クシナは、九尾へ意識を向ける前に一度だけ息を長く吐いた。
怖さが消えたわけではない。
長く同じ身体にいるうち、恐怖より先に警戒が立つようになっただけだ。
眠っている時と起きている時。鎖へ爪を掛ける時。こちらの苛立ちへわざとチャクラを擦りつけてくる時。
相手の癖は知っている。
だからといって、分かり合ってはいない。
水の張った暗がりへ踏み込むと、格子の奥で赤い目が開いた。
『何の用だ、人柱力』
「聞きたいことがあるってばね」
『帰れ』
「ナルトのこと」
九尾の瞳孔が細くなった。
尾が一度だけ床を打ち、水面が震える。
『小僧の気配をここへ持ち込むな』
クシナの背筋が硬くなった。
「やっぱり気づいてたのね」
『知らん小僧だ』
「でも、あの子に触れた時、あなたのチャクラが動いた」
『だから何だ』
「あの子の中にも、あなたに似た力がいるかもしれない」
格子が低く鳴った。
今度は明らかな怒りだった。
『似た力だと?』
「同じだとは言ってない」
『人間はすぐに名を付け、数え、同じ檻へ押し込めたがる』
九尾が牙を見せる。
『ワシを勝手に増やすな』
「じゃあ、あれは何」
『答える義理があると思うか』
「ないでしょうね」
『なら失せろ』
クシナは動かなかった。
「外から性質だけ測りたい。あなたのチャクラと、あの子の中の力がどのくらい近いか」
『断る』
「まだ最後まで――」
『聞く必要もない。貴様ら人間の迷い事に、なぜワシが付き合う』
言葉は鋭かった。
そこには同情も好奇心もない。
クシナは拳を握る。
「私は、あの子が息子かもしれないと思ってる」
『勝手に思え』
「違ったら怖い」
『なら勝手に壊れろ。それも人間の都合だ』
胸へ刺さった。
九尾は、慰めるためにここにいるのではない。
最初から分かっていたことだった。
「……そうね」
クシナは顔を上げる。
「あなたに協力は頼まない」
赤い目が僅かに動く。
「私が外へ出せる範囲のチャクラだけ出す。あなたが反応しなくても、それ自体を記録する」
『好きにしろ』
「封印は緩めない」
『当然だ』
低い唸りが続く。
『一寸でも鎖を緩めてみろ。まず貴様から喰い破る』
「分かってる」
クシナは立ち上がった。
背を向ける直前。
『女』
呼び止められた。
名前ではなかった。
振り向く。
『あれはワシではない』
「……分かるの?」
『気配が近いからこそ分かる』
九尾の爪が水面を掻いた。
『少なくとも、今ここにいるワシから削げ落ちたチャクラではない。ワシの知らぬ鎖の癖が染みついている』
「別の封印?」
『そこまで教えた覚えはない』
「でも、違う時間を――」
『都合よく話を繋ぐな、人間』
牙の奥から息が漏れる。
『ワシが知るのは、あの気配が気に入らんということだけだ』
それ以上、九尾は口を開かなかった。
◆
翌日。
確認は火影塔ではなく、結界班の小さな試験室で行われた。
ナルトには難しい話をしない。
けれど、何も言わずに身体を使うこともしない。
ミナトが低い机へ紙を置いた。
「前にクシナがお腹の外から少し見たの、覚えてる?」
「覚えてる」
「今日は、クシナの中にある強い力と、君のお腹の中にある強い力が似ているかだけ測りたい」
ナルトが眉を寄せる。
「クシナのお腹にもあるの?」
「ある」
クシナが答える。
「私、生まれつきじゃないけどね。ずっと一緒にいる力があるの」
「痛い?」
「今は痛くない」
「オレは?」
「痛いことはしない」
自来也はナルトのすぐ隣へ座っている。
それを確認してから、ナルトは頷いた。
「いい」
「嫌になったら言って」
「うん」
部屋の中央には封印班が用意した板が二枚ある。
一枚はクシナの前。
一枚はナルトの前。
二人の身体へ直接術を掛けない。
漏れ出るチャクラの性質だけを紙へ写す仕組みだ。
ミナトは自分から一歩下がった。
父親候補ではなく、測定者として立つ。
「クシナ」
「うん」
クシナが目を閉じる。
ごく僅かに。
赤いチャクラが皮膚の表面へ滲んだ。
九尾が手を貸したわけではない。
封印の奥では、外に触れた異質で似通った気配へ、九尾が露骨な敵意を返している。その反発まで含め、外へ漏れた分だけを測る。
板の上の墨が動く。
細い線が円を描き、その周囲へ複雑な波形が広がる。
ナルトが目を丸くした。
「赤い」
「触らないでね」
「うん」
その瞬間。
ナルトの腹部が微かに熱を持った。
本人にも分かったらしい。
「……あつい」
