照りつける朝の強い光を遮る屋根もなく、すり鉢状に広がるスタンドの長椅子には早くから熱気が淀んでいた。
平日の火曜、午前九時前の第一試合だというのに、バックネット裏から一塁側へかけての座席はかなりの客で埋まっている。夏休みに入ったばかりの高校生や熱心な高校野球ファンに混じり、通路を行き交う他校の偵察部隊らしいジャージ姿の集団だ。
グラウンドの黒土からは散水された水蒸気が白く立ち上り、濡れた土と芝生の匂いがスタンドの前の列まで漂ってきた。
銀色のアルミベンチの中央に腰を下ろした俺の右隣には大原さん、左隣には横山さんが座り、左右からぴったり挟み込まれる格好になっている。
「よし、確保完了。姫宮さん、今日は逃がさないからね。昨日の約束、忘れてないでしょ」
大原さんが手にしたビニール袋を膝の上に置き、ジロリとこちらを睨んできた。制服の半袖ブラウスの袖を少し捲り上げ、胸元でうちわを忙しく動かしている。
「忘れてないよ。ちゃんと挟まれて座ってるじゃないか」
「当たり前だよ。昨日みたいに一人で無理して、炎天下で倒れられたら困るんだから。ヒロ、見張り番よろしくね」
「任せとき。うちが左側をがっちり固めとくから、姫宮さんは一歩も動かれへんで」
横山さんが肩を回しながら、頼もしそうに笑う。首に巻いたスポーツタオルからは冷たいハッカの香りが微かに漂ってきた。昨日学食で釘を刺された通り、二人は朝の開門と同時に俺を改札で捕まえ、両脇を固めてこの席まで連行してきたのだった。
胃の底がきりきりと小さく締めつけられるような感覚を覚える。
通路の奥にある売店から、ソースの焦げた匂いとフランクフルトを揚げる油の熱い匂いが風に乗って流れてきた。さらに隣を通り過ぎる観客たちの汗の匂いが混ざり合い、鼻の奥を突いた瞬間、喉の奥がぐっとせり上がるような不快感に襲われた。
俺は息を止め、胸元を指先で押さえて唾を飲み込む。
顔に出ないよう、口元を引き締めた。昨日、無理がばれて大目玉を食らったばかりだ。ここで気分が悪い素振りを見せれば、すぐに球場から連れ出されかねない。
「姫宮さん、顔色あんまりようなさそうやけど、大丈夫か? これ、保冷剤巻いたやつ。おでこに当てとき」
横山さんが素早く察して、タオルハンカチに包んだ小さな保冷剤を差し出してくれた。
「ありがとう、横山さん。ちょっと日差しが眩しかっただけだよ」
俺は平静を装ってそれを受け取り、額に軽く当てる。ひんやりとした冷気が肌を伝い、せり上がりかけた吐き気をわずかに沈めてくれた。
「ほら、試合前に少しでもお腹に入れておきなよ。どうせ今朝もろくに食べてないんでしょ」
大原さんが袋の中から小さめの丸いパンがいくつか入った袋を取り出し、そこから一つ出して俺の膝の上に押しつけてきた。コンビニのたまごロールパンだ。
「朝食はちゃんと取ってきたよ」
「一個でいいから、あたしの目の前でちゃんと噛んで飲み込んで。お昼はまた別でしっかり食べるんだからね」
大原さんは腕を組み、真剣な目つきで見張っている。
今の胃袋に固形物を入れるのは正直きつかった。パンの生地から香るわずかなバターの甘い匂いでさえ、今の鼻腔には重たく感じられる。だがここで一口も食べなければ、二人の心配はさらに膨らんでしまうだろう。
俺はパンを親指ほどの大きさに千切り、口に運んだ。
舌の上でゆっくりとなじませてから、喉の奥へと滑り込ませる。味はほとんど感じられない。
「……うん、美味しいよ。ありがとう、大原さん」
「よし、合格。無理に全部食べなくていいから、ゆっくり自分のペースで減らしなさいよ」
大原さんは満足そうに頷き、ようやく警戒を解いたように自分のジュースに口をつけた。残りのパンを袋に戻し、そっと膝の上に置く。
グラウンドでは両校のノックが始まっていた。
一塁側のベンチ前で背番号一を背負った成瀬先輩が、堂本先輩を相手に低い姿勢でキャッチボールを繰り返している。肘の高さも申し分なく、しなやかな腕の振りと手首のスナップで、低めに構えたミットへ糸を引くような白球を投げ込んでいた。
先発はエースの成瀬先輩だ。
日曜の五回戦で百八球を投げて完投した城ヶ崎は、今日はベンチ前で静かにストレッチを行っている。長い手足を折り曲げ、股関節を念入りに伸ばしていた。
西高のベンチには成瀬先輩と城ヶ崎の二人しか、この激戦を投げ抜ける投手がいないのだ。木曜の準決勝、土曜の決勝と続く過密日程を考えれば、今日の試合を成瀬先輩がどれだけ長いイニングを抑え、城ヶ崎を終盤のここぞという場面の救援に回せるかが、チーム全体の生命線となる。
サイレンの長い音が、蝉時雨の降り注ぐ球場に鳴り渡った。
両校の選手がホームプレートを挟んで整列し、深々と一礼を交わす。
いよいよベスト四をかけた準々決勝が始まった。
一回の表、桐原学園の攻撃。
マウンドに上がった成瀬先輩は帽子を取って額の汗をぬぐい、静かにプレートを踏んだ。立ち上がりの投球練習では、低めの両コーナーへきっちりと制球された球を投げ込んでいる。調子は悪くない。中四日の休養を経て、右腕のしなりにも十分なキレがあった。
