もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
北海道を巡る進級試験の真っ只中――反逆者たちを絶望へ突き落とす悲報がもたらされた。
試験官として立ち塞がった遠月十傑の面々。圧倒的な実力差の前に、アリスや黒木場、そして極星寮の仲間たち……共に戦ってきた反逆者たちはことごとく討ち取られ、全員が退学処分となってしまったのだ。
葉山アキラとの死闘を制したばかりの幸平創真のもとへ駆けつけた田所恵とタクミ・アルディーニ、そして重い表情で立ち尽くす薙切えりなの間には、息もできないほどの重苦しい絶望が立ち込めていた。
「そんな……みんな、退学になっちゃったなんて……」
恵が今にも涙を溢れさせそうに肩を震わせ、タクミも悔しさに拳を固く握りしめる。えりなもまた現実に唇を噛み締め俯いていた。残された反逆者は、ここにいる僅かな人数だけ。まさに絶体絶命の窮地だった。
だがその静寂を切り裂いたのは、拍子抜けするほどカラッとした少年の声だった。
「なんだ、なら話は簡単じゃん」
創真は後頭部で両手を組み、いつものマイペースな調子でケロッと言い放った。
「え……? か、簡単って……幸平くん、何を言っているのよ!?」
「だってさ、要は十傑評議会で過半数の席をとっちまえばいいんだろ? そうすれば、総帥の決定だってなんだってひっくり返せる。セントラルのやり方が気に入らねーなら、俺たちが十傑になれば解決だ」
あまりにも無謀で、けれど根本的な構造を突いた提示に、えりなもタクミも恵も一瞬呆然と目を丸くした。
「じ、十傑の過半数……!? そ、それって……わ、私たちが、あの十傑の人たちに勝つってこと……!?」
恵は己の体をキュッとすくませ、信じられないものを見るかのように怯えた声を震わせる。
「ば、過半数って……! 簡単なわけあるか!」
タクミが思わず身を乗り出し、創真へ切実な正論を叩きつける。
「そもそも食戟を成立させるには双方の合意が必要不可欠なんだぞ!?」
「あー……条件が釣り合わないとダメってやつ?」
「そうだ! 今の状況で、圧倒的優位に立っている十傑の連中が、自分たちの席を賭けるようなリスクしかない食戟を受けるわけがないだろう! 相手が同意しない以上、勝負すら成り立たないんだぞ!」
タクミの必死の指摘は、まさに動かしようのない現実だった。ルール上、相手が条件を拒否すれば食戟は成立しない。反逆者側には、十傑に席を賭けさせるだけの「対価」など何一つ残されていないのだ。
「ま、それもそうだな。……でもさ、思いついたらとりあえず実行してみねーと始まんねぇだろ」
創真はニッと八重歯を覗かせると、頭を抱えるタクミたちを置いてけぼりにしたまま、ひらひらと手を振ってその場を歩き出した。
――
「……というわけでさ、竜胆先輩。手っ取り早くセントラルひっくり返したいんで、二席の座くださーい」
試験会場の休憩室で暖をとっていた小林竜胆に向かって、創真は何の気負いもなくあっけらかんと言い放った。
「ぶっは……っ!! あっははははは!!」
創真の身も蓋もない要求を聞いた瞬間、竜胆は腹を抱えて爆笑した。椅子に背中を打ち付け、涙を浮かべながら激しく肩を揺らす。
「急に何言い出すかと思えば『二席の座をくれ』だぁ!? そりゃ無茶だろーが!」
「えー、ダメすか? 竜胆先輩なら『いいぞー』ってかるーく譲ってくれるかと思ったんすけど」
「譲るわけねーだろ! あたしだって伊達に第二席に座ってるわけじゃないんだからさ!」
竜胆は涙を指先で拭うと、口元にいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべ、細めた金色の瞳で創真を見据えた。
「……ま、でもさ」
竜胆はふっと八重歯を覗かせ、肩をすくめてニヤリと笑う。
「セントラルのやり方と、あの総帥の決定を正面からぶっ叩いてひっくり返すなら……実際、それしか手段はないんだけどな」
竜胆は壁に背をもたせかけ、どこか遠くを見るような目をしながら、諭すようなトーンで言葉を継いだ。
「……なぁ、そーま。もう諦めてもいいんじゃねーか?」
「? どういうことっすか?」
「去年の遠月だって同じだぜ? 脱落者は山ほど出たんだ。 宿泊研修でも、秋の選抜でもさ。隣を歩いてた仲間がポロッと振り落とされて消えていった……それと大して変わらないだろ、今回のだって」
遠月という学園がもともと持っていた「脱落者を切り捨てる残酷さ」。それがセントラルという名前に変わっただけじゃないか、と竜胆は淡々と言い放つ。
「ここまでやって膝を折ったって、誰も今のお前らを馬鹿になんかしないさ。……それにさ、残ったお前らがセントラルに入ったって、別に自分の皿を探すこと自体はできるだろうよ」
少しだけ遠くを見ていた竜胆は、ふっと視線を創真たちに戻すと、いつもの快活な笑みを浮かべた。これ以上後輩たちが傷つかないようにと、彼女なりの優しさを軽い冗談のオブラートに包み込む。
