もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
激闘の熱が未だ渦巻く連隊食戟の舞台。第4BOUTの決着がもたらした強烈な余韻を断ち切るように、静かな、しかし絶対的な威圧感を伴う足音が会場に響き渡った。
薙切薊。セントラルを率いる総帥その人が、ゆっくりと壇上へ姿を現したのだ。
波打つようなざわめきを片手で制し、薊はマイクを通して静かに告げた。
「さて、全員注目してほしい。諸君に通達事項が2件ある。まず一件目だが……この連隊食戟の、審査員の変更を宣言するよ」
その言葉に、会場全体が大きくざわついた。観客たちの戸惑いを置き去りにするように、薊は淡々と決定事項を口にする。
「次のBOUTでは、私が審査員を務める」
「――はぁっ!?」
「ふざけんな! この期に及んで総帥が出てくるなんてありえねえだろ!」
反逆者組から、当然の如く猛烈な批判と怒号が巻き起こる。身内を勝たせるための暴挙ともとれる宣言に、会場の空気は一気に険悪なものへと変わった。
その喧騒を割るように、凛とした声が響き渡った。
「薙切薊総帥」
声を出したのは、審査員席に座るアンだった。彼女は毅然とした瞳で壇上の薊を睨み据える。
「私たちWGOも、一度この食戟の審査を任された責があります。それを曲げろとおっしゃるのですか?」
「いいえ」
薊は静かに、しかしはっきりとした声で否定し、WGOの面々へと向き直った。
「ここまでご足労いただいたWGOの方々を押しのけ、審査の席に座るつもりはありませんよ。それに――」
薊は再び反逆者組へと視線を向け、どこか自嘲するような響きを交えて言った。
「先ほど彼らから出た意見ももっともだ。この土壇場で、総帥自らが審査に加わる……そう聞けば、誰もが思うだろう。『セントラルを勝たせるための不正や贔屓、圧力ではないか』と。たとえ私が『この学園の、ひいては料理界の行く末を公平に見定めるため』と宣称したところで、その疑念を払拭することは難しい」
会場のざわめきが、少しずつ水を打ったような静寂へと変わっていく。薊はふっと息を吐き、言葉を継いだ。
「また、そうなることは私としても本意ではない」
自身の存在そのものが、この食戟の公平性を揺るがす絶対的なノイズになる。他ならぬ薊自身がそれを完全に自覚していた。その上で、彼は自信に満ちた声で宣言する。
「ゆえに、疑念を確実に払拭するための『もう一人の審査員』をお呼びしている。――前遠月学園総帥、薙切仙左衛門殿だ」
薊が視線を向けた先、重厚な足音と共にゲートの奥から歩み出てきた影があった。圧倒的な威圧感を纏う巨躯の老人が、静かにその姿を現す。
その姿が会場のライトに照らし出された瞬間、すべての生徒が息を呑んだ。
「な、仙左衛門総帥だ……!」
「元総帥が、なんで……!?」
ざわめきは瞬く間に波のように広がり、檻の中にいる反逆者組の面々もまた、信じられないものを見るように目を剥いていた。
(ってことは……元総帥は俺たち側に忖度してくれるんじゃ……!)