だが打席に入った桐原学園の一番打者はバットを指二本分短く持ち、ホームプレートのぎりぎり内側に爪先を揃えて立っていた。
初球。成瀬先輩の得意とする、外角低めいっぱいへのスライダー。
厳しいコースだが、打者は微動だにせず見送る。審判の右手が上がり、ストライクが宣告された。
二球目、同じ軌道からわずかにボールゾーンへ逃げるスライダー。
打者はピクリとも動かない。ボール。
三球目、内角を突く直球。打者は強引に引っ張るのではなく、バットのヘッドを残したまま逆方向へ流すように当て、三塁側のファウルグラウンドへと転がした。
「うわ……今のも当てるんだ」
大原さんが身を乗り出しながら呟く。
「徹底してるね。桐原学園のバッターは、早いカウントからは甘い球以外で自分のスイングをしてこないんだ。際どいコースは全部ファウルにして、相手の球数を削るのがあのチームの狙いだから」
四球目、五球目、六球目。成瀬先輩が低めに集める絶妙な変化球を、打者はことごとくバットの先や根元で拾い、ネット際へとファウルを打ち上げていく。空振りを奪うことができない。打者の狙いはヒットを打つことではなく、投手に腕を振らせて体力を消耗させることそのものにあるからだ。
フルカウントからの八球目。低めの直球をわずかに見極められ、先頭打者に四球を与えてしまった。
「いきなり歩かせちゃったじゃん……成瀬先輩、コントロールいいはずなのに」
「成瀬先輩の球が悪いんじゃないよ。相手の選球眼と、待球の姿勢が徹底されすぎているんだ」
二番打者もまったく同じ作戦をなぞってきた。初球の送りバントの構えから引いてボールを見送り、ストライクを取りに来た球をことごとくファウルにしてカウントを深くする。結局、二番打者をファーストへの犠打で一死二塁としたものの、成瀬先輩は初回だけで実に十九球を費やしていた。
三番打者をフルカウントから外角低めの直球で見逃し三振に仕留め、四番打者をサードゴロに打ち取って初回を無失点で切り抜けたが、マウンドを降りてベンチへ戻る成瀬先輩のユニフォームはすでに汗で色が変わっている。
「一回だけで二十球近く投げとるやん。あんなん毎イニング続いたら、成瀬先輩の肩が保たへんのとちゃう?」
横山さんが冷たいお茶を口に含みながら、心配そうに眉を寄せる。
「ゴロを打たせようとしても、桐原の打線は芯を外されても動じないからね。バットの芯を外されることを前提で、手首を返さずにファウルゾーンへ逃がす技術を練習してきてるんだよ。成瀬先輩の球威なら打球を前に飛ばさせないことはできるけど、球数を減らすのは簡単じゃない」
一回の裏、西高の攻撃。
桐原学園のエースは長身から投げ下ろす角度のある直球と、鋭く落ちるフォークを武器にする好投手だった。西高の先頭打者は鋭いフォークに空振り三振。二番打者も内角の直球に詰まらされてセカンドゴロ。三番打者が外角球を引っ掛けてサードゴロに倒れ、あっという間に三者凡退でチェンジとなった。
攻撃時間が短い分、成瀬先輩の休息時間も短くなってしまう。
二回の表、マウンドに上がった成瀬先輩の投球は初回よりもさらに低めを意識した慎重なものになっていた。堂本先輩もミットを地面すれすれに構え、ワンバウンドになりそうな球を身体で止めながら、相手打者の狙いを外そうと配球を組み立てている。
事前に渡してあったノートの内容を、堂本先輩が的確に使ってくれているのが遠目にも分かった。
桐原学園の下位打線は、ツーストライクに追い込まれると内角球に対してバットを短く握り直し、三塁側へファウルを打つ癖がある。堂本先輩はその裏をかき、追い込んでからあえて外角高めのボール球を見せ、次の球で外角低めのぎりぎりに沈むスライダーを振らせていた。
五番打者をセカンドゴロ、六番打者を外角スライダーで空振り三振。七番打者にはファウルで粘られて四球を出したものの、続く八番打者をライトフライに打ち取り、この回も無失点に抑える。
だが、二回を終えた時点で成瀬先輩の球数は三十六球に達していた。
三回表も、九番打者を打ち取るのに六球、一番に戻った好打者に七球粘られてレフト前ヒットを許し、二番打者の犠打で二死二塁とされる。三番打者を渾身のインコース直球でセカンドゴロに仕留めたときには、成瀬先輩の息はスタンドからでも分かるほど荒くなっていた。
三回終了で、球数は五十四球。
桐原学園のベンチからは、凡退した打者が戻るたびに大きな拍手とハイタッチが交わされていた。ヒットは一本しか出ていないのに、相手の顔には焦りの色など微塵もない。相手投手をマウンドから引きずり下ろすための作戦が、予定通りに進んでいるのだ。
「ねえ、城ヶ崎君、ブルペンに入ったよ」
大原さんが指差した先、ライト側のファウルグラウンドの奥にあるブルペンで、城ヶ崎が控え捕手を相手に投球練習を始めていた。
ゆったりとしたフォームから、長い右腕が振り下ろされている。受けるミットから響く捕球音は鈍く、まだ肩を温める段階の軽い立ち投げだ。
