ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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18話(後) 

 

 

 

 

 

 

 学園の地下に、その区画はあった。

 

 正規の見取り図には、載っていない。エレベーターの行き先表示にも、その階は、存在しないことになっている。たどり着くには、いくつもの認証と、いくつもの隔壁を、抜けねばならない。掌をかざす。網膜を読ませる。古い鉄の扉が、低い駆動音を立てて、ゆっくりと開く。それを、何度も繰り返して、ようやく、いちばん奥へ至る。そこを通れる者は、学園広しといえど、片手の指で足りるほどしか、いなかった。

 

 祭りのざわめきは、ここまでは、届かない。

 

 届くのは、機械の低い唸りと、空調がたてる、単調な風の音。それから、時折、計器が思い出したように立てる、電子的な囁きだけだった。

 

 光は、乏しい。

 

 天井の照明は、最小限に絞られている。部屋の大半は、薄暗い。明るいのは、中央に据えられた円筒形の装置の、その内側だけだった。

 

 治療ポッド。

 

 ひと抱えもある太い硝子の筒の中に、淡く青みがかった培養液が、満たされている。光は、その液の底から、ゆっくりと脈打つように、滲み出していた。呼吸のように、明るくなっては、また、翳る。明るくなっては、翳る。その緩やかな明滅だけが、薄暗い部屋の中で、唯一の、生きているもののように見えた。

 

 液の中に、一人の女が、浮かんでいた。

 

 ナターシャ・ファイルス。

 

 銀の福音の、搭乗者だった女。

 

 ——だった、と、過去形で言うしかない姿だった。

 

 長い髪が、海草のように、液の中へ広がっている。閉じた瞼。投げ出された四肢。そこまでは、たしかに、人の女のかたちをしている。

 

 だが、その輪郭は、ところどころで、人のものでは、なかった。

 

 肩から肘にかけての皮膚が、硬く、鱗のように節くれだっている。背には、骨と皮膜の中間のような、不吉な突起の、名残がある。指の先は、爪というには長く、鉤のように、湾曲しかけていた。

 

 人の形が、八割がた、別の何かに、塗り替えられかけている。

 

 そういう姿だった。

 

 獣に近い波形が、装甲の内側で軋んでいた——あの夏、横島が、海の上で感じたもの。それは、いまも、この女の身体の表面に、はっきりと、刻まれている。

 

 ただ。

 

 注意深く、見れば、分かる。

 

 その鱗じみた皮膚の、ところどころが、薄い人肌の色を、取り戻し始めていた。湾曲しかけた指の先が、わずかに、まっすぐに、戻りかけている。

 

 ほんの少しずつ。

 

 気が遠くなるほど、ゆっくりと。

 

 その筒の正面に、横島忠夫が、座っていた。

 

 くたびれたパイプ椅子に、浅く腰かけ、片手を、硝子の筒に、添えている。

 

 ただ、添えているだけ、に見える。

 

 だが、その掌からは、細い霊力が、流れ込んでいた。

 

 目には、見えない。音も、しない。横島の掌から、ポッドの中へ。ごく細く、ごく弱く、絶やさぬように、霊力が、注がれていく。

 

 ポッドは、その力を、溜め込んでいた。

 

 もともと、霊体すら捕らえて留めおく装置だ。霊力を、ただ溜めて保つくらい、造作もない。横島が注いだ力は、筒の内に蓄えられ、彼がそばを離れている間も、ゆっくりと、ナターシャを人へ戻すために、使われ続ける。

 

 おかげで、横島とて、四六時中、ここに張りついている必要は、ない。蓄えが満ちるまで注いだら、離れて、仮眠もとれる。飯も食える。蓄えが細るころに、また来て、注ぎ足す。——その繰り返しだった。

 

 もっとも。

 

「満ちるまで注ぐ」というのが、曲者だった。

 

 霊力を、一気に放つだけなら、容易い。斬る。祓う。鎮める。瞬間に、ありったけを叩きつける。それが、横島の、本来の戦い方だった。

 

 だが、これは、逆だ。

 

 弱い力を、一定に、保ち続ける。

 

 強すぎれば、ナターシャの、ほどけかけた霊体を、かえって傷つける。弱すぎれば、人へ戻す力が、届かない。蓄える先が、溢れも、枯れもせぬよう。その、針の穴を通すような細さを、満ちるまでの長いあいだ、絶やさずに、維持し続ける。

 

 瞬間の爆発よりも、持続の制御のほうが、難しい。

 

 それを、横島は、知っていた。

 

 GS、同業に古い名家の天才がいた。あの女性は、こともなげに、それをやってのけた。低く、細く、絶やさぬ力を、無造作に保ちながら、欠伸の一つもしてみせた。意識すらしていなかったかもしれない。天才とは、ああいうものを言うのだと、横島は、当時、舌を巻いたものだ。自分には、まだ、あそこまでの余裕は、ない。気を抜けば、たちまち、力が、揺らぐ。

 

 それでも。

 

 このひと月あまりで、注ぎ方には、ずいぶん、慣れた。

 

 慣れたく、もなかったが。

 

 ——謹慎、という名目で、地下に押し込められているのは、横島にとって、皮肉なほど、好都合だった。表に出る用がないからこそ、こうして、何時間でも、注いでいられる。誰にも、咎められずに。

 

「……戻すのは、壊すより、ずっと、手間だ」

 

 誰にともなく、横島は、つぶやいた。

 

 声は、低かった。地下の空気に、すぐに、吸い込まれて消える。

 

 掌の力を、絶やさぬまま。

 

 DDを、祓うだけなら。横島には、もっと、容易い。だが、この女に必要なのは、断ち切ることでは、なかった。

 

 すでにDDへ傾きかけたものを、引き戻すこと。傷つけずに、削り損なわずに、もとの人の形へ、一筋ずつ、戻していくこと。

 

 それは、横島の本来の仕事の、ちょうど、裏返しだった。

 

