私は朝田詩乃、そして私はダーク朝田詩乃 作:アリス
翌日になっても、彼女は昨夜の問いを蒸し返さなかった。
朝はいつもの時間に目を覚まし、制服へ着替え、食パンを焼きながら牛乳を飲んだ。冷蔵庫を閉める前に賞味期限の近い卵が目に入ると、頭の中から『今夜使いなさいよ。冷蔵庫の置物にするつもりじゃないでしょうね』と声が飛んできたし、駅まで歩けば、私の前を横一列になって進む学生を見て『あれ、道端に一人落とせば通りやすくなるんじゃない?』と、採用されないことを承知している案まで出してきた。
昨夜、最後に「あんた、私を殺せる?」と尋ねた相手とは思えないほど普段通りだった。
そのせいで、私の方も学校へ着く頃には、あの問いが夢だったのではないかと一瞬だけ考えた。もちろん、そんなはずはない。授業中にノートを取っていても、昼休みに購買のパンを食べていても、何かの拍子に昨夜の部屋が浮かんだ。消えたテレビの画面と、完全に冷えた茶と、震えの止まった自分の手。その全部を同じように見ていた彼女が、最後だけ冗談を捨てて尋ねてきた声も、忘れようがなかった。
それなのに本人は、答えを催促しなかった。
放課後になり、校門を出ても同じだった。昨日嫌味を言ってきた女子は友人たちと先に帰ったらしく姿がなく、そのことを彼女が残念がったのもほんの数秒だった。
『せっかく今日は何人連れてくるのか楽しみにしてたのに。意外と根性ないのねぇ。まあいいわ。帰りに牛乳だけ買って。朝ので最後だったでしょう?』
私は横断歩道を渡りながら、昨夜とは違ってよく喋るその声を聞いていた。自分から話題を出せば答えるだろうとは思ったが、人通りの多い道で始める話でもない。結局、スーパーで牛乳と夕食の材料だけを買い、アパートへ戻って鍵を閉めるまで、こちらからも何も言わなかった。
買い物袋を流し台へ置き、制服から部屋着へ着替える。昨日とほとんど同じ時刻、同じ部屋だったが、今日はテレビをつける気にはならなかった。代わりに窓のカーテンを少しだけ開けると、冬の短い日はもう随分傾いていて、向かいの建物の壁が薄い橙色に染まっていた。
私は鞄から携帯端末を出して机へ置き、そのまま椅子へ座った。
「昨日の答えだけど」
私から切り出すと、それまで今夜の夕食について勝手な注文をつけていた声が止まった。
『へえ。やっと判決が出たの?長かったわねぇ。一晩考えてくれるなんて、死刑囚冥利に尽きるじゃない』
「まだ分からない」
答えた途端、彼女が笑った。
『何それ。昨日と同じじゃない。私の貴重な一日を使って、何も進んでないわけ?』
「進めるために聞きたいの」
私は窓から差し込む光が机の上をゆっくり移っていくのを見ながら、昨夜から何度か考え直した問いを口にした。
「あなた、私を守らなくていい時は何がしたいの?」
笑い声が途切れた。
部屋の外を誰かが階段で上ってくる音がして、少し遅れて扉が閉まる。それが聞こえなくなってからも返事がなかったので、私は机の端に置いていた眼鏡ケースを少しずらし、もう一度口を開いた。
「苦しくなった私と代わるとか、誰かに腹を立てた私の代わりに怒るとか、そういう話じゃなくて。何も起きていない時に、あなた自身が何をしたいのかって聞いてるの」
『……何よ、それ』
「質問」
『聞けば分かるわよ。そうじゃなくて、何で今それを聞くわけ?』
今度は私が少し考えた。
「殺すか決めろって言う相手のことを、私は知らなすぎるから」
彼女はすぐには笑わなかった。
朝から何度も聞いた声なのに、返事を待つ間だけ部屋が急に静かになったように感じられた。机の上に置いた携帯端末の画面が省電力で暗くなり、黒い表面へ窓の光が細く映り込む。
『何年一緒にいると思ってるの?あんたが小学生の頃からよ。今さら自己紹介でもすればいい?名前は朝田詩乃、趣味は嫌なやつを黙らせること。特技は、あんたが泣き出すより先に――』