「成瀬先輩が崩れたわけやないのに、もう準備させるんやね」
「成瀬先輩の球自体はまだ死んでないよ。でもこの暑さとファウルの粘り合いの中で、五回を越えたら握力が急激に落ちてくるはず。ボールが指にかからなくなって球が浮き始めたら、桐原の打線は一気にそこを狙い撃ちしてくる。だから、早めに城ヶ崎君を温めているんだよ」
俺は小さく息を吸い、手元のパンをもう一口千切って口に入れた。
奥歯で噛み砕き、唾液と一緒に胃へ流し込む。胸の奥に鉛のような重さが広がるが、それでも表情は崩さない。隣の大原さんが視線だけでこちらの喉の動きを確認し、わずかに口元を緩めたのを見て取れた。
四回の表、桐原学園の攻撃は四番からの中軸打線だった。
成瀬先輩は気迫を前面に出し、低めのコーナーを丹念に突いていく。しかし相手の中軸もまた、一切の焦りを見せずに球筋を見極めてきた。
四番打者はボール球を二つ見送った後、ストライクを取りに来た球を三球連続でファウルにして粘り、最後は六球目の低めスライダーに詰まらされてセカンドゴロ。五番打者もフルカウントまで持ち込まれ、七球目の内角球を強引に引っ張ったもののサードゴロに倒れる。続く六番打者に対しても五球を要し、最後は外角低めの直球でライトフライに打ち取った。
三者凡退で無失点に切り抜けたものの、成瀬先輩はこの回だけで十八球を投げさせられていた。四回終了時で、投球数は七十二球に達している。打者を打ち取っても打ち取っても、相手の徹底したカットと選球眼の前に球数だけが確実に削られていく。
続く五回の表も、桐原学園の待球の網は緩まなかった。
七番打者は初球からバットを短く持ち、ファウルで粘った末の七球目を引っ掛けてファーストゴロ。八番打者もフルカウントの六球目、低めの厳しいコースをギリギリで見送ろうとしたが、成瀬先輩の渾身の直球が見逃し三振を奪う。続く九番打者に対しても二死からファウルで食い下がられ、六球目のチェンジアップでようやくショートゴロに仕留めた。
一人の走者も出さず、要所を締めてゼロに抑え続ける成瀬先輩の投球術は流石というほかになかった。だが、この五回にも十九球を費やしていた。
五回を終えて被安打一、無失点。だが俺が数えていた成瀬先輩の球数は、この五回を終えた時点で早くも九十一球に達していた。
ベンチに戻ってくる成瀬先輩の額からは滝のような汗が流れ落ち、肩で息をしているのがここからでもはっきりと分かる。中四日の右腕に、真夏の太陽と九十球を超える激闘の疲労が確実に重くのしかかっていた。
そして、六回の表だった。
グラウンド整備を挟み、照りつける日差しは正午に向けて最高潮に達している。ベンチから出てきた成瀬先輩の足取りに、隠しようのない疲労が滲んでいた。
桐原学園の攻撃は、二巡して上位へと回る一番打者からだ。
打者は初球、二球目と平然と見送り、ツーストライクと追い込まれながらも、成瀬先輩の外角への勝負球を三球連続でファウルにした。そして七球目、成瀬先輩の指先から抜けたスライダーが真ん中高めへと甘く入る。
鋭い打球音がグラウンドに響いた。
痛烈なライナーが右中間を深々と破っていく。一番打者が快足を飛ばして二塁を蹴り、一気に三塁へと滑り込んだ。
無死三塁。この試合最大のピンチだ。
スタンドの桐原側から、一斉にメガホンを打ち鳴らす轟音が湧き上がる。
続く二番打者は、最初からスクイズの気配を漂わせながら打席に入った。
成瀬先輩はマウンド上で膝に手を当て、深く息を吐き出す。額から顎へと汗が滝のように滴り落ちていた。堂本先輩がすぐにタイムを取り、小走りでマウンドへと歩み寄る。内野陣が集まり、言葉を交わした。
だが成瀬先輩の右肩の上下動は止まらない。球数はこの時点で九十八球に達していた。
堂本先輩が審判に向かって右手を挙げ、一塁側ベンチへと合図を送る。
同時にブルペンの扉が開き、背番号十を背負った長身の少年が駆け足でグラウンドへと入ってきた。
「城ヶ崎君だ……!」
大原さんが息を呑み、横山さんが膝の上の拳を握りしめた。
「城ヶ崎君や。この場面で出てくるんか……!」
無死三塁、先制されたらそのまま試合の主導権を握られかねない緊迫した局面。
成瀬先輩はマウンドに駆け寄ってきた城ヶ崎の胸にグラブをポンと当て、爽やかな笑みを浮かべて何かを耳打ちした。城ヶ崎は先輩からボールを受け取ると、丁寧にお辞儀をして背番号一の背中を見送る。
今日を勝ち抜いても、明後日の木曜には準決勝、中一日を挟んだ土曜には決勝が控えている。連戦の中で戦える投手は成瀬先輩と城ヶ崎の二人しかいない。ここで城ヶ崎が力任せに腕を振り続ければ、大会後半の登板に響きかねない。だからこそ八割の力感で打たせて取り、球数と疲労をできる限り抑える投球が求められていた。
城ヶ崎がマウンドの中心に立ち、スパイクで足場を均す。
投球練習の五球。捕手のミットを激しく叩く重い破裂音がバックネットに反響するたび、スタンドの観客からどよめきが漏れた。腕の振りの鋭さと球の伸びが、遠目にもはっきりと伝わってくる。