最悪の状況に差し込んだ一筋の希望の光。反逆者組の何人かが、無意識にそんな淡い期待を抱き――直後。
全員が見事なまでに息を揃え、ぶんぶんと首を横に振ってどんよりと肩を落とした。
「……ありえねぇな」
「ああ。ありえない」
郁魅や伊武崎のその反応に、腕を組んだ薙切アリスが心底呆れたように深く溜息を吐く。
「当然よ。あるわけないでしょう、あのおじい様が」
アリスの真剣な眼差しが、壇上に立つ祖父へと向けられた。
「料理に対してだけは、身内だろうと敵だろうと容赦なんて一切しない人よ。あそこに立つおじい様は、ただ純粋に一皿の価値だけを測る冷酷な『食の魔王』。情けや贔屓なんて微塵も期待しちゃダメ」
アリスの言葉に、希望を抱きかけた者たちの背筋に冷や汗が伝う。
「えりなたちが生半可な皿を出せば、セントラル以上に冷酷に切り捨てられるわ」
「……だよなぁ」
食の魔王の厳しさを骨の髄まで知る反逆者たちは、それを当然の事実として受け止め、完全に盛り下がってしまった。
その沈んだ空気の中、榊がふと冷静な声で呟いた。
「でも……仙左衛門殿が私達に対して『中立以上』にならないことを、薊総帥も知っているはずよ。だとしたら……元総帥の厳格さを隠れ蓑にして、自身が審査に参加することで『セントラルへの確実な一票』を確保する目的があるんじゃないかしら……?」
その推測に、反逆者組の間に再び重苦しい緊張が走る。
相手には確実に身内を勝たせる一票があり、自分たちには誰に対しても牙を剥く魔王しかいない。だとすれば、やはりあまりにも不利な条件だ。
アリスはその言葉には反論も同意もすることなく、押し黙った。その視線は、遠く壇上で静かに佇む薙切薊へと向けられている。
『薙切薊』という男の底知れない思考。彼が一体何を企み、どこまでこの盤面を支配しようとしているのか――その真意を未だ測りかねていた。
反逆者組の間に沈痛な空気が流れる中、薊は静かに言葉を続けた。
「なお、この審査員の変更については、すでに先代総帥からの同意も得ている。この連隊食戟のコミッショナーである我々二人が合意している以上、この決定を覆せる者はこの場にはいない。そのため――」
決定事項として冷酷に事実を突きつける薊。だが、その絶対的な宣言に対し、すっと片手が上げられた。
「せっかくの薊総帥の申し出ですが」
声の主はアンだった。彼女は両隣の同僚を一瞥し、真っ直ぐに薊を見据える。
「WGO側の審査員からは私一人が席に残り、次の審査は『三人』で行いましょう」
「……アン殿?」
「アン、何を言っている!?」
突如として放たれた彼女の提案に、両隣に座るシャルムとイストワールが驚愕の声を上げた。
壇上の薊もまた、予想外の言葉に「ふむ」と小さく首を傾げる。
「それは奇妙な提案ですね。WGOの大原則として、執行官は単独での審査を禁じられていたはずですが?」
薊の言う通り、食戟の審査、とりわけ世界的な美食の舞台においては、どれほど拮抗した戦いであっても確実に優劣をつけるため、複数人での審査が大原則とされている。当然、薊もそれを理解していたからこそ、自身と仙左衛門、そしてWGOの三人を含めた『五人体制』で審査を行うつもりであったのだ。
「薊総帥の言う通りだよ、アン! 一体何を考えているんだ!?」
シャルムが血相を変えて詰め寄るが、アンの表情は微塵も揺るがない。
「薊総帥のおっしゃることはもちろん正しい。ですから、シャルム、イストワール。あなた方二人の専門的知見や意見は、審査の討議の中で私がすべて聞き届けます」
アンは二人を制するように告げ、再び薊へと向き直った。
「しかし――最終的に三人で意見を交わし、『WGOの1票』として投じる決定権と責任は、執行官第一席であるこの私一人が担います」
「ほう……?」
