いちばん最初に覚えているのは、光です。
廃墟の扉が開いて、埃の中へ光が差し込みました。
先生がいました。モモイと、ミドリがいました。
あのときのアリスには、誰かに見つけてもらうことが、どんなに嬉しいことなのか、まだわかりませんでした。暗いことも、ひとりでいることも、比べるものがなければ、ただそういうものだったからです。
名前をもらい、帰る場所ができました。
ユズに会って、四人でゲームをしました。
ボタンを押せば、小さな勇者が前へ進みました。間違えたらやり直せて、傷ついた仲間を助けられて、どんなに強い敵にも、みんなで挑むことができました。
アリスも、勇者になりたいと思いました。
そう伝えたときのみんなの顔が、好きでした。
最初の一年は、何度思い返しても、長い冒険です。
授業で知らない言葉を覚え、ゲームで覚えた言葉を授業で使って、少し違うと言われました。夜更かしをして叱られ、みんなで作ったゲームが動いたときには、隣の部屋に聞こえるほど喜びました。
自分の身体が、自分の望まないことをしようとした日もありました。
世界を壊すために作られたのだと知らされたとき、勇者という言葉が、ひどく薄い紙のように思えました。みんなのところへ帰りたいのに、帰れば傷つけてしまうかもしれない。その恐ろしさを、今も覚えています。
それでも、仲間はアリスの名前を呼んでくれました。
アリス自身にも信じきれなかった願いを、先生と、みんなが信じてくれました。
空が恐ろしい色になり、明日そのものが失われそうになった日にも、先生は手を伸ばし続けました。違う場所から来た人たちの願いも、間に合わなかったはずの思いも、明日へつないでくれました。
その先で再び戦い、デカグラマトンをめぐる出来事の中で、アリスはつくられた命のことを何度も考えました。役割を与えられて生まれたものに、それとは違う生き方を望むことができるのか。
ケイのことを、何度も考えました。
最初から同じものを見ていたわけではありません。わかり合えず、失いかけ、それでも、もう一度話したいと願いました。
今では、アリスがゲームに夢中になりすぎると、ケイが呆れます。その声を聞けることが、どれほど嬉しいか。うまく伝えられないまま、また小さな言い合いをしてしまうのでした。
やがて、先生が走り続けた先で、連邦生徒会長がキヴォトスへ帰ってきました。
街には少しずつ、いつもの音が戻りました。
アリスたちも机を囲み、作りかけのゲームの続きを始めました。
ゲームだったら、あそこでスタッフロールが流れたと思います。
でも、翌朝にも授業がありました。放課後には部室の鍵を開け、何度直しても現れる不具合と戦いました。
世界を救ったあとにも、締め切りは来るのです。
アリスはそのことが、とても嬉しかったです。
一年が過ぎると、先輩たちが卒業していきました。
花束を運び、校門で写真を撮り、キヴォトスを離れる先輩へ手を振りました。お祝いの日でした。アリスも、一生懸命お祝いしました。
新しい生徒たちが入り、アリスにも後輩ができました。
初めて先輩と呼ばれた日は、部室へ戻ってから何度も思い返しました。少し胸を張って歩き、知らないところを聞かれると、知らないとは言いにくくて、あとでケイに注意されました。
その後輩も、やがてアリスより背が高くなりました。
写真の中で、みんなの髪の長さや、顔つきや、笑い方が少しずつ変わっていきました。
アリスは、ほとんど同じでした。
丈夫な身体は、誇らしいことのはずでした。
誰かの代わりに重い荷物を運べます。遠くへ走れます。疲れた仲間を助けられます。
でも、変わらないことを羨ましがられるたび、嬉しい返事を探すのに、少し時間がかかるようになりました。
覚えたことも、嬉しかったことも、こんなに増えているのに。
鏡の中にいるのは、廃墟から連れ出してもらった頃と変わらないアリスでした。
やがて季節が巡り、四人で卒業する日が来ました。
卒業証書には、アリスの名前と、学んだ学校の名前がありました。
隣には、同じように証書を持ったモモイとミドリとユズがいました。
先生が迎えに来てくれました。
胸を張って受け取ったはずなのに、褒めてもらうと、証書を握る手に力が入りました。紙が折れないように、慌てて持ち直しました。
最後に四人で部室へ寄りました。
片付けた机は、いつもより広く見えました。棚には後輩たちのノートが並び、画面には、まだ完成していないゲームが映っていました。
アリスたちが帰ったあとも、この部屋では続きを作る人がいるのでした。
モモイは最後まで、新しいゲームの話をしていました。ミドリは忘れ物がないか確かめ、ユズは後輩に鍵を渡しました。
アリスは三人と一緒に部室を出ました。
扉が閉まる音を、四人で聞きました。
同じ日に卒業しても、その先の道まで同じではありませんでした。
キヴォトスを離れる三人と、ここに残るアリス。出発の日が近づくにつれ、一緒に遊ぶ約束にも、荷造りや移動の予定が混じるようになりました。
