「たす、け」
丁度、ナシャタウンの路地を歩いていた時だった。
黒い目隠しをした、いかにも盗賊風の少女が殴られて、助けを求めているのを見たのは。盗みに失敗したのだろう。身体中、ひどいあざができて、息も絶え絶えで。
あ、死ぬかもな。
考えたが、ヤフォダは見なかったふりをしようとした。自分が巻き込まれるのはごめんだ。
しかしそう思うには、ヤフォダは優しすぎたのだった。ヤフォダは、彼女を放っておけなかった。
だからといって、助けを差し伸べる勇気もなく、ヤフォダは立ち尽くしていた。それに目ざとく気づいた少女は、よろよろと立ち上がって、ふらつきながらこちらへと駆け、ヤフォダにしがみついた。
「たすけ、ろ」
「え?」
ヤフォダは、間抜けな声を上げてようやく少女に助けを求められている現実を受け止めた。
目隠しの下の口は、たくましく企むように上がっている。
「殺される、助けてくれ。死にたくない、んだ」
そう言われて放って置けるような人間なら良かったと、ヤフォダは思った。
「ああ、もう! なんなんだよ!」
少女の企み通り、ヤフォダは少女に右手を差し伸べた。少女は迷うことなく、ヤフォダの手を握った。そして、走り出す。少女は、おぼつかないながらもなんとかついてきている。案外しぶとく生きているようだ。
上手いこと追っ手を撒いた頃には、二人揃って喋れなくなるほど息が上がってしまった。
息を整えるため、しばらく黙ってから少女は顔に合わず、粗暴にへへ、と笑った。
「ありがと! 誰だか知らないけど助かった!」
「な、なんであたい巻き込まれたんだ……」
「ごめんごめん。名前なんて言うんだ?」
「ヤフォダだ」
ふぅん、と少女は言った。ヤフォダね、ヤフォダ、と名前を覚えようとしているのか、何度も呟く。そして覚えたのか、勝手にヤフォダの右手を握った。
「俺はギメイラだ。好きに呼んでくれ」
「ぎめ……言いにくいから、メイラでいいか?」
「もちろん。ああ、あとお礼なんだけど今俺金とか持ってないからさ、借りひとつってことで、許してくれないか」
助けてもらった側なのに勝手に決めつけ、ひらりと手を振ってギメイラは去っていった。
ヤフォダは、もう二度と彼女と関わることはないだろうと、その時は思っていた。しかし、案外彼女はヤフォダのことを気に入ったらしく、本当に借りを返して、雑談をして……。
そんなことをするうちに、ヤフォダはギメイラとそこそこ仲良くなってしまったのだった。
そんな昔のことを、思い出した。
「あ、そうだ。姐さん、メイラからの注文だ。至急、この前買った薬が欲しいんだってよ」
「あの子も諦めが悪いね」
呆れた様子でネフェルは肩をすくめ、ヤフォダに薬瓶を手渡した。手の中で、瓶を転がしてみる。今日の朝、切羽詰まった様子のギメイラが、どうしても薬が欲しいとヤフォダに頼んだ。すぐに仕事に行ってしまったが、どうやら夢を見れたらしく、効果を感じたらしい。
月を見てみたい。
ちっぽけな夢だ。あんなのを見て、何が面白いんだか。夜に空を見上げれば、嫌でも目にするってのに。
さて、そろそろ噂のギメイラがやってくる時間だろう。秘聞の館の雰囲気が苦手なのか、入り口でうろうろしているであろうギメイラを迎えに行ってやらなくては。
ヤフォダは、入り口の近くでアシュルを撫でながら下を眺めた。金髪と、黒いリボンが上から見える。
「メイラー!」
ヤフォダが上から叫んで手招きすれば、ほっとした顔をして、ギメイラがやって来た。
そして近くに来るにつれて、ギメイラの青白い顔色に疑問を浮かべた。
頰からは血の気が引き、唇は色を失っている。瞳孔の縮まる瞳からは、わかりやすく焦燥を感じた。ヤフォダは、眉を顰めた。
「何かあったのか」
「……ヒルチャールってさ、どんなナイフ、持ってた」
「え?」
ヤフォダは、思いもよらない質問に、首を傾げた。いきなり、なぜそんなことを? ヤフォダは疑問を持ちつつ、ギメイラの必死な様子に背を押され、思い出そうとした。
数秒、頭を振り絞ったが細部までは覚えていない。
「悪いけど、覚えてないな」
「まぁ、そうだよな。ええと、そうだ、今日は薬を貰いにきたんだった」
「こんなの効いてるのか?」
「夢を見れたからな。効いてるっぽい感じはしてる」
「案外、効くもんなんだな」