「それも全部、私がいる時の話でしょう」
長くなりそうだったので、そこだけ切った。
彼女は一度黙り、次に笑った時には先ほどより少しだけ呆れた調子になっていた。
『ほんっと面倒なところを撃ってくるわねぇ。じゃあ何?私の好きな食べ物でも聞く?残念だけど味覚はあんたと同じよ。行きたい場所だって、あんたが見たことのないところは私も見たことない。欲しいものなら――』
そこまで言って、声が止まった。
私は何も足さなかった。
窓から入っていた夕方の光が、机の上から少しずつ壁へ移っている。彼女が続きを探している間に、私は買ってきた牛乳をまだ冷蔵庫へ入れていないことを思い出したが、今立ち上がれば話が途切れそうで、そのまま座っていた。
『……知らないわよ、そんなの』
しばらくして返ってきた声は、随分不機嫌だった。
『急に好きにしろって言われても、今まで必要なかったもの。私が何をしたいかなんて』
「じゃあ、試してみればいいじゃない」
『何を?』
「今日、貸すわ」
彼女が黙った。
私はようやく椅子から立ち上がり、流し台の買い物袋から牛乳を取り出した。冷蔵庫へしまい、ついでに夕食用の野菜も中へ移す。彼女はその間も何も言わなかった。
「身体。夕食まででいいなら、好きに使っていいわよ。昨日みたいに私が動けなくなったから代わるんじゃなくて、最初からあなたが使うの」
冷蔵庫の扉を閉めたところで、ようやく声が戻った。
『……あんた、正気?』
「あなたにだけは言われたくないわね」
『いや、だって昨日の今日よ?私がその気になったらあんたを泣かせて飼ってやれる、なんて話をした翌日に、「はい身体どうぞ」?普通もう少し警戒するでしょう。危機管理って言葉、学校で習わなかった?』
「だから条件はつける。人を傷つけない。犯罪をしない。私が明日学校へ行けなくなるようなこともしない。それから、返してと言ったら返す」
『ちょっと待って。好きにしていいって言った直後に、一番楽しそうなところから全部禁止してない?』
「嫌ならやめるけど」
『誰が嫌だって言ったのよ』
返事だけは早かった。
私は思わず口元を少し緩め、そのまま玄関へ向かった。外へ出るつもりなら制服のままより私服の方がいいだろうと思い、クローゼットから動きやすいスカートとニットを選び直す。彼女は着替えている間も珍しく口を挟まず、私が財布と携帯端末を小さな鞄へ移し、玄関の姿見の前で髪を整え終えるまで待っていた。
「じゃあ、いいわよ」
『簡単に言うわねぇ』
「怖くなった?」
『私が?あら、随分かわいいこと言うようになったじゃない』
そう返した声には、いつもの余裕が戻っていた。
身体の主導権を渡すこと自体は、初めてではない。何も見えなくなるわけでも、意識が途切れるわけでもなく、手足の感覚もそのまま残る。ただ、それまで自分が当然のように選んでいた次の動作を、自分ではない誰かが先に決めるようになる。
今回は、いつもと違って身体が固まっているわけでもなかった。
鏡の前に立ったまま一度息を吐き、私は自分から力を抜いた。
右肩が僅かに上がり、鞄の紐を掴んでいた手が持ち直される。次に首が左右へ軽く傾き、鏡の中の私が自分の顔を眺めた。口の端が上がる。その笑い方だけは、私が鏡へ向けた覚えのないものだった。
『さて、と』
私の喉から、私なら出さない調子の声が出た。
『せっかく自由時間をもらったんだもの。後で返してって泣きつかれても困るくらい、有意義に使わないとねぇ』
「返してって言ったら返す約束でしょう」
『分かってるわよ。いちいち契約書みたいに確認しないで。あんた、こういう時くらい気楽にできないわけ?』
言いながら、彼女は玄関の鍵を開けて外へ出た。
