すでに黒田は三将戦で敗れ、坂本が二将戦を取り返していた。
一勝一敗。
全国大会決勝は、しおりの一局にすべてがかかっていた。
盤上では、まだ大駒の派手な切り合いは起きていない。だが、だからこそ怖い。少しの手順の差が、そのまま勝敗になる局面だった。
しおりは第三十七手に指を伸ばした。
▲三七桂。
桂馬を跳ねる。
読者にもわかりやすく言えば、この一手はすぐに相手を詰ませる手ではない。けれど、次に▲四五桂と飛び込む筋や、▲二五歩から飛車先を裂く筋を同時に見せる、含みの大きい一手だった。
市川の一将は、その桂馬を見てすぐには動かなかった。
「そこから来るんですね」
「まだ来てませんよ」
しおりの声は静かだった。
相手は小さく息を吐き、第三十八手を置く。
△六五歩。
中央を押さえ、しおりの銀と桂の連動を切りに来る手だった。これもわかりやすく言えば、しおりの攻め駒に自由に暴れさせないための歩だ。
しおりはすぐに取らない。
▲二五歩。
第三十九手。
飛車先の歩を合わせる。
相手が中央から押さえに来たのに対し、しおりは横から傷を広げにいった。盤の一か所で殴り合わず、相手に「どちらを先に受けるか」を迫る手だった。
第四十手、△同歩。
第四十一手、▲同飛。
飛車が走る。
会場の空気が、ここではっきり変わった。
今まで静かだったしおりの盤が、ようやく読者にも見える形で牙を見せたのだ。
だが市川の一将も崩れない。
第四十二手、△二四歩。
歩を打って飛車の利きを止める。
ただの歩兵一枚。
しかし、こういう一枚が終盤では重い。飛車をその場に縫いつけ、働きを半分だけ奪う。
しおりは飛車を引かなかった。
第四十三手、▲二八飛。
いや、正確には「逃げた」のではなく、引いて形を整えた。
この飛車は後で横から利く。
そう読んでの一手だった。
市川の一将の目がわずかに細くなる。
「引くんですか」
「今はまだ」
「まだ、ですか」
そこで相手は第四十四手、△七三桂。
桂馬を跳ね、今度は自分の攻め筋を太くしてきた。しおりの玉頭へ直接利く形ではない。だが、次に△八五桂、あるいは△五四角と出る含みが濃い。
しおりは盤を見下ろしたまま、右手で膝を一度だけ押さえた。
疲労はある。
けれど、読みは鈍っていない。
坂本も黒田も、少し離れた位置から黙って見ている。もう誰も口は出さない。ここから先は、本当に一手の世界だった。
第四十五手、▲四五歩。
中央の歩をぶつける。
第四十六手、△同歩。
第四十七手、▲同銀。
銀が前へ出る。
銀将は斜めにも前にも利く。終盤で前へ出る銀は、攻め駒としてとても重い。だが同時に、前へ出すということは自玉のそばから守り駒を一枚剥がすことでもある。
だから危ない。
危ないが、しおりはそこで出た。
市川の一将はすぐに応じた。
第四十八手、△四四銀。
銀で銀を受ける。
わかりやすい手だ。
しおりの銀をそれ以上前へ進ませず、中央でぶつけ止める。
だが、しおりはこの形を待っていた。
第四十九手、▲五三銀成。
会場のあちこちで息が止まった。
銀が成って、成銀になる。
この一手が鋭かった。
いま盤上にいた銀を、そのまま相手陣へ成り込ませたのだ。成銀は金将と同じ動きになる。つまり、一気に攻めの質が変わる。
市川の一将が、ここで初めてはっきりと長考に入った。
自玉に近い。
だが、すぐ詰むわけではない。
取るか、逃げるか、別の受けを利かせるか。
選択肢はある。
あるのに、どれも薄い。
読者向けに言えば、しおりの狙いはここでいきなり詰ますことではない。相手の王のまわりにいる守りの駒の並びを、一枚ずつずらしていくことだった。王の周囲にいた金や銀が、正しい位置から半歩でも動かされると、最後の寄せが急に厳しくなる。
相手は第五十手、△同銀と出来なかった。
取れば別の筋から飛車と角が通るからだ。
代わりに選んだのは、第五十手、△六二金。
金将を寄せて、王のまわりを厚くする。
地味だが強い受けだった。
しおりはその一手を見て、静かに頷く。
まだ終わらない。
だからこそいい。
第五十一手、▲四四角。
角を打ち込む。
斜めに長く利く角行が、ついに相手陣の深いところへ刺さった。成銀と角。二つの駒が王のまわりへにじり寄る。
