ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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2026.06.12 最終パート改定


18話(後) 

 

 

 

 

 

 

 学園の地下に、その区画はあった。

 

 正規の見取り図には、載っていない。エレベーターの行き先表示にも、その階は、存在しないことになっている。たどり着くには、いくつもの認証と、いくつもの隔壁を、抜けねばならない。掌をかざす。網膜を読ませる。古い鉄の扉が、低い駆動音を立てて、ゆっくりと開く。それを、何度も繰り返して、ようやく、いちばん奥へ至る。そこを通れる者は、学園広しといえど、片手の指で足りるほどしか、いなかった。

 

 祭りのざわめきは、ここまでは、届かない。

 

 届くのは、機械の低い唸りと、空調がたてる、単調な風の音。それから、時折、計器が思い出したように立てる、電子的な囁きだけだった。

 

 光は、乏しい。

 

 天井の照明は、最小限に絞られている。部屋の大半は、薄暗い。明るいのは、中央に据えられた円筒形の装置の、その内側だけだった。

 

 治療ポッド。

 

 ひと抱えもある太い硝子の筒の中に、淡く青みがかった培養液が、満たされている。光は、その液の底から、ゆっくりと脈打つように、滲み出していた。呼吸のように、明るくなっては、また、翳る。明るくなっては、翳る。その緩やかな明滅だけが、薄暗い部屋の中で、唯一の、生きているもののように見えた。

 

 液の中に、一人の女が、浮かんでいた。

 

 ナターシャ・ファイルス。

 

 銀の福音の、搭乗者だった女。

 

 ——だった、と、過去形で言うしかない姿だった。

 

 長い髪が、海草のように、液の中へ広がっている。閉じた瞼。投げ出された四肢。そこまでは、たしかに、人の女のかたちをしている。

 

 だが、その輪郭は、ところどころで、人のものでは、なかった。

 

 肩から肘にかけての皮膚が、硬く、鱗のように節くれだっている。背には、骨と皮膜の中間のような、不吉な突起の、名残がある。指の先は、爪というには長く、鉤のように、湾曲しかけていた。

 

 人の形が、八割がた、別の何かに、塗り替えられかけている。

 

 そういう姿だった。

 

 獣に近い波形が、装甲の内側で軋んでいた——あの夏、横島が、海の上で感じたもの。それは、いまも、この女の身体の表面に、はっきりと、刻まれている。

 

 ただ。

 

 注意深く、見れば、分かる。

 

 その鱗じみた皮膚の、ところどころが、薄い人肌の色を、取り戻し始めていた。湾曲しかけた指の先が、わずかに、まっすぐに、戻りかけている。

 

 ほんの少しずつ。

 

 気が遠くなるほど、ゆっくりと。

 

 その筒の正面に、横島忠夫が、座っていた。

 

 くたびれたパイプ椅子に、浅く腰かけ、片手を、硝子の筒に、添えている。

 

 ただ、添えているだけ、に見える。

 

 だが、その掌からは、細い霊力が、流れ込んでいた。

 

 目には、見えない。音も、しない。横島の掌から、ポッドの中へ。ごく細く、ごく弱く、絶やさぬように、霊力が、注がれていく。

 

 ポッドは、その力を、溜め込んでいた。

 

 もともと、霊体すら捕らえて留めおく装置だ。霊力を、ただ溜めて保つくらい、造作もない。横島が注いだ力は、筒の内に蓄えられ、彼がそばを離れている間も、ゆっくりと、ナターシャを人へ戻すために、使われ続ける。

 

 おかげで、横島とて、四六時中、ここに張りついている必要は、ない。蓄えが満ちるまで注いだら、離れて、仮眠もとれる。飯も食える。蓄えが細るころに、また来て、注ぎ足す。——その繰り返しだった。

 

 もっとも。

 

「満ちるまで注ぐ」というのが、曲者だった。

 

 霊力を、一気に放つだけなら、容易い。斬る。祓う。鎮める。瞬間に、ありったけを叩きつける。それが、横島の、本来の戦い方だった。

 

