水曜日の午後のグラウンドには、前日の勝利の余韻と、明日に控えた大一番への張り詰めた空気が同時に満ちていた。
梅雨が明けてからというもの、容赦のない日差しが連日グラウンドの黒土を焼き続けている。外野の芝生からは熱気とともに青臭い草の匂いが立ち上り、バックネット裏のベンチのトタン屋根はジリジリと音を立てそうなほど熱を帯びていた。
三回戦を成瀬先輩の完封という最高の結果で突破した野球部員たちの声には、確かな熱がこもっている。だがそれと同時に、グラウンドのそこかしこに独特の緊張感が漂っていた。
木曜日の四回戦、相手は第二シードの明陵学院だ。
春の県大会準優勝、打線の破壊力は県内屈指で、特に百四十キロを超えるような速球には滅法強い。初戦の相手のように勢いだけでねじ伏せられる相手ではないことなど、部員の誰もが痛いほど理解していた。
中一日での連戦となるため、昨日一人で九回を投げ抜いた成瀬先輩が明日も完全に抑え切れる保証はない。どこかで、背番号十をつけたあいつの力が必要になる。
全体練習が始まり、部員たちがグラウンドを何周もランニングし、入念なストレッチとウォーミングアップをこなしていく。
俺はバックネットの外側、三塁側のフェンス沿いに立ち、その様子をじっと見つめていた。散水された水が黒土からすぐに湯気となって蒸発し、生ぬるい風が吹くたび、フェンスの菱形の金網が微かに擦れ合う乾いた音が耳に届く。
アップを終えた部員たちがペアを作り、グラウンドの端でキャッチボールを始めた。
城ヶ崎は堂本キャプテンを相手に、腕を振っている。キャメル色のグラブを構え、相手の胸元をめがけて真っ直ぐに腕を振り下ろす。一球ごとに響く重い捕球音が、ネットの外まで届いてきた。高校から野球を始めたばかりのあいつは、一週間前とはまるで別人のような落ち着きを見せている。初戦の救援登板を経験し、昨日はベンチの最前列で成瀬先輩の気迫の完封劇を見届けたばかりだ。
キャッチボールが終わり、野手陣がシートノックの準備へと移ろうとしたそのときだった。
「城ヶ崎、ちょっとマウンドに来てくれるかい」
低く、だがグラウンドの隅々までよく通る穏やかな声が響いた。
成瀬先輩だった。
背番号一のエースは、練習着の袖を肩口までまくり上げ、マウンドのプレートの脇に立っていた。昨日の今日だというのに、その立ち姿には疲労の欠片も見当たらない。涼しげな目元と引き締まった口元には、三年生のエースとしての絶対的な落ち着きがあった。
グラブを抱えてベンチへ戻りかけていた城ヶ崎が、弾かれたように足を止めた。
「はい!」
城ヶ崎は踵を返し、駆け足でマウンドへと上がっていった。
成瀬先輩は上がってきた城ヶ崎の顔を穏やかに見つめ、それから、バックネットの外にいた俺の方へ視線を向けた。
「姫宮さんも、時間があるならそこで見ていってよ」
唐突に名前を呼ばれ、俺はフェンスにかけていた手を握り直した。
金網へと一歩歩み寄り、菱形の針金に指をかける。金属のひんやりとした感触が、汗ばんだ指先に伝わってきた。マウンドの二人が強い午後の日差しに照らされ、黒土の上に短い影を落としている。
「城ヶ崎。明日の明陵学院戦、先発は俺がいく」
成瀬先輩はポケットからロージンバッグを取り出すと、手のひらでポンと軽く叩いた。白い煙のような粉が午後の光の中に淡く散る。
「だが、相手は春の準優勝校だ。打線の鋭さは初戦の相手と比べ圧倒的だ。それに俺がどれだけ工夫して投げても、中一日で九回まで投げ切るのは現実的じゃない。試合の中盤か終盤、どこかで必ずお前にマウンドを託すことになる」
城ヶ崎は背筋をぴんと伸ばし、真剣な眼差しで先輩の言葉を受け止めていた。