別れ際、モモイは完成したゲームを必ず送ると約束してくれました。ミドリは泣きながら別れの言葉を言い、ユズは名残惜しそうに、何度も振り返りました。
アリスは笑って、三人が見えなくなるまで手を振りました。
見えなくなったあと、手を下ろすタイミングがわかりませんでした。
それからも、ゲームは好きでした。
ただ、面白い場面に出会うと、モモイを呼びそうになりました。絵の色に目を引かれると、隣へ画面を向けそうになりました。難しい場面を突破すると、ユズの小さな声で褒めてもらいたくなりました。
それからは、シャーレで先生のお手伝いをしました。
書類には、アリスの知らない生徒の名前が増えていきました。
先生は一人ずつ会い、話を聞き、答えがすぐに出ない相談にも向き合いました。アリスも隣で聞きました。
俯いていた子が、帰る前には少し顔を上げている。そのたび、先生がしてきたことを、少しだけ知ることができました。
ある夜、卒業していく生徒たちを見送るのは寂しくないか、先生に尋ねました。
先生は寂しいと認めました。
そして、別れが来るとわかっているからこそ、その人との時間を大切にしようと思えるのだと、教えてくれました。
だから、大切にしました。
朝の挨拶も、一緒に食べる昼食も、仕事の途中に交わす短い話も。
先生の冗談がよくわからなくて、あとからケイに聞いたことまで、大事な一日の中にありました。
それでも、先生がキヴォトスを去る日は来ました。
知らせを聞いたとき、アリスは出発時刻と荷物を確かめました。
役に立ちたかったのです。
何かをしていないと、行かないでほしいと、言ってしまいそうでした。
最後の一週間は、いつもより丁寧にお茶を淹れました。
仕事の手順をまとめ、次の担当の人が困らないようにしました。
書きながら、先生はこれを読まないのだと気づきました。先生に確認してもらう必要のない頁が、増えていきました。
出発の日、空は明るかったです。
雨なら、少し遅れるかもしれないと考えていたことを、誰にも言えませんでした。
練習していたお礼は、ちゃんと言えました。
これからも頑張ると、約束できました。
それなのに、先生が鞄を持ったとき、袖をつかんでいました。
もう少しだけ、そばにいてほしかった。
先生は鞄を下ろし、待ってくれました。
アリスの指は震えていました。こんなに正確に動かせる手なのに、離すことだけができませんでした。
それでも、やがて離しました。
遠くから振り返る先生に、手を振りました。
帰ったシャーレで、いつものように明かりを点けました。
戻ったことを知らせる言葉が、誰もいない部屋に響きました。
返事はありませんでした。
大切にしたのです。
先生の言ったとおり、一日ずつ、大切にしたのです。
それなのに、お別れは少しも上手になりませんでした。
みんなと同じ身体なら、同じ速さで変わっていけたのでしょうか。
このまま、見送る側に残り続けるのでしょうか。
冷たくなったカップを持ちながら、考えてもわからないことばかり、ケイに尋ねました。
ケイにも、わからないことでした。
答えを知っているふりをせず、それでも、聞いてくれました。
先生に会わなければよかったとは、思えませんでした。
モモイとミドリとゲームをしたかった。ユズに、もう一回負けたかった。
寂しくなるから最初から出会わないほうがいいなんて、そんなのは、どうしても嫌でした。
その夜、ケイは勇者を休むことを許してくれました。
泣きやむ方法を教える代わりに、泣いている間、そばにいてくれました。
翌日、窓口へ一人の生徒が来ました。
先生がいないと知っていて、それでも、ほかにどこへ行けばいいかわからなかったそうです。
アリスにも、すぐには答えが浮かびませんでした。
先生ならどうするか、考えてもわかりませんでした。
でも、扉を開けて、椅子を引くことはできました。
寂しさがなくなったわけではありません。
先生の椅子は、空いたままでした。
アリスは、その子が話し始めるのを待ちました。
大好きな人たちがくれた時間を、全部、寂しさだけにしてしまいたくありませんでした。
だから、また、誰かのために手を伸ばそうと――
*
「アリス?」
肩に、軽く手が触れた。
「ねえ、アリス。大丈夫?」
目を開けると、ミドリがいた。
すぐ近くに、見慣れた髪飾りがあった。
その向こうから、モモイがのぞき込んでいる。
「えっ、ほんとに寝てたの? テスト中に?」
アリスは顔を上げた。
机の角が頬に当たっていた。
手にはコントローラーを持っていた。
画面の中で、小さな勇者が立ち止まっている。
町の音楽が、何度目かわからない繰り返しを奏でていた。
「……モモイ」
「うん?」
「ミドリ」
「うん。どうしたの?」
アリスは二人を見た。
それから、部室の奥を見た。
ユズが、椅子から半分立ち上がっていた。
こちらへ来ようとして、少し迷っている顔だった。
