セミの声だけが降るように響く校舎の裏手には、正午の強い日差しを遮る濃い影が落ちていた。
夏休みに入ったばかりの学校は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っている。グラウンドを使った野球部の全体練習は、午前中の早い時間帯に二時間ほどで終わっていた。昨日の五回戦を戦い終えたばかりで、次の準々決勝は明日。中一日の過密日程だ。堂本キャプテンたち上級生は過度な疲労を残さないよう、軽めのノックとダッシュだけで全員を早々に引き上げさせた。
グラウンドの熱気から逃れるようにして、俺と城ヶ崎は体育館裏の狭い通路に足を運んでいた。部室から少し離れたこの場所は、壁と古い防球ネットに挟まれた風の通り道になっている。土の匂いに混じって、生い茂る雑草の青臭い匂いが鼻をついた。
城ヶ崎は泥のついた練習着のまま、大きな両腕をぶら下げて立っている。俺は夏用の半袖ブラウスに紺のプリーツスカートという制服姿のままで、左手には小学生の頃から使っている飴色のグラブを嵌めていた。革の擦れた匂いが、熱を帯びた空気の中に微かに漂う。軽くボールを受けるくらいなら、これで十分だ。
足元には、縫い目のすり減った硬式球が転がっている。
「本当に投げていいの、姫宮」
城ヶ崎が大きな身体を少し屈め、遠慮がちに訊ねてきた。
「短い距離で山なりに近い球を十球ほど投げて、体の状態を確かめるだけで十分だからね。座る必要もないし、力いっぱい腕を振る必要もないよ」
「うん、分かった」
「肘の高さと、踏み込んだ前足に体重を乗せきる感覚だけ確かめよう。球速なんて出さなくていいから、指先が綺麗にボールを弾く感触だけを拾って」
俺がグラブを胸の前に構えると、城ヶ崎は短く息を吐いて頷いた。
城ヶ崎がゆっくりと左足を上げ、滑らかな動作で前方へ踏み出す。昨日九回を投げ抜いたばかりの身体だが、その身のこなしに重さや引っかかりは見られない。前足が土を踏みしめると同時に、長い右腕が遅れて出てくる。
パチンと、乾いた音が日陰の通路に小さく反響した。
ボールはグラブの真ん中に吸い込まれた。全力投球には程遠い力加減だが、回転が綺麗に揃った真っ直ぐな軌道を描いている。受け止めたグラブ越しに、球質の良さがはっきりと伝わってきた。
「身体の張りはどう? 肘や肩に違和感はない?」
ボールを右手に持ち替え、山なりに投げ返しながら尋ねた。
「試合のあと言われた通りに軽く走ってチューブで肩をゆっくり動かして、ご飯しっかり食べて早く寝たからさ。今朝も軽く走っただけだし、肩も肘もすごく軽いよ」
「ちゃんと体を動かして、よく食べてよく寝たなら安心だよ」
「うん。母さんにも、昨日の夜は家の手伝いを全部免除してもらったんだ。いつもなら風呂掃除とゴミ出しがあるんだけど、姫宮に言われたって伝えたら何もしないで寝てなさいって言われてさ」
城ヶ崎は照れくさそうに笑いながら、二球目の動作に入った。
無駄な力みがまったくない。右肩甲骨が背骨に向かってスムーズに寄り、胸が開いたところで右腕が振り出される。踏み出した左膝が割れることもなく、軸がまっすぐに立っている。
パチン、と再びグラブが鳴った。
「今の腕の振り、すごく綺麗だったよ。前足に体重が乗る瞬間と、指先が球を離す瞬間が一致してる」
「本当? 自分じゃよく分からないけど、指にかかる感じはすごく気持ちいいよ」
「それでいいんだよ。投手は自分の感覚が一番大事だからね。変に理屈で固めるより、気持ちよく指先で弾けた感覚を身体に染み込ませる方がずっといい」
俺はボールを返しながら、城ヶ崎の足元に目を凝らした。
