたその至高のひと皿を見つめ、司はふっと緊張を解いて肩の力を抜いた。
「……うん、完璧だ」
司は汗を拭う美作の方へと向き直ると、心底嬉しそうな、綻ぶような笑みを作った。
「すごくやりやすかったよ。君のおかげで、いつもよりずっと肉と会話できた気がする」
「……ハッ。こき使われただけだぜ」
「ふふっ」
息を切らしながら憎まれ口を叩く美作に、司は静かに、だが確かな賞賛を込めて言葉を紡いだ。
「――いいな、美作くん」
――
濃密な調理の熱気から離れ、二人は遠月学園の中庭を一望できるテラス席にいた。
心地よい秋の風が吹き抜ける中、司は手すりに身を預け、遠くの空を飛ぶ鳥の姿をじっと見つめていた。
「……何を見てんだ、あんた」
並んで外の空気を吸っていた美作が訝しげに尋ねると、司は少しだけ首を傾げて呟いた。
「いや……やっぱり、ただのツバメだよね。昔、竜胆がすごく熱心に見てたことがあって、何か特別な鳥なのかと思ってたんだけど」
どこかピントのずれた第一席の言葉に、美作は呆れたように鼻を鳴らした。小林竜胆のことだから、単に美味そうに飛んでいるとか、そういう理由だったのだろう。
しばらくぼんやりと空を眺めていた司だったが、やがて視線を美作へと戻し、静かなトーンで問いかけた。
「ねえ、美作くん。どうして遠月学園では、十傑というたった十人の生徒に、これだけの権力と資金が集まるようになっているんだと思う?」
唐突な問いだったが、美作は考える素振りも見せずに即答した。
「リソースをより優れた人間に集中させ、より価値の高いものを研鑽させるため、だろ。学園全体に薄く引き伸ばすより、一握りのバケモノに投資した方が、結果的に極上の『遠月の皿』が生まれるからな」
「うん、その通りだね。莫大な予算、最高の食材、専用の調理設備。俺たちはそれらを自由に使うことができる」
司は自らの手のひらを見つめながら、ぽつりと言葉を続けた。
「だけど……この恵まれた時間は、遠月の高等部に在籍する、たった三年間のうちにしか訪れない。卒業してしまえば、良くも悪くも実社会のしがらみや制約がつきまとう。だからこそ、料理人として成長していく中で、今ほど純粋に料理と向き合える貴重な時間はないんだ」
「……まあ、そりゃあ同意するぜ」
美作の返答を聞くと、司は真っすぐに美作の目を見据えた。
「――その貴重な時間を半年間、俺にくれないか?」
「……は?」
「美作くんという、俺と完璧に同調できる才能。この学園で最も先を走っていると自負する俺にとって、君と研鑽できる時間以上の価値はないんだ。君のサポートがあれば、俺はもっともっと、食材の限界を引き出せる」
それは、遠月学園の頂点に立つ男からの、これ以上ない最上級のスカウトだった。
だが、美作はおいそれと頷くことはできなかった。
「……断る、と言ったら?」
「えっ? ……どうして?」
本気で不思議そうな顔をする司に、美作は眉間を揉みながら答えた。
「俺がアンタのストーカーを始めたのは、あくまで『自分自身の皿』を探すためだ。もし俺が、このままアンタの横でトレースを続け、アンタの料理をマネし続けるだけなら……結局、今まで俺がやってきたことと何一つ変わらねぇ」
幸平創真に突きつけられた、己の料理の不在。その答えを見つけるために一席の背中を追ったのだ。単なる便利なトレース・マシンとして生きるつもりはない。
美作の切実な矜持を聞いた司は、納得したように頷いた後、ふわりと微笑んだ。
「それなら、俺の料理を一つの『
「……形式、だと?」
「そう。より自分を消していく、食材に仕える俺の料理は……言い換えれば、『徹底的に自我を排除すれば、誰にでもできる料理』でもあるんだ。だからこそ、俺以外の料理人でも、俺の料理は再現できる」
美作はハッと息を呑んだ。
――事実、現在の遠月学園において、薙切薊が推し進めるセントラルの教育理念は、司のこの考え方がベースとなっている。
