第201話 砕けた盾
「その腕も、本を手に入れてからですか」
鬼太郎が尋ねると、ヴェインは大きな手を握った。
指の間で、机から剥がれた木片が砕ける。
「これが、どうした」
「ずいぶん、扱いが変わったでしょう」
ヴェインは答えず、鬼太郎の背後を見た。残った扉と、その横の通路。その目が黒檀へ戻った時、鬼太郎は鞄を脇へ寄せた。
「外にいる連中のことは聞いた。お前も、同じだろう」
「本を返していただければ、ここで戦う必要はありませんよ」
「俺を元へ戻して、取り上げる気か」
男は口の端を引いた。
「誰が、戻るものか」
背後の机から、身体が離れた。
巨大な腕が持ち上がる。
鬼太郎は黒檀を左手へ渡し、右腰からケストレルを抜いた。銃口を持ち上げる途中で、男の足が床を蹴る。
鬼太郎の方が、先に撃った。
胸へ一発。
上体が揺れた。だが、足は止まらない。
二発目は、こちらへ伸びる腕へ当たった。
厚い皮膚が裂け、小さく血が飛ぶ。それだけだった。鬼太郎へ向かう手は開いたまま、その指が顔の高さへ迫る。
鬼太郎は身体を沈め、横へ抜けた。
背後で、幹が爆ぜた。
入口脇に生えていた木を、男の腕が打ち砕いていた。頬のすぐ横を樹皮と木片が飛び、拳は幹を割った勢いのまま、後ろのコンクリートの壁へぶつかった。
葉のついた枝が、鬼太郎の背後へ落ちる。鬼太郎は張り出した根を跨ぎ、その外へ足を置いた。
鬼太郎は二歩離れた。
胸に当てた一発も、身体の奥までは届いていない。裂けた服の下に、浅く潰れた傷が見えた。
銃が通り抜ける相手ではない。
それでも、効きが悪い。
鬼太郎は銃を右腰へ収め、黒檀を右手へ戻した。
ヴェインが、壁から手を離す。
「それだけか」
「いえ。まだ、あります」
鬼太郎は左手を空けたまま、机から離れる方へ動いた。
男が追ってくるのを確かめ、柱と木々の間へ入る。狭い通路であの腕を避け続けるつもりはなかった。ここなら、横へ抜ける場所がある。
ただし、相手が思ったより速い。身体が大きくなった分だけ動きが鈍いと考えていれば、最初の一撃を受けていただろう。
本を置いた机は、男の背後へ遠ざかっていった。
◆
鬼太郎が柱のそばへ来た時、ヴェインの小さい方の手が上がった。
杖は握っていない。
その掌へ、火が生まれた。
「アギ!」
鬼太郎は横へ踏み出した。
火球が肩の外を抜け、後ろの床へ当たる。炎がほどけ、コンクリートへ散った枯れ葉の端を焦がした。
同じだ。
鬼太郎は男の手を見た。
掌へ火を作り、こちらを狙って放つ。呪文の名も、炎の広がり方も、自分の知っているものだった。
「あなたも、使うのですね」
ヴェインは返事の代わりに、もう一度手を向けた。
鬼太郎はその先から外れる。火が通った直後、巨大な腕が横から来た。
爪先を返し、根の出ていない床を選んで、柱の向こうへ身体を滑り込ませる。
指が柱の表面を削った。
鬼太郎は屑の落ちる所から離れ、左掌を向けた。
「アギ」
火が、ヴェインの肩へ届いた。
裂けた袖が燃える。男は顔を歪めたが、腕を振って炎を払い、そのまま踏み込んできた。
今度は下からだった。
男は、肩の火へ目を奪われなかった。こちらが当てたと思って立ち止まれば、そのまま腕に掬われていた。
鬼太郎は後ろへ跳んだ。拳が床を掬い、足のあった場所を欠き取る。飛んだ破片を避け、もう一歩だけ離れた。
火を放てば、その後に腕が来る。
避けた先を見てから、殴っていた。
