アリスだけがキヴォトスに取り残されるという、何度もこすられているネタです。

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第1話

 いちばん最初に覚えているのは、光です。

 

 廃墟の扉が開いて、埃の中へ光が差し込みました。

 先生がいました。モモイと、ミドリがいました。

 あのときのアリスには、誰かに見つけてもらうことが、どんなに嬉しいことなのか、まだわかりませんでした。暗いことも、ひとりでいることも、比べるものがなければ、ただそういうものだったからです。

 

 名前をもらい、帰る場所ができました。

 ユズに会って、四人でゲームをしました。

 ボタンを押せば、小さな勇者が前へ進みました。間違えたらやり直せて、傷ついた仲間を助けられて、どんなに強い敵にも、みんなで挑むことができました。

 

 アリスも、勇者になりたいと思いました。

 そう伝えたときのみんなの顔が、好きでした。

 

 最初の一年は、何度思い返しても、長い冒険です。

 授業で知らない言葉を覚え、ゲームで覚えた言葉を授業で使って、少し違うと言われました。夜更かしをして叱られ、みんなで作ったゲームが動いたときには、隣の部屋に聞こえるほど喜びました。

 

 自分の身体が、自分の望まないことをしようとした日もありました。

 世界を壊すために作られたのだと知らされたとき、勇者という言葉が、ひどく薄い紙のように思えました。みんなのところへ帰りたいのに、帰れば傷つけてしまうかもしれない。その恐ろしさを、今も覚えています。

 

 それでも、仲間はアリスの名前を呼んでくれました。

 アリス自身にも信じきれなかった願いを、先生と、みんなが信じてくれました。

 

 空が恐ろしい色になり、明日そのものが失われそうになった日にも、先生は手を伸ばし続けました。違う場所から来た人たちの願いも、間に合わなかったはずの思いも、明日へつないでくれました。

 その先で再び戦い、デカグラマトンをめぐる出来事の中で、アリスはつくられた命のことを何度も考えました。役割を与えられて生まれたものに、それとは違う生き方を望むことができるのか。

 

 ケイのことを、何度も考えました。

 最初から同じものを見ていたわけではありません。わかり合えず、失いかけ、それでも、もう一度話したいと願いました。

 今では、アリスがゲームに夢中になりすぎると、ケイが呆れます。その声を聞けることが、どれほど嬉しいか。うまく伝えられないまま、また小さな言い合いをしてしまうのでした。

 

 やがて、先生が走り続けた先で、連邦生徒会長がキヴォトスへ帰ってきました。

 街には少しずつ、いつもの音が戻りました。

 アリスたちも机を囲み、作りかけのゲームの続きを始めました。

 

 ゲームだったら、あそこでスタッフロールが流れたと思います。

 でも、翌朝にも授業がありました。放課後には部室の鍵を開け、何度直しても現れる不具合と戦いました。

 世界を救ったあとにも、締め切りは来るのです。

 アリスはそのことが、とても嬉しかったです。

 

 一年が過ぎると、先輩たちが卒業していきました。

 

 花束を運び、校門で写真を撮り、キヴォトスを離れる先輩へ手を振りました。お祝いの日でした。アリスも、一生懸命お祝いしました。

 

 新しい生徒たちが入り、アリスにも後輩ができました。

 初めて先輩と呼ばれた日は、部室へ戻ってから何度も思い返しました。少し胸を張って歩き、知らないところを聞かれると、知らないとは言いにくくて、あとでケイに注意されました。

 

 その後輩も、やがてアリスより背が高くなりました。

 写真の中で、みんなの髪の長さや、顔つきや、笑い方が少しずつ変わっていきました。

 アリスは、ほとんど同じでした。

 

 丈夫な身体は、誇らしいことのはずでした。

 誰かの代わりに重い荷物を運べます。遠くへ走れます。疲れた仲間を助けられます。

 でも、変わらないことを羨ましがられるたび、嬉しい返事を探すのに、少し時間がかかるようになりました。

 

 覚えたことも、嬉しかったことも、こんなに増えているのに。

 鏡の中にいるのは、廃墟から連れ出してもらった頃と変わらないアリスでした。

 