 祓い手が、祓わずに、抱え込む。

 

 慣れない仕事だ、と、横島は思う。

 

 このポッドそのものは、横島の作ったものでは、ない。

 

 束の、設計だった。

 

 横島は、この装置が、もともと、何のための機械だったのかを、知っていた。

 

 霊体を、傷つけずに、保つ。沈めて、留めて、ほどけかけた魂を、つなぎとめる。霊力を、溜め込み、蓄える。——それは、たしかに、治療に、使える。

 

 だが、同じ機構は、わずかに、向きを変えれば。

 

 ほどけかけた魂を、留め、容れ物へ、移すための装置にも、なる。

 

 ISのコアを、つくるための。

 

 横島がいま、自前の霊力を溜め込ませ、必死に人へ戻そうとしているこの筒は、本来、その逆をやるために、設計されている。救うための機械と、材料にするための機械が、同じ一つの筒の中に、何食わぬ顔で、同居している。横島は、その禍々しい機械を、本来とは逆の向きに、無理やり、ねじ曲げ、自分の霊力で、押し戻していた。

 

 それを思うたび、横島の胸の底に、苦いものが、滲む。

 

 だが、今は、それしか、手が、なかった。

 

「……材料になんざ、させねえよ」

 

 液の中の女へ、横島は、ぽつりと、言った。

 

 聞こえるはずも、ない。

 

 返事を、期待しても、いない。

 

 それでも、言わずには、いられなかった。

 

 部屋の、壁際。

 

 ナターシャのものより、一回り小さい、開放型のポッドが、あった。

 

 その縁に、織斑千冬が、半身を、預けていた。

 

 毛布が、その肩に、きちんと、かけられている。枕の位置も、整えられていた。ついさっきまで、誰かが、付き添っていた跡だった。

 

 この区画には、横島のほかにも、出入りする者が、いる。

 

 山田真耶。

 

 そして、彼女が束ねる、ごく限られた、専任のスタッフたち。

 

 彼らが、交代で、地下の管制を回し、ナターシャの容態を見張り、そして、目覚めかけた千冬の、身の回りの世話をしている。立てない身体を支え、食事を運び、汗を拭く。最強と謳われた女が、自分では何一つできない、その日々の世話を。

 

 だが、その頭数も、ぎりぎりだった。

 

 この区画の存在を知る者は、ごくわずか。ならば、ここへ立ち入れる者も、その世話をできる者も、おのずと、限られる。秘匿という防壁は、同時に、人手という意味では、痩せた壁でもあった。守るべきものを隠せば隠すほど、それを支える手は、細くなる。

 

 真耶も、管制と世話の両方を抱えて、休む間もない。

 

 ついさっき、彼女が、千冬の世話を終えて、上の管制室へ戻っていった。次に誰かが来るまでの、わずかな、手の空いた時間。

 

 その合間に、横島が、一人、ポッドに掌を当てて、座っている。

 

 だから今は、この広い地下に、目を覚ましている者は、横島と、千冬の、二人きりだった。

 

「……ずいぶん、優しい声を、出すんだな」

 

 声は、かすれていた。

 

 横島は、振り返る。だが、掌は、筒から、離さない。注ぎかけの力を、ここで切らすわけには、いかなかった。

 

 千冬は、ポッドの縁に背を凭せかけ、上半身を、わずかに起こしていた。だが、その姿勢を保つだけでも、苦しげだった。胸が、浅く、速く、上下している。額には、薄く、汗が滲んでいた。

 

 あの夏の直後よりは、顔色は、戻っている。だが、それだけだ。眼の奥の光は、まだ、濁っている。声には、あの、鋭さが、ほとんど帰っていない。

 

「起きてたのか」

 

 横島が言うと、千冬は、ゆっくりと、瞬きをした。

 

「眠っていた。たぶん。だが、お前が、独り言を、言うから」

 

 言葉が、途切れる。

 

「……うるさくて、目が、覚めた」

 

「そりゃ、悪かったな。真耶ちゃんが、せっかく、寝かしつけてくれたのに」

 

「……あいつには、世話を、かけている」

 

 千冬は、目を伏せた。

 

「管制も、私の世話も。手の足りんなかで……すまんと、思っている」

 

「お前が気に病むこっちゃねえよ。あいつは、好きでやってる。——ま、ちっと、働かせすぎではあるけどな」

 

 千冬は、自分の脚へ、目を落とした。

 

「足は」

 

 横島が尋ねると、千冬は、ほんの少し、それを、動かそうとした。

 

 つま先が、わずかに、震える。それきり、だった。

 

「……動か、ん」

 

 ひと言、絞り出すように言って、千冬は、息をついた。

 

「立とうと、すると……身体の、芯から、力が、抜けていく。自分の脚なのに……自分のものでは、ないようだ」

 

「無理すんなって」

 

「無理は、せん」

 

 千冬は、目を閉じた。

 

「立てんものは、立てん。それくらいは……わかる」

 

 その声に、痛みの色は、なかった。ただ、焦燥だけが、薄く、にじんでいた。

 

 最強であったはずの自分が、ポッドの縁から、立ち上がることすら、できない。人に、身の回りの世話を、委ねなければならない。意識は、戻った。だが、身体が、自分の意志に、まるで、追いついてこない。

 

 それが、千冬には、何より、こたえているようだった。

 

 横島には、それが、よく、わかった。

 

 だから、軽く、言った。

 

「お前は、浅瀬にいたんだよ」

 

「浅瀬」

 

「そこの、ナターシャに比べりゃ、な」

 

 横島は、大きなポッドへ、顎を、しゃくった。

 

「あんたは、深いとこまでは、沈められてなかった。引き戻すのに、手間は、かからなかった。あとは——時間だ。時間が経てば、戻る。それだけは、確かだ」

 

「……お前が、言うと」

 

 千冬は、薄く、笑おうとした。うまく、笑えなかった。

 

「説得力が、あるんだか、ないんだか……わからん、な」

 

