今回は、はち×なずです。
・学園パロディー
・比企谷八幡×花芽なずな
・独自設定、設定改変
・恋愛要素
・キャラクター解釈
原作、ご本人、所属団体および関係者各位とは一切関係ありません。
花芽なずなは、馬鹿である。
断っておくが、悪口ではない。本人に聞いたところで、胸を張って肯定するはずだ。
現に先週、数学教師から「この問題が分かる者」と聞かれた花芽は、勢いよく手を挙げた。
なずな:「はい! 分かりません!」
教室が笑いに包まれる中、数学教師だけが頭を抱えていた。
その翌日には、購買で買ったパンの袋を開けようとして勢い余り、中身を机の向こうまで飛ばした。
拾ってくれたクラスメイトに向かって、
なずな:「三秒以内だから食べられるよ」
と言い放ち、自分で落としたパンを相手に勧めていた。
人間には、他者の理解が及ばない領域がある。
花芽なずなは、たぶんそこに住んでいる。
天真爛漫という言葉を使えば聞こえはいいが、要するに考えるより先に口と身体が動くのだ。
いつも笑っていて、よく喋り、よく間違え、失敗しても翌日には忘れている。
そんな人間が、俺は苦手だった。
明るい人間は、暗い場所にいる人間を見つけると、勝手に光を当てようとしてくる。
俺は別に照明を求めていない。薄暗い場所で静かに暮らしたいだけだ。
にもかかわらず、花芽は俺を見かけるたびに話しかけてきた。
なずな:「比企谷、おはよー」
八幡:「おう」
なずな:「今日、目つき悪いね」
八幡:「今日も、だろ」
なずな:「あ、そっか。じゃあ健康だね」
何をどう解釈すれば、その結論に至るのか。
こいつと話していると、会話の途中で橋が崩落する。しかも花芽本人だけは向こう岸へ到着しているので、取り残されたこちらが悪いような気分になる。
だから俺は、なるべく関わらないようにしていた。
そのはずだった。
◇
目を覚ますと、天井が回っていた。
厳密には、天井は回っていない。仕事を放棄しているのは俺の三半規管のほうだ。
枕元の時計は午後一時を示していた。朝、学校へ欠席の連絡を入れてから、五時間近く眠っていたらしい。
喉は痛み、身体は鉛のように重い。体温計を脇に挟めば、表示された数字は三十八度四分。
なるほど。健康体とは程遠い。
こういう日に限って、両親は仕事で帰りが遅い。小町も学校行事の宿泊研修で不在だ。
冷蔵庫には何か入っていたはずだが、取りに行く気力がない。
一食くらい抜いたところで死にはしない。
そう判断して再び目を閉じた直後、玄関のチャイムが鳴った。
無視する。
もう一度鳴る。
無視する。
さらに三度、間隔を空けずに連打された。
宅配業者なら諦めろ。俺は今、社会との接続を一時的に解除している。
だが、四度目の音が家中に響いたところで、無視を続ける気力のほうが先に尽きた。
やむを得ずベッドを抜け出し、壁に手をつきながら玄関へ向かう。
扉の前まで来たところで、外から聞き覚えのある声がした。
なずな:「比企谷ー。生きてるー?」
どうしてお前がいる。
聞き間違いであってほしかったが、直後にもう一度チャイムが連打される。
なずな:「返事ないんだけど。これ入っていいやつ?」
八幡:「駄目に決まってんだろ……」
思わず答えると、玄関の向こうで「あ、生きてた」と明るい声がした。
ドアを少しだけ開けると、その隙間から花芽なずながこちらを覗き込んできた。制服姿のまま、片手に学校の封筒を持っている。
なずな:「うわ、顔やば」
八幡:「病人に対する第一声がそれか」
なずな:「目つきだけじゃなくて顔色まで悪い。進化したね」
八幡:「退化だろ」
花芽は俺の返答を聞くと、少しだけ表情を緩めた。
なずな:「喋れるなら、まあ大丈夫か」
軽口を叩いていたわりに、その目は俺の顔を注意深く観察している。
なずな:「平塚先生からプリント。あと、今日配られた進路希望の紙。月曜までだって」