階段を下りる足取りは普段の私より少し速く、歩幅も僅かに大きかった。身体能力が変わったわけではないのに、歩き方一つで他人の身体に見えることがある。私が内側からその動きを眺めている間、彼女は一度も振り返ることなく駅前まで歩いた。
そこで、止まった。
右へ行けば商店街、左へ行けば大型の商業施設があり、駅の向こう側には映画館やゲームセンターもある。夕方の人通りが増え始めた歩道の端で、彼女は右を見て、左を見て、それから駅前の案内板まで眺めた。
三十秒ほど経ったところで、私は堪えきれずに声を掛けた。
「決まってないの?」
私の口が不機嫌そうに引き結ばれた。
『うるさい。今考えてるの』
「昨日から時間はあったでしょう」
『考えたわよ。考えた結果、自由って思ったより面倒だって分かったところ。あんた、普段よく平気でゲームばっかりして休日を潰せるわね。何でもしていいって言われると、逆に何から手をつければいいか分からないじゃない』
「それ、私のせい?」
『同じ頭使ってるんだから、半分くらいあんたの責任でしょうが』
随分理不尽な責任分担だったが、少なくとも帰るつもりはないらしい。彼女はもう一度周囲を見渡し、通りの向こう側で賑やかな音を流しているゲームセンターへ目を止めた。
『……あそこにするわ』
「ゲームセンター?」
『何よ。不満?殺すな、壊すな、捕まることするなって言われたら、合法的に勝負できるところなんて限られるでしょう』
私が返事をする前に、彼女は信号が変わるのを待って道路を渡った。
ゲームセンターの中は、外より一段暖かく、電子音と音楽と人の声が絶えず重なっていた。入口近くの音楽ゲームにはほとんど目も向けず、レースゲームも画面を一度眺めただけで通り過ぎる。銃の形をしたコントローラーが並ぶ筐体の前だけは少し歩調が落ちたが、私が何か言うより先に、彼女は視線を逸らして奥へ進んだ。
「やらないの?」
『今日は現実でまであんたのリハビリに付き合う日じゃないでしょう。それに、画面の敵撃つくらいなら後で本物のシノン借りるわ』
「もう予定決まってるじゃない」
『今決めたのよ。いちいち嬉しそうに拾わないでくれる?』
そう言ってから数歩進み、彼女の足が止まった。
壁際に並んだクレーンゲームの一台に、小さな猫のぬいぐるみが積まれていた。黒に近い灰色の毛並みで、丸い身体に短い脚がつき、目だけが妙に青い。その中で一匹だけ、他の景品の下へ半分埋もれ、片方の耳を押し潰されるような形で奥へ挟まっている。
彼女はガラスの前へ立ち、少ししゃがんで横から中を覗いた。
『……ふうん、性格悪そうな顔してるわね』
「ぬいぐるみに何を求めてるのよ」
『褒めてるの。ほら、あんたにちょっと似てない?』
「どこが?」
『愛想がないところ』
百円硬貨が投入口へ落ちた。彼女は奥にある猫そのものへアームを向けず、手前に重なった別の景品へ爪を落とした。一度目では何も取れなかったが、手前の一匹がわずかに横へずれ、奥へ伸びる細い隙間ができた。
二回目も同じだった。
今度は別のぬいぐるみの胴体をアームの片側で押し、狙っている猫の肩まで見えるようにする。
「欲しいなら普通に掴めば?」
『取れないわよ、この位置じゃ。爪も弱いし、持ち上げるより転がした方が早いでしょう』
「最初から分かってたの?」
『一回目で分かった。二回目は道を作ったの』
説明しながらも手は止まらず、三枚目の硬貨が投入された。
開いたアームの片側だけが黒い猫の腹の下へ入り、閉じる力ではなく上昇する時の引っ掛かりで身体を横へ倒す。狙い通り出口側へ転がったものの、縁の直前で別の景品へ引っかかった。
彼女はガラス越しにその位置を確かめると、少しだけ笑った。
『はい、終わり』
「まだ落ちてないけど」
『次で落ちるって意味。何でも最後まで見ないと分からない?』