「失礼な」

 

「事実、だろう」

 

 会話は、途切れがちだった。

 

 千冬が、ひと言を、絞り出すたびに、間が、空く。横島は、その間を、急かさなかった。ただ、待った。掌の霊力を、絶やさぬように、気を配りながら。

 

 部屋には、また、機械の低い唸りだけが、満ちた。

 

 千冬の視線が、ゆっくりと、ナターシャの浮かぶ、大きなポッドへ、移っていった。

 

「あれは」

 

 千冬が、言った。

 

「……良く、なって、いるのか」

 

「少しずつ、な」

 

 横島は、答えた。

 

「見かけは、ひでえもんだろ。八割がた、あっち側に、持ってかれてた。それを、いま、こっちへ——人の側へ、一筋ずつ、引き戻してる。鱗を、削って。爪を、戻して。一日で、髪の毛一本ぶんも、進みゃしねえけどな」

 

「引き戻せる、のか」

 

「見かけは、戻せるだろうよ」

 

 横島は、言葉を、選んだ。

 

「鱗だの、爪だの、翼だの……表に出ちまったもんは、削って、人の形に、戻せる。時間さえ、かければな。だけど」

 

「だけど?」

 

 千冬が、先を、促した。

 

 横島は、しばらく、黙った。掌の下で、液が、静かに、脈打っている。

 

「……いちばん奥の、芯のところが、まだ、こっちを向いて、くれねえ」

 

 低い声だった。

 

「身体は、人に、戻せる。けど、その中身が——あいつ自身が、人として、目を覚ますかどうかは、別の話だ。器を、いくら綺麗にしても、中身が、帰ってこなけりゃ、意味がねえ。そこだけは、俺の手にも、まだ、負えねえ」

 

 千冬は、それきり、何も言わなかった。

 

 横島も、口を、つぐんだ。

 

 ただ、二人で、液の中のナターシャを、見ていた。

 

 少しずつ、人へ戻りつつある、けれど、いちばん深いところは、まだ、遠い場所に沈んだままの、一人の女性を。

 

 やがて。

 

 千冬が、ぽつりと、言った。

 

「……あいつは」

 

「ん?」

 

「束は。どうした」

 

 横島は、空いている方の手で、机の上の缶コーヒーに、手を伸ばした。とうに、冷めている。一口だけ含んで、顔をしかめた。

 

「いねえんだよ。ここんとこ、ずっと」

 

「学園にも、か」

 

「顔も、出してねえな」

 

 横島は、缶を、置いた。

 

「俺にも、はっきりとは、わからん。あいつ、行き先なんざ、いちいち言わねえからな」

 

 それは、嘘では、なかった。

 

 束が、どこで、何をしているのか。横島は、確かなことは、何も、聞かされていない。

 

 ただ。

 

 見当だけは、ついていた。

 

 ナターシャが、なぜ、ここまで深く、反転したのか。福音のコアの暴走が、なぜ、これほどの「持っていかれ方」を、起こしたのか。——あの女は、それが、よほど、引っかかっているようだった。

 

 そして、その答えを探す先が、この世界の内側には、ない。

 

 横島には、それだけは、わかる。コアも、DDも、もとを辿れば、この世界が、本来は持っていなかったものだ。その理屈の根を、掘ろうとすれば、いずれ、この世界の縁の、その外側に、触れることになる。束は、たぶん、そこへ、手を伸ばしている。

 

 どこへ、誰のところへ、とまでは、横島にも、わからない。

 

 ただ、向いている方角だけは、なんとなく、察しがつく。

 

 だが、それも、確かめたわけでは、なかった。

 

 だから、横島は、それ以上は口にしなかった。

 

「あいつのことだ」

 

 代わりに、横島は、軽く言った。

 

「気が向きゃ、ふらっと、帰ってくるさ。手土産に、ろくでもねえ土産話を、抱えてな。で、こっちが、それを聞いて、頭を抱えるんだ。いつものことさ」

 

「……だろう、な」

 

 千冬は、薄く、息を吐いた。

 

 それきり、また、沈黙が、落ちた。

 

 ふと、横島の視線が、机の上へ、流れた。

 

 そこに、白い珠が、いくつか、転がっている。

 

 文珠。

 

 いざというときの、戦いのための切り札だ。治療には、使わない。あれは、霊力を込めて固めた、いわば、撃ち放つための弾だ。こうして、誰か一人を、そっと人へ戻すような、細やかな真似には、あまり向かない。

 

 治療に霊力を費やしている今は、簡単には増えない事情もあった。

 

 だから、横島は、自分の手で、やっている。

 

 弾を撃つのではなく。掌から、絶やさず、注ぎ、溜めることで。

 

 ——ふと。

 

 掌の下の、霊力の流れに、横島は、わずかな、違和感を覚えた。

 うまく、言葉にできない。

 

 ただ、注いでいる力の「通り」が、この世界へ来た当初とは、微かに、しかし決定的に違っている。

 

 この世界は、霊力がなく、神も悪魔も生まれない。GSの自分が立っていても、足の裏にはからっぽの虚無しか響いてこない、どこまでも乾いた大地だったはずだ。

 

 それが、いま。

 

 込めようとする力が、すっと、馴染むように吸い込まれていく。まるで、からからにひび割れていた土壌が、見えない水気を帯びて、じわりと底無し沼に変わり始めているような——背筋を這い上がるような感覚。

 

 DDが、霊力の濃い土地へ集まる。ISが、魂を燃やして、空を飛ぶ。文珠が、この世界の片隅で、ちいさな光を、点す。

 

 そうした波紋が、この乾いた世界に、少しずつ、確かな「匂い」を染み込ませている。

 

 ——この世界は、今、創世記なのさ。

 

 いつか、束が笑いながら言った言葉が、不意に、重くよぎった。

 横島は、掌に、わずかに、意識を集め直した。

 

 この世界の空気が、「濃く」なっていく、ということは。

 