「まぁ、こう見えてもりんどー先輩は第二席だからな。総帥に『この数人はあたしの推しだから残してくれ』くらい言えば、いくらでも融通は効くし」
それは、竜胆なりの現実的で悪意のない「救い船」だった。圧倒的な権力を前に、これ以上無駄に傷つかないための退路の提示。
だが、創真は考える素振りすら見せず、即答した。
「いやっす」
「ん~~……まぁ、お前はそういうやつだよなー」
竜胆は心底おかしそうに目を細め、八重歯を覗かせてあっけらかんと笑った。
「諦めたいんじゃなくて、ひっくり返したいんすよ」
創真は首の後ろをバリバリと掻きながら、呆れたように、けれど一切ぶれない真っ直ぐな瞳で竜胆を見返した。
「それにさ、仲間がバサバサ切り捨てられてんのに、自分たちだけ先輩のコネで『助かりましたー』なんて逃げ延びるの、最高に格好悪いじゃないすか」
「あはは、違和感ねぇなぁ!」
竜胆はくつくつと喉を鳴らして笑うと、ポンと創真の肩を叩いた。
「まぁ、お前のその言い分はごもっともだよ。ただ……相手がその意気地を汲んで食戟を受けてくれるかって言ったら、話は別だからなー」
竜胆は腕を組み、壁に寄りかかり直すと、真剣味と悪戯心が混ざった瞳で創真たちを見据えた。
「十傑の席が欲しいってんなら、まずは相手をテーブルに着かせなければ始まらない。……だけどさ、もう十傑一人ひとりに『食戟してくれ』って言って回るような時間はないぜ?」
創真の後ろで小さく息を飲んだのは、重苦しい表情で会話を聞いていたえりなだった。
「……それなら」
消え入りそうな、けれど痛々しい覚悟を孕んだ声で、えりなは伏し目がちに呟いた。
「……その上に立っている、お父様なら……。私が直接懇願して、セントラルに戻ることを条件にすれば……もしかしたら……」
自分自身を差し出すことでしか対価を作れないという惨めさと悲壮感に、えりなの唇がかすかに震える。
そんなえりなの様子を横目で見やった竜胆は、ふっと肩をすくめた。
「……まぁ、交渉するなら丁度いいんじゃないか? 総帥は色々と視察に回ってて、ちょうど今この会場にいるんだし」
「えっ、親父さんがここに!?」
「おう。だから直談判しに行くっていうなら止めはしないさ。……ただ、急いだほうがいいだろうな。あの総帥様がいつ次の会場へ移動しちまうか、あたしたち十傑だって把握しきれてないんだからさ」
えりなは強く歯を食いしばると、背を向けてそのまま無我夢中で走り出した。
「な、薙切さん……!?」
恵が驚いたように声を裏返らせ、慌ててその後ろ姿を追いかける。タクミも「待て、薙切!」と叫び、焦りを露わにしながら二人の後を追っていった。
取り残された創真も「よし、俺も行くか」と二人の後を追おうと足を踏み出しかけた、その時だった。
「……なぁ、そーま」
背後から、竜胆がぽつりと呟くように声をかけた。いつもの軽快な張りのある声ではなく、どこか静けさを孕んだ音だった。創真はピタリと足を止め、振り向く。
「ん? なんすか」
竜胆は腕を組んだまま、どこか遠くを測りかねるような瞳で創真を見つめていた。
「この遠月でさ……一番の料理人って、誰だと思う?」
突拍子もない、けれど竜胆にとっては遠月の根幹を揺さぶるような問いかけ。創真は一瞬だけきょとんとした顔を見せたが、間髪入れずにあっけらかんと答えた。
「りんどー先輩っす」
「…………あん?」
予想だにしなかった返答に、竜胆はポカンと口を開けたまま固まった。完全に思考がフリーズしたような顔で、創真をまじまじと見つめ返す。
「な、なんだそれ。お前、あたしにお世辞でも言っとく気になったのか?」
「違いますよ」
創真は肩をすくめ、後頭部で両手を組み直しながらニッと笑った。
「そんなの、ここにいる奴ら全員、自分が一番だって思って料理作ってんでしょ。自分自身を一番だと信じなきゃ、最高の皿なんて出せるわけねぇっすよ。だから、りんどー先輩が考える『一番の料理人』だって、そりゃ先輩自身じゃないんすか?」
そう言い切った創真の瞳には、一切の迷いも誤魔化しもなかった。
竜胆は金色の目を大きく丸く見開いた。喉の奥で言葉を詰まらせ、ただ目の前の傲慢で、けれど恐ろしいほど真っ直ぐな少年の姿を焼き付けるように見つめるしかなかった。
「じゃ、俺も薙切たち追いかけますんで! 直談判、見てて下さいよ!」
創真は歯を覗かせて手だけをひらひらと振ると、背を向けてえりなたちが消えて行った廊下へ向かって威勢よく駆け出していった。
パタパタと遠ざかる足音が完全に消え去り、静まり返った通路に小林竜胆は一人取り残された。
「……自分自身を、一番だと信じなきゃ……か」
ポツリと漏らした言葉が空虚に響く。創真のあまりにも無邪気で真っ直ぐな言葉が、竜胆の胸の奥底に刺さったまま抜けなかった。
頭に思い浮かんだのは、まだ青く青臭かった頃の昔の光景だ。
『あたしは二席でいいや。だってさ、同じ代で同時に一席にはなれないだろ?』