「うわ、いきなり球が唸っとるやん……!」
「一昨日あんなに投げたのに、本当に凄い球投げてるじゃん!」
二人が興奮したように声を弾ませる中、俺はマウンド上の城ヶ崎の立ち居振る舞いをじっと見つめていた。
あいつの表情にかつて見られたような焦りや力みはない。左胸にグラブを引き寄せ、息を静かに吐き出している。いつも確認している体の使い方や救援の役目、そして学食で話した配球の組み立てを、頭の中で整理している顔だ。
投球練習が終わり、審判がプレーを宣告した。
打席には桐原学園の二番打者。三塁走者は大きくリードを取り、スクイズの機会を伺っている。
堂本先輩のサインが出た。
ミットの位置は、真ん中低め。相手が初球からバントを仕掛けてくるか、それとも待球で様子を見てくるかを探る配球だ。
城ヶ崎がセットポジションに入り、右腕をゆったりと引き上げた。
放たれた白球は、唸りを上げるような剛速球ではない。腕の振りに無駄な力みがなく、滑らかな体重移動から低めへと滑り込んでいく。
ズバァン、と乾いた音が響く。
ストライク。球速表示は百三十九キロ。
打者はバントの構えを見せかけたものの、低めの厳しいコースに手を出せずに見送った。
「え……? 百三十九キロ?」
大原さんが目を瞬かせた。
「練習のときより遅いよ? 城ヶ崎君、どっか痛いんじゃないよね?」
「八割の力で投げてるんだ」
俺はグラウンドから目を離さずに答えた。
「桐原のバッターは、百四十五キロを超える剛速球を待っている。相手が初球を見送る癖があるなら、力任せに全力で投げる必要はないんだよ」
二球目。城ヶ崎は同じく力感を抑えたフォームから、今度は外角低めのぎりぎりのコースへ百四十キロの直球を投げ込んだ。
打者はスクイズを諦め、ヒッティングに切り替えてバットを出したが、手元でグッと伸びる球に押し込まれ、打球はバックネットを揺らすファウルとなった。
ノーボール、ツーストライク。
無死三塁という最大のピンチで、城ヶ崎はわずか二球で打者を追い込んでみせた。
打者の腰がわずかに引ける。初球からどんどんストライクを取りに来る投球に、待球を徹底してきた桐原のプランが一瞬で狂わされたのだ。
三球目。堂本先輩が腰を少し浮かせ、外角低めへミットを構える。
城ヶ崎の腕が真上から強く振られた。
直球とまったく同じ腕の軌道。打者は百四十キロの直球に合わせてバットを振り出した。だが、直球より遅い速度でふわりと放たれた白球は、打者の手元でブレーキがかかるように沈んでいく。
チェンジアップだ。
打者のバットは大きく泳がされ、空を切った。空振り三振。
三塁走者はスタートを切ることすらできず、ワンアウト。
「やったあ! 三振取ったじゃん!」
大原さんが叫び、横山さんと顔を見合わせて手を叩いた。
「すごいわ、あんな緩い球で空振り取れるんやね!」
だが続く三番打者は、打席に入る前からじっと城ヶ崎の投球フォームを凝視していた。
秋の王者を牽引する好打者だ。初見の球筋に戸惑うどころか、二番打者の三球で城ヶ崎が八割の力感で低めを突いていることを見極めにかかっていた。
初球。堂本先輩が要求したのは外角低めへの八割直球。百四十一キロ。
打者は微動だにせず見送る。ストライク。初球の軌道と球速を目に焼き付けるような見送り方だった。
二球目。堂本先輩は同じ腕の振りから外角低めへ落とすチェンジアップを要求した。
打者のバットがピクリと動いたが、沈む変化をギリギリで見極めて見送る。ボール。二番打者の空振りを見て、すでに緩い球の軌道を頭に入れていたのだ。ワンボール、ワンストライク。
三球目。城ヶ崎はインコース膝元へ百四十二キロの直球を投げ込んだ。
低めの球に対し、打者はステップを合わせて踏み込んできた。捉えかけた打球はわずかに詰まり、一塁側のファウルグラウンドへと鋭く弾き飛ぶ。
ワンボール、ツーストライク。
空振りは奪えない。相手はすでに八割直球の球速帯に目を慣らし、タイミングを合わせ始めていた。
四球目。堂本先輩はここで直球を続けず、外角低めへ沈むチェンジアップを要求した。
城ヶ崎の腕が鋭く振られる。直球と同じ腕の振りからブレーキがかかって沈む球に、直球を待ち構えていた打者は体勢を崩されながらも懸命にバットを合わせた。芯を外された打球が力のないセカンドゴロとなる。
セカンドが冷静に捕球し、三塁走者を牽制しながら一塁へ送球してアウト。
走者は三塁に釘付けのままだ。
ツーアウト。二死三塁。
ベンチに戻る三番打者は、凡退しながらも悔しがる素振りを見せず、すれ違う四番打者と言葉を交わしていた。城ヶ崎の腕の振りと、カウントを取りに来る直球のスピードをチーム全体で共有しているのだ。
迎える四番打者。どっしりとした体躯の右打者が、気迫を漲らせてバッターボックスに立った。
初球、堂本先輩は相手が低めの直球に照準を合わせ始めている気配を察し、初球から外角低めのチェンジアップを要求した。