 やがて季節が巡り、四人で卒業する日が来ました。

 

 卒業証書には、アリスの名前と、学んだ学校の名前がありました。

 隣には、同じように証書を持ったモモイとミドリとユズがいました。

 先生が迎えに来てくれました。

 胸を張って受け取ったはずなのに、褒めてもらうと、証書を握る手に力が入りました。紙が折れないように、慌てて持ち直しました。

 

 最後に四人で部室へ寄りました。

 片付けた机は、いつもより広く見えました。棚には後輩たちのノートが並び、画面には、まだ完成していないゲームが映っていました。

 アリスたちが帰ったあとも、この部屋では続きを作る人がいるのでした。

 

 モモイは最後まで、新しいゲームの話をしていました。ミドリは忘れ物がないか確かめ、ユズは後輩に鍵を渡しました。

 アリスは三人と一緒に部室を出ました。

 扉が閉まる音を、四人で聞きました。

 

 同じ日に卒業しても、その先の道まで同じではありませんでした。

 キヴォトスを離れる三人と、ここに残るアリス。出発の日が近づくにつれ、一緒に遊ぶ約束にも、荷造りや移動の予定が混じるようになりました。

 

 別れ際、モモイは完成したゲームを必ず送ると約束してくれました。ミドリは泣きながら別れの言葉を言い、ユズは名残惜しそうに、何度も振り返りました。

 アリスは笑って、三人が見えなくなるまで手を振りました。

 見えなくなったあと、手を下ろすタイミングがわかりませんでした。

 

 それからも、ゲームは好きでした。

 ただ、面白い場面に出会うと、モモイを呼びそうになりました。絵の色に目を引かれると、隣へ画面を向けそうになりました。難しい場面を突破すると、ユズの小さな声で褒めてもらいたくなりました。

 

 それからは、シャーレで先生のお手伝いをしました。

 

 書類には、アリスの知らない生徒の名前が増えていきました。

 先生は一人ずつ会い、話を聞き、答えがすぐに出ない相談にも向き合いました。アリスも隣で聞きました。

 俯いていた子が、帰る前には少し顔を上げている。そのたび、先生がしてきたことを、少しだけ知ることができました。

 

 ある夜、卒業していく生徒たちを見送るのは寂しくないか、先生に尋ねました。

 先生は寂しいと認めました。

 そして、別れが来るとわかっているからこそ、その人との時間を大切にしようと思えるのだと、教えてくれました。

 

 だから、大切にしました。

 朝の挨拶も、一緒に食べる昼食も、仕事の途中に交わす短い話も。

 先生の冗談がよくわからなくて、あとからケイに聞いたことまで、大事な一日の中にありました。

 

 それでも、先生がキヴォトスを去る日は来ました。

 

 知らせを聞いたとき、アリスは出発時刻と荷物を確かめました。

 役に立ちたかったのです。

 何かをしていないと、行かないでほしいと、言ってしまいそうでした。

 

 最後の一週間は、いつもより丁寧にお茶を淹れました。

 仕事の手順をまとめ、次の担当の人が困らないようにしました。

 書きながら、先生はこれを読まないのだと気づきました。先生に確認してもらう必要のない頁が、増えていきました。

 

 出発の日、空は明るかったです。

 雨なら、少し遅れるかもしれないと考えていたことを、誰にも言えませんでした。

 

 練習していたお礼は、ちゃんと言えました。

 これからも頑張ると、約束できました。

 それなのに、先生が鞄を持ったとき、袖をつかんでいました。

 

 もう少しだけ、そばにいてほしかった。

 

 先生は鞄を下ろし、待ってくれました。

 アリスの指は震えていました。こんなに正確に動かせる手なのに、離すことだけができませんでした。

 

 それでも、やがて離しました。

 遠くから振り返る先生に、手を振りました。

 

 帰ったシャーレで、いつものように明かりを点けました。

 戻ったことを知らせる言葉が、誰もいない部屋に響きました。

 

 返事はありませんでした。

 

