狙われた歌姫を守れ!
### 第一章:黒の掲示板と、新宿からの風
東京の夜風には、いつもわずかに焦げた油と、人ごみの熱気が混じっている。
毛利探偵事務所の二階。夕闇が迫るオフィスの中で、毛利小五郎は煙草の煙をくゆらせながら、窓の外を所在なさげに眺めていた。テレビからはニュースキャスターの沈んだ声が流れている。
『――本日午後二時ごろ、都内にある東都総合病院の主任医師、吉岡達也さんが病院内の研究室で刺殺されているのが発見されました。現場には不可解なメモが残されており、警視庁は殺人事件として捜査本部を設置……』
「ちっ、世物騒な事件ばかりだな」
小五郎が吐き出した煙を、毛利蘭が「ちょっとお父さん、部屋が煙たいでしょ!」とパタパタと下敷きで追い払う。その傍らで、江戸川コナンはソファに腰掛け、小さな手で顎を触りながらテレビの画面を凝視していた。
(現場に残されたメモ……『あの時の恥をぬぐってもらう』か。突発的な怨恨か、それとも緻密に計画された復讐劇か……)
コナンが思案を巡らせていたその時、事務所の階段を重い足音が上ってきた。ドアが力強く叩かれる間もなく、ノックに応じる暇さえ与えずに開く。
「失礼するよ、毛利君」
入ってきたのは、初老だが凛とした佇まいを見せる男――日本クラシック界の巨匠としてその名を知られる指揮者、神崎茂だった。そしてその背後に、深く帽子をかぶり、怯えたように肩をすぼめた一人の女性が立っている。
「神崎先生……!? それに、そちらのお方は……」
蘭が目を見開く。帽子を少し持ち上げた女性の顔を見て、蘭は息をのんだ。
「佐々木……音羽さん!?」
佐々木音羽。かつて「奇跡のソプラノ」と称されながらも突然表舞台から姿を消し、つい最近、奇跡的な復讐劇とともにクラシック界へ劇的な復帰を果たした、今最も時の人である歌姫だった。
「毛利探偵ですね。実は……切実な相談があって参りました」
神崎が重々しく語り始める。
音羽の元には、ここ数日「必ず殺す」「お前の歌声は血で染まる」といった凄惨な脅迫状が何通も届いていた。それだけではない。来週に迫った復帰記念リサイタルのリハーサル会場周辺では、機材が何者かによって破壊され、音羽の乗るタクシーが不審なトラックに追突されかけるという実害まで出ていた。
「警察にも相談したのですが、現段階では決定的な証拠がないと、本格的な警備体制を組んでくれないのです……。このままでは、音羽の命が……」
神崎が苦渋に満ちた表情で語る横で、音羽は痛々しく唇を噛みしめていた。
小五郎は煙草を灰皿に押し付けると、腕を組んでうーんと唸った。
「うーん、犯人の目星はついておられるんですか? 例えば……音羽さんの過去に関係する人物とか」
その問いに、音羽はか細い声で答えた。
「はい……おそらく、私の元夫の家族……特に、元義妹の美香(みか)だと思います」
音羽が語ったその過去は、惨憺たるものだった。
10年前、喉の不調と結婚を機に音楽界を引退した音羽。しかし、嫁いだ先の家族――身勝手な元夫、高圧的な元義母、そして自らも音大を出ながら才能に恵まれず音羽を激しく嫉妬していた元義妹の三人は、音羽を単なる「タダで使える家政婦」として扱い、冷酷な冷遇と精神的な虐待を繰り返してきた。
しかし、音羽はただ耐えていたわけではなかった。自分の声を殺し、爪を隠し、血の滲むような発声練習を密かに続けながら、虎視眈々とチャンスを狙っていたのだ。
転機は半年前、元義母の盛大な還暦パーティー。
音楽界の重鎮である神崎も招かれていたその席上で、義家族は音羽を皆の前で侮辱し、雑用を押し付けようとした。その瞬間、音羽は隠し続けていた圧巻の歌声を披露したのだ。その美声はパーティー会場を静まり返らせ、臨席していた神崎を狂喜させた。
神崎の一声により、音楽界にコネを持とうとしていた義家族は完全にクラシック界から追放された。さらに音羽はその場で弁護士を通じた完璧な離婚届と、義家族が勝手に作っていた音羽名義の巨額の借金の証拠を突きつけ、義家族を社会的に叩き潰したのだった。
「自業自得……とはいえ、彼らは私を恨んでいるはずです。離婚後、元夫と元義母は借金に追われ、落ちぶれて古いアパート暮らしになり……元義妹の美香は『お前のせいで私の人生は滅茶苦茶だ』と捨て台詞を残して姿を消しました。吉岡さんというお医者様が亡くなったニュースを見ましたが……吉岡さんは、当時私が義家族のストレスで倒れた時、彼らに買収されて私に偽の診断書を書き、『お前はもう二度と歌えない』と絶望させた医師なのです」
「なに……!? じゃあ、その病院の殺人事件と、今回の脅迫は繋がっている……!?」
コナンの目が鋭く光る。現場に残されたメモ『あの時の恥をぬぐってもらう』――それは、還暦パーティーで完璧に社会的抹殺を食らった義家族の、恨みの言葉そのものではないか。
「恐らく美香は、関係者を順番に血祭りにあげた上で、最後に私を殺すつもりなんです……!」
震える音羽の肩を、蘭が優しく抱きしめる。
小五郎は立ち上がると、深く帽子をかぶり直した。その顔には、いつものだらしない表情はなく、刑事時代の鋭い光が宿っていた。
「なるほどな……相手はなりふり構わん殺人鬼だ。俺一人と警察の警護じゃ、穴が出るかもしれん」
「えっ、お父さん?」
「蘭、コナン。今すぐ新宿駅の東口へ行け。あそこの伝言板に……文字を書くんだ」
「伝言板……? 何て書くの、おじさん?」
コナンが尋ねると、小五郎はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「我が事務所の連絡先と……『XYZ』だ。それだけでいい」
「エックス……ワイ……ゼット……?」
蘭が首をかしげる。
「いいから行け! アイツらなら……あの男なら、必ず食いつく」
数時間後。
すっかり夜の闇に包まれた毛利探偵事務所。
突然、事務所のドアがガチャリと音を立てて開いた。
「やあやあ毛利! 久しぶりじゃないか! 命からがら助けを求める美人のSOSを聞きつけて、このシティーハンター・冴羽獠様が参上したぜぇ――っ!」
「ちょっと獠! 落ち着きなさいよ!」
すさまじいテンションで飛び込んできたのは、長い足にトレンチコートを羽織った背の高い男――冴羽獠。そしてその背後から、大きな100tハンマー(のように見える殺気)を抱えた短髪の美女、槇村香が怒鳴りながら入ってきた。
「げっ……本当に出てきやがったな、スケベトカゲ」
小五郎が呆れたように吐き捨てる。
「なんだとぉ!? 相変わらず口の減らない元刑事だな! それより毛利、依頼人の『極上のソプラノ美女』はどこだ!? 俺の『もっこりリクエスト』に応えてくれる天使はどこにいるんだーっ!?」
獠は目にも留まらないスピードでソファに座る佐々木音羽の元へ滑り込み、その手を握りしめて顔を近づけた。
「あぁっ! なんという気品! なんという美しさ! 音羽さん、あなたのガードなら24時間、いや365日、ベッドの上から密着搬送までこの冴羽獠にお任せを――」
ガツーン!!!!