 それはつまり。今までこの世界を見つけられなかった、外側の暗闇にいる『何か』が——この世界の匂いを嗅ぎつけられるようになる、ということだ。

 それが、吉と出るのか、凶と出るのか。

 

 横島には、まだ、わからない。ただ、掌から吸い込まれていく霊力の滑らかさが、酷く、不吉に思えた。

 

 横島には、まだ、わからなかった。

 

「……上は」

 

 横島は、話を変えるように、天井を、見上げた。

 

 薄暗い天井の、そのずっと向こう。何層もの隔壁と、地面を隔てた先で、祭りが、始まろうとしている。

 

「学園祭だってよ。派手にやるみたいだぜ」

 

「……わかっている」

 

 千冬は、目を閉じたまま、答えた。

 

「一夏も、いるのか」

 

「いるだろうよ。後輩の女の子たちと、わいわい、やってんじゃねえか。カフェだか海の家だかやるらしいけど」

 

「海の家、か」

 

 千冬の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。

 

「……一夏というより、周りに、いる連中らしくは、あるな」

 

「あんたの弟は」

 

 横島は、軽く言った。

 

「妙な連中に、好かれてる」

 

「……そうだな」

 

 千冬の声が、ほんの少しだけ、変わった。

 

 途切れ途切れの、かすれた声の、その奥に。ごく薄く、柔らかいものが、にじんだ。

 

「あいつは、たぶん。笑っていても……ここのことが頭から離れることはない」

 

 横島は、千冬の横顔を、見た。

 

 弟のことを口にするとき、千冬苦しげな声は、ほんの少しだけ、ほどける。張り詰めていたものが、わずかに、緩む。

 

「いい、弟さんだよ」

 

「……知っている」

 

 千冬は、目を閉じたまま、言った。

 

「知っている、から」

 

 ひと呼吸、間が、空いた。

 

「……巻き込み、たくは、なかった」

 

 その声に、横島は、何も返せなかった。

 

 返せる言葉が、なかった。あの夏、その弟を、巻き込んだのは、ほかでもない、横島自身だったからだ。

 

 地下の部屋は、静かだった。

 

 ナターシャは、液の中で、横島の注いだ力に撫でられて、少しずつ、人へ戻りながら、いちばん深いところは、まだ、遠くに、沈んでいる。

 

 千冬は、ポッドの縁で、立てない脚を持て余している。

 

 横島は、筒に掌を当てたまま、絶やさぬ細い力を、溜め続けている。その指先で、変わりゆく世界の手応えに、ひとり、耳を澄ませながら。

 

 その頭上で。

 

 祭りの灯が、ともり始めていた。

 

 何層もの地面を、隔てた、その上で。

 

 ——その祭りの下に、何が、紛れ込もうとしているかも。

 

 まだ、誰も、知らないままに。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 学園祭は、二日にわたって、開かれる。

 

 その、前夜。

 

 陽が落ちてからも、校舎のあちこちに、灯りが残っていた。明日の本番を前に、最後の仕上げをする生徒たちが、まだ、残っているのだ。窓の一つ一つに、ぽつ、ぽつと、明かりが点っている。外から見上げれば、校舎全体が、巨大な、灯籠のようだった。

 

 一夏は、箒に引きずられるようにして、道場で汗を流したあと、その帰りに、一組の教室へ立ち寄った。

 

 夜の校舎は、昼とは、まるで違う顔をしている。

 

 人気の引いた廊下は、ひんやりと静かで、足音が、やけに、よく響いた。非常灯の、緑がかった淡い光が、長い廊下を、ぼんやりと照らしている。昼間の喧騒が嘘のように、しんと静まりかえっていた。

 

 だが、教室の扉を開けた瞬間、その静けさは、吹き飛んだ。

 

「あっ、一夏! ちょうどいいところに!」

 

 鈴が、脚立の上から、振り向いた。

 

 教室は、すっかり、様変わりしていた。

 

 窓という窓に、青と白の布が、波を模して、張り巡らされている。天井からは、紙で作った魚や、貝殻を模した飾りが、無数の糸で吊るされて、揺れていた。壁の一面には、誰が描いたのか、大きな海の絵。水平線と、夏の入道雲と、その上を飛ぶ、小さなISの影。よく見れば、その白いISの隣に、小さく、もう一機。誰かが、悪戯で描き足したのか、白式によく似た機影が、寄り添うように、飛んでいた。

 

 カフェ、という当初の地味な出し物は、いつのまにか、「海の家」に、なっていた。

 

「すごいな、これ」

 

 一夏は、思わず、声を上げた。

 

 朝に見たときは、まだ、ただの教室に、布を張りかけているだけだった。それが、半日で、すっかり、別の場所に、化けている。

 

「でしょ?」

 

 脚立の上の鈴が、得意げに、胸を張った。

 

「流れた臨海学校の分、ここで全部やるって、決めたの。どうせなら、海、持ってきちゃえって。教室ごと、ね」

 

「海を、持ってくる」

 

「そう。教室ごと」

 

 その発想の、あまりの大胆さに、一夏は、笑ってしまった。

 

「電飾の配線、そっちで合ってる?」

 

 教室の隅で、シャルロットが、床に這いつくばって、コードを繋いでいた。配線図らしき紙を片手に、端子を、一つ一つ、確かめている。

 

「ラウラ、スイッチ、入れてみて」

 

「了解した」

 

 ラウラが、壁際のスイッチに、手をかけた。

 

 一瞬の、間。

 

「いくぞ」

 

 ラウラが、スイッチを、押す。

 

 それから、天井の飾りが、淡く、光った。

 

 吊るされた紙の魚が、内側に仕込まれた小さな電球で、ぼんやりと、発光する。青い布の波が、その光を受けて、ゆらゆらと、揺れて見える。床に這わせた電飾が、足元から、淡い光を、滲ませる。

 

 教室の中が、海の底のような、淡い青に、染まった。

 

