開け放たれた体育館の高窓から、容赦のない熱気が淀みなく流れ込んでいた。
床に敷かれた緑のビニールシートの上に、全校生徒が学年ごとに整列して座らされている。じっと息を潜めているだけでも、首筋や背中にじっとりと汗が滲んできた。夏の湿気を含んだ重い空気が、全校生徒の熱気と混ざって天井近くに溜まり、視界の隅が白く霞んで見えるほどだ。
ステージの上では、校長がマイクを片手に訓話を垂れていた。話の内容は毎度おなじみの、規則正しい生活習慣と夏休みの心構えについてだった。退屈そうに首を回す男子生徒や、下敷きを団扇代わりに胸元を扇ぐ女子生徒の姿がそこかしこに見える。足元のシートが体温を吸ってぬるく温まり、靴下越しに不快な熱が伝わってきた。
俺は床の上で両膝をきっちりと揃えて座っていた。背骨を一本の芯のように垂直に立て、顎を軽く引いて視線を正面の一点に固定する。それだけでも、体幹の筋肉を使うちょっとした鍛錬になるのだ。
すぐ隣に腰を下ろしていた大原さんが、膝を崩したまま小声で囁きかけてきた。
「ちょっと、姫宮さん」
わずかに視線だけを横へ向けると、大原さんが笑いを噛み殺したような顔で俺の横顔を覗き込んでいた。
「なに、大原さん」
「姿勢が良すぎて逆に目立ってる! 校長先生がちょくちょくこっち見てるよ!」
「こうすると体幹をついでに鍛えられるんだよ」
俺が正面を見据えたまま真面目に答えると、大原さんの後ろにいた横山さんが小さく肩を揺らした。
「姫宮さんのそういうとこ、ほんまブレへんなあ。うちなんかもう、腰が痛くて限界やわ」
「背中を丸めるから腰に負担がかかるんだよ。骨盤の上に肋骨を乗せる感覚で座ると、すごく楽になるよ」
「いやいや、それができるのは普段から体鍛えとる人だけやって」
横山さんは苦笑しながら、制服の襟元を引っ張ってパタパタと風を送り込んだ。薄手のブラウスが羽ばたくたび、汗の匂いと微かな制汗剤の香りが混ざって鼻先をかすめる。
前方の列では、男子生徒たちの頭が暑さと眠気でゆらゆらと揺れていた。その列のずっと端の方に、ひときわ大きな背中が窮屈そうに丸まっているのが見える。
城ヶ崎だった。恵まれた体躯を持て余すようにして、膝を抱え込んで小さくなっている。昨日のマウンドで猛威を振るった剛腕の持ち主とは、到底同じ人物には見えない。
昨日の四回戦、明陵学院戦。西高は五対三で勝利を収め、ベスト十六へと駒を進めた。あの試合の立役者は、間違いなくあいつだ。
先発したエースの成瀬先輩は、三回戦から中一日という日程の中でマウンドに上がり、持ち前の卓越した制球力と緩急で強力な明陵打線を相手に粘り強く腕を振った。だが酷暑の中での連投による疲労から球が浮き始め、七回一死一塁の場面で降板となる。春の準優勝校を相手にそこまで試合を作った成瀬先輩の投球は見事というほかなく、相手のエースを六回途中で引きずり下ろした打線の援護もあった。
そして七回一死一塁という、一発が出れば同点に追いつかれる場面で救援のマウンドに上がったのが城ヶ崎だ。
あそこから九回まで、城ヶ崎が許した安打は一本もなかった。奪った三振は五つ。相手打線にバットの芯で捉えさせることすら許さず、西高ベンチとスタンドを狂喜の渦に巻き込んだのだ。そのときの球は自己最速の百四十八キロを記録していた。
あの大歓声から一夜が明けた今、本人はただの暑さに負けた高校一年に戻っている。膝を抱え込んで、体育館の床を見つめたまま微動だにしない。
長い訓話がようやく終わり、教頭の号令で全員が一斉に立ち上がった。あちこちで関節を鳴らす音や、安堵のため息が重なり合って体育館に響く。ビニールシートが擦れ合うカサカサとした不快な音が足元を満たし、出口に向かって生徒の波が押し寄せていった。