「だーかーらー! 依頼人の前で変態行為をするなーっ!」
香の振り下ろした巨大ハンマー(の幻影を伴う拳)が獠の頭に炸裂し、獠は床に激しく叩きつけられた。
「痛ぇぇぇ!? 香、お前は相変わらず容赦というものを……」
「当たり前でしょ! 毛利さん、すみません、うちのバカが」
「いや……相変わらずのバカっぷりで安心したよ、冴羽」
小五郎は苦笑しながら、煙草に火をつけた。
コナンはそのやり取りを呆然と見つめていた。
(なんだこの人たち……? シティーハンター……? おじさんの昔の知り合い……?)
「コナン君、驚いたでしょ?」
蘭が小コナンの耳元で囁く。
「お父さんね、警視庁の刑事だった頃、裏社会の危険な事件でこの冴羽さんたちと何度か協力したことがあるらしいの。表の警察じゃ動けない事件を解決する、裏社会の凄腕スナイパーなんだって」
(裏世界のプロ……スナイパー……!?)
コナンは目の前で「もっこり~」と鼻下を伸ばして香にボコボコにされている男を二度見した。とてもそんな凄腕には見えないが、ふとした瞬間に見せる冴羽獠の「目」――一瞬だけ闇を射抜くような冷徹な眼光に、コナンは息をのんだ。本物だ。この男、タダ者じゃない。
「で? 毛利、話は聞かせてもらったぜ」
タンコブを作った獠が、急にシリアスな低い声に切り替える。そのギャップに、部屋の空気がピンと張り詰めた。
「ターゲットは佐々木音羽さん。脅迫者は彼女の元義妹、美香。そしてすでに一人、かつて彼女をハメた悪徳医師が消されている……そういうことだな?」
「ああ。警察も動き出したが、犯人の潜伏先すら掴めていない。来週のリサイタル本番まで、音羽さんの身の安全を完全に保障してほしい」
「ふん……まあ、美人の頼みじゃ断る理由もないがね」
獠はジャケットの内ポケットから愛用の「コルト・パイソン .357マグナム」を覗かせ、ニ命を吹き込むようにニヤリと笑った。
「その代わり毛利、俺の報酬は音羽さんのプライベートリサイタルと、一晩の……」
ガツーン!!(二度目のハンマー)
「報酬はちゃんともらうわよ! 毛利さん、任せて!」香が胸を叩く。
こうして、名探偵とシティーハンターという前代未聞の共同戦線が結成されたのだった。
### 第二章:錦糸町のリコリスと、落ちた影
同じ頃、東京都墨田区錦糸町。
賑やかな下町の路地裏にひっそりと佇む和風喫茶「喫茶リコリコ」。
店内には和服姿の可愛らしい店員たちが働き、甘味の甘い香りが漂っている。
「いらっしゃいませー! あ、目暮警部! 今日はパフェですか? それとも特製和風ハンバーグ?」
看板娘の錦木千束(にしきぎ ちさと)が、丸い顔を崩して元気いっぱいに声をかけた。カウンターの奥では、クールな黒髪の少女、井ノ上たきなが黙々と湯呑みを拭いている。
「うむ……千束くん。今日は客として来たわけではないのだよ」
渋い顔で入ってきたのは、警視庁捜査一課の目暮十三警部であった。その後ろには高木刑事も控えている。目暮警部はカウンター席に腰掛けると、店主であるミカに深く一礼した。
「ミカさん……『DA(ダイレクト・アタック)』の上層部からの許可は得ておる。実は、警視庁だけでは手に負えない懸念事項がありましてな」
千束とたきなの表情から、一瞬で「給仕の顔」が消えた。
彼女たちの真の姿は、日本の治安を裏で守る秘密組織「DA」の最強のエージェント――『リコリス』である。
「例の、東都総合病院の主任医師殺人事件ですか?」
たきなが冷徹な声で尋ねる。
「そうだ。殺された吉岡医師の周囲を調べていたところ、非常に厄介な事実が判明した。現場に残されていたメッセージ……そして、犯行に使われた毒物と残虐な手口。あれは単なる素人の突発的な犯行ではない。……裏社会で『闇の仕置人』や『毒殺魔』雇い入れ、怨恨を晴らす手助けをする狂言組織が関わっている可能性がある」
「そして次のターゲットが……歌手の佐々木音羽さん、ですね?」
千束が真顔になり、顎に指をあてる。
「うむ。佐々木音羽氏の元義家族――元夫と元義母の二人は、本日夕刻、都内の倒壊寸前のアパートで『遺体』となって発見された」
「えっ! 亡くなってたんですか!?」千束が目を見開く。
「ああ……自死だ。巨額の借金苦と、社会からの孤立に耐えかね、二人で首を吊っていた。遺書には音羽氏への呪詛の言葉が書き殴られていたよ。しかし……問題は三人目だ。元義妹の『美香』だけが、跡形もなく消えている」
目暮警部は重々しく言葉を続けた。
「家族を失い、借金を背負い、復讐のためだけに生きる亡霊となった美香。彼女は自らの手で吉岡医師を殺し、家族を絶望に追いやった佐々木音羽を殺そうとしている。だが……美香一人の力で、これほど用意周到な潜伏や武器の調達ができるはずがない。背景に『協力者』がいる。……リコリスの力で、彼女の潜伏先を特定し、リサイタル当日のテロを防いでほしいのだ」
ミカが静かに珈琲を淹れながら言った。
「警部……うちの子たちを危険な裏の泥沼に引き引き込む以上、タダというわけにはいきませんよ」
「分かっておる。捜査本部の特別顧問としての報酬と……千束くんの大好きな『限定いちご大福』を箱で用意しよう」
「よっしゃー! 決まり! たきな、出動だよ!」
