ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム 【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】 作:監督
学園の地下に、その区画はあった。
正規の見取り図には、載っていない。エレベーターの行き先表示にも、その階は、存在しないことになっている。たどり着くには、いくつもの認証と、いくつもの隔壁を、抜けねばならない。掌をかざす。網膜を読ませる。古い鉄の扉が、低い駆動音を立てて、ゆっくりと開く。それを、何度も繰り返して、ようやく、いちばん奥へ至る。そこを通れる者は、学園広しといえど、片手の指で足りるほどしか、いなかった。
祭りのざわめきは、ここまでは、届かない。
届くのは、機械の低い唸りと、空調がたてる、単調な風の音。それから、時折、計器が思い出したように立てる、電子的な囁きだけだった。
光は、乏しい。
天井の照明は、最小限に絞られている。部屋の大半は、薄暗い。明るいのは、中央に据えられた円筒形の装置の、その内側だけだった。
治療ポッド。
ひと抱えもある太い硝子の筒の中に、淡く青みがかった培養液が、満たされている。光は、その液の底から、ゆっくりと脈打つように、滲み出していた。呼吸のように、明るくなっては、また、翳る。明るくなっては、翳る。その緩やかな明滅だけが、薄暗い部屋の中で、唯一の、生きているもののように見えた。
液の中に、一人の女が、浮かんでいた。
ナターシャ・ファイルス。
銀の福音の、搭乗者だった女。
——だった、と、過去形で言うしかない姿だった。
長い髪が、海草のように、液の中へ広がっている。閉じた瞼。投げ出された四肢。そこまでは、たしかに、人の女のかたちをしている。
だが、その輪郭は、ところどころで、人のものでは、なかった。
肩から肘にかけての皮膚が、硬く、鱗のように節くれだっている。背には、骨と皮膜の中間のような、不吉な突起の、名残がある。指の先は、爪というには長く、鉤のように、湾曲しかけていた。
人の形が、八割がた、別の何かに、塗り替えられかけている。
そういう姿だった。
獣に近い波形が、装甲の内側で軋んでいた——あの夏、横島が、海の上で感じたもの。それは、いまも、この女の身体の表面に、はっきりと、刻まれている。
ただ。
注意深く、見れば、分かる。
その鱗じみた皮膚の、ところどころが、薄い人肌の色を、取り戻し始めていた。湾曲しかけた指の先が、わずかに、まっすぐに、戻りかけている。
ほんの少しずつ。
気が遠くなるほど、ゆっくりと。
その筒の正面に、横島忠夫が、座っていた。
くたびれたパイプ椅子に、浅く腰かけ、片手を、硝子の筒に、添えている。
ただ、添えているだけ、に見える。
だが、その掌からは、細い霊力が、流れ込んでいた。
目には、見えない。音も、しない。横島の掌から、ポッドの中へ。ごく細く、ごく弱く、絶やさぬように、霊力が、注がれていく。
ポッドは、その力を、溜め込んでいた。
もともと、霊体すら捕らえて留めおく装置だ。霊力を、ただ溜めて保つくらい、造作もない。横島が注いだ力は、筒の内に蓄えられ、彼がそばを離れている間も、ゆっくりと、ナターシャを人へ戻すために、使われ続ける。
おかげで、横島とて、四六時中、ここに張りついている必要は、ない。蓄えが満ちるまで注いだら、離れて、仮眠もとれる。飯も食える。蓄えが細るころに、また来て、注ぎ足す。——その繰り返しだった。
もっとも。
「満ちるまで注ぐ」というのが、曲者だった。
霊力を、一気に放つだけなら、容易い。斬る。祓う。鎮める。瞬間に、ありったけを叩きつける。それが、横島の、本来の戦い方だった。
だが、これは、逆だ。
弱い力を、一定に、保ち続ける。
強すぎれば、ナターシャの、ほどけかけた霊体を、かえって傷つける。弱すぎれば、人へ戻す力が、届かない。蓄える先が、溢れも、枯れもせぬよう。その、針の穴を通すような細さを、満ちるまでの長いあいだ、絶やさずに、維持し続ける。
瞬間の爆発よりも、持続の制御のほうが、難しい。
それを、横島は、知っていた。
GS、同業に古い名家の天才がいた。あの女性は、こともなげに、それをやってのけた。低く、細く、絶やさぬ力を、無造作に保ちながら、欠伸の一つもしてみせた。意識すらしていなかったかもしれない。天才とは、ああいうものを言うのだと、横島は、当時、舌を巻いたものだ。自分には、まだ、あそこまでの余裕は、ない。気を抜けば、たちまち、力が、揺らぐ。
それでも。
このひと月あまりで、注ぎ方には、ずいぶん、慣れた。
慣れたく、もなかったが。
——謹慎、という名目で、地下に押し込められているのは、横島にとって、皮肉なほど、好都合だった。表に出る用がないからこそ、こうして、何時間でも、注いでいられる。誰にも、咎められずに。
「……戻すのは、壊すより、ずっと、手間だ」
誰にともなく、横島は、つぶやいた。
声は、低かった。地下の空気に、すぐに、吸い込まれて消える。
掌の力を、絶やさぬまま。
DDを、祓うだけなら。横島には、もっと、容易い。だが、この女に必要なのは、断ち切ることでは、なかった。