「お前のストレートの球威は本物だよ。初戦の八回も、四球は出したけれどその後の二者連続三振は見事だった。お前のフォームを作ったのは姫宮さんだ。セットポジションでの体重の乗せ方、スムーズな腕の振り、肘や肩に負担をかけない体の使い方。姫宮さんがお前に教えた土台は全部正しいし、本当に素晴らしいと思う。……だけどね、城ヶ崎」
成瀬先輩はグラブを外し、マウンドの白いプレートをスパイクの先でコツコツと叩いた。乾いた土の音が、静まり返ったグラウンドに響く。
「今の城ヶ崎に足りないのは、打者との駆け引きなんだ」
ネットの外で、俺の指先がピクリと跳ねた。
金網の冷たさが、皮膚を通して骨の奥まで染み込んでくるような錯覚を覚えた。
「駆け引き、ですか」
城ヶ崎が首を傾げ、素直な声で聞き返した。成瀬先輩は深く頷く。
「そうだよ。これまでは堂本のサイン通りに思い切り腕を振っていれば、お前の球威なら抑えられた。だけど明日の明陵は、サイン通りに投げるだけじゃ通用しない。サインを出すのが堂本でも、マウンドで打者と正面から向き合って投げるのはお前なんだよ。バッターがどう反応したか、何を待っているかを、お前自身も見られるようにならなきゃいけないんだ。俺が打席に立って、バッターの反応を見せてやるから――」
成瀬先輩がマウンドを下り、右のバッターボックスへと向かおうと足を動かしたその時。
ネットの外で、俺の胸が激しく波打った。
打者との駆け引き。相手打者の見送り方、構え、仕草から狙い球を察知し、こちらの意図を悟らせずに裏をかく技術。観察し、罠を仕掛け、バットの芯を徹底して外し続ける狡猾さ。
それは、球速に恵まれなかった前世の俺が、弱小校を甲子園準決勝まで導いた最大の武器であり、何者にも譲れない誇りだった。
高校野球を勝ち進むつもりなら、城ヶ崎にも必要な技術だ。分かっていた。
なのに、なぜ俺は今までそれを教えなかったのか。
頭の中で理由を探そうとするが、薄っぺらく剥がれていく。
もしもあいつに、俺の武器まで乗ってしまったら。
そこから先を考えようとした瞬間、頭の奥に分厚い靄がかかった。視界が急速に白く霞み、喉の奥がカラカラに干からびる。
「成瀬先輩!」
自分の口から飛び出した鋭い声に、俺自身が一瞬息を呑んだ。
金網を強く握りしめる。マウンドと打席の二人が驚いたようにこちらを振り返った。
「姫宮さん? どうしたんだい?」
「あの、成瀬先輩、城ヶ崎君の球を打席で見るのは控えてもらった方がいいと思います」
早口になるのを止められない。
「明日先発する大事なエースなんですから、万が一のことがあってはいけません。城ヶ崎君の球威で万が一デッドボールを受けたり、とっさに避けようとして手首や足をひねったりしたら、明日のマウンドに立てなくなります。昨日九回を一人で投げ切ったばかりで反応だって鈍っているかもしれないんですから、成瀬先輩が打席に入るような危ない真似は避けてください」
なぜこんなに必死になっているのか、自分でも分からなかった。口から溢れ出る言葉の切迫した勢いを制御できず、胸の奥がひどくざわつき、息苦しさが喉を塞ぐ。
成瀬先輩は少しの間じっと俺を見つめ、それから小さく息を吐いて笑みを浮かべた。
「……そうか。姫宮さんの言う通りだな。明日に向けて余計な故障のリスクは避けておくべきか。止めてくれて助かったよ。城ヶ崎のことが気になって、つい熱が入ってしまってね」
成瀬先輩はマウンドへ戻り、城ヶ崎の肩にぽんと手を置いた。
「城ヶ崎。明日は俺が先発していけるところまで投げる。どんな泥臭い形になろうと試合を作ってくるから、最後はお前がマウンドに上がって相手をねじ伏せるんだ。いいかい」
成瀬先輩の横顔には一切の迷いがなかった。城ヶ崎は背筋を伸ばし、力強い声で応える。