市川の一将の肩が、ほんの少しだけ下がる。
「厳しいですね」
「はい」
しおりは短く答えた。
第五十二手、△五二歩。
角の利きを遮る受け。
これもまた最善級だった。
だが、しおりの攻めは一方向ではない。
第五十三手、▲三三角成。
角が馬になる。
角は成ると「馬」になる。斜めの利きに加え、隣接する上下左右にも利くようになる。つまり一気に攻守両面で化け物じみた強さになる。
この馬が出来た瞬間、しおりの攻めはもう後戻りしなかった。
相手も必死に受ける。
第五十四手、△同桂。
第五十五手、▲同桂成。
桂馬が成り込み、成桂になる。
駒がぶつかり、剥がれ、また成る。
盤上の音が少しずつ荒くなっていく。
それでも、しおりの顔は変わらない。
市川の一将はここで最後の勝負手を放った。
第五十六手、△五七角。
王手に近い厳しい角打ち。
しおりの玉頭をにらみ、受けを誤れば逆転まである一手だった。
坂本が思わず息を呑む。
黒田の手が無意識に握られる。
だが、しおりは止まらなかった。
第五十七手、▲七八玉。
冷静にかわす。
逃げるだけではない。
この一手で角の利きを外し、なおかつ次に▲五二成桂や▲四一銀の筋を残している。
市川の一将の口元が、わずかに歪んだ。
「そこまで見えてるんですね」
「見えてないと、ここでは指せません」
第五十八手、△四九角成。
角が馬になり、しおりの陣にも傷を入れる。
ここだけ見れば、相手の反撃も十分に怖い。
だが一手差だった。
しおりの方が、半歩早い。
第五十九手、▲五二成桂。
成桂が食い込む。
相手玉の逃げ道が、また一つ消えた。
第六十手、△同金。
第六十一手、▲四一銀。
その一手が盤へ置かれた瞬間、市川の一将は自分の負けを知った。
銀打ちそのものが派手だったわけではない。駒が大きくぶつかったわけでも、誰の目にも明らかな詰みが現れたわけでもない。
けれど、わかる者にはわかる。
王の逃げ道が狭い。
守りの金はすでに働きすぎている。
馬の利きが嫌な位置に残り、成桂が受けの形を歪めている。
次の一手をしのいでも、その次がない。
盤面のどこを見ても、最後に一枚足りない。
市川の一将は、盤から目を離さなかった。
負けだ。
そう理解してなお、すぐには手を離せない。
ここで投げるのは簡単だった。いや、将棋としてはそれが自然ですらある。読み切ったうえで負けを認める。それもまた強さだ。
だが、彼はまだ指を置かなかった。
自分でも理由は半分しかわかっていない。
悔しいからか。
決勝だからか。
ここまで来て、最後の最後を自分の手で閉じたくなかったからか。
違う気がした。
目の前にいる少女のせいだった。
天羽しおりは、勝ちを目前にしても少しも緩まない。得意げにもならないし、急いでもいない。ただ、静かにそこに座り、こちらが何を見るのかを待っている。
勝った者の顔ではなかった。
もっと遠いものを見ている顔だった。
市川の一将は、ゆっくりと息を吸った。
そして、第六十二手を置く。
△同金。
無意味な延命ではない。
盤に残っている理屈を、最後の最後まで確かめるための手だった。
しおりはそれを見て、すぐに指した。
第六十三手、▲同成桂。
成桂が食い込み、玉の周りの形がまた一枚剥がれる。
やはり足りない。
それでも市川の一将は、もう一手指した。
第六十四手、△同玉。
王が動く。
その瞬間、観戦していた者の多くが、いよいよ終わりだと悟った。玉が出ている。守りは薄い。馬と飛車の利きが残っている。誰が見ても苦しい。
だが彼だけは、まだ指していた。
盤にしがみついているわけではなかった。
むしろ逆だった。
負けるとわかっているからこそ、最後に見ておきたいものがあった。
第六十五手、▲五三飛成。
飛車が竜になる。
龍王。
盤の上で最も強い駒。
その駒が、自分の王を真正面から見据えた。
市川の一将は、その形を見つめながら、ふと口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
観戦者の何人かが、わずかに顔を上げた。
終盤の最中、こんなふうに言葉が落ちることは珍しい。