緩い球が外角低めに沈む。四番打者は直球のタイミングで踏み込んでしまい、体勢を崩されて空振り。ストライク。
二球目。ここで堂本先輩は八割の投球を捨て、ギアを上げるサインを出した。
城ヶ崎が大きく胸を張り、真上から腕を振り下ろす。
放たれた白球は、ここまでの八割の投球とは明らかに違う唸りを上げて内角高めへと突き刺さった。百四十六キロ。胸元を抉るような全力の剛速球。
低めの百四十キロ前後に目を慣らされ、緩い球を見せられていた四番打者は、高めの剛球に完全に差し込まれた。詰まった打球が力なく内野へ舞い上がる。
セカンドが後退しながら両手を広げ、しっかりとグラブに収めた。
セカンドフライ。スリーアウトチェンジ。
二番打者に三球、三番打者に四球、四番打者に二球。
無死三塁という絶体絶命の危機を、城ヶ崎はわずか九球、無失点で切り抜けてみせた。
「うそ……抑えちゃったよ! 城ヶ崎君、凄すぎるじゃん!」
大原さんが俺の腕にしがみつき、激しく揺さぶってくる。
「ほんまに鳥肌立ったわ! あのピンチで一点もやらへんなんて、たいしたもんやで!」
横山さんも興奮を隠せない様子で立ち上がりかけた。
俺は二人の熱気に押されながらも、マウンドからベンチへ小走りで戻っていく城ヶ崎の姿を見つめていた。
ベンチ前で迎えた成瀬先輩が満面の笑みで城ヶ崎の頭をくしゃくしゃに撫で回している。城ヶ崎は照れくさそうに笑いながら、堂本先輩とグラブを合わせ、それから視線をスタンドの一角へと向けてきた。
城ヶ崎はスタンドを見回して俺たちの場所を見つけ出し、嬉しそうに拳を突き出してみせるのだった。
試合はゼロ対ゼロのまま、終盤の攻防へと移っていく。
だが、相手は秋の王者だ。
二番が見逃し、三番がファウルでタイミングを合わせ、四番が打ち取られながらもベンチへ生きた情報を持ち帰った。城ヶ崎が連戦と球数を見据えて八割の力で低めにストライクを集めていることを、桐原学園のベンチは確信に変えていたのだ。
七回の表、桐原学園の攻撃。
打順は五番からだ。打席に入った五番打者は六回までの打席とは明らかに違った構えを見せていた。ホームプレートに覆いかぶさるように踏み込み、トップの位置を深くとって低めの直球に照準を絞っている。
初球。城ヶ崎が投げ込んだのは、六回と同じようにカウントを稼ぐための外角低めの八割直球。百四十キロ。
その瞬間だった。五番打者は待球の姿勢を捨て、初球から迷いなくフルスイングしてきた。
カキィィン!
金属バットの芯で捉えられた打球が猛烈なライナーとなって三塁側のポール際へと一直線に飛んだ。
「うわっ……!」
大原さんが思わず身を縮める。
わずかにポールの外側を通過した特大のファウルだった。スタンドのフェンスに激突し、激しい金属音を響かせる。
六回の攻防で目を慣らしてきた相手打線が、ついに狙い球を絞り込んで牙を剥いてきたのだ。
「あっぶな……! 入ったかと思ったわ……」
横山さんが胸を押さえて息を呑む。
マウンド上の城ヶ崎も左足を少し引き、驚いたように打球の行方を見送っていた。
ホームプレートの後方で堂本先輩がすっと立ち上がった。
ミットを外し、右手で胸のプロテクターを軽く叩いてマウンドの城ヶ崎に鋭い視線を送る。
慌てるな、狙いを変えるぞと、無言の合図がバッテリーの間で交わされていた。
低めの直球を待っている相手に対し、安易に同じ球を続ければ間違いなく捉えられる。
二球目。堂本先輩は外角低め、完全にボールゾーンへと外れる位置にミットを構えた。
城ヶ崎が腕を振る。放たれたチェンジアップはストライクゾーンを外れて低く沈んだ。直球を狙っていた打者はバットを止めたものの、身体がわずかに前へ泳ぎかける。ワンボール、ワンストライク。
三球目。堂本先輩が出したサインは内角胸元への厳しい球だった。
城ヶ崎が踏み込み、腕を強く振る。打者の胸元をえぐるような百四十二キロの直球。踏み込んで低めを待っていた打者はのけぞりながらも、反射的にバットを出してファウルグラウンドへ打ち上げた。
ワンボール、ツーストライク。
追い込まれても五番打者は動じなかった。強振から一転し、成瀬先輩を苦しめたあのコンパクトな構えに戻してくる。
四球目、外角低めに沈むチェンジアップをバットの先で拾って三塁側へファウル。
五球目、ボールになる高めの釣り球をきっちりと見送る。ツーボール、ツーストライク。
そして六球目。堂本先輩は外角低めのぎりぎりにミットを叩きつけた。
城ヶ崎が投げ込んだ百四十五キロの全力直球に、打者は懸命に食らいついたが詰まらされ、打球は力のないセカンドゴロとなった。
ワンアウト。
続く六番打者もまったく同じように粘り強い姿勢を崩さなかった。
初球は外角低めの直球を見送られてボール。二球目、内角の厳しい直球を短く持ったバットでカットしてファウル。三球目、外角へ沈むチェンジアップに泳がされながらもバットの根元に当ててネットを揺らすファウル。
四球目、低めに外れる球を見極められてツーボール、ツーストライク。