 大切にしたのです。

 先生の言ったとおり、一日ずつ、大切にしたのです。

 それなのに、お別れは少しも上手になりませんでした。

 

 みんなと同じ身体なら、同じ速さで変わっていけたのでしょうか。

 このまま、見送る側に残り続けるのでしょうか。

 冷たくなったカップを持ちながら、考えてもわからないことばかり、ケイに尋ねました。

 

 ケイにも、わからないことでした。

 答えを知っているふりをせず、それでも、聞いてくれました。

 

 先生に会わなければよかったとは、思えませんでした。

 モモイとミドリとゲームをしたかった。ユズに、もう一回負けたかった。

 寂しくなるから最初から出会わないほうがいいなんて、そんなのは、どうしても嫌でした。

 

 その夜、ケイは勇者を休むことを許してくれました。

 泣きやむ方法を教える代わりに、泣いている間、そばにいてくれました。

 

 翌日、窓口へ一人の生徒が来ました。

 先生がいないと知っていて、それでも、ほかにどこへ行けばいいかわからなかったそうです。

 

 アリスにも、すぐには答えが浮かびませんでした。

 先生ならどうするか、考えてもわかりませんでした。

 でも、扉を開けて、椅子を引くことはできました。

 

 寂しさがなくなったわけではありません。

 先生の椅子は、空いたままでした。

 

 アリスは、その子が話し始めるのを待ちました。

 大好きな人たちがくれた時間を、全部、寂しさだけにしてしまいたくありませんでした。

 

 だから、また、誰かのために手を伸ばそうと――

 

 

 

*

 

 

 

「アリス?」

 

 肩に、軽く手が触れた。

 

「ねえ、アリス。大丈夫?」

 

 目を開けると、ミドリがいた。

 すぐ近くに、見慣れた髪飾りがあった。

 その向こうから、モモイがのぞき込んでいる。

 

「えっ、ほんとに寝てたの? テスト中に?」

 

 アリスは顔を上げた。

 机の角が頬に当たっていた。

 手にはコントローラーを持っていた。

 

 画面の中で、小さな勇者が立ち止まっている。

 町の音楽が、何度目かわからない繰り返しを奏でていた。

 

「……モモイ」

「うん?」

「ミドリ」

「うん。どうしたの?」

 

 アリスは二人を見た。

 それから、部室の奥を見た。

 

 ユズが、椅子から半分立ち上がっていた。

 こちらへ来ようとして、少し迷っている顔だった。

 

「ユズ」

「……うん」

 

 三人とも、いた。

 

 アリスは、自分の手を見た。

 机を見た。

 窓の外には、夕方のミレニアムがあった。

 

 卒業式の花は、どこにもない。

 知らない後輩のノートも、卒業証書もない。

 モモイの机には、昨日食べた菓子の袋があった。

 

「アリス、泣いてる……?」

 

 ミドリに言われて、頬へ触れた。

 指先が濡れた。

 

 胸の中に、ひどく長い時間の名残があった。

 誰かを見送った気がした。

 手を振っても、もう振り返らない背中を、何度も見た気がした。

 

 思い出そうとすると、遠くなる。

 どの扉を開けて、どんな言葉を言ったのか、わからなくなっていく。

 

 寂しかったことだけが、まだはっきりしていた。

 

「怖い夢でも見た?」

 

 モモイが、いつもより小さな声で聞いた。

 

「……わかりません」

 

 アリスは答えた。

 

「たぶん、怖い夢でした。でも、嬉しいことも、たくさんあった気がします」

 

 ミドリがハンカチを差し出した。

 ユズが、ようやくこちらへ来た。

 机の端へ水の入ったコップを置く。

 

「少し、休む?」

 

 アリスは返事をしようとして、モモイの袖をつかんだ。

 

 モモイが瞬きをした。

 

「アリス?」

 

「今日は、まだ帰らないでください」

 

 声が震えた。

 

「もう少し、一緒にいてほしいです」

 

 モモイはミドリを見た。

 ミドリは静かにうなずいた。

 ユズが、自分の椅子を近くへ持ってきた。

 

「まだ帰らないよ」

 