「……おお」

 

 一夏は、息を、呑んだ。

 

 それは、思いのほか、きれいだった。

 

 紙と、布と、電球で作った、まがいものの海。けれど、その作りものの光の中に立っていると、本当に、夏の海の底に、いるような気持ちに、なった。光が、ゆらゆらと、天井で揺れている。まるで、水面を、下から見上げているようだった。

 

「綺麗、でしょう」

 

 セシリアが、腕を組んで、満足げに、頷いた。

 

「配色計画と、導線設計は、わたくしの担当ですわ。光の透ける布の選定から、電飾の色温度の調整まで。チャリティ・バザーで培った、美的感覚を、いかんなく——」

 

「はいはい、セシリアのおかげおかげ」

 

「鈴さん、聞いておられまして?!」

 

「聞いてる聞いてる。すごいすごい。さすがイギリス」

 

「その、心のこもっていない相槌は、何ですの!」

 

 いつもの、応酬だった。

 

 だが、誰も、本気では、怒っていない。

 

 光る教室の中で、五人が、それぞれの持ち場で、最後の仕上げを、している。脚立の上の、鈴。床の、シャルロット。スイッチの前の、ラウラ。配置を指図する、セシリア。そして、隅で、几帳面に、椅子を並べ直している、箒。

 

 その光景を、一夏は、扉の前で、しばらく、眺めていた。

 

 半年前。

 

 この学園に来たばかりのころ、一夏は、この少女たちのことが、よく、分からなかった。強くて、個性が濃くて、距離の取り方が、分からない。自分だけが、ずっと、遅れているような気が、していた。

 

 それが、今は。

 

「一夏、ぼーっとしてないで、手伝いなよ!」

 

「ああ、悪い」

 

 呼ばれて、一夏は、教室に入った。

 

 鈴に渡された飾りを、言われるまま、天井の糸に、吊るしていく。紙でできた、小さな貝殻の飾り。糸が、なかなか、結べない。

 

「もうちょっと右! あ、それじゃ高すぎ。下げて。あー、今度は下げすぎ!」

 

「どっちだよ」

 

「いいから! 私の言う通りにすれば、いいの!」

 

 無茶な注文に、振り回されながら、それでも、一夏は、笑っていた。

 

「あ、そうだ。一夏、試してみる?」

 

 ふと、鈴が、脚立を降りて、教室の奥を指した。

 

 そこには、銀色の、かき氷機が、据えられていた。明日の、目玉商品だという。

 

「特製かき氷! 味見してよ。シロップ、私が調合したんだから」

 

「お前が、調合?」

 

「そう。中華街の、秘伝のレシピ。……は、嘘だけど。適当に混ぜた」

 

「適当なのかよ」

 

 それでも、断る理由もない。一夏は、差し出された、小さな器を、受け取った。

 

 青い、シロップのかかった、かき氷。海をイメージしたのだろう。スプーンで、一口、すくって、口に運ぶ。

 

「……あれ。うまい」

 

「でしょ!」

 

「いや、待て。なんか、後味が、変だ。塩……?」

 

「あ、それ、塩の効いたやつ。スイカに塩、的な。甘みが、引き立つでしょ」

 

「引き立つ、か……?」

 

 一夏が、首を傾げていると、セシリアが、つかつかと、寄ってきた。

 

「お貸しなさい。わたくしが、審判して差し上げますわ。淑女の、繊細な舌で」

 

 そう言って、一口。

 

 次の瞬間、セシリアの顔が、見事に、固まった。

 

「……鈴さん」

 

「なによ」

 

「これは、かき氷では、ありませんわ。塩水の、かかった、氷ですわ」

 

「失礼ね! ちゃんと甘いでしょ!」

 

「甘さと、塩辛さが、殴り合っておりますの! これを、お客様に、出すおつもり?!」

 

「出すわよ! 売れるわよ! 斬新だもの!」

 

「斬新と、まずいは、違いますのよ!」

 

「あんたに言われたくない!」

 

 また、始まった。

 

 シャルロットが、まあまあ、と、割って入る。ラウラが、横から、ひょいと一口すくって、淡々と、「……私は、嫌いではない」と言って、二人を、黙らせる。

 

「ラウラさん?!」

 

「ラウラ、あんた、味覚……」

 

光る教室に、笑い声が、満ちていた。

 

 一夏は、その輪の中で、もう一口、その妙なかき氷を、口に運んだ。

 

 甘くて、しょっぱくて。おかしな、味だった。

 

 昼間、道場の裏で、箒の竹刀を受けた時の痛みが、まだ掌にじんわりと残っている。

 

 あの時、自分の無力さを思い知って、それでも背負う側になりたいと、空を見上げた。その重い決意と、目の前のばかばかしいほどの喧騒。

 

 その二つの光景が、同じ一つの学園の中に、同時に、ある。

 一夏は、その落差に、ときどき、立ちすくみそうに、なる。

 

 ——だが。

 

 吊るした飾りが、淡く、光る。

 

 その光を、見上げる鈴の横顔が、子供みたいに、無邪気で。

 

 その隣で、シャルロットが、嬉しそうに、笑っていて。

 

 ラウラが、二杯目のかき氷に、手を伸ばしていて。

 

 セシリアが、それを見て、また何か、言おうとしていて。

 

 ああ、そうか、と、一夏は、思った。

 

 これを、守りたかったんだ。

 

 横島が、自分の首を賭けてまで、姉を、取り戻そうとしたのも。

 

 姉が、立てない脚で、それでも、弟を巻き込みたくなかったと、言ったのも。

 

 きっと、こういうものを、守るためだ。

 

 紙と布で、できた、作りものの海。

 

 その下で、笑う、当たり前の、誰かの顔。

 

 妙な味のかき氷で、馬鹿みたいに、言い合う、いつもの時間。

 

 それを、当たり前のまま、明日も、明後日も、続けさせるために。

 

「一夏?」

 

