大淀が淹れた極上のダージリンは、アルコールが一滴も含まれていないという致命的な欠点を除けば、ヤン・ウェンリーの波立った精神を鎮めるには十分すぎるほどの芳醇な香りと深いコクを持っていた。
「で、なるほど。大淀さんが妖精さんと共にこの鎮守府へ顕現したのだとすれば……」
ヤンは温かいティーカップを両手で包み込みながら、一つ息をついた。
「はい。だからこそ、私には妖精さんたちの言葉が、あるいは彼らの考えていることが、ほんの少しだけですが判るのかもしれません」
大淀はどこか悪戯めいた笑みを浮かべ、自身もティーカップに口をつけた。ヤンはまだズキズキと痛む頭を抱えつつも、本物の紅茶の味に舌鼓を打った。配給品の出涸らしのような茶葉ではなく、きちんとした手順で淹れられた紅茶が飲めるという一点においてのみ、この提督という理不尽な役職は評価に値するかもしれない、などと不謹慎なことを考える。
「そういえば」
ヤンはふと、先ほどからの形而上学的な問答の中で、歴史家としてどうしても確認しておかなければならない一つの疑問に行き当たった。
「はい、なんでしょうか。提督」
「君はその……このオカルトめいた鎮守府のドックで『建造』される以前の記憶というものは、持っているのかい?」
「記憶、ですか」
「ああ。君たちはかつての軍艦の魂と名前を受け継いでいるという。ならば、艦船として海に浮かび、実際に戦っていた頃の記憶は……あるのか?」
ヤンの静かな問いに、執務室の空気がわずかに引き締まった。大淀はカップをソーサーにそっと置き、背筋を伸ばしてヤンの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ありますよ。艦船として戦っていた記憶は」
その声には、一切の迷いも、超常現象の産物としての曖昧さもなかった。極めて鮮明な、血と鉄と硝煙の記憶が彼女の内に存在していることを、その揺るぎない眼差しが証明していた。
「となると、君が記憶しているのは……かつての大戦か」
「ええ。人々を乗せ、共に血を流し、海を駆け、そして……散っていった。あの絶望的な戦いの経験と、海の冷たさの記憶が、私の奥底には確かに刻まれています。もちろん、私だけではありません。現在この鎮守府にいる他の艦娘たちも、皆等しくその記憶を抱えて顕現しているのです」
大淀の言葉を聞き、ヤン・ウェンリーの脳内で、これまで感じていた一つの大きな違和感が氷解していった。
(……なるほど。そういうことだったのか)
ヤンは深く納得し、小さく頷いた。
―――彼が、着任して以来、不思議に思っていたことがあったのだ。
圧倒的な物量と不可解な力を持つ深海棲艦に海を封鎖され、後方の補給も滞り、今日明日の生存すらおぼつかないような絶望的な戦況。通常の軍隊であれば、とっくに士気は崩壊し、精神に異常をきたす者や逃亡者が続出してもおかしくない極限状態である。
にもかかわらず、あのうら若き少女の姿をした艦娘たちは、一様に平静を保っていた。
「一人前のレディ」と背伸びをする暁も、斜に構えて好戦的な天龍も、無口な響も、そして先ほどヤンに抱きついてきた底抜けに明るい金剛でさえも。彼女たちは皆、悲壮感に押し潰されることなく、自らの役割を淡々と、あるいは溌剌とこなしていた。
その理由は、彼女たちが無知だからでも、狂気に当てられているからでもなかった。
彼女たちは全員が、すでに一度「国家の存亡を賭けた総力戦」を経験し、そして「自らが沈みゆくという究極の敗北と死」を味わったことのある、正真正銘の歴戦の猛者だったのだ。
「……現在の人類からすれば絶望的な戦況だが、私にとっては吉報だ」
ヤンはティーカップを置き、口元に安堵の笑みを浮かべた。
「一度地獄を見てきた歴戦の勇士たちが私の部下になってくれるというのなら、少なくとも、指揮官がパニックを起こした新兵の尻拭いをする手間は省ける。どうやら、私の貴重な昼寝の時間は、彼女たちのおかげでしっかりと確保できそうだ」
「ふふっ。それは良かったです。提督の睡眠時間は、私たちがしっかりと守ってみせますよ」