すでにDDへ傾きかけたものを、引き戻すこと。傷つけずに、削り損なわずに、もとの人の形へ、一筋ずつ、戻していくこと。
それは、横島の本来の仕事の、ちょうど、裏返しだった。
祓い手が、祓わずに、抱え込む。
慣れない仕事だ、と、横島は思う。
このポッドそのものは、横島の作ったものでは、ない。
束の、設計だった。
横島は、この装置が、もともと、何のための機械だったのかを、知っていた。
霊体を、傷つけずに、保つ。沈めて、留めて、ほどけかけた魂を、つなぎとめる。霊力を、溜め込み、蓄える。——それは、たしかに、治療に、使える。
だが、同じ機構は、わずかに、向きを変えれば。
ほどけかけた魂を、留め、容れ物へ、移すための装置にも、なる。
ISのコアを、つくるための。
横島がいま、自前の霊力を溜め込ませ、必死に人へ戻そうとしているこの筒は、本来、その逆をやるために、設計されている。救うための機械と、材料にするための機械が、同じ一つの筒の中に、何食わぬ顔で、同居している。横島は、その禍々しい機械を、本来とは逆の向きに、無理やり、ねじ曲げ、自分の霊力で、押し戻していた。
それを思うたび、横島の胸の底に、苦いものが、滲む。
だが、今は、それしか、手が、なかった。
「……材料になんざ、させねえよ」
液の中の女へ、横島は、ぽつりと、言った。
聞こえるはずも、ない。
返事を、期待しても、いない。
それでも、言わずには、いられなかった。
部屋の、壁際。
ナターシャのものより、一回り小さい、開放型のポッドが、あった。
その縁に、織斑千冬が、半身を、預けていた。
毛布が、その肩に、きちんと、かけられている。枕の位置も、整えられていた。ついさっきまで、誰かが、付き添っていた跡だった。
この区画には、横島のほかにも、出入りする者が、いる。
山田真耶。
そして、彼女が束ねる、ごく限られた、専任のスタッフたち。
彼らが、交代で、地下の管制を回し、ナターシャの容態を見張り、そして、目覚めかけた千冬の、身の回りの世話をしている。立てない身体を支え、食事を運び、汗を拭く。最強と謳われた女が、自分では何一つできない、その日々の世話を。
だが、その頭数も、ぎりぎりだった。
この区画の存在を知る者は、ごくわずか。ならば、ここへ立ち入れる者も、その世話をできる者も、おのずと、限られる。秘匿という防壁は、同時に、人手という意味では、痩せた壁でもあった。守るべきものを隠せば隠すほど、それを支える手は、細くなる。
真耶も、管制と世話の両方を抱えて、休む間もない。
ついさっき、彼女が、千冬の世話を終えて、上の管制室へ戻っていった。次に誰かが来るまでの、わずかな、手の空いた時間。
その合間に、横島が、一人、ポッドに掌を当てて、座っている。
だから今は、この広い地下に、目を覚ましている者は、横島と、千冬の、二人きりだった。
「……ずいぶん、優しい声を、出すんだな」
声は、かすれていた。
横島は、振り返る。だが、掌は、筒から、離さない。注ぎかけの力を、ここで切らすわけには、いかなかった。
千冬は、ポッドの縁に背を凭せかけ、上半身を、わずかに起こしていた。だが、その姿勢を保つだけでも、苦しげだった。胸が、浅く、速く、上下している。額には、薄く、汗が滲んでいた。
あの夏の直後よりは、顔色は、戻っている。だが、それだけだ。眼の奥の光は、まだ、濁っている。声には、あの、鋭さが、ほとんど帰っていない。
「起きてたのか」
横島が言うと、千冬は、ゆっくりと、瞬きをした。
「眠っていた。たぶん。だが、お前が、独り言を、言うから」
言葉が、途切れる。
「……うるさくて、目が、覚めた」
「そりゃ、悪かったな。真耶ちゃんが、せっかく、寝かしつけてくれたのに」
「……あいつには、世話を、かけている」
千冬は、目を伏せた。
「管制も、私の世話も。手の足りんなかで……すまんと、思っている」
「お前が気に病むこっちゃねえよ。あいつは、好きでやってる。——ま、ちっと、働かせすぎではあるけどな」
千冬は、自分の脚へ、目を落とした。
「足は」
横島が尋ねると、千冬は、ほんの少し、それを、動かそうとした。
つま先が、わずかに、震える。それきり、だった。
「……動か、ん」
ひと言、絞り出すように言って、千冬は、息をついた。
「立とうと、すると……身体の、芯から、力が、抜けていく。自分の脚なのに……自分のものでは、ないようだ」
「無理すんなって」
「無理は、せん」
千冬は、目を閉じた。
「立てんものは、立てん。それくらいは……わかる」
その声に、痛みの色は、なかった。ただ、焦燥だけが、薄く、にじんでいた。
最強であったはずの自分が、ポッドの縁から、立ち上がることすら、できない。人に、身の回りの世話を、委ねなければならない。意識は、戻った。だが、身体が、自分の意志に、まるで、追いついてこない。
それが、千冬には、何より、こたえているようだった。
横島には、それが、よく、わかった。
だから、軽く、言った。
「お前は、浅瀬にいたんだよ」
「浅瀬」
「そこの、ナターシャに比べりゃ、な」
横島は、大きなポッドへ、顎を、しゃくった。