八幡:「わざわざ悪いな」
なずな:「ん。じゃあ、お大事に」
意外にも、花芽は封筒を渡すと素直に背を向けた。
余計な励ましもなければ、部屋へ入ろうとする素振りもない。
俺は少し拍子抜けしながらドアを閉めようとした。
そのとき、腹が鳴った。
廊下にまで響く、実に情けない音だった。
花芽が足を止める。
振り返る。
なずな:「……ご飯、食べた?」
八幡:「食べた」
なずな:「何を?」
八幡:「食物を」
なずな:「嘘つくの下手すぎない?」
花芽は戻ってくると、閉まりかけたドアへ靴の先を差し込んだ。
訪問販売でも、もう少し遠慮がある。
なずな:「冷蔵庫、何かある?」
八幡:「知らん」
なずな:「朝から何も食べてない?」
八幡:「水分は摂ってる」
なずな:「それ、ご飯食べてない人の言い方じゃん」
八幡:「一食くらい抜いても死なない」
なずな:「じゃあ二食抜いたらちょっと死ぬかもしれないでしょ」
人間の生死を足し算で考えるな。
しかし反論する前に、花芽は俺の肩を押して玄関へ入ってきた。
八幡:「おい」
なずな:「靴、脱いだよ」
八幡:「そういう問題じゃない」
なずな:「大丈夫。看病だから不法侵入じゃない」
八幡:「看病でも不法侵入は不法侵入だ」
なずな:「警察呼ぶ?」
八幡:「病人に余計な仕事を増やすな」
俺の抗議を無視し、花芽は廊下の先へ顔を向けた。
なずな:「キッチンどっち?」
八幡:「帰れ」
なずな:「どっち?」
八幡:「……右」
答えてから、自分が負けたことに気づいた。
花芽は満足そうにうなずき、迷いなくキッチンへ入っていく。
俺も止めようと後を追ったが、リビングに着いた時点で限界だった。ソファへ座り込むと、花芽が冷蔵庫を開けて中身を確認する。
なずな:「卵ある。ご飯もあるね。ネギは……あった。これならおじや作れる」
八幡:「作れるのか」
なずな:「何その顔」
八幡:「包丁を握らせたら、刃のほうを持ちそうだと思ってた」
なずな:「なずぴのこと何だと思ってるの?」
八幡:「馬鹿」
なずな:「正解。だけど馬鹿でも料理はできます」
花芽は胸を張ってから、慣れた手つきで戸棚から鍋を取り出した。
場所を教えていないのに、いくつか扉を開けただけで必要な道具を見つけている。
米を鍋へ移し、水とだしを加える。ネギを細かく刻み、卵を器へ割り入れる。
危なっかしさはまるでない。普段の言動からは想像できないほど、動作に無駄がなかった。
八幡:「……本当に作れるんだな」
なずな:「だから作れるって言ったじゃん」
八幡:「食べられる物が完成するまでは信用できん」
なずな:「失礼だなあ。なずぴ、こう見えて生活力高いんだからね」
八幡:「自分で言うやつは信用できない」
なずな:「そういう比企谷は、生活力低そうだけど」
八幡:「俺は一人で何でもできる」
なずな:「ご飯食べないで寝てた人が?」
八幡:「今日は病気だからノーカウントだ」
なずな:「病気の日に一人で何もできないなら、一人で何でもできるとは言わないんじゃない?」
正論だった。
こいつに正論を言われると、通常の三倍ほど腹が立つ。
鍋が煮えるまでの間に、花芽は新しいコップへ水を入れ、テーブルへ置いた。
なずな:「薬は?」
八幡:「棚の上」
なずな:「病院行った?」
八幡:「ただの風邪で行くほどでもない」
なずな:「三十八度超えてる?」
八幡:「……少し」
花芽がこちらを見る。
笑ってはいるが、目が笑っていなかった。
なずな:「何度?」
八幡:「三十八度四分」
なずな:「普通に高いじゃん!」
八幡:「声がでかい。頭に響く」
なずな:「あ、ごめん」
花芽は即座に声量を落とした。
それから薬箱を探し、市販の風邪薬を取り出す。箱の説明を読み、俺へ確認するように差し出した。
なずな:「これ、飲んだことある?」
八幡:「ある」
なずな:「アレルギーは?」
