秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第五十九話 再び訪れた使者

山の暮らしというものは、案外忙しい。

 

朝になれば魚が食べたい。

 

昼になれば水に入りたい。

 

夕方になれば、もう一度魚が食べたい。

 

そして夜になれば、気持ちよく眠りたい。

 

……。

 

(……あれ?)

 

私の予定、ほとんど食事と睡眠では?

 

いやいや。

 

そんなことはない。

 

最近は、ちゃんと訓練にも参加している。

 

セイランを背中に乗せて山道を走ったり、ハクたちの闘蛇と隊列を組んだり。

 

黒角族の戦士たちと一緒に、山道での連携を確かめることもある。

 

なかなか立派な働きぶりだと思う。

 

だからこそ。

 

休めるときには、しっかり休むべきなのである。

 

(……ああ、平和)

 

私は川辺で身体を伸ばした。

 

水は冷たい。

 

日差しは暖かい。

 

今日も良い一日になりそうだった。

 

……はずなのだが。

 

◇◇◇

 

「スイ!」

 

聞き慣れた声がした。

 

ハクだった。

 

私は片目を開けた。

 

(……何でしょう)

 

訓練なら、今日はお休みのはずですけど。

 

ハクは川辺まで走ってくると、少し息を整えた。

 

「客が来たぞ」

 

(……お客さん?)

 

「山の王のところからだ」

 

……。

 

(……おや)

 

私は、ゆっくりと首を持ち上げた。

 

山の王。

 

つまり、楊端和。

 

その名を聞けば、さすがに気になる。

 

「バジオウが来てる」

 

(……おお)

 

久しぶり。

 

あの無口な仮面の人。

 

私は立ち上がった。

 

ハクが笑う。

 

「分かりやすいな、お前」

 

……。

 

(……別に)

 

嬉しくて立ち上がったわけではありません。

 

ただ、来客には礼儀が必要ですから。

 

私は、少しだけ歩調を速めた。

 

◇◇◇

 

バジオウは、以前と同じく集落の外れで待っていた。

 

仮面をつけた戦士が数人。

 

荷を持った者もいる。

 

ただし、人数は多くない。

 

白淵族の土地へ入る前に使者を立て、訪問の目的と人数を伝えてきたらしい。

 

(……相変わらず律儀)

 

南の古道について約束を交わして以来、楊端和の側は、こうした決まりを守ってきた。

 

道を使うときは知らせが届く。

 

問題があれば話し合う。

 

勝手に集落へ踏み込む者もいない。

 

当たり前のようで、当たり前ではないことだ。

 

その積み重ねがあるからだろう。

 

白淵族の戦士たちも、以前ほど警戒した様子は見せていなかった。

 

「久しいな」

 

バジオウが言った。

 

セイランが頷く。

 

「ああ」

 

「元気そうだ」

 

「お前もな」

 

……。

 

(……短い)

 

相変わらず、会話が短い。

 

この二人、もう少し言葉を増やしてもいいと思う。

 

バジオウは私を見上げた。

 

「スイも、変わりないようだな」

 

(……どうも)

 

私は軽く鼻を鳴らした。

 

すると、バジオウは少しだけ首を傾けた。

 

「……いや、前より大きくなったか」

 

(……またそれ?)

 

以前も言われた気がする。

 

もしかして私、会うたびに大きくなっている?

 

九メートルもあるのに?

 

……。

 

(……まあ)

 

大きいことは、悪いことではない。

 

たぶん。

 

◇◇◇

 

族長は、バジオウを迎えた。

 

以前、南の古道の調査に来たときにも顔を合わせている。

 

だから、今さら互いを紹介する必要はなかった。

 

「久しいな、バジオウ」

 

「ご無沙汰している」

 

「今日は、道の確認ではなさそうだな」

 

バジオウは頷いた。

 

「ああ。山の王から、言葉を預かってきた」

 

族長は、静かに彼を見た。

 

「聞こう」

 

私は建物の外に伏せた。

 

いつもの場所である。

 

(……会議室、まだ大きくなってない)

 

当然か。

 

私が入れる建物を作る方が大変だ。

 

私は大人しく耳を傾けた。

 

◇◇◇

 

「山界の情勢が変わりつつある」

 

バジオウは、そう切り出した。

 

「山の王が秦国と盟を結んでから、山の外との往来が増えた。だが、すべての山の民が、その変化を歓迎しているわけではない」

 

族長は頷いた。

 

「聞いている」

 

「山の王に従わぬ一族もいる。秦国とのつながりを警戒する者もいる」

 

「……そうだろうな」

 

私は、静かに話を聞いていた。

 

楊端和が秦国と手を結んだことは、山界にとって大きな出来事だった。

 

でも、それで山の民が全員仲良くなったわけではない。

 

そもそも、山の民にはそれぞれの暮らしがある。

 

守りたい土地も、考え方も違う。

 

(……難しいよね)

 

全員が同じ方向を向くなんて、簡単なことではない。

 

◇◇◇

 

「南の古道については、これまでどおりの約束を守る」

 