 だが、これは、逆だ。

 

 弱い力を、一定に、保ち続ける。

 

 強すぎれば、ナターシャの、ほどけかけた霊体を、かえって傷つける。弱すぎれば、人へ戻す力が、届かない。蓄える先が、溢れも、枯れもせぬよう。その、針の穴を通すような細さを、満ちるまでの長いあいだ、絶やさずに、維持し続ける。

 

 瞬間の爆発よりも、持続の制御のほうが、難しい。

 

 それを、横島は、知っていた。

 

 GS、同業に古い名家の天才がいた。あの女性は、こともなげに、それをやってのけた。低く、細く、絶やさぬ力を、無造作に保ちながら、欠伸の一つもしてみせた。意識すらしていなかったかもしれない。天才とは、ああいうものを言うのだと、横島は、当時、舌を巻いたものだ。自分には、まだ、あそこまでの余裕は、ない。気を抜けば、たちまち、力が、揺らぐ。

 

 それでも。

 

 このひと月あまりで、注ぎ方には、ずいぶん、慣れた。

 

 慣れたく、もなかったが。

 

 ——謹慎、という名目で、地下に押し込められているのは、横島にとって、皮肉なほど、好都合だった。表に出る用がないからこそ、こうして、何時間でも、注いでいられる。誰にも、咎められずに。

 

「……戻すのは、壊すより、ずっと、手間だな」

 

 誰にともなく、横島は、つぶやいた。

 

 声は、低かった。地下の空気に、すぐに、吸い込まれて消える。

 

 掌の力を、絶やさぬまま。

 

 DDを、祓うだけなら。横島には、もっと、容易い。だが、この女に必要なのは、断ち切ることでは、なかった。

 

 すでにDDへ傾きかけたものを、引き戻すこと。傷つけずに、削り損なわずに、もとの人の形へ、一筋ずつ、戻していくこと。

 

 それは、横島の本来の仕事の、ちょうど、裏返しだった。

 

 祓い手が、祓わずに、抱え込む。

 

 慣れない仕事だ、と、横島は思う。

 

 このポッドそのものは、横島の作ったものでは、ない。

 

 束の、設計だった。

 

 横島は、この装置が、もともと、何のための機械だったのかを、知っていた。

 

 霊体を、傷つけずに、保つ。沈めて、留めて、ほどけかけた魂を、つなぎとめる。霊力を、溜め込み、蓄える。——それは、たしかに、治療に、使える。

 

 だが、同じ機構は、わずかに、向きを変えれば。

 

 ほどけかけた魂を、留め、容れ物へ、移すための装置にも、なる。

 

 ISのコアを、つくるための。

 

 横島がいま、自前の霊力を溜め込ませ、必死に人へ戻そうとしているこの筒は、本来、その逆をやるために、設計されている。救うための機械と、材料にするための機械が、同じ一つの筒の中に、何食わぬ顔で、同居している。横島は、その禍々しい機械を、本来とは逆の向きに、無理やり、ねじ曲げ、自分の霊力で、押し戻していた。

 

 それを思うたび、横島の胸の底に、苦いものが、滲む。

 

 だが、今は、それしか、手が、なかった。

 

「……材料になんざ、させねえよ」

 

 液の中の女へ、横島は、ぽつりと、言った。

 

 聞こえるはずも、ない。

 

 返事を、期待しても、いない。

 

 それでも、言わずには、いられなかった。

 

 部屋の、壁際。

 

 ナターシャのものより、一回り小さい、開放型のポッドが、あった。

 

 その縁に、織斑千冬が、半身を、預けていた。

 

 毛布が、その肩に、きちんと、かけられている。枕の位置も、整えられていた。ついさっきまで、誰かが、付き添っていた跡だった。

 

 この区画には、横島のほかにも、出入りする者が、いる。

 

 山田真耶。

 

 そして、彼女が束ねる、ごく限られた、専任のスタッフたち。

 

 彼らが、交代で、地下の管制を回し、ナターシャの容態を見張り、そして、目覚めかけた千冬の、身の回りの世話をしている。立てない身体を支え、食事を運び、汗を拭く。最強と謳われた女が、自分では何一つできない、その日々の世話を。