「止める?」
ミナトが即座に聞く。
ナルトは自分の腹へ手を当てる。
「痛くない」
「続けていい?」
「うん」
二枚目の板。
何も触れていないのに、墨が動き始めた。
円。
波形。
最初の一瞬は、ほとんど同じに見えた。
だが。
「違う」
自来也が言う。
ミナトも頷く。
「重なる部分は多い。でも完全一致じゃない」
「同じ力の別状態?」
ヒルゼンが聞く。
「それだけでは説明しにくいです」
ミナトが二枚を並べる。
「核の性質は異様に近い。でも、ナルト側にはこちらの九尾が持っていない変化履歴みたいなものがある」
「変化履歴?」
自来也。
「チャクラは完全な文字じゃない。でも、長く封印されていれば、接してきた経絡や術式の癖が残る。傷み方と言った方が近いかもしれない」
クシナが目を開けた。
赤いチャクラはすぐ消える。
「私の中の九尾は、あの気配を自分だとは認めなかった」
ヒルゼンの視線が鋭くなる。
「協力したのか」
「してない。むしろ逆。今出たのも、似た気配へ反発した結果よ」
「なら証言ではないな」
「うん。反応だけを照合材料にする」
「分かっとる」
ナルトだけが首を傾げている。
「クシナ、だれと話した?」
一瞬だけ空気が止まる。
クシナは誤魔化さなかった。
ただし、全部も言わない。
「私の中にいる力と」
「しゃべるの?」
「言葉は通じる。でも、仲良く話す相手じゃない」
ナルトの笑いが消えた。
「こわい?」
「危ない相手よ。だから封印がある」
「クシナも怖い?」
クシナは少し考えた。
「怖い時はある。でも、あの力があなたの中にもあるからって、あなたが悪いわけじゃない」
ナルトは自分の腹へ手を当てた。
「ふーん」
張っていたものは消えなかった。
それでよかった。怖いものを、笑って無害にしたことにはしたくなかった。
◆
測定を終えたあと、ミナトは結果を一つの結論にはしなかった。
紙へ書いたのは三行だけだった。
――クシナ内の九尾由来チャクラと、ナルト内の高密度チャクラに高い同質性。
――ただし完全同一の現在個体からの分離とは認めにくい差分あり。
――「別分岐の同根チャクラ」仮説を支持するが、単独では証明としない。
自来也が横から覗く。
「相変わらず固いな」
「先生の旅帳よりは読みやすいです」
「ワシの字に文句あるか」
「あります」
「お前、小さい頃はもっと素直だったぞ」
「記憶違いです」
その向こうで、ナルトはクシナの髪を一本だけ持ち上げていた。
「赤い」
「昨日も見たでしょ」
「力も赤かった」
「そうね」
「髪と同じ?」
「たぶん偶然」
「つまんない」
「何なら面白いのよ」
「髪から出てる」
「怖いわ!」
笑い声が出る。
ミナトは紙から顔を上げた。
証拠が一つ増えた。
けれど、それより先に。
ナルトがクシナの隣で普通に笑っている。
今はそれを、証明の褒美にはしない。
証明されてもされなくても、今日笑った事実は変わらない。
◆
夜。
自来也は宿代わりに使っている部屋で旅帳を開いた。
ナルトは隣で寝ている。
木ノ葉へ戻ってから、眠る前に戸口を何度も確認することは減った。
代わりに。
「明日どこ?」
毎晩聞く。
「朝は火影塔。昼はカカシ。夕方はワシと飯」
「じらや、朝いる?」
「飯まではおる」
「昼は?」
「仕事」
「夕方戻る?」
「戻る」
それを聞くと寝る。
一年かけて覚えたやり方だった。
今日も同じように確認して、もう寝息を立てている。
自来也は旅帳へ一行追加した。
――クシナ側の封印対象と高い同質反応。現在個体からの単純分離ではない可能性。
そして、その下。
少し迷ってから別の一行を書く。
――ナルト、測定後にクシナの髪を引っ張る。本人は上機嫌。
技術記録には不要だった。
だが。
この一年、自来也はそういう不要なことも書いてきた。
食べられるようになった野菜。
初めて一人で靴紐を結べた日。
戻る時間を言わずに出て、泣かせた日。
地図の木ノ葉へ丸をつけた日。
証拠として役に立つかどうかなど考えずに。
今になって思う。
その余計な行が、一番この子を証明しているのかもしれない。
誰かが三年間分の嘘を教え込んだ人形ではない。
昨日までの生活を今日へ持ってくる、一人の子供だ。
自来也は帳面を閉じた。
次に見るべきものは、チャクラではない。
術式だった。
それも、形ではなく。
誰が何を怖がって、どこへ逃げ道を作った術なのか。
師匠としてなら。
そこは、自分にも読める。