教室に戻る廊下は、蒸し風呂のような熱気と生徒たちのざわめきで満ちていた。窓から差し込む強い日差しが床のワックスに反射して白く光り、眩しさに目を細めながら歩く。大原さんと横山さんが俺の左右に並び、夏休みの予定について他愛のない話を交わしていた。
「やっと終業式が終わったね。明日から夏休みだと思うと、それだけで生き返るわ」
「せやな。でもうちら、補習にならへんかどうかが先やで」
「うっ、それを言わないでよヒロ。期末の古典、本当にギリギリだったんだから」
「うちかて物理が危ういんや。赤点あったら部活も遊びもパーやし、笑われへんわ」
二人が顔を見合わせて小さく悲鳴を上げるのを横目に、俺は静かに教室の引き戸をくぐる。
教室の天井では、古びた扇風機が羽を回しながら生ぬるい空気をかき混ぜているだけだった。窓際から吹き込む風も熱気を帯びており、肌の表面を撫でるだけで少しも涼しさを運んでこない。生徒たちはそれぞれの席につき、担任の教諭が入ってくるのを待っている。窓の外を見遣ると、グラウンドの乾いた黒土が白く光り、遠くの防球ネットが陽炎で微かに揺れていた。
ガラガラと音を立てて前扉が開き、出席簿を手にした担任が入ってきた。手には厚みのある紙の束が握られており、教室の空気が一瞬で緊張の色を帯びる。一学期の通知表の返却だった。
「はい、席につけ。今から通知表を配るぞ。名前を呼ばれたやつから前に取りに来い」
担任が無愛想な声で告げ、一番前の生徒から順に名前を呼び始めた。受け取った生徒たちの反応は様々だった。天を仰いで頭を抱える者もいれば、胸を撫で下ろして小さくガッツポーズを作る者もいる。
俺の名前が呼ばれ、教卓の前へ歩み出た。手渡された薄い紙を受け取り、自席に戻って中身を改める。五段階評価の数字が整然と並んでおり、特に波風の立たない無難な成績だった。今世の俺は学業において突出した才があるわけではないが、復習を怠らなければ遅れをとることはない。
ふと、窓際の席に目を向けた。城ヶ崎が両手で通知表を挟み込み、祈るような姿勢で固まっていた。まるで危険物でも入っているかのように、恐る恐る紙の端を開いていく。
隙間から覗き込んだ瞬間、城ヶ崎の肩が大きく跳ね上がった。そのまま紙を完全に開き、視線を上下に何度も往復させている。やがて胸の底に溜まっていた息を、突風のように吐き出した。
欠点が一つもなかったのだ。先日の答案返却のときにも赤点は免れていたが、通知表として正式に評価が確定するまでは安心できなかったのだろう。城ヶ崎は机の上に突っ伏すようにして、脱力した背中を震わせていた。
息が落ち着くと、城ヶ崎は弾かれたように顔を上げてこちらを見た。座席の間を大股で横切り、俺の机の前まで一直線に歩いてくる。その表情は、まるで暗闇から救い出された人間のように晴れやかだった。
「姫宮、見て! 欠点、一個もなかった!」
城ヶ崎は机の上に通知表を広げ、指先で数字を誇らしげになぞってみせた。三と四が並ぶその紙面は、日頃のあいつの学力を考えれば十分すぎる出来だった。
「良かったね。期末テストの前に、あれだけ放課後に勉強した甲斐があったよ」
「本当に姫宮のおかげだよ! 俺一人だったら、数学で落としてたからな!」
興奮した城ヶ崎は、勢い余って大きな両手を差し出してきた。指の関節が太く、手のひらには分厚いタコができている、投手の逞しい手だ。
「あっ……!」
その両手が俺の右手を包み込み、ブンブンと上下に振った後、城ヶ崎の顔が耳の付け根まで一気に赤く染まり、慌てて自分の手を胸元へ引っ込めた。大きな体をぎこちなく縮こまらせ、視線を泳がせながら後ずさりをする。
「ご、ごめん! 嬉しくて、つい……!」