ヤンの照れ隠しのような軽口に、大淀もまた、柔らかい笑い声を上げて応えた。歴戦の魂を持つ少女たちと、歴史の波を乗り越えてきた不敗の魔術師。奇妙な主従関係は、この一杯の紅茶を介して、確かな信頼の糸で結ばれつつあった。
しかしながら歴史家の性か、ヤンの知的好奇心はまだ満たされてはいなかった。彼は歴史のミッシングリンクを埋めるべく、もう一つの質問を投げかけた。
「それで、もう一つ気になっていたのだが。深海棲艦という未知の脅威が現れ、人類が海を追われ始めた後……この世界において、初めて人類とコンタクトを取った『最初の艦娘』は誰だったんだい? 世界的な危機なのだから、海外の有名な戦艦や空母の艦娘も同時に発現したのだろう?」
ヤンの問いに対し、大淀は少しだけ首を横に振り、正確な歴史的事実を口にした。
「いいえ。一番初めに人類の前に姿を現し、コンタクトを取ったのは、たった五名でした。吹雪、叢雲、電、漣、五月雨です」
「……」
ヤンは歴史の記憶を素早く検索し、その五つの名前に共通する属性を即座に割り出した。
「……見事に、かつての日本海軍の駆逐艦ばかりだな」
「はい。その通りです」
「何か明確な法則性はあったのかね? 例えば、彼女たちが沈んだ海域が特定の場所に集中していたとか、あるいは建造された造船所が同じだったとか。何らかの物理的、あるいはオカルト的な特異点がそこに……」
「……見当たりません」
大淀は少し困ったように肩をすくめた。
「発現した場所もバラバラでしたし、彼女たちの艦歴にも、オカルト的な結びつきを証明できるほどの強い共通項は見出せませんでした。ただ一つ言えるのは、『駆逐艦である』という共通点のみですね」
「……謎だな。全くもって謎だ」
「はい、謎です。軍の学者たちも、最終的にはさじを投げました」
二人は顔を見合わせ、同時にお手上げだというように苦笑した。
歴史というものは、時にいかなる論理的必然性も持たず、ただの偶然の連続として事象を投げ出してくることがある。巨大な戦艦でもなく、華やかな空母でもなく、小柄な駆逐艦たちが人類の反撃の嚆矢となったという事実は、ヤンの歴史家としての探究心をひどくくすぐるものであった。
(駆逐艦か……。艦隊の末端を支え、最も泥臭く、最も多く海に散った彼女たちが、再び世界を救うために最初に立ち上がった。もしこれが劇作家の書いたシナリオであれば、あまりにも出来すぎているがね)
ヤンがそんな感傷的な考察に耽りかけた、まさにその時だった。
ビーーーーーッ!ビーーーーーッ!
突如として、本庁舎の廊下から、耳をつんざくような無機質なブザーの音が響き渡った。静寂なティータイムを唐突に切り裂くその音に、ヤンは思わず肩をビクンと震わせ、マグカップの紅茶をこぼしそうになった。
「な、なんだ? 空襲警報か!?」
「いいえ、違います」
大淀は全く慌てることなく、むしろ待っていましたとばかりに立ち上がり、ヤンに向かって晴れやかな笑みを向けた。
「先ほどの、建造が終わった合図です。ちょうど、一時間が経過しました」
大淀はスカートの裾を軽く整え、ドアの方へと手で指し示した。
「ヤン提督。あなたが手配した資材と、あなたの『縁』が、一体どのような魂をこの鎮守府に呼び寄せたのか……ドックへ向かい、ご自身の目で確かめましょう」
「やれやれ。私の寿命は、深海棲艦よりもこの心臓に悪いブザーの音に削られそうだ」
ヤンは渋々といった様子で立ち上がると、冷めかけた紅茶を一息に飲み干した。オカルトと非日常に彩られた新しい職場。その理不尽な現実に再び直面すべく、ヤン・ウェンリーは有能な秘書艦の後に続いて、新たな仲間が待つ建造ドックへと歩みを進めるのであった。
■
本庁舎の二階にある真新しい提督執務室から、地下深くの建造ドックへと向かう道程は、ヤン・ウェンリーにとって、己の理性を再びオカルトの祭壇へと捧げるための巡礼のようなものであった。
冷たいコンクリートに覆われた薄暗い地下通路を歩きながら、ヤンは先ほど大淀から聞かされた「人類に初めて接触した五隻の駆逐艦」の名前を、記憶の中で反芻するように小さく呟いていた。
「吹雪、叢雲、漣、五月雨……そして、電(いなずま)」