五球目、真ん中低めに入った百四十一キロを逃さず叩いてきた。乾いた快音を残した打球がレフト後方へ高々と舞い上がる。レフトがフェンス際まで下がり、背走しながらグラブに収めた。ヒヤリとする大飛球だった。
ツーアウト。二死走者なし。
打ち取ってはいるものの、相手は城ヶ崎の球種が増えないことを見越し、徹底した見送りとファウルで球数を投げさせにきていた。
七番打者に対しても堂本先輩は球種とコースを散らして揺さぶりをかける。
初球、外角低めのチェンジアップでストライクを取る。二球目、外へ外れる直球をきっちり見送られる。三球目、内角の直球を打たせてファウル。四球目、低めのチェンジアップを見極められてツーボール、ツーストライク。
五球目、六球目と外角低めの厳しいコースをことごとくバットの先でカットされ、球場がどよめく。
そして七球目。外角低めいっぱいに突き刺さる百四十四キロの直球。打者はわずかに手が出ず、見逃し三振に倒れた。
初球の特大ファウルから配球を切り替えたものの、相手の徹底した待球とファウルにより、五番に六球、六番に五球、七番に七球。この回だけで実に十八球を費やしての三者凡退だった。
そして七回の裏、西高の攻撃だった。
ここまで好投を続けてきた桐原学園のエースに、明らかな疲労が見え始めている。
先頭の四番打者がしぶとく四球を選んで出塁すると、続く五番の堂本先輩が打席に入った。
堂本先輩は初球の内角直球を鋭く捉える。
快音を残した打球は左中間を真っ二つに破る適時二塁打となり、一塁走者が一気にホームイン。西高が待望の先制点を奪い取った。
続く六番打者が手堅く一塁線へ進塁打を転がして一死三塁とし、七番打者の犠牲フライで堂本先輩が生還して、この回に貴重な二点をもぎ取る。後続の八番打者はセカンドゴロに倒れてチェンジとなったが、電光掲示板の七回裏に鮮やかな「2」の数字が灯った。二対零。
重苦しい投手戦の均衡が、ついに破れた瞬間だった。
八回の表、桐原学園は八番からの攻撃。
二点のリードを奪われた桐原学園だったが、焦って早打ちに走るような真似は決してしなかった。むしろ終盤の二点差だからこそ、城ヶ崎の握力と体力を削り取り、九回に一気に捉えるというチームの狙いをさらに研ぎ澄ませて打席に入ってくる。
先頭の八番打者はホームベース近くに立ち、バットを極端に短く持った。
初球、外角低めの八割直球を見送ってストライク。二球目、外へ外れるボール球をしっかり見送る。三球目、低めに沈むチェンジアップに喰らいついてファウル。ワンボール、ツーストライク。四球目、膝元への際どいコースを冷静に見送られてツーボール、ツーストライクとされる。五球目、内角の直球をファウルで粘られ、迎えた六球目。城ヶ崎が低めに落としたチェンジアップを引っかけさせ、ピッチャーゴロに仕留めた。
続く九番打者も、初球の外角直球を見送ってストライクを取られるが、二球目のチェンジアップに手を出してファウル。ノーボール、ツーストライクと追い込まれながらも、外角低めのボール球を二つ見極めてツーボール、ツーストライクまで持ち込む。五球目の内角直球をファウルで逃げ、六球目、インコース高めの直球を詰まらせてライトフライ。
ツーアウト。
そして打順は一番へと戻る。
城ヶ崎とはこの打席が初対戦となるが、ベンチから球筋を凝視して特徴を把握している好打者だ。初球の外に外れるボールを見送り、二球目、低めの八割直球を見送ってワンボール、ワンストライク。三球目のチェンジアップを見極められてツーボール、ワンストライクとされる。四球目の内角直球を打たせてファウルとし、ツーボール、ツーストライク。五球目、低めの厳しい球を見極められてフルカウントまで持ち込まれた。六球目、内角を突く直球をカットされてファウル。
そして七球目。城ヶ崎は渾身の力を込め、外角低めいっぱいへ百四十五キロの全力直球を投げ込んだ。
打者のバットが空を切り、空振り三振。スリーアウトチェンジ。
八番に六球、九番に六球、一番に七球。この回も十九球を投げさせられていた。
城ヶ崎の投球数は救援登板からの三イニングで早くも四十六球に達していた。無失点に抑え込んではいるものの、相手の容赦ない待球とカットの前に城ヶ崎の額からは滝のような汗が流れ落ち、ユニフォームの背中は成瀬先輩と同じようにぐっしょりと濡れそぼっている。
八回の裏、西高の攻撃は追加点こそ奪えなかったものの、先頭で打席に入った九番の城ヶ崎自身がファウルで粘って相手投手に球数を投げさせるなど、落ち着いた試合運びを見せていた。
そして九回表を迎える。
西高のリードは二点。アウトを三つ取れば、秋の王者を破ってベスト四への進出が決まる。
マウンドへ向かう城ヶ崎の背中に、スタンドから割れんばかりの手拍子が送られた。
桐原学園の攻撃は二番打者からだ。
先頭の二番打者は追い込まれながらも執念でバットの先にボールを当て、三遊間を破るレフト前ヒットで出塁した。
無死一塁。スタンドがにわかにざわつき始める。
