ソードアート・オンライン 〜二度目の人生、パラメータは累積でした〜 作:jmwuva
「──なんで連絡の一つも寄越さなかったのよ!」
再会して最初に浴びせられたのは、喜びの言葉ではなく叱責だった。
つい数秒前まで俺に抱きついていたはずが、いまは両手で胸元を押し、噛みつくような勢いでこちらを睨んでいる。フードの奥から覗く栗色の瞳。その長い睫毛の縁に、疲労とは別の理由の涙が溜まっていた。
「連絡と言われても、明日奈がこの世界にいるとは知らなかった」
「私だって、サク君がいるなんて知らなかったわよ!」
「なら、どうやって連絡すればよかったんだ」
「そういうことじゃないの!」
違うらしい。
前世まで含めればそれなりに長く生きてきたつもりだが、居場所も知らない相手へ連絡を取る方法までは身につけていない。
「この世界の話じゃないわ。引っ越してからよ。何も言わずにいなくなって、それきり一度も連絡をくれなかったじゃない!」
そちらか。
思い当たることがありすぎて、今度は言葉が出なかった。
「もしかして、二人は現実で知り合いなのか?」
キリトが遠慮がちに口を挟む。
「ああ。子どもの頃からの知り合いで──」
「サク君は黙ってて!」
「分かった」
「素直に黙らないで! 何か言いなさいよ!」
「どちらなんだ」
訊き返すと、明日奈は頬を膨らませた。
怒り心頭という言葉がある。
おそらく、いま目の前にあるのがそれだった。
「……サク。お前、よく今まで生きてこられたな」
「剣道をしていたからだと思う」
「人付き合いの話だよ」
それなら、自信はない。
明日奈は何か言い返そうと口を開いたが、その前に膝が揺れた。傾いだ身体を、咄嗟に支える。
「離して」
「一人で立てるなら離す」
「立てるわよ」
「さっきも同じことを言って、俺に抱きついたと思うが」
頬から耳まで、見る間に色が上がった。
「あれは倒れたんじゃないわ!」
「なら、どうして抱きついたんだ」
「忘れなさい!」
「分かった」
「本当に忘れようとしないで!」
やはり、どちらなのか分からない。
助けを求めるつもりでキリトを見ると、関わりたくないという顔で目を逸らされた。知り合って間もない相手を見捨てるのは、あまり感心しない。
「……この一か月、知っている人なんて誰も」
不意に、明日奈が小さく零した。
声を張っていたはずの喉から出たとは思えないほど、そこだけが細い。
俺がここにいると知っていたわけではないだろう。それでも、見知らぬ顔しかいない世界で一か月近く過ごせば、現実で知る人間を見つけただけで張り詰めていたものが切れることもある。
抱きつかれた理由は、それで納得できた。連絡しなかった件に関して俺へ全面的な非があるらしいことも、ついでに理解した。
「すまなかった。事情があったとはいえ、何も言わずにいなくなったのは俺が悪い」
「……本当よ」
「それでも、ここで見つけてくれてよかった」
フードごと手のひらに収まってしまう頭に触れ、昔そうしていたように、そっと撫でる。
「泣き虫なのは変わらないな」
「……泣いてないもの」
「頑固なところも」
「サク君にだけは言われたくない」
声から険が抜けた。手を離すと、明日奈は濡れた目元を隠すようにフードを深く被り直す。
「それに、綺麗になった」
「……へ?」
小さく開いた唇から、戸惑った吐息が漏れる。伏せていた視線がフードの奥から俺を見上げ、意味を呑み込むまでに一拍かかった。次の瞬間には、白い頬が音を立てそうなほど赤く染まっていく。
「そ、そう、かな?」
「ああ。美しい剣技になったな」
「……は?」
その一言を境に、上がりかけていた機嫌が、頂上を越えたジェットコースターのように急降下した。潤んでいたはずの瞳が、たちまち道端の石でも見るような温度に変わる。
どうやら、また言葉を間違えたらしい。
「ほら、せっかく筋がいいのに、そんな状態で剣を振るのはもったいないというか……踏み込みは速いし、突く直前まで剣先も動かない。相手からすれば、来ると分かったときには、もう刺されている」