「あんたは、深いとこまでは、沈められてなかった。引き戻すのに、手間は、かからなかった。あとは——時間だ。時間が経てば、戻る。それだけは、確かだ」
「……お前が、言うと」
千冬は、薄く、笑おうとした。うまく、笑えなかった。
「説得力が、あるんだか、ないんだか……わからん、な」
「失礼な」
「事実、だろう」
会話は、途切れがちだった。
千冬が、ひと言を、絞り出すたびに、間が、空く。横島は、その間を、急かさなかった。ただ、待った。掌の霊力を、絶やさぬように、気を配りながら。
部屋には、また、機械の低い唸りだけが、満ちた。
千冬の視線が、ゆっくりと、ナターシャの浮かぶ、大きなポッドへ、移っていった。
「あれは」
千冬が、言った。
「……良く、なって、いるのか」
「少しずつ、な」
横島は、答えた。
「見かけは、ひでえもんだろ。八割がた、あっち側に、持ってかれてた。それを、いま、こっちへ——人の側へ、一筋ずつ、引き戻してる。鱗を、削って。爪を、戻して。一日で、髪の毛一本ぶんも、進みゃしねえけどな」
「引き戻せる、のか」
「見かけは、戻せるだろうよ」
横島は、言葉を、選んだ。
「鱗だの、爪だの、翼だの……表に出ちまったもんは、削って、人の形に、戻せる。時間さえ、かければな。だけど」
「だけど?」
千冬が、先を、促した。
横島は、しばらく、黙った。掌の下で、液が、静かに、脈打っている。
「……いちばん奥の、芯のところが、まだ、こっちを向いて、くれねえ」
低い声だった。
「身体は、人に、戻せる。けど、その中身が——あいつ自身が、人として、目を覚ますかどうかは、別の話だ。器を、いくら綺麗にしても、中身が、帰ってこなけりゃ、意味がねえ。そこだけは、俺の手にも、まだ、負えねえ」
千冬は、それきり、何も言わなかった。
横島も、口を、つぐんだ。
ただ、二人で、液の中のナターシャを、見ていた。
少しずつ、人へ戻りつつある、けれど、いちばん深いところは、まだ、遠い場所に沈んだままの、一人の女性を。
やがて。
千冬が、ぽつりと、言った。
「……あいつは」
「ん?」
「束は。どうした」
横島は、空いている方の手で、机の上の缶コーヒーに、手を伸ばした。とうに、冷めている。一口だけ含んで、顔をしかめた。
「いねえんだよ。ここんとこ、ずっと」
「学園にも、か」
「顔も、出してねえな」
横島は、缶を、置いた。
「俺にも、はっきりとは、わからん。あいつ、行き先なんざ、いちいち言わねえからな」
それは、嘘では、なかった。
束が、どこで、何をしているのか。横島は、確かなことは、何も、聞かされていない。
ただ。
見当だけは、ついていた。
ナターシャが、なぜ、ここまで深く、反転したのか。福音のコアの暴走が、なぜ、これほどの「持っていかれ方」を、起こしたのか。——あの女は、それが、よほど、引っかかっているようだった。
そして、その答えを探す先が、この世界の内側には、ない。
横島には、それだけは、わかる。コアも、DDも、もとを辿れば、この世界が、本来は持っていなかったものだ。その理屈の根を、掘ろうとすれば、いずれ、この世界の縁の、その外側に、触れることになる。束は、たぶん、そこへ、手を伸ばしている。
どこへ、誰のところへ、とまでは、横島にも、わからない。
ただ、向いている方角だけは、なんとなく、察しがつく。
だが、それも、確かめたわけでは、なかった。
だから、横島は、それ以上は口にしなかった。
「あいつのことだ」
代わりに、横島は、軽く言った。
「気が向きゃ、ふらっと、帰ってくるさ。手土産に、ろくでもねえ土産話を、抱えてな。で、こっちが、それを聞いて、頭を抱えるんだ。いつものことさ」
「……だろう、な」
千冬は、薄く、息を吐いた。
それきり、また、沈黙が、落ちた。
ふと、横島の視線が、机の上へ、流れた。
そこに、白い珠が、いくつか、転がっている。
文珠。
いざというときの、戦いのための切り札だ。治療には、使わない。あれは、霊力を込めて固めた、いわば、撃ち放つための弾だ。こうして、誰か一人を、そっと人へ戻すような、細やかな真似には、あまり向かない。
治療に霊力を費やしている今は、簡単には増えない事情もあった。
だから、横島は、自分の手で、やっている。
弾を撃つのではなく。掌から、絶やさず、注ぎ、溜めることで。
——ふと。
掌の下の、霊力の流れに、横島は、わずかな、違和感を覚えた。
うまく、言葉にできない。
ただ、注いでいる力の「通り」が、この世界へ来た当初とは、微かに、しかし決定的に違っている。
この世界は、霊力がなく、神も悪魔も生まれない。GSの自分が立っていても、足の裏にはからっぽの虚無しか響いてこない、どこまでも乾いた大地だったはずだ。
それが、いま。
込めようとする力が、すっと、馴染むように吸い込まれていく。まるで、からからにひび割れていた土壌が、見えない水気を帯びて、じわりと底無し沼に変わり始めているような——背筋を這い上がるような感覚。
DDが、霊力の濃い土地へ集まる。ISが、魂を燃やして、空を飛ぶ。文珠が、この世界の片隅で、ちいさな光を、点す。
そうした波紋が、この乾いた世界に、少しずつ、確かな「匂い」を染み込ませている。