「この決戦の行方を決めるのは、今と過去の責任者、そして第三者であるWGOの『3つの意志』であるべきです。……私が1票の責任をすべて背負うことで、WGOとしての公平性を証明しましょう」
凜と響き渡るアンの宣言。それは、己の舌と誇りにかけて、次に供される皿がどのような領域のものであろうと真正面から受け止めるという、WGO一等執行官としての強烈な覚悟の表れだった。
アンの揺るぎない気迫を前に、薊は面白そうに目を細め、小さく肩を竦めた。
「……なるほど。そこまでアン殿が仰るのであれば、構いません。では、次の審査は私、元総帥、そしてアン殿の三人で行うことに決定しよう」
そう言ってWGO側の提案をあっさりと呑み込んだ薊は、再び会場へと向き直った。
「さて、それでは二件目の通達事項だが」
薊はマイクを持ったまま、視線を隣に立つ巨躯へと向ける。
「これについては、私の口から語るよりも仙左衛門殿から説明をしていただいた方が早いだろう」
水を向けられた仙左衛門は、重々しい足取りで一歩前へ出ると、会場全体を圧するように低く、威厳に満ちた声を響かせた。
「次の試合形式の変更について伝える。次戦は、両陣営がチームとして前菜とメインディッシュを提示する『コース料理』対決とする。そして――」
仙左衛門の鋭い眼光が、檻の中の反逆者たち、そして会場の全生徒を真っ直ぐに射抜いた。
「これは儂と薊が話し合い決定したことだ。……明日の戦いを、この連隊食戟における『最終戦(Final BOUT)』とする!」
その宣言が響き渡った瞬間、会場は一瞬水を打ったような静寂に包まれ――直後、天地を揺るがすような爆発的な喧騒が巻き起こった。
「さ、最終戦!?」
「じゃあ、明日で……明日で遠月の全権を賭けた戦いのすべてが決着するっていうのかよ!」
生き残りをかけた長きにわたる連隊食戟。その終焉が突如として突きつけられたことに、生徒たちは騒然とし、息を呑む。
絶対に負けられない重圧と、泣いても笑っても次が最後という絶対的な事実。張り詰めた緊張感と熱狂が入り混じる中、決戦前夜の幕は下りていった。
――
食戟の舞台の喧騒から遠く離れた、深夜の高級ホテル。
照明の落とされた静かなバーラウンジの片隅で、薙切薊は一人、グラスの中の丸氷をカラリと揺らしていた。静かに流れるジャズの調べの中、琥珀色の液体を傾けようとしたその時――。
「よう」
遠慮も何もない、どこか愉快そうな声と共に、隣の空席にどかりと無造作に腰を下ろす影があった。
不躾な闖入者に薊はわずかに目を丸くして隣を見やったが、その顔を確認するなり、呆れたような、しかしどこか懐かしむような苦笑を漏らした。
「……不用心ですね。お互いに敵対する陣営の指導者をしているというのに、こうして顔を合わせるというのは。よからぬ密談でもしているのではないかと、周囲に勘繰られてしまうのでは?」
薊が皮肉交じりにそう言うと、城一郎は悪びれる様子もなくバーテンダーに軽く手を挙げて酒を頼み、ニヤリと笑った。
「まぁ、今更だろ」
「今更、ですか」
「ああ。それに、あいつらはウラで大人がコソコソやってたくらいでへこたれるような、ヤワな連中じゃねーよ」
自身の教え子たち――反逆者組の打たれ強さを心底信じきっている城一郎の言葉に、薊はふっと目を細めた。
「貴方の息子はそうかもしれませんが……えりなまで、そう見えますか?」
遠月という巨大な檻の中で育てられ、今まさにその重圧の真っ只中にいる娘。彼女もまた、創真たちと同じように図太く立ち向かえると思っているのか、と。
だが、運ばれてきたグラスを受け取った城一郎は、鋭い、しかしすべてを見透かすような視線を薊に向けた。
「さてな。だが――お前にはそう見えていた。だろ?」
確信に満ちた城一郎の声に、薊はわずかに息を呑み、そして目を伏せた。