八幡:「ない」
なずな:「じゃあ、ご飯食べたあとね。飲んだ時間、スマホにメモしといて」
八幡:「お前、母親かよ」
なずな:「違いますー。姫ですー」
八幡:「姫が他人の家でおじやを作るな」
なずな:「民の健康を守るのも姫の仕事だから」
八幡:「急に統治者としての自覚を持つな」
話しているうちに、鍋から湯気が立ち始めた。
花芽は火加減を弱め、溶き卵を流し入れる。蓋をして少し蒸らしてから、茶碗へ丁寧によそった。
なずな:「はい。熱いからゆっくり食べて」
差し出されたおじやから、だしと卵の匂いが立ち上る。
一口食べる。
優しい塩気が、痛んだ喉を通っていった。
なずな:「どう?」
八幡:「普通」
なずな:「普通かあ」
花芽が少しだけ残念そうな顔をする。
不味いわけではない。むしろ普通に美味い。
だが、素直に褒めるのは何となく癪だった。
八幡:「病人に食わせる物としては合格だ」
なずな:「それ、褒めてる?」
八幡:「最大限にな」
なずな:「比企谷の最大、ちっちゃ」アハハ
花芽は笑いながら、残った鍋へ蓋をした。
なずな:「夜の分、ここに置いとく。食べるとき水ちょっと足して温めて。薬はご飯のあと。スポーツドリンク買ってこようか?」
八幡:「そこまでしなくていい」
なずな:「でも――」
八幡:「花芽」
名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。
八幡:「もう十分だ。本当に助かった」
なずな:「……そっか」
俺が真面目に礼を言うとは思っていなかったのか、花芽は少し目を丸くした。
それから、照れ隠しのように鼻の下を指でこする。
なずな:「まあ、姫だからね」
八幡:「そこは関係ないだろ」
なずな:「あるよ。姫は民を見捨てないので」
八幡:「設定が行方不明になってるぞ」
なずな:「細かいこと気にするとハゲるよ」
八幡:「病人に追加の呪いをかけるな」
花芽はけらけらと笑うと、使った道具を手早く洗い始めた。
鍋だけでなく、流しに置いてあった朝のコップまで一緒に洗っている。
洗い物を終えると、濡れた台を布巾で拭き、ゴミをまとめた。
俺が口を挟む余地もなく、キッチンが来たときより綺麗になっていく。
言動だけを見れば、たしかに騒がしいだけの人間だ。
しかし、生活能力が低いわけではない。むしろ逆だ。
誰かが何を必要としているのかを見つけることに関しては、驚くほど目端が利く。
なずな:「じゃ、寝なよ」
帰り際、花芽は玄関で振り返った。
なずな:「何かあったら連絡して。寝てても起きたら見るから」
八幡:「連絡先、知らないんだが」
なずな:「あ」
花芽は口を開けたまま固まった。
数秒前までの頼もしさが、一瞬で消滅する。
なずな:「じゃあ交換しよ」
八幡:「今のためだけに?」
なずな:「今後も使うかもしれないじゃん」
八幡:「何に」
なずな:「病気になったり、怪我したり、遭難したり」
八幡:「俺の人生を過酷なものにするな」
なずな:「あとゲームするとき」
八幡:「それが本命だろ」
なずな:「ばれた?」
結局、俺たちは玄関先で連絡先を交換した。
花芽が帰ったあと、スマートフォンに最初のメッセージが届く。
『薬飲んだらスタンプ押して』
続けて、やけに偉そうな王冠をかぶった猫のスタンプが送られてきた。
俺はしばらく画面を見つめてから、了解の意味を示すスタンプを返した。
すると、間髪を入れずに返信が来る。
『よろしい!』
こいつ、帰宅途中もスマホを見てるのか。
危ないから前を見て歩けと送ると、
『今コンビニだから大丈夫』
と返ってきた。
大丈夫の基準がよく分からない。
それでも俺は、少しだけ笑ってしまった。
◇
週明けには熱も下がり、俺は学校へ戻った。
教室へ入るなり、花芽がこちらへ駆け寄ってくる。
なずな:「比企谷、生きてる!」