「はい! 成瀬先輩と一緒に、甲子園へ行きます!」
「うん、その意気だ。お互い、怪我しないように気を付けて練習しよう」
成瀬先輩は部室へ向かい、城ヶ崎はルペンへと走っていった。
俺は金網から手を離した。手のひらには冷たい汗がびっしりと滲んでいる。
シートノックの打球音が響く中、俺はネットの外で立ち尽くしていた。
成瀬先輩を止めてしまった。
俺はなぜあんなことを口走ったのか。理由を探そうとした途端、脳の奥底に濃い靄が立ち込め、思考が白く塗りつぶされた。
止めた以上、明日の明陵戦に向けて城ヶ崎に駆け引きを教えるのは俺の役目だろう。中途半端なまま放り出すわけにはいかなかった。
俺はグラウンドを離れ、校舎へと向かった。
放課後の教室には午後の日差しが白く差し込み、熱気がこもっていた。
スクールバッグから、一冊の古い大学ノートを取り出す。
今世で筆が持てるようになってすぐに、前世で身につけた投球理論や配球、体作りなどの全ての知識を忘れないよう書き留めておいたノートだ。今から数年後、数十年後に発表される理論、長年をかけて正しさが広まる理論などを含めたメモがびっしりと並んでいる。
俺はそこから打者の駆け引きのページを開き、これから教えることをまとめ始めた。
全体練習の終了を告げる笛が鳴り響いたのは、それから一時間半ほど経った夕暮れ時だった。
グラウンド整備と片付けが始まる中、俺はベンチ前へと向かった。
用具を片付けていた城ヶ崎と、その近くでレガースを外していた堂本キャプテンの元へと歩み寄る。
「城ヶ崎君。昨日の約束じゃ河川敷に行く予定だったけど、今日はここで居残り練習をさせてほしいんだ。チェンジアップの最後の仕上げと、駆け引きの実戦練習をやりたいんだけど……打席に立って、打者の目からどう見えるか教えてくれる人が必要なんだよ」
俺は堂本キャプテンを見つめた。
「堂本キャプテン、少し打席に入ってもらえませんか。できればレギュラーの打者陣にも見学してもらいたいです。城ヶ崎君の球を見ることで、明日、明陵の投手を打つために打者側からどう待って見分けるかの練習にもなるはずですから」
堂本キャプテンは太い眉を動かし、ベンチやグラウンドの野手陣に向かって野太い声を張り上げた。
「おい、レギュラー陣! 片付けの手を止めてこっち集まれ! 城ヶ崎の球を見て打撃の目を慣らすぞ。ヘルメット持ってこい!」
片付けをしていた三年生の打者たちが顔を見合わせ、興味深そうに集まってくる。堂本キャプテンは俺に向き直った。
「打撃陣の強化にもなるってんなら願ってもない。俺ならヘルメットもあるし、来る球も分かってるから怪我の心配もねえ。捕手が打席での見え方を知っとくのも仕事だからな。だが俺が打席に立つなら、受ける姫宮さんにも防具がいるな。用具入れから防具一式を持ってきな」
俺はベンチ脇の用具入れから、部の備品で一番小さい防具一式を借りて身につけた。
スクールバッグから、使い込まれて飴色になった小ぶりな硬式用グラブを取り出す。ベンチの上に古い大学ノートを置き、細かく書き込まれたページに一度だけ目を落とした。
部活の始めに制止した成瀬先輩の目の前で、自分が駆け引きを教えることになる。胸の奥にチクチクとした苦い痛みが走ったが、俺は防具の紐を締め、本塁の後ろに腰を落とした。
「城ヶ崎君、マウンドへ!」
「おう!」
城ヶ崎がマウンドへ駆け上がり、堂本キャプテンがバットを持って右打席に入った。ネット裏には成瀬先輩たちレギュラー陣が集まり、真剣な眼差しでマウンドを見つめている。
「城ヶ崎君、まずは初球、思い切りストレートを投げてみて!」
城ヶ崎が頷き、セットポジションから鋭く腕を振り下ろす。