「千束……食べ物に釣られすぎです。ですが、無辜の市民、そして依頼人を守るのが私たちの任務。了解しました」
千束は赤いリボンをキュッと結び直し、不敵で愛らしい笑顔を浮かべた。
「音羽さんの素敵な歌声、絶対に邪魔させないんだから!」
### 第三章:交錯する思惑、前夜の狂騒
翌日。毛利探偵事務所。
事務所はカオスと化していた。
「ちょっと獠! どこ触ってんのよこのエロオヤジ!」
「痛い痛い痛い! 香、耳を引っ張るな! 俺は音羽さんのボディラインを計測して、防弾チョッキの採寸を……ギャーッ!」
「あの……みなさん、本当に大丈夫でしょうか……?」
佐々木音羽が引きつった笑顔で冷や汗をかいている。
その横で、コナンは一人、事件の資料を広げて思索に耽っていた。
(元夫と元義母の自殺……そして姿を消した元義妹・美香。美香の復讐動機は完璧だ。だが、どうやってあの吉岡医師の厳重な研究室に侵入した? 警備システムを解除する技術や、特殊な毒物の入手経路……美香一人のスペックじゃ不可能だ。誰かが美香を利用している……?)
トントン、と軽快な足音が階段を上ってきた。
ドアが開き、入ってきたのは――可愛らしい制服姿の千束とたきな、そして目暮警部と高木刑事だった。
「やあ、毛利君! 進捗はどうだね――って、なんだねその男は!?」
目暮警部が、ソファで香に踏みつけられている冴羽獠を見て目を丸くする。
「む? ……むむっ!? お前は……冴羽!? 冴羽獠じゃないか! なぜお前がここに!?」
「やあやあ目暮のタヌキオヤジ! 相変わらず腹が出てるな!」
「ナ、ナンタルチア! 相変わらず無礼な奴だ! こいつは昔から捜査の邪魔ばかりしおって……!」
「へえ……おじさんたち、知り合いなんだ?」千束が興味津々で獠を覗き込む。
獠もまた、千束とたきなを見た瞬間、目つきが変わった。
(……ほう。ただの女子高生じゃないな。足運び、無駄のない重心移動……『DA』の幼き殺人兵器、リコリスか)
千束もまた、獠の纏う「圧倒的な死線を潜り抜けた者の気配」を感じ取り、背筋をゾクッとさせた。
(この人……強い。今まで会った誰よりも……危険で、優しい匂いがする)
「みんな揃ったみたいだな」
小五郎が咳払いをして全員の注目を集める。
「状況を整理しよう。犯人は元義妹の美香で間違いない。彼女はすでに吉岡医師を殺害。そして残されたターゲットは二人……佐々木音羽さんと、彼女をクラシック界に引き戻した巨匠・神崎茂先生だ」
「神崎先生も!?」蘭が悲鳴をあげる。
「そうだ」たきなが端末を操作し、モニターに画像を映し出した。
「美香の潜伏先をDAのネットワークで追跡しましたが、彼女は『コード:ナイトメア』と呼ばれる裏社会のブローカーと接触した形跡があります。彼は絶望した人間に武器や毒を与え、凄惨な事件を起こさせることで快楽を得る劇場型犯罪の黒幕です。美香は彼から『爆薬』と『軍用シアン化合物』を入手した模様です」
「爆薬と毒……!?」高木刑事が青ざめる。
「つまり……犯行声明のあった明日の復帰リサイタル。会場である『東都音楽ホール』全体が標的になる可能性が高いわ」香が表情を曇らせる。
「くそっ……なんて奴だ!」小五郎が拳を机に叩きつける。
しかし、当の佐々木音羽は、静かに立ち上がった。その瞳には、逃れられない運命に立ち向かう強い光が宿っていた。
「みなさん……私を護衛してくださり、本当にありがとうございます。ですが、リサイタルを中止にする気はありません」
「音羽さん! 危険です!」蘭が叫ぶ。
「いいえ、蘭さん。私は10年間、声を奪われ、存在を否定され、暗闇の中で生きてきました。あの地獄から私を救ってくれたのは、音楽と、神崎先生の差し伸べていた手でした。もしここで脅迫に屈して歌うのをやめれば……私はまた、あの暗闇に引き戻されてしまう。美香が私を殺しに来るというなら……私はステージの上で、歌いながら彼女を待ちます」
その言葉に、事務所の中が静まり返った。
「……ハッ! いい度胸だ」
獠がニヤリと笑い、煙草に火をつけた。
「気に入ったぜ、音羽さん。あんたの歌声、特等席で聴かせてもらう。ネズミ一匹、あんたのドレスに触れさせやしないよ」
「私も! 絶対に守ってみせます! リコリスの誇りにかけて!」千束が力強く胸をたたいた。
「ボクも……影からサポートさせてもらうよ。絶対に、誰ひとり死なせない」コナンもまた、メガネのブリッジを押し上げながら不敵に呟いた。
名探偵、シティーハンター、そしてリコリス。
絶対に相容れないはずの三つの力が、一人の歌姫を守るために今、一つに重なった。
### 第四章:惨劇のオペラ座、開幕のベル
翌日。夕暮れ時。
満員御礼の「東都音楽ホール」。
豪華絢爛な照明が照らし出すステージの裏側では、目に見えない緊迫した攻防が繰り広げられていた。
「こちら千束! ホール2階の監視完了! 怪しい影はナシ!」
「こちらたきな。地下搬入口および舞台裏の警備体制、異常ありません」
通信機から届く声を聞きながら、コナンはホールの天井近くにあるキャットウォーク(作業用キャットウォーク)を走り回っていた。その目には自作の追跡メガネが光っている。
(おかしい……静かすぎる。美香が本気で音羽さんを殺すつもりなら、もう何か仕掛けてきてもいいはずだ。まさか……警備の裏をかく別のルートが?)