昨日の五回戦は、夏の初先発で九回を投げ抜いた。四つのヒットを許して二点を失い、奪った三振は七つ。四死球は一つも出さず、球数は百八球に収まる。八回に同点に追いつかれたときは肝を冷やしたが、あいつは自らプレートを外し、グラブを胸に抱えて目を閉じ、深く息を吐き出してマウンドの上で踏みとどまった。あの日教えたルーティンを、土壇場で自分の力として使ってみせたのだ。そのあとに味方が勝ち越し、三対二で逃げ切った。最速は百四十八キロを記録し、自己最速タイの数字を残している。
だが、あのような激戦のあとだからこそ、慎重にならなければならない。高校生の成長途中の関節は、本人が思っている以上に脆いものだ。前世の俺がそうだったように、調子が良いと感じている時ほど見えない疲労が腱の奥へ溜まっていく。
「よし、次は少しだけ低めを意識してみて。腕の振りを低くするんじゃなくて、前足の股関節をしっかり折りたたんで高さを合わせるんだ」
「股関節を折りたたむ……こうかな」
城ヶ崎は言われた通りに重心を沈め、ゆったりとしたフォームから腕を振った。
放たれた白球は、俺の膝の高さへと正確に糸を引いて届いた。捕球音とともに、グラブの革が微かに震える。文句のつけようがない制球だ。
「すごくいいよ。今のフォームなら、肩や肘に余計な負担が一切かからない」
「姫宮にそう言ってもらえると、すごく安心するよ」
「立ち投げはこれで十球目くらいかな。そろそろ終わりにしよう」
「えっ、もう終わり? 少し投げ足りないな……」
城ヶ崎が子犬のように眉を下げ、名残惜しそうに右腕を回した。
「ダメだよ。投げたくなっても、投げ込みすぎちゃいけないんだ。試合の合間の調整は、物足りないくらいで切り上げるのが鉄則なんだから」
俺はグラブを外し、コンクリートの段差に腰を下ろした。
城ヶ崎もグラブを脇に抱えて隣まで歩いてくると、壁に背中を預けて立った。見上げるほどの長身が作る影が、俺の足元を覆っている。
「うちは選手を何十人も集められるような、私立の強豪校じゃないんだよ」
俺は静かな声で言葉を紡いだ。
「今ここにいる部員たちも、みんな必死に食らいついてる。でもベスト八から先の舞台で通用するピッチャーは、成瀬先輩と城ヶ崎君の二人しかいないんだ」
城ヶ崎の表情から、先ほどまでの人懐っこさが消えた。
「明日の準々決勝は、四回戦から中四日の成瀬先輩が先発するはずだよ。城ヶ崎君は、終盤のピンチや勝負どころで救援としてマウンドに上がる役割になる。どちらか一人が崩れたら、その瞬間にうちの夏は終わるんだよ」
「……うん」
「二人で分け合って、次の試合に余力を残すこと。明日を乗り切っても、木曜には準決勝、土曜には決勝と続いていくんだ。城ヶ崎君がここで調子に乗って肩を消耗させたら、成瀬先輩一人にすべての重荷がのしかかることになるんだよ」
「調子に乗ってなんてないよ」
城ヶ崎は慌てて手を振ったが、すぐに申し訳なさそうに視線を落とした。
「ごめん、姫宮。俺、自分のことしか考えてなかった」
「謝る必要はないよ。身体が動くから投げたくなるのは、ピッチャーとして当然の欲求だからね。でも、それを抑えられるのが一流の選手なんだ」
「うん。姫宮の言う通りにするよ。俺、野球のことはまだ何も知らないからさ。姫宮が投げるなって言うなら、一球も投げない」
城ヶ崎は屈託のない笑みを浮かべ、素直に頷く。
俺はこの少年の横顔を見つめながら、改めて胸の内で息を吐いた。
昨日の試合で初先発して完投し、強豪の港南工業を破ったのだ。普通の高校一年生なら、天狗になって自分の力を過信してもおかしくない。周りに持ち上げられて指導者の言葉すら耳に入らなくなる選手を、前世で俺は何人も見てきた。
だが、城ヶ崎にはその慢心が微塵もない。自分の実力に溺れず、他人の忠告をすんなりと受け入れることができる。この底抜けの素直さこそが、城ヶ崎投真という怪物の最大の武器なのだと俺は思う。
「道具を片付けて、着替えておいで。ボクは近くで待ってるから」
「分かった。急いで着替えてくるよ」
