不思議の前兆、フクロウ便
動物園から帰った日の夜。
ハリーは自分が何をしたのか何度考えても分からなかった。蛇と話した、それだけならまだいい。問題はその蛇を閉じ込めていたガラスが――消えたことだ。壊れたのではないしひびが入ったわけでもない。ガラスそのものがまるで最初から存在しなかったかのように消えた。ハリーは布団の中で天井を見つめた。部屋は暗く、窓から差し込む街灯の光が床に細長い四角形を作っている。
「……僕がやったのかな」
誰も答えない、もちろんだ。ハリーは寝返りを打った。
蛇は自分に「ありがとう」と言った、あれが本当に言葉だったのか。それともただの勘違いだったのか。だがあの瞬間だけは確信していた。
蛇の言っていることが分かった。
そして自分が返した言葉も蛇に伝わっていた。それは機械を直すときとは違う。機械なら原因がある。目で見て手で触ってどこがおかしいのかを探せる。だが今日の出来事には説明がつかなかった。
ハリーは枕の下から小さな懐中電灯を取り出した。
自作のものだ、ダーノンの倉庫で転がっていた古い電池とダドリーの壊して放置された玩具の部品を組み合わせスイッチを改造してある。点灯する。消える。また点灯する。ハリーはその単純な動作を眺めた。少なくとも、これは自分で理解できる。
「……魔法みたいだ」
口にした瞬間、ハリー自身が笑った。
「何考えてるんだろう」
魔法なんてあるはずがない。そう思っていた翌朝までは。
*
最初の手紙が届いたのはその数日後だった。朝食の時間。ハリーからダーノンが新聞を受け取った。
いつもと同じだ、新聞。請求書。広告。
そして――
一通の封筒。ダーノンは眉をひそめた。
「ペチュニア」
「何?」
「こりゃ何だ?」
封筒には、宛名が書かれていた。
ハリー・ポッター様へ
サリー州リトル・ホウィン
プリベット通り四番地
階段下の物置
ハリーは自分の名前を見つめた。胸の奥が奇妙にざわついた、自分宛ての手紙。生まれて初めて、なぜかとても大切なもののように思えた。
「僕に?」
ハリーが手を伸ばす。
だがダーノンの手が先に封筒を掴んだ。
「お前に手紙を送る奴などいない」
「でも、名前が――」
「黙れ!」
ダーノンは封筒を裏返した。差出人の名前はなかった。ハリーはじっと手紙見つめる、不思議だった。どうして自分に手紙が来たのか、誰が自分の住所を知っているのか。
何より――
なぜ、階段下の物置に住んでいることまで知っているのか。ダーノンは封筒を破った。その瞬間ハリーの胸に初めて明確な怒りが湧いた。
「それ、僕の手紙だよ」
ダーノンが振り返り
「何だと?」
「僕宛てなんだから、読む権利は僕にある」
自分でも驚くほど声が冷静だった。ダーノンの顔が赤くなる。
「お前が私に口答えするのか!」
「口答えじゃないよ」
ハリーはダーノンを見た。
「ただ、僕の名前が書いてあるから」
ペチュニアが息を呑んだ。その顔を見てハリーは気づいた。叔母は何かを知っている。以前からそうだった自分の目を見ようとしないしリリーという名前を聞くと表情が変わる。自分が赤ん坊の頃のことを尋ねると話を逸らす。そして今もその手紙を見た瞬間顔が青ざめている。
「叔母さん」
「……何?」
「僕って、どこから来たの?」
ペチュニアの手から皿が落ち甲高い音が響く。
「知らないわ」
あまりにも早い返答だった。ハリーは黙った。嘘だ。直感的にそう思った。だがそれ以上は聞かなかった。
*
翌日から手紙は増えた。
郵便受けや玄関の隙間、暖炉、しまいには朝食の皿の上どれもハリー宛て。ダーノンは狂ったように手紙を破りまくった。
「この家に手紙を入れるな!」
郵便配達員に怒鳴りつけ郵便局へ電話する。玄関を補強して窓を閉める、それでも手紙は届く。ハリーは次第に確信し始めていた。この手紙を書いた人間はどういうわけか自分を知っている。自分の両親を知っている。
そして――
ダーズリー家が何を隠しているのかも知っている。ある夜ハリーは台所で工具を整理していた。ダーノンが壊した引き出しを直していたのだ。ペチュニアが後ろに立っていた。
「……何をしているの?」
「引き出し」
「そんなもの、放っておけばいいでしょう」
「直せるから」
ハリーは木片を削った。ペチュニアは黙っている。
やがて、小さな声がした。
「あなたの母親も……」
ハリーの手が止まった。
「母さんがなんて?」
「……何でもないわ」
ペチュニアは立ち去った。ハリーはその背中を見送る。まただ。母親の話をすると、叔母は何かを隠す。そしてそのたびにハリーの中に一つの疑問が積み重なっていく。
――僕の両親は、いったい人達だったんだろう?