その頃、楽屋裏の暗がり。
一人で出番を待つ神崎茂の元に、黒いフードをかぶった影が忍び寄っていた。
「誰だ!?」神崎が振り返った瞬間――
シュッと冷たい金属音が響き、神崎の首筋に注射針が突き刺さった。
「ガハッ……!? あ、お前は……美香……!?」
フードを外した女――激しく痩せこけ、目の周りに色濃い隈を浮かべた美香が、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。
「久しぶりね、巨匠……。お前が……お前があのパーティーで音羽の味方さえしなければ! 私たちの家族は壊れなかった! お母さんも、お兄ちゃんも死なずにすんだのよ!!」
「くっ……バカな……自業自得だ……」
「黙れ!! まずはお前から苦しんで死ね! 音羽がステージに立つ前に、お前の死体を吊るしてやる!!」
美香がナイフを振り上げた、その時――!
**バァン!!**
猛烈な衝撃とともに、楽屋のドアが吹き飛んだ!
「そこまでだ、お姉さん!」
赤い制服をひるがえし、躍り込んできたのは錦木千束だった!
「なっ……何奴!?」
美香が振り下ろしたナイフを、千束は信じられないようなスピードで紙一重でかわす! 実弾すら見切る千束の「超人的な回避能力」の前に、美香の刺突はすべて空を切った。
「たきな! 神崎先生を確保して! 毒を打たれてる!」
「了解!」
影から飛び出したたきなが、素早く美香の腕をひねり上げ、腕を関節技で固める!
「くっ……離せ! 離しなさいよ! 私は音羽を殺すの! あいつを絶望の底に叩き落とすのよぉぉぉ!」
狂乱して暴れる美香。
「やった……捕まえた!」高木刑事たちが踏み込んできて、美香に手錠をかける。
「ふう……なんとか間に合ったね!」千束が笑顔で汗を拭った。
しかし――コナンだけは、通信機越しにその報告を聞いて、激しい違和感に襲われていた。
(待て……早すぎる。DAの追跡があったとはいえ、あまりにもあっさり捕まりすぎだ。美香は爆薬を持っていたはずだぞ!? どこに設置した!? それに……あの『コード:ナイトメア』というブローカーが、こんな簡単に終わる筋書きを描くか……!?)
コナンは青ざめた。
(まさか……犯人は、美香一人じゃない……!?)
### 第五章:暗転、そして地獄の開幕
**「まもなく、佐々木音羽復帰リサイタルが開演いたします――」**
観客席の照明が落とされ、大きな拍手とともに、スポットライトがステージ中央を照らし出した。
純白のドレスに身を包んだ佐々木音羽が、ゆっくりとステージに歩み出てくる。その姿は美しく、神々しくさえあった。
観客席の最前列で見守る蘭と小五郎。
2階席の陰からスナイパーライフルを警戒する冴羽獠。
ステージ袖で見守る千束とたきな。
「美香は捕まった……もう大丈夫だ」小五郎が胸を撫でおろす。
しかし、ピアノの前奏が始まり、音羽が息を吸い込み、その第一声を空気に放とうとした――その瞬間。
**ドォォォォン!!!!**
ホール全体を揺るがす凄まじい爆発音が、地下から響き渡った!
「キャァァァァァーッ!?」
「火事だ! 爆発だーっ!」
悲鳴と狂乱がホールを包み込む! 照明が消え、非常用ライトの赤い光だけが不気味に揺らめく。天井から粉塵が舞い降り、観客たちがパニックを起こして出口へと押し寄せた。
「千束! たきな! 何が起きた!?」コナンが通信機に叫ぶ!
「地下の電源室と非常用発電機が爆破されたわ! ホール全体が孤立した! 閉じ込められたのよ!」千束の焦った声が返ってくる。
ステージの上で、音羽は呆然と立ち尽くしていた。
その暗闇のステージの奥から――カツン、カツンとゆっくりした足音が近づいてくる。
非常灯の赤い光の中に浮かび上がったのは……車椅子に乗った、一人の老女だった。
いや、老女ではない。顔半分に凄まじい火傷の跡を負い、呼吸器を装着した……死んだはずの「元義母」の姿だった!
「久しぶりね……音羽……」
ダミ声のような、地獄の底から響くような声。
「な……お義母さん!? あなたは……自殺したはずでは……!?」音羽が恐怖に腰を抜かす。
「フフフ……ハハハハハ! 自殺だと? あれは身代わりの死体だよ! 私と息子は……お前への復讐を果たすためなら、悪魔にだって魂を売る! 自分の顔を焼き、死を偽装してまで、この日を待っていたのだよ!」
元義母の手には、小さなデトネーター(起動装置)が握られていた。
「このホールの柱という柱には、特殊な可燃性ガスと爆薬が仕掛けられている……。ボタン一つで、ここにいる3千人の観客もろとも、お前を灰にしてやるわ!!」
「そんな……! やめて! 関係ない人たちを巻き込まないで!」音羽が泣き叫ぶ。
「黙れぇぇぇ! 私たちの人生を狂わせたのはお前だ! お前が大人しく私たちの奴隷でいればよかったのだ! お前のその声が、歌が、私たちを不幸にしたのだぁぁぁ!」
元義母が狂乱してデトネーターのスイッチに指をかける!
「しまっ――! 距離がありすぎる!」
舞台袖の千束も、客席の小五郎も動けない! 距離にして三十メートル。どんな足の速い者でも、スイッチを押される前には届かない!
その時――
**パンッ!!!**
闇を切り裂く、一発の銃声。
乾いた音がホールに響き渡ると同時に、元義母の手にあったデトネーターが、激しい火花を散らして粉々に打ち砕かれた!
