夏休み最初の日曜日の球場は、朝の八時を回ったばかりだというのに通路の階段まで人の波で埋まりかけていた。吹き抜ける風にはわずかな冷気も混ざらず、ぬるい湿気がじっとりと制服のブラウスにまとわりついてくる。
俺は一塁側スタンドの中段、バックネットから少し外れた長椅子の端に腰を下ろしていた。寝不足で、頭は靄がかかったように働かない。昨晩は興奮のせいか眠れなかったため、港南工業の打順や打撃の傾向を記したノートを深夜まで見返していたのだ。そこで気づいた点は、今朝堂本キャプテンに伝えてある。彼ならばうまくデータを使ってくれるだろう。
こめかみのあたりの鈍い重みを感じながら、俺は胸の奥で小さく息を吸い、スカートのポケットから目薬を取り出して差した。目薬の冷たさが目に広がると、ぼやけていた視界がわずかに引き締まる。
「姫宮さん、大丈夫? 顔色があんまりよくないよ」
隣に座る大原さんが、覗き込むようにして俺の顔を見てきた。
「ちょっと寝不足なだけだよ。昨日の夜、少し調べものをしてたから」
「ほんまに? 無理したらあかんで。まだ朝やのに日差しもきついし、しんどくなったらすぐ日陰行こね」
通路側から戻ってきた横山さんが、買ったばかりの紙パックのお茶を二つ抱えたまま、心配そうに眉尻を下げて声をかけてくる。
「ありがとう、横山さん。座って見てるだけだから平気だよ」
目の前に広がるグラウンドでは、黒土の上に白線が鮮やかに引かれ、西高の選手たちがベンチ前でキャッチボールを始めていた。乾いた捕球音が一定の間隔でスタンドのコンクリートに反響する。
今日の五回戦の相手である港南工業は、この地区で昔から知られた伝統校だ。目立った長打力を持つ強打者はいないが、伝統的に基本に忠実で、走塁や送りバントの失敗が極端に少ない。そして何より、スタメン九人のうち七人が左打者という極端な打線を組んでくる。甘い球を狙い球にして右投手の球をファウルで粘り、カウントを深くして四死球や失投を誘うのがあそこのやり口だった。
右投手にとって、左打者が並ぶ打線はそれだけで厄介だ。右打者の外へ逃げていくスライダーも、左打者には懐へ入ってくる球になり、踏み込んで引っ張られやすくなる。内角を攻め切れない右投手なら、外角ばかりに頼り、そこを丹念に拾われて球数を削られていく。
西高のベンチ前で、背番号十をつけた城ヶ崎が肩を大きく回していた。遠目から見ても、その背中はいつになく強張って見える。グラブをはめた左手を何度も胸の前に当てては、足元の土をスパイクの先で削るように擦っていた。
場内のスピーカーが低く唸りを上げ、電子音に続いてアナウンスの女性の声がスタンドに響き渡った。
先攻、港南工業高校の選手が一番から順に読み上げられる。名前が呼ばれるたびに三塁側スタンドから手拍子が湧き起こる。続いて後攻、西高のスターティングメンバーが発表された。
九番、ピッチャー、城ヶ崎君。
その瞬間、一塁側スタンドのそこかしこから、ざわりと低いうねりのような声が上がった。
三日前の四回戦で、第二シードの明陵学院を相手に救援で好投した一年生の名前は、すでに観客の記憶にも新しい。だが、ベスト八進出をかけたこの大一番で、エースの成瀬先輩ではなく一年生を先発に立ててくると予想していた者は少なかった。スタンドの後方に陣取っていた年配の男性客たちが、手元の組み合わせ表を指差しながら顔を見合わせている。
「えっ……城ヶ崎君が先発なの!?」
大原さんが目を丸くして身を乗り出した。
「ほんまや……。成瀬先輩、ベンチにおるわ。城ヶ崎君、大丈夫なんかな」
横山さんも口元に手を当て、不安そうにグラウンドの白線を見つめている。
「成瀬先輩は前の試合で球数を投げてるからね。中二日でこの酷暑の中を一人で投げさせるのは負担が大きすぎるんだよ。ここは最初から堂本キャプテンたちが、城ヶ崎君で行くと決めていたんだと思う」
俺は手すりに指を添えながら、静かに言葉を返した。
実質的な采配の舵を握っているのは堂本キャプテンたち三年生だ。成瀬先輩を温存し、これからの厳しい連戦を見据えるなら、この五回戦を城ヶ崎の手で突破することは避けて通れない道だった。