「お、おい、サク」
「ただ、戻りが少し遅い。足が止まる前に次の技を出しているから、身体が崩れて──まて。なんで俺にレイピアを突きつけてくる!?」
「この朴念仁!」
「待て。なぜ剣を向けるんだ。褒めている途中だぞ!」
「そういうところよ!」
「今日、第一層のボス攻略会議がある」
キリトがそう切り出すと、明日奈の視線が初めて俺から外れた。
「最前線のプレイヤーが集まる。ボスを倒せば次の層へ進める。本当に先へ行きたいなら、一人でここに残るより、会議に出たほうがいい」
「攻略会議……」
「俺たちも今から向かうところだ」
思わずキリトを見る。
「そうだったのか。知らなかった」
「お前は何をしに迷宮区へ来たんだよ」
「ここまで来れば、強い敵に会えると思っていた」
「よくそれで、この場所に踏み込んだな!?」
レベルを上げるにはうってつけの場所だ。そう思ったのだが、口に出せば余計に怒られる気がして黙っておいた。
「明日奈は、どうして一人でこんな場所にいたんだ」
訊ねると、明日奈は一度だけ俺を見て、すぐに顔を背けた。
「……一人になりたかっただけよ」
「そうか」
踏み込むべきではないと、その短い答えで分かった。
この一か月に何があったのか。なぜ知る者のいない迷宮で、倒れるまで剣を振っていたのか。聞きたいことはいくつもあったが、キリトのいる場所で無理に言わせることではない。それに、再会して早々、すでに何度も言葉を間違えている。これ以上は本当に火へ油を注ぎかねなかった。
「──その前に、サク」
キリトが急に声を低くした。
「何だ」
「さっきの一撃は何だったんだ」
「さっきの?」
「俺が戦っていたコボルドを、普通に斬って一撃で消しただろ」
忘れてくれてはいなかったらしい。むしろ、火をつけにきたらしい。
「普通に斬っただけだ」
「知ってるよ! ソードスキルじゃなかったから聞いてるんだ!」
困った。事実を答えたのに、質問へ答えたことにならない。
「能力値を少し振ってから、力加減が難しくなったんだ」
「少しって、どれくらいだ」
「全体の二パーセントにも満たない」
「何に対する割合なんだよ、それは」
嘘は言っていない。STRとAGIに入れた千は、最初に表示された六万五千五百三十五の二パーセントにも届いていなかった。
だからといって、元の数字まで話す気はない。原因の分からない異常を、会ったばかりの相手に明かしていいものか、俺にもまだ判断できなかった。
「自分でも、どの程度が普通なのか分からないんだ。ゲームは初めてだから」
「初めてって……いや、でも」
キリトは何か言いたそうに俺を見たが、それ以上は聞かなかった。
「今は聞かない。でも、俺の近くで剣を振るなら、先に言ってくれ」
「分かった。なるべく気をつける」
「なるべく?」
その一言に眉を寄せたキリトの横から、壁際にいた明日奈が口を開く。
「あまり驚かないけれど……サク君、そんなに強かったの?」
「強いかどうかは分からない。ただ、妙なんだ」
「本人の前で妙と言うのはどうなんだ」
「一撃でコボルドを消した奴に言われたくない」
キリトの言い分にも一理あった。
そしてなぜか、明日奈にじっと見つめられている。
「その一撃、私には教えてくれないの?」
「……あとで話す」
「おい」
「分かっている。キリトにも話す」
二人へ同時に説明するなら、一度で済む。キリトは釈然としない顔をしていたが、効率の悪い方法ではないはずだ。
「そういえば、去年の全国大会。優勝おめでとう」
「ずいぶん急だな」
「急じゃないわ。ずっと言いたかったのよ。中学の全国大会を二連覇したんでしょ? 試合も見ていたもの」
「そうだったのか」
「本当に連絡一つ寄越さないから、直接言えなかったけど」
「……すまない」
最初の話へ戻ってきた。あとでゆっくり叱られるまで、この件から逃げることはできないらしい。
「突然引っ越したことには、いろいろ事情があった」