——この世界は、今、創世記なのさ。
いつか、束が笑いながら言った言葉が、不意に、重くよぎった。
横島は、掌に、わずかに、意識を集め直した。
この世界の空気が、「濃く」なっていく、ということは。
それはつまり。今までこの世界を見つけられなかった、外側の暗闇にいる『何か』が——この世界の匂いを嗅ぎつけられるようになる、ということだ。
それが、吉と出るのか、凶と出るのか。
横島には、まだ、わからない。ただ、掌から吸い込まれていく霊力の滑らかさが、酷く、不吉に思えた。
横島には、まだ、わからなかった。
「……上は」
横島は、話を変えるように、天井を、見上げた。
薄暗い天井の、そのずっと向こう。何層もの隔壁と、地面を隔てた先で、祭りが、始まろうとしている。
「学園祭だってよ。派手にやるみたいだぜ」
「……わかっている」
千冬は、目を閉じたまま、答えた。
「一夏も、いるのか」
「いるだろうよ。後輩の女の子たちと、わいわい、やってんじゃねえか。カフェだか海の家だかやるらしいけど」
「海の家、か」
千冬の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「……一夏というより、周りに、いる連中らしくは、あるな」
「あんたの弟は」
横島は、軽く言った。
「妙な連中に、好かれてる」
「……そうだな」
千冬の声が、ほんの少しだけ、変わった。
途切れ途切れの、かすれた声の、その奥に。ごく薄く、柔らかいものが、にじんだ。
「あいつは、たぶん。笑っていても……ここのことが頭から離れることはない」
横島は、千冬の横顔を、見た。
弟のことを口にするとき、千冬苦しげな声は、ほんの少しだけ、ほどける。張り詰めていたものが、わずかに、緩む。
「いい、弟さんだよ」
「……知っている」
千冬は、目を閉じたまま、言った。
「知っている、から」
ひと呼吸、間が、空いた。
「……巻き込み、たくは、なかった」
その声に、横島は、何も返せなかった。
返せる言葉が、なかった。あの夏、その弟を、巻き込んだのは、ほかでもない、横島自身だったからだ。
地下の部屋は、静かだった。
ナターシャは、液の中で、横島の注いだ力に撫でられて、少しずつ、人へ戻りながら、いちばん深いところは、まだ、遠くに、沈んでいる。
千冬は、ポッドの縁で、立てない脚を持て余している。
横島は、筒に掌を当てたまま、絶やさぬ細い力を、溜め続けている。その指先で、変わりゆく世界の手応えに、ひとり、耳を澄ませながら。
その頭上で。
祭りの灯が、ともり始めていた。
何層もの地面を、隔てた、その上で。
——その祭りの下に、何が、紛れ込もうとしているかも。
まだ、誰も、知らないままに。
◇
学園祭は、二日にわたって、開かれる。
その、前夜。
陽が落ちてからも、校舎のあちこちに、灯りが残っていた。明日の本番を前に、最後の仕上げをする生徒たちが、まだ、残っているのだ。窓の一つ一つに、ぽつ、ぽつと、明かりが点っている。外から見上げれば、校舎全体が、巨大な、灯籠のようだった。
一夏は、箒に引きずられるようにして、道場で汗を流したあと、その帰りに、一組の教室へ立ち寄った。
夜の校舎は、昼とは、まるで違う顔をしている。
人気の引いた廊下は、ひんやりと静かで、足音が、やけに、よく響いた。非常灯の、緑がかった淡い光が、長い廊下を、ぼんやりと照らしている。昼間の喧騒が嘘のように、しんと静まりかえっていた。
だが、教室の扉を開けた瞬間、その静けさは、吹き飛んだ。
「あっ、一夏! ちょうどいいところに!」
鈴が、脚立の上から、振り向いた。
教室は、すっかり、様変わりしていた。
窓という窓に、青と白の布が、波を模して、張り巡らされている。天井からは、紙で作った魚や、貝殻を模した飾りが、無数の糸で吊るされて、揺れていた。壁の一面には、誰が描いたのか、大きな海の絵。水平線と、夏の入道雲と、その上を飛ぶ、小さなISの影。よく見れば、その白いISの隣に、小さく、もう一機。誰かが、悪戯で描き足したのか、白式によく似た機影が、寄り添うように、飛んでいた。
カフェ、という当初の地味な出し物は、いつのまにか、「海の家」に、なっていた。
「すごいな、これ」
一夏は、思わず、声を上げた。
朝に見たときは、まだ、ただの教室に、布を張りかけているだけだった。それが、半日で、すっかり、別の場所に、化けている。
「でしょ?」
脚立の上の鈴が、得意げに、胸を張った。
「流れた臨海学校の分、ここで全部やるって、決めたの。どうせなら、海、持ってきちゃえって。教室ごと、ね」
「海を、持ってくる」
「そう。教室ごと」
その発想の、あまりの大胆さに、一夏は、笑ってしまった。
「電飾の配線、そっちで合ってる?」
教室の隅で、シャルロットが、床に這いつくばって、コードを繋いでいた。配線図らしき紙を片手に、端子を、一つ一つ、確かめている。
「ラウラ、スイッチ、入れてみて」
「了解した」
ラウラが、壁際のスイッチに、手をかけた。
一瞬の、間。
「いくぞ」
ラウラが、スイッチを、押す。
それから、天井の飾りが、淡く、光った。