 

 だが、その頭数も、ぎりぎりだった。

 

 この区画の存在を知る者は、ごくわずか。ならば、ここへ立ち入れる者も、その世話をできる者も、おのずと、限られる。秘匿という防壁は、同時に、人手という意味では、痩せた壁でもあった。守るべきものを隠せば隠すほど、それを支える手は、細くなる。

 

 真耶も、管制と世話の両方を抱えて、休む間もない。

 

 ついさっき、彼女が、千冬の世話を終えて、上の管制室へ戻っていった。次に誰かが来るまでの、わずかな、手の空いた時間。

 

 その合間に、横島が、一人、ポッドに掌を当てて、座っている。

 

 だから今は、この広い地下に、目を覚ましている者は、横島と、千冬の、二人きりだった。

 

「……ずいぶん、優しい声を、出すんだな」

 

 声は、かすれていた。

 

 横島は、振り返る。だが、掌は、筒から、離さない。注ぎかけの力を、ここで切らすわけには、いかなかった。

 

 千冬は、ポッドの縁に背を凭せかけ、上半身を、わずかに起こしていた。だが、その姿勢を保つだけでも、苦しげだった。胸が、浅く、速く、上下している。額には、薄く、汗が滲んでいた。

 

 あの夏の直後よりは、顔色は、戻っている。だが、それだけだ。眼の奥の光は、まだ、濁っている。声には、あの、鋭さが、ほとんど帰っていない。

 

「起きてたのか」

 

 横島が言うと、千冬は、ゆっくりと、瞬きをした。

 

「眠っていた。たぶん。だが、お前が、独り言を、言うから」

 

 言葉が、途切れる。

 

「……うるさくて、目が、覚めた」

 

「そりゃ、悪かったな。真耶ちゃんが、せっかく、寝かしつけてくれたのに」

 

「……あいつには、世話を、かけている」

 

 千冬は、目を伏せた。

 

「管制も、私の世話も。手の足りんなかで……すまんと、思っている」

 

「お前が気に病むこっちゃねえよ。あいつは、好きでやってる。——ま、ちっと、働かせすぎではあるけどな」

 

 千冬は、自分の脚へ、目を落とした。

 

「足は」

 

 横島が尋ねると、千冬は、ほんの少し、それを、動かそうとした。

 

 つま先が、わずかに、震える。それきり、だった。

 

「……動か、ん」

 

 ひと言、絞り出すように言って、千冬は、息をついた。

 

「立とうと、すると……身体の、芯から、力が、抜けていく。自分の脚なのに……自分のものでは、ないようだ」

 

「無理すんなって」

 

「無理は、せん」

 

 千冬は、目を閉じた。

 

「立てんものは、立てん。それくらいは……わかる」

 

 その声に、痛みの色は、なかった。ただ、焦燥だけが、薄く、にじんでいた。

 

 最強であったはずの自分が、ポッドの縁から、立ち上がることすら、できない。人に、身の回りの世話を、委ねなければならない。意識は、戻った。だが、身体が、自分の意志に、まるで、追いついてこない。

 

 それが、千冬には、何より、こたえているようだった。

 

 横島には、それが、よく、わかった。

 

 だから、軽く、言った。

 

「お前は、浅瀬にいたんだよ」

 

「浅瀬」

 

「そこの、ナターシャに比べりゃ、な」

 

 横島は、大きなポッドへ、顎を、しゃくった。

 

「深いとこまでは、沈められてなかった。引き戻すのに、手間は、かからなかった。あとは——時間だ。時間が経てば、戻る。それだけは、確かだ」

 

「……お前が、言うと」

 

 千冬は、薄く、笑おうとした。うまく、笑えなかった。

 

「説得力が、あるんだか、ないんだか……わからん、な」

 

「失礼な」

 

「事実、だろう」

 

 会話は、途切れがちだった。

 

 千冬が、ひと言を、絞り出すたびに、間が、空く。横島は、その間を、急かさなかった。ただ、待った。掌の霊力を、絶やさぬように、気を配りながら。

 