四枚目を入れ、今度は猫そのものを掴まず、背中を後ろから押す位置へアームを落とした。
丸い身体が前へ傾き、そのまま出口へ滑り込んだ。
彼女は屈んで取り出し口から景品を引っ張り出し、潰れていた耳を指で起こした。手のひらより少し大きい程度のぬいぐるみで、改めて近くから見ると、青い目がこちらを睨んでいるようにも見える。
『大したことなかったわね』
「四回やってるけど」
『最初の二回は準備。三回目で位置を作って、四回目で取ったの。失敗したのは一度もないわよ』
「随分都合のいい数え方ね」
『結果が出たなら途中の弾数なんて誤差でしょう?』
「狙撃手がそれ言う?」
自分の口で笑われる感覚は、見ているだけでも少し妙だった。
彼女は猫を片手に抱えたままゲームセンターの中を歩き、他の台をいくつか眺めたものの、二つ目の景品を取ろうとはしなかった。最初から欲しかったのか、取れそうだから始めただけなのかは分からない。ただ、無料のビニール袋が置いてある場所を通り過ぎても、その猫を袋へ入れようとはしなかった。
出口へ向かう途中、写真機が数台並んでいる一角の前で彼女がまた足を止めた。
私は嫌な予感がした。
「何する気?」
『記念撮影』
「いらないでしょう」
『今日、私の自由時間なんだけど?』
そう言われると止める理由がない。
彼女は猫を抱えたまま一台へ入り、カーテンを閉めた。画面に表示されたコースの中から、一番余計な装飾が多そうなものを迷わず選ぶ。撮影が始まると、いつも私が写真で作るような無難な表情は一度もせず、猫の顔を自分の頬へ押しつけたり、わざと呆れた顔をしてみせたり、最後には画面に用意されていた猫耳のスタンプまで自分の頭へ乗せた。
「それ、保存しないでよ」
『何で?結構似合ってるじゃない』
撮影が終わり、彼女は画像を携帯端末へ保存する。そこまでは我慢した。
問題は、その後だった。
カーテンの中から出るより先に、彼女は携帯端末を操作し、昨日キリトとやり取りしたメッセージ画面を開いた。
「ちょっと」
『何よ。せっかく撮ったんだから、一人くらい見せないと勿体ないでしょう?』
画像が添付される。
猫耳のついた私が、青い目のぬいぐるみを頬へ押しつけている写真だった。
その下に、私の指が勝手に文字を打ち始める。
『昨日はありがとう。今度お店に行く時はこの子も連れていくわ。猫耳の方が私だから、ちゃんと褒めてね♡……っと』
「やめて」
『まだ送ってないでしょう?そんなに焦らないでよ』
右手の親指が、画面の送信ボタンの上へ移動した。
彼女は本当に送る気はないのかもしれない。
むしろ、送るつもりがないからこそ、ぎりぎりまでこちらがどうするか試しているのだろう。そのくらいは分かった。
分かったうえで腹が立った。
送信ボタンへ近づいていた右手が、途中で止まった。
彼女が止めたのではない。
肩から先だけが一度ぎこちなく震え、次の瞬間には私の意思で腕が持ち上がった。開いていた指を順番に曲げ、親指まで握り込んで拳を作る。その拳を、写真機の小さな鏡に映っている自分の頬へゆっくり近づけた。
身体の残りを支配している彼女が、反射的に首を後ろへ引いた。
「分かった、分かったから殴らないで。送らない、消す。だからその拳下ろしなさいって」
声は小さく、ひどく早かった。
周囲へ聞こえれば一人で何をしているのかと思われるので、彼女なりに声量だけは抑えている。そのせいで余計に切羽詰まって聞こえた。
私は拳を下ろさなかった。
「画像も」
『はいはい、添付も外す。文面も消す。ほら、全部消えたでしょう?それでいい?あと自分の顔なんだからもう少し大事にしなさいよ。殴ったら私だけじゃなくてあんたも痛いんだから、ね?』
「だから効くのよ」
『……性格悪いわね、あんた』
画面からメッセージの下書きが消えたのを見届けてから、私は右腕の力を緩めた。