吊るされた紙の魚が、内側に仕込まれた小さな電球で、ぼんやりと、発光する。青い布の波が、その光を受けて、ゆらゆらと、揺れて見える。床に這わせた電飾が、足元から、淡い光を、滲ませる。
教室の中が、海の底のような、淡い青に、染まった。
「……おお」
一夏は、息を、呑んだ。
それは、思いのほか、きれいだった。
紙と、布と、電球で作った、まがいものの海。けれど、その作りものの光の中に立っていると、本当に、夏の海の底に、いるような気持ちに、なった。光が、ゆらゆらと、天井で揺れている。まるで、水面を、下から見上げているようだった。
「綺麗、でしょう」
セシリアが、腕を組んで、満足げに、頷いた。
「配色計画と、導線設計は、わたくしの担当ですわ。光の透ける布の選定から、電飾の色温度の調整まで。チャリティ・バザーで培った、美的感覚を、いかんなく——」
「はいはい、セシリアのおかげおかげ」
「鈴さん、聞いておられまして?!」
「聞いてる聞いてる。すごいすごい。さすがイギリス」
「その、心のこもっていない相槌は、何ですの!」
いつもの、応酬だった。
だが、誰も、本気では、怒っていない。
光る教室の中で、五人が、それぞれの持ち場で、最後の仕上げを、している。脚立の上の、鈴。床の、シャルロット。スイッチの前の、ラウラ。配置を指図する、セシリア。そして、隅で、几帳面に、椅子を並べ直している、箒。
その光景を、一夏は、扉の前で、しばらく、眺めていた。
半年前。
この学園に来たばかりのころ、一夏は、この少女たちのことが、よく、分からなかった。強くて、個性が濃くて、距離の取り方が、分からない。自分だけが、ずっと、遅れているような気が、していた。
それが、今は。
「一夏、ぼーっとしてないで、手伝いなよ!」
「ああ、悪い」
呼ばれて、一夏は、教室に入った。
鈴に渡された飾りを、言われるまま、天井の糸に、吊るしていく。紙でできた、小さな貝殻の飾り。糸が、なかなか、結べない。
「もうちょっと右! あ、それじゃ高すぎ。下げて。あー、今度は下げすぎ!」
「どっちだよ」
「いいから! 私の言う通りにすれば、いいの!」
無茶な注文に、振り回されながら、それでも、一夏は、笑っていた。
「あ、そうだ。一夏、試してみる?」
ふと、鈴が、脚立を降りて、教室の奥を指した。
そこには、銀色の、かき氷機が、据えられていた。明日の、目玉商品だという。
「特製かき氷! 味見してよ。シロップ、私が調合したんだから」
「お前が、調合?」
「そう。中華街の、秘伝のレシピ。……は、嘘だけど。適当に混ぜた」
「適当なのかよ」
それでも、断る理由もない。一夏は、差し出された、小さな器を、受け取った。
青い、シロップのかかった、かき氷。海をイメージしたのだろう。スプーンで、一口、すくって、口に運ぶ。
「……あれ。うまい」
「でしょ!」
「いや、待て。なんか、後味が、変だ。塩……?」
「あ、それ、塩の効いたやつ。スイカに塩、的な。甘みが、引き立つでしょ」
「引き立つ、か……?」
一夏が、首を傾げていると、セシリアが、つかつかと、寄ってきた。
「お貸しなさい。わたくしが、審判して差し上げますわ。淑女の、繊細な舌で」
そう言って、一口。
次の瞬間、セシリアの顔が、見事に、固まった。
「……鈴さん」
「なによ」
「これは、かき氷では、ありませんわ。塩水の、かかった、氷ですわ」
「失礼ね! ちゃんと甘いでしょ!」
「甘さと、塩辛さが、殴り合っておりますの! これを、お客様に、出すおつもり?!」
「出すわよ! 売れるわよ! 斬新だもの!」
「斬新と、まずいは、違いますのよ!」
「あんたに言われたくない!」
また、始まった。
シャルロットが、まあまあ、と、割って入る。ラウラが、横から、ひょいと一口すくって、淡々と、「……私は、嫌いではない」と言って、二人を、黙らせる。
「ラウラさん?!」
「ラウラ、あんた、味覚……」
光る教室に、笑い声が、満ちていた。
一夏は、その輪の中で、もう一口、その妙なかき氷を、口に運んだ。
甘くて、しょっぱくて。おかしな、味だった。
昼間、道場の裏で、箒の竹刀を受けた時の痛みが、まだ掌にじんわりと残っている。
あの時、自分の無力さを思い知って、それでも背負う側になりたいと、空を見上げた。その重い決意と、目の前のばかばかしいほどの喧騒。
その二つの光景が、同じ一つの学園の中に、同時に、ある。
一夏は、その落差に、ときどき、立ちすくみそうに、なる。
——だが。
吊るした飾りが、淡く、光る。
その光を、見上げる鈴の横顔が、子供みたいに、無邪気で。
その隣で、シャルロットが、嬉しそうに、笑っていて。
ラウラが、二杯目のかき氷に、手を伸ばしていて。
セシリアが、それを見て、また何か、言おうとしていて。
ああ、そうか、と、一夏は、思った。
これを、守りたかったんだ。
横島が、自分の首を賭けてまで、姉を、取り戻そうとしたのも。
姉が、立てない脚で、それでも、弟を巻き込みたくなかったと、言ったのも。
きっと、こういうものを、守るためだ。
紙と布で、できた、作りものの海。
その下で、笑う、当たり前の、誰かの顔。
妙な味のかき氷で、馬鹿みたいに、言い合う、いつもの時間。