審判団が本塁前に整列し、両校の選手がベンチから飛び出して一列に並ぶ。一礼の後、散らばっていく選手たちの中で、城ヶ崎だけが少し遅れてゆっくりとマウンドの傾斜を上がっていく。
投球練習のためにマウンドの土を踏んだあいつの足取りは、傍目にもぎこちなかった。ロージンバッグを拾い上げる手つきまで、遠目にも硬く見える。
「ガチガチじゃん……。あんなに緊張してる城ヶ崎君、初めて見たよ」
大原さんが胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
「足が地に着いてへん感じやね。息、ちゃんとできとるんやろか」
横山さんの声も引き攣っていた。
だが、投球練習の一球目を投げる前、あいつはふっと息を止め、右足を後ろに引いてプレートを外した。
グラブを両手で胸の前に抱え込み、すっと目を閉じる。
深く、長く、息を吐き出した。
吐き出された息とともに、強張っていた両肩の余計な力がすっと抜けていく。目を開けたときには、構えにも落ち着きが戻っていた。
春の入部の頃や初戦のマウンドでは、一人で自分を立て直すことなどできなかった。誰かに背中を叩かれなければパニックから抜け出せなかったあいつが、今では自らの意志で呼吸を整え、自分の投球を取り戻そうとしているのだ。
プレートに再び右足を乗せ、城ヶ崎は滑らかなフォームで腕を振った。
投球練習の一球目から、白球は堂本キャプテンが構えたミットの真ん中へ、小気味よい快音を立てて収まる。二球目、三球目と重ねるごとに腕の振りの鋭さが増し、スタンドのざわめきが期待の拍手へと変わっていく。
捕手の後ろに立った主審が投手を指し、試合開始を告げた。
港南工業の一番打者が、足元をならしながら左打席に入る。小柄で、バットを短く持ち、覆いかぶさるようにホームベースの近くへ立った。
城ヶ崎は迷いなくセットポジションに入る。右足の親指の付け根にしっかりと体重を乗せ、視線を堂本キャプテンのミットだけに定めた。
一番打者に対し、初球から低めを突いて早いカウントで打たせ、内野ゴロに仕留める。
続く二番打者も、外角低めの沈む球を引っかけさせて危なげなく内野ゴロに打ち取る。あっという間にツーアウト。
三番打者は、港南工業の中で最もバットコントロールに長けた左打者だ。オープンスタンスで構え、外の球を逆方向へ流し打つ気配を全身から漂わせている。
初球、堂本キャプテンの構えは内角低めだった。城ヶ崎の腕が鋭く振り下ろされ、打者の懐をえぐる直球がズバッとミットに突き刺さる。打者は手が出ず、見送りのストライク。
二球目、同じ腕の振りから放たれた球は、外角低めへ投じられた。直球と同じ軌道から、ホームベースの手前でふっと失速し、左打者の外側へ逃げながら沈み込む。チェンジアップだ。
直球のタイミングで踏み込んでいた打者の上半身が、前のめりに泳いだ。
なんとかバットの先を届かせようとしたものの、引っ掛けた打球はセカンド正面への力のないゴロとなる。二塁手が落ち着いて打球をさばき、一塁へ送球した。
スリーアウト、チェンジ。
「すごいじゃん! あんなにあっさり終わっちゃったよ!」
大原さんが身を乗り出すようにして声を弾ませた。
「よかったぁ……。試合前はヒヤヒヤしたけど、これなら勝てるで!」
横山さんも胸に手を当て、安堵の息を長く吐き出している。
ベンチへ戻っていく城ヶ崎の頭を、成瀬先輩がグラブで小突いて出迎えていた。城ヶ崎は照れくさそうに笑っている。
港南工業の左打者たちは、外の球を待ってファウルで粘ることを徹底してくる。ならば、その狙いを逆手に取ればいい。内角に強い直球を見せて踏み込ませないようにしておき、外角へ逃げて沈むチェンジアップで早いカウントから打たせて取る。ゴロを打たせれば、後ろの手堅い内野陣が確実に処理してくれる。三振を狙って球数を増やす必要などないのだ。
二回表、城ヶ崎の投球はさらに安定感を増していった。
四番打者に対しては、初球に内角高めの厳しい直球を見せてのけぞらせる。そこから外角低めへ逃げるチェンジアップを二球続け、簡単に追い込んだ。最後は外角いっぱいに百四十四キロの直球を投げ込み、見逃し三振に仕留める。