拳が開き、再び彼女の制御へ戻った手が頬を一度撫でる。まだ殴られてもいないくせに、痛みを確かめるような仕草だった。
数秒してから、私の顔で盛大に溜息を吐く。
『はいはい。怖い怖い。せっかく自由になったのに、一番危険なのが内側にいるんじゃ意味ないじゃない』
そう言いながらも、猫耳の写真そのものは消さなかった。
私も、それについては何も言わなかった。
ゲームセンターを出る頃には、外はもう薄暗くなっていた。
駅前の建物には灯りが入り、道路沿いの街路樹にも冬の飾りが点き始めている。彼女は片腕に黒い猫を抱えたまま少し歩き、途中で鞄へ入れようとして、教科書の角が耳へ当たるのを見ると、一度取り出して向きを変えた。
私はそれを見ていたが、口にはしなかった。
代わりに、彼女が駅とは逆の方向へ歩き始めたところで尋ねた。
「帰るの?まだ夕食には早いけど」
『知ってる。用があるのはアミュスフィアよ』
足取りは迷わなかった。
駅前でどこへ行くか決められずに立ち止まっていた時とは違い、帰り道を最短で選び、信号の変わる時間まで見ながら歩いている。
「じゃあ、GGO?」
『他に何があるのよ。現実の身体で遊ぶのも悪くなかったけど、せっかくなら一番よく出来てる方も借りたっていいでしょう』
「私のアバターなんだけど」
『だから借りるって言ってるんでしょう?《シノン》を私が使ったって減るものじゃないわよ』
その呼び方だけ、他の言葉より少し滑らかに出たように聞こえた。
部屋へ戻ると、彼女は黒い猫を机の端へ置いた。
最初は無造作に座らせただけだったが、少し傾いた身体がペン立てへ寄りかかると、一度持ち上げて置き直した。それでも安定しなかったので、机の上に積んであった参考書を数センチ横へ動かし、猫の背中が壁へ触れる位置まで奥へ下げる。
「そこ、私のペン取る時邪魔なんだけど」
『右に置けばいいじゃない。その方が取りやすいでしょう?』
「何年も今の位置で使ってるの」
『使いにくいことに慣れたら、使いやすくなるわけじゃないでしょう。あんた、本当に変なところで保守的ねぇ』
勝手にペン立ての位置まで変更され、私は文句を言いかけたが、彼女はもうアミュスフィアを取り出していた。
ベッドへ横になり、機器を装着する。
身体の主導権を彼女に渡したままログインするのは初めてだったが、視界が暗転する瞬間も、いつもと大きな違いはなかった。
次に光が戻った時、SBCグロッケンの人工的な空が頭上に広がっていた。
青い髪が肩の辺りで揺れ、現実とは違う高さから街並みが見える。装備ウインドウを開けば、長く使い込んだ武器や装備品がいつもの場所に並んでいる。
彼女は両手を一度開き、指を曲げ、肩を回した。
『……やっぱりこっちはいいわね』
「何が?」
『全部。走っても息切れしないし、転んでも擦り傷程度で済むし、撃ちたいもの撃っても警察が来ない。それに――』
ストレージから《PGMウルティマラティオ・ヘカートⅡ》が呼び出される。
長大な銃身と重量のある本体が両手へ収まると、彼女は銃床を肩へ当て、照準器を覗くでもなく一度構えを確かめた。私が何度も繰り返してきた動きなので、身体はどこへ力を入れればいいか覚えている。
『この子は素直でいいわ。あんたが随分使い込んだからでしょうけど』
「ヘカートの話?」
『そっちじゃなくて、シノンの話』
彼女はそれだけ言うと、銃を背負って街の外へ向かった。
追及しても何も言わないだろうと思い、私は黙って同じ景色を見ていた。
グロッケンからかなり離れた荒野には、最終戦争以前の建造物が崩れたまま点在していた。道路は砂へ半分埋まり、錆びた標識や折れた街灯、用途の分からない機械の残骸が、長い時間をそのまま放置されたように残っている。