「うん。理由は聞いているから、そこを責めるつもりはないわ。ただ──何も言ってくれなかったことには、まだ怒ってる」
「それは、謝るしかないな」
言い訳を探すより先に頭を下げると、明日奈は少しだけ満足そうに頷いた。
「あの……サクの全国大会って、何の話だ?」
完全に会話から置き去りにされていたキリトが、遠慮がちに口を挟む。
「去年までの剣道の大会よ。八代朔って名前で、中学の全国大会を二連覇したの」
なぜか俺より誇らしげだった。
キリトが俺の顔をまじまじと見る。
「待て。八代朔って、あの八代朔か?」
「ほかにもいるのか」
「いや、いるかもしれないけど、そうじゃなくて。俺の妹も剣道をやってるんだ。剣道雑誌をよく見せられてたから、名前を覚えてる」
「そうか」
自分の知らないところで試合を見た人間がいたと聞くのは、悪い気分ではない。
「……何を少し嬉しそうにしてるのよ」
「顔には出ていないと思うが」
「昔から、そういうときだけ少し口元が緩むのよ」
自分では分からない。反論する材料がないので、黙って口元へ力を入れた。
明日奈は俺とキリトを見比べ、それから再び通路の奥へ視線を戻した。新しいモンスターを探しているように見える。
やがて暗がりの向こうで黄色い光が二つ灯り、重装のコボルドが斧を引きずりながら姿を現した。明日奈が細剣を持ち上げる。その切っ先は、目に見えて震えていた。
「やめろ。その状態じゃ──」
キリトの制止を置き去りにして、明日奈が踏み込む。しかし足が縺れ、たった一歩で身体が前へ傾いた。俺は反射的に腕を伸ばし、その肩を受け止める。
「離して」
「一人で立てるなら、すぐ離す」
「さっきも聞いたわよ、その台詞」
「状況も同じだからな」
振り払おうとする腕には、ほとんど力が入っていない。その間にも前方では、キリトがコボルドの斧を直剣で受け流していた。
「サク、今度こそスイッチ!」
「分かった。今度は忘れていない」
「当たり前だ!」
急ぐ必要がある。俺は明日奈の背と膝裏へ腕を回し、その身体を抱え上げた。
「──っ!? ちょっと、何をするの!」
「安全な場所へ移している」
「か、肩を貸せばいいでしょう!」
「こちらのほうが早い」
「そういう問題じゃ──っ、あとで覚えていなさいよ」
最後まで聞いている余裕はなかった。壁際へ下ろし、曲刀に手をかける。背中へ向けられる視線がひどく鋭かったが、先ほどまでより血の気が戻っているので、悪い判断ではなかったと思う。
キリトが斧を弾いて横へ退いた瞬間、空いた場所へ入れ替わるように踏み込んだ。
速度を抑え、力も抑える。先ほど見たキリトの一撃を思い出し、誰に見られても妙に思われない程度に曲刀を振る。
そのつもりだった。
刀身がコボルドの鎧に触れた瞬間、澄んだ金属音が響き、手の中から重みが消えた。
刀身が柄元から折れ、宙を回っている。
「…………」
折れた刃と目が合った気がした。剣に目がないことくらい分かっている。それでも、責められているようにしか見えなかった。
先ほどの一撃で、耐久値が大きく減っていたらしい。交換したばかりの新品だったはずが、新品でいられた時間は驚くほど短い。
《壊れるまで使う》とは言った。
言ったが、今でなくてもよかっただろう。
「サク!」
キリトの声で我に返ると、コボルドの斧が目前まで迫っていた。残った柄で斧の側面を押し、身体を捻って軌道から外れる。
直後、青い光が横を抜けた。キリトの直剣がコボルドの胴を斬り上げ、HPを削り切る。敵が光の欠片となって砕けると、少し遅れて俺の曲刀も同じように消え、右手には何も残らなかった。
「……壊れたな」
「見れば分かる!」
キリトが剣を鞘へ戻しかけた、そのときだった。通路の奥で再び黄色い目が灯り、今度は二体のコボルドが続けて姿を現す。一体はキリトへ、もう一体は壁際に座る明日奈へ向かって斧を持ち上げた。
予備の曲刀を実体化しようとして、手を止める。
剣では力加減が難しい。それなら、もっと威力の低い武器を使えばいい。