五番打者は初球のチェンジアップに手を出してサードゴロ。六番打者にはファウルで粘られたものの、最後は内角低めの直球で詰まらせてショートゴロに打ち取った。
三回表も、わずか九球で片付けた。
七番打者をセカンドゴロ、八番打者をサードゴロ、九番打者は見逃しの三振。
港南工業の打者たちは、早いカウントからストライクゾーンに来る球に手を出さざるを得なくなっていた。ファウルで粘ろうにも、外角へ逃げながら沈む球で芯を外され、ことごとく内野の正面へ転がってしまうのだ。
城ヶ崎の球数は、三回を投げ終えた時点で三十球にも満たない。試合前にあれほど硬くなっていた投手の投球内容とは到底思えない、見事な省エネ投球だった。
四回表を迎えても、城ヶ崎のマウンドさばきには初先発の硬さなど微塵も見られない。
先頭の一番打者をセカンドゴロに打ち取った後、二番打者を迎えた場面だった。
初回に早いカウントで打たされたのを嫌ってか、二番打者は打席のいちばん後ろに立ち、じっくりと球を見極める構えを取る。
俺はスタンドからその打者の立ち位置を見て、内心で配球を組み立てていた。
後ろに立っているなら、内角の直球で胸元を突いて視線を釘付けにし、その後に外角低めへ逃げるチェンジアップを落とせば、打者はバットを止められないはずだ。
そう思考を巡らせた、まさにその瞬間だった。
マウンド上の城ヶ崎が、堂本キャプテンのサインに一度だけ力強く頷いた。
振り下ろされた右腕から放たれた初球は、打者の内角高めいっぱいを突く百四十五キロの直球だった。打者が思わず上体を引いて見送る。ストライク。
そして続く二球目。堂本キャプテンのミットが外角低めに沈むと同時に、城ヶ崎は全く同じ腕の振りからチェンジアップを投じた。打者は内角の残像に囚われたまま、外へ逃げていく球に慌ててバットを出したが、球は外角低めへすっと沈み、虚しく空を切った。
ツーストライク。三球目、外角低めいっぱいに外れるチェンジアップ。打者のバットが完全に空回りし、バランスを崩して膝をついた。
「空振り三振!」
審判のコールが響き渡る。
俺が頭の中で描いた通りの配球を、城ヶ崎と堂本キャプテンは何の迷いもなくやってのけたのだ。
あいつはもう、俺がノートに書いた指示をただなぞっているだけではない。教えた領域の意味を自分の体で咀嚼し、マウンド上で最適な選択できるようになり始めている。
続く三番打者も、内角低めの直球で詰まらせてショートゴロに仕留める。
「……本当にいい配球だね」
俺の口から、無意識に感嘆の呟きがこぼれ落ちた。
育てた技術が、これ以上ない形で実を結んでいる。あいつの恵まれた肉体と素直な感覚が、俺の知識を吸い上げて恐ろしい速度で完成へと近づいているのだ。
試合の均衡が崩れたのは、その裏の西高の攻撃だった。
先頭の一番打者が粘って四球をもぎ取ると、二番打者が初球できっちりと送りバントを決めて一死二塁とする。ここで打席に立った三番打者が、港南工業の右アンダースロー投手が投じた低い軌道から沈み込むシンカーを芯で捉えた。
快音を残した打球が右中間を真っ二つに破っていく。二塁走者が長駆ホームを駆け抜け、西高が先制の一点をもぎ取った。
スタンドの一塁側から、メガホンを叩く音と大きな拍手が湧き起こる。
「入った! 先制だよ!」
大原さんが横山さんの肩を揺さぶり、声を弾ませた。
「一点あるだけで全然違うわ。城ヶ崎君、これでますます楽に投げられるんちゃう?」
「うん、そうだね。リードがあれば、もっと大胆に低めを突けるようになるよ」
俺は頷きながら、グラウンドのベンチ前へ視線を戻した。
城ヶ崎はベンチの端でグラブを抱えて立ち上がっていた。早くマウンドへ戻りたくてたまらないといった様子で、足踏みを繰り返している。
五回表、港南工業の攻撃。
先頭の四番打者を外角低めの直球で見逃し三振に仕留めると、五番打者をファーストゴロ、六番打者もサードゴロ。わずか七球で片付けた。