個人のエゴを殺し、完成されたレシピを完璧に再現させる。司の料理が究極の「無」であり、誰にでも、才能や自我がなくても再現可能であるという性質を持っているからこそ、その簡易版のレシピが今の遠月で教えられる「正解」として転用されているのだ。
総帥である薙切薊にとって、娘であるえりなが『料理人の
第一席である司瑛士は、全校生徒が進むべき絶対の正解を記した『地図』そのものだった。
「日本食、中華、イタリアン、フレンチ……世界には様々な料理の形式があるよね」
司は静かな、しかし確固たる自信と誇りに満ちた声で告げた。
「だけどその中において、俺の『司瑛士の料理』という形式は、それらの歴史あるジャンルに決して負けないほど深いものだと自負しているよ」
「アンタの料理を……一つのジャンルとして学べ、と?」
「うん。フレンチを学ぶように、イタリアンを学ぶように、俺の料理を学んでほしい。そしてその果てに、君の皿を見つけてくれればいい」
司は美作へと歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。
「俺の残りの学園生活。俺には……美作くん、君が必要なんだ」
一切の虚飾もない、純度百パーセントの熱意と必要とする言葉。
打算も何もない、ただひたすらに高みを目指すための純粋な瞳で見つめられ、美作は思わずため息を吐き出した。
(……やれやれ。バケモノってのは、どいつもこいつも強引で身勝手だな)
秋の選抜で自分を打ち破った、あの赤髪の男の顔が脳裏をよぎる。
だが、悪くない提案だ。ジャンルとしての『司瑛士』を極めた先に、美作昴のオリジナルの皿があるというのなら。
「……チッ。分かったよ、一席サマ」
美作はニヤリと不敵に笑い、司の手を振り払うことなく答えた。
「卒業までの半年間だけだ。アンタのその狂った地図……俺が、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるよ」
――
――そして季節は巡り、舞台は決戦の地へ。
中枢美食機関(セントラル)と反逆者たちによる連隊食戟)は中盤戦である3Boutへと突入し、会場の熱気はすでに最高潮に達していた。
決定した対戦カードは三つ。
第四席・茜ヶ久保もも VS 田所恵。
第一席・司瑛士 VS 第七席・一色慧。
そして、美作昴 VS タクミ・アルディーニ。
凄まじい歓声とプレッシャーが交錯する雪の会場の中央で。
司瑛士は、これまでにないほど深く、静かで、そして心地よい没入感の中にいた。
無駄な力みが一切抜け、羽のように軽やかな手つきで自らの調理を進めていく。その理由は他でもない。すぐ隣の調理台で、もう一人の『自分自身』が完璧なリズムを刻んでいたからだ。
「……」
「……」
言葉すら必要なかった。
司が裏ごしのために左手を伸ばすと、すでにそこには最も目の細かいシノワが、持ちやすい角度で差し出されている。
逆に、美作がオーブンから離れた後適切になったタイミングには、司が代わりに火加減の微調整を済ませている。
美作昴の『
(本当に素晴らしいよ。まるで、自分の手が四本に増えたみたいだ……)
司はのびのびと、自らの料理を組み立てていく。
美作に与えられたお題は『鴨肉』だった。司の脳内にはすでに、「自分(司瑛士)であればこの鴨をどう極限まで高めるか」という、純度100%の完璧な設計図――『鴨胸肉のロティ・オレンジソース』のビジョンが構築されていた。
そして隣に立つもう一人の自分(美作)も、全く同じ設計図を描いている。だからこそ、司は自身の調理に集中しながらでも、次に美作が何を欲するかを完全に把握し、危なげなく完璧なサポートをこなすことができていたのだ。
(うん。鴨の脂の回り具合も、オレンジの煮詰まり方も完璧だ。あと三分で……)
その、至福の協奏曲の途中で。
二人の「司瑛士」の間に共有されていたはずの完璧な設計図に、突如として強烈な異物が混入した。
――ガリッ、ガリガリガリッ……!!
――ジュウゥゥゥッ……!!