腰の小袋から、黒い金属製の投擲用ピックを一本抜いた。
「待て。まさか、それで倒す気か?」
「注意を引くだけだ。《投剣》は覚えたばかりだから、威力も大したことはないと思う。たぶん」
「たぶん、って言ったか?」
「私にも、そう聞こえたわ」
壁際から明日奈まで口を挟んできた。二人の声に同じ種類の不安が混じっている理由は分からなかったが、立ち止まっている余裕はない。
数日前にスキルスロットへ入れた《投剣》は、本来、群れから一体だけを誘い出すために覚えたものだ。基本技《シングルシュート》も、まだ数えるほどしか使っていない。武器そのものの威力は初期曲刀より低く、熟練度もほとんどない。腕の力を十分に抑えれば、敵の注意をこちらへ向ける程度で済むはずだった。
少なくとも、俺はそう考えた。
投擲用ピックを肩の横に構えると、標的にしたコボルドへ淡い照準補助が重なる。全力の十分の一にも満たない力で、軽く腕を振った。
指先から、ピックが消えた。
一瞬遅れて乾いた破裂音が響き、眉間にそれを受けたコボルドが後方へ吹き飛ぶ。重装備の身体が迷宮の壁へ背中から叩きつけられ、その場所に紫色の《Immortal Object》が浮かび上がった。
HPバーは、最初から存在しなかったように消えている。敵の身体が青い光片へ変わると、役目を終えた投擲用ピックも一緒に砕け散った。
残った一体を、キリトがソードスキルで斬り伏せる。
静かになった通路で、俺たちはしばらく壁を見つめていた。
「……サク」
「何だ」
「投剣の熟練度は?」
「……八だ」
「一桁!?」
キリトが頭を抱える。明日奈は自分の細剣と、コボルドが叩きつけられた壁を見比べていた。
「はあ。さっきの一撃について、説明しなければならないことが増えたぞ」
「減ってはいないな」
「増やすなと言ってるんだ!」
明日奈が細く息を吐いた。
「私、もう剣を振るのをやめようかしら」
「それは困る。明日奈はかなり筋がいい」
「サク君に言われると、慰めではなく嫌味に聞こえるのね」
「今のを見たあとなら、俺も同意する」
「剣ではないから、もう少し目立たないと思ったんだが」
「どこが?」
「どこがだよ!」
二人の声が綺麗に重なる。出会って間もないはずだが、連携の筋は悪くない。
「投剣は普通、遠くの敵を釣ったり、逃げる相手に最後の一撃を入れたりするために使うんだ。トラックにでも撥ねられたような勢いで敵を吹き飛ばすものじゃないし、迷宮の壁に穴を開けるためでもない」
「穴は開いていない。《Immortal Object》だからな」
「そういう話もしてない!」
二本目へ伸ばしかけていた手を、素直に小袋から離した。二度目の人生で身につけた協調性は、剣だけでなく投剣にも対応している。
キリトは深い溜息をつき、今度こそ直剣を鞘へ収めた。
「それで、その剣も壊れたんだよな」
「折れてからは、盾になってくれた。最後まで役目は果たしたと思う」
「倒したのは俺なんだが」
「人の剣に口を出す前に、自分の剣を見たら?」
壁際から冷たい声が飛んでくる。
「剣そのものを悪く言ったつもりはない。使い方の話だったんだが」
「もっと悪いわよ」
正論だったので、反論せずに頭を下げた。
明日奈が自力で立てるようになるまで待ち、俺たちは迷宮区を出た。
正確には、キリトが待つと言い、俺がその場で足捌きを教えようかと申し出て、明日奈に「今は結構よ」と断られ、結局ただ待った。協調性というものは、身につけたと思った頃に逃げていく。
歩き始めてから、キリトが今さらのように名乗った。
「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったな。俺はキリト」
「アスナよ」
「知っている。さっき聞いた」
「お前に言ったんじゃない」
どうやら俺は会話に入らなくてもよかったらしい。
主街区トールバーナへ戻ると、キリトは広場へ向かわず、俺を武器屋へ連行した。