 モモイは言った。

 

「だって、テスト、終わってないじゃん」

 

 いつもどおりの言い方だった。

 少しだけ、ゆっくりだった。

 

 アリスは袖をつかんだまま、うなずいた。

 

「アリス」

 

 聞き慣れた声がした。

 アリスは、目を伏せた。

 

「……ケイ」

 

「はい。聞こえています」

 

 アリスは、そっと息をついた。

 

 夢の中でも、その声を聞いていた気がした。

 何を話したかは、もうあまり思い出せなかった。

 でも、隣にいてくれた。

 とても寂しかったのに、ひとりではなかった。

 

「ありがとう」

 

「まだ、何もしていませんが」

 

「それでも、です」

 

 ケイは少し黙った。

 

「……水を飲んでください。手を離しても、その人たちはいなくなりません」

 

 アリスは、モモイの袖を見た。

 少し皺になっていた。

 

 ゆっくり指を離す。

 モモイは本当に、どこへも行かなかった。

 

 水を飲むと、部室の音が少しずつ戻ってきた。

 ミドリが紙を揃える音。

 ユズが椅子を引く音。

 モモイが、今のはバグじゃなくて寝落ちだから記録しなくていいよ、と言っている声。

 

 どれも、知っている音だった。

 

 端末が鳴った。

 先生から、ゲーム開発部の連絡先へメッセージが来ていた。

 

『あとで少し寄ってもいい? テスト、どこまで進んだかな』

 

 アリスは画面を見つめた。

 ミドリが、返信する? と尋ねる。

 

 アリスは端末を受け取った。

 

『先生。来てください。アリスたちは、部室にいます』

 

 送ってから、少し考えた。

 もう一文、足した。

 

『一緒に、ゲームをしてほしいです』

 

 返事は、すぐに来た。

 

『もちろん』

 

 アリスは、その短い文字を何度も読まなかった。

 一度、ゆっくり読んで、端末を机へ置いた。

 今は、隣にいる三人の顔を見たかった。

 

「で、アリス」

 

 モモイが画面を指した。

 

「このあとなんだけどさ」

 

 ゲームの中では、魔王が倒され、平和になった町へ勇者が帰ってきていた。

 スタッフロールは、もう終わっていた。

 テスターとしての課題は、そのあとの動作確認だった。

 

「クリア後も、普通に歩けるようにしてみたんだよね。終わった瞬間、タイトルに戻るのも寂しいかなって」

 

 アリスはモモイを見た。

 モモイは画面に向かって、少し得意そうに続けた。

 

「まだ依頼も残ってるし、新しい会話もあるし。全部の問題が魔王を倒しただけでなくなるわけじゃない、みたいな?」

「そのせいで、台詞の量が倍になったんだけどね」

 

 ミドリが言った。

 

「でも……歩けるの、いいと思う」

 

 ユズが続けた。

 

「帰ってきたあと、自分で、次に行くところを選べるから」

 

 アリスはコントローラーを握った。

 小さな勇者が、画面の中で待っていた。

 

 夢の向こうに、空いた椅子があった気がした。

 その前で、誰かの話を聞いた気がした。

 寂しさは、まだ消えていなかった。

 

 これから先、何が起こるのかは、わからない。

 みんなが違う場所へ行く日も、来るのかもしれない。

 そのとき、今日を思い出して泣くのかもしれない。

 

 アリスは、隣に座るモモイを見た。

 ミドリを見た。

 ユズを見た。

 

「アリスは、まだ遊びたいです」

 

 モモイが笑った。

 

「うん。どこ行く?」

 

 アリスは地図を開いた。

 まだ訪れていない、小さな町があった。

 魔王の城へ行くには、通る必要のなかった場所だった。

 

「ここへ、行ってみたいです」

 

 勇者が一歩、町の門を出た。

 新しい道が、画面の端まで続いていた。

 

 扉の向こうから、先生の声がした。

 モモイが返事をして、ミドリが椅子を空け、ユズが画面を少し動かした。

 

 アリスは顔を上げた。

 

「先生!」

 

 今度は、返事があった。


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