それを、当たり前のまま、明日も、明後日も、続けさせるために。
「一夏?」
ふと、気づくと、箒が、こちらを、見ていた。
椅子を並べる手を止めて、淡い青の光の中で、不思議そうに。
「どうした。また、妙な顔を、しているぞ」
「いや」
一夏は、首を振った。
「なんでもない。……ただ、いいな、って、思って」
「いい?」
「これ。海の家。みんなで、ばかみたいに、張り切ってるの」
箒は、少し、目を、見開いた。
それから、ふっと、口元を、ゆるめた。
「ばかみたいに、は、余計だ」
「悪い」
「だが」
箒は、光る教室を、ぐるりと、見回した。吊るされた魚。揺れる波。言い合う、鈴とセシリア。二杯目を食べる、ラウラ。
「……悪くない、とは、思う」
その横顔も、淡い青の光に、染まっていた。
いつも、生真面目に、引き結ばれている口元が、今は、わずかに、ほどけている。
「明日が、楽しみだな」
一夏は、言った。
本心、だった。
地下のことは、まだ、胸の奥に、重く残っている。それは、消えない。消えていいもの、でもない。
けれど、今夜だけは。
この、光る教室の中でだけは。
一夏も、ただの、一年生として。明日の祭りを、楽しみにしていたかった。
「ねえねえ、終わったらさ」
鈴が、脚立を、片付けながら、言った。
「明日、私たちの店、一番に来てよね、一夏。海の家の、特製かき氷。サービスしてあげるから」
「さっきの、塩のやつか……?」
「失礼ね! 明日までに、改良するわよ!」
「改良の余地しかないけどな」
「うるさい!」
シャルロットが、笑いながら、配線をまとめる。ラウラが、名残惜しそうに、かき氷機を見ている。セシリアが、明日の、紅茶の仕込みの話を、始める。
光る教室に、笑い声が、満ちていた。
明日は、祭りだ。
一年で、いちばん、騒がしくて、楽しい、二日間が、すぐ、そこまで、来ている。
「さ、今日は、ここまで。明日に備えて、もう、休もう」
シャルロットの一声で、五人は、片付けを始めた。
電飾の、スイッチを、切る。
淡い青の光が、消えて、教室は、また、ただの、暗い教室に、戻る。
けれど、暗闇の中にも、紙の魚の、輪郭が、窓からの月明かりに、ぼんやりと、浮かんでいた。
明日、また、ここに、光が、灯る。
そう思うと、一夏の胸も、少しだけ、明るくなった。
「じゃあな、また明日」
「うん、また明日」
「一夏、遅刻するんじゃないわよ!」
「しないって」
口々に言い交わして、五人と一人は、教室を、後にする。
窓の外は、もう、すっかり、夜だった。
学園を囲む海の、その向こうに、本土の灯りが、小さく、点々と、滲んでいる。
一夏は、廊下の窓から、ふと、その灯りを、見た。
無数の、小さな光の、群れ。
そのどこかで、明日も、誰かが、当たり前に、暮らしている。
その当たり前を、守るために、自分は、強くなりたい——そう、思った、ばかりだった。
だが。
一夏は、知らなかった。
その、本土の灯りの群れの、どこかに。
——いま、この祭りへ向けて、別のものたちが、静かに、近づきつつあることを。
その、海を渡る、いくつもの影が。
明日、この光る教室の、ずっと下を、目指していることを。
光る教室の中の、誰一人として。
まだ、知らなかった。
◇
本土の、名も無い港町。
夜の埠頭は、潮と油の匂いに沈んでいた。
岸壁には、使われなくなって久しいクレーンが、骨だけの影を夜空に晒している。塗装の剥げた鉄骨が、月のない空を背に、黒々とそびえていた。係留された小型船が、波に押されるたび、舷側を防舷材にこすりつけ、ぎい、ぎい、と規則正しい軋みを立てる。それ以外に、音はない。街の灯は遠く、ここまでは、ほとんど届かなかった。
その埠頭の隅に、一台のコンテナトラックが停まっていた。
エンジンは切られ、灯火も落とされている。誰の目も引かない場所だった。引いては、ならなかった。明日、それぞれが、何食わぬ顔で、表玄関から島へ渡る。そのための、最後の夜だった。だからこそ、今夜だけは、こんな場所で、顔を合わせる必要があった。
昼間の彼らは、別の顔を持っている。
ある者は、どこかの国の、対DD装備の、開発主任。ある者は、名の通った軍需企業の、技術顧問。ある者は、研究機関の、招かれた客員。——いずれも、れっきとした肩書きと、洗っても埃の出ない経歴を持つ、表の世界の住人だった。明日、彼らの名は、視察団の名簿に、何の不審もなく、並ぶだろう。
そうでなければ、この島へは、近づくことすら、できない。
各国の要人が、足を運ぶのだ。警備は、もはや、一国の催しの域では、なかった。聞けば、周辺の海域には、とうに、幾重もの封鎖線が、敷かれているという。素性の知れぬ者が、まぐれで紛れ込める、その程度の、甘い網では、ない。
通れるのは、本物だけだ。
本物の、肩書き。本物の、経歴。一点の曇りもない、表の顔。——それを持つ者だけが、堂々と、表玄関を、くぐれる。
その、本物の顔を持つ男たちが。
今は、灯火を落としたコンテナの中で、一つの作業灯を囲んで、座り込んでいる。
彼らは、無言だった。
