囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
午後の日差しが窓から差し込み、紅茶の湯気を金色に染めている。
城の談話室には、焼き菓子の甘い香りが満ちていた。
俺は紅茶を一口啜る。
温かい。落ち着く。
向かいに座るのは、銀髪を短く整えたベータと、水色の髪をツインテールにまとめたイプシロンだ。ベータは青い瞳を細めて焼き菓子を頬張り、イプシロンは背筋を伸ばして優雅にカップを傾けている。
平和だ。
今日は誰も壁を破ってこない。誘拐もされていない。天井も落ちてこない。ただ茶を飲み、菓子を食べるだけの時間だ。
「この焼き菓子、とても美味しいですね」
ベータが口元を緩める。
「ええ。素晴らしい仕上がりですわ」
イプシロンも静かに頷いた。
俺も一つ手に取り、口へ放り込む。さくりと崩れる生地から、バターの風味が広がった。うまい。
「飾りすぎず、素材の良さを生かしています。こういう素朴な味こそ、何度でも食べたくなるものです」
ベータが微笑む。
「けれど、表面の糖衣も絶妙ですわ。手間を惜しまないからこそ、届く味もありますもの」
イプシロンは、なぜか背筋をもう一段伸ばした。
あれ?
さっきまで紅茶と砂糖でできていた空気に、別の何かが混ざった気がする。
「素材そのものを楽しむのが、本来の贅沢では?」
「手を加えて魅力を引き出すことも、立派な技術ですわ」
二人の視線が、俺の顔の上でぶつかった。
「エロゲ様は、どちらがお好きですか?」
「食通でいらっしゃるエロゲ様のご意見、ぜひ伺いたいですわ」
待て。
これは菓子の感想を求める顔ではない。
俺はカップへ手を伸ばし、紅茶を啜って時間を稼いだ。
「香りがいいな。それに、軽い食感だから何個でも食べられそうだ」
「香り、ですか」
ベータの声が、ほんの少し高くなる。
「食感も大切ですわね」
イプシロンの返事は、ほんの少し短い。
二人とも笑顔だ。ただし、俺の肩からは完全に力が抜けなくなった。
「そういえば、エロゲ様」
ベータがスカートのポケットから手帳を取り出す。
「この間の誘拐について、少し伺ってもいいですか?」
「今、この場で?」
先に反応したのはイプシロンだった。
「せっかく落ち着いていらっしゃるのに、また思い出させるおつもり?」
「記憶が鮮明なうちに、残しておくべきこともあります。次に備えるためです」
「まず心を休めていただくことも、次への備えですわ」
ベータのペン先が止まり、イプシロンのカップも止まった。
なるほど。焼き菓子の次は、誘拐された人間への正しい接し方か。
題材が俺でなければ、たいへん有意義な議論だっただろう。
「では、エロゲ様に決めていただきましょう」
ベータが手帳を開く。
「救出されたあと、すぐ事情を聞いてもらうのと――」
「先に温かいお茶で落ち着かせてもらうのと。どちらが助かります?」
イプシロンが言葉を継いだ。
二人の視線が、再び俺の上で交差する。
罠だ。
どちらかを選べば、もう片方の笑顔から温度が消える。かといって「両方」で逃げれば、理由を三つほど求められる顔をしていた。
俺は冷めかけた紅茶を一口飲み、腹を決める。
「助けたあとも、本人の様子を見てくれる人がいいな」
「様子、ですか?」
「すぐ話せそうなら話を聞く。無理そうなら、落ち着くまで待つ。助けて終わりじゃなくて、そのあとどうしているかまで見てくれる。そういう人がいい」
イプシロンの指が、カップの持ち手から離れた。
「それは……私たちのことでしょうか?」
「一般的な話だよ。俺は助ける側に回ることがほとんどないから、される側の希望としてな」
ベータのペンが、手帳の上で止まる。
「でも、今日は二人に助けられた」
ここで止まるな。止まれば、どちらが上かを聞かれる。
「ベータは前に話したことまで覚えていて、俺が話しやすいようにしてくれた。イプシロンはカップを温め直して、落ち着けるようにしてくれた。やり方は違っても、どっちもありがたかったよ」
ベータは手帳を閉じ、膝の上で両手を重ねた。イプシロンは一度だけ瞬きをしてから、静かに微笑む。
「……覚えていてくださったのですね」
「私は、カップを温め直しただけですわ」
「それが助かったんだよ。冷めていたら、こんなに話せなかった」
「まあ」
イプシロンが口元を手で覆う。ベータもわずかに目を伏せた。
先ほどまで張り詰めていた空気が、ようやく紅茶一杯分ほど緩む。
「エロゲ様。次の茶会も、私がお菓子を選んでいいですか?」
「え? ああ、いいけど」
「では、私はお茶を淹れますわ」
イプシロンがすかさず続く。
「前回は私が菓子を持ち込みましたから、次は私が茶葉を選ぶ番です」
「別に順番なんてないだろ」
「あります」
「ありますわ」
そこだけ息ぴったりかよ。
俺は残りの紅茶を飲み干した。
「で、次の茶会はいつなんだ?」
「三日後です」
「明後日ですわ」
「どっちだよ」
二人は顔を見合わせ、同時に俺へ向き直る。
「三日後です」
「明後日ですわ」
「同じことを繰り返すな」
ベータが手帳を開き、イプシロンが予定を確かめるように指を折る。
「では、明後日のお茶会で三日後の予定を決めましょう」
「それがよろしいですわね」
「増えてる!」
俺の抗議をよそに、ベータは手帳へ予定を書き込み、イプシロンは茶葉の候補を数え始めた。
今日はまだ、壁も天井も壊れていない。
ただし、俺の予定だけは例外だった。