そう言って、ストイックすぎる背中に向かってケラケラと笑いすかした自分。一席を目指して己を擦り減らす『あいつ』――司瑛士の隣に並び立つために、自ら二席という場所に収まった日の記憶。
そして、脳裏を掠めるもう一つの異様な記憶。
冷たく澄んだ瞳をした男――薙切薊が、静かに言い放った言葉。
『ーーーー、ーーーー』
悪意も熱量すらも感じさせない、底知れない無の境地から紡がれた総帥の言葉が、耳の奥で不気味にリフレインする。
「……ふぅーあ」
竜胆は天井を見上げて大きく息を吐き出すと、「よっこいせ」と声を上げて重い腰を上げた。
「……ったく。あんなデカい口叩いておいて、速攻で叩き潰されたら目も当てられねーからな」
創真たちがどんな顔で総帥と対峙し、どんな答えを選ぶのか。セントラルに与する者としても、そしてあのバカげた真っ直ぐさを見届けたい一人の先輩としても――その顛末を見届ける義務がある。
竜胆は口元にいつもの八重歯を覗かせると、嵐の予感が漂う総帥のもとへ向かって歩き出した。
――
激しい羽音を立てて旋風を巻き上げるヘリコプター。そのタラップへ足をかけようとしていた男——薙切薊の背中に向けて、えりなは声を振り絞った。
「お父様……っ!!」
吹き荒れる風の中、間一髪のところでその足を止めさせた。ゆっくりと振り返った薊は、狂乱の旋風など意にも留めない様子で、どこまでも優雅で穏やかな笑みをその整った顔立ちに浮かべた。
「おや……えりなじゃないか。おめでとう、三次試験は問題なく通過したようだね」
まるで出来の良い愛娘を誇るかのような、温かみすら帯びた声。だが、その瞳の奥にある果てしない深淵に、えりなは全身の血が凍りつくような悪寒を覚えた。
それでも、えりなは震える拳を強く握り締め深く頭を下げた。誇りもプライドもすべて投げ打ち、血を吐くような想いで言葉を紡ぎ出す。
「お父様……お願いです……! 三次試験で脱落してしまった者たちに、どうか寛大な処置を……! アリスや……みんなを返してください……!!」
プライドの塊であったはずの薙切えりなが、一心不乱に乞い願う姿。
それを見た薊は、どこか哀れむような、困ったような表情を浮かべると、ふっと視線を巡らせた。
えりなの背後へ駆けつけてきた田所恵とタクミ・アルディーニ、そして後頭部に手を当てたまま無表情で立ち尽くす幸平創真。さらには、少し離れた建物の影から静かに事態を見守る第二席・小林竜胆の姿をその目に留めると、薊は静かに首を振った。
「……言っただろう、えりな。『悪い友達と付き合ってはいけない』とね」
風を切り裂いて届く薊の声は、どこまでも平坦で、それが恐ろしいほどえりなにとっては拒絶を含んでいた。
「極星寮は、多くの未知があふれていたことは認めよう。私もそこで時間を過ごした一人だからね。……だが、それももう終わりだ。君を正しき場所へ連れ戻す時間が来たのだよ」
薊はゆっくりと両手を広げ、慈愛に満ちた仕草でえりなへ歩み寄る。
「お帰りえりな。……家出はもう終わりだ」
逃れられない絶対的な支配の影が、再び自分を覆い尽くしていく。仲間のために自分を差し出す覚悟を決めたはずなのに、その圧倒的な存在感を前にした瞬間、幼少期の恐怖がフラッシュバックし、足がすくんで動かない。
ポロポロと、堪えきれなくなった透明な涙がえりなの頬を伝い、冷たい雪の上へとこぼれ落ちていった。
「あのー、総帥」
風の音を切り裂いて、創真の拍子抜けするほど間の抜けた声が響いた。緊迫しきっていた空気が一瞬で瓦解する。
創真は後頭部を掻きながらケロッとした顔で言葉を続けた。
「前に月響祭の時、言ってたじゃないすか。『えりなの良い友達になれるかどうかは、まだわからないな』って」
「ああ……言ったね」
「総帥から見て、今の俺って……その『えりなの良い友達』になれているんすかね?」
創真の突拍子もない問いかけに、真っ先に叫んだのはタクミだった。
「幸平……! お前、こんな時に一体何を…っ!?」
あまりの見当違いな質問にタクミが頭を抱える一方で、涙を流していたえりなは息を飲んだ。
「ふむ……」
薊は顎に手を当て、少しの間思案するように目を細めた。
「そうだな……幸平くん、君に対する私の評価は元より非常に高い。今回の三次試験で葉山アキラ君を破ったことからも、君が留まることなく成長し続けているのは目に見えて明らかだ。……えりなに良い刺激を与えるという意味では、申し分のない『友人』と言えるのかもしれないね」
「へへ、どうも。……で、もう一つ。前に極星寮に来た時、総帥が言ったことって覚えてます?」
創真の問いに、薊は微かに口角を上げた。
「……あの時、君たちに提示したスカウトのことかい?」
「そう。俺にセントラルに入れって言ったやつ。……あれって、まだ有効っすかね?」
「……幸平くん?」
えりなの声は困惑と焦燥に震えていた。だが、それ以上に創真の真意を悟って絶句したのは田所恵だった。
恵は胸の前で両手を固く握り締め、創真の逞しい背中を見つめた。
(創真くん……まさか……!)