城ヶ崎はグラブを抱え、長い脚を弾ませるようにして部室棟へと走っていく。
俺はグラブを抱え直し、体育館脇の渡り廊下を通って昇降口へと向かった。
午前の光が廊下の窓ガラスを白く照らし出している。グラブを鞄にしまって手を洗い、風が吹き抜ける昇降口の木製ベンチに腰を下ろした。
夏休みの校舎は本当に静かだ。時折、遠くの特別教室から吹奏楽部の金管楽器の音が途切れ途切れに聞こえてくるくらいだった。壁掛けの時計の秒針が進む音さえ、やけにはっきりと耳に届く。
まぶたの裏に、かすかな熱が張り付いている。日曜の夜、港南工業との試合が終わって帰宅したあとも、俺は机に向かってノートを開き続けていた。深夜までペンを走らせ、次にぶつかる桐原学園の打線と投手の特徴を細かく書き出していたのだ。頭の芯がほんの少しだけ重い。
「あ、ほらやっぱりいた!」
頭上から明るい声が降ってきて、俺は顔を上げた。
靴箱の並ぶ通路の向こうから、制服姿の二つの人影が歩いてくるところだった。大原さんと横山さんだ。二人とも夏服の半袖ブラウスに紺のスカート姿で、手には夏期講習用の分厚いテキストと筆記用具の入った鞄を抱えている。
「大原さん、横山さん。講習はもう終わったの」
「たった今終わったところだよ。二時間ぶっ続けで現代文読まされて、頭が爆発しそうだったんだから」
大原さんは額の汗を手のひらで仰ぎながら、大袈裟に息をついて隣に腰を下ろした。
「ほんまに疲れたわ。先生の話、途中から子守唄にしか聞こえへんかったもん」
横山さんも苦笑いしながら、持っていた小さな保冷バッグのファスナーを開けた。中から冷たいおしぼりと冷えた麦茶のペットボトルを取り出して差し出してくる。
「はいこれ、姫宮さん。さっき購買の自販機で買うてきたとこやから、まだ冷たいよ」
「ありがとう、横山さん。助かるよ」
「グラウンドの方見に行ったら誰もおらんかったから、もう帰ったんかと思ったわ。野球部の子ら、練習終わるん早かったんやね」
「明日はもう試合だからね。キャプテンたちが、今日は軽めにして休めって言ってくれたんだ」
冷たいペットボトルを首筋に当てると、汗がすっと引いていくような心地よさがあった。
ふと、大原さんがじっと俺の顔を覗き込んできた。大きな瞳を細め、心配そうに眉を寄せる。
「姫宮さん、ちゃんと休めた? 昨日の試合のあと、顔色がすごく悪かったから心配してたんだよ」
「うん、ちゃんと休んだよ」
「ならいいけどさ。無理しちゃダメだよ。姫宮さん、たまに一人で抱え込んじゃうところがあるんだから」
大原さんはそう言って、小さく笑った。
そのとき、下駄箱の奥からバタバタと大きな足音が近づいてきた。
制服に着替え、濡れた髪をタオルで拭きながら城ヶ崎が姿を現した。だがベンチの大原さんと横山さんを見るや否や、城ヶ崎の足がピタリと止まった。
「あ……」
城ヶ崎は途端に身体を小さく丸め、首をすくめるようにして立ち尽くした。
「お疲れ、城ヶ崎君。すごい汗だね」
大原さんが悪戯っぽく笑いながら声をかけると、城ヶ崎は首筋まで赤くして視線を泳がせた。
「あ……大原さん、横山さん……こんにちは」
「こんにちは。城ヶ崎君もこれ使い。冷たいタオル、まだもう一本あるから」
横山さんが保冷バッグから二本目のおしぼりを差し出すと、城ヶ崎は両手で恐縮そうにそれを受け取った。
「あ、ありがとう……」
「何その態度。マウンドの上じゃ、相手のバッターのことあんなに睨みつけてたのにさ」
大原さんが唇を尖らせてからかうように言った。
「に、睨んでなんかないよ! 堂本キャプテンのミットを、一生懸命見てただけで……」
「嘘だあ。テレビのニュースでダイジェスト流れてたの見たよ。ものすごい形相で腕振って、相手のバッターをねじ伏せてたじゃん。あたし、ちょっと怖かったもん」
「姫宮……そ、そんな顔してたかな……?」