「……えっ?」
司は思わず目を丸くし、弾かれたように美作の方へと振り向いた。
鴨肉の澄んだ脂の香りだけが満ちていたはずの空間に、突如として立ち昇る、暴力的なまでに芳醇な香り。
カカオニブとエスプレッソ豆、そして粗挽きの黒胡椒がローストされるビターな匂いが、静寂の調理台を一気に支配したのだ。
それは、司瑛士が描いた純白の設計図には絶対に存在しないはずの『ノイズ』だった。一歩間違えれば、鴨肉の繊細な声すらも掻き消してしまうほどの強すぎる主張。
(何を……美作くん?)
もう一人の自分であるはずの男が起こした予期せぬ行動に、司は一瞬だけ思考を停止させた。
しかし。
そのビターで奥深い香りの構造を鼻腔の奥で捉え、そして相手側、タクミ・アルディーニの調理の進捗を視界の端に捉えた瞬間。
司の脳内で凄まじい速度の演算が行われ――即座に、美作が施した強烈なアレンジの『真の意図』を理解した。
(あぁ……そういうことか……!)
それは、決して『司瑛士の料理』という枠組みを壊すものではなかった。
極限まで削ぎ落とし、純白のドレスのように仕立て上げた鴨肉のロティだからこそ、そこに対極にある『漆黒の苦味と香ばしさ』をベールのように纏わせることで、元の美しさを爆発的に際立たせるというアプローチ。
もしも司自身が、「対戦相手を殺すための、強烈な一撃を見舞わなければならない」という食戟の中で火をつけられていたなら――何かをきっかけに、いずれ自分自身でも必ず辿り着いたであろう、極めて論理的で美しい『もう一つの正解』だったのだ。
(――それは、アリだ)
司の胸の奥で、強烈な肯定の鐘が鳴り響いた。
美作は「司瑛士」というジャンルを骨の髄まで理解した上で、自らの武器であるアレンジを乗せ、その先へと踏み込んでみせたのだ。
(ならば、この先はこうだ……!)
思考が爆発的に切り替わる。
司は自らの調理の手を止めぬまま、美作の提示した新しい
カカオの重厚な苦味を引き立てるためなら、オレンジソースの酸味は先ほどの想定よりほんの少しだけエッジを立たせるべきだ。付け合わせの根菜の温度は、香りが最も開くこのタイミングに合わせて――。
司が差し出す完璧な微調整を加えたサポートの品々を見て、美作は額に汗を滲ませながらも、ニヤリと不敵に口角を吊り上げた。
完璧な呼吸で、それを受け取っていく。
(すごい……!)
自分の内側だけで完結し、孤独に深海へと潜っていくだけだった料理の世界。
それが今、もう一人の自分(美作)という鏡を通し、強烈な化学反応を起こして広大な地平へと押し広げられていく。
視界が一気に開けていくような、ぞくぞくするほどの全能感。
タクミ・アルディーニを、一色慧という強敵を打ち倒すために、二人で一つの究極のひと皿を創り上げているという確かな熱狂に包まれ、無我の境地にいるはずの第一席の口元に。
「ふふっ……」
隠しきれない、純粋な歓喜の笑みがこぼれていた。
――司瑛士はこれまで、自身の料理こそが至高であり、素材の魅力を99.9パーセントまで引き出していると信じて疑わなかった。
残りの0.1パーセントは、料理という人間の営みそのものが抱えるどうしようもない限界値。ゆえに、完全なる100パーセントなどこの世に存在しないのだと。
だが、それは傲慢な勘違いだった。
美作昴という規格外の才能がもたらした、アレンジという名の『エゴ』。それが鴨肉という素材の純白の世界にぶつかり合った瞬間、司が限界だと定めていた天井はあっさりとぶち破られたのだ。
本当は、90パーセントすら満たせていなかった。自分はまだ、素材の本当の声の、そのさらに奥深くにある本質へと向き合いきれてなどいなかったのだ。
その事実への驚愕は、すぐさま背筋を駆け上がるような強烈な歓喜へと変わった。
(まだ先がある……! 俺たちはもっと、100パーセントへと近づける……!)