その五つの名前を舌の上で転がしていたヤンの足が、ふとピタリと止まった。不敗の魔術師の優れた脳細胞が、現在進行形の作戦ファイルと歴史的固有名詞を瞬時にリンクさせたのである。彼は信じられないものを見るような目で、半歩後ろを歩く秘書艦を振り返った。
「……大淀さん。そういえば、電、というのは」
ヤンの声には、彼自身も予期していなかった微かな上擦りが混じっていた。
「つい先ほど、私が雷(いかずち)と共に近海へ物資回収任務(スカベンジ)に向かわせた、あの少しオドオドした駆逐艦……電のことですか?」
「ええ、そうですよ」
大淀は、さも当然のことのように涼やかな笑みを浮かべて首肯した。
ヤンは完全に絶句した。歴史を学ぶ者にとって、「歴史の転換点に立ち会った生きた証人」というものは、いかなる宝石や財宝よりも価値のある存在である。ましてや、人類を滅亡の淵から救い出す端緒となった「最初の五人」の一人なのだ。銀河帝国や自由惑星同盟であれば、間違いなく歴史の教科書の最初のページに銅像付きで載るレベルの偉人――いや、偉艦である。
それが今、この鎮守府では、昨日着任したばかりの怠け者の新任提督の適当な命令によって、弾薬の空薬莢やドラム缶を拾い集めるための廃品回収係としてコキ使われているのである。
「……なんということだ。この鎮守府には、歴史そのものが生きたまま息づいているだけでなく、日々の雑務までこなしているらしい」
ヤンはボサボサの頭を両手で抱え込み、天を仰いだ。彼がもし純粋な歴史学者であったなら、今すぐ彼女を最前線から引き剥がし、安全な書庫の奥深くに座らせて、何百時間でもインタビューを試みただろう。
「後で、少し彼女から話を聞くかね。最初の接触がどのようなものだったのか、歴史家として非常に興味がある」
「ふふっ、良いですね。でしたら、私もお付き合いしますよ。美味しいお茶とお茶菓子を用意しておきましょう」
大淀とそんな他愛のない、しかしヤンにとっては極めて重要な学術的雑談を交わしているうちに、二人は重厚な防爆扉の前に到着した。
扉が重々しいモーター音と共に左右に開くと、先ほどまでのうだるような熱気は嘘のように引いていた。中央に鎮座する巨大な溶鉱炉の火は、すでに数段ほど火力が落とされており、ドック全体を暖炉のような優しいオレンジ色の光で包み込んでいる。そして、その炉の前には、先ほど自ら火の中に飛び込んでいった妖精たちが、煤一つ顔につけることなく、軍隊のように整然と一列に並んでヤンを待ち構えていた。
彼らの背後――ドックの中央にある固定台の上には、人間ほどの大きさの「何か」が鎮座しており、その上からすっぽりと分厚いキャンバス地のシートが被せられていた。シルエットだけでは、それがどのような姿をしているのかは全く窺い知れない。
ヤンの視線は、そのシートから、傍らに設置された操作モニターへと移った。無機質な液晶画面には、緑色のフォントで誇らしげに『建造完了』という文字が輝いている。
そして、その文字のすぐ下には、オカルトや魔法、あるいは重厚な軍事施設といった雰囲気をすべて台無しにするような、極めて現代的でポップなフォントが点滅していた。
『TAP!』
「……現実味がない。実に現実味がないな」
ヤンは眉間に深い皺を寄せ、歴史家としての美意識を著しく損なうその画面を睨みつけた。神聖な儀式の結果が、まるで安っぽい電子遊戯(ゲーム)のクリア画面のように処理されている。世界の創造主は、よほどデザインセンスが欠如しているか、あるいは人間を揶揄うことに命を懸けているらしい。
だが、愚痴をこぼしていても事態は進展しない。ヤンは小さく息を吐くと、思い切ってその『TAP!』と書かれた画面を、人差し指で弾くように押した。
ピロン、という気の抜けた電子音がドック内に響き渡った。それを合図とするように、整列していた妖精たちが一斉に動き出した。彼らは小さな身体に似合わぬ凄まじい脚力で固定台へと跳躍すると、被せられていた分厚いシートの端を掴み、一気に引き剥がした。