「ま、昨日の試合は本当にかっこよかったけどね。あたしたち、スタンドで声枯れるまで応援したんだから」
「うん、ほんまにすごかったわ。スタンド中がどよめいて、鳥肌立ったもん」
二人に褒めちぎられた城ヶ崎は、居場所を失ったように肩をすぼめておしぼりで顔の半分を隠してしまった。マウンドの上で見せるあの堂々たる姿からは想像もつかないほどの縮こまりようだ。
「二人とも、講習が終わったならお腹空いてるでしょ。お昼はどうするの」
俺が助け舟を出すと、大原さんがパッと表情を明るくした。
「それがさ、夏休み中も学食が開いてるんだって。講習受ける生徒と、部活の生徒のために昼の二時間だけ営業してるらしいよ」
「せやねん。せっかくやし、みんなで行かへん?」
「いいね、行こうか。城ヶ崎君も行くよね」
「あ、うん。俺、めちゃくちゃ腹減ってる」
食べ物の話になった途端、城ヶ崎の表情にようやく生気が戻ってきた。
四人で並んで渡り廊下を渡り、校舎の一階の端にある学生食堂へと向かった。
普段の昼休みなら身動きが取れないほど混雑している学食も、夏休みの今日はまばらにしか人がいない。大きな換気扇が静かに唸りを上げ、厨房の奥からは油で揚げ物を揚げる香ばしい音と匂いが漂っていた。窓からは真昼の強い日差しが差し込み、白いテーブルの表面を明るく照らしている。
それぞれ券売機で食券を買い、配膳カウンターで料理を受け取る。
俺はささみのサラダとゆで卵、それにご飯をほんの少しだけ盛ってもらう。胃のあたりが重たく、油物を欲していなかった。タンパク質を補給するためだけの最低限のメニューだ。だが隣の城ヶ崎のトレイを見た瞬間、思わず目が留まった。
「城ヶ崎君、それ……」
「カツ丼の大盛りだよ」
大きめの丼に白米が山のように盛られ、その上に分厚い豚カツが卵でとじられて乗っている。さらに小鉢の冷奴と、なみなみと注がれた豚汁までついていた。
「すごいボリュームやな……。見とるだけでお腹いっぱいになりそう」
横山さんが目を丸くしながら、自分のサンドイッチをテーブルに置いた。大原さんは購買で買ってきたという焼きそばパンとコロッケパンの袋を破りながら、呆れたように笑っている。
「さすが体育会系。あたしなら半分も食べられないよ」
「これでも、少し控えめにした方なんだけどな……」
城ヶ崎は申し訳なさそうに呟きながら、割り箸を割った。
窓際の四人掛けテーブルに向かい合って腰を下ろし、手を合わせる。
「いただきます」
城ヶ崎は待ちきれないといった様子で丼を抱え込み、大口を開けてカツ丼をかき込み始めた。喉仏が上下し、米粒がみるみるうちに消えていく。食べたものをすぐ血肉に変えられる胃腸の強さも、一流のアスリートに欠かせない素質の一つだ。見ているだけでこちらの胸焼けがしそうなくらいの勢いで、箸が動いていた。
俺も箸を手に取り、ささみを一切れ口に運んだ。パサついた肉の繊維をゆっくりと奥歯で噛み砕く。
「そういえばさ、これ見てよ」
大原さんが鞄をごそごそと探り、綺麗に四つ折りにされた新聞を取り出して広げた。
地元のスポーツ紙の地方版ページだ。机の上に広げられた紙面の中央には、躍動感あふれるフォームでボールをリリースする城ヶ崎の大きな写真が掲載されていた。
見出しには、公立の新星が初先発で完投、同点に追いつかれても崩れぬ精神力、といった文字が躍っている。昨日の試合の様子が詳しく書かれており、九回を投げ抜いて強豪を破った快挙が讃えられていた。
「駅の売店で見つけて、思わず買っちゃったんだよね。すごくない? こんなに大きく載るなんてさ」
「うわあ……」
カツを口に運ぼうとしていた城ヶ崎の手が、空中でピタリと止まった。
紙面を覗き込んだ城ヶ崎の顔が、みるみるうちに赤から青へと変わっていく。
「ど、どうしたん? かっこよく写っとるやんか」