全身の産毛が逆立ち、肌が粟立つような未曾有の高揚感。
連隊食戟という極限のプレッシャーの中、激烈な研鑽の果てに、自分は確かに今、料理人として未知の領域へ新たな一歩を踏み出している。
そしてそれは、隣で完璧な呼吸を合わせる美作昴にとっても同じだった。
『司瑛士の料理』という、己を殺し無となる深淵のジャンル。それを学び、骨の髄までしゃぶり尽くす過程で、美作は自らの存在意義を見失いそうになるほどの凄まじい負荷と闘い続けてきた。
だが今、彼はついに『自分自身の皿』へ至るための確かな一歩を踏み出したのだ。
対戦相手を完膚なきまでにねじ伏せるための、料理人としての強烈なエゴ。しかしそれは、司の「エゴの排除」という哲学と決して矛盾するものではなかった。
己の我欲を不快なノイズとして押し付けるのではなく、あくまで主役である素材を最高に輝かせるための『計算し尽くされたエゴ』。黒の苦味をもって、白の美しさを際立たせる。それこそが、美作昴が見出した新たな刃だった。
「はぁっ……はっ……!」
極限の集中と、司の領域に食らいつき、さらにその先を提示するという絶大な肉体的・精神的負荷。
美作の額からは滝のように汗が流れ落ち、巨体は荒い呼吸に合わせて激しく上下している。
だが、その表情に疲労の影は微塵もなかった。
美作は息を切らし、汗だくになりながらも、極上のソースを仕上げていくその手元を見つめ、たまらないといった様子でニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
二人の歩んだ一歩が、重なり合い、未知なる100パーセントの高みへと登っていく。
言葉を交わす必要すらない。二人の間に通い合う料理人としての圧倒的な熱と共鳴は、この地の冷気すらも焼き尽くさんばかりに激しく燃え上がっていた。
「す、すげえ……! 流石は第一席だ!」
「あんな凄まじい手数をこなしているのに、互いの動きに一切の無駄がない……!」
観客席の一般生徒たちは、ただただ純粋な興奮と共に声を上げている。
だが、料理の深淵を知る一部の者たちの反応は違った。美作の放つ強烈なアレンジが、司のサポートによって瞬時に『司瑛士の料理』として完璧に調和させられ、さらに洗練された未知の領域へと押し上げられていく。工程が重なり、層が厚くなるたびに、無限に進化していくその異様な光景。
そして、その『深淵』の恐ろしさを誰よりも肌で感じ取っていたのは、反逆者側の陣営からその光景を見つめていた、類まれなる才能を持つ同世代の玉たちだった。
「……信じられないわ」
薙切アリスは、普段の余裕に満ちた笑みを完全に消し去り、ルビーのような瞳を大きく見開いていた。
その隣で、黒木場リョウもまた、いつもの狂暴な覇気を潜め、滝のような冷や汗を流しながら無言で調理台を凝視している。
「……ああ。底が見えねえ」
「ええ。個性を殺す無の領域と、強烈な自我。あれが、極限まで研ぎ澄まされたその先にある、本当の料理の深淵……」
圧倒的なまでの次元の違い。
だが、彼らの瞳にあるのは単なる絶望ではなかった。あの底知れぬ深淵こそが、自分たちがいつの日か必ず辿り着き、越えなければならない『頂の景色』なのだ。
あまりにも高く、深いその領域を前にして、アリスと黒木場はただ息を呑み、その一挙手一投足を脳裏に焼き付けていた。
そんな張り詰めた空気の反逆者陣営の中で。幸平創真だけは、腕を組みながら、どこか面白そうに目を細めていた。
(……なんだよ、あいつら。滅茶苦茶楽しそうじゃねーか)
創真の目から見たあの二人の姿からは、重圧など微塵も感じられなかった。
未知の食材に触れた子供のように。あるいは、最高の遊び相手を見つけた悪ガキのように。新しい閃きが形になり、自分の料理が広がっていくことへの純粋な歓喜。
料理が楽しくて楽しくて仕方がない。そんな熱が、目に見えるほどのオーラとなって二人の全身から立ち昇っているのを、創真は確かに感じ取っていた。
――しかし。