創真が仲間を裏切ってセントラルに寝返るつもりなど毛頭ないことは、恵には分かっていた。分かっているからこそ、息が止まりそうなほどの衝撃が胸を突く。
「……ふむ」
薊は顎に手を当て、どこか思案するように目を細めた。城一郎の面影を宿し、異次元のスピードで進化を続ける幸平創真という素材。彼がセントラルに降るというのであれば、薊にとってそれを拒否する理由などどこにもなかった。
「興味深いね。……改心して、私の理想に恭順する気になったのかな?」
「いんや」
創真は間髪入れず、あっけらかんと否定した。
「セントラルが掲げてることも、やり方も、何一つ気に食わないっすよ」
「……」
「だけどさ、もし俺たちが勝負で負けたなら――素直にセントラルでも何でも入ってやりますよ」
創真は後頭部で組んでいた手をほどくと、正面から薊を真っ直ぐに見据えた。その瞳には恐れも迷いもなく、ギラギラとした鋭い野心が宿っている。
「ここにいる残りの反逆者と、そっちの十傑を含めた兵隊全員でさ。十傑の席の賭けて……正面から全面対決、といかないすか?」
吹き荒れる風の音だけが響く雪原で、薊の瞳に冷ややかな、けれど確かな興味の光が宿った。
「なるほど……。君が天秤に載せるのは、その卓越した腕と未来というわけだね」
創真は口角を吊り上げると、不敵に八重歯を覗かせてニヤリと笑ってみせた。
「私に取引を申し出ようという心意気は買おう。だが幸平くん、それはあまりにも天秤の釣り合いが取れていない交渉だよ」
薊はくすりと静かに笑うと、慈悲深き絶対者のような笑みを浮かべ、どこまでも優雅に口元をほころばせた。
「君に『交渉の見本』を見せてあげようか」
その囁くような微笑に、タクミも恵も息を飲み、全身の毛羽を立たせるような強い警戒感を露わにする。創真は不敵な笑みを崩さぬまま、静かにその言葉の先を待った。
「セントラルに入るといい、幸平創真」
薊は諭すように、優しく言葉を紡いでいく。
「その対価として――この進級試験で落ちてしまった君の友達たちの退学処分を、すべて取り消そう」
「……っ!?」
恵が思わず口元を押さえ、タクミの目が見開かれる。あまりにも唐突で、破格すぎる提示。
「君ほどの才能と実力であれば、セントラルに入った後も容易く頭角を現し、来年度には十傑の席を得ることは確実だ。……席を手に入れた後は、そこできみの好きに料理をすればいい」
風が吹き荒れる中、薊の声だけが恐ろしいほど滑らかに耳へ届く。
「退学から復帰した者たちも、初めはセントラルから指示された料理を作ることになるだろう。……だが、彼らほどの器量があれば、そんなものなど当たり前のように身につけ、やがて自分自身の料理へと着手していくはずだ。……そうなった時、十傑の席を得た君が、上から彼らを温かく守ってやればいいのではないかい?」
創真が突きつけた無謀な賭けに対し、薊が返したのは「全員が救われ、誰も損をしない」完璧に聞こえる悪魔の提案だった。
提示されたのは、一切の隙がなく確実に利を取ることができる、いわば大人の理屈だった。絶望の淵で差し出された、あまりにも甘い救い船。だが、創真は鼻で小さく笑うと、首を横に振って即座にそれを突っぱねた。
「……却下っす」
「……何だって?」
意図を解しかねたように薊がわずかに眉をひそめると、創真は迷いのない真っ直ぐな瞳で総帥を見据えた。
「俺に守られ続けるなんてこと、あいつらが喜ぶはずねーじゃん」
フッと口元に不敵な笑みを浮かべ、創真はさらに言葉を重ねる。
「そんな安寧の中に自分から飛び込んでぬくぬくやってたら、俺自身が『俺の皿』を見失っちまう。何より――俺は、そっちの十傑の連中と正面から食戟がしたいんすよ」
その言葉に込められた一切ブレない熱量に、恵もタクミも息を呑んだ。創真の視線は一歩も引くことなく、総帥という絶対的な威圧感を真正面から押し返している。
「それにさ」
創真は後頭部に組んでいた手をほどくと、自らの胸をドカンと親指で指さした。
「総帥が俺のことをそこまで高く評価してくれてるってことは……この天秤に載せた『幸平創真』っていう錘、アンタにとっても相当な重さがあるんじゃないすか? だったら、条件を吊り上げるだけの価値は十分あるはずだ」
教えられた先から即座に実践してみせた、交渉の駆け引き。自らの価値を提示し、強引に対等の交渉テーブルへ引きずり込もうとする創真の貪欲なまでの逞しさ。
それを見た薊は、一瞬驚いたように目を丸くしたのち、ふっと口元をほころばせた。まるで教え子の目覚ましい成長を心から喜ぶかのような笑みだった。
「君の言っていることには一理あるね」
薊の口から漏れた言葉に、凍りついていた冬の空気がほんの僅かに、息ができる程度に弛緩する。だが安堵が広がるよりも早く、薊は静かに言葉を続けた。
「それなら、切り口を変えるとしようか。――えりなのことについてだ」
その名が落ちた瞬間、再び鋭い緊張がその場を支配した。身をすくませるえりなの背中で、恵もタクミも息を殺す。
「私がかつてえりなへ行った教育については、私自身反省し、申し訳ないとは思っていると以前語ったね。……ただね、それはえりなを傷つけてしまったことに対してではないんだ。正確には、彼女を傷つけるような杜撰な教育をしてしまったことについてだね」
どこまでも静かで、狂おしいほど真摯なトーンで語られる歪んだ親心。
「だから、それがどんなことであれ、最もえりなのためになると親である私が判断したのであれば……私はそれを躊躇なく実行するだろう」
その言葉に、胸を痛めた恵が耐えかねたように一歩前へ出た。震える声を必死に絞り出す。
「そ……それは、薙切さんを……またひとりぼっちにすることも、含んでいるんですか……?」