そのストレートを受け止めながら、俺は立ち上がって声を張った。
「城ヶ崎君の百四十キロ台半ばのストレートなら、手から離れてホームベースに届くまで約コンマ四秒しかないんだよ。球がホームの手前約七メートルに来るまでに振るかどうかを決めなきゃいけなくて、そこから先はもうバットを出すだけの時間しか残っていないの」
「腕の振りはストレートと同じ速さで思い切り振るんだよ。チェンジアップは握りで回転と勢いを殺すから、放した瞬間から直球より一割くらい、十五キロ前後遅い球になるの。同じ腕の振りで同じ出どころから出るから、打者が振るか決める手前七メートルあたりまでは、打者にはほとんど同じ球に見える。そこから先で、チェンジアップは遅いぶんホームに着くまでの時間が長くて重力で多く落ちるし、回転も少ないから低めに沈む。打者は真っ直ぐのつもりで振り始めているから、体が前に出たりバットがボールの上を通ったりするんだよ」
堂本キャプテンが唸るように顎を引いた。
「手前七メートルか……。確かにそこまで同じ球に見えたら、打者はヤマを張って振るしかねえな」
城ヶ崎が受け取った返球を深く握り直し、左足を上げて腕を鋭く振る。
同じ出どころから放たれた白球は、放された瞬間から直球より速度を抑えられ、打者の手前で低めへ沈んだ。
堂本キャプテンが踏み込み、バットを止めながら体を固くする。
「おいおい……マジで手前まで真っ直ぐと同じ軌道だ。来ると分かってて構えてても、打席だと体が勝手に突っ込みそうになる」
打席脇のレギュラー陣も息を呑んだ。
「みんなも覚えておいてね。手前七メートルまで同じ軌道で来る変化球は、目で見てからじゃ対応できない。速いストレートのタイミングで待ちながら、遅い球には前の膝を残してタメを作るか、あらかじめ狙い球を絞っておくしかないんだよ」
野手陣が真剣に頷き合うのを確認した後、俺はマウンドへ視線を戻した。
「高校野球ではよく低めに集めろって言われるでしょ。でも、速くて回転の強い球なら、低めより高めのほうが空振りを三倍から四倍も多く取れるんだよ。城ヶ崎君の球威なら、ベルトより上の高めが大きな武器になる。強い直球はスピンで重力に逆らって落ちにくいから、打者が思っているより高いところを通って、バットがボールの下をくぐりやすいんだ。ただし、チェンジアップを高めに浮かせたら、遅いうえに打ちやすい高さに残って痛打されるから、高めを使うのは強いストレートだけにすること」
「高めは強いストレートだけで、チェンジアップは低めだな……!」
城ヶ崎が息を吸い、足を高く引き上げて腕を振る。
放たれた白球は、浮き上がるような勢いのまま打者の胸の高さを通って、俺のグラブにズバッと収まった。
堂本キャプテンはピタリとバットを止め、じっと軌道を見送る。
「……確かに、打席だと浮き上がって見えるな」
胃の底で重い熱がじわりと滲む感覚があった。喉の奥に苦い唾液が溜まるのを、俺は奥歯を噛んで飲み下す。
「打者陣も、相手の強い直球の高めには簡単に手を出さないように注意してね。ゾーンより上の強い真っ直ぐは、振っても空振りかフライにしかならないから。……それから城ヶ崎君、初球! 初球ストライクから入った打席と初球ボールから入った打席じゃ、打率が五分くらい違うんだよ。先にストライクを取れれば、次からボール球を振らせる余裕ができるし、打者はきわどい球にも手を出さなきゃいけなくなる。逆に初球がボールになると、こっちはストライクを取りにいくしかなくなって、打者は待つ球を絞って思い切り振ってくるの。だから初球を軽く見ちゃダメだよ」
見学していた三番打者が小さく呟いた。
「五分も違うのかよ……」