創真のすぐ背後、壁に背中を預けて腕を組む第二席・小林竜胆の瞳には、ひどく複雑な色が渦巻いていた。
「……」
竜胆の視線の先にあるのは、見慣れたはずの、しかし今まで一度も見たことがないほどに生き生きと笑う司瑛士の顔。
竜胆の脳裏に、秋の日の記憶がフラッシュバックする。
遠月学園の中庭、テラス席から空を飛ぶツバメを見上げていた司と、その隣にいた美作昴。
――あの日、竜胆は少し離れた物陰から、二人のそのやり取りを密かに見ていたのだ。
『俺の残りの学園生活。俺には……美作くん、君が必要なんだ』
あの司瑛士が、打算も何もなく、あんなにもはっきりと他者を『必要だ』と真っ直ぐに求めた瞬間。
その事実を思い出すたび、竜胆の胸の奥で、チリッとした黒い苛立ちが燻り始める。
(……なんなんだよ、司のやつ)
竜胆は、無意識のうちに自分の二の腕を強く握りしめていた。ギリッと爪が食い込む。
薊に誘われ、彼が新しい思想に染まっていったあの時も。
そして今、美作昴という完璧な理解者にして右腕を見つけ、未知の領域へと嬉しそうに駆け出していった、この時も。
(お前が新しい扉を開ける時……その隣に立ってるのは、いつもアタシじゃねーじゃんかよ)
ずっと一番近くにいて、誰よりも司瑛士という男を見てきたはずだった。
彼の臆病さも、強さも、料理への異常なまでの執着も、全て知っているつもりだった。
それなのに、司の料理の世界を極限まで押し広げ、あんなにも純粋な歓喜の表情を引き出しているのは、自分ではない。他でもない、あの大柄な一年生なのだ。
自分の知らない場所で、自分の知らない顔をして、どんどん先へと進んでいくかつての相棒。
その事実が突きつけてくる、得体の知れない喪失感とどうしようもない苛立ちに、竜胆は猫のような瞳を細め、ただ黙って眼下の凄まじい協奏曲を見つめ続けていた。
「……にしても」
ぽつりと、隣で腕を組む創真が声を漏らした。その眼差しは、調理台で輝く二人を見据えたまま、どこか悔しそうに、けれど滾るような熱を帯びている。
「いいなぁ。俺も一色先輩やタクミと一緒に、あの二人に挑みたかったっすよ」
「たっく、言っとくけどな、そーま」
竜胆は組んでいた腕に少し力を込め、どこか自嘲気味に鼻で笑った。
「今のあいつら……特に司のやつには、周りの人間なんて一人も目に入っちゃいねーと思うぞ。二人で自分たちの料理の深みに入り込んで、他人のことなんて視界にすら入ってねぇよ」
創真はへこたれるどころか、ニッと歯を覗かせて不敵に笑ってみせた。
「なら、振り向かせるまでっすよ。あいつらがどんだけ自分の世界に入り込んでようが関係ねぇっす。俺たちの料理を突きつけて、強烈にこっちを振り向かせる。それだけのことでしょう?」
何の迷いも、何の疑いもなく、当たり前のことのように言い放つ一年生。
その屈託のない真っ直ぐな言葉に、竜胆は一瞬だけ目を丸くしたあと――ふっと肩の力を抜き、くくっと喉を鳴らして苦笑した。
「……ハハッ! たしかに、そーまの言う通りだな。振り向かせて、引きずり降ろす。あたしのやり方でな」
――
静寂に包まれた審査員席に、美作昴のひと皿が運ばれた。
純白の皿の中央に鎮座するのは、絶妙なロゼ色に焼き上げられた『鴨胸肉のロティ・オランジュ 〜漆黒のクラストを纏わせて〜』。
極限までノイズを削ぎ落とした透明感のあるオレンジソースの海に、カカオニブとエスプレッソ、黒胡椒のダーク・パウダーを身に纏った鴨肉が、圧倒的な存在感を放ちながら横たわっていた。
一口。
WGOの二等執行官であるシャルムとイストワールが、その肉片を口に運んだ瞬間――二人の全身に、凄まじい衝撃が走った。
「お、おおおおおっ……!! なんという澄み切った味わいだ!」
「ああ! 鴨肉のポテンシャルをミリ単位の狂いもなく引き出すこの火入れ、この純度…!」
二人は歓喜に打ち震えながら、次々と皿へとフォークを伸ばした。
「だが、それだけではない! この皮目に纏わせたビターでスパイシーな衣(クラスト)……普通なら鴨の繊細な風味を殺してしまうはずのこの強烈なアレンジが、見事に全体の味をまとめ上げている!」
