「——もう、二人とも置いていくなんて薄情だよぅ!」
第一高校の講堂へと続く廊下。開式直前の慌ただしい空気の中、涙目で駆け寄ってきたのは、緩やかにウェーブした髪を揺らす少女——光井ほのかだった。
彼女は一高の入学式という大舞台への極度の緊張から、昨夜は一睡もできずにまさかの寝坊。校門前での一幕には間に合わなかったものの、滑り込みで零央と雫の元へと合流を果たしていた。
「おはよう、ほのか。顔色が良くないけれど、体調は大丈夫かい?」
零央はすぐさま、周囲を安心させる完璧な慈愛の微笑みを浮かべ、優しい声をかけた。
「零央くん……! うん、もう大丈夫。二人の顔を見たら、緊張が吹き飛んじゃった」
ほのかはホッとしたように胸をなでおろし、親愛に満ちた笑顔を咲かせた。
彼女もまた、零央の固有魔法【ルシフェライズ・イリュージョン】の絶対的なカリスマに深く魅了されている一人だった。だが、彼女が抱く感情は、魔法による錯覚だけではない。幼少期から零央と雫と接することで築いてきた、純粋で温かい『友愛』そのものだった。
「……ほのか。髪、跳ねてる」
「えっ、嘘!? 雫、直して!」
雫がいつもの無表情のまま、ほのかの乱れた髪を小さく手櫛で整える。嬉しそうに雫に身を委ねるほのかの姿を、零央は内面の静寂から見つめていた。
零央の脳細胞は、通常なら周囲の人間を自分たちの平穏のための「盾(リソース)」としてしか分類しない。しかし、ほのかに対してだけは違った。
(光井ほのか。彼女は雫にとって、かけがえのない小学生からの親友だ。……だから、僕も彼女をただの道具(リソース)として扱うべきではない。雫のために、僕は彼女に対して『本物の友人』として接する努力をすべきだ)
冷徹な計算機であるはずの精神の片隅で、零央は雫のために、ほのかを「例外」として遇しようとする独自の倫理(ルール)を働かせていた。
そんな三人の様子を、少し離れた場所から見つめる視線があった。
二科生の列に並ぶ、司波達也である。
「あ……」
達也と視線が交錯した瞬間、ほのかが小さく声を漏らした。その瞳に、明確な記憶の光が灯る。
「ほのか、どうしたの?」
「ううん、あのね雫、零央くん。あそこにいる二科生の人……私、入学の実技試験で同じグループだったの」
ほのかは少し声を潜めながら、しかし確かな敬意を込めて言葉を続けた。
「試験のときね、あの人の魔法の処理速度は……うん、お世辞にも速いとは言えなくて、ギリギリな感じだったの。でもね、サイオンの流れに……なんて言えばいいのかな、一切の淀みも無駄もなくて、信じられないくらい綺麗だったの。だから、てっきり一科生になると思ってたんだけど」
光元素最適化の素質を持ち、魔法の輝きに対して極めて鋭敏なほのか。零央という規格外の『奇跡』を間近で見続けている彼女にとって、達也の魔法は大きな衝撃を与える程ではなかったが。しかし、純粋な魔法技術の美しさとして、彼女の感性には深く刻まれていたのだ。
「……そう。彼が…(あの時の、危険因子)」
零央は表情を変えず、脳内で再確認した。
(光井ほのかの知覚フィルターを通過し、一科生以上と評価されるだけの魔法技術。現代魔法の評価基準に現れない、歪な実力の一端か。やはり放置すべきではないな)
「ほら、二人とも。もうすぐ開式だよ、席に着こう」
零央はいつもの穏やかな微笑みで二人を促し、達也への冷徹な警戒を内面に隠したまま、講堂へと足を踏み入れた。
◇◇◇
講堂は、新入生たちの熱気と、厳かな緊張感に包まれていた。
最前列に並ぶ一科生(ブルーム)の席。その中央で、神代零央はいつものように完璧な姿勢で椅子に腰掛けていた。
彼の全身からは、固有魔法【ルシフェライズ・イリュージョン】が低出力で淀みなく放たれている。周囲の一科生たちは、零央の纏う神々しいまでのオーラと美貌に気圧され、あるいはうっとりと視線を奪われていた。零央の本質は、その視線すらも冷徹に数値化していた。
(視線による精神圧迫の可能性、ゼロ。周囲の生徒の心拍数、概ね許容範囲内。現状の環境安定度は極めて良好だ)
その隣では、雫がいつも通りの無表情で座っている。彼女は小さく口を動かし、零央にだけ聞こえる音量で呟いた。
「……零央。壇上の席に座っている上級生。さっきからあなたをずっと見てる」
雫の視線の先には、壇上の席に座る生徒会長の姿があった。
零央は正面を向いたまま、その優れた観察眼と脳内データを照合する。
(十師族『七草家』の長女、七草真由美。現・第一高校生徒会長)
彼女の瞳には、単なる新入生への興味を超えた、値聞きするような鋭い光が宿っている。