八幡:「見れば分かるだろ」
なずな:「ちゃんと夜も食べた?」
八幡:「食べた」
なずな:「薬は?」
八幡:「飲んだ」
なずな:「お風呂入った?」
八幡:「お前は本当に母親か」
なずな:「姫だって言ってるでしょ」
そう言いながら、花芽は安心したように笑った。
俺は礼として買ってきたプリンの袋を、花芽に差し出した。
八幡:「これ」
なずな:「なに?」
八幡:「治療費」
なずな:「やった!」
中身を見た花芽は、子供のように目を輝かせた。
なずな:「二個もある!」
八幡:「一個は手間賃だ」
なずな:「じゃあ今日のお昼に食べよ」
八幡:「好きにしろ」
なずな:「比企谷も一緒にね」
八幡:「俺の分はないぞ」
なずな:「半分あげる」
八幡:「いらん」
なずな:「遠慮しなくていいのに」
八幡:「お前の食べかけを受け取る関係ではない」
なずな:「じゃあ、どういう関係になったら受け取るの?」
どういう意味だ。
花芽は深く考えていないのだろう。こいつはそういうことを、呼吸するように言う。
八幡:「少なくとも、クラスメイト以上だな」
なずな:「ふーん」
花芽は意味ありげに笑うと、袋を自分の机へ持っていった。
嫌な予感がした。
あの顔は、何か余計なことを思いついた顔だ。
◇
昼休みになると、予感は的中した。
花芽は弁当箱とプリンを抱え、当然のように俺の前の席へ座った。
なずな:「一緒に食べよ」
八幡:「嫌だ」
なずな:「クラスメイト以上になる練習」
八幡:「練習で関係性を昇格させるな」
なずな:「じゃあ本番?」
八幡:「何のだよ」
花芽は楽しそうに笑いながら、弁当箱を開けた。
卵焼き、唐揚げ、ほうれん草の和え物。彩りまで考えられた、まともな弁当だった。
俺の視線に気づき、花芽が得意げに胸を張る。
なずな:「これも自分で作ったんだよ」
八幡:「姫設定を維持する気はないのか」
なずな:「姫だってお弁当くらい作りますー」
八幡:「侍女の雇用を検討しろ」
なずな:「人に作ってもらうより、自分で作ったほうが早いもん」
花芽はそう言って、唐揚げを口へ運んだ。
その直後、隣の席から呼ばれる。
女子生徒A:「なずちゃん、昨日言ってた文化祭の飾りなんだけどさ」
なずな:「うん、材料まとめといたよ。放課後持ってくね」
別の生徒が近づいてくる。
男子生徒:「花芽さん、ゲーム大会の参加表ってできてる?」
なずな:「できてるできてる。あとで共有する」
さらに別の女子が、裁縫道具を借りに来た。
なずな:「いいよ。ロッカーの上の段にあるから持ってって」
次から次へと人が来る。
花芽は嫌な顔ひとつせず、すべてに答えていた。
そして昼休みが終わるころ、弁当箱には半分以上のおかずが残っていた。
八幡:「お前、食わないのか」
なずな:「あとで食べる」
八幡:「いつ」
なずな:「放課後とか?」
八幡:「傷むぞ」
なずな:「じゃあ五時間目の休み時間」
五時間目と六時間目の間は十分しかない。
呼ばれれば、また誰かの世話を焼くのだろう。
八幡:「貸せ」
なずな:「え?」
俺は花芽の机から、文化祭の参加表を取り上げた。
八幡:「これ、提出先は?」
なずな:「実行委員のところだけど」
八幡:「俺が持っていく」
なずな:「でも比企谷、関係ないじゃん」
八幡:「おじや代の残金だ」
なずな:「プリンで払ったんじゃないの?」
八幡:「利息だよ」
なずな:「利息高くない?」
八幡:「病人の家に不法侵入した慰謝料を相殺してやってるんだ。ありがたく思え」
花芽はしばらく俺を見ていた。
やがて小さく笑い、弁当箱の蓋を開け直す。
なずな:「じゃあ、お願い」
八幡:「ああ」
なずな:「比企谷」
八幡:「何だ」
なずな:「唐揚げあげよっか?」
八幡:「いらん」
なずな:「食べかけじゃないよ」
八幡:「そういう問題じゃない」
なずな:「クラスメイト以上になる練習なのに」