「打者陣も同じだよ。明陵の投手も初球にストライクを取りにくるはずだから、甘い初球を見逃さない意識を持ってね」
城ヶ崎がしっかりと頷く。俺はマスクの下から息を整えながら続けた。
「球の速さを少しずつばらばらに変えるだけで、バッターは打ちにくくなるんだよ。直前の何球かの速さに目を引っ張られて、タイミングを取っちゃうからね。だから一球だけで勝負しようとしないで、組み立てで考えるんだよ。速いストレートを続けて見せたあとのチェンジアップはより遅く感じるし、チェンジアップを見せたあとのストレートは数字以上に速く見えるんだ」
「一球ずつじゃなくて、前の球からの流れで目を惑わせるんだな」
「そう。低めにチェンジアップを投げてみて!」
城ヶ崎が深く握り直し、鋭く腕を振り抜く。
低めに沈んだチェンジアップに、堂本キャプテンはバットを構えたままじっと球筋を見送った。
俺はボールを捕球し、すかさずマウンドへ声を飛ばした。
「今、キャプテンに遅い球を見せたでしょ。じゃあ次は?」
「チェンジアップを見せたあとだから……内角高めに強いストレート!」
城ヶ崎が自ら叫び、流れるような動作で腕を振り抜いた。
ズバッと空気を裂く音がして、白球が胸元の厳しいコースへ突き刺さる。堂本キャプテンはバットを構えたまま動かさず、静かに見送った。それから小さく息を吐く。
「こいつは効くな。さっきの遅い球が頭に残ってるから、真っ直ぐが実際以上に速く感じる」
周りの野手陣もどよめいた。
「思ってた以上に目が惑わされる……」
「逆に俺たちが明陵の投手を打つときも、前の球に目を引っ張られないように球種を絞る必要があるな」
「キャプテン、次は狙う球を決めて、それに合わせて立ち位置を変えてみてもらえますか」
俺が声をかけると、堂本キャプテンはベースのすぐ近く、白線の内側ぎりぎりに踏み込んで構え直した。さらにグリップを指一本分短く握り直す。
「城ヶ崎君、キャプテンの立ち位置と手元を見て」
城ヶ崎がマウンドからじっと目を凝らした。
「ホームベースに近づいて立つ打者は、外角の球に踏み込んで届かせたいことが多いんだよ。逆にベースから離れて立つ打者は、内角の速い球に詰まるのを嫌がっているかもしれない。それに今、キャプテンがバットを少し短く持ったでしょ。速い球に振り遅れたくない、なんとか当てにいきたいって思っている合図のことが多いんだ」
「ベースに近いから外を狙っていて、短く持ったから速い球を警戒している……」
「そう。じゃあ、外を待って速い球に合わせようとしている打者には、どこに何を投げる?」
「……低めにチェンジアップ」
「投げてみて!」
城ヶ崎が深く握り直して腕を振り抜いた。
同じ腕の振りから放たれた遅い球が、打者の手前で低めに沈む。ベース寄りに踏み込んで構えていた堂本キャプテンは、バットを止めながらも前の膝がわずかに沈みかけた。見送ったボールに視線を落とし、堂本キャプテンが息を吐く。
「真っ直ぐに合わせようと短く持ってたから、打席だと体が勝手につんのめりそうになるな。捕手をやってると、打席に入った打者の立ち方やバットの握りはまず見るもんだ。相手の狙いが見えてくれば、配球の組み立てはぐっと楽になるぜ」
俺は集まっている野手陣へも言葉を向けた。
「打者陣もね、逆に立ち位置を打席ごとに少し変えるだけで、相手バッテリーを迷わせることができるんだよ。不用意にベースに近づきすぎたり、バットの握りを変えたりして、自分の狙いを相手に読まれないように気をつけてね」
「なるほどな……」
「意識してなかったけど、今までなんとなく立ってたかもな」
打者たちが口々に頷き合った。
吐き気が胃の腑をじわじわと締め付けてくる。胸の奥が焼けるように痛むのを堪え、俺は声を振り絞った。