横山さんが不思議そうに尋ねると、城ヶ崎は箸を持ったまま机に突っ伏して頭を抱えてしまった。
「母さん……近所に配ってそう……」
「配ってるって、新聞を?」
「うん……。勝った日の夜も、近所のおばちゃんたちに電話しまくってたし……。こんなに大きく載ってたら、十部くらい買って配り歩いてるよ……恥ずかしくて外歩けない……」
背中を丸めて消え入りそうな声で呻く城ヶ崎の姿に、テーブルの全員が吹き出した。
「いいお母さんじゃん。自慢の息子なんだから当たり前だよ」
大原さんがパンを齧りながら、けらけらと笑った。
「でもさ、本当にすごいよね。これでベスト八でしょ? あと三回勝てば、もう甲子園じゃん」
大原さんは事も無げに、あっけらかんと言い放った。
あと三回。数字だけを見れば確かにその通りだ。準々決勝と準決勝、そして決勝。三つの勝ち星を積み上げさえすれば、甲子園の土を踏むことができる。
だが俺はささみのサラダを飲み込みながら、静かに首を横に振った。
「大原さん、ここからは今までとはまるで別物なんだよ」
「別物? 何が違うの?」
「勝ち残っている学校の質が違う。ここから先は、偶然や勢いだけで勝ち上がってきたチームなんて一つも残っていないんだ。相手の弱点を徹底的に研究し、こちらの強みを消す戦術を平然と実行してくる猛者ばかりだよ」
城ヶ崎がゆっくりと顔を上げた。その瞳から気恥ずかしさは消え、静かな緊張の色が宿っていた。
「明日の準々決勝の相手、秋の県大会で優勝した桐原学園なんだよね」
「そうだよ。私立の強豪校で、試合運びの巧さは県内でも指折りだよ」
俺は机の端に置いた鞄から、対戦相手について簡単にまとめたメモを取り出した。詳細なノートは今朝キャプテンに渡してある。
そのメモをテーブルに置いた瞬間、向かいの大原さんが身を乗り出し、端の書き込みに目を留めた。
「これ、いつ書いたの? 日曜・第二試合って……」
「前に地元紙に載った試合の記録を写して、まとめ直しただけだよ」
しまった。なんとか言い訳をとっさに言うことは出来たが、二人の追求は止まらない。覗き込んだ横山さんが眉を寄せてメモを指さす。
「一球ごとの球数とか、バッターの立ち位置まで細かく書いてあるやん。それにこんな細かい配球なんて、今朝の新聞に載るわけないわ」
息が詰まった。的確すぎる指摘に、言い返す言葉が出てこない。
大原さんの目がすっと細くなり、眉がつり上がった。
「……あんたね。昨日、あたしたちに一人で帰れるって言って、送るのも断ったよね? まさかあのあと、球場に戻って第二試合見てたの?」
「……」
「あの炎天下でずっとスタンドにいたわけ? 顔色真っ青だったのに!」
「モモ、ちょっと声大きいわ」
横山さんが窘めたが、その横山さんの瞳も冷ややかに怒っていた。静かな声が逆に刺さる。
「うちも怒っとるよ、姫宮さん。うちらがどれだけ心配したか分かっとる? 倒れたら危ないからって送ろうとしたのに、嘘ついて一人で無理して」
大原さんが身を乗り出し、机に両手をついて迫ってきた。
「次に同じことしたら、あたし許さないからね。明日は球場であたしたちの隣に座って、お昼もちゃんと食べるところまで見張るから。いい!?」
横でカツ丼を食べていた城ヶ崎が、目を白黒させて固まっていた。恐る恐る俺の顔を見つめてくる。
「姫宮……俺たちのために、そこまでしてくれてたの……?」
「ごめん、二人とも。心配かけて悪かったよ」
俺は素直に頭を下げた。城ヶ崎がある程度自分で投げられる用になった以上、敵チームの偵察のほうが城ヶ崎のためになると思っての判断だったが、二人の本気の心配を無下にしたのは事実だった。
「……もう、これ以上無理したらあかんよ」
横山さんが静かに念を押し、大原さんもまだ怒りの収まらない様子で腕を組み、ぷいと窓の外へ視線を逸らす。