鬼太郎は左掌へ力を寄せた。男が腕を引き戻す間に、火の中心を作ろうとする。
ヴェインの目が、その手へ動いた。
「アギ!」
鬼太郎は力をまとめるのをやめ、柱の外へ足を運んだ。
火球が柱を打った。熱が顔の横を抜け、鞄の端へ煤がつく。
その陰へ留まるより先に、鬼太郎はまた動いた。
男は大きな歩幅で追ってくる。
ここで待てば、次も火が来る。腕を避けて少し離れるだけでは、強い火を作る時間まで残らなかった。
鬼太郎の口元が、僅かに上がった。
こちらがしてきたことを、向こうもしてくる。
術を放とうとする手を見て、その前に動く。避けさせて、次の一撃へつなぐ。
鬼太郎は左手を下げた。
ヴェインは、その掌を睨んだ。
「お前も、持っているのか」
「何をです?」
男は答えなかった。大きな腕を前へ置き、小さい方の掌をこちらへ向ける。
鬼太郎も、その指を見た。
同じ術でも、放てるまでの間は同じではない。こちらへ掌が向き切る前に柱を挟むと、ヴェインは舌打ちして足を動かした。
鬼太郎が柱の端から左手を覗かせるだけで、男の視線もそちらへ動く。鬼太郎は火を作らず、逆側へ抜けた。
追ってきた男が、ようやく笑った。
「逃げているだけじゃ、取れんぞ」
「よく、見ていらっしゃいますね」
鬼太郎は机の方へは向かわず、別の柱へ寄った。
男が追う。
その腕を避け、横へ抜ける。柱が間に入る一瞬に、鬼太郎は次に足を置く所を見た。
まだ、根と瓦礫の間に、足を置ける床が残っている。
退けるうちに、相手が追う時の動きを見る。
そうして何度目かに身体を外した時、ヴェインが足を止めた。
小さい方の手が、胸元へ向く。
「タルカジャ」
知らない術の名だった。
鬼太郎は、すぐには近づかなかった。男の肩と足を見る。身体の大きさは変わらず、新しい武器も現れない。
ヴェインが、拳を握った。
そのまま鬼太郎へ向かってくる。
鬼太郎は柱の横を抜けた。
拳が、柱へ当たった。
先ほどより、深い音がした。
表面を削るだけでは済まなかった。男の腕が柱の角を砕き、拳ほどの塊が幾つも床へ落ちる。
鬼太郎は振り向きかけ、すぐに顔を戻した。
ヴェインの手が、その塊を掴んでいる。
肩が、大きく後ろへ引かれた。
鬼太郎は、まだ柱へ隠れられる場所にいなかった。
手が開いた。
幾つもの破片が、広がって飛んできた。
右へ退いても、その先にある。左へ動いても、別の塊が来る。
鬼太郎は足を引きながら、黒檀を前へ振った。
「プロテゴ!」
半透明の円が、目の前へ現れた。
縁が光り、その向こうに、迫る破片が見える。
最初の一つが当たり、表面へ波紋が走った。
鬼太郎は右腕を支えた。
次が来る。
円の端が揺れ、光が乱れた。
三つ目の塊が打ちつけられた時、盾は砕けた。
右肩へ、硬いものが当たった。
息が詰まる。
脇腹にも熱い痛みが走り、鬼太郎は身体を捻りながら倒れ込んだ。頬の前を別の破片が抜け、後ろの壁へぶつかる。
鬼太郎は床へ左手をついた。
黒檀は、離していない。
膝を引き寄せ、近くの柱の陰へ転がる。続いて飛んだ屑が、その角を叩いた。
上着の内側が、濡れていた。
◆
鬼太郎は右手を柱の向こうへ向けたまま、左掌を脇腹へ当てた。
服の裂け目から指を差し入れ、傷へ触れる。
「ディア」
皮膚の裂けた所へ力を流した。
肩も痛む。だが、まずは、こちらだった。
掌の下で血が止まり、傷の縁が寄ってくる。痛みが引く間にも、向こうで破片を踏む音がした。