「それから、打順が一巡するごとに相手は球筋に慣れて打ちやすくなっていくんだ。昔、一巡目に三振を取ったのと同じコースに同じ球を投げて、痛打されたことがあってね。一巡目に何で打ち取ったか、何を打たれたかを覚えておいて、二巡目からは攻め方を変えること!」
「うん。前の打席と同じ攻め方はしない」
「キャプテン、もう一球いいですか! ピンチの場面を想定して投げたいです!」
興奮で息を弾ませる城ヶ崎の肩に、わずかに力みが入った。
俺はすかさずマスクを上げた。
「もしピンチになって頭に血が上りそうになったら、一度プレートを外して。先週教えたでしょ、サインを見る前に息を深く吐き切る呼吸法。あれをマウンドの上でやり直すんだよ」
城ヶ崎ははっとしてプレートを外し、大きく息を吐き出した。強張っていた肩の線がすとんと落ちる。
再びプレートを踏み直した城ヶ崎は、打席の堂本キャプテンを冷静に見据え、自ら選んだ外角低めへ鋭い球を投げ込んだ。
堂本キャプテンはバットを出さずに見送り、大きく頷いた。
「今ので十分だ。息を吐いて間を取って、自分で意図を持って投げた球だ。捕手として受けてきた経験から言っても、打者を見ながらこのコースに投げ分けられたら、明陵打線でもそう簡単には捉えられねえよ」
野手陣は口々に城ヶ崎の球を称えながら、打席での見え方や明日の打席への収穫を語り合っていた。
城ヶ崎はマウンドの上で顔を輝かせ、嬉しそうにグラブを叩いた。
その眩しい笑顔を見つめているだけで、胸の奥から酸っぱいものが喉元まで押し寄せてくる。
あいつの吸収力。一球ごとに教えたことをそのまま自分の血肉に変えてしまう才能。
俺が何年もかけて、肘を擦り減らしながら手に入れた狡猾な技術を、あいつはいとも簡単に飲み込んでいく。
教えるほどに吐き気が強くなり、視界の端がチカチカと明滅した。
早く終わらせたい。これ以上、投げさせたくない。
その思考が頭をよぎった瞬間、脳の奥に濃い靄がかかり、思考が白く霞んだ。ただ喉の奥の引き攣りと胃の痛みだけが残る。
俺はグラブでボールを受けるたび、湧き上がる吐き気を必死に押し殺していた。
城ヶ崎の投球練習が一通り終わったあとも、熱気を帯びたグラウンドの空気は収まらなかった。
火がついたレギュラーの打撃陣が交代で打席に入り、明日の明陵の投手を打つイメージを確かめるようにフリー打撃を繰り返した。
打者たちのスイングが次第に鋭さを増していく中、城ヶ崎も明日の登板に疲れを残さないよう、球数を絞り、力をある程度抑えながらコースと緩急の感覚を確かめていく。
俺も捕球しながら細かく声をかけ、日が落ちるまで練習を見届けた。
居残り練習を終え、片付けを済ませて校門を出たときには、空はすっかり夕闇に沈んでいた。
街灯の明かりが等間隔に灯り、住宅街へと続く緩やかな上り坂を白く照らしている。
アスファルトには昼間の熱気がもわもわと残り、生ぬるい風が吹くたびに嫌な汗が肌に滲み出た。
胃の奥底から込み上げてくる酸っぱい熱は一向に収まらない。口の中が苦く、唾を飲み込もうとしても喉が引き攣る。足元が時折かすかにふらついた。
「今日はすごく楽しかった」
隣を歩く城ヶ崎が弾んだ声で言った。
「姫宮に教わったチェンジアップと駆け引きを合わせれば、俺、明日はどんなバッターだって抑えられる気がするんだ」
「……明日は、春の県大会で準優勝した学校だからね」
吐き気をこらえながら、俺はか細い声を絞り出した。
「油断しちゃダメだよ。成瀬先輩が試合を作ってくれたあと、大事な場面で投げるんだから」
「うん、分かってる! 成瀬先輩が守ってくれた試合を、俺が壊すわけにはいかないからな。俺が抑えて絶対に勝つ」