手元で、機材を、検めている。指の動きには、迷いがなかった。長く、最前線で、満足な設備もない場所で、手を動かしてきた者の手つきだった。並べられた部品の中には、見慣れぬ形のものも、混じっている。市販の規格には、ない。明日、それぞれが、視察用の計測器具として、あるいは、ありふれた精霊石の機材として、堂々と、手荷物に紛れさせて、持ち込むものだった。
「巻紙は、手筈を整えたか」
一人が、手を止めずに、訊いた。
「ああ。『みつるぎ』の渉外担当として、明日、正規に入る。枠は、こちらで、押さえてある」
別の一人が、答えた。
「派手にやるんだろう。あの女は、いつもそうだ。表で、大きく暴れて、学園の目を、根こそぎ引きつける。狙いは、あの白い機体——ということに、しておく」
「囮としては、上等だな」
「ああ。名簿の上じゃ、埃一つ、ない女だ。暴れるのは、門をくぐって、からでいい。——だからこそ、せいぜい、派手に、目立ってもらわねば、困る」
それきり、また、沈黙が、落ちた。
彼らが、欲しいもの。
あの島の、どこかに、隠されているという、一人の女。銀の福音の、搭乗者。人の形を、半ば、超えたという。そして——それを、人の形に、押し留めているという、「何か」。
噂だった。裏を、取った者は、いない。だが、あの夏、海の上で、何かが起きた。コメリカが口をつぐみ、日本が黙した。その沈黙が、噂を、雄弁に、裏づけていた。
「……正気の沙汰じゃ、ないとは、思いますがね」
若い男が、手を止めて、言った。声に、ためらいが、滲んでいる。
「だが、その先だ。あの島の、いちばん奥。地下に隠されたものまで、俺たちが、本当に、たどり着けるんですか」
「図面は、ない」
最初に口を開いた男が、静かに、答えた。
「地下、と、踏んでいるだけだ。降りた先の、間取りまでは、誰も、知らん。——外れたら、それまでよ」
「なら——」
「平時なら、無理だ。蟻一匹、通さんだろう。あの学園の、地下は」
男は、手を止めない。
「だから、平時には、しない」
男は、手の中の部品を、灯にかざした。
「明日、表で、巻紙が暴れる。学園の目が、そちらへ、引きつけられる。——それだけでは、足りん。だから、海から、もう一つ。あれを、上乗せする。——もっとも、海のほうは、こちらの差配の外だ。いつ来るかは、あれの、気分次第よ」
あれ、が、何を指すのか。
若い男は、訊かなかった。訊けなかった。コンテナの、輪の外れに、それを担う者たちが、座っている。それを思うと、口が、重くなった。
「二重の、混乱だ」
男は、続けた。
「学園じゅうの、目という目、手という手が、根こそぎ、表と、海とに、割かれる。要人を守り、客を逃がし、降ってわいた脅威に、応じる。——その、ほんの一瞬。いちばん奥の、守りが、薄くなる。我々は、その隙に。客の顔のまま、奥へ、降りる」
「……俺たちが、ですか」
若い男の声が、掠れた。
「捨て駒を、雇って、走らせる、とかじゃ——」
「誰を、雇う」
男は、若者を、見た。
「素性の知れん者など、その封鎖線で、とうに、はじかれる。表玄関を、くぐれるのは、我々だけだ。本物の顔を、持つ、我々だけ。——だから、我々が、行く。自分の足で。自分の手で」
コンテナの中が、しん、と、静まった。
若い男は、俯いた。
自分の手は汚さず、汚れ役は外から買う。それが、これまでの、彼らの流儀だったはずだ。表の顔を、汚さぬための、分別。だが、今度ばかりは、それが、通らない。本物しか、入れない。だから、本物が、手を汚すしか、ない。
「怖い、なら」
最初の男の声が、わずかに、和らいだ。
「降りても、いい。今夜のうちなら、まだ。明日、名簿から、お前の名を、消すだけだ」
「……いえ」
若い男は、首を、振った。
「行きます。——ここまで、来たんだ」
その指先が、わずかに、震えているのを、男は、見て見ぬふりを、した。
誰もが、知っていた。
明日、何人が、帰ってこられるか。それは、誰にも、わからない。本物の顔を持つ、表の住人。だが、その顔を捨ててでも、手を伸ばしたい先が、彼らには、あった。委員会の許す範囲の、その、すぐ向こう。コアの統制の、その、外側。
一度でいい。あの線の、向こうへ。
それが、彼らを、この、正気でない賭けへと、駆り立てていた。
コンテナの、輪の外れに。
別の一団が、いた。
機材を検める男たちとは、座る位置も、纏う空気も、どこか、隔たっていた。彼らは、機材を、検めてはいなかった。代わりに、それぞれが、手の中の、小さなものを——首から提げた、革紐の先の、黒い欠片を、しきりに、撫でている。
数は、四人。あるいは、五人。
誰も、口を、きかない。ただ、同じ仕草で、同じ欠片を、撫で続けている。その光景は、向かいの男たちから見れば、ささやかな、けれど、拭いきれない、不気味さを、湛えていた。
その中心に、一人。
最も古く、最も静かな、男が、いた。
彼の経歴は、この一団の中で、最も、磨き上げられていた。撤退した、南半球。第三世界の、対DD防衛の、最前線。その、技術的な要職に、長く、あった男だった。DDが、人を、土地を、どう踏み潰すか。それを、書物の上でなく、目の前で、嫌というほど、見てきた男。
だから、委員会も、企業も、こぞって、彼を欲しがった。
彼を。
彼「は」、選ばれた。優秀だから、と。安全な、線の内側へ、引き上げられた。