 ふと、気づくと、箒が、こちらを、見ていた。

 

 椅子を並べる手を止めて、淡い青の光の中で、不思議そうに。

 

「どうした。また、妙な顔を、しているぞ」

 

「いや」

 

 一夏は、首を振った。

 

「なんでもない。……ただ、いいな、って、思って」

 

「いい?」

 

「これ。海の家。みんなで、ばかみたいに、張り切ってるの」

 

 箒は、少し、目を、見開いた。

 

 それから、ふっと、口元を、ゆるめた。

 

「ばかみたいに、は、余計だ」

 

「悪い」

 

「だが」

 

 箒は、光る教室を、ぐるりと、見回した。吊るされた魚。揺れる波。言い合う、鈴とセシリア。二杯目を食べる、ラウラ。

 

「……悪くない、とは、思う」

 

 その横顔も、淡い青の光に、染まっていた。

 

 いつも、生真面目に、引き結ばれている口元が、今は、わずかに、ほどけている。

 

「明日が、楽しみだな」

 

 一夏は、言った。

 

 本心、だった。

 

 地下のことは、まだ、胸の奥に、重く残っている。それは、消えない。消えていいもの、でもない。

 

 けれど、今夜だけは。

 

 この、光る教室の中でだけは。

 

 一夏も、ただの、一年生として。明日の祭りを、楽しみにしていたかった。

 

「ねえねえ、終わったらさ」

 

 鈴が、脚立を、片付けながら、言った。

 

「明日、私たちの店、一番に来てよね、一夏。海の家の、特製かき氷。サービスしてあげるから」

 

「さっきの、塩のやつか……?」

 

「失礼ね! 明日までに、改良するわよ!」

 

「改良の余地しかないけどな」

 

「うるさい!」

 

 シャルロットが、笑いながら、配線をまとめる。ラウラが、名残惜しそうに、かき氷機を見ている。セシリアが、明日の、紅茶の仕込みの話を、始める。

 

 光る教室に、笑い声が、満ちていた。

 

 明日は、祭りだ。

 

 一年で、いちばん、騒がしくて、楽しい、二日間が、すぐ、そこまで、来ている。

 

「さ、今日は、ここまで。明日に備えて、もう、休もう」

 

 シャルロットの一声で、五人は、片付けを始めた。

 

 電飾の、スイッチを、切る。

 

 淡い青の光が、消えて、教室は、また、ただの、暗い教室に、戻る。

 

 けれど、暗闇の中にも、紙の魚の、輪郭が、窓からの月明かりに、ぼんやりと、浮かんでいた。

 

 明日、また、ここに、光が、灯る。

 

 そう思うと、一夏の胸も、少しだけ、明るくなった。

 

「じゃあな、また明日」

 

「うん、また明日」

 

「一夏、遅刻するんじゃないわよ!」

 

「しないって」

 

 口々に言い交わして、五人と一人は、教室を、後にする。

 

 窓の外は、もう、すっかり、夜だった。

 

 学園を囲む海の、その向こうに、本土の灯りが、小さく、点々と、滲んでいる。

 

 一夏は、廊下の窓から、ふと、その灯りを、見た。

 

 無数の、小さな光の、群れ。

 

 そのどこかで、明日も、誰かが、当たり前に、暮らしている。

 

 その当たり前を、守るために、自分は、強くなりたい——そう、思った、ばかりだった。

 

 だが。

 

 一夏は、知らなかった。

 

 その、本土の灯りの群れの、どこかに。

 

 ——いま、この祭りへ向けて、別のものたちが、静かに、近づきつつあることを。

 

 その、海を渡る、いくつもの影が。

 

 明日、この光る教室の、ずっと下を、目指していることを。

 

 光る教室の中の、誰一人として。

 

 まだ、知らなかった。

 

     

 

      ◇

 

 

 

 

 本土の、名も無い港町。

 

 夜の埠頭は、潮と油の匂いに沈んでいた。

 

 岸壁には、使われなくなって久しいクレーンが、骨だけの影を夜空に晒している。塗装の剥げた鉄骨が、月のない空を背に、黒々とそびえていた。係留された小型船が、波に押されるたび、舷側を防舷材にこすりつけ、ぎい、ぎい、と規則正しい軋みを立てる。それ以外に、音はない。街の灯は遠く、ここまでは、ほとんど届かなかった。

 

 その埠頭の隅に、一台のコンテナトラックが停まっていた。

 

 エンジンは切られ、灯火も落とされている。誰の目も引かない場所だった。引いては、ならなかった。明日、それぞれが、何食わぬ顔で、表玄関から島へ渡る。そのための、最後の夜だった。だからこそ、今夜だけは、こんな場所で、顔を合わせる必要があった。

 

 昼間の彼らは、別の顔を持っている。

 

 ある者は、どこかの国の、対DD装備の、開発主任。ある者は、名の通った軍需企業の、技術顧問。ある者は、研究機関の、招かれた客員。——いずれも、れっきとした肩書きと、洗っても埃の出ない経歴を持つ、表の世界の住人だった。明日、彼らの名は、視察団の名簿に、何の不審もなく、並ぶだろう。

 

 そうでなければ、この島へは、近づくことすら、できない。

 

 各国の要人が、足を運ぶのだ。警備は、もはや、一国の催しの域では、なかった。聞けば、周辺の海域には、とうに、幾重もの封鎖線が、敷かれているという。素性の知れぬ者が、まぐれで紛れ込める、その程度の、甘い網では、ない。

 

 通れるのは、本物だけだ。

 

 本物の、肩書き。本物の、経歴。一点の曇りもない、表の顔。——それを持つ者だけが、堂々と、表玄関を、くぐれる。

 

 その、本物の顔を持つ男たちが。

 

 今は、灯火を落としたコンテナの中で、一つの作業灯を囲んで、座り込んでいる。

 

 彼らは、無言だった。

 