大型モンスターの出現区域からは外れており、効率のいい狩場でもないため、他のプレイヤーは見当たらなかった。
彼女は慣れた足取りで岩場まで進んだが、私なら使う射撃位置には伏せなかった。少し高い場所へ登り、そこから周囲を見回す。
「誰かと戦うんじゃないの?」
『今日はいいわよ。知らないやつ撃ったところで、勝ったらお金が入って、負けたら街へ戻されるだけでしょう?せっかく好きにしていいって言われたんだから、もっと意味のないことしたいの』
言い終わる前に、彼女の視線が遠くの道路標識へ止まった。
標識そのものではなく、それを支柱へ固定している金具を見ている。二本あるうち片方は既に外れており、残った方を撃てば、板全体が地面へ落ちそうだった。
『まず、あれね』
ヘカートⅡの二脚が砂の上へ開かれた。
彼女は伏せて銃床を肩へ収め、スコープの中で小さく見える金具へ照準を合わせた。風向きを確かめるために砂の流れを一度見てから、呼吸を止める。
銃声が荒野へ響き、標識の右側から火花が散った。金具は残ったままーーしばらく何も聞こえなかった。
『……今のなし』
現実では彼女が身体を使っている間、私は頭の中から返事をしていたが、仮想世界でも関係は変わらない。
「撃ったでしょう」
『外したんだから数えなくていいのよ』
「随分便利なルールね」
『次は当たるから黙ってなさい』
彼女は薬莢を排出し、もう一発装填した。
一発目の着弾位置を見ていたので、今度は照準をほんの僅かに修正する。
二発目。
金具が弾け飛び、支えを失った標識が支柱へ一度ぶつかった後、砂の上へ斜めに落ちた。
『ほら。簡単』
「二発撃ってるけど」
『一発目は観測射。細かいこと気にしてると禿げるわよ、気をつけなさい」
悪びれもせず立ち上がり、次を探す。
崩れた建物の外壁から突き出した細い配管、街灯の先に残っている小さな照明部、風に揺れている金属板。経験値もドロップもなく、撃ったところで何も得られないものばかりを見つけては、距離と角度を変えて狙った。
簡単に当てられるものは一度撃けば終わり、外せば当たるまでやる。
何の役にも立たないことをしている時ほど、彼女の判断は妙に真剣だった。
一度、建物の上から垂れ下がっているケーブルを撃ち抜いた時には、その先に引っかかっていた看板が数秒遅れて落下し、下の鉄骨へぶつかりながら派手な音を立てた。
彼女はスコープを外し、落ちていくところを直接見た。
『今のはいいわねぇ』
「何が?」
『音。最後に一回跳ねたところもよかった』
「そんなことのために二発使ったの?」
『そうよ。何か問題ある?自由なのがゲームのいいところじゃない』
声が少し弾んでいた。
その後も彼女は歩き続け、撃てそうなものを見つけるたび足を止めた。私が普段なら射撃練習として距離や命中率を揃えるところを、彼女は同じ条件で二度撃とうとしない。小さいもの、遠いもの、風で動いているもの、何か別の物に作用させられるものを選び、上手くいけば次へ移る。
しばらく見ていた私は、次の弾を装填する彼女へ声を掛けた。
「楽しい?」
彼女の手がほんの僅かに止まった。
『何、その質問』
「聞いただけ」
『見れば分かるでしょう。目も耳も同じなんだから』
「あなたの口から聞きたいの」
返事はすぐには来なかった。
彼女は装填を終えたヘカートを抱え直し、今度は伏せずに岩の上へ腰を下ろした。遠くではゲーム内の夕日が低くなり、廃墟の輪郭を片側から赤く照らしている。
『……楽しいわよ。悪い?』
「別に」
『だったらいちいち確認しないで。人が楽しく遊んでる時に感想文提出させるのやめてくれる?』
機嫌を損ねたような言い方の割に、彼女はすぐ立ち上がり、また次の標的を探し始めた。
それを見つけたのは、日がさらに傾いた頃だった。