 部屋には、また、機械の低い唸りだけが、満ちた。

 

 千冬の視線が、ゆっくりと、ナターシャの浮かぶ、大きなポッドへ、移っていった。

 

「あれは」

 

 千冬が、言った。

 

「……良く、なって、いるのか」

 

「少しずつ、な」

 

 横島は、答えた。

 

「見かけは、ひでえもんだろ。八割がた、あっち側に、持ってかれてた。それを、いま、こっちへ——人の側へ、一筋ずつ、引き戻してる。鱗を、削って。爪を、戻して。一日で、髪の毛一本ぶんも、進みゃしねえけどな」

 

「引き戻せる、のか」

 

「見かけは、戻せるだろうよ」

 

 横島は、言葉を、選んだ。

 

「鱗だの、爪だの……表に出ちまったもんは、削って、人の形に、戻せる。時間さえ、かければな。だけど」

 

「だけど?」

 

 千冬が、先を、促した。

 

 横島は、しばらく、黙った。掌の下で、液が、静かに、脈打っている。

 

「……いちばん奥の、芯のところが、まだ、こっちを向いて、くれねえ」

 

 低い声だった。

 

「身体は、人に、戻せる。けど、その中身が——ナターシャ自身が、人として、目を覚ますかどうかは、別の話だ。器を、いくら綺麗にしても、中身が、帰ってこなけりゃ、意味がねえ。そこだけは、俺の手にも、まだ、負えねえ」

 

 千冬は、それきり、何も言わなかった。

 

 横島も、口を、つぐんだ。

 

 ただ、二人で、液の中のナターシャを、見ていた。

 

 少しずつ、人へ戻りつつある、けれど、いちばん深いところは、まだ、遠い場所に沈んだままの、一人の女性を。

 

 やがて。

 

 千冬が、ぽつりと、言った。

 

「……あいつは」

 

「ん?」

 

「束は。どうした」

 

 横島は、空いている方の手で、机の上の缶コーヒーに、手を伸ばした。とうに、冷めている。一口だけ含んで、顔をしかめた。

 

「いねえんだよ。ここんとこ、ずっと」

 

「学園にも、か」

 

「顔も、出してねえな」

 

 横島は、缶を、置いた。

 

「俺にも、はっきりとは、わからん。あいつ、行き先なんざ、いちいち言わねえからな」

 

 それは、嘘では、なかった。

 

 束が、どこで、何をしているのか。横島は、確かなことは、何も、聞かされていない。

 

 ただ。

 

 見当だけは、ついていた。

 

 ナターシャが、なぜ、ここまで深く、反転したのか。福音のコアの暴走が、なぜ、これほどの「持っていかれ方」を、起こしたのか。——あの女は、それが、よほど、引っかかっているようだった。

 

 そして、その答えを探す先が、この世界の内側には、ない。

 

 横島には、それだけは、わかる。コアも、DDも、もとを辿れば、この世界が、本来は持っていなかったものだ。その理屈の根を、掘ろうとすれば、いずれ、この世界の縁の、その外側に、触れることになる。束は、たぶん、そこへ、手を伸ばしている。

 

 どこへ、誰のところへ、とまでは、横島にも、わからない。

 

 ただ、向いている方角だけは、なんとなく、察しがつく。

 

 だが、それも、確かめたわけでは、なかった。

 

 だから、横島は、それ以上は口にしなかった。

 

「あいつのことだ」

 

 代わりに、横島は、軽く言った。

 

「気が向きゃ、ふらっと、帰ってくるさ。手土産に、ろくでもねえ土産話を、抱えてな。で、こっちが、それを聞いて、頭を抱えるんだ。いつものことさ」

 

「……だろう、な」

 

 千冬は、薄く、息を吐いた。

 

 それきり、また、沈黙が、落ちた。

 

 ふと、横島の視線が、机の上へ、流れた。

 

 そこに、白い珠が、いくつか、転がっている。

 

 文珠。

 