「……? 別に謝らなくてもいいのに。欠点がないなら、部活の遠征も試合も全部出られるね」
「うん! そうなんだよ、それが一番怖かったからさ!」
高校野球では、学業不振で公式戦に出られなくなる例もある。城ヶ崎の才能をベンチの外で腐らせるわけにはいかなかったから、俺が勉強に付き合うのは当然だった。本人がこれだけ喜んでいるなら、時間を割いた甲斐もあったというものだ。
そんなやり取りをしていると、廊下のあたりから妙なざわめきが聞こえ始めた。ひそひそとした話し声が増え、教室の前扉のガラス越しに人影が集まってくるのが分かる。
大原さんが眉をひそめ、廊下の方へ振り返った。
「なになに、廊下がやたら騒がしくない?」
「ほんまやね。なんかうちのクラスの前に、人だかりができてへん?」
横山さんの言う通り、他クラスの生徒たちが囁き合いながら教室の中を覗き込んでいた。男子生徒も女子生徒も混ざっており、その視線は明らかに一人の人物へと集中している。
昨日の四回戦、明陵戦の噂だった。あの強豪をねじ伏せた一年生投手がこの教室にいるという話が、終業式のあいだに校内へ広まったらしい。人づての噂は驚くほど速い。
「おい、あれだろ。昨日の明陵戦で投げたやつ」
「七回から出てきて、一本も打たれなかったって本当かよ」
「五つも三振取ったらしいぜ。百四十八キロ出したってマジかよ」
開け放たれた廊下の窓から、断片的な会話が遠慮なく教室の中へ流れ込んでくる。向けられる無数の好奇の視線に晒された途端、城ヶ崎の態度は一変した。先ほどまでの喜びはどこへやら、背中を丸めて亀のように首をすくめている。大柄な体を縮こまらせ、机の影に隠れるように腰をかがめた。その姿を見て、大原さんが吹き出すように笑った。
「あはは、城ヶ崎君完全に怯えてるじゃん。あんなに背が高いのに、隠れられるわけないでしょ」
「せやで、城ヶ崎君。一躍有名人やんか。堂々としとき」
横山さんにからかわれ、城ヶ崎は涙目になって首を横に振った。
「無理だよ……! なんでみんな俺のこと見てるんだよ……! 穴があったら入りたい……」
「結果を出したんだから、見られるのは当たり前だよ」
俺は立ち上がり、縮こまる城ヶ崎の大きな背中を軽く叩いた。乾いた音が教室に響き、城ヶ崎がびくっと肩を跳ねさせる。
「マウンドの上では、もっと大勢の観客から見つめられるんだよ。これくらいの視線で縮こまってたら、次の試合で腕が振れなくなるよ。今のうちに慣れておかないと」
「ひ、姫宮は平気なの……? こんなにジロジロ見られたら、息が詰まりそうだよ」
「見たいやつには見せておけばいいんだよ。減るもんじゃないしね」
前世の甲子園でも、無名の弱小校が勝ち上がるにつれて周囲の雑音は日増しに大きくなっていった。観客の視線に呑まれる投手は、大舞台で自滅する。向けられる視線をただの風景として受け流す図太さは、投手にとって欠かせない資質だ。
城ヶ崎は俺の言葉に頷きつつも、依然として背中を小さく丸めたままだった。だが、廊下からの視線がさらに強まり、何人かの男子生徒が教室の中にまで入ってきて声をかけてきた。
「なあ城ヶ崎、昨日の明陵戦、お前マジですげえ球投げてたって聞いたぞ! 新聞にも載るんじゃないか?」
声をかけられた城ヶ崎は、怯えたように一歩後ずさった。だが次の瞬間、眉をきゅっと寄せて、はっきりとした声でその男子生徒たちに告げた。
「俺がすごいんじゃないよ。全部、姫宮のおかげなんだ」
「え? 姫宮さん?」
男子生徒たちが目を丸くして俺の方を見た。城ヶ崎は教室中の視線を浴びながらも、まるで飼い主に褒めてもらいたい子犬のように、俺のすぐ隣に寄り添うようにして言葉を重ねる。