 手元で、機材を、検めている。指の動きには、迷いがなかった。長く、最前線で、満足な設備もない場所で、手を動かしてきた者の手つきだった。並べられた部品の中には、見慣れぬ形のものも、混じっている。市販の規格には、ない。明日、それぞれが、視察用の計測器具として、あるいは、ありふれた精霊石の機材として、堂々と、手荷物に紛れさせて、持ち込むものだった。

 

「巻紙は、手筈を整えたか」

 

 一人が、手を止めずに、訊いた。

 

「ああ。『みつるぎ』の渉外担当として、明日、正規に入る。枠は、こちらで、押さえてある」

 

 別の一人が、答えた。

 

「派手にやるんだろう。あの女は、いつもそうだ。表で、大きく暴れて、学園の目を、根こそぎ引きつける。狙いは、あの白い機体——ということに、しておく」

 

「囮としては、上等だな」

 

「ああ。名簿の上じゃ、埃一つ、ない女だ。暴れるのは、門をくぐって、からでいい。——だからこそ、せいぜい、派手に、目立ってもらわねば、困る」

 

 それきり、また、沈黙が、落ちた。

 

 彼らが、欲しいもの。

 

 あの島の、どこかに、隠されているという、一人の女。銀の福音の、搭乗者。人の形を、半ば、超えたという。そして——それを、人の形に、押し留めているという、「何か」。

 

 噂だった。裏を、取った者は、いない。だが、あの夏、海の上で、何かが起きた。コメリカが口をつぐみ、日本が黙した。その沈黙が、噂を、雄弁に、裏づけていた。

 

「……正気の沙汰じゃ、ないとは、思いますがね」

 

 若い男が、手を止めて、言った。声に、ためらいが、滲んでいる。

 

「だが、その先だ。あの島の、いちばん奥。地下に隠されたものまで、俺たちが、本当に、たどり着けるんですか」

 

「図面は、ない」

 

 最初に口を開いた男が、静かに、答えた。

 

「地下、と、踏んでいるだけだ。降りた先の、間取りまでは、誰も、知らん。——外れたら、それまでよ」

 

「なら——」

 

「平時なら、無理だ。蟻一匹、通さんだろう。あの学園の、地下は」

 

 男は、手を止めない。

 

「だから、平時には、しない」

 

 男は、手の中の部品を、灯にかざした。

 

「明日、表で、巻紙が暴れる。学園の目が、そちらへ、引きつけられる。——それだけでは、足りん。だから、海から、もう一つ。あれを、上乗せする。——もっとも、海のほうは、こちらの差配の外だ。いつ来るかは、あれの、気分次第よ」

 

 あれ、が、何を指すのか。

 

 若い男は、訊かなかった。訊けなかった。コンテナの、輪の外れに、それを担う者たちが、座っている。それを思うと、口が、重くなった。

 

「二重の、混乱だ」

 

 男は、続けた。

 

「学園じゅうの、目という目、手という手が、根こそぎ、表と、海とに、割かれる。要人を守り、客を逃がし、降ってわいた脅威に、応じる。——その、ほんの一瞬。いちばん奥の、守りが、薄くなる。我々は、その隙に。客の顔のまま、奥へ、降りる」

 

「……俺たちが、ですか」

 

 若い男の声が、掠れた。

 

「捨て駒を、雇って、走らせる、とかじゃ——」

 

「誰を、雇う」

 

 男は、若者を、見た。

 

「素性の知れん者など、その封鎖線で、とうに、はじかれる。表玄関を、くぐれるのは、我々だけだ。本物の顔を、持つ、我々だけ。——だから、我々が、行く。自分の足で。自分の手で」

 

 コンテナの中が、しん、と、静まった。

 

 若い男は、俯いた。

 

 自分の手は汚さず、汚れ役は外から買う。それが、これまでの、彼らの流儀だったはずだ。表の顔を、汚さぬための、分別。だが、今度ばかりは、それが、通らない。本物しか、入れない。だから、本物が、手を汚すしか、ない。

 

「怖い、なら」

 

 最初の男の声が、わずかに、和らいだ。

 

「降りても、いい。今夜のうちなら、まだ。明日、名簿から、お前の名を、消すだけだ」

 

「……いえ」

 

 若い男は、首を、振った。

 

「行きます。——ここまで、来たんだ」

 

 その指先が、わずかに、震えているのを、男は、見て見ぬふりを、した。

 

 誰もが、知っていた。

 

 明日、何人が、帰ってこられるか。それは、誰にも、わからない。本物の顔を持つ、表の住人。だが、その顔を捨ててでも、手を伸ばしたい先が、彼らには、あった。委員会の許す範囲の、その、すぐ向こう。コアの統制の、その、外側。

 

 一度でいい。あの線の、向こうへ。

 

 それが、彼らを、この、正気でない賭けへと、駆り立てていた。

 

     

 

 

 

 コンテナの、輪の外れに。

 

 別の一団が、いた。

 

 機材を検める男たちとは、座る位置も、纏う空気も、どこか、隔たっていた。彼らは、機材を、検めてはいなかった。代わりに、それぞれが、手の中の、小さなものを——首から提げた、革紐の先の、黒い欠片を、しきりに、撫でている。

 

 数は、四人。あるいは、五人。

 

 誰も、口を、きかない。ただ、同じ仕草で、同じ欠片を、撫で続けている。その光景は、向かいの男たちから見れば、ささやかな、けれど、拭いきれない、不気味さを、湛えていた。

 

 その中心に、一人。

 

 最も古く、最も静かな、男が、いた。

 

 彼の経歴は、この一団の中で、最も、磨き上げられていた。撤退した、南半球。第三世界の、対DD防衛の、最前線。その、技術的な要職に、長く、あった男だった。DDが、人を、土地を、どう踏み潰すか。それを、書物の上でなく、目の前で、嫌というほど、見てきた男。

 

 だから、委員会も、企業も、こぞって、彼を欲しがった。

 

 彼を。

 