 いざというときの、戦いのための切り札だ。治療には、使わない。あれは、霊力を込めて固めた、いわば、撃ち放つための弾だ。こうして、誰か一人を、そっと人へ戻すような、細やかな真似には、あまり向かない。

 

 治療に霊力を費やしている今は、簡単には増えない事情もあった。

 

 だから、横島は、自分の手で、やっている。

 

 弾を撃つのではなく。掌から、絶やさず、注ぎ、溜めることで。

 

 ——ふと。

 

 掌の下の、霊力の流れに、横島は、わずかな、違和感を覚えた。

 うまく、言葉にできない。

 

 ただ、注いでいる力の「通り」が、この世界へ来た当初とは、微かに、しかし決定的に違っている。

 

 この世界は、霊力がなく、神も悪魔も生まれない。GSの自分が立っていても、足の裏にはからっぽの虚無しか響いてこない、どこまでも乾いた大地だったはずだ。

 

 それが、いま。

 

 込めようとする力が、すっと、馴染むように吸い込まれていく。まるで、からからにひび割れていた土壌が、見えない水気を帯びて、じわりと底無し沼に変わり始めているような——背筋を這い上がるような感覚。

 

 DDが、霊力の濃い土地へ集まる。ISが、魂を燃やして、空を飛ぶ。文珠が、この世界の片隅で、ちいさな光を、点す。

 

 そうした波紋が、この乾いた世界に、少しずつ、確かな「匂い」を染み込ませている。

 

 ——この世界は、今、創世記なのさ。

 

 いつか、束が笑いながら言った言葉が、不意に、重くよぎった。

 横島は、掌に、わずかに、意識を集め直した。

 

 この世界の空気が、「濃く」なっていく、ということは。

 

 それはつまり。今までこの世界を見つけられなかった、外側の暗闇にいる『何か』が——この世界の匂いを嗅ぎつけられるようになる、ということだ。

 それが、吉と出るのか、凶と出るのか。

 

 横島には、まだ、わからない。ただ、掌から吸い込まれていく霊力の滑らかさが、酷く、不吉に思えた。

 

 横島には、まだ、わからなかった。

 

「……上は」

 

 横島は、話を変えるように、天井を、見上げた。

 

 薄暗い天井の、そのずっと向こう。何層もの隔壁と、地面を隔てた先で、祭りが、始まろうとしている。

 

「学園祭だってよ。派手にやるみたいだぜ」

 

「……わかっている」

 

 千冬は、目を閉じたまま、答えた。

 

「一夏も、いるのか」

 

「いるだろうよ。後輩の女の子たちと、わいわい、やってんじゃねえか。カフェだか海の家だかやるらしいけど」

 

「海の家、か」

 

 千冬の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。

 

「……一夏というより、周りに、いる連中らしくは、あるな」

 

「あいつは」

 

 横島は、軽く言った。

 

「妙な連中に、好かれてる」

 

「……そうだな」

 

 千冬の声が、ほんの少しだけ、変わった。

 

 途切れ途切れの、かすれた声の、その奥に。ごく薄く、柔らかいものが、にじんだ。

 

「あいつは、たぶん。笑っていても……ここのことが頭から離れることはない」

 

 横島は、千冬の横顔を、見た。

 

 弟のことを口にするとき、千冬苦しげな声は、ほんの少しだけ、ほどける。張り詰めていたものが、わずかに、緩む。

 

「いい、弟さんだよ」

 

「……知っている」

 

 千冬は、目を閉じたまま、言った。

 

「知っている、から」

 

 ひと呼吸、間が、空いた。

 

「……巻き込み、たくは、なかった」

 

 その声に、横島は、何も返せなかった。

 

 返せる言葉が、なかった。あの夏、その弟を、巻き込んだのは、ほかでもない、横島自身だったからだ。

 

 地下の部屋は、静かだった。

 

 ナターシャは、液の中で、横島の注いだ力に撫でられて、少しずつ、人へ戻りながら、いちばん深いところは、まだ、遠くに、沈んでいる。

 

 千冬は、ポッドの縁で、立てない脚を持て余している。

 