「会議が先じゃないのか」
「その予備の山とは別に、今の階層で使える剣を一本買ってくれ」
「同じ曲刀なら、まだ十一本ある」
「全部初期装備だろ!」
「会議で剣は使わないと思うんだが」
「お前は迷宮に戻る気だろ」
「そのつもりだ」
「なら買ってくれ。頼むから」
ずいぶん切実だった。
店内の壁には、形も長さも異なる武器が並んでいる。一本ずつ手に取り、握り、構え、戻す。二本目も戻し、三本目を握ったところで、キリトが頭を抱えた。
「いつまでやるんだ」
「今、剣を選んでいる」
「見れば分かる」
「なら、もう少し待っていてくれ」
「会議が始まるんだよ!」
焦らされても困る。剣は長く使うものだ。つい先ほど新品を数十分で失ったばかりだが、気持ちとしては長く使うものだった。
「昔から変わらないわね」
入口に立っていたアスナが呟いた。手にした曲刀の切っ先を向けないよう注意しながら、振り返る。
「どこがだ」
「剣を選んでいるときだけ、時間の進み方が違うところ」
「大切なことだからな」
「同じ種類の剣なら、性能も重さも同じでしょう」
「少しずつ違う」
「どこが?」
「手に取ったときの気持ちが違う」
「気持ち?」
「今のは、少し勝てそうな気がした」
キリトが、呆れとも好奇心ともつかない顔でアスナを見る。
「サクって、昔からこうなのか?」
「そうね。剣が絡むと周りが見えなくなるところは、変わっていないわ」
「そんなことはない」
「刀剣の特別展示に付き合ったとき、同じ展示室を三時間も回ったじゃない」
「まだ見ていない角度が残っていたからな」
「同じ刀を右からも左からも正面からも見ていたわよね」
「光の当たり方で刃文の見え方が変わる」
説明しても、二人の表情は晴れなかった。
「三時間、付き合ったのか……」
キリトが小さく呟く。アスナは頬にこぼれた栗色の髪を耳へかけ、少し懐かしそうに目を細めた。
「何だ。ずいぶん嬉しそうじゃ──」
「何か言った?」
「いや。何も」
今日知り合ったばかりだというのに、キリトはアスナへの接し方をもう理解し始めているらしい。見習うべきかもしれない。
最も勝てそうな一本を買った。初期曲刀より僅かに長く、刀身も厚い。腰に佩いて数歩歩くと、鞘の位置が落ち着かず、今までと違う場所へ柄が当たる。
やはり、装備を替えるのは危険だった。
「念のため、少し試し振りを──」
「試すなよ」
「投げるのも駄目よ、サク君」
最後まで言っていないのに、二人から釘を刺された。
「分かった。今日はやめておく」
「今日は?」
疑わしげな声が、また揃う。
返事はせず、新しい曲刀の鞘を少しだけ持ち上げて位置を直した。
その手が、止まる。
視線を感じた。
人通りの多い区画だ。視線などいくらでもある。ただ、その一つだけが、明らかに他と質が違った。人混みを流れていくのではなく、こちらの輪郭を一本の線でなぞってくる。
思わず顔を上げた。
通りを挟んだ五十メートルほど先。露店の庇が落とす影の中に、男が立っていた。
目が合う。
逸らされない。
見つかったと承知したうえで、男はその場から動かなかった。それどころか、ゆっくりと口の端を持ち上げてみせる。
その瞬間、首の後ろの産毛が一斉に起き上がった。
(あれは⋯⋯)
道場でも、試合場でも、数え切れないほどの相手と向き合ってきた。
勝ちたい目。
恐れている目。
憎んでいる目。
そのどれとも違う―――歪なもの。
二度の人生を合わせても、片手の指で足りる程度にしか見たことがない。
だからこそ、間違えようがなかった。
「二人とも。聞き流してくれてかまわないが、一応言っておく」
「なんだよ、改まって」
「あの男、人を殺している」
「「──え」」
「それも、この世界の中だけの話じゃない。あの目は、現実で人を殺して、それきり誰にも咎められなかった人間の目だ」
二人が息を呑む音が、綺麗に揃った。
「この街に何人いるんだろうな。では、行くか」
「行けるか!!!」
「なんでそこで会話を終われるのよ!?」