港南工業のベンチは明らかに焦り始めていた。粘って四球を選ぶはずの作戦が、ことごとく早いカウントでの内野ゴロに封じ込められている。走者を出すことすらままならず、グラウンドの暑さと相まって打者たちの表情には明らかな焦燥が滲んでいた。
五回裏、西高は六番打者がしぶとく右前安打で出塁し、送りバントと相手の捕逸も重なって一死三塁の絶好の追加点機を迎えた。打席には八番打者。
八番打者は追い込まれながらも、高めに浮いた直球をきっちりとセンター方向へ打ち上げた。十分な深さの犠牲フライとなり、三塁走者が生還して二対零。
手堅く、そして重い二点目が西高に入った。
だが、グラウンド整備を終えた六回表、甲子園出場経験を持つ港南工業がその底力を見せ始めた。
打順が一巡し、城ヶ崎の球筋に目を慣らしてきた相手打線が、確かな対応力で合わせてくる。
先頭の七番打者に投じた球を鋭く弾き返され、打球はレフト前へと抜けていった。続く八番打者は初球できっちりと送りバントを決め、一死二塁と手堅く得点圏に走者を進める。
迎えた九番打者は、追い込まれながらもファウルで徹底的に粘り、カウントを深くしていった。そして六球目、外角の直球を逆らわずに右方向へ流し打つ。白球がライト前へとしぶとく転がり、二塁走者が一気に生還して二対一。
好機を確実にものにする伝統校の粘りが実を結んだ形だ。
なおも一死一塁と詰め寄られたが、城ヶ崎は動じなかった。続く一番打者を低めの変化球で引っかけさせ、セカンド正面へのゴロ。二塁、一塁へとボールが転送され、狙い通りの併殺打でスリーアウトを奪った。最少失点で食い止めた形だ。
そして七回表、試合の最大の山場が訪れた。
港南工業は二番からの打順。
先頭の二番打者の放った当たり損ねの打球が三塁線で不規則に跳ね、三塁手のグラブを弾いて内野安打となった。続く三番打者は送りバントを試みたが、城ヶ崎が猛然とチャージして素早く処理し、二塁で封殺。一死一塁となる。
一死一塁。ここで打順が巡ってきたのは、港南工業の四番打者だった。
前の二打席はいずれも三振に倒れていたが、相手ベンチはこの回、明らかに打撃の狙いを変えてきている。一点差で、一発が出れば逆転という緊迫した場面。四番打者はホームベースの真横に深く踏み込み、バットを短く持つことをやめて長く握り直していた。
外へ逃げるチェンジアップを捨て、内角に来る直球だけに狙いを絞り、力任せにスタンドへ叩き込む構えだ。
三塁側スタンドから、太鼓とメガホンの激しいリズムが鳴り響く。熱気を孕んだ球場の空気がぴんと張り詰めていた。
「なんか……あのバッター、すっごい気迫だね。怖いよ」
大原さんが身を縮め、俺の腕のあたりに視線を寄せてくる。
「一発出たら逆転やもんね……。城ヶ崎君、踏ん張ってぇな」
横山さんも両手を固く握りしめ、祈るようにマウンドを見つめていた。
一塁走者が大きめのリードを取る。城ヶ崎は一塁へ一度だけ鋭い牽制を入れ、走者の足を止めさせた。
再びセットポジションに入る。
初球、内角を突く厳しい直球に打者は詰まりながらもファウル。二球目、内角高めの直球を力任せに振りにいって空振りとなり、あっという間に追い込んだ。
そして三球目。堂本キャプテンが腰を落とし、サインを出した。城ヶ崎がわずかに頷く。
堂本キャプテンが構えた場所は、外角低め、ベースの角をかすめるような位置だった。相手が内角の直球を待って踏み込んでくるなら、その裏をかくのではない。踏み込んできた打者の最も遠いコースへ、最も強い球を投げ込んで力でねじ伏せるという要求だった。
城ヶ崎が大きく息を吸い込み、左足をしっかりと踏み出した。
右足がプレートの土を力強く押し込み、春に一緒に選んだ黒いスパイクの金具が乾いた黒土を深く噛む。その反発力が腰から背中を駆け上がり、長い右腕へと一直線に伝わっていく。
腕が振り下ろされた瞬間、空気が鋭く裂けるような音がスタンドまで届いた気がした。
白球が一直線の軌道を描いて伸びていく。
四番打者が狙い澄ましたように踏み込み、豪快に腰を回転させてバットを振り抜いた。金属が風を切る鋭い唸りが響く。
だが、打者のバットが通過したわずか上を、球は勢いを失わずに突き抜けていった。
バシィィィン!