八幡:「まだ続いてたのかよ」
花芽は俺の弁当箱へ、勝手に唐揚げを一つ入れた。
返そうと箸でつまむと、花芽が「あー」と口を開ける。
餌を待つ雛鳥か。
八幡:「返すぞ」
なずな:「うん」
八幡:「口を閉じろ」
なずな:「なんで?」
八幡:「教室で餌付けしてるようにしか見えないだろ」
なずな:「誰に?」
周囲を見る。
数人のクラスメイトが、にやにやしながらこちらを眺めていた。
俺は無言で唐揚げを自分の口へ放り込んだ。
悔しいが、美味かった。
花芽は満足そうに笑った。
◇
文化祭前日の放課後。
帰宅途中で教室にスマートフォンを忘れたことに気づき、俺は学校へ引き返した。
日はすでに傾き、校舎にはほとんど人が残っていない。
教室の扉を開けると、花芽が一人で床に座っていた。
周囲には段ボールと装飾用の色紙、ゲーム大会で使用する機材が並んでいる。
八幡:「何してる」
花芽が顔を上げる。
なずな:「あれ、比企谷。帰ったんじゃなかったの?」
八幡:「忘れ物だ。お前こそ、まだいたのか」
なずな:「ちょっと準備が残ってて」
ちょっと、という量ではない。
教室の後方には未完成の飾りが積まれ、机の上には参加者用の名札が並んでいる。ゲーム用コントローラーの動作確認まで、花芽が一人で行っていたらしい。
八幡:「他の連中は?」
なずな:「帰ったよ」
八幡:「何でお前だけ残ってる」
なずな:「みんな、それぞれ用事あるから」
八幡:「お前にはないのか」
なずな:「なずぴは平気」
即答だった。
だが、いつもの声より少しだけ力がない。
近づいて顔を見る。
目の下に薄く影ができていた。昼休みも準備に追われ、まともに食事をしていなかったはずだ。
八幡:「今日は何時に寝た」
なずな:「えーっと」
八幡:「何時だ」
なずな:「四時くらい?」
八幡:「それは今日じゃなくて明け方だ」
なずな:「でも二時間くらい寝たよ」
八幡:「胸を張るな」
花芽はへらへらと笑う。
いつもと同じように見える。
だが、指先は思うように動いていなかった。
色紙を切ろうとしたハサミが、線から大きくずれる。
花芽は「ありゃ?」と首を傾げた。
俺はその手からハサミを取り上げた。
八幡:「今日は帰れ」
なずな:「まだ終わってない」
八幡:「明日の朝やればいい」
なずな:「間に合わないかもしれないじゃん」
八幡:「だったら他の連中にもやらせろ」
なずな:「でも、なずぴがやるって言ったし」
八幡:「全部お前が引き受けたのか」
なずな:「全部じゃないよ」
八幡:「これだけ残ってれば同じだ」
なずな:「なずぴ、こういうの得意だから」
八幡:「得意なら疲れないとでも思ってんのか」
声が思ったより強くなった。
花芽の笑みが、わずかに固まる。
なずな:「別に、疲れてないよ」
八幡:「嘘つけ」
なずな:「本当だって」
八幡:「病人が食事をしたかは見抜けるのに、自分の状態は分からないらしいな」
なずな:「それとこれは違うじゃん」
八幡:「違わない。お前が俺にしたのと同じことを言ってるだけだ」
花芽は黙り込んだ。
静かな教室で、校庭から運動部の声だけが遠く響いている。
なずな:「……なずぴがやったほうが早いんだよ」
しばらくして、花芽が呟いた。
なずな:「みんなに頼んで、説明して、間違ってたら直して。それなら最初から自分でやったほうが早い」
八幡:「だからって全部抱えるのか」
なずな:「別に嫌じゃないし」
八幡:「嫌じゃなければ、無理してもいい理由にはならない」
なずな:「比企谷には関係ないでしょ」
花芽の口から初めて、俺を拒絶する言葉が出た。
いつもなら笑って流すはずの人間が、眉を寄せてこちらを睨んでいる。
怒っているというより、困っているように見えた。
八幡:「そうだな。関係ない」
俺が答えると、花芽の視線が少し揺れた。
八幡:「俺とお前は、ただのクラスメイトだ」