薊は慈愛に満ちた目で恵を見つめ返した。
「先ほど言ったことと同じだよ、田所くん。それが私の思う、最もえりなのためになることであるのなら、私はその選択をとるだろうね」
薊はそれを「する」と明言したわけではない。しかし、それがいつでも起こりうる現実であると叩きつけられた時、創真たち反逆者は圧倒的な圧力に押され、次の言葉を失って息を詰まらせた。
「幸平くん。だからこそ、君がえりなを守ってやるといい」
薊は視線を創真へと戻し、どこか諭すように語りかける。
「私も人間だ。えりなにとって最善と考えていたものが、全く違うものだと気が付かずに決めつけてしまうこともあるだろう」
薊は一度言葉を区切り、慈悲深き賢者のような落ち着き払った視線で創真を見据えた。
絶対的な支配者でありながら、時に柔軟に間違いを認める親としての顔をも完璧に使いこなす。創真の心理の隙間へ最も効果的に楔を打ち込み、理詰めで退路を塞いでいった。
「例えば……君がセントラルで十傑の席を得て、私へと直接提言をするのであれば、私はそれを無下にしないと約束しよう。――今、私が新戸緋沙子くんに好きにさせているようにね」
実際に新戸緋沙子へ与えられている猶予を持ち出され、それが言葉通りの事実であることを突きつけられる。
「薙切は、そんなこと望んで――」
創真が眉をひそめ、遮二無二抗おうと口を開きかけた、その時だった。
「それを言うことができるのは君ではないよ、幸平くん。……分かっているだろう?」
張り詰めていた空気が、薊の静かで残酷な一言によって完全に縫い止められた。
正論という名の鎖で退路を断たれ、何も言い返せない。それが当たり前の反応だった。
だが、創真は悔しがることも、声を荒らげることもなかった。
「……」
ふっと、彼の全身から余分な力が抜ける。
創真は薊を見据えていた視線すら外さず、振り返ることもなく、背後に立つえりなへと静かに問いかけた。
「なぁ、薙切」
吹き荒れる風の音に掻き消されそうなほど自然なトーン。けれど、その声は不思議なほどはっきりとえりなの耳に届いた。
「おまえ、どうしたい?」
その問いかけには、何かの答えを強要するような響きは一切なかった。かといって、奮い立たせようと無理に鼓舞するような熱も、怯えて立ちすくむ自分を責めるような棘も、何一つ含まれていない。
ただ純粋に、彼女自身の意志を尋ねるだけのフラットな声。
その声を聞いた瞬間、えりなは直感的に悟った。
自分がここでどんな言葉を紡いだとしても、幸平創真は決して怒らないし、失望もしないだろう、と。
例えば――この呪いのような恐怖に打ち勝てず、心が折れて薊の提案にすがりついてしまったとしても。結果として、創真に己の矜持を曲げさせ、彼をセントラルへ身売りさせることになってしまったとしても。
目の前に立つこの背中は、きっと振り返って「しかたねぇなぁ」と、いつものように呆れた顔で笑いかけてくれる。
そんな確信に近い予感が、凍りついていたえりなの胸の奥に、じんわりと温かな熱を灯した。
(……ああ)
今この瞬間でさえ、一歩踏み出してあの父親の前に立ち、言葉を発するのは恐ろしい。思い出しただけで足はすくみ、喉の奥がカラカラに干からびていくような恐怖が纏わりついている。
ただ、自分がどんな不恰好な言葉を発したとしても。
どんな道を選んだとしても。
彼は絶対に、自分を見限ることなく、その手を向けてくれるだろう。
絶対的な支配者の影に怯えるだけだった薙切えりなの瞳に、微かな、けれど決して消えない光が宿った。
えりなは、冷たい冬の空気を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に浮かんだのは、自分に向けて無造作に差し出された創真の手だった。当たり前のように自分を引っ張り上げようとしてくれる、温かく力強い手。
それに縋ってしまえば、どれほど楽になれるだろうか。
けれど――えりなは、その手をとらないことを選んだ。
彼が示してくれた絶対的な信頼に、今度は自分自身の足で立ち、応えるために。
静かに目を開いたえりなの瞳から、先程までの怯えと迷いは完全に消え去っていた。
ザクッ、と、固い雪を踏みしめ、えりなは創真の隣を通り抜け、自ら進んで薊の前へと歩み出た。
「お父様」
凜と響く声と共に、えりなは静かに、ぺこりと頭を下げた。
「……家を出てから今まで、多大なご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
それは、かつてのような恐怖と服従による平伏ではない。一人の独立した意思を持つ料理人としての、毅然とした礼だった。
ゆっくりと顔を上げたえりなは、決して目を逸らすことなく、父親の深淵のような瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だから――もう少しだけ、ご迷惑を掛けさせてください」
静かな、けれど確かな決意を帯びた言葉に、薊の目が僅かに見開かれた。
「私も、この天秤に錘を乗せます」
「……ほう」
「私が差し出すものは、遠月十傑としての席。私の持つ『神の舌』。料理人としての腕。そして、私の未来……そのすべてです」
雪原の風を切り裂くような、一切の淀みがない言葉。
背後で恵が息を呑み、タクミは目を閉じた。創真はただ、口角を僅かに上げてその誇り高い背中を見守っていた。
「もし、私たちがこの食戟で敗れたなら……私のこれからのすべてを、セントラルに捧げます」
それは、絶望から逃れるための対価ではなく、未来を掴み取るために挑むための対価。