*
やがてダーノンは決断した。
「出るぞ」
ハリーは顔を上げた。
「どこへ?」
「どこでもいい!」
ダーノンは叫んだ。
「この手紙から逃げるんだ!」
ハリーは少し考えた。逃げられるのだろうか。手紙を送ってくる人間がこれほどまでに自分たちを追えるなら、どこへ行っても同じではないのか?だが口には出さないダーノンはすでに家族を連れて逃げ始めていた。ホテル。小さな宿。さらに遠く。ハリーはそのたびに荷物を運ばされた。そして移動先でも、手紙は届いた。一通。二通。十通。やがてダーノンは完全に追い詰められていった。
「手紙だ!」
雨の夜、荒れた海の上の小さな島の古い小屋。ハリーは毛布に包まりながら外を見ていた。風が窓を揺らしている。ダドリーもペチュニアも眠っていてダーノンだけが起きていた。そしてハリーは思った。
明日は自分の十一歳の誕生日だ。
誰も覚えていないだろう。別にそれでもいい。ただ自分に届こうとしている手紙だけは少し気になっていた。
床にバースデーケーキを描く。ちょっとした雰囲気を出し自作の時計を秒針を数える。5…4…3…2…1
「フッー…おめでとう。ハリー」
今夜はいい夢が見れますように…
――ドン。
扉が揺れる、ハリーが顔を上げた。もう一度。
――ドン。
今度は小屋全体が震えた。
「誰だ!」
ダーノンが叫ぶが返事はない。さらに大きな音がした。
――ドォン!
扉が吹き飛んで冷たい風と雨が一気に室内へ流れ込んだ。ハリーは目を見開いた、入口に立っていたのは人間と呼ぶにはあまりにも巨大な男だった。濡れた髭や黒い髪、肩幅はハリーの知っている大人の倍近くある。
男は部屋を見回した。
そして――ハリーを見つけた。
巨大な男の顔に驚きと喜びが同時に浮かんだ。
「よう」
低い声だった。
「ハリー」
ハリーの心臓が跳ねた。
「……僕を知ってるの?」
男は笑った。
「知っとるとも」
ハリーは立ち上がった。
「あなたは誰?」
「ルビウス・ハグリッドだ」
男は胸を張った。
「ホグワーツの森番さ」
ホグワーツ?。聞いたことのない名前だった。ともかくそう言ってその男――ハグリッドは大きな包みを床へ置いた。
「さて、ハリー。十一歳の誕生日、おめでとう」
ハリーは固まった。誰かに誕生日を祝われたのは――少なくとも初めてだ。
「……ありがとう」
声が少しだけ震えた。ハグリッドが笑う、その笑顔を見てハリーは妙な安心感を覚えた。だが次の瞬間ダーノンが怒鳴った。
「出ていけ!」
ハグリッドの顔から笑みが消えた。
「何だって?」
「その話は終わりだ!」
ダーノンはハリーを指差した。
「こいつに何を吹き込むつもりだ!」
ハリーは二人を見比べた。ハグリッドはゆっくりとハリーを見る。
「吹き込む?」
そして少し困ったように眉を寄せた。
「何も知らされとらんのか?」
ハリーは息を呑んだ。
「何を?」
ハグリッドはしばらく黙った。やがて静かに言った。
「ハリー、お前さんは――」
その言葉を聞いた瞬間ハリーは長い間胸の奥に抱えていた疑問が、ようやく形になろうとしているのを感じた。
「――魔法使いだ」
風の音だけが聞こえる。ハリーは瞬きをした。
「……何?」
「魔法使いだ」
ハグリッドはもう一度言った。ハリーは冗談だと思って笑おうとする。だがハグリッドは笑っていない。
「僕が?」
「そうだ」
「でも、そんなもの……」
ハリーは言葉を止めた。喋る蛇。消えたガラス。届き続けた手紙。説明のつかない出来事。それらが一気に頭の中で繋がった。
「……あれは」
ハリーは呟いた。
「蛇と話したのも?」
ハグリッドの目が丸くなる。
「蛇と?」
「うん。動物園で。僕が話しかけたら向こうの言ってることが分かった」
ハグリッドはしばらくハリーを見つめた。
そして――
「なるほどな」
妙に嬉しそうに笑った。
「そりゃあ、確かにお前さんの父親譲りだ」
「父さん?」
ハリーの胸が強く鳴った。
ハグリッドは頷いた。
「ジェームズ・ポッター」
その名前を聞いた瞬間ペチュニアが顔を伏せた。ハリーはそれを見逃さなかった。やはりこの人たちは何かを知っている。自分の父親を、自分の母親を、自分自身についても。ハリーはハグリッドを見つめた。
「もっと教えて」
今度の声には、迷いがなかった。
「僕の両親は、何だったの?」
ハグリッドは静かに息を吐いた。
「それを話すにはな……少し長い話になる」
ハリーは頷いた。
「聞きたい」
十一年間誰も教えてくれなかった。だから今度こそ、自分から知りたかった。自分は誰なのか。両親は何者だったのか。なぜ自分はここにいるのか。そして魔法とは何なのか。ハリー・ポッターの十一年目の誕生日は、こうして始まった。