城ヶ崎の明るい声が耳の奥で大きく反響した。
冷たい汗が顎へと流れ落ちる。視界が揺れ、足元の影が二重に見えた。
「姫宮……?」
城ヶ崎が足を止め、怪訝そうに覗き込んできた。
「お前、なんか顔色悪くないか? 唇も真っ白だし……すごく汗かいてるぞ。大丈夫か?」
「平気だよ」
俺は立ち止まらずに進もうとした。
「ちょっと暑さにやられただけ。夏バテ気味なだけだから」
「でも、辛そうだぞ。カバン持ってやろうか? 家まで送るよ」
「平気だって言ってるでしょ」
冷たく鋭い口調が口をついて出てしまった。城ヶ崎が驚いたように肩をすくめる。
その表情を見て胸がきりりと痛んだ。すぐに息を整え、調子を取り繕う。
「……ごめん。ちょっと疲れてるだけだから。城ヶ崎君は明日大事な試合なんだから、余計な体力使っちゃダメだよ。早く帰って、ご飯食べて、しっかり寝なきゃいけないんだから」
「あ、うん……そうだけどさ……」
二股に分かれる交差点に辿り着いた。城ヶ崎の家は右、俺の家は左だ。
「じゃあ、ボクはこっちだから」
「うん。……本当に無理すんなよ。明日、スタンドから見ててくれよな」
「うん。見てるよ」
城ヶ崎は何度も心配そうに振り返りながら、右の通りへと歩いていった。
大きな背中がやがて夜の闇の中に溶け、完全に視界から消えた。
その瞬間、膝から一気に力が抜けた。
胃の底に溜まっていた熱い塊が、喉元まで一気に突き上げてくる。
俺は両手で口元を強く押さえ、足をもつれさせながら道端へと倒れ込んだ。
アスファルトの端、生垣の根元に沿って通っている側溝の鉄格子にすがりつく。金属の格子に指をかけ、顔を突っ伏す。
喉が激しく引き攣り、胃の中のものが一気に逆流した。
背中を丸め、側溝の暗闇に向かって胃の中のものを吐き出す。
胸が激しく波打ち、喉を焼くような酸味が口いっぱいに広がる。目元に滲んだ涙がコンクリートの縁に落ちた。胃の中が空っぽになっても、胸の奥からの痙攣はしばらく止まらなかった。
ゴホッ、と掠れた咳を吐き出しながら、冷たいコンクリートの側壁に手をつく。
荒い息を繰り返すたび、喉の奥がヒリヒリと痛んだ。
遠くで電車の走る重い通過音が響き、夜の生ぬるい風が首筋を撫でていく。
激しい動悸がようやく収まり始め、俺はふらつく足に力を込めて、電柱に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。
スクールバッグから取り出した水筒の残りの水を口に含み、側溝に向けて吐き出す。
何度も口をすすぎ、舌に残る苦みと酸味を洗い流した。濡らしたハンカチで額と口元を丁寧に拭うと、頭の奥の熱が少し引いた。
完全に夏バテだ。
自分自身は激しい運動をしていないとはいえ、初戦の応援から昨日の三回戦の観戦、そして今日も炎天下のグラウンドで照り返しを浴び続けた。連日の猛暑で、身体の芯に疲れが溜まっていたのだ。
そういえば今朝からずっと身体が重く、昼もあまり食欲が湧かなかった。一日中くすぶっていた小さな不調が、夕方の暑さで一気に噴き出しただ違いない。この身体の貧弱さは今に始まったことではないのだ。
城ヶ崎には話せない。
明日はあいつにとって高校に入って最初の大一番だ。そんな大事な登板を前に、余計な心配をかけてメンタルを乱すわけにはいかない。
一晩ぐっすり眠って明日を迎えれば、体調に大きな問題はないはずだ。
成瀬先輩がどんな組み立てで明陵学院の強力打線に立ち向かうのか。
そして、マウンドを引き継いだ城ヶ崎が、先週から磨いてきたチェンジアップと、今日教えた駆け引きを使ってどんな球を投げるのか。
スタンドの上から、静かに見届けるだけなのだから。