「うん。俺のフォームも、投げ方も、昨日投げた変化球も、全部姫宮が教えてくれたんだ。姫宮がいなかったら、俺はマウンドにすら立ててない。だから俺が抑えられたのは、全部姫宮のおかげなんだよ」
教室中が奇妙な静寂に包まれた。男子生徒たちは唖然として俺と城ヶ崎を見比べ、大原さんと横山さんは顔を見合わせて吹き出しそうになっている。
城ヶ崎の大きな瞳は、どこまでも澄み切っていた。嘘や照れ隠しなど微塵もない、まっすぐな眼差しだった。
そのまっすぐな信頼を向けられるたび、俺は少し困ってしまう。
あいつが素直に俺を頼れば頼るほど、もうこの手で渡せるものの底が浅くなってきたことに、申し訳なさを覚えるのだ。
「ちょっと、城ヶ崎君……余計なこと言わなくていいから」
俺が低く窘めると、城ヶ崎は「本当のことだから」と口を尖らせて縮こまった。無邪気というか、他人の評価に対する無頓着さがあいつらしいといえばらしいのだが、これでは俺が黒幕のように見えてしまう。男子生徒たちが苦笑いしながら廊下へ引き上げていくのを見送り、俺は小さく息を吐いた。
やがてホームルームが終わり、担任が出ていくと、生徒たちも荷物をまとめて立ち上がり始めた。部活動のある生徒はそのまま残るか、部室へ向かう時間帯だ。
俺の机を基点にして、大原さんと横山さんが手際よく自分の机を引き寄せてきた。金属の脚が床を擦る高い音が鳴り、四角い空間が出来上がる。
「よし、お昼にしよ! お腹ペコペコだよ」
大原さんが鞄から可愛らしい巾着袋を取り出し、机の上に広げた。
「城ヶ崎君も一緒に食べよ。どうせこのあと部活なんやろ?」
横山さんが手招きすると、城ヶ崎はおずおずと自分の机を引きずって輪に加わった。女子三人の輪に男子が一人混ざる格好になり、城ヶ崎はどこか居心地悪そうに鼻の下を指でこすっている。
「俺なんかが一緒で、本当にいいのかな……」
「いいに決まってるじゃん。昨日のヒーローなんだから、あたしたちが囲んであげるよ」
大原さんが悪戯っぽく笑いながら、二段重ねの弁当箱の蓋を開けた。色鮮やかな卵焼きやミニトマトが綺麗に詰められており、女子高生らしい華やかな弁当だった。横山さんの弁当も、色とりどりのおかずが丁寧に並べられている。
城ヶ崎が鞄の底から引っ張り出してきたのは、巨大なプラスチックの二段重だった。深さのある容器の蓋を外した瞬間、甘辛い醤油と生姜の香ばしい匂いが周囲にふわっと広がる。
一面に敷き詰められた白米の上には、幾重にも重なった大判の豚肉が照りを放っている。野菜の姿は申し訳程度に添えられたキャベツの千切りくらいで、容器の八割以上を肉と米が占拠していた。
「うわ、すごい量……! それ全部食べるの?」
大原さんが目を丸くして身を乗り出した。
「うん。今朝、母さんが張り切って作ってくれてさ。『明陵に勝ったんだから肉を食べなさい』って言われて、持たされたんだ」
「ええお母さんやなあ。スタミナ満点やんか」
横山さんが感心したように頷く横で、俺も鞄から自分の昼食を取り出した。何の飾り気もない、半透明のタッパー容器だ。
蓋を開けると、茹でた鶏の胸肉とブロッコリーが隙間なく敷き詰められている。彩りなど微塵も考慮していない、栄養価と効率だけを計算した食事だった。普段なら機械のように淡々と胃に流し込めるメニューだ。
だが、タッパーを開けた瞬間、胸の奥に鉛のような重さが居座っているのを感じた。
昨日から、どうにも食欲が戻らない。喉の奥が乾いたように狭まり、固形物を受け付けるのを拒んでいるような感覚があった。一昨日の放課後、居残り練習で城ヶ崎と向き合っていたあたりから、胃のあたりに薄い膜が張ったような違和感が消えてくれないのだ。
俺は割り箸を割り、胸肉の小片を一つ口に運んだ。パサついた繊維を奥歯で噛み砕くが、いつもなら気にならない淡白な味が、今はひどく喉に引っかかる。水で無理やり流し込むようにして飲み下した。