遠くに残っている高層建築の屋上から、一本の細いアンテナが伸びている。建物そのものは上層部の半分近くが崩れていたが、その金属棒だけは折れずに残り、赤くなった空を背景にすると先端までよく見えた。
彼女は足を止めた。今までの標的と違い、しばらく何も言わずに距離を測る。
「遠いわね」
『距離は別にいいわよ。邪魔なのは手前』
伏せてスコープを覗く。
アンテナの上半分は見えているが、根元に近い部分は手前の別の建物と重なっている。先端へ穴を開けるだけなら今の位置からでも狙えるものの、根元を撃って落とそうとすれば射線が通らない。
彼女は照準を少し動かし、周囲の地形を確認した。
『東からならいけるわね』
「回る?」
マップを開くと、現在地から東側へ回り込む道はある。ただ、ここまで来る間に随分時間を使っていた。往復を考えれば、今から向かうとログアウトはかなり遅くなる。
彼女も表示された時刻を見た。
少し考えた後、スコープを外す。
『今日はやめとく』
「いいの?」
『よくはないけど、今から回ったら帰ってから宿題が残るでしょう。あんた、明日の朝になったら眠いだの時間がないだの絶対うるさいもの。そんなの聞きたくないわよ』
「今日あなたに貸したんだから、少しくらい遅くても文句言わないわよ」
『そういうこと言って、本当に遅くなったら時計見ながら無言で圧かけてくるでしょう?同じ頭の中にいる相手に見栄張らないで』
彼女はもう一度だけアンテナへスコープを向ける。根元が見えないことを確かめると銃を下ろし、マップを開いて東側の経路へ目印だけを置いた。
『次は最初からこっちに出ましょう。あの道路なら手前の壁が外れるし、今より少し距離が伸びても横風だけ見ればいい。根元に一発入れれば、多分そのまま落ちるわ』
「一発で?」
『何よ、その言い方』
「さっき観測射撃が必要だった人が言うから」
『あれは忘れなさい。今度はちゃんと当てるわよ』
そう言って彼女は街の方角へ歩き始めた。
ログアウトした時には、部屋の窓はすっかり暗くなっていた。
アミュスフィアを外した彼女はベッドの上で一度大きく伸びをし、それから机の時計を見た。約束した夕食の時間は少し過ぎていたが、私が何か言う前に身体を起こし、冷蔵庫へ向かうのではなくベッドの縁へ座った。
『はい、返すわ』
「もういいの?」
『何。返してほしくなくなった?』
「そうじゃないけど」
『じゃあ素直に受け取りなさいよ。宿題まで私がやるなんて契約してないし、夕飯もあんたが作って。今日は十分働いたんだから』
「遊んでただけでしょう」
『猫を救出して、廃墟の環境整備までしてきたのよ?結構な社会貢献だと思わない?』
言い終わる頃には、手足を動かす感覚が少しずつ私へ戻っていた。
突然切り替わるわけではない。握っていた糸を一本ずつ返されるように、まず指先が自分の意思で動き、次に肩と背中の力を自分で調整できるようになる。私はベッドから立ち上がり、眼鏡を掛け直した。
机の端には、夕方取った黒い猫が座っている。窓の近くへ置かれていたせいで、カーテンの隙間から入る街灯の光が青い目に当たっていた。
『ちょっと、それもう少し奥へ置いて』
「何で?」
『昼間そこだと日に当たるでしょう。黒いのって色褪せると目立つのよ』
私は猫を持ち上げた。
「別に、ぬいぐるみでしょう」
『四百円掛かってるの。雑に扱わないで』
私は棚の上、窓から少し離れた場所へ猫を置いた。彼女は何も言わなかったので、その位置でいいらしい。
夕食は簡単に済ませることにした。冷蔵庫から朝言われた卵を取り出し、残っていた野菜と一緒に炒める。その間、彼女は昼間ほど喋らず、時々思い出したようにGGOの射撃について口を挟んだ。
『あの最後の建物、南からでも見えるかもしれないけど、東の方がいいわね。南だと多分、手前の鉄骨がまだ少し被るから』