 彼「は」、選ばれた。優秀だから、と。安全な、線の内側へ、引き上げられた。

 

 その時、彼が、後に残してきたものは——大半が、選ばれなかった。

 

 彼の土地は、撤退された。線が、引かれた。才ある者だけが、こちら側へ。それ以外は、そのまま、そこへ、置き去りに。——彼は、選ばれた側にいた。掬われた、ひと握りの側に。残してきた、大勢を、背に。

 

「……あんたらも、地下へ、来るんだろう」

 

機材の輪のほうから、最初に口を開いた男が、その一団へ、声を、かけた。

 

 答えは、すぐには、なかった。

 

「お前たちとは、求めるものが、違うがな」

 

中心の男が、静かに、言った。

 

「あれは、お前たちのものだ。女も、それを留める何かも。価値のために、奪えばいい。——我々は、ただ、あれを、この目で、見たいだけだ。人の形を、超えたものを。線の、向こう側を」

 

「……同じ、女のもとへ。別々の、用で、か」

 

「ああ。同じ、場所へ」

 

 男は、首の欠片を、撫でた。

 

「呼ぶほうは、もう、済んでいる。ゆうべのうちに、海へ、放った。あとは、あれが、ひとりでに、島へ近づく。——我々が、すべきことは、もう、地下にしか、ない」

 

 声をかけた男は、それ以上、訊かなかった。

 

 訊いたところで、分かり合えないことを、知っていた。

 

 この、欠片を撫でる男たちが、何のために、ここにいるのか。混乱を、起こすため——それは、向かいの男たちにとっては、手段だった。地下へ、たどり着くための。だが、この男たちにとっては、混乱そのものが、目的だった。あれを、呼び寄せ、この、守られた島へ、解き放つこと。それ自体が。

 

「……怖いか」

 

 ふいに、中心の男が、言った。

 

 あの、若い男へ、向けた言葉だった。責める響きは、ない。むしろ、いたわるような、穏やかな声音だった。だからこそ、聞いた者の、背筋を、ぞわりと、撫でた。

 

 若い男は、答えられなかった。

 

「怖くて、いい」

 

 男は、黒い欠片を、ひどく慈しむように撫でながら、続けた。

 

「私も、ずっと、怖かった。あれが、すべてを平等に踏み潰していくのが。……我々は、線を引く。優秀な人間だけを内側へ引き上げ、そうでない人間を、線の向こうへ置き去りにする。そうやって、生き延びてきた」

 

 向かいの男たちも、口を、挟まなかった。

 

 この男が、かつて第三世界の最前線で何を見て、誰を見捨ててここへ引き上げられたか。それを皆、知っていた。

「だが、ある時、気づいたのだ」

 

 男の声が、熱を帯びて、低く、沈んだ。

 

「あれは——ただの一度も、人間を選ばなかった。線を引いた内側の人間も、見捨てられた外側の人間も。賢い者も、愚かな者も。何ひとつ区別せず、美しいまでに等しく、踏み潰していった。……あれだけだ。あれだけが、誰のことも、決してえこひいきしなかった」

 

 男は、黒い欠片を、祈るように握り込んだ。

 

 その先を、男は、言わなかった。

 

 言う必要が、なかった。

 

 握りしめた、その黒い欠片が、すべてを、語っていた。それが、もとは、何であったのか。彼が、線の向こうに置いてきた、無数の命の、そのたった一つの、残り。

 

「私は、見せたいだけだ」

 

 男は、コンテナの扉の、その隙間の、向こうを、見た。

 

 夜の海。そして、遥かな沖に、ぽつりと滲む、島の灯り。明日、祭りで、いっそう明るく光るはずの、あの島が。

 

 線を引いて、誰かを内に容れ、誰かを外へ弾く。その、傲慢な秩序の、灯り。

 

 男の目は、その灯りの、さらに向こうを、見ていた。海と空の境さえ溶けた、夜の闇の、もっと奥を。まるで、そこに、何かが、いるかのように。

 

 何を、見せたいのか。

 

 男は、言わなかった。

 

 あの、守られた島に。線の、内側で、安穏と笑う者たちに。——お前たちと、私の同胞と、何の違いも、ありはしなかったのだと。あれの前では、誰も、等しいのだと。それを、見せつけたい。

 

 あるいは、ただ、見たいだけ、なのかもしれなかった。

 

 線を引かぬものが、線を、踏み越えていく様を。

 

 失ったものは、もう、還らない。人間の世界では、決して。だが——人の引いた線の、その、外側からなら。

 

 いつか。

 

 男は、本気で、そう信じていた。そして、その隣で、欠片を撫でる男たちも、同じ夢を、見ていた。

 

「……灯りを、消せ」

 

 機材の輪のほうから、最初の男が、低く、言った。

 

「明日に備えて、休む。——表の顔も、今夜で、見納めかもしれん。せいぜい、いい夢を、見ておけ」

 

 作業灯が、消えた。

 

 コンテナの中が、闇に、沈む。

 

 それきり、男たちは、何も言わなかった。

 

 扉の隙間から差し込む、わずかな星明かりの中で。黒い欠片を握った男たちだけが、なおも、海の向こうを、見つめ続けていた。

 

 その沖の果てで。

 

 IS学園の島は、明日の祭りを待って、こうこうと、灯りをともしている。

 

 紙の魚が光る、海の家。

 

 最後の飾りつけに、はしゃぐ少女たち。

 

 立てない脚で、地下に横たわる、一人の女。

 

 少しずつ、人へと削り戻されていく、もう一人の女。

 

 冷めたコーヒーの前で、ポッドに掌を当て、絶やさぬ力を注ぎ続ける、一人の男。

 

 そのすべての上に、祭りの灯が、明るく、ともっている。

 

 何も、知らずに。

 

 その灯りへ向けて、明日、何が、招かれようとしているのかも、知らずに。

 

 明日。

 

 祭りが、始まる。

 

 

 






ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/
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