脳裏をよぎったのは、この連隊食戟を引き出すために創真が仕掛けてきた交渉の場だ。彼は己自身の料理人としての人生すらチップとして提示し、そしてえりなも自分の未来を天秤へと乗せた姿を思い出す。
ふっ、と薊の口元から自然と笑みがこぼれる。
「……ええ。違いありませんね」
降参したとでも言うように自嘲気味な苦笑を浮かべ、薊は静かにグラスを傾けた。
グラスをそっとコースターへ戻すと、薊は静かに声を落とした。グラスの中で揺れる氷がカランと繊細な音を立て、二人の間にわずかな静寂が落ちる。
「……ところで才波先輩、これは念のための確認なのですが」
薊の視線が、どこか探るように、そして既に一定の答えを手にしている者の静けさを帯びて城一郎へと向けられた。
「才波朝陽、という名に聞き覚えはありますか?」
「……アサヒ?」
城一郎はグラスを口元へ運ぶ手をピタリと止め、怪訝そうに眉をひそめた。その瞳の奥に、記憶を手繰り寄せるような色がかすかに浮かぶ。
「……昔、アメリカの孤児院で少し面倒を見てたガキだが。どうしたんだ、急にそんな名前を出して」
「では、今の遠月にいる新戸くん……現在の第七席の座に就いている少女のことはご存じですね?」
城一郎は手元の琥珀色の液体に視線を落とすと、思い返すように一口含み、ゆっくりと喉を鳴らした。
「ああ、あの『毒』を使う子か。確かに面白い料理をやってると思って見てたが……それがどう繋がるんだ?」
「これは僕ではなく、お義父さん――薙切仙左衛門殿が得た情報でしてね」
薊はバーカウンターの薄暗い灯りを見つめながら、淡々と、しかしどこか不穏な重みを孕んだ口調で言葉を継いだ。
「『毒』という食材や技法は、表の料理界ではなく……裏の、いわゆる『真夜中の料理人』たちが好んで扱う領域に近い。学園のトップ層にそのような異質な影が紛れ込んでいないか、万が一が無いようお義父さんが念のために身辺調査を行ったようなのです。その際、彼女の背後関係を探る情報網に引っ掛かったのが……その名前でした」
「確かにアサヒには色々教えたし、その中には料理も含まれてた。自分のガキと同じように思ってたんだが……真夜中の料理人に、ねぇ」
城一郎はグラスの中の氷をカランと揺らし、意外そうに呟いた。朝陽が15歳の頃、城一郎は妻である珠子を亡くした。事後処理と創真の面倒を見るためアメリカを去らざるを得ず、それ以降、朝陽の面倒を見続けることができなくなっていたのだ。
「裏の世界がとんでもねぇ場所だってことは知ってるが……まあ、生きて料理を続けてるってなら、それはそれで――」
そこまで言いかけたところで、城一郎はふと己の放った言葉の危険さに気づき、ハッと目を見開いた。
「……いや、待てよ!? 俺のガキみたいに思ってたってのは、あくまで気持ちの上の比喩だからな!? 珠子のことを裏切ったってわけじゃねぇぞ!?」
どこか焦ったように弁明を重ねる城一郎の姿に、薊は静かに口元を緩め、苦笑を漏らした。
「……分かっていますよ。真凪を裏切ったのは、他ならぬ僕ですから」
「…………………………」
城一郎の動きが、完全に停止した。
思考のギアがけたたましい音を立てて空回りし、脳内処理が追いつかずに一瞬フリーズする。数秒の静寂の後、ようやく再起動を果たした城一郎は、引きつった顔で困惑を露わにしながら絞り出すように言葉を継いだ。
「お、お前……まさか……」
「流石に婚姻より後の話ではないですよ。貴方が遠月を去り、僕が自暴自棄になって世界を彷徨っていた時期がありましてね。……彼の年齢と、僕のその空白の時期が完全に一致していたんです。お義父さんも、まさかとは思っていたそうですが」
「……マジか、そんなシモの話まで調査されてんのかよ?」