張り詰めた空気を察したのか、城ヶ崎がおずおずと手を挙げるようにして口を開いた。
「……あのさ。その桐原学園って、どんな戦い方をしてくるの?」
「城ヶ崎君、あたしがまだ怒ってる途中に……ま、いいけどさ」
大原さんが肩の力を抜いたのを見て、俺は城ヶ崎の助け舟に乗ることにした。
「桐原学園は港南工業よりもっと徹底して待ってくる。本当に怖いのは、選球眼と待球作戦なんだ」
大原さんがふん、と息を吐いて椅子に座り直した。
重くなった空気を払うように、俺は机の上のメモに目を落とし、呼吸を整えて口を開いた。
「あそこは港南工業よりもっと徹底して待ってくる。本当に怖いのは、選球眼と待球作戦なんだ」
「待球作戦……ボールを待つってこと?」
「そう。ストライクゾーンに来ない球には手を出さない。それどころか、ストライクの球であっても、早いカウントではほとんど振ってこないんだ」
横山さんが眉をひそめて、サンドイッチを置いた。
「ストライクやのに見送るん? 打たへんの?」
「甘い球が来るまでじっくり待って、相手の投手に無駄な球数を投げさせるのが狙いなんだ。際どいコースは見逃してボールを稼ぎ、追い込まれてからは低めの変化球をバットに当ててファウルで粘る。一人のバッターが平気で七球も八球も投げさせてくるんだよ」
「それって、ピッチャーからしたらめちゃくちゃ嫌な攻め方やんか」
「その通りだよ。桐原学園は序盤から相手に球数を投げさせるんだ。五回、六回と進んで疲れが出てくると、球速が落ちたり、低めに投げきれなくなったりする投手もいる。そこで甘く入った球を逃さず一気に畳みかけるのが、あのチームの勝ちパターンなんだ」
俺は城ヶ崎の目をまっすぐに見つめた。
「成瀬先輩のコントロールは抜群だけど、ファウルで粘られて球数が増えると、終盤に球が浮いてくるかもしれない。だから、明日は城ヶ崎君が試合の終盤に救援でマウンドに上がる可能性がすごく高いんだよ」
「……うん。救援で入るんだね」
「そう。桐原の打者は、城ヶ崎君の速い真っ直ぐを初球から空振りしてくれるようなお人好しじゃない。焦って全力でねじ伏せようとすれば、ボール球を見極められてファウルで粘られて、あっという間に球数が増えてしまう」
「球数……」
「昨日百八球投げたあとの中一日で、終盤のプレッシャーの中で力任せに投げ続けるのは危険すぎるからね。握力が落ちてフォームが崩れたら、体を痛めるリスクが一気に跳ね上がる」
「じゃあ、どうすればいいの? 三振を狙いにいかないと、抑えられないんじゃないかな」
「逆だよ。相手が待ってくるなら、三振なんて取りにいかなくていいんだ」
「え……?」
「初球から堂々とストライクを取って、自分からどんどん追い込むんだよ」
俺が言うと、城ヶ崎ははっとしたように目を見張った。
「あ……初球にストライクを取るの、前に教えてもらったやつだ。相手が振ってこないなら、最初からストライクを投げても打たれないってこと?」
「その通りだよ。真ん中じゃなく低めにね」
俺は思わず口元を緩めた。教えたことをただなぞるだけでなく、状況に合わせて自分で引き出せるようになっている。
「相手が見送ってくれるなら、初球はタダでストライクが一つもらえるボーナスステージみたいなものだ。遠慮なくカウントを稼げばいい。そしてね、もう一つ大事なことがある」
俺が続けようとした瞬間、城ヶ崎が身を乗り出すようにして言葉を重ねてきた。
「全部を全力で投げないで、速さを変える……だよね?」
俺は一瞬、目を瞬かせた。
「……うん、そうだね。よく分かったね」
「チェンジアップを教えてもらったとき、速さを変えるのが大事だって言われたからさ。だから……八割くらいの力で投げるのかなって」
「うん、その通りだよ。城ヶ崎君、すごいね。ちゃんと自分の頭で野球を組み立てられるようになってる」
城ヶ崎は嬉しそうにはにかみ、照れたように鼻の頭を擦った。