ヴェインは、待ってくれなかった。
鬼太郎は左手を右の肩へ滑らせた。襟の下へ指を入れ、裂けた皮膚へ触れる。
「ディア」
足音が近づく。
治りかけた傷へもう少し力を流し、腕を動かせる所で手を離した。
柱の端から、大きな指が見えた。
鬼太郎は反対側へ抜けた。
拳が柱を叩き、背後へ屑が降る。さっきまで座っていた所へ、塊が落ちた。
鬼太郎は半歩だけ足を乱し、持ち直した。
盾は、練習していた。
校長に見せてもらった後、まずは前に形を作る所から始めた。光の縁が揃うようになっても、保とうとすると端が薄れた。出来たと思って杖へ意識を戻した途端、消えたこともある。
練習する時間が、足りていなかった。
中庭で、自分の前へ出した時には、物を当てて割られたわけではない。形を保つだけでも気を取られた。それを、飛んでくる破片へ向けたまま支え続けるには、まだ手が追いつかなかった。
分かっていた。それでも、あの広がりを走って抜けるには遅すぎた。
出した盾は、一部を受けた。
だが、全部は防げなかった。
鬼太郎は濡れた上着を脇から離した。
傷は塞いでも、失った血までは戻らない。二度使った治療の分も、身体の内側へ残っている。
ヴェインの手が、また床へ下りた。
鬼太郎は横へ走った。
今度は腕が上がる前に、コンクリートの柱を間へ入れる。砕けた石が、その向こうで弾け、近くの枝葉が大きく揺れた。
足を止めなかった。
同じ場所へ隠れたままでいれば、柱ごと殴られる。
鬼太郎は息を吐いた。
笑いが、喉の奥へ上がってきた。
グロブニクさんも、痛い目には遭わせてくれた。
あの爪も、牙も、動きの遅れた自分を待ってはくれなかった。だが、手合わせには終わりがあった。倒れた後も、殺すために首へ牙を立てられることはなかった。
今の相手は違う。
傷を治している場所へ来た。立て直す前に殴り、逃げれば、その先へ火を放とうとしている。
次に倒れれば、もう起きられないかもしれなかった。
だから、手が速くなる。
使い終えた掌を、そのまま下げておく暇がない。杖を戻す時には次の足場を見ている。考えてから直していた動きが、今は一つ遅れるだけで命に届く。
それが、楽しかった。
鬼太郎は笑みを隠さず、柱の外へ出た。
「まだ、動くのか」
ヴェインが言った。
鬼太郎は黒檀を構え直した。
「ええ。今、よくなってきたところです」
男の顔が歪んだ。
鬼太郎はその手を見た。火か、破片か、拳か。
どれが来ても同じように退くのは、もうやめた。
◆
机は、離れた所にあった。
鬼太郎はその反対側へ、少しずつ場所を移していた。柱の途切れた先にコンクリートの壁がある。木々はその両脇へ寄り、手前には根も大きな破片もない床が残っていた。
ヴェインは、本から遠ざかる鬼太郎を追った。
今は、それを気にしていないらしい。
こちらを殴ることへ、目が向いている。
鬼太郎は壁へ寄りすぎない所で、足を緩めた。
ヴェインの小さい方の手が上がる。
「アギ!」
火球が、鬼太郎の左へ飛んだ。
そちらへ逃げれば、炎を浴びる。
鬼太郎は反対へ動きかけ、足を戻した。
男の身体が前へ傾いた。
巨大な腕が引かれる。
鬼太郎は左掌を下へ向けた。
「ブフ」
冷気が、男の踏み込む床を白くした。
鬼太郎は自分の足元まで凍らせず、壁に沿って横へ動く。
大きな足が氷へ乗った。
ヴェインの腰が流れる。それでも、腕は止まらなかった。振り出した拳が、鬼太郎のいた所へ伸びる。