フライパンを返していた手が一瞬だけ止まったが、私はそのまま料理を続けた。
食べ終えて皿を洗い、机へノートを広げる。ゲームセンターへ寄り、その後GGOまで行ったせいで、宿題は普段よりかなり遅れていた。
二問ほど解いたところで、また声がした。
『次ログインする時、東側の出口から行きましょう。今日使ったルートを逆に回るより早いし、途中の機械系Mobも避けられるから。そのまま高架の下を抜ければ――』
「分かった」
私は式を書きながら答えた。
彼女は一度黙った。
『……何が?』
「東から行くんでしょう」
『そうよ。聞いてたなら最初からそう言いなさいよ』
「聞いてるわよ。同じ頭なんだから」
シャープペンシルを動かし、途中まで書いた式の続きを埋める。
数秒してから、私は顔を上げずに言った。
「あのアンテナ、取っておくから」
今度は返事が来るまで、少し時間が掛かった。
『……当たり前でしょ』
声は、夕方より少しだけ小さかった。
『私が見つけたんだから、勝手に先に撃ったら殺すわよ』
「はいはい」
『何、その返事。冗談だと思ってる?』
「人を傷つけないって条件、今日だけじゃないから」
『面倒ねぇ。じゃあ殺さない。すごく怒る。それでいい?』
「十分」
そこで会話は終わった。
私は次の問題へ進み、彼女も答えを横から読み上げたりはしなかった。
棚の上では片方の耳が少し曲がった黒い猫が窓から離した場所でこちらを向いていた。
遠い荒野にはまだあのアンテナが残っている。
次回が最終話になるかと思います。
せっかくなので、詩乃とダーク詩乃の違いについて少しだけ。
ダーク詩乃の方が詩乃に比べて狙撃の腕は若干低いですが、代わりにグレードランチャーやアサルトライフルなど、その他の銃器を持たせると詩乃より器用に扱うかもしれません。
詩乃は「一発をきっちり当てる」ことに関しては圧倒的に上ですが、ダーク詩乃は使えるものをその場で把握して、銃種を問わず戦い方を組み立てる方が得意です。
なので、《ヘカートⅡ》で純粋な狙撃勝負をさせたら、普通に詩乃が勝ちます。
料理の腕に関しては、詩乃がダーク詩乃に料理を任せたら、意外にも普通に美味しいものが出てきます。
ただし、恐らく詩乃が調味料を計量して、火加減を見て、使い終わった道具を順番に片づけながら作るタイプなのに対して、ダーク詩乃はだいたい目分量です。
味は悪くないですし、むしろたまに詩乃より美味しいものが出来ますが、台所を見ると洗い物が倍くらいあります。
もちろん洗うのは詩乃の仕事です。
勉強については、二人とも使っている脳も記憶も同じなので、本来の頭の良さそのものはほとんど変わりません。
ただ、成績を取らせたら詩乃の方が上です。
ダーク詩乃は興味のないものを真面目に覚える気がなく、数学の公式を覚えろと言われても面倒がります。
字も詩乃の方が綺麗です。ダーク詩乃は書けないわけではありませんが、必要な情報が読めればいいと思っているので、かなり速くて雑。
一方で、服や小物なんかは意外とダーク詩乃の方が興味を持つかもしれません。ダーク詩乃は普段自分の身体を持っていないぶん、一度自由に選ばせると妙なところで凝り始めます。
そして買った後で値段を見た詩乃だけが怒ります。
あと、たぶん二人でボードゲームをするとものすごく仲が悪いです。
お互い相手が何を考えているのか分かりすぎるので。
ダーク詩乃は途中から勝敗そのものより詩乃を苛立たせる方向へ舵を切り、詩乃はそれに気づいて余計に本気になります。
こんな感じで、二人は記憶も知識も感覚もほぼ同じなのですが、何を面白いと思うか、どこへ手間を掛けるか、どの程度までなら雑にやっていいと思うかがそこそこ違います。
そしてダーク詩乃は、何だかんだで詩乃のことをかなりよく見ています。
本人?にそれを言うと絶対に嫌がると思いますが。