堂本キャプテンのミットが、外角低めいっぱいの位置で激しい音を立てて跳ね上がった。球審の右手が勢いよく空を突く。
「ストライク! バッターアウト!」
四番打者は空振りの勢いで身体が一回転しそうになりながら、しばらく自分のバットを見つめてその場に立ち尽くしていた。
次の瞬間、バックネット裏の電光掲示板に赤い数字が点灯した。
百四十八キロ。
一拍の静寂の後、球場全体を揺るがすような地鳴りの歓声が一斉に湧き上がった。
三日前の明陵学院戦で記録した、自己最速タイの数字だ。酷暑の七回、相手の四番打者の狙いを真正面から粉砕する百四十八キロを投げ込んでみせたのだ。
「きゃあああっ! 今の見た!? 百四十八キロ出たよ!」
「うそやん、すごすぎるわ! 城ヶ崎君、ほんまに化け物やんか!」
大原さんと横山さんが同時に俺の両腕にしがみつき、興奮で体を激しく揺すってきた。二人の制服の擦れ合う音と、熱を帯びた息が耳元にかかる。
「姫宮さん、見た!? すごいよ、本当にすごい!」
「うん……すごいね」
胸の奥で、何かが冷たく凝固していくような感覚があった。
あいつのフォームは、俺が指先ひとつ、足の踏み出し角ひとつまで教え込んだものだ。あの鋭い腕の振りも、下半身で生み出した力を球に伝える動きも、すべて俺の経験と知識、理論が骨組みになっている。あの腕の振りは、俺が作ったのだ。
その自負が、喉の奥に粘りつくような熱を持って沈殿していく。前世の俺が三年間死に物狂いで腕を振り続け、肘を砕いてようやく届いた百四十九キロという領域のすぐ足元に、あいつはまだ高校一年の夏にして、涼しい顔で立っている。
そう思った瞬間、スタンドから湧き起こった歓声が、ふっと遠のくような感覚に襲われた。
耳の奥に薄い膜が一枚張られたように、周囲の拍手や大原さんの声が、水底から聞くような籠もった音に変わる。
「……姫宮さん? どうしたの、ぼーっとして」
袖口を軽く引かれ、俺ははっと我に返った。大原さんが不思議そうな顔でこちらを見上げている。
「ううん、なんでもないよ。いい球だったなって思って」
俺は口角を持ち上げて見せ、手すりを握り直した。鉄の熱さが手のひらに伝わり、ぼやけかけていた感覚が元の輪郭を取り戻す。
まずいな。ここ最近の体調不良が治る気配がない。医者にかもかったが、原因はよくわからないらしい。こういう正体不明の体調不良がもっとも対処に困ってしまう。
そんなことを考えているうちに、八回表、三巡目を迎えた港南打線が執念を見せる。
先頭の六番打者が、甘く入った直球を鋭く引っ張り、左中間を破る二塁打で出塁した。続く七番打者が手堅く進塁打を放ち、一死三塁のピンチを背負う。
三塁側スタンドから大歓声が湧き起こる中、八番打者が高めの球をきっちりとライト深くへ打ち上げた。十分な深さの犠牲フライとなり、三塁走者が生還。ついに二対二の同点に追いつかれた。
「追いつかれちゃった……」
大原さんが顔を青ざめさせ、横山さんも唇を噛んでグラウンドを見つめている。
だが、追いつかれても城ヶ崎は崩れなかった。
誰に言われるでもなく右足を引いてプレートを外し、グラブを胸の前に抱えて目を閉じ、深く息を吐き出す。試合前と同じルーティンで間を取り、静かに息を整えてから次の打者へと向かっていった。
あいつはもう、ピンチでも動じない。
続く九番打者を低めの変化球で内野ゴロに打ち取り、同点止まりで後続を断った。
その裏、西高の攻撃。