バジオウが言った。

 

「白淵族と黒角族の許しなく、軍を通すことはない」

 

「それは承知している」

 

族長は答えた。

 

「これまで、約束は守られてきた」

 

……。

 

(……おお)

 

ちゃんと信頼関係ができている。

 

私は、少し嬉しくなった。

 

バジオウは続けた。

 

「だが、道を守るだけでは済まぬ事態が起きるかもしれない」

 

セイランが顔を上げた。

 

「どういうことだ」

 

「山界で大きな争いが起これば、道を通る者だけでなく、道の周りに暮らす者も巻き込まれる」

 

「……ああ」

 

「そのとき、互いに何ができるのか。今のうちに話しておきたい」

 

……。

 

(……なるほど)

 

私は、ようやく分かった。

 

今回の話は、南の古道を貸すかどうかではない。

 

それは、もう決まっている。

 

問題は、その先。

 

もし山界で争いが起きたら。

 

白淵族は、どうするのか。

 

楊端和は、どうするのか。

 

その話をしに来たのだ。

 

◇◇◇

 

「山の王は、我らに兵を出せと言っているのか」

 

族長が尋ねた。

 

バジオウは首を横に振った。

 

「今すぐ、という話ではない」

 

「では?」

 

「協力の形を、直接話し合いたいと」

 

族長は、しばらく黙っていた。

 

バジオウは続けた。

 

「白淵族が独立した一族であることは、山の王も承知している。以前の約束を変えるために呼ぶのではない」

 

「……そうか」

 

「必要なときに、どこまで力を貸し合えるのか。それを確かめたい」

 

セイランが尋ねた。

 

「白淵族が断ることもできるのか」

 

「ああ」

 

バジオウは即答した。

 

「山の王は、まず話をしたいと言っている」

 

……。

 

(……よかった)

 

私は少し安心した。

 

いきなり戦に出ろと言われたら、さすがに困る。

 

こちらには、こちらの暮らしがある。

 

◇◇◇

 

「……闘蛇のことも、話に出たのか」

 

トウエンが尋ねた。

 

バジオウは頷いた。

 

「ああ」

 

……。

 

(……おっと)

 

私たちの話ですか。

 

トウエンの表情が険しくなった。

 

「以前にも伝えたはずです。闘蛇は、戦のためだけに育てているわけではありません」

 

「覚えている」

 

バジオウは答えた。

 

「レンからも聞いた」

 

「ならば――」

 

「だからこそ、勝手に数へ入れるつもりはない」

 

トウエンは口を閉じた。

 

バジオウは静かに続けた。

 

「山の王は、闘蛇をどう扱うべきかも、白淵族自身に決めてほしいと考えている」

 

……。

 

(……おお)

 

それは、大事。

 

非常に大事。

 

私たち闘蛇は、便利な乗り物ではない。

 

もちろん、背中に人を乗せることもある。

 

荷物を運ぶこともある。

 

必要なら戦うことだってあるだろう。

 

でも。

 

だからといって、何でも命令されていいわけではない。

 

それに、闘蛇は簡単に増やせない。

 

一頭を失えば、同じように育つまで長い時間がかかる。

 

トウエンが慎重になるのも当然だった。

 

◇◇◇

 

「……白淵族には、戦える者がどれほどいる」

 

バジオウが尋ねた。

 

族長はすぐには答えなかった。

 

「それを知って、どうする」

 

「無理のない協力を考えるためだ」

 

「……なるほど」

 

族長は、セイランを見た。

 

セイランが答える。

 

「山を守るための戦士はいる。だが、大軍ではない」

 

「承知している」

 

「闘蛇も同じだ。すべてが戦えるわけではない」

 

「ああ」

 

私は、少しだけ首を上げた。

 

白淵族には、およそ五十頭の闘蛇がいる。

 

でも、そのすべてが戦に出られるわけではない。

 

まだ若い子もいる。

 

年を取った子もいる。

 

荷を運ぶことはできても、戦場には向かない子もいる。

 

戦える闘蛇だって、いつでも好きなだけ連れ出せるわけではない。

 

(……そうなんですよ)

 

数字だけ見て判断されると困る。

 

私たちは、五十頭まとめて突撃するために暮らしているわけではないのです。

 

◇◇◇

 

「山の王は、白淵族の力を評価している」

 

バジオウが言った。

 

「闘蛇だけではない。山道を知り、黒角族とも協力している。お前たちは、自分たちの土地を守る術を持っている」

 

ハクが少しだけ笑った。

 

「随分と買ってくれるんだな」

 

「見てきたことを話しているだけだ」

 

……。

 

(……おお)

 

バジオウ。

 

褒め方が真面目。

 

でも、こういう言葉は嬉しい。

 

私たちがこれまで積み重ねてきたことを、ちゃんと見てくれているのだから。

 

◇◇◇

 

族長は、しばらく考えていた。

 

そして、口を開いた。

 

「話をすることに異存はない」

 

バジオウが頷く。

 

「山の王に伝えよう」

 

「だが、今ここで兵を出す約束はできん」

 