バサァッ! という重い布の擦れる音と共に、シートが宙を舞う。同時に、台座を固定していた無数の金属製クランプが、プシュウゥゥという圧縮空気の抜ける音と共に次々と外れ、重厚な機械音を立てて後方へと後退していく。
白く立ち込める蒸気のベールがゆっくりと晴れていく中、そこに現れたのは――一人のうら若き女性であった。
「……奇妙な気分だ。実に」
ヤンは、思わず独り言のようにぼやいた。
つい一時間前まで、そこには鉄屑と重油しかなかったのだ。それが今、完全な肉体と意思を持った人間として、正確には艦娘として顕現している。生命の誕生というにはあまりにも即物的で、兵器の製造というにはあまりにも神秘的すぎる。
蒸気が完全に晴れた後、彼女の姿が露わになった。
年の頃は、人間の女性で言えば十八、九といったところだろうか。艶やかな黒髪を背中で切り揃え、古風な和装を思わせる朱色や臙脂色、そして白を基調とした衣服を身に纏っている。彼女の腕や背中から腰にかけては、鋼鉄で構成された無骨な艤装――連装砲と魚雷発射管が重々しく装着されており、彼女が紛れもない「軍艦」であることを主張していた。
しかし、その重武装とは対照的に、彼女の顔立ちはどこまでも優しく、そしてひどく儚げであった。長い睫毛に縁取られた瞳は固く閉じられており、まるで深い眠りについているかのようだ。
やがて、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、その双眸を開いた。
深い夜の海を思わせるような、静謐な瞳。彼女は自分の手のひらを見つめ、次いで周囲の景色を確かめるように視線を巡らせた。そして、目の前に立つボサボサ頭の青年と、その傍らに立つ大淀の姿を認めると、彼女はふわりと台座から降り立った。鋼鉄の艤装がカチャリと冷たい音を立てる。しかし、彼女の足取りは、その重さを微塵も感じさせないほど滑らかで、静かであった。
彼女はヤンの目の前まで歩み寄ると、立ち止まり、深く頭を下げた。そして、消え入りそうなほど細く、弱気な声で、自らの名を告げたのである。
「あの……軽巡洋艦、神通(じんつう)です。どうか、よろしくお願い致します……」
おずおずと差し出された言葉。それは、数万の敵艦隊を前に血路を開く軍艦の自己紹介というよりは、新しい学校に転校してきたばかりの、内気な女学生の挨拶のようであった。
ヤン・ウェンリーは、少しだけ困ったようにボサボサの頭を掻いた。先ほどの金剛のような突風のような挨拶も困りものだが、このように怯えた小動物のように縮こまられるのも、生来の人の良さを持つヤンにとっては非常に対応に困るものであった。
しかし、大淀から先ほど聞いた「彼女たちは皆、かつて戦い、散っていった記憶を持つ歴戦の勇士である」という事実が、ヤンの脳裏に蘇る。この儚げで弱気な少女の奥底には、鋼鉄の軍艦としての誇りと、硝煙にまみれた凄惨な戦場の記憶が眠っているのだ。ならば、上に立つ者として、過度な同情や子供扱いはかえって失礼に当たるだろう。
ヤンは姿勢を正し、軍の司令官として、彼女に向かって右手を差し出した。
「ヤン・ウェンリーだ。……着任したばかりの頼りない提督だが、君のような人が来てくれて心強い。こちらこそ、よろしく頼む」
気負いのない、しかし確かな敬意を込めたヤンの言葉に、神通はわずかに目を丸くした。軍隊という厳格な組織において、上官から部下へ、しかも握手という対等なコミュニケーションを求められることなど、彼女の記憶の中の「帝国海軍」ではあり得ないことであったからだ。
神通は戸惑うように視線を泳がせ、横に立つ大淀をチラリと見た。大淀は微笑みながら、ゆっくりと頷いてみせた。
「……はい。微力ですが、精一杯、努めさせていただきます」
神通は恐る恐る、自身の白く細い手を伸ばし、ヤンの掌をそっと握り返した。
その手は、冷たい鋼鉄などではなく、確かな体温と柔らかさを持った、人間のそれであった。
物理法則を無視した兵器と、歴史の波に翻弄される不敗の魔術師。時代も次元も超えた二つの魂が交わした、静かで、しかし確かな体温を伴うその握手から、横須賀鎮守府の新たな反攻の歴史は、いよいよ本格的に動き始めたのだ。