山の暮らしというものは、案外忙しい。
朝になれば魚が食べたい。
昼になれば水に入りたい。
夕方になれば、もう一度魚が食べたい。
そして夜になれば、気持ちよく眠りたい。
……。
(……あれ?)
私の予定、ほとんど食事と睡眠では?
いやいや。
そんなことはない。
最近は、ちゃんと訓練にも参加している。
セイランを背中に乗せて山道を走ったり、ハクたちの闘蛇と隊列を組んだり。
黒角族の戦士たちと一緒に、山道での連携を確かめることもある。
なかなか立派な働きぶりだと思う。
だからこそ。
休めるときには、しっかり休むべきなのである。
(……ああ、平和)
私は川辺で身体を伸ばした。
水は冷たい。
日差しは暖かい。
今日も良い一日になりそうだった。
……はずなのだが。
◇◇◇
「スイ!」
聞き慣れた声がした。
ハクだった。
私は片目を開けた。
(……何でしょう)
訓練なら、今日はお休みのはずですけど。
ハクは川辺まで走ってくると、少し息を整えた。
「客が来たぞ」
(……お客さん?)
「山の王のところからだ」
……。
(……おや)
私は、ゆっくりと首を持ち上げた。
山の王。
つまり、楊端和。
その名を聞けば、さすがに気になる。
「バジオウが来てる」
(……おお)
久しぶり。
あの無口な仮面の人。
私は立ち上がった。
ハクが笑う。
「分かりやすいな、お前」
……。
(……別に)
嬉しくて立ち上がったわけではありません。
ただ、来客には礼儀が必要ですから。
私は、少しだけ歩調を速めた。
◇◇◇
バジオウは、以前と同じく集落の外れで待っていた。
仮面をつけた戦士が数人。
荷を持った者もいる。
ただし、人数は多くない。
白淵族の土地へ入る前に使者を立て、訪問の目的と人数を伝えてきたらしい。
(……相変わらず律儀)
南の古道について約束を交わして以来、楊端和の側は、こうした決まりを守ってきた。
道を使うときは知らせが届く。
問題があれば話し合う。
勝手に集落へ踏み込む者もいない。
当たり前のようで、当たり前ではないことだ。
その積み重ねがあるからだろう。
白淵族の戦士たちも、以前ほど警戒した様子は見せていなかった。
「久しいな」
バジオウが言った。
セイランが頷く。
「ああ」
「元気そうだ」
「お前もな」
……。
(……短い)
相変わらず、会話が短い。
この二人、もう少し言葉を増やしてもいいと思う。
バジオウは私を見上げた。
「スイも、変わりないようだな」
(……どうも)
私は軽く鼻を鳴らした。
すると、バジオウは少しだけ首を傾けた。
「……いや、前より大きくなったか」
(……またそれ?)
以前も言われた気がする。
もしかして私、会うたびに大きくなっている?
九メートルもあるのに?
……。
(……まあ)
大きいことは、悪いことではない。
たぶん。
◇◇◇
族長は、バジオウを迎えた。
以前、南の古道の調査に来たときにも顔を合わせている。
だから、今さら互いを紹介する必要はなかった。
「久しいな、バジオウ」
「ご無沙汰している」
「今日は、道の確認ではなさそうだな」
バジオウは頷いた。
「ああ。山の王から、言葉を預かってきた」
族長は、静かに彼を見た。
「聞こう」
私は建物の外に伏せた。
いつもの場所である。
(……会議室、まだ大きくなってない)
当然か。
私が入れる建物を作る方が大変だ。
私は大人しく耳を傾けた。
◇◇◇
「山界の情勢が変わりつつある」
バジオウは、そう切り出した。
「山の王が秦国と盟を結んでから、山の外との往来が増えた。だが、すべての山の民が、その変化を歓迎しているわけではない」
族長は頷いた。
「聞いている」
「山の王に従わぬ一族もいる。秦国とのつながりを警戒する者もいる」
「……そうだろうな」
私は、静かに話を聞いていた。
楊端和が秦国と手を結んだことは、山界にとって大きな出来事だった。
でも、それで山の民が全員仲良くなったわけではない。
そもそも、山の民にはそれぞれの暮らしがある。
守りたい土地も、考え方も違う。
(……難しいよね)
全員が同じ方向を向くなんて、簡単なことではない。
◇◇◇
「南の古道については、これまでどおりの約束を守る」
バジオウが言った。
「白淵族と黒角族の許しなく、軍を通すことはない」
「それは承知している」
族長は答えた。
「これまで、約束は守られてきた」