自らの全存在を食戟の天秤へと叩きつける強烈な覚悟と共に、えりなは薙切薊の冷徹な視線を、正面から堂々と受け止めた。
えりなの気高くも壮絶な覚悟の言葉が雪原に響き渡った直後、もう一人の反逆者が静かに、だが力強く前へと進み出た。
「オレも、その天秤へと錘を乗せよう」
タクミ・アルディーニだった。
金色の髪を冷たい風に揺らしながら、彼は薙切薊の底知れない眼差しを真っ直ぐに射抜く。
「オレが差し出すのも同じだ。この腕と、これからの料理人としての未来のすべて……。負けたのであれば、セントラルに恭順しよう」
タクミの言葉には、イタリアの誇り高きトラットリアを背負う者としての重みがあった。
「自分の想いを捻じ曲げ、アルディーニの誇りすら捨て去って、お前たちの望む料理だけを作り続ける操り人形になってやる。……だが、それを拒絶するために! オレの信念と魂を、この食戟に賭ける!」
己の料理を曲げられることは、料理人タクミ・アルディーニにとって死と同義だ。あえてその「死」を天秤に乗せることで、彼はセントラルに抗う自身の絶対的な意志を叩きつけた。
さらに、タクミはギラギラと燃え盛る蒼い瞳をわずかに横へ向け、隣に立つ背中を睨みつけるように言い放つ。
「それに……ここで折れるわけにはいかないんだ。何より、オレがこれからも堂々と――幸平創真を『ライバル』と呼び続けるために!」
その熱を帯びた宣言に、創真は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐにどこか嬉しそうに、けれど深く納得したようにニッと口元を綻ばせた。
あいつらしい真っ直ぐな理由だな、とばかりに、創真はフッと小さく笑ってみせる。気負いのないその笑みは、極限まで張り詰めていた周囲の空気を、ほんの少しだけ鮮やかに塗り替えた。
そんな二人を眩しそうに見据えながら、田所恵もまた、震える足を一歩、前に踏み出した。
吹き付ける冷たい雪風と、薙切薊という存在が放つ途方もない重圧。恵の小さな肩は小刻みに震え、その手は胸の前でギュッと固く握りしめられていた。
「私……っ」
かすれる声を必死に押し出し、恵は薊の深淵のような瞳を見上げる。
「私は、難しいことは分かりません。総帥の言っている理屈を、言葉で言い負かすことなんて……きっと、私にはできません」
それは、己の非力を認める嘘偽りのない言葉だった。薊が展開する完璧な正論や大人の理屈を前にすれば、田所恵という一人の少女の言葉など、あっけなく論破されてしまうだろう。
「私の言葉じゃ、セントラルを否定することはできないけれど……。だから、私のこの想いが間違っていないって証明するために……私にできることは、自分の全部を天秤に乗せることだけです!」
震えていたはずの恵の声に芯の強さが宿る。恐怖を乗り越え、恵は真っ直ぐに薊を見据えた。
その瞳には、かつて怯えることしかできなかった気弱な少女の面影はない。
「私が大切にしてきた故郷の味も。これからも……負けたら全部、捨てます。心を殺して、セントラルの歯車になります。……だから、私も、食戟に参加します……っ!」
自らの根源である「心」そのものを天秤に乗せるという、優しき料理人にとって最も残酷で重い覚悟を天秤へと乗せた。
薊は口を開かず、じっと4人の姿を見つめていた。
彼らの未熟な提案を打ち砕き、否定する言葉などいくらでも用意できる。冷酷な事実を言えば、薊にとってタクミや田所がどれほど己の覚悟や想いを叫ぼうとも、それは殆ど交渉の天秤を傾けるような錘にもならない程度のものだった。
ただ――
「なぁー、総帥」
それまで少し離れた場所から事態を静観していた竜胆が、いつもの軽口とは違う、ひどく平坦な声を上げた。
「まだ足んねーのかよ」
一見すれば、それは創真たちが天秤に乗せた想いや覚悟のことを指しているように聞こえる。
ただ、竜胆の言葉の奥底にある真意を正確に読み取った薊は、ふっと目を細めた。
「そうだね――」
薊が思案するように口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
「おいおい中村、将来有望な料理人たちがここまで言ってんだ。少しぐらい汲んでやってもいいんじゃねぇか?」
突如として響き渡ったその声に、えりなたちは弾かれたように振り返った。
そこには、建物の入り口から姿を現し、不敵な笑みを浮かべて歩み寄ってくる幸平城一郎と、厳格な面持ちで佇む前総帥・薙切仙左衛門の姿があった。
「親父!?」
「お、お祖父様……っ!?」
あまりにも信じられない人物の登場に、創真やえりな、そしてタクミと恵も驚愕に目を丸くする。
張り詰めていた空気が一気に塗り替わる中、薊だけは微塵も驚く素振りを見せず、むしろ待ちわびていたかのように優雅な笑みを深めた。
「お久しぶりですね、才波先輩」
狂気すら孕んだ、底知れぬほど穏やかな声が雪原に落ちる。
「これは一料理人としての交渉です。彼らの覚悟に対し、僕が手を抜くことの方が無作法というものでしょう。……まぁ、才波先輩はその辺りの理屈すらも、全て食戟の腕一つでなぎ倒していたので、ご存じないのかもしれませんが」
かつての先輩へ向ける歪な敬愛と、棘のある皮肉が入り交じった薊の言葉。
「言うねぇ……ずいぶんと口が達者になったじゃねぇか、中村」
それを真っ向から受けた城一郎は、悪びれる様子もなくニヤリと歯を見せて笑い飛ばした。その少しだけ楽しげな響きに、張り詰めていた緊張感がわずかに解れる。
城一郎はゆっくりと歩みを進めながら、創真、えりな、タクミ、そして恵の顔を順番に見回した。それぞれが己のすべてを天秤に乗せ、一歩も引くことなく絶対的な権力者と対峙しているその姿に、どこか眩しいものを見るように目を細める。