鬼太郎は、その外へ身体を捻った。
風圧が髪を打った。
壁が、低く鳴った。
拳が、深く食い込んでいる。
鬼太郎は逃げ続けなかった。
男の肩の横で足を止める。顔が、手を伸ばせば届くほど近い。
ヴェインは腕を引きながら、こちらへ向き直ろうとした。
鬼太郎は右の黒檀を、その顔へ向けた。
「ペトリフィカス・トタルス」
頬へ呪文が届いた。
男の顎が止まる。
だが、身体までは止まらなかった。肩が動き、大きな腕が壁の中で軋む。顔も、僅かずつこちらへ戻り始めていた。
鬼太郎の左掌は、すでに上がっていた。
「ジオ」
顔へ、雷を放った。
ヴェインの歯が鳴った。
腕を引く動きが途切れ、喉から詰まった声が漏れる。
ザントマンほどではない。
指は動いている。小さい方の腕も、こちらへ持ち上がろうとしていた。
鬼太郎は、その腕の正面から半歩外れた。
大きく離れれば、また火を作る時間を与える。近すぎれば、腕が抜けた瞬間に殴られる。鬼太郎は男の肩と壁の間を見て、身体を斜めに置いた。
男が腕を引く方向には立たない。その脇から、胸へ手を向けられる所に留まった。
左掌の先へ、力を集める。
火を、大きく広げない。
中心へ寄せ、放った後にも残る芯を作る。
男の目が、そちらを見た。
壁が、また鳴った。
巨大な拳の周りで、新しいひびが走る。
鬼太郎は、火を保った。
ヴェインの小さい方の手が、こちらへ向く。
唇が動き、息とともに声が出かけた。
鬼太郎は、その胸元へ掌を向け切った。
「アギラオ」
火球が、近い距離を抜けた。
胸へ届き、炎がほどけた。
最初に肩へ当てた火とは違った。服の表面で散らず、中心から深い熱が入り、胸と喉を包み込む。
ヴェインの声が、悲鳴へ変わった。
腕が壁から抜ける。
鬼太郎はすぐに身体を引いた。大きな手が前へ振られたが、こちらを掴む前に床へ落ちた。
膝が折れる。
ヴェインは、もう一方の手を伸ばした。
鬼太郎ではなく、机のある方へ。
唇は動いたが、言葉にはならなかった。
身体が横へ崩れ、床を打った。
◆
鬼太郎は、すぐには近づかなかった。
右の黒檀を向け、空いた左手も下げずに待つ。
炎が弱まっていった。
床へついた指は、もう動かない。肩も、胸も、呼吸では上下していなかった。
鬼太郎は場所を変え、横から顔を確かめた。
見開いた目が、こちらを追うことはなかった。
そこでようやく、息を吐いた。
深く吸い直すと、胸の内側まで重かった。左腕を下げると、掌へ残っていた熱が遅れて分かる。
もう一度、同じことを続ける余裕はなかった。
鬼太郎は壁へ寄りかけ、やめた。腰を下ろせば、しばらく立ちたくなくなりそうだった。
足を動かす。
まだ、歩ける。
肩へ手を触れると、服だけが破れたまま残っていた。濡れた布と、傷の塞がった皮膚を指で確かめる。
盾は、もっと練習する必要がある。
火を強くするだけでなく、その時間を作ることも。
鬼太郎は砕けた壁を見た。
その脇では、枝の影がコンクリートへ落ちていた。焦げた葉と、入口の方で折れた幹。その間を抜けてきた道が、瓦礫の向こうへ続いている。
最後まで踏み止まった自分の足を、もう一度確かめた。
笑みは、まだ残っていた。
机の上には、本がある。
鬼太郎はそこへ手を伸ばさず、倒れた男との間を大きく空けて入口へ向かった。
今は、外へ知らせる。
黒檀を右手に持ち直し、来た通路へ足を踏み出した。