先頭の七番打者は凡退したものの、八番打者がしぶとく三遊間を破る安打で出塁する。
一死一塁で打席に入った九番の城ヶ崎は、初球をきっちりと一塁線へ転がし、送りバントを決めて二死二塁と好機を広げた。
自らのバントで作った勝ち越しの好機。
打席に入った一番打者が、港南投手の外角球を鮮やかにセンター前へと弾き返した。
二塁走者が一気に本塁を駆け抜け、三対二。西高が土壇場で勝ち越しに成功する。
九回表のマウンドに上がる城ヶ崎の背中には、試合前のあの頼りなさは微塵もなかった。アンダーシャツを汗でびっしょりと濡らしながらも、堂本キャプテンの返球を捕球する手つきには、堂々たる落ち着きが満ちていた。
先頭の一番打者を、外角低めの直球で見逃し三振。
二番打者の打球は高く上がったセンターフライで二死。
ツーアウト。勝利まで、あと一人。
「あと一人だよ……! ヒロ、あと一人!」
「心臓飛び出しそうやわ……! 頼むで、城ヶ崎君!」
大原さんと横山さんが互いの手を固く握り合い、祈るように背筋を伸ばしている。スタンドの一塁側からは、自然と手拍子が湧き起こり、球場全体を包み込む大きなうねりとなっていた。
打席には三番打者。城ヶ崎は初球、内角低めに百四十四キロの直球を投げ込んでストライクを奪った。打者は全く手が出ない。二球目、内角低めの直球を打者が強引に引っ張るもファウルとなり、ツーストライク。
そして三球目。堂本キャプテンが低めにどっしりと構え直した。
城ヶ崎が腕を鋭く振り抜く。直球と全く同じフォームから放たれた白球は、ベースの手前でふっと失速し、外へ逃げながら鋭く沈み込んだ。チェンジアップだ。
打者のバットが、何もない空間を鋭く薙ぎ払った。
「ストライク! バッターアウト! ゲームセット!」
主審の右拳が力強く突き上げられた。
「勝ったぁぁぁぁっ!」
大原さんが歓声を上げ、横山さんと抱き合って跳びはねた。一塁側スタンド全体が総立ちとなり、嵐のような拍手と歓声がグラウンドへ降り注ぐ。
マウンドの上で、城ヶ崎が控えめに右手を握りしめた。駆け寄ってきた堂本キャプテンが、大きな体で城ヶ崎の肩を抱き寄せ、背中を力強く叩く。内野の先輩たちも集まり、城ヶ崎の頭をくしゃくしゃに撫で回していた。
三対二。被安打四、失点二、奪三振は七。四死球なし。
投じた球数は、九回を投げ抜いて百八球。強豪校を相手に粘り強く腕を振り抜いた、見事な完投勝利だ。西高のベスト八進出が決まった瞬間だった。
整列して礼を交わすと同時に、試合終了を告げるけたたましいサイレンが夏の空に鳴り渡る。西高の校歌が流れる。城ヶ崎は胸を張り、青空を見上げながら大きな口を開けて歌っていた。
春にはボールの握り方すら覚束なかった素人の少年が、たった数ヶ月で何千人もの観客を沸かせる投手に化けたのだ。
その背中を遠く見つめながら、俺は胸の奥に渦巻く重い熱を、誰にも気づかれないように静かに吐き出した。
試合終了後の熱気が冷めやらない球場の外へ出ると、アスファルトからの照り返しが容赦なく肌を炙った。
関係者通用口の近くにある並木の下には、選手たちの姿を一目見ようとする保護者やファンで人だかりができていた。その人混みの向こうから、大きなエナメルバッグを肩にかけた城ヶ崎が、こちらを見つけて大きく手を挙げた。洗ったばかりの短い髪から水滴を滴らせている。
「あ、城ヶ崎君! こっちこっち!」