続く三番打者は、初球を一塁線へ手堅く転がしてきた。城ヶ崎が素早く打球を処理して一塁へ送球し、ワンアウトを取ったものの、走者は二塁へと進む。
一死二塁。一発が出れば同点という場面で、打席には四番打者が入った。
「お願い……抑えて、城ヶ崎君……!」
大原さんが両手を胸の前で組み、祈るようにグラウンドを見つめる。
横山さんも唇を真一文字に結び、身を乗り出すようにしてフェンスを見つめていた。
城ヶ崎はプレートを外し、ロージンバッグを拾い上げて粉を叩く。
指先を口元へ持っていき、息を吹きかけた。
そして右足をプレートに戻し、グラブを胸の前に抱えて目を閉じる。
深く、長く、息を吐き出した。城ヶ崎のルーティンだ。
目を開けた城ヶ崎の瞳には、一切の迷いがない。
四番打者に対する初球。内角低め、百四十二キロの直球。
打者はフルスイングしたが、ボールの上を叩いてファウル。ストライク。
二球目。堂本先輩の構えは外角低め。
城ヶ崎が投げ込んだのはチェンジアップだった。打者は直球のタイミングで踏み込んでしまい、体勢を崩されながらバットを止めたが、審判の右手が上がる。ストライク。
ツーストライク。相手の主砲を追い詰める。
そして三球目。
堂本先輩が立ち上がり、ミットを真ん中高めのボールゾーンに構えた。釣り球だ。
城ヶ崎の腕が強く振り下ろされた。
打者の目線よりもさらに高い位置へ、唸りを上げる剛球が突き刺さる。打者は手を出しかけたが、踏みとどまった。ワンボール、ツーストライク。
四球目。堂本先輩はどっしりと腰を落とし、外角低めのぎりぎりのコースへミットを構えた。
城ヶ崎が放った百四十三キロの直球に、四番打者は食らいついてバットを出す。しかし、手元で伸びる球に押し込まれ、打球は力なく一塁側のファウルグラウンドへと高く舞い上がった。
ファーストが落下点に入り、しっかりとグラブに収める。
ツーアウト。二死二塁。
「あと一人……! ヒロ、あと一人だよ!」
「心臓止まりそうやわ……! 頼むで城ヶ崎君!」
二人が肩を寄せ合い、息を詰めてマウンドを見つめる。
二死二塁となり、桐原学園の五番打者が打席に入った。長打力のある強打者だ。走者を返せば一点差、本塁打なら同点という緊張感がスタンドを包み込む。
城ヶ崎は落ち着いて息を整え、セットポジションに入った。
初球。相手が狙いを絞り切れていない隙を突き、外角低めへ百四十キロの直球をきっちりと投げ込んでストライクを奪う。
二球目。同じ腕の振りから放たれたチェンジアップに、打者のバットが空を切った。
ノーボール、ツーストライク。あっという間に最後の打者を追い詰める。
そして三球目。
堂本先輩はインコースの低め、打者の膝元へミットを構えた。
ここで勝負。腕を振れというサインだ。
マウンド上の城ヶ崎がわずかに口元を引き締める。
セットポジションから左足を高く引き上げ、前へ踏み出した。
全身の力が指先の最後の一点へと集約されていく。
放たれた白球は真昼の太陽の光を切り裂くような一条の閃光となって、ホームベースへと突き抜けた。
打者の膝元、インローのぎりぎりの角。
五番打者が渾身の力でバットを振り抜く。
だがバットが通過した上を、白球が突き刺さった。
ズバァァァン!
ミットの芯がボールを喰らい込み、バックネットの金網がビリビリと共鳴する。
空振り三振。
主審が右手を天高く突き上げ、打者はその場に立ち尽くした。
その瞬間バックネット裏の球速表示板に、鮮やかな数字が点灯する。
百四十九。
スタンド全体が息を呑むように静まり返った。
そして一拍遅れて、地鳴りのような歓声と叫びが球場を揺るがす。
「ひゃ、百四十九キロ……!? 自己最高じゃん!」
大原さんが飛び上がって横山さんの肩を掴んだ。
「百四十九!? うそやろ、高校一年生で百四十九って何なん!?」
横山さんも目を丸くして叫んでいる。
だが俺の喉は一瞬、静かに凍りついていた。
百四十九キロ。
それは前世の俺が高校最後の夏、甲子園の準決勝で右肘を壊す直前に記録した、生涯最速の数字とまったく同じだった。
二対零。
グラウンドでは主審の右手が下ろされると同時に、試合終了のサイレンが夏の青空へと高く響き渡った。
成瀬先輩から城ヶ崎への完封リレー。西高が秋の県王者・桐原学園を破り、ベスト四進出を果たした瞬間だった。
「勝ったぁぁぁぁっ!」
大原さんと横山さんが抱き合い、飛び跳ねながら喜んでいる。スタンドの一塁側は総立ちとなり、大きな拍手がグラウンドへ降り注いだ。
俺も立ち上がり、周囲に合わせて手を叩く。
だが、ぱちぱちと音を立てる自分の両手を見て、ふと手が止まりかけた。
右手の手のひらに対して、左手は手のひらを合わせず、指先の腹だけで軽く叩いていた。
左の手のひらに触れると、何か皮膚の奥がわずかにピリつくような、奇妙な熱感があったからだ。
暑さで汗をかいているせいだろうか。
俺は何事もなかったかのように指先を離し、制服のスカートの脇で軽く汗を拭ってから、整列へ向かう選手たちを見つめた。