大原さんが俺のタッパーを覗き込み、呆れたようにため息をついた。
「姫宮さん、今日もそのタッパーなんだ。本当にブレないよねえ」
「必要な栄養素を過不足なく摂取しようとすると、こういう形になるんだよ。余分な脂質は内臓に負担をかけるしね」
「女子高生の台詞とは思えないよ、それ」
大原さんは苦笑しながら、卵焼きを箸でつまんで口に運んだ。城ヶ崎は巨大な生姜焼きを箸で持ち上げ、大口を開けて白米と一緒に頬張る。一口食べるごとに米がごっそりと減っていき、見ているこちらが気持ちよくなるほどの食いっぷりだった。
体を大きくして強い球を投げるためには、食べることも練習のうちだ。城ヶ崎の体に少しずつ厚みがついてきたのは、母親の支えと本人の旺盛な食欲の賜物だった。
「そういえばさ、野球部の次の試合っていつなの?」
大原さんがお茶のペットボトルを傾けながら、ふと思い出したように尋ねてきた。
「明後日の五回戦だよ。相手は港南工業高校」
俺はブロッコリーを一つ口に入れ、時間をかけて咀嚼しながら答えた。大原さんは箸を止めて首を傾げる。
「港南工業って、強いところなの?」
「昔から甲子園に出ている伝統校だよ。スタメンのうち七人が左打者で、派手な選手は少ないけど、選球眼が良くてバントや走塁のミスがほとんどない手堅いチームだね」
「へえ、明陵とはまた違うタイプなんだ」
「うん。明陵はスイングの鋭さでねじ伏せてくるチームだったけど、港南工業は粘って投手を根負けさせるのが上手いんだよ」
昨日の夜、自室の机で遅くまでノートに向かって調べ上げた内容が頭に浮かぶ。対戦相手が決まってすぐに堂本キャプテンから過去のスコアブックを写させてもらい、去年秋や春の大会、練習試合で当たったときの一球ごとの記録を追ったのだ。さらに家で取っている地元紙から今大会の打順や安打の数字を拾い集め、出場校ガイドのメンバー表と照らし合わせていった。
スタメン九人のうち、実に七人が左打者だ。過去の記録を見ても打席ごとのファウルが際立って多く、甘い球が来るまで粘り強く球数を投げさせる伝統校の野球は代が替わっても色濃く残っていた。バントや走塁のミスも少なく、カウントを悪くした投手が根負けして置きにいった球を手堅く転がしてくる。一発の怖さは明陵ほどではないにしても、投手にとっては最も神経をすり減らす嫌らしい相手だった。
俺の解説を聞きながら、横山さんがお茶を一口飲んで力強く頷いた。
「うち、夏休みに入っても全部応援に行くで。昨日の試合見とったら、めっちゃ面白かったもん」
「あたしも行く! 昨日ので完全にハマっちゃった。城ヶ崎君がビシッと三振取った瞬間なんて、鳥肌立ったんだから」
二人の素直な賛辞を受けて、城ヶ崎は箸を止めたまま耳まで真っ赤にして俯いた。大きな生姜焼きを口元まで運んだ姿勢で固まってしまい、喉を小さく鳴らしている。
「あ、ありがとう……。応援してもらえると、すごく心強いよ」
「もっと胸張りなよ、ピッチャーなんだからさ」
他愛のない会話を続けながら、三人の弁当箱は順調に空になっていく。城ヶ崎の巨大な重箱も、最後の一粒まで綺麗に平らげられている。
食べ終えた容器を片付け、大原さんと横山さんが席を立った。
「じゃあ、あたしたちゴミ捨ててくるね。手洗いも寄ってくるから、ちょっと席外すよ」
「うん、いってらっしゃい」
二人が並んで教室を出ていき、廊下の奥へと足音が遠ざかっていく。二人が去ったのを確認してから、俺も中身が残っているタッパーを片付けた。ほかの生徒たちはもう帰るか部活へ向かっていて、教室に残っているのは俺と城ヶ崎の二人だけだ。