……。
(……おお)
ちゃんと信頼関係ができている。
私は、少し嬉しくなった。
バジオウは続けた。
「だが、道を守るだけでは済まぬ事態が起きるかもしれない」
セイランが顔を上げた。
「どういうことだ」
「山界で大きな争いが起これば、道を通る者だけでなく、道の周りに暮らす者も巻き込まれる」
「……ああ」
「そのとき、互いに何ができるのか。今のうちに話しておきたい」
……。
(……なるほど)
私は、ようやく分かった。
今回の話は、南の古道を貸すかどうかではない。
それは、もう決まっている。
問題は、その先。
もし山界で争いが起きたら。
白淵族は、どうするのか。
楊端和は、どうするのか。
その話をしに来たのだ。
◇◇◇
「山の王は、我らに兵を出せと言っているのか」
族長が尋ねた。
バジオウは首を横に振った。
「今すぐ、という話ではない」
「では?」
「協力の形を、直接話し合いたいと」
族長は、しばらく黙っていた。
バジオウは続けた。
「白淵族が独立した一族であることは、山の王も承知している。以前の約束を変えるために呼ぶのではない」
「……そうか」
「必要なときに、どこまで力を貸し合えるのか。それを確かめたい」
セイランが尋ねた。
「白淵族が断ることもできるのか」
「ああ」
バジオウは即答した。
「山の王は、まず話をしたいと言っている」
……。
(……よかった)
私は少し安心した。
いきなり戦に出ろと言われたら、さすがに困る。
こちらには、こちらの暮らしがある。
◇◇◇
「……闘蛇のことも、話に出たのか」
トウエンが尋ねた。
バジオウは頷いた。
「ああ」
……。
(……おっと)
私たちの話ですか。
トウエンの表情が険しくなった。
「以前にも伝えたはずです。闘蛇は、戦のためだけに育てているわけではありません」
「覚えている」
バジオウは答えた。
「レンからも聞いた」
「ならば――」
「だからこそ、勝手に数へ入れるつもりはない」
トウエンは口を閉じた。
バジオウは静かに続けた。
「山の王は、闘蛇をどう扱うべきかも、白淵族自身に決めてほしいと考えている」
……。
(……おお)
それは、大事。
非常に大事。
私たち闘蛇は、便利な乗り物ではない。
もちろん、背中に人を乗せることもある。
荷物を運ぶこともある。
必要なら戦うことだってあるだろう。
でも。
だからといって、何でも命令されていいわけではない。
それに、闘蛇は簡単に増やせない。
一頭を失えば、同じように育つまで長い時間がかかる。
トウエンが慎重になるのも当然だった。
◇◇◇
「……白淵族には、戦える者がどれほどいる」
バジオウが尋ねた。
族長はすぐには答えなかった。
「それを知って、どうする」
「無理のない協力を考えるためだ」
「……なるほど」
族長は、セイランを見た。
セイランが答える。
「山を守るための戦士はいる。だが、大軍ではない」
「承知している」
「闘蛇も同じだ。すべてが戦えるわけではない」
「ああ」
私は、少しだけ首を上げた。
白淵族には、およそ五十頭の闘蛇がいる。
でも、そのすべてが戦に出られるわけではない。
まだ若い子もいる。
年を取った子もいる。
荷を運ぶことはできても、戦場には向かない子もいる。
戦える闘蛇だって、いつでも好きなだけ連れ出せるわけではない。
(……そうなんですよ)
数字だけ見て判断されると困る。
私たちは、五十頭まとめて突撃するために暮らしているわけではないのです。
◇◇◇
「山の王は、白淵族の力を評価している」
バジオウが言った。
「闘蛇だけではない。山道を知り、黒角族とも協力している。お前たちは、自分たちの土地を守る術を持っている」
ハクが少しだけ笑った。
「随分と買ってくれるんだな」
「見てきたことを話しているだけだ」
……。
(……おお)
バジオウ。
褒め方が真面目。
でも、こういう言葉は嬉しい。
私たちがこれまで積み重ねてきたことを、ちゃんと見てくれているのだから。
◇◇◇
族長は、しばらく考えていた。
そして、口を開いた。
「話をすることに異存はない」
バジオウが頷く。
「山の王に伝えよう」
「だが、今ここで兵を出す約束はできん」
「分かっている」
「闘蛇を貸す約束もだ」
「ああ」
族長は、静かに続けた。
「我らは、我らの暮らしを守るためにある。そのうえで、互いに助け合える道があるなら、考えよう」