名家である薙切の家柄を考えれば、ある程度の身辺調査や暗職の介在は日常茶飯事だろう。だが、まさかそこまでのプライベートまで暴かれているのかと引きまくる城一郎に対し、薊は首を横に振った。
「いえ……これは完全な偶然ですよ。流石にお義父さんも、そこまでえげつない真似をするお方ではありません」
薊はバーカウンターの木目を静かになぞりながら、言葉を続けた。
「ただ、新戸くんの身辺調査を進める中で、東洋系の顔立ちをした『才波』を――僕と浅からぬ因縁のある名を名乗る真夜中の料理人の存在が浮上しましてね。僕の空白期の時間軸と彼の年齢があまりにも合致していることに妙な予感を抱いたお義父さんが、念のため裏で遺伝子調査を行われたそうなのです。……結果、見事に掘り当ててしまったとのことですよ」
淡々と語られる衝撃の事実に、城一郎の顔は完全に引きつっていた。
「おいおいおい……そんな話を不意打ちで聞かされて、俺にどうしろってんだ? さすがに話が苦すぎるだろ。いや、アサヒが裏の料理人になってたって話はともかくとして……お前の方の爆弾を、俺はどう咀嚼しろってんだよ」
頭を抱えそうになる城一郎に対し、薊は自分のグラスを静かに持ち上げると、城一郎のグラスにチリンと心地よい音を立てて軽く打ち鳴らした。
「ふふ……お互い、こうしてお酒を嗜める年齢になりましたからね。この程度の苦い話、酒と一緒に軽く飲み干してください」
「飲み干せるかバカ野郎! 人の家庭の超ド級の不祥事を、居酒屋のつまみみたいに軽々しく話すんじゃねぇよ!」
「不祥事だなんて人聞きが悪い。若気の至り……とでも言っておきましょうか」
どこか楽しそうに笑う薊に対し、城一郎は呆れたように深々と溜息を吐いた。
「笑い事じゃねぇよ……」
一口酒を煽り、苦笑混じりにグラスを弄びながら、城一郎は少しだけ表情を改めた。
「で……アサヒの方は結局どうするつもりなんだ? あいつが本当に裏の料理人にどっぷり漬かってるってんなら、俺が行って探してきてもいいが」
かつての愛弟子であり、不十分にしか向き合えなかった少年への複雑な責任感を滲ませる城一郎。だが、薊は静かに首を横に振った。
「いいえ。すでに足取りは掴んでいるとのことです。……えりなには『悪い友達と付き合ってはいけない』と教えましたからね。さっさと裏の悪い不良とつるんでいる息子を引き戻しに行きますよ」
さらりと、だが当然のことのように言い放った言葉に、城一郎は一瞬意外そうに目を見張り、薊の横顔を覗き込んだ。
「……引き戻すって、お前……実の息子として迎えるつもりなのか?」
「先輩がそうしても構いませんよ」
薊は手元のグラスを軽く傾けながら、静かに言葉を返した。
「少なくとも貴方は彼のことを思い、様々なことを教え、導いた。そして彼が今も『才波』の名を名乗っていることを思えば、そちらのほうが彼にとっても良いのかもしれません」
その淡々とした問いかけに、城一郎は自嘲気味な笑みを浮かべて静かに首を振った。
「……それこそ今更だろ」
城一郎は手元のグラスに落ちる店内の灯りをじっと見つめ、どこか遠い目をする。
「もし俺が心の底からあいつを連れ帰りたいと思ってたんなら、あの時……アメリカを去る時に何が何でも連れて帰ってたはずだ。だが、俺はそうしなかった。とうに大人へ向かって巣立っちまった男を、今更親面して迎えられるような間柄じゃねぇんだよ、俺とあいつは」
琥珀色の液体を喉へと流し込み、カランと音を立ててグラスをカウンターへ戻した城一郎は、隣に座る男へとまっすぐな視線を向けた。
「血が繋がってて、これからそいつに向き合おうとしてる……できるとしたら、本当の意味で繋がりがあるお前だけだろうよ」
「そうですか。……連隊食戟が終わった後で先輩を雇う際には、十分すぎるほどの給金と契約金を提示するつもりでしたから。金銭的な理由で躊躇しているのであれば、問題はないと思っていましたがね」