なずな:「……うん」
八幡:「だから、お前が勝手に俺の家へ入って飯を作ったのも、本来は関係ないことだった」
なずな:「それは比企谷が――」
八幡:「でも、お前はやった」
言葉を遮る。
八幡:「俺が困ってたから。放っておけなかったから。関係があるかどうかなんて、あとから考えればいいと思ったんだろ」
花芽は答えなかった。
八幡:「なら俺が今、お前を放っておかないのも同じだ」
なずな:「同じじゃないよ」
八幡:「何が違う」
なずな:「私は、そういうの慣れてるから」
花芽は膝を抱えた。
なずな:「誰かの手伝いしたり、ご飯作ったり、準備したり。そういうの、昔からやってるし」
八幡:「慣れてることと、平気なことは違うだろ」
なずな:「でも私、いつもこんな感じだし。変なこと言って、騒いで、笑ってれば、みんなも楽しいじゃん」
いつもの明るい声ではなかった。
なずな:「私が疲れた顔してたら、変でしょ」
そこでようやく分かった。
こいつが笑うのは、楽しいからだけではない。周囲に心配させないために笑うこともある。
おちゃらけているように見えるのは、本人が真剣でないからではない。真剣な部分を見せないように、わざとふざけているのだ。
誰かを安心させることに慣れすぎて、自分が安心する方法を知らない。
八幡:「変じゃない」
なずな:「え?」
八幡:「疲れたら疲れた顔をしていい。お前が黙ってたって、世界は滅びない」
なずな:「でも、空気悪くなるかも」
八幡:「それで悪くなるような空気なら、一度換気したほうがいい」
なずな:「何それ」
花芽が小さく笑う。
ようやく、作ったものではない笑い方に見えた。
八幡:「それに、お前は馬鹿だ」
なずな:「急に悪口?」
八幡:「違う。確認だ」
なずな:「何の確認?」
八幡:「困ってる奴を見たら放っておけない。頼まれたら断れない。自分がやったほうが早いと思って全部抱える。正真正銘の馬鹿だ」
なずな:「そこまで言う?」
八幡:「だが、何も考えてないわけじゃない」
俺は床に散らばっていた色紙を拾った。
八幡:「むしろ考えすぎてる。自分以外のことを」
花芽が顔を上げる。
八幡:「だから、お前が自分のことを忘れたとき、代わりに気づく奴が一人くらいいてもいいだろ」
口にしてから、我ながらずいぶん恥ずかしい台詞だと思った。
ここに奉仕部の連中がいたら、雪ノ下あたりは鼻で笑い、由比ヶ浜が妙な声を上げていただろう。
花芽は目を丸くしたまま、俺を見つめている。
なずな:「……それ、比企谷がやってくれるの?」
八幡:「おじや代がまだ残ってるからな」
なずな:「いつまで分割払いなの?」
八幡:「金利が変動制なんだよ」
なずな:「悪徳業者じゃん」
八幡:「嫌なら今すぐ帰れ」
なずな:「帰らない」
即答だった。
花芽は立ち上がると、机の上の名札を半分こちらへ寄せた。
なずな:「じゃあ、これお願い」
八幡:「急に遠慮がなくなったな」
なずな:「困ってるなずぴを放っておかないんでしょ?」
八幡:「言質を取られた……」
なずな:「あと、お腹すいた」
八幡:「知らん」
なずな:「ご飯食べさせて」
八幡:「俺はお前の母親じゃない」
なずな:「じゃあ何?」
花芽が覗き込んでくる。
顔が近い。
楽しそうな目をしているが、その頬は少しだけ赤かった。
なずな:「クラスメイト以上?」
八幡:「……まだ練習中だ」
なずな:「そっか」
花芽は笑った。
なずな:「じゃあ、早く本番にしないとね」
◇
翌日。
文化祭のゲーム大会は、予想以上に盛り上がった。
花芽は開始早々から参加者に混ざって騒ぎ、圧倒的な実力で相手を倒し、初心者には操作を教え、負けた生徒には「今の惜しかった!」と声をかけていた。
見ているだけなら、いつものお調子者である。
ただ、昨日までとは一つだけ違うことがあった。