開け放たれた窓の外から、遠くのテニスコートでボールを打つ乾いた音が時折届いてくる。セミの鳴き声が一段と高まり、じっとりと熱気が肌にまとわりついていた。
城ヶ崎はまだ少し落ち着かない様子で、空になった弁当箱を巾着袋に包み直している。その太い手首と前腕の筋を見つめながら、俺は静かな声で切り出した。
「城ヶ崎君」
「ん? なに、姫宮」
「明後日の港南工業戦、君が先発になるかもしれないよ」
巾着の紐を結ぼうとしていた城ヶ崎の指先が、ぴたりと止まった。ゆっくりと顔を上げたその瞳には、隠しようのない動揺と驚きが広がっていた。
「えっ……俺が、先発……?」
「うん。可能性はかなり高いと思う」
「で、でも……うちのエースは成瀬先輩なのに。明陵戦だって先発は成瀬先輩だったし……」
「成瀬先輩は、三回戦で最後まで一人で投げ抜いて完封してる。そのあと中一日で昨日の明陵戦に登板して、七回途中まで投げたんだよ」
俺は城ヶ崎の目をまっすぐに見据えて、事実を一つずつ並べた。
「明後日の試合まで中二日しかない。ここでまた成瀬先輩を頭から投げさせたら、さすがに疲れが抜けないよ。勝ち進めばさらに連戦になるんだから、堂本キャプテンたちも成瀬先輩をできるだけ休ませたいはずだよ」
成瀬先輩の投球術と試合を作る能力は、県内でも指折りの完成度を誇る。だがいくらタフな投手でも、この酷暑の中での連投は確実に体を蝕む。昨日の七回、降板の直前の成瀬先輩の右腕の振りには、わずかな鈍りが生じていた。堂本キャプテンたちがそれを見逃すはずがない。
城ヶ崎はごくりと喉を鳴らし、自分の両膝の上に置いた手を見つめた。
「俺……最初から最後まで、投げきれるかな……」
掠れた声の中に、押し殺せない不安が滲んでいた。
「昨日は七回の一死からだったから……目の前のバッターを抑えることだけ考えて、無我夢中で腕を振れたけど……。一回から投げるとなると、何球投げなきゃいけないんだろ。最後まで体力が保つかどうかも分からないし……途中で打たれて試合を壊しちゃったらどうしようって……」
素直な吐露だった。高校に入って野球を本格的に始めてから、まだ三ヶ月あまりしか経っていない。これまではリリーフとして、短いイニングを全力でねじ伏せる役割しか任されてこなかったのだ。試合を最初から組み立てるプレッシャーは、救援登板とはまったく異なる重みを持つ。
だが俺は、城ヶ崎のその不安をただの甘えだとは思わなかった。マウンドの孤独を知っているからこそ、投げ始める前の恐怖が痛いほど分かる。
「城ヶ崎君」
俺は席を立ち、城ヶ崎の机のすぐ横まで歩み寄った。視線を同じ高さに合わせるように、少しだけ身を屈める。
「君はこの三ヶ月、誰よりもグラウンドを走り込んできたでしょ」
「え……?」
「毎日のランニングも坂道ダッシュも、一度だって手を抜かなかった。試合を投げ切るための体力はもう備わっているんだよ。それに正しい投げ方を身につけて、無駄な力みを逃がすフォームも覚えた。君の体は、君が思っているよりずっと頑丈だよ」
城ヶ崎は目を見開き、俺の顔を凝視していた。
中学まで帰宅部だったあいつには、我流の悪い投げ癖がついていなかった。そこに前世で学んだ動作の知識を注ぎ込み、肩や肘に余計な負担をかけない体の使い方を一から叩き込んだのだ。あいつは言われたことを一つも疑わず、愚直に繰り返して、その投げ方をわずか三ヶ月で余すところなく自分のものにしてみせた。
下半身と体幹で生み出した力を滑らかに腕へ連動させていくため、腕の力だけに頼って投げる投手のように、肩や肘の小さな筋肉を余計に使うことがない。同じ球を投げても体にかかる消耗は格段に少なく、疲労が溜まってもフォームが崩れにくい。単純な継戦能力で言えば、城ヶ崎のそれは全国トップクラスに仕上がっているという自負がある。