その時、彼が、後に残してきたものは——大半が、選ばれなかった。
彼の土地は、撤退された。線が、引かれた。才ある者だけが、こちら側へ。それ以外は、そのまま、そこへ、置き去りに。——彼は、選ばれた側にいた。掬われた、ひと握りの側に。残してきた、大勢を、背に。
「……あんたらも、地下へ、来るんだろう」
機材の輪のほうから、最初に口を開いた男が、その一団へ、声を、かけた。
答えは、すぐには、なかった。
「お前たちとは、求めるものが、違うがな」
中心の男が、静かに、言った。
「あれは、お前たちのものだ。女も、それを留める何かも。価値のために、奪えばいい。——我々は、ただ、あれを、この目で、見たいだけだ。人の形を、超えたものを。線の、向こう側を」
「……同じ、女のもとへ。別々の、用で、か」
「ああ。同じ、場所へ」
男は、首の欠片を、撫でた。
「呼ぶほうは、もう、済んでいる。ゆうべのうちに、海へ、放った。あとは、あれが、ひとりでに、島へ近づく。——我々が、すべきことは、もう、地下にしか、ない」
声をかけた男は、それ以上、訊かなかった。
訊いたところで、分かり合えないことを、知っていた。
この、欠片を撫でる男たちが、何のために、ここにいるのか。混乱を、起こすため——それは、向かいの男たちにとっては、手段だった。地下へ、たどり着くための。だが、この男たちにとっては、混乱そのものが、目的だった。あれを、呼び寄せ、この、守られた島へ、解き放つこと。それ自体が。
「……怖いか」
ふいに、中心の男が、言った。
あの、若い男へ、向けた言葉だった。責める響きは、ない。むしろ、いたわるような、穏やかな声音だった。だからこそ、聞いた者の、背筋を、ぞわりと、撫でた。
若い男は、答えられなかった。
「怖くて、いい」
男は、黒い欠片を、ひどく慈しむように撫でながら、続けた。
「私も、ずっと、怖かった。あれが、すべてを平等に踏み潰していくのが。……我々は、線を引く。優秀な人間だけを内側へ引き上げ、そうでない人間を、線の向こうへ置き去りにする。そうやって、生き延びてきた」
向かいの男たちも、口を、挟まなかった。
この男が、かつて第三世界の最前線で何を見て、誰を見捨ててここへ引き上げられたか。それを皆、知っていた。
「だが、ある時、気づいたのだ」
男の声が、熱を帯びて、低く、沈んだ。
「あれは——ただの一度も、人間を選ばなかった。線を引いた内側の人間も、見捨てられた外側の人間も。賢い者も、愚かな者も。何ひとつ区別せず、美しいまでに等しく、踏み潰していった。……あれだけだ。あれだけが、誰のことも、決してえこひいきしなかった」
男は、黒い欠片を、祈るように握り込んだ。
その先を、男は、言わなかった。
言う必要が、なかった。
握りしめた、その黒い欠片が、すべてを、語っていた。それが、もとは、何であったのか。彼が、線の向こうに置いてきた、無数の命の、そのたった一つの、残り。
「私は、見せたいだけだ」
男は、コンテナの扉の、その隙間の、向こうを、見た。
夜の海。そして、遥かな沖に、ぽつりと滲む、島の灯り。明日、祭りで、いっそう明るく光るはずの、あの島が。
線を引いて、誰かを内に容れ、誰かを外へ弾く。その、傲慢な秩序の、灯り。
男の目は、その灯りの、さらに向こうを、見ていた。海と空の境さえ溶けた、夜の闇の、もっと奥を。まるで、そこに、何かが、いるかのように。
何を、見せたいのか。
男は、言わなかった。
あの、守られた島に。線の、内側で、安穏と笑う者たちに。——お前たちと、私の同胞と、何の違いも、ありはしなかったのだと。あれの前では、誰も、等しいのだと。それを、見せつけたい。
あるいは、ただ、見たいだけ、なのかもしれなかった。
線を引かぬものが、線を、踏み越えていく様を。
失ったものは、もう、還らない。人間の世界では、決して。だが——人の引いた線の、その、外側からなら。
いつか。
男は、本気で、そう信じていた。そして、その隣で、欠片を撫でる男たちも、同じ夢を、見ていた。
「……灯りを、消せ」
機材の輪のほうから、最初の男が、低く、言った。
「明日に備えて、休む。——表の顔も、今夜で、見納めかもしれん。せいぜい、いい夢を、見ておけ」
作業灯が、消えた。
コンテナの中が、闇に、沈む。
それきり、男たちは、何も言わなかった。
扉の隙間から差し込む、わずかな星明かりの中で。黒い欠片を握った男たちだけが、なおも、海の向こうを、見つめ続けていた。
その沖の果てで。
IS学園の島は、明日の祭りを待って、こうこうと、灯りをともしている。
紙の魚が光る、海の家。
最後の飾りつけに、はしゃぐ少女たち。
立てない脚で、地下に横たわる、一人の女。
少しずつ、人へと削り戻されていく、もう一人の女。
冷めたコーヒーの前で、ポッドに掌を当て、絶やさぬ力を注ぎ続ける、一人の男。
そのすべての上に、祭りの灯が、明るく、ともっている。
何も、知らずに。
その灯りへ向けて、明日、何が、招かれようとしているのかも、知らずに。
明日。
祭りが、始まる。
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