「当然の挙動だよ、雫」
零央は、誰の耳にも心地よく響く穏やかな美声で応じた。
「潮のおじ様が敷いてくれたレールだ。この国の多くの重鎮たちを僕の固有魔法(サクラメント・フェイク)で治療し、恩を売ってきた。彼らにとって僕は、便利で、同時に最も警戒すべき『不可侵の奇跡の体現者』だからね。彼女が僕を監視するのは、組織の長として至極真っ当な判断だ」
零央の脳細胞は、周囲の人間を「人間」としてではなく、自分と雫の平穏を守るための「盾(リソース)」か、あるいは「障害(バグ)」としてしか分類していない。七草真由美がどれほど美しく優秀な魔法師であろうとも、彼にとってはただの『十師族というカテゴリのデータ』に過ぎなかった。
「……そう。なら、大丈夫」
雫はそれだけ言うと、静かに正面を向いた。零央がどれほど無機質であろうとも、それが自分たちを守るための計算であると知っているからこそ、彼女の信頼は揺るがなかった。
「新入生総代、司波深雪」
壇上から名前が呼ばれ、一人の少女が凛とした足取りで歩み出た。
息を呑んでしまうほどに美しく、まるで雪の妖精のような少女。深雪がマイクの前に立ち、新入生答辞を読み上げ始めると、講堂の空気はその圧倒的な存在感によって一変した。
深雪の美しい声が響き渡る中、零央の視界(脳内プロセッサ)には、彼女の情報が瞬時に展開されていた。
固有観測魔法——【サタン・イリュミナティ】。
世界の弱点と欺瞞を見抜く魔王の眼が、深雪の精神構造を冷徹にスキャンする。
『対象:司波深雪。精神構造の大部分が、特定の個体に対する絶対的な依存と独占欲、兄妹愛では収まらない愛で占められている。……その対象は、先ほどの二科生、司波達也』
(兄のためなら周囲に大きな被害を出しかねない、非常に不安定な個体だ。接触の際は、兄のコントロールを優先するのが合理的か)
零央がそんな計算を脳内で行っていた、その時。
講堂の後方、二科生たちの席から、刺すような鋭い視線が零央の背中に突き刺さった。
発信源を特定するまでもない。並木道で自分の本質を覗こうとした男——司波達也の【エレメンタル・サイト】による、情報次元からの隠密スキャンだった。
(……二度目のアクセス。学習能力が低いな、危険因子)
零央の瞳から、一瞬だけ光が消え、絶対的なゼロの虚無が宿る。
彼は振り返ることもせず、ただ思考の速度で、達也の『精霊の眼』が伸びてきている情報次元の座標へと、自身の固有魔法——【
【アポカリプス・エラー】。
それは【
達也の『眼』が零央の情報体に触れようとした刹那、達也の脳内に、その【アポカリプス・エラー】による凄まじい「記述エラー」のノイズが直接流れ込んだ。
「……ッ!?」
講堂の後方で、達也の身体が微かに強張った。
達也の【エレメンタル・サイト】は、情報次元をありのままに見る絶対の能力。それが、神代零央の情報に触れた瞬間、魔法を見通す知覚システムそのものが激しいバグを起こし、強制シャットダウンさせられたのだ。
一方的に覗き見ることすら許さない、現代魔法の前提を根底からバグらせる全否定の領域。
達也は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、前方の席に座る神代零央の後頭部を睨み据えた。
(……情報次元へのアクセスを、これほど正確に弾き返すのか。真夜様は『大物との強固な繋がりがあるから敵対行動は避けろ』と言っていたが……違う。こいつは単なる政治的な怪物じゃない。この個体そのものが、現代魔法の前提を根底から脅かしかねない、未知のバケモノだ)
四葉家すら把握していない、神代零央という男の「真の脅威」。それを身をもって知った達也の瞳に、かつてないほどの深い警戒と、冷たい刃のような戦慄が宿る。
最前列の席で、零央は達也の精神波が激しく動揺したことを【サタン・イリュミナティ】で冷静に確認していた。
(エラーログの送信完了。これで少しは大人しくなるといいのだが。……もし、これ以上のアクセスを試み、僕と雫の平穏な環境を脅かすバグとなるのであれば——)
零央のプロセッサは、入学式という厳かな儀式の最中であるにもかかわらず、司波達也という『危険因子』を、社会的に、あるいは物理的に効率よく「消去(初期化)」するための最適解の算出を、ただ淡々と、無機質に開始していた。
壇上では、深雪の答辞が完璧に締めくくられ、盛大な拍手が巻き起こる。
その拍手の渦の中で、救世主の仮面を被る怪物と、劣等生の仮面を被る怪物の間で、誰にも見えない冷徹な殺意の計算だけが、静かに火花を散らしていた。