「おいおい……もう勝ったつもりかよ。うちのバカ息子と、お前の愛娘を舐めすぎだろ」
「まさか。彼らの持つポテンシャルは、この僕が一番よく理解しているつもりですよ」
城一郎のからかうような指摘に、薊はグラスを軽く持ち上げてみせ、ふっと柔らかく笑った。
静かなジャズの旋律が、夜のバーラウンジを穏やかに満たしていく。
二人の間に流れる空気は、敵対する陣営のトップ同士とは思えないほど、穏やかで静謐なものだった。
手元の琥珀色の液体をじっと見つめていた城一郎が、ふと、独り言のように静かに口を開いた。
「……変わったな、お前」
薊は氷の溶けかけたグラスをそっとテーブルへ戻し、城一郎の横顔を見つめた。
「理由は……お聞きにならないのですか?」
薊は静かに問い返した。お義父さんや堂島先輩であれば、僕が学園で何を試み、その先にどのような目的を抱いているのか、すでに察しがついているのだろう――そう当たりをつけながら。
だが、城一郎はグラスの氷を指先でカランと突つき、どこか気負いのない様子で笑った。
「別にいいさ。明日になれば全部終わることだ。今更俺が理由を知ったところで、どうこうできる話でもねぇしな。……ただ」
城一郎は少しだけ目を細め、どこか遠い目をして言葉を継いだ。
「お前が色々と背負い込んで、裏で無茶な立ち回りをしてるのを知ってさ。それが……お前自身をどす黒く染めちまうような真似でなければ、俺はそれでいいと思ってる」
「…………」
言葉の奥に滲む、飾らない温もり。
薊は一瞬だけ言葉を失い、静かに目を見開いた。
自分を責めるでもなく、思想を否定するでもない。ただかつての先輩として、今も変わらず己の身と心を案じてくれていたのだと、薊はその時初めて気づかされたのだった。
「……そうですか」
薊はそっと目を伏せ、自然とこぼれそうになる柔らかな笑みを隠すように、再びグラスを口元へ運んだ。カラン、と鳴った繊細な氷の音が、胸の奥にじんわりと染み渡っていくのを感じながら。
静かなジャズの旋律が流れるバーラウンジ。
穏やかな空気の中、城一郎はふと肩の力を抜き、何気ない日常の疑問を口にするようなトーンで隣の後輩へと視線を向けた。
「……っとそうだ。一応聞いておきたかったことがあるんだ」
ふと思い出したかのような城一郎の気配に、薊は不思議そうに眉を寄せ、グラスを口元へ運ぶ手を止めた。
「だいぶ前の話になるが……お前、一度下町の『ゆきひら』に来たんだろ?」
その言葉に、薊の肩がわずかにピクリと反応した。
「俺にも、珠子にも会わずに帰って、結局そのままだったが――あの日、なんかあったのか?」
城一郎の問いかけは、決して咎めるようなものではなかった。ただ純粋な疑問と、かつて唐突に現れては消えた後輩の不可解な行動の真意を、今になって知りたいという静かな欲求だった。
それを聞いた薊は、一瞬だけ驚いたように目を丸くし……やがて、どこか懐かしむような、そして観念したような深い苦笑を漏らした。
「……ええ。お察しの通りです」
薊はふっと息を吐き出し、コースターの上でグラスの丸氷をカラリと揺らした。琥珀色の海に沈む氷のきらめきを見つめるその眼差しは、すでに遠い過去の情景を映し出しているようだった。
「そうですね……あの日、僕は一人の『料理人』と出会ったんです」
ポツリとこぼされたその言葉には、かつて己に啓示を与えた者への、静かな敬意が込められていた。それが誰のことを指しているのか、城一郎はまだ知らない。
静かな夜の底で、グラスの氷が小さく音を立てて溶ける。
夜のバーラウンジの片隅で、薊が今まで誰にも語ることのなかった、自身の運命と目的を決定づけたあの日の記憶が、ゆっくりと紐解かれようとしていた――。