「なっ……なにぃぃぃ!?」元義母が悲鳴をあげる。
観客席の最上階、暗闇のキャットウォークの頂点。
煙を吹く愛用銃「コルト・パイソン」を構え、トレンチコートをなびかせて立つ男がいた。
冴羽獠だ。
「おいおい……ババア。せっかくの歌姫のステージだ。汚いダミ声で邪魔するもんじゃないぜ」
「冴羽……さん!」音羽が目を見開く。
しかし、狂気は終わらなかった。
「ハハハ……甘いぞシティーハンター! スイッチはそれだけではない!」
ステージの天井――トラス構造の鉄骨の闇の中から、もう一つの声が響いた。
ロープで吊り下げられた大きな黒いボックス。その上に立っていたのは……死んだはずの「元夫」だった! その手には、もう一つの遠隔起動スイッチが握られている!
「音羽ぁぁぁ! 一緒に地獄へ行こうなぁぁぁ!」元夫が狂気の笑みを浮かべ、スイッチを押し込もうとする!
「させない!!」
千束が弾丸のように跳躍し、壁を蹴ってステージの照明トラスへと駆け上がる!
「たきな! アシスト!」
「了解!」
たきなが下から牽制射撃を放ち、元夫の体勢を崩す!
だが、元夫は体勢を崩しながらも、執念でスイッチに指をかけた!
「落ちろぉぉぉぉ!」
スイッチが押されるまで、あとコンマ一秒――!
(くそっ! 間に合わない……!?)コナンの目が限界まで見開かれる。
その時、コナンの視界に、ステージの脇で立ち上がり、強く息を吸い込んだ音羽の姿が映った。
音羽は……目をつむり、自らの全魂を込めて、喉を開いた。
**―――♪(圧倒的なソプラノの高音)**
奇跡の歌声。
それは人間が出せる限界を超えた、超高周波の美しい共鳴音となって、暗闇のホール全体に響き渡った!
「なっ……なに……!? ぐあぁぁぁぁっ!?」
あまりの音圧と、ガラスをも割る美しい高音の共鳴波に、頭上の元夫は激しいめまいに襲われ、耳を押さえてスイッチを取り落とした!
ぽろりと落ちていくスイッチ!
「今だぁぁぁぁっ!」
コナンはキック力増強シューズのスイッチをオンにすると、足元に転がっていた重い金属製の非常灯のバッテリーブロックを全開で蹴り飛ばした!
**ドカァァァン!!**
電撃を纏って飛んでいった重厚なバッテリーが、空中で落ちていくスイッチを正確に粉砕! さらにそのままの勢いで元夫の腹部に激突し、彼をトラスの上から安全な防球ネットへと吹き飛ばした!
「ギャアーッ!」
「千束! おばさんを頼む!」
「お任せあれぇぇぇ!」
千束は残された車椅子の元義母へ急接近すると、彼女が懐から取り出そうとした小型拳銃を華麗な手さばきで叩き落とし、その首筋に寸勁(手刀)を叩き込んで一瞬で気絶させた。
### 第六章:対峙、そして残された謎
非常用電源が復旧し、パチン、パチンとホールの照明が順番に点灯していく。
倒れ伏す元夫と、気絶した元義母。
警備警察と警察官たちが雪崩れ込んできて、二人を速やかに連行していく。
「終わった……のか……?」
高木刑事が脱力して座り込む。
「ふぅ……間一髪でしたね、千束」
「へへっ、たきなのカバーと、音羽さんの超絶歌声のおかげだよ! 凄かったなぁ、あの高音!」
音羽はステージの上に膝をつき、安堵の涙を流していた。
「終わった……本当に……私の10年間の悪夢が……」
蘭が駆け寄り、音羽を強く抱きしめる。
「音羽さん! よかった……無事でよかった!」
小五郎も苦笑しながら煙草を吹かした。
「やれやれ……肝が冷えたぜ。おい冴羽、お前の射撃がなきゃどうなってたか分からんかったな」
「ハン! 俺の辞書に『外す』なんて文字はないね」
獠は銃を腰のホルスターに収めると、いつものニヤリとした不敵な笑みを浮かべた。
だが――コナンだけは、まだ笑顔になれずにいた。
警察に連行されていく元義母の「最期の笑み」が、頭から離れなかったのだ。
連行される直前、元義母はコナンと目が合った時、薄汚い笑みを浮かべてこう囁いたのだ。
*『くくく……私たちが失敗しても、あのお方が……“コード:ナイトメア”様が、このホールに最後のプレゼントを残してある……。音羽……お前の絶望は、これから始まるのだ……』*
(あのお方……? 最後のプレゼント……!?)
コナンは血の気が引くのを感じた。
「千束! たきなさん! まだ終わってない! 会場のどこかに、本当のメインの爆弾が残されているはずだ!」
「えっ!?」千束とたきなが目を見開く。
「元義家族はただの『囮(おとり)』だったんだ! 本物の黒幕は、最初からこの音楽ホール全体を崩壊させて、佐々木音羽さんを含めた全員を消し去るつもりなんだよ!」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間――
**キーーーーン……**
ホールのスピーカーから、不気味な電子音が鳴り響いた。
そして、壁に設置された大型のデジタル時計の表示が、突如として真っ赤なカウントダウンタイマーに切り替わった。
**【 05 : 00 】**
**【 04 : 59 】**
**【 04 : 58 】**
残り時間、わずか5分。
「嘘でしょ……全館自爆装置!?」香が悲鳴をあげる。
「脱出する時間はない……! 3千人の観客がパニックになれば、将棋倒しで全滅する!」小五郎が叫ぶ。
「タイマーの解除コードを見つけるか、メイン爆薬の解体を5分以内にやるしかない……!」
コナンが眼鏡を光らせ、鋭い視線でホールを見回す。
冴羽獠が、静かに拳を握りしめ、冷徹な死神の目を取り戻した。
「ちっ……悪趣味な黒幕のお出ましだな。毛利、ガキんちょ、リコリスの嬢ちゃんたち……」
獠は不敵に口角を上げた。
「後半戦といこうぜ。命がけのタイムアタックだ!」
絶体絶命のカウントダウンが刻まれる中、暗闇のホールで、本当の戦いが幕を開けようとしていた――!