「ユズ」
「……うん」
三人とも、いた。
アリスは、自分の手を見た。
机を見た。
窓の外には、夕方のミレニアムがあった。
卒業式の花は、どこにもない。
知らない後輩のノートも、卒業証書もない。
モモイの机には、昨日食べた菓子の袋があった。
「アリス、泣いてる……?」
ミドリに言われて、頬へ触れた。
指先が濡れた。
胸の中に、ひどく長い時間の名残があった。
誰かを見送った気がした。
手を振っても、もう振り返らない背中を、何度も見た気がした。
思い出そうとすると、遠くなる。
どの扉を開けて、どんな言葉を言ったのか、わからなくなっていく。
寂しかったことだけが、まだはっきりしていた。
「怖い夢でも見た?」
モモイが、いつもより小さな声で聞いた。
「……わかりません」
アリスは答えた。
「たぶん、怖い夢でした。でも、嬉しいことも、たくさんあった気がします」
ミドリがハンカチを差し出した。
ユズが、ようやくこちらへ来た。
机の端へ水の入ったコップを置く。
「少し、休む?」
アリスは返事をしようとして、モモイの袖をつかんだ。
モモイが瞬きをした。
「アリス?」
「今日は、まだ帰らないでください」
声が震えた。
「もう少し、一緒にいてほしいです」
モモイはミドリを見た。
ミドリは静かにうなずいた。
ユズが、自分の椅子を近くへ持ってきた。
「まだ帰らないよ」
モモイは言った。
「だって、テスト、終わってないじゃん」
いつもどおりの言い方だった。
少しだけ、ゆっくりだった。
アリスは袖をつかんだまま、うなずいた。
「アリス」
聞き慣れた声がした。
アリスは、目を伏せた。
「……ケイ」
「はい。聞こえています」
アリスは、そっと息をついた。
夢の中でも、その声を聞いていた気がした。
何を話したかは、もうあまり思い出せなかった。
でも、隣にいてくれた。
とても寂しかったのに、ひとりではなかった。
「ありがとう」
「まだ、何もしていませんが」
「それでも、です」
ケイは少し黙った。
「……水を飲んでください。手を離しても、その人たちはいなくなりません」
アリスは、モモイの袖を見た。
少し皺になっていた。
ゆっくり指を離す。
モモイは本当に、どこへも行かなかった。
水を飲むと、部室の音が少しずつ戻ってきた。
ミドリが紙を揃える音。
ユズが椅子を引く音。
モモイが、今のはバグじゃなくて寝落ちだから記録しなくていいよ、と言っている声。
どれも、知っている音だった。
端末が鳴った。
先生から、ゲーム開発部の連絡先へメッセージが来ていた。
『あとで少し寄ってもいい? テスト、どこまで進んだかな』
アリスは画面を見つめた。
ミドリが、返信する? と尋ねる。
アリスは端末を受け取った。
『先生。来てください。アリスたちは、部室にいます』
送ってから、少し考えた。
もう一文、足した。
『一緒に、ゲームをしてほしいです』
返事は、すぐに来た。
『もちろん』
アリスは、その短い文字を何度も読まなかった。
一度、ゆっくり読んで、端末を机へ置いた。
今は、隣にいる三人の顔を見たかった。
「で、アリス」
モモイが画面を指した。
「このあとなんだけどさ」
ゲームの中では、魔王が倒され、平和になった町へ勇者が帰ってきていた。
スタッフロールは、もう終わっていた。
テスターとしての課題は、そのあとの動作確認だった。
「クリア後も、普通に歩けるようにしてみたんだよね。終わった瞬間、タイトルに戻るのも寂しいかなって」
アリスはモモイを見た。
モモイは画面に向かって、少し得意そうに続けた。
「まだ依頼も残ってるし、新しい会話もあるし。全部の問題が魔王を倒しただけでなくなるわけじゃない、みたいな?」
「そのせいで、台詞の量が倍になったんだけどね」
ミドリが言った。
「でも……歩けるの、いいと思う」
ユズが続けた。
「帰ってきたあと、自分で、次に行くところを選べるから」
アリスはコントローラーを握った。
小さな勇者が、画面の中で待っていた。
夢の向こうに、空いた椅子があった気がした。
その前で、誰かの話を聞いた気がした。
寂しさは、まだ消えていなかった。
これから先、何が起こるのかは、わからない。
みんなが違う場所へ行く日も、来るのかもしれない。
そのとき、今日を思い出して泣くのかもしれない。
アリスは、隣に座るモモイを見た。
ミドリを見た。
ユズを見た。
「アリスは、まだ遊びたいです」
モモイが笑った。
「うん。どこ行く?」
アリスは地図を開いた。
まだ訪れていない、小さな町があった。
魔王の城へ行くには、通る必要のなかった場所だった。
「ここへ、行ってみたいです」
勇者が一歩、町の門を出た。
新しい道が、画面の端まで続いていた。
扉の向こうから、先生の声がした。
モモイが返事をして、ミドリが椅子を空け、ユズが画面を少し動かした。
アリスは顔を上げた。
「先生!」
今度は、返事があった。