「まったく……あんだけの決意を固めて、それだけの思いを共有できる仲間が居て、真正面からお前と渡り合おうとしてんだ」
城一郎は後頭部をガシガシと掻きながら、ふっと自嘲気味な笑みをこぼした。
「こんなもん見せられちまったら、俺らがこれからやろうとしてる事なんて、いわば『蛇足』ってやつなのかもな」
「親父……? どういう……」
創真が怪訝そうな顔で問いかけようとするが、城一郎はひらひらと手を振ってそれを制した。
一方、彼らのやり取りを静かに聞いていた薊は、城一郎の後ろで岩のように厳格な面持ちで佇む前総帥・薙切仙左衛門へとゆっくりと視線を移した。
「……なるほど」
薊の口元に、冷たくも優雅な笑みが浮かび上がる。
「それは、お義父さんがここにいらしている理由の一つですか? ……彼らの無謀な決意の見届け役として」
雪原を撫でる冷たい風が、仙左衛門の和服の裾を大きく揺らした。だが、前総帥は一言も発することなく、ただその鋭い眼光で薊を射抜いている。
静寂が場を支配した次の瞬間、城一郎が一歩前へと踏み出した。
纏っていた飄々とした空気が一変し、かつて「修羅」と呼ばれた料理人の、圧倒的な覇気が雪原に解き放たれる。
「おう。うちのガキたちと、お前らセントラルとの総力戦――『連隊食戟』だ」
城一郎は挑戦的で、最高に不敵な笑みを浮かべながら薊を正面から見据えた。
「その最後の一押しを、持ってきたつもりだぜ」
城一郎の不敵な宣言が雪原に響き渡った後、張り詰めた静寂が数秒だけ場を支配した。
だが、薙切薊の整った顔立ちには動揺の欠片も浮かばなかった。ただ、深く静かな湖面のような瞳を細め、穏やかな声音で促す。
「……聞きましょうか。才波先輩が仰る、最後の一押しとやらを」
かつての絶対的な偶像を前にしても、己の優位は揺るがないという絶対的な自信。その余裕めいた態度を前にしても、城一郎は相変わらず飄々とした様子で後頭部を掻いた。
「つっても、ガキどもと同じだ。もしもこっちが負けたのなら、俺が、お前の下についてやる」
その言葉に、薊は眉一つ動かさず、ただ静かに次の言葉を待った。彼が求めているのは、そんな曖昧な服従ではないことを互いに分かりきっているからだ。
雪原を吹き抜ける風の音が、一瞬だけ止んだ。城一郎は組んでいた腕を解き、真っ直ぐに薊を見据えて言い放つ。
「定食屋『ゆきひら』を閉めて――お前の作ったセントラルの思想に同調した、理想の体現者としてお前に協力してやる」
何でもないことのように気負いもせずに放たれたその言葉の内容は、直接的な関係者でない城一郎が、自分たちへと進退を賭けたということだった。
「親父……『ゆきひら』を、閉めるって……」
創真の顔から、先ほどまでの不敵な余裕が完全に消え去っていた。目を見開き、信じられないものを見るように城一郎の背中を見つめる。えりなも、タクミも、恵も、あまりの衝撃に息を呑むことすら忘れて凍りついていた。
だが、当の城一郎は振り返ることもなく、ただ静かに薊の反応を待っている。
「……」
薊は顎に手を当て、少しの間、深く思案するような素振りを見せた。その瞳の奥に何を宿しているのか誰にも読み取れなかった。
「……そうですか」
吐息のように漏れたその声は、恐ろしいほど静かだった。薊はゆっくりと顔を上げ、城一郎、そしてその後ろに立つ仙左衛門へと視線を巡らせる。
「……おそらく先輩の後ろには、お義父さんだけではなく、堂島先輩も一枚嚙んでいるのでしょうね」
確信を帯びた言葉を落とした後、薊は僅かに目を伏せた。それはかつての尊敬したもう一人の先輩のことを思いだしているかのようだった。
「二つの回答と、一つの訂正をしておきましょう」
思案をやめ静けさを含んだ声で薊は言葉を紡ぐ。
「才波先輩の存在は、確かに僕の中で彼らとの連隊食戟を受ける決心をする一押しとなりました。……ゆえに――」
薊は視線を城一郎から外し、その横に立つ創真へと向けた。
「幸平創真くん。君の提案を、受けるとしよう」
その言葉が雪原に落ちた瞬間、創真の瞳にギラリと凶暴なまでの闘志が燃え上がった。タクミは力強く拳を握り直し、恵も、えりなも、極限の緊張の中に確かな決意の炎を宿して薊を睨み据える。
彼らから放たれる熱気を心地よさそうに受け流しながら、薊は再び城一郎へと言葉を向けた。
「そして、二つ目の回答です。その食戟を行うにあたり、一つ条件をつけましょうか」
「条件……?」
タクミが訝しげに眉をひそめ、えりなも警戒するように身構える。圧倒的な優位に立つ総帥が自ら持ち出す条件という言葉に、一同の間に強い疑念が走った。
だが、薊はそんな彼らの警戒など気にも留めず、優雅に口元をほころばせた。
「才波先輩。貴方が、彼らへ最大限の助力をすることです」
「……あん?」
底知れぬ企みを警戒していた城一郎は、予想外すぎるその言葉に意図を理解しかねたように眉を寄せた。
総帥側からすれば、反逆者たちに才波城一郎の育成やバックアップがつくことは、不確定なリスクを跳ね上げるだけの行為であるはずだ。
訝しむ城一郎に対し、薊はどこか遠くを見るような、それでいて仄暗い熱情を帯びた瞳で微笑んだ。
「これは総帥としての判断ではありません。完全な『私事』ですよ。尤も、この連帯食戟を受けることも、そうだと言われれば否定できませんが」
雪原の風に紛れるような、静かで狂おしい告白。
「かつて……貴方と共に過ごした遠月で、貴方を超えることができなかったという僕の未練を――ここで消しておこうと思ったので」
その言葉を聞いた城一郎は、微かに目を見開いた後、やれやれと肩をすくめて深く息を吐き出した。
「つまり、俺らにとってこの連隊食戟は『代理闘争』ってことか」