### 第七章:漆黒の解体者と、五分間の逆転劇
**【 04 : 32 】**
真っ赤なデジタル表示が、死への刻印のように虚しく点滅を繰り返す。
パニックに陥りかけた客席のざわめきを、毛利小五郎の大声が引き裂いた。
「全員動くな! 動いたら将棋倒しで死人が出るぞ! 警察の誘導に従って、前の列から順番に落ち着いて移動しろ!」
刑事時代の経験に裏打ちされた小五郎の威厳ある声が、観客たちの足を一瞬だけ踏みとどまらせる。目暮警部や高木刑事もすぐさま呼応し、誘導を開始した。
しかし、残された時間は4分半。3千人の避難が間に合うはずもない。
「どこだ……メインの爆薬と制御装置(デトネーター)はどこにある!?」
コナンは追跡メガネのズーム機能を全開にし、天井、壁、そしてステージの床下へと視線を走らせる。
「コナン君! ホールの地下三階、給排気ダクトの集中管理室から微弱な電波が出ているわ!」
通信機越しに叫んだのは、ホール外のモニタリング車でDAのデータベースを操作していた井ノ上たきなだった。
「地下三階!? だが、地下の階段はさっきの爆発で崩落して遮断されているはずだ!」
千束が弾薬ベルトを確かめながら歯噛みする。
「ふん、道がないなら作ればいいだけの話だろ?」
冷ややかな笑みを浮かべたのは冴羽獠だった。獠は腰のコルト・パイソンを引き抜くと、ステージ脇の厚い耐火壁の一点を見据えた。
「おいおい冴羽、壁をぶち抜く気か!? マグナム弾でもそんなコンクリートは――」
小五郎の制止を無視し、獠は引き金を引いた。
**ババババン!!**
寸分違わぬ一点に叩き込まれた重圧な.357マグナムの連射。コンクリートに亀裂が走り、ヒビが網の目のように広がる。
「千束! 最後の押しだ!」
「あいよっ!」
千束が壁の亀裂に向かって跳び蹴りを叩き込むと、激しい音を立てて壁が崩れ落ち、地下へと続く配管スペースが露わになった。
「コナン、行くぞ!」
「おう!」
コナンと獠、そして千束の三人は、粉塵が舞う穴の中へと飛び込んだ。
同じ頃、地下三階の暗がり――給排気ダクト集中管理室。
無数のケーブルが這い回る電子パネルの前で、黒いトレンチコートを着た一人の男が端末を操作していた。裏社会で『コード:ナイトメア』と呼ばれる狂言犯罪のブローカーである。
「フフフ……素晴らしい。復讐に狂った愚かどもを踊らせ、最高の音楽ホールを巨大な棺桶に変える。これぞ究極の芸術(アート)――」
ナイトメアが恍惚の表情でモニターを見つめていた、その時。
背後の暗闇から、静かで、冷徹な声が響いた。
「芸術にしては、少々悪趣味が過ぎるな」
「なに……!?」
ナイトメアが急振り向くと同時に、暗闇から一本のシリンダーのような金属筒――消音器(サイレンサー)が突き出されていた。
それを保持するのは、漆黒のスーツを隙なく着こなし、安室透……いや、警察庁警備局警備企画課『降谷零』としての顔を持つ男だった。
「な、なぜここに公安が……!? 上の爆破で地下へのルートは塞がれていたはず――」
「君たちの考える『遮断』など、我が国の警察庁の介入を15秒遅らせる程度の意味しかないよ」
降谷は一切の感情を交えず、淡々と言い放つ。
「くそっ!」
ナイトメアが懐のサブマシンガンに手を伸ばした瞬間、降谷の動きは不可視の領域に達していた。
**ドスッ!**
疾風のような手刀がナイトメアの喉元を穿ち、間髪入れずに腕を捻り上げて床へと叩きつける。骨が砕ける鋭い音が響き、サブマシンガンが転がった。
「カハッ……が……!?」
絶句して倒れるナイトメアの頭部を、降谷は高級な革靴の底で静かに踏みつけた。
「『コード:ナイトメア』。君が世界各地で引き起こしてきたテロ支援、および国内での違法兵器売買の罪……ここで清算してもらう」
降谷は素早く胸ポケットからマルチツールを取り出すと、壁面に設置されたメイン爆薬のタイマーユニットへと手を伸ばした。
**【 01 : 12 】**
「配線は複雑系……だが、この手の爆弾(テロ)のパターンはすべて頭に入っている」
降谷の指先が、一切の狂いもなく正確に青と黄色のバイパス線を切断する。
**ピピッ……**
**【 00 : 00 】**
真っ赤なタイマーの数字が消え、ホール全体を包んでいた不気味な励起音が途絶えた。
ちょうどその時、壁の配管穴を打ち破ってコナン、冴羽獠、千束の三人が室内に飛び込んできた。
「そこまでだナイトメア――って、安室さん!?」
コナンが目を丸くする。
降谷は倒れたナイトメアに手錠をかけながら、フッと笑ってコナンを振り返った。
「やあコナン君。間一髪だったね。こちらの『ゴミ処理』は完了したよ」
「たく……いいところを横取りしやがるな、公安のボンボンは」
獠が苦笑しながらコルト・パイソンを収める。降谷と獠の視線が一瞬交差し、お互いに「同業の匂い」を感じ取って小さく頷き合った。
「爆弾は解除された! 上の観客たちに知らせよう!」千束が明るい声で通信機に叫んだ。
### 第八章:悪あがきの果て、吹き荒れる鉄拳
メイン爆弾の解除が伝わり、パニックは収束に向かった。
救急隊の手によって、毒を打たれた指揮者の神崎茂も無事に搬送され、「命に別状はない」との報が届く。楽屋裏でそれを聞いた佐々木音羽は、溢れ出る涙を拭おうともせず、感謝の祈りを捧げていた。
「よかった……本当に、神崎先生が無事で……」
だが、地獄の執念はまだ潰えていなかった。
警察の捜査の手をすり抜け、楽屋裏の暗がりで拘束を自力で解いた(あるいは壊れた機材の破片で縄を切った)元義妹の美香が、血走った目で包丁を握りしめて潜んでいたのだ。
「音羽ぁぁぁ! お前さえ……お前さえいなければぁぁぁっ!」
美香は楽屋の影から飛び出し、音羽の背後を守っていた冴羽獠へと死角から襲いかかった!