ホームプレートを挟んで一礼し、ベンチへと戻る西高ナイン。
成瀬先輩が後ろから城ヶ崎の首に飛びつくように抱きつき、頭を揺らしている。堂本先輩も胸を張って城ヶ崎の背中をバンバンと叩いていた。城ヶ崎は顔を赤くして照れ笑いを浮かべ、何度も頭を下げている。
成瀬先輩を中四日で先発させ、相手の待球に耐え抜いて終盤に城ヶ崎へ繋ぐ。前日に立てたプラン通り、見事な形でチームの勝利を手繰り寄せることができた。
木曜の準決勝へ向けて、成瀬先輩の疲労も最小限に食い止められたはずだ。
試合の熱気が冷めやらぬ球場を出ると、並木道には熱い風が吹き抜けていた。
正午を過ぎた日差しは容赦なく照りつけ、アスファルトの表面が陽炎で揺らめいている。
関係者通用口の近くにある大きなクスノキの木陰で待っていると、エナメルバッグを肩に担いだ城ヶ崎が、タオルで濡れた首筋を拭きながら小走りで駆け寄ってきた。
「みんな、待たせてごめん!」
「城ヶ崎君!」
大原さんが真っ先に駆け寄り、うちわを掲げて迎える。
「ベスト四進出、本当におめでとう! もう、最後の百四十九キロ、鳥肌立ったんだから!」
「ほんまに凄かったわ! あんなん打てるわけないやん! かっこよすぎやで!」
横山さんも興奮冷めやらぬ様子で手を振る。
二人に手放しで絶賛された城ヶ崎は途端に大きな身体をすぼめ、居心地悪そうに頬をポリポリと掻いた。
「あはは……ありがとう、二人とも。でも、俺一人の力じゃないよ。成瀬先輩が五回までゼロで抑えてくれたからだし……」
城ヶ崎はそう言って言葉を濁し、それからおずおずとした視線を俺に向けてくる。
こちらのご機嫌を伺うような、迷子の子犬のような瞳だ。
「姫宮……見ててくれた?」
「うん、ちゃんと見てたよ。素晴らしい救援だったね」
俺が穏やかに微笑むと、城ヶ崎の顔が一気にパッと輝いた。
「姫宮が昨日教えてくれた通りに投げたんだ! 七回に五番バッターに真っ直ぐを思い切り引っ張られたときはすごくヒヤッとしたけど、堂本キャプテンがすぐにサインを変えてくれたからすごく助かったんだ。それに桐原のバッター、二点取られたあとも全然焦って振ってこなくてさ。見送りやファウルで徹底的に粘られて、七回も八回も球数を投げさせられて……本当にギリギリだったよ」
城ヶ崎は息を吐き出しながら、苦笑いを浮かべて首筋の汗を拭った。
「うん。二点差になっても自分たちの狙いを貫いて球数を削りにくるあたりは、流石に昨秋の王者だね。でも、どれだけ粘られても城ヶ崎君が低めへの意識を切らさず、一球一球腕を振り抜いたからこその完封リレーだよ。城ヶ崎君、本当にピッチャーらしくなってきたね」
「へへ……でもさ、最後の百四十九キロは、自分でもびっくりしたよ。指先に変な力が入ってなくて、スーッと腕が振れたらあんな数字が出て……全部、いつもフォームを見てくれた姫宮のおかげだよ」
迷いのない真っ直ぐな瞳で、城ヶ崎は屈託なく言い切った。
嘘も打算もない、純粋な感謝の言葉だ。自分の手柄など少しも誇示せず、ただ目の前の俺に認めてもらえたことを全身で喜んでいる。
「城ヶ崎君の努力の成果だよ。ボクはきっかけを作っただけさ」
「そんなことないよ! 姫宮がいなかったら、俺は野球の才能にすら気づいてなかったんだから。俺の野球の功績は全部姫宮のおかげ!」
大きな身体を折り曲げて深々と頭を下げる城ヶ崎に、大原さんがくすくすと笑い声を上げた。
「もう、城ヶ崎君ってば、本当に姫宮さんの前だとワンコみたいになるんだから」
「わ、ワンコって……そんなことないよ!」
城ヶ崎は赤くなって手を振った。
「はいはい、仲がええのは結構なことやわ。でも城ヶ崎君、あんまり引き留めたらアカンよ。姫宮さん、まだ体調万全やないんやから」
横山さんの言葉に、城ヶ崎はハッとして表情を引き締める。
「あ……姫宮、顔色……やっぱり少し白いよ。大丈夫?」
「大丈夫だよ。少し暑さにやられただけさ。それより城ヶ崎君、明後日はもう準決勝なんだから、早くバスに戻って体を休めなよ」
「うん、分かった! 姫宮も今日は早く帰って、ちゃんと休めよ!」
城ヶ崎は駐車場へと走っていく途中で一度立ち止まり、こちらを振り返って大きく手を振る。
俺はその背中に向かって手を振り返し、小さくなっていく後ろ姿を見送った。
「ほら、姫宮さん。あたしたちもお昼にしよう。朝にパンを少し食べたきりなんだから、涼しいファミレスにでも入って何か食べなきゃダメだよ」
大原さんが俺の右腕を取り、横山さんが左側から背中を軽く支えてくれる。
「そうやね。うどんか冷やし中華なら、つるっと入るやろ」
「うん、ありがとう。二人とも」
俺は小さく頷き、二人に挟まれるようにして歩き出した。
頭上からは蝉の声が容赦なく降り注ぎ、アスファルトの熱気が靴底を通して伝わってくる。
百四十九キロ。
網膜の裏に焼き付いたその数字は、強い陽光の中でも決して消えることなく、俺の胸の奥で静かに鈍い光を放ち続けていた。