「相手が振ってこないうちに、八割の力で低めのストライクを先に二つ取ってしまうんだ。球速は百四十キロ前後でいい。先に追い込んでしまえば、相手のバッターは見逃せなくなって振るしかなくなる」
「追い込んでから、振らせるんだね」
「そう。追い込んでからは、チェンジアップを使うんだ。真っ直ぐと同じ腕の振りで低めに落とせば、追い込まれて当てにきたバッターは泳がされて簡単に空振りや引っ掛けをしてくれる。そして、どうしても三振が欲しい勝負どころやピンチの場面だけでいい。そこで初めて、全力の直球を投げ込むんだよ」
俺の言葉に、城ヶ崎の口元がきゅっと引き締まった。
「ずっと低めの百四十キロを見せられてたら、急に全力のが来ても……目が追いつかないってこと?」
「その通り。八割の直球があるからこそ、勝負どころの全力投球が生きてくるんだ。堂本キャプテンも、きっと同じようなリードを考えているはずだよ」
城ヶ崎は大きく息を吸い込み、握りしめた拳を自分の膝の上に置いた。
「分かった。俺、先にストライクを取って、追い込んでから勝負するよ。相手の作戦に乗らないで、自分から攻めてみる」
「うん。城ヶ崎君なら、きっとできるよ」
「俺、頑張るよ。昨日の試合だって、八回に追いつかれたとき姫宮に教えてもらった通りのことを意識したら、全然怖くなくなったんだ。全部、姫宮のおかげだからさ」
城ヶ崎は迷いのない瞳で、まっすぐに俺を見つめて言い切った。
大原さんと横山さんの前であることなど少しも気にしていない様子で、屈託のないその言葉に大原さんが吹き出した。
「もう、城ヶ崎君ったら。姫宮さんのこと好きすぎでしょ」
「えっ、そ、そんなんじゃないよ! 本当のことを言っただけで……」
城ヶ崎はまたしても顔を真っ赤にして、慌てて否定しようと両手を振った。
「はいはい、分かっとるよ。姫宮さんの言う通りにしとけば間違いないってことやろ」
横山さんも楽しそうに笑いながら、残りのサンドイッチを口に運んだ。
大原さんは焼きそばパンの空き袋を指先で丸めながら、ふうと息を吐き出した。
「要するにさ、次の桐原学園にも勝つってことでしょ?」
あまりにも大雑把なまとめ方に、横山さんが呆れたように肩を揺らした。
「モモ、人の話全然聞いてへんかったやろ。相手が強いから工夫せなあかんって話をしてたんやんか」
「聞いてたよ! 初球からストライク取って、追い込んでから変化球とか速いので勝負するんでしょ? なら同じじゃん」
「まあ、結果としてはそうなんやけどな……」
横山さんは苦笑いし、それから俺たちの方に向き直って表情を引き締めた。
「でもうちらも、明日の準々決勝は朝一番から応援に行くからな」
「あたしも行くよ。夏期講習サボってでも行こうかな」
「それはアカンわ。講習はちゃんと受けなあかんやろ」
「冗談だってば。明日はたまたま講習が午後からだし、朝の第一試合なら余裕で行けるからね。城ヶ崎君、マウンドからあたしたちのことちゃんと見つけてよね」
大原さんにそう言われ、豚汁をすすっていた城ヶ崎は激しくむせそうになった。
「あ、うん……頑張るよ」
咳き込みながら小さくなる城ヶ崎と、それをからかって笑う二人の少女。
学食の窓から差し込む夏の強い光が、テーブルの上に並んだ食器を白く照らし出す。
目の前にいる城ヶ崎は、俺の教えを吸収して着実に強くなっている。成瀬先輩や堂本キャプテンもいる。そして、声を限りに応援してくれる仲間がいる。怪物が甲子園へ行くための道筋は、確実に整いつつある。
「姫宮さん、本当にそれだけで足りるん?」
横山さんが残されたサラダを見て、不思議そうに尋ねてきた。
「うん、十分だよ。ありがとう」
俺は静かに微笑んで答えた。
窓の外では、蝉の声が陽炎の向こうへ溶けていく。中一日の短い休息の先に、秋の王者との決戦が待っていた。