「それに、武器は直球だけじゃない。昨日、明陵の四番から空振りを取ったチェンジアップがある」
俺がそう言って、港南工業に対する攻め方を切り出そうとしたときだった。
「……あ」
城ヶ崎が何かを閃いたように、ぽつりと声を漏らした。大きな瞳をしばたたかせ、宙を見つめながら口を開く。
「港南工業って……さっき姫宮、左バッターが七人いるって言ってたよね」
「え……? うん、そうだけど」
「左バッターが多いなら……外側に逃げていくチェンジアップと、内側の厳しいところに見せるストレートを使えばいいのかな。打者がファウルで粘ってくるなら、全部を三振にしにいかないで、わざと早いカウントで振らせてゴロを打たせれば……球数もそんなに使わないで済むよね?」
喉の奥で、言葉がふっと詰まった。昨夜、俺が机に向かって組み立てた配球。それを俺が教えるより前に、あいつは自力で口にしていた。
右投手のスライダーやカーブは左打者の懐へ入ってくるが、チェンジアップは右腕の側へと沈みながら外角低めへ逃げていく。左打者の視界から消える沈む球と、踏み込ませない内角の残像。手堅い打者ほど球種を絞る心理を突き、あえて早いカウントで打たせて取るという筋道。
「……うん。よく分かってるね。その通りだよ」
一昨日の練習で教えた考え方の糸口を掴んだだけで、もう次の対戦相手の並びから、投げるべき球の組み立てを導き出している。
わずかな沈黙の後、俺は唇の端を微かに持ち上げた。
あいつの成長の速さは驚異的だ、指導者としてこれ以上誇らしいことはない。
「本当に? よかった……! 姫宮が教えてくれた考え方、ちゃんと合ってたんだ」
城ヶ崎はほっとしたように胸を撫で下ろし、嬉しそうに顔を綻ばせた。机の上の拳を握りしめ直す。
「最初から満点を目指さなくていいよ。困ったら低めに集めて、堂本キャプテンのミットだけを見て腕を振ればいい。君の後ろには、守備の堅い先輩たちがついてるんだから」
「うん」
城ヶ崎は顔を上げ、太い眉をきゅっと引き締めた。
「俺、姫宮が教えてくれたことをマウンドで全部出してくるよ」
「うん。その意気だよ」
俺は城ヶ崎の肩に触れた。逞しい骨と筋肉の感触が指先を通して伝わってくる。あいつはもう、俺の手を離れて、一人前の投手として自分の足で歩き出していた。
そのとき、廊下の向こうから大原さんと横山さんの賑やかな笑い声が近づいてくるのが聞こえた。
「あ、二人が戻ってくるね」
ガラガラと引き戸が開き、ゴミを捨ててきた二人が教室へと戻ってきた。大原さんと横山さんがそれぞれの席に腰を下ろし、窓の外を眺める。
「明日から夏休みかあ。なんか実感湧かないよね」
大原さんが机に肘をつき、ぼんやりと空を見上げた。
「ほんまやね。でも宿題めっちゃ出たし、休み明けに実力テストもあるんやろ? 考えただけでうんざりするわ」
「宿題なんて、最初の三日で終わらせちゃえばいいんだよ」
俺が言葉を返すと、三人が「それができたら苦労しない」と声を揃えて笑った。城ヶ崎も一緒になって楽しそうに笑っている。
開け放たれた窓の外には、どこまでも高い夏の青空が広がっていた。校舎の屋根の向こうに、真っ白で巨大な入道雲が湧き上がっている。照りつける太陽の強い光を浴びて、雲の輪郭が銀色に輝いていた。
明後日には五回戦が控えており、そこを突破すればさらに厳しい戦いが待っている。
城ヶ崎はきっと、あの手堅い港南工業の打線さえも、自分の頭と腕で乗り越えていくのだろう。俺が授けたものを土台にしながら、あいつ自身の力で。
机の縁に指先を添えながら、俺は静かに青空を見つめていた。セミの声が耳の奥で遠く反響し、胃の底にある重苦しい鉛の感触が、じっと熱を持ち続けていた。