何かを頼まれるたびに、花芽は周囲を見回すようになった。
そして時々、こちらを見る。
俺が首を横に振ると、
なずな:「今ちょっと無理! そっち手が空いてる人お願い!」
と、きちんと断った。
小学生の成長を見守る保護者の気分である。
昼過ぎ、客足が落ち着いたところで、花芽が俺の袖を引いた。
なずな:「比企谷、休憩しよ」
八幡:「お前はまだ交代時間じゃないだろ」
なずな:「休むのも大事なんでしょ」
八幡:「極端なんだよ」
俺たちは人の少ない非常階段へ移動した。
花芽は鞄から二段の弁当箱を取り出す。
なずな:「昨日帰ってから作った」
八幡:「早く寝ろと言ったはずだが」
なずな:「ちゃんと七時間寝たよ」
八幡:「ならいい」
なずな:「褒めて」
八幡:「人間として標準だ」
なずな:「厳しいなあ」
弁当箱を開けると、二人分のおかずとおにぎりが詰められていた。
八幡:「何で二人分なんだ」
なずな:「比企谷の分」
八幡:「頼んでない」
なずな:「知ってる。昨日手伝ってくれたお返し」
八幡:「礼を要求した覚えはない」
なずな:「なずぴがお礼したいの。比企谷は黙って食べる係」
八幡:「勝手に俺の役職を決めるな」
花芽はおにぎりを一つ、俺へ差し出した。
受け取らずにいると、少しだけ不安そうな顔になる。
その表情を見て、俺は諦めて受け取った。
なずな:「美味しくなかったら言ってね」
八幡:「自信あるんじゃなかったのか」
なずな:「比企谷に食べてもらうのは、ちょっと違うから」
八幡:「何が」
なずな:「分かんない」
花芽は自分でも戸惑ったように笑った。
なずな:「昨日のこと、考えてた」
八幡:「忘れろ」
なずな:「嫌」
八幡:「即答するな」
なずな:「だって嬉しかったから」
真っ直ぐ言われると、逃げ道がなくなる。
なずな:「私さ、誰かの世話するのは好きなんだよ。料理作るのも、準備するのも、別に嫌じゃない」
八幡:「ああ」
なずな:「でも、自分が世話されるのは慣れてないみたい」
花芽は膝の上で指を組んだ。
なずな:「だから昨日、どうしていいか分かんなくて、ちょっと怒った」
八幡:「知ってる」
なずな:「ごめん」
八幡:「別にいい」
なずな:「あと、クラスメイト以上になりたいっていうのも、本気かもしれない」
危うく、おにぎりを落としかけた。
花芽は俺を見ないまま続ける。耳が赤くなっている。
なずな:「比企谷、口悪いし、目つき悪いし、すぐ人のこと馬鹿って言うけど」
八幡:「褒める要素が一つもないぞ」
なずな:「ちゃんと見てくれてるから」
花芽がこちらを向く。
なずな:「私が笑って誤魔化しても、見つけてくれた」
そんなふうに言われる資格が、俺にあるとは思えなかった。
俺はただ、人間の善意を疑っているだけだ。笑顔の裏を探し、好意の条件を考え、いつか裏切られる可能性を先に計算する。
今回は偶然、それが花芽の無理を見つけることにつながっただけだ。
八幡:「俺は性格が悪いから、他人の粗を探すのが得意なだけだ」
なずな:「じゃあ、一生私の粗を探しててよ」
八幡:「粗しかないから過労死するぞ」
なずな:「大丈夫。ご飯は作ってあげる」
八幡:「労働環境の改善になってない」
なずな:「お給料も出す」
八幡:「いくらだ」
なずな:「唐揚げ一個」
八幡:「最低賃金法を調べてこい」
花芽は声を上げて笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
なずな:「ねえ、比企谷」
八幡:「何だ」
なずな:「付き合ってみる?」
あまりにも普通の調子で言うものだから、理解するまでに数秒かかった。
八幡:「何と」
なずな:「私と」
八幡:「どこへ」
なずな:「誤魔化すの下手すぎない?」
病気の日に言われた言葉を、そのまま返された。
花芽は楽しそうに俺を見ている。
ただ、その指は制服のスカートを強くつまんでいた。