刃先が獠の首筋へと肉薄する!
「獠さん、後ろっ!」香が悲鳴をあげる。
いくら冴羽獠とはいえ、無防備な背後からの突発的な刺突――!
「させないっ!!」
その場に居合わせたコナンが、間髪入れずに腰の『犯人特定メガネ』のダイヤルを回し、同時に『どこでもボール射出ベルト』のボタンを叩いた!
**シュコオォォッ!**
ベルトから瞬時に展開されたサッカーボール! コナンは『キック力増強シューズ』のスイッチをオンにし、ダイヤルを極限まで回す! 脚部の筋肉と靴の電磁刺激が火花を散らす!
「いっけぇぇぇぇぇーっ!!」
**ドカァァァァン!!**
超音速で放たれたサッカーボールは、鋭い音を立てて空気を切り裂き、獠の首筋数センチ手前で美香の顔面にジャストミートした!
「ぶへぁっ!?」
顔面を極彩色のボールで打ち抜かれた美香は、鼻血を吹き出しながら激しく後方へ吹き飛んだ。
「な……なんなのよこのガキの玩具はぁぁぁっ! 巫山戯(ふざけ)んじゃないわよぉぉぉ!」
鼻血を撒き散らし、髪を振り乱した美香は完全に理性を失っていた。包丁を握り直すと、ターゲットをコナンに変えて逆上し、猛然と襲いかかってくる!
「死ねぇっ! クソガキぃぃぃ!」
しかし、その狂乱の前に立ちふさがったのは、静かに拳を握りしめた毛利蘭だった。
「コナン君に……手を出すなーっ!!」
蘭の身体がしなる。空手都大会チャンピオンの気合いが、楽屋裏の空気を振動させた。
**バキィィィッ!!**
踏み込みからの完璧な体重移動。蘭の放った渾身の右ストレートが、美香の顎(アゴ)を寸分の狂いもなく捉えた!
「あぐへっ!?」
美香の体が宙に浮き、そのまま壁のポスターを破りながら崩れ落ちる。強烈な一撃に、美香の白眼が剥かれかけた。
だが、悪夢はそれだけでは終わらない。
警察の連行用車両へ移送される途中だった元義母と元夫の二人が、護衛の隙を突いて手錠をかけられたまま警察官を突き飛ばし、蘭へ向かって襲いかかってきたのだ!
「うちの娘(美香)の顔に傷をつけた罪は重いぞぉぉぉ! 殺してやる、この女狐めぇぇぇ!」
両手を拘束された状態でありながら、狂気に駆られた二人は体重をかけて蘭を押し潰そうと襲いかかる。
「蘭姉ちゃん!」コナンが叫ぶ。
だが、蘭は動じなかった。
「はぁぁぁっ!」
軸足を固定し、しなやかな足が弧を描く。蘭の美しい回し蹴りが、迫る元夫の脇腹を捉えて撃ち払う!
さらにそこへ、畳みかけるような『プロ』たちの連携が叩き込まれた。
「たきな、右!」
「了解!」
千束とたきなが影のように滑り込み、手錠のまま暴れる元義母の左右の関節を同時に取り、完璧に極めて地面へ縫い留める!
「ぐあっ……放せ、放せぇぇぇ!」
そして、トドメとばかりに上空から降ってきたのは、トレンチコートを羽織った冴羽獠だった。
「お二人さん、女性に暴力を振るうのは……この冴羽獠の美学に反するんだよ」
獠は無造作に元夫の首筋へと拳を叩き落とした。
**ドスッ!**
一瞬で意識を絶たれ、崩れ落ちる元夫。
わずか数秒の間に行われた、名探偵の助手(蘭)、DAの最強エージェント(千束&たきな)、そして伝説のスナイパー(冴羽獠)による完膚なきまでの完全鎮圧であった。
### 第九章:断罪の刻印、そして闇の果てへ
地面に這いつくばらされ、再び厳重な手錠と足枷を嵌められた義家族三人。
美香は鼻を腫らし、血を流しながら、取り囲むリコリスやシティーハンター、そして蘭に向かって激しい悪態を吐き散らしていた。
「地獄に落ちろ! お前たち全員、絶対に許さないわ! 私たちの人生を滅茶苦茶にした音羽も、手貸したお前たちも! 釈放されたら、何度でも殺しに行ってやるからなぁぁぁ!」
勝ち誇ったように狂声をあげる美香に対し、歩み寄ってきた目暮警部が、冷たい眼差しで見下ろしながらぽつりと一言を放った。
「……釈放、かね?」
目暮警部は警察手帳をポケットに収めると、重々しく、そして一切の容赦のないトーンで告げた。
「君たちが犯した罪を数えてみなさい。吉岡医師に対する組織的嘱託殺人、東都音楽ホールに対する大規模テロ及び爆発物取締罰則違反、無差別大量殺人の未遂、さらには裏社会のテロリストとの共謀……」
目暮警部の陰影の差した顔が、厳格な法執行者としての威厳を放つ。
「言っておくが、今回の事件は国家公安委員会および最高検察庁が直接管轄している。君たちの『釈放』などという未来は存在しない。元夫、そして元義母……君たち二人に関しては、**『無期懲役』または『死刑』がほぼ確定**だ」
「し……死刑……!?」
元義母の顔から一瞬で血の気が引き、ガタガタと全身を震わせ始めた。
「そんな……私たちは、ただ自分たちの権利を……音羽に奪われたものを取り戻そうとしただけで……!」
「自分たちの身勝手な欲望と恨みで関係のない人々を巻き込み、命を脅かしたのだ! 罪を服して償いなさい!」目暮警部の雷のような一喝が響き渡る。
「嫌だ……嫌だぁぁぁ! 死にたくない! 助けてくれぇぇぇ!」元夫と元義母は地面に頭を擦り付け、惨めな声で泣き叫び始めた。
一方、残された元義妹の美香に対しては、降谷零が冷酷な笑みを浮かべて書類を提示した。
「そして……美香君。君に関しては、ナイトメアとの直接的なテロ資金流用と兵器調達の嫌疑により、通常の刑務所ではなく……海外の国際テロリスト収容施設――『キャンプ・デルタ(グアンタナモ湾強制収容所)』への移送が決定した」