しおりは視線を盤に落としたまま、小さく返す。
「何ですか」
市川の一将は、次の受けを読みながら訊いた。
「どうして、将棋を指すんですか」
声は静かだった。
敗者の問いだった。
けれど、卑屈ではなかった。
ただ知りたかった。
なぜ、この少女はここまで迷いなく盤へ沈めるのか。
なぜ、勝ちに届くより前から、もっと別のものを見ているような顔をしていられるのか。
彼はこれまで、将棋をたくさんの理由で指してきた。
勝ちたいから。
強くなりたいから。
負けたくないから。
期待に応えたいから。
ここまで積み上げたものを、無駄にしたくないから。
どれも本当だった。
だが今、目の前のしおりは、そのどれとも少し違う場所にいる気がした。
しおりはすぐには答えなかった。
盤を見て、
相手の玉を見て、
残っている手順を確かめてから、
静かに言った。
「もう一度、あの景色を見たいからです」
市川の一将の指が止まる。
「あの景色」
「はい」
しおりの声は淡かった。
けれど、その淡さの奥にだけ、はっきりと熱があった。
「一回だけ、見たことがあるんです」
「勝った先の景色を」
「たぶん、そうです」
たぶん、と言いながら、その答えには少しの迷いもなかった。
「すごく遠くて、すごく綺麗で、でも一瞬で消えてしまって」
しおりはそこまで言って、ほんの少しだけ目を細めた。
「だから、もう一度見たいんです」
勝つため、ではない。
強くなるため、でもない。
負けたくないから、ですらない。
景色。
市川の一将は、その言葉の意味を考えた。
自分が見ていたものは何だっただろう。
相手より一手上回ること。
勝敗の先に残る結果。
名前。
順位。
積み上げた努力が報われる瞬間。
もちろん、それも将棋だ。
けれど、しおりが見ているのは、もっと先だ。
勝敗のさらに向こう側。
勝ったとか負けたとか、そういう一局の重さすら飲み込んだ先にある、一瞬の光みたいなものを追っている。
その違いを知った瞬間、市川の一将は自分の敗北を別の形で理解した。
手が一枚足りなかったからではない。
終盤の読みで一手負けだったからでもない。
見ている景色が違う。
自分は盤の上で勝とうとしていた。
彼女は、その先にある何かへ届こうとしている。
同じ将棋を指しているのに、
立っている場所が違った。
市川の一将は、ゆっくりと息を吐く。
そして、最後の確認のように一手を置いた。
第六十六手、△七四玉。
逃げる。
だが、逃げても終わる。
しおりは即座に応じた。
第六十七手、▲六四竜。
龍が迫る。
王の逃げ道が消える。
ここで市川の一将は、もう盤を読む手を止めた。
読めば読むほど、しおりの言葉が胸の中で広がっていく。
もう一度、あの景色を見たいから。
その理由は、あまりにまっすぐで、
あまりに遠かった。
自分はまだ、そこにいない。
けれど、少しだけわかった気がした。
この少女がどうして最後まで静かなのか。
どうして勝ちを目前にしても勝者の顔をしないのか。
彼女にとって一局は終点じゃない。
ただ、景色へ向かう途中の一歩なのだ。
市川の一将は、そっと盤へ手を置いた。
「……負けました」
静かな声だった。
悔しさは残っている。
苦さも、届かなかった現実もそのままだ。
それでも、その投了は不思議なほど澄んでいた。
しおりは深く一礼する。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
市川の一将も頭を下げる。
顔を上げた時、目の前の少女はもう次のどこかを見ているようだった。
さっき聞いた答えの意味が、少しだけわかる。
この少女は、たぶんこれから先も勝ち続ける。
負けたとしても止まらない。
景色を見たいという、それだけのために、もっと遠くまで行く。
市川の一将は、立ち上がる前に一度だけ盤を見た。
自分は結果を見ていた。
彼女は景色を見ていた。
その違いが、最後の最後で勝敗よりも深く胸に残った。
会場の拍手が広がる中、しおりは静かに席を立つ。
全国優勝の瞬間だった。
けれど彼女の横顔には、達成の色よりも、
まだ見ぬどこかを思うような、
薄い光だけが残っていた。