こいつでも緊張することがあるらしい。
八幡:「……お前、俺のこと好きなのか」
なずな:「たぶん」
八幡:「たぶんで告白するな」
なずな:「だって初めてだから分かんないんだもん。でも、比企谷にご飯作りたいし、疲れてたら休ませたいし、私が無理してたら見つけてほしい」
それを好きと呼ばずに、何と呼ぶのだろう。
少なくとも、俺にはほかの名前が思いつかなかった。
なずな:「比企谷は?」
八幡:「何が」
なずな:「私のこと、好き?」
答えに詰まる。
花芽は騒がしくて、距離感がおかしくて、他人の家へ勝手に入る。自称姫のくせに家事能力が高く、自分の食事を後回しにして他人の面倒を見ている。放っておけば、誰かのために勝手に無理をする。
面倒な人間だ。
だが、もうその面倒を他人事にはできそうになかった。
八幡:「……審査期間が必要だ」
なずな:「審査?」
八幡:「クラスメイト以上になる練習中なんだろ」
なずな:「あ、うん」
八幡:「だったら、試用期間からでいい」
なずな:「それって、付き合うってこと?」
八幡:「解釈は任せる」
なずな:「やった!」
花芽が勢いよく立ち上がった。
その拍子に、膝の上の弁当箱が傾く。
俺は咄嗟に手を伸ばし、落ちる寸前で受け止めた。
八幡:「危ねえだろ!」
なずな:「ナイス、比企谷!」
八幡:「告白直後に弁当をひっくり返す奴があるか!」
なずな:「でも取ってくれたじゃん」
八幡:「反射だ」
なずな:「なずぴのことちゃんと見てたからでしょ?」
八幡:「偶然だ」
なずな:「ふーん」
花芽はにやにやしながら座り直した。
なずな:「じゃあ、これからも見ててね」
八幡:「善処する」
なずな:「そこは約束するって言ってよ」
八幡:「一生お前の行動を監視するなんて約束できるか」
なずな:「一生?」
しまった。
花芽の笑みが深くなる。
なずな:「比企谷、一生一緒にいるつもりなんだ」
八幡:「違う。言葉の綾だ」
なずな:「なずぴはいいよ?」
八幡:「話を聞け」
なずな:「その代わり、洗い物担当ね」
八幡:「どうして将来の家事分担まで決まってるんだ」
なずな:「なずぴが料理するから」
八幡:「誰も同居するとは言ってない」
なずな:「じゃあ、まずはお昼だけね」
花芽は弁当箱から唐揚げを一つ取ると、俺の口元へ差し出した。
なずな:「はい、あーん」
八幡:「やめろ」
なずな:「クラスメイト以上になったからいいでしょ」
八幡:「よくない」
なずな:「じゃあ彼氏として」
八幡:「審査期間だ」
なずな:「仮彼氏?」
八幡:「その呼び方はやめろ」
なずな:「お試し彼氏」
八幡:「通販商品みたいに言うな」
拒み続けても、花芽は唐揚げを引っ込めない。
仕方なく口を開けると、嬉しそうに放り込んできた。
噛めば、しっかり味の染みた肉の旨味が広がった。
なずな:「どう?」
八幡:「普通」
なずな:「またそれ?」
八幡:「彼女候補としては合格点だ」
花芽は目を丸くした。
次の瞬間、満面の笑顔になる。
なずな:「じゃあ絶対、正式な彼女にしてもらうからね」
八幡:「審査は厳しいぞ」
なずな:「大丈夫。なずぴ、こう見えて真面目だから」
八幡:「知ってる」
そう答えると、花芽は少しだけ照れたように笑った。
花芽なずなは、馬鹿である。
他人のためなら手間を惜しまず、自分のことになると途端に計算ができなくなる。
だからたぶん、これからも余計な世話を焼くのだろう。俺が風邪を引けば料理を作り、昼食を抜けば勝手に弁当を差し出し、頼んでもいないのに隣へ座る。
そして俺も、そのたびに文句を言う。体調を確認し、無理をしていれば止め、食べ忘れていれば休ませる。
まったく、面倒な話だ。
ただし――。
その面倒を悪くないと思い始めている俺も、きっと同じくらい馬鹿なのだろう。
ということで、はち×なずの読み切りでした。