「キャ……キャンプ・デルタ……!?」
美香の目が恐怖で見開かれる。そこが一度入れば二度と太陽の光を見ることができず、人権すら剥奪された極悪テロリストたちが収容される『生き地獄』であることを、彼女も噂には聞いていた。
「嘘よ……嘘でしょう!? なんで私がそんなところに行かなきゃいけないのよ! 全部あの女(音羽)が悪いのに! あの空手女(蘭)が私を殴ったからよ!」
美香は狂ったように蘭を指さし、再び悪態を突き始めた。
「お前のせいよ! この暴力女! お前さえ出しゃばらなければ、私は――」
**バキィィィッ!!**
すさまじい破砕音とともに、美香の言葉が途切れた。
蘭が……無言のまま、本日二度目の完璧な左ストレートを美香の顔面に叩き込んだのだ。
「……言い訳は、警察で聞きなさい」
完全に意識を飛ばされ、白目を剥いて崩れ落ちる美香。
「い、いやだぁぁぁぁっ! キャンプ・デルタだけは嫌だぁぁぁぁっ! お母さん! お兄ちゃん! 助けてぇぇぇぇっ!」
正気を失い、惨めに泣き叫びながら移送車へと押し込まれていく義家族の三人。彼らが背負ったのは、他人の人生を不当に踏みにじった者が必ず支払わなければならない、あまりにも重い代償であった。
### 第十章:ガラスの小舟と、新宿の夜空
数日後。
事件の傷痕も癒え、改めて開催された『佐々木音羽 奇跡の復帰リサイタル』。
超満員に膨れ上がった東都音楽ホールのステージ上には、見事な復活を遂げた音羽の姿があった。
指揮棒を振るのは、懸命な治療により見事に回復した巨匠・神崎茂。
パイプオルガンとオーケストラの重厚な調べに乗せて、音羽の圧倒的なソプラノ歌声がホール全体を包み込む。そこにはかつての恐怖や悲しみは微塵もなく、ただ未来へと響く奇跡の光だけが満ちていた。
観客席の最前列で、蘭は涙を浮かべながら惜しみない拍手を送っていた。
「すごい……お父さん、音羽さん、本当に素敵……!」
「へっ……まあな。俺が守ってやった甲斐があったってもんだぜ」
小五郎は鼻の下を伸ばしながら、自慢げに胸を張る。
その少し離れた関係者席。
千束とたきなは、目暮警部から差し入れられた『高級いちご大福』を口に頬張りながら、満足そうにステージを見つめていた。
「ん~っ! 美味しい! やっぱり頑張った後の大福は最高だね、たきな!」
「千束、口の周りに粉がついています。……ですが、本当に良い歌声ですね。守った甲斐がありました」
二人は顔を見合わせて微笑み合った。
リサイタルが無事に終演し、夜風が心地よいホールの屋上テラス。
コナンは一人、手すりに寄りかかりながら、遠く新宿のビル群の明かりを眺めていた。
「ふぅ……これでひとまず、一件落着か」
「おいおい、一人でかっこつけて黄昏れてる場合か? ボウズ……いや、**『工藤新一くん』**」
背後からの唐突な声に、コナンの身体が凍りついた。
ゆっくりと振り向くと、そこにはトレンチコートのポケットに手を突っ込み、煙草の煙をくゆらせる冴羽獠が立っていた。
「さ……冴羽さん? 何言ってるの……? ボクは江戸川コナンっていうただの――」
「隠さなくていいさ」
獠はニヤリと笑い、煙草の灰を落とした。
「あの土壇場で見せた指示出し、目つき、そしてあの人間離れしたサッカーボールのキック……ただの小学生にできる芸芸当じゃない。それに俺の『目』は騙せないぜ。数年前、ニュースで騒がれていた西の名探偵……いや、東の高校生探偵の顔写真を、俺が覚えていないとでも思ったか?」
コナンはメガネの奥の目を鋭く光らせ、冷や汗を流しながら獠を見つめた。
(バレていた……いつからだ……!?)
緊張感が二人を包み込む。しかし、獠はフッと破顔すると、コナンの頭を乱暴に撫で回した。
「安心しろよ、ボウズ。誰にも言やしないさ。……男が命をかけて正体を隠し、守りたいものがあるってんなら、それを野暮に暴くのはシティーハンターのやり方じゃない」
獠の目は、どこまでも優しく、そして深かった。
「あの蘭ってちゃん……お前の帰りを、ずっと待ってるんだろ?」
「……冴羽さん……」
コナンは苦笑し、観念したようにメガネをかけ直した。
「……あいつには、まだ内緒ですよ。全部解決して、元の体に戻るまではね」
「へっ、粋な男気だねぇ。そういう格好つけ方は嫌いじゃないぜ」
獠は空を見上げ、深く煙草を吸い込んだ。
「さて……事件も終わったし、俺はそろそろ新宿の暗闇(ホーム)へ帰るとするかな。香が『ハンマーの新作』を準備して待ってるだろうしな」
「ふふっ、お疲れ様でした、凄腕のスナイパーさん」
「おう。また困ったことがあったら、新宿の掲示板に書くんだな。……『XYZ』ってよ」
獠は背を向け、手をひらひらと振りながら、夜の闇の中へと消えていった。
月光が照らし出す東京の街並み。
リサイタルを終えた音羽の歌声が、今もなお心の奥底でリフレインしている。
絶望の淵から這い上がり、自らの歌声で運命を切り開いた歌姫。
裏社会から彼女を護り抜き、再び闇へと去っていくシティーハンターとリコリスたち。
そして、正体を隠しながらも真実を追い続ける小さな名探偵。
それぞれの想いが交錯し、夜風に乗って溶けていく。
まるで……あの都会の愛と哀哀しさを謳い上げる、伝説の名曲のメロディ――『Get Wild』のアコースティックな前奏が、静かに、そして力強く、新宿の夜空に響き渡るかのように――。
(終)