「僕の勝手な言い分を、無理に受け入れていただかずとも構いません。ただ、僕はそのつもりで臨むというだけのこと」
薊は淡々と言ってのけた。そこには相手に同意を求めるような執着はなく、どこまでも冷ややかな自己完結があった。
「結局のところ、これは僕自身の心の整理でしかありませんから」
自らの内に渦巻いていたはずの過去の亡霊すらも、極めて事務的に処理しようとするかのような冷徹さ。
だが、その後に続いた薊の言葉は、城一郎にとってさらに予想外のものだった。
「そして――最後に『一つの訂正』を」
薊はふっと口元を緩め、どこか自嘲にも似た、静かな苦笑を浮かべた。
「僕にとって『幸平城一郎』という存在が、もはや絶対的なものではないということを……どうか、堂島先輩にも伝えていただけますか」
「……」
「果て無き荒野を一人で切り拓き、僕たちを導いてくれた貴方が、尊敬できる先輩であったことには変わりはありませんがね」
静かな雪原に落ちたその言葉には、かつて彼が城一郎に向けていた狂信的なまでの熱は感じられなかった。過去を懐かしむような、澄み切った響きだけがそこにあった。
その態度を目の当たりにした城一郎の表情から、飄々とした余裕がすっと消え失せた。
「……なぁ、中村。お前、なんか変わったか?」
鋭く目を細め、城一郎は探るような視線で薊を射抜く。
事前の作戦会議。堂島銀、薙切仙左衛門、そして城一郎の三人の間で交わされた共通の見解があった。
今の強固なセントラル体制を築き上げた薙切薊を、十傑の席を賭けた総力戦というリスクだらけの舞台へ引きずり出すには、相応の『劇薬』が必要不可欠である、と。
そして、薊にとっての最大の餌であり、抗いようのない劇薬こそが『幸平城一郎』という存在そのものであるはずだった。
だが、実際に相対した薊から伝わってくる熱量は、城一郎たちが想定していたものとは決定的に異なっていた。
確かに、自らの提示した条件は薊を動かす決定打、大きな『錘』として機能した。しかし、薊は城一郎という存在「だけ」にすべてを賭けて、この無謀な食戟を受けたわけではない――。城一郎の研ぎ澄まされた直感が、そう告げていた。
今の薊の中には、かつての城一郎への執着以上に、何か別の、もっと大きく重い『核』のようなものが存在している。
「……」
城一郎の鋭い問いかけに対し、薊は微かに目を伏せるだけで、それ以上の言葉を紡ごうとはしなかった。
自らの内奥にあるものを、これ以上語るつもりはない。その雄弁な沈黙が、かえって彼の中で静かに確立されている得体の知れない確信を物語っていた。
やがて薊は静かに視線を動かし、城一郎たちの背後に佇む前総帥へと目を向けた。
「……お義父さん。貴方には、連隊食戟の調停をお願いできますね?」
「いいだろう」
仙左衛門の低く重い声が、吹き荒れる雪原の風を裂いて響き渡る。その揺るぎない眼光を受け止めながら、薊は優雅に微笑んだ。
「では、見届け人たる貴方に、決戦の舞台と日時の指定をお任せしましょう。……彼らのこの旅の終着点として、どこが相応しいとお考えですか?」
「……ならば」
仙左衛門は一歩前へ踏み出し、厳格な声で告げた。
「決戦の舞台は、この進級試験の最終地点となる『礼文島』。日時は、試験の最終日とする」
「礼文島……最果ての地ですか。なるほど、彼らが生き残るか、あるいは雪に散るかを決する舞台には相応しい。いいでしょう」
薊は静かに頷き、その条件を受け入れた。
そしてゆっくりと目を開き直すと、城一郎越しに並び立つ若き料理人たちへと、一人ずつ視線を移していった。
「田所恵。タクミ・アルディーニ。幸平創真。……そして、薙切えりな」
白銀の風に紛れさせず、確かめるように、一人一人の名を呼ぶ。
その眼差しはどこまでも冷徹で、絶対的な高みから見下ろす支配者のそれだった。だが、続く言葉の響きには、敵対者に対する皮肉に混じって、異なる意味が宿っていた。
「君たちが天秤に乗せた青臭い覚悟など、私の築き上げた絶対の理想(セントラル)を前にしては、あまりにも脆く、無力でちっぽけなものだ」
薊はゆっくりと優雅に両手を広げ、狂気と理知が混ざり合った微笑を浮かべる。
「……だが。かつて才波先輩でさえ膝を折ったあの『果て無き荒野』を、君たちがそれでも自らの足で進むと言うのなら。せいぜい、死力をもって私を否定しに来ることだ」
突き放すような残酷な言葉。しかしそれは裏を返せば、彼ら自身が自らの力で運命を切り拓くことを是認するものでもあった。
「私の野望を打ち砕くほどの光が、君たちの信じる皿にあると言うのなら――この連隊食戟の舞台で、存分に証明するといい。私は、それを塗りつぶして先へと向かおう」
これにて交渉は完了したとばかりに、薊は身を翻した。
吹き付ける冷たい風の中でも、待機しているヘリコプターへと向かうその足取りはどこまでも優雅で淀みがない。そしてタラップへ足をかける直前、背越しに紡がれた言葉は、荒れ狂う風の音すらすり抜けるような、奇妙なほどはっきりと通る声だった。
「対戦形式などの委細は追って詰めるとしよう。……楽しみにしていますよ、才波先輩」
最後に狂気を孕んだ微笑を遺し、薊は機内へと姿を消した。
やがて重々しい羽音と共に機体は空へと舞い上がり、猛吹雪の彼方へと見えなくなっていく。あとに残されたのは、圧倒的な嵐が過ぎ去った後のような静けさと――『連隊食戟』という決戦の舞台へ向けて、確かな決意の炎を燃やす反逆者たちの姿だけだった。
基本的にこの作品では『一つ除いて薙切薊は嘘をつかない』を前提にしているのですが、たまにAIがしれっと嘘をつかせることがあるので、見落としがあったら申し訳ないです。