大原さんが手を振って呼ぶと、城ヶ崎はぱっと顔を明るく輝かせ、大型犬のように足早に近寄ってきた。
「みんな、応援ありがとう! キャプテンが取材を代わりに受けてくれて、先に行っていいって言ってくれたんだ」
「完投勝利おめでとう、城ヶ崎君! めっちゃくちゃかっこよかったよ!」
「ほんまにすごかったわ! うち、最後の三振のとき鳥肌立ってしもたもん」
二人が口々に褒め称えると、城ヶ崎は照れくさそうに頬を緩め、それからおずおずとした視線を俺に向けてきた。こちらの顔色を窺うような、少し不安げな目つきだ。
「姫宮……どうだったかな。俺、ちゃんと投げられてた?」
俺はわずかに息を整えてから、柔らかく目を細めてみせた。
「初先発で完投勝利なんだから、満点だよ。追いつかれても崩れずに、すぐに自分で間を取って落ち着かせたのが大きかったね。文句のつけようがないよ」
「へへ……ありがとう! 姫宮に満点もらえるなんて思わなかったよ」
城ヶ崎は誇らしげに自分の足元を見つめ、無邪気に頷いた。
「城ヶ崎君、次はベスト四をかけた準々決勝やね」
横山さんが言うと、城ヶ崎はきりっと表情を引き締めて頷いた。
「うん。次も勝てるように、しっかり準備しておくよ」
「うん、頼もしいね。じゃあ城ヶ崎君、チームのみんあも待ってるだろうから、早く戻りなよ」
俺が促すと、城ヶ崎は「うん、またな!」と元気よく手を振り、西高のバスが待つ駐車場の方へと走っていった。
あいつの背中が見えなくなった後、大原さんが額の汗を手首で拭いながら、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「姫宮さん、やっぱり今日はもう帰って休んだほうがいいよ。朝から顔色ずっとよくないし、寝不足なんでしょ? ……家まで一緒に行こうか?」
「せやで、うちもついてくわ。途中で倒れでもしたら大変やし、うちらで送るで」
横山さんも身を乗り出して気遣ってくれる。二人の優しさは痛いほどありがたかった。だが、送られてしまっては困る。
「ありがとう、二人とも。でも大丈夫、一人でちゃんと帰れるよ。ボクのことは気にしないで、二人でお昼でも食べて楽しんできてね」
俺が無理のない笑みを浮かべて断ると、二人はまだ少し気にするような視線を交わし合っていたが、まっすぐ帰って休むのならと納得してくれたようだった。
「ほんまに無理せんといてな。家着いたらすぐ涼しい部屋で横になって、水分ちゃんと取らんとあかんで」
「うん、気をつけるよ。心配してくれてありがとう」
俺は二人に手を振って見送った。二人の制服の背中が駅へ向かう人混みに消えていくのを見届けてから、俺は駅とは逆の方向へと足を向けた。
入場券売り場へ戻り、次の試合の入場券をもう一枚買い直して、再び球場の入場ゲートをくぐる。
次の第二試合には、秋の県大会の優勝校である桐原学園が登場する。勝ったほうが、西高の準々決勝の相手になるチームだ。
自動販売機で冷たいスポーツドリンクを一本買い、キャップを開けて口に含む。喉を滑り落ちていく冷たさだけが、微かな輪郭を持って胃へと落ちていく。昼食を摂る気にはどうしてもなれなかった。
第一試合が終わって閑散としたスタンドに戻り、日差しを避けるように日陰の下にある席を選んで腰を下ろした。
バッグから相手校の研究用に新しく下ろしたノートと黒いボールペンを取り出し、膝の上に広げる。
俺はペンを握り、真新しい白紙のページに「桐原学園」と小さく書き込んだ。