……。
(……うん)
それでいいと思う。
私は、静かに目を細めた。
何でも断るわけではない。
でも、何でも引き受けるわけでもない。
自分たちの暮らしを守りながら、できることを考える。
それが、これまでの白淵族のやり方だった。
◇◇◇
話し合いのあと。
バジオウは、川辺までやってきた。
私は水に身体を沈めていた。
(……おや)
また来た。
この人、意外と私のところへ来る。
バジオウは、少し離れた場所に立った。
「……スイ」
私は、片目を開けた。
(……はい)
「また山の王のところへ来ることになりそうだな」
……。
(……そうですね)
私は、ゆっくりと尾を動かした。
バジオウは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……お前たちには、無理をさせたくない」
……。
(……おや)
私は、少し驚いた。
以前、バジオウは私を見て、戦に出せば強いだろうと言った。
それは、たぶん間違っていない。
でも、今は。
戦力としての強さだけではなく、私たちがどう暮らしているのかも、少しは理解してくれているのかもしれない。
私は、ゆっくりと岸へ近づいた。
バジオウは動かなかった。
私は、その前で鼻先を止めた。
……。
(……まあ)
悪い人ではないので。
挨拶くらいはしてあげましょう。
バジオウは、私を見上げた。
「……賢い獣だ」
(……ありがとうございます)
ただし。
獣というより、スイと呼んでいただけると嬉しいです。
◇◇◇
その日の夕方。
族長は、セイランとハクを呼んだ。
私も、少し離れた場所で待っていた。
「楊端和のもとへ行く」
族長が言った。
セイランが顔を上げた。
「族長自ら?」
「ああ」
「……珍しいな」
「今回は、道の通行だけの話ではないからな」
族長は、静かに続けた。
「一族の今後に関わることだ。人づてに決めるわけにはいかん」
……。
(……おお)
なるほど。
そういえば。
族長は、まだ楊端和に直接会ったことがない。
これまでは、セイランたちが使者として話をしてきた。
でも、今回は違う。
白淵族の族長が、山の王と向き合う。
(……何だか)
少し緊張する。
いや、私が緊張する必要はないんですけど。
◇◇◇
「セイラン、お前も来い」
「分かった」
「ハクもだ」
「はい」
族長は、少し考えた。
「闘蛇は、必要な数だけ連れていく」
セイランが頷く。
「スイは連れていく」
……。
(……ですよね)
私も、そうなると思っていました。
別に嫌ではない。
嫌ではないけれど。
最近、本当に出張が多い。
前世だったら、交通費とか出るんでしょうか。
……。
(……魚でいいです)
大きいのをお願いします。
◇◇◇
夜。
セイランが、私のところへ来た。
「……また頼む」
(……もちろん)
私は、ゆっくりと首を下げた。
セイランは、私の鱗に手を置いた。
「今度は、族長も一緒だ」
(……そうだね)
「大事な話になる」
私は、静かに息を吐いた。
セイランは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……俺たちは、楊端和の敵ではない」
……。
(……うん)
そうだね。
「だが、配下でもない」
(……うん)
それも、そう。
「そのうえで、何ができるかを考える」
私は、そっと目を細めた。
この人たちは、ちゃんと分かっている。
自分たちが何を守りたいのか。
何のために、山の王と話をするのか。
だから、私も安心して背中を預けられる。
……。
(……いや)
背中を預けるのは、セイランの方か。
私は、少しだけ可笑しくなった。
◇◇◇
翌朝。
出発の準備が始まった。
族長。
セイラン。
ハク。
そして、数人の戦士。
私は、川辺で身体を伸ばした。
空は晴れている。
山の風が、気持ちいい。
……。
(……さて)
今度は、どんな話になるのだろう。
山の王。
楊端和。
前世で観た、あの美しくて強い人。
そして、白淵族の族長。
二人が、初めて顔を合わせる。
それはきっと、白淵族にとって小さな出来事ではない。
私は、静かに歩き始めた。
背中には、セイラン。
向かう先は、山の王のもと。
今までとは少し違う約束を交わすために。
そして、私たちの暮らしを守るために。
山の向こうへ。