「分かっている」

 

「闘蛇を貸す約束もだ」

 

「ああ」

 

族長は、静かに続けた。

 

「我らは、我らの暮らしを守るためにある。そのうえで、互いに助け合える道があるなら、考えよう」

 

……。

 

(……うん)

 

それでいいと思う。

 

私は、静かに目を細めた。

 

何でも断るわけではない。

 

でも、何でも引き受けるわけでもない。

 

自分たちの暮らしを守りながら、できることを考える。

 

それが、これまでの白淵族のやり方だった。

 

◇◇◇

 

話し合いのあと。

 

バジオウは、川辺までやってきた。

 

私は水に身体を沈めていた。

 

(……おや)

 

また来た。

 

この人、意外と私のところへ来る。

 

バジオウは、少し離れた場所に立った。

 

「……スイ」

 

私は、片目を開けた。

 

(……はい)

 

「また山の王のところへ来ることになりそうだな」

 

……。

 

(……そうですね)

 

私は、ゆっくりと尾を動かした。

 

バジオウは、しばらく黙っていた。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「……お前たちには、無理をさせたくない」

 

……。

 

(……おや)

 

私は、少し驚いた。

 

以前、バジオウは私を見て、戦に出せば強いだろうと言った。

 

それは、たぶん間違っていない。

 

でも、今は。

 

戦力としての強さだけではなく、私たちがどう暮らしているのかも、少しは理解してくれているのかもしれない。

 

私は、ゆっくりと岸へ近づいた。

 

バジオウは動かなかった。

 

私は、その前で鼻先を止めた。

 

……。

 

(……まあ)

 

悪い人ではないので。

 

挨拶くらいはしてあげましょう。

 

バジオウは、私を見上げた。

 

「……賢い獣だ」

 

(……ありがとうございます)

 

ただし。

 

獣というより、スイと呼んでいただけると嬉しいです。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

族長は、セイランとハクを呼んだ。

 

私も、少し離れた場所で待っていた。

 

「楊端和のもとへ行く」

 

族長が言った。

 

セイランが顔を上げた。

 

「族長自ら?」

 

「ああ」

 

「……珍しいな」

 

「今回は、道の通行だけの話ではないからな」

 

族長は、静かに続けた。

 

「一族の今後に関わることだ。人づてに決めるわけにはいかん」

 

……。

 

(……おお)

 

なるほど。

 

そういえば。

 

族長は、まだ楊端和に直接会ったことがない。

 

これまでは、セイランたちが使者として話をしてきた。

 

でも、今回は違う。

 

白淵族の族長が、山の王と向き合う。

 

(……何だか)

 

少し緊張する。

 

いや、私が緊張する必要はないんですけど。

 

◇◇◇

 

「セイラン、お前も来い」

 

「分かった」

 

「ハクもだ」

 

「はい」

 

族長は、少し考えた。

 

「闘蛇は、必要な数だけ連れていく」

 

セイランが頷く。

 

「スイは連れていく」

 

……。

 

(……ですよね)

 

私も、そうなると思っていました。

 

別に嫌ではない。

 

嫌ではないけれど。

 

最近、本当に出張が多い。

 

前世だったら、交通費とか出るんでしょうか。

 

……。

 

(……魚でいいです)

 

大きいのをお願いします。

 

◇◇◇

 

夜。

 

セイランが、私のところへ来た。

 

「……また頼む」

 

(……もちろん)

 

私は、ゆっくりと首を下げた。

 

セイランは、私の鱗に手を置いた。

 

「今度は、族長も一緒だ」

 

(……そうだね)

 

「大事な話になる」

 

私は、静かに息を吐いた。

 

セイランは、しばらく黙っていた。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「……俺たちは、楊端和の敵ではない」

 

……。

 

(……うん)

 

そうだね。

 

「だが、配下でもない」

 

(……うん)

 

それも、そう。

 

「そのうえで、何ができるかを考える」

 

私は、そっと目を細めた。

 

この人たちは、ちゃんと分かっている。

 

自分たちが何を守りたいのか。

 

何のために、山の王と話をするのか。

 

だから、私も安心して背中を預けられる。

 

……。

 

(……いや)

 

背中を預けるのは、セイランの方か。

 

私は、少しだけ可笑しくなった。

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

出発の準備が始まった。

 

族長。

 

セイラン。

 

ハク。

 

そして、数人の戦士。

 

私は、川辺で身体を伸ばした。

 

空は晴れている。

 

山の風が、気持ちいい。

 

……。

 

(……さて)

 

今度は、どんな話になるのだろう。

 

山の王。

 

楊端和。

 

前世で観た、あの美しくて強い人。

 

そして、白淵族の族長。

 

二人が、初めて顔を合わせる。

 

それはきっと、白淵族にとって小さな出来事ではない。

 

私は、静かに歩き始めた。

 

背中には、セイラン。

 

向かう先は、山の王のもと。

 

今までとは少し違う約束を交わすために。

 

そして、私たちの暮らしを守るために。

 

山の向こうへ。

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