「信じられないよ! これほど強烈な『エゴ』を足しておきながら、司くんの『食材を活かしきる』という哲学が一切損なわれていない! むしろ、この黒き苦味があるからこそ、純白の鴨肉の旨味がより眩く、爆発的に輝きを増しているんだ!」
司瑛士の料理という完成されたジャンルを完全に理解し、そこに自らの闘争心を乗せ、見事に調和させた美作のアプローチに、二人の審査員は惜しみない大絶賛を浴びせた。
そして、一等執行官であるアンもまた、頬を高揚させ、恍惚とした表情で咀嚼を繰り返していた。
「あぁ……ひどいですね、私が言うべきことを全て二人に言われてしまいました」
しかし。
皿の上の料理がすべて無くなり、あとに残ったソースの一滴までもを拭い去り――極上の感動の余韻がふっと引いていった、その直後だった。
「…………」
アンの表情から、すっと血の気が引いた。
歓喜に紅潮していたはずの頬は蒼白になり、手先がカタカタと微かに震え始める。額に冷たい汗が滲む。
彼女は、空になった純白の皿と、その奥で未だ調理を続けている第一席の姿を交互に見つめ、唇を震わせながらぽつりと呟いた。
「しかし、これは――」
その言葉の続きが紡がれることはなかった。
ただ、底知れぬ深淵を覗き込んでしまったかのような、拭いようのない『不安』と『恐怖』だけが、アンの瞳の奥で暗く揺れていた。
やがて、静寂を破るように、会場に判定のブザーが鳴り響いた。
『判定――満場一致で、美作昴だぁ!!』
3-0。
圧倒的な力を見せつけた美作のランプが三つ点灯し、タクミ・アルディーニの敗北が決定した。会場が割れんばかりの歓声に包まれる中、美作は額の汗を拭い、ふぅと長く息を吐き出した。
いつものように相手を挑発することもなく、静かに自分の調理台へと戻り、愛用の道具を片付けようと手を伸ばした――その時。
――どさっ。
糸が切れたように、美作の巨体がその場に崩れ落ちた。
調理台に背を預け、荒い息を繰り返す。極限の『パーフェクト・トレース』、そしてその先にある未知の領域への到達。それは、美作の強靭な肉体と精神を完全に限界まで使い果たさせていた。
「…………」
立ち上がることもできない美作の視界に、ふと、見慣れた金髪の少年が入り込んできた。
タクミ・アルディーニ。
激闘の末に敗れた彼は、静かな足取りで美作の元へと近寄り、倒れ込むかつての因縁の相手をただじっと見下ろしていた。
「……ハッ」
天井を見上げたまま、美作は自嘲するように口を開いた。
「また、借りをつくっちまったな」
秋の選抜。そして、この連隊食戟。
いつも自分に料理人としての『熱』を思い出させ、新たな一歩を踏み出すきっかけを与えてくれるのは、目の前のタクミや創真のような、強烈な自我を持つ料理人たちだった。
その言葉を聞いたタクミは、悔しさを押し殺すように目を伏せ、しかし真っ直ぐな声で返した。
「……借りを返せなかったのは、こっちも同じだ」
奪われたメッザルーナの誇り、そして秋の選抜での雪辱。それを果たすためにここまで研鑽を積んできたが、美作はさらにその先へと行ってしまった。互いにとって、この勝負はまだ終わっていないという、タクミなりの矜持。
美作は、タクミのその不器用で真っ直ぐな言葉を聞いて、肩を揺らして笑った。
「なぁ、アルディーニ」
息を切らし、全身が泥のように重いというのに。
美作の胸の奥には、今まで感じたことのないような爽やかな風が吹き抜けていた。
「……料理って、面白れぇな」
絞り出すようにこぼれ落ちたその言葉は、美作昴という男が初めて見せた、嘘偽りのない純粋な本音だった。
それまで黙って見下ろしていたタクミは、ふんと鼻で笑い、どこか呆れたような、しかし微かな笑みを浮かべて言い放った。
「今更気が付いたのか。……ここにいる誰もが、そんなこと知っているぞ」
天井のライトが、全てを出し切った二人の料理人を眩しく照らし出していた。