ヤフォダは、薬の瓶をギメイラに寄越した。ギメイラは不注意にラベルすらも見ずに、それをポケットにしまい込んだ。
珍しいな、とヤフォダはさらに難しい顔にさせた。いつもなら、がめつく細部まで確認するというのに。
「じゃ、急いでるから、もう行くな」
「あ、うん。またな」
ギメイラは、ろくに雑談もせずヤフォダに背を向けて、下へと降りていった。
ヤフォダは金髪跳ねながら遠ざかるのを見ていた。しかし果たして、このまま放置していていいのだろうか。
あんなに様子のおかしいギメイラは、初めて見た。
アシュルを撫で回してから、ヤフォダはドアに向かって叫んだ。
「姐さーん! あたいちょっと用事できたから出かける!」
ネフェルが引き留めてくる前に、ヤフォダはさっさと秘聞の館から遠ざかった。
ギメイラはどこにいったのだろう。すっかり見失ってしまったが、ヤフォダはどうせレストランのスペランザか、自分の家だろうとあたりをつけた。
とりあえず、近いスペランザに向かおうと、ヤフォダは早足で向かう。
そうしていつもより早く辿り着いたスペランザは、お昼を過ぎたせいか、人が少なく数えるほどしかいなかった。
客の中に、金髪の人物はいなかった。だが、あの赤いピアスをつけた少年は見覚えがある。ギメイラの同僚のイルーガだったか。
ヤフォダは、ギメイラの行方を尋ねようと近づいたが、何やら話し込んでいる。
相手の顔を見れば、こちらも知っている人物だった。夜の色の髪に、金色の瞳。かつてヤフォダを助けたことがあるライトキーパー、フリンズだ。
「最近、夜にも見回りに出かけていると、ニキータが心配していましたよ」
「すみません。でも、僕は平気ですから」
「毎朝ギメイラの家を訪ねているとも耳にしましたが、それはなぜですか?」
「何が言いたいんですか」
何やら、穏やかではない雰囲気だ。
ヤフォダは話しかけられずにまごついて、近くの茂みに潜んでしまった。タイミングが良い時に、話しかければいい。
「僕は心配しているだけですよ。それとも、ギメイラとそういう仲だとでも、おっしゃいますか?」
イルーガは、思い切り目を逸らした。
「もし、そうだと言ったら?」
「ふふ、冗談がお上手ですね」
一瞬、ヤフォダは信じかけて喉から声が漏れかけたが、フリンズの様子からして嘘らしい。ああなんだ、騙されるところだった。
イルーガは若干気まずさを感じたのか、テーブルの上に置いてあるグラスを手に取って飲み干した。
その隙を逃さず、ヤフォダは茂みから飛び出した。イルーガだけ、驚いた顔でこちらを見てきた。
「メイラがどこに行ったか知らないか?」
「メイラですか? 家に戻ると聞いていましたが……」
「やっぱり、家か。そういえばあいつ、致命傷を負ったとか聞いたけど本当なのか? あたいはかすり傷だってメイラから聞いたんだけど」
「……大怪我です。普通なら死ぬくらいの」
「やっぱりな」
ヤフォダはギメイラの青白くなっていた顔を思い出して、肩をすくめた。あの強がりめ。
そうして礼をしてすぐに、気まずい空間から逃げ出そうとその場から離れた。
「普通なら死ぬくらいの、致命傷——」
フリンズが、背後でそう呟いていたことなど、知らずに。
ギメイラは、廃墟の前に座り込み、静かに空を眺めていた。もともと粗暴な言葉が似合わない顔立ちだ。黙っていれば、顔通りの性格に見える。
「ヤフォダ、どうしたんだ。忘れものでもあったか」
「気づいてたのか」
ギメイラは振り向きもしなかった。
ヤフォダはそっと横に腰掛ける。ギメイラは、瞼を伏せて地面を横目で見ていた。
「俺はもしかしたら、たぶん、とんでもなく悪い奴かもしれない」
思い詰めた顔をしている。ヤフォダは呆気に取られたが、すぐに呆れた顔になった。
「なんだ、今さらだな」
「え?」
間抜けな顔をしている。大事かと思ったが、そんなことか、とヤフォダは耐えきれずに笑った。全然、しょうもないことじゃないか。
「人のもの盗んでんだから、あんたは悪い奴だよ。でもあたいは別に、好きに生きればいいと思うけどな。善人になんかならなくていい」
「……そうか」
ギメイラは、俯きながら呟いた。
そもそもヤフォダは、復讐を果たしたシーフック団の元一員。ギメイラにとやかく言う権利などないし、そういった者が流れ着くのが、ここ、ナドクライだ。
自称悪者は、また空を眺めた。穏やかな月の代わりに、眩い太陽が頂で輝いていた。