 横島は、筒に掌を当てたまま、絶やさぬ細い力を、溜め続けている。その指先で、変わりゆく世界の手応えに、ひとり、耳を澄ませながら。

 

 その頭上で。

 

 祭りの灯が、ともり始めていた。

 

 何層もの地面を、隔てた、その上で。

 

 ——その祭りの下に、何が、紛れ込もうとしているかも。

 

 まだ、誰も、知らないままに。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 学園祭は、二日にわたって、開かれる。

 

 その、前夜。

 

 陽が落ちてからも、校舎のあちこちに、灯りが残っていた。明日の本番を前に、最後の仕上げをする生徒たちが、まだ、残っているのだ。窓の一つ一つに、ぽつ、ぽつと、明かりが点っている。外から見上げれば、校舎全体が、巨大な、灯籠のようだった。

 

 一夏は、箒に引きずられるようにして、道場で汗を流したあと、その帰りに、一組の教室へ立ち寄った。

 

 夜の校舎は、昼とは、まるで違う顔をしている。

 

 人気の引いた廊下は、ひんやりと静かで、足音が、やけに、よく響いた。非常灯の、緑がかった淡い光が、長い廊下を、ぼんやりと照らしている。昼間の喧騒が嘘のように、しんと静まりかえっていた。

 

 だが、教室の扉を開けた瞬間、その静けさは、吹き飛んだ。

 

「あっ、一夏! ちょうどいいところに!」

 

 鈴が、脚立の上から、振り向いた。

 

 教室は、すっかり、様変わりしていた。

 

 窓という窓に、青と白の布が、波を模して、張り巡らされている。天井からは、紙で作った魚や、貝殻を模した飾りが、無数の糸で吊るされて、揺れていた。壁の一面には、誰が描いたのか、大きな海の絵。水平線と、夏の入道雲と、その上を飛ぶ、小さなISの影。よく見れば、その白いISの隣に、小さく、もう一機。誰かが、悪戯で描き足したのか、白式によく似た機影が、寄り添うように、飛んでいた。

 

 カフェ、という当初の地味な出し物は、いつのまにか、「海の家」に、なっていた。

 

「すごいな、これ」

 

 一夏は、思わず、声を上げた。

 

 朝に見たときは、まだ、ただの教室に、布を張りかけているだけだった。それが、半日で、すっかり、別の場所に、化けている。

 

「でしょ?」

 

 脚立の上の鈴が、得意げに、胸を張った。

 

「流れた臨海学校の分、ここで全部やるって、決めたの。どうせなら、海、持ってきちゃえって。教室ごと、ね」

 

「海を、持ってくる」

 

「そう。教室ごと」

 

 その発想の、あまりの大胆さに、一夏は、笑ってしまった。

 

「電飾の配線、そっちで合ってる?」

 

 教室の隅で、シャルロットが、床に這いつくばって、コードを繋いでいた。配線図らしき紙を片手に、端子を、一つ一つ、確かめている。

 

「ラウラ、スイッチ、入れてみて」

 

「了解した」

 

 ラウラが、壁際のスイッチに、手をかけた。

 

 一瞬の、間。

 

「いくぞ」

 

 ラウラが、スイッチを、押す。

 

 それから、天井の飾りが、淡く、光った。

 

 吊るされた紙の魚が、内側に仕込まれた小さな電球で、ぼんやりと、発光する。青い布の波が、その光を受けて、ゆらゆらと、揺れて見える。床に這わせた電飾が、足元から、淡い光を、滲ませる。

 

 教室の中が、海の底のような、淡い青に、染まった。

 

「……おお」

 

 一夏は、息を、呑んだ。

 

 それは、思いのほか、きれいだった。

 

 紙と、布と、電球で作った、まがいものの海。けれど、その作りものの光の中に立っていると、本当に、夏の海の底に、いるような気持ちに、なった。光が、ゆらゆらと、天井で揺れている。まるで、水面を、下から見上げているようだった。

 

「綺麗、でしょう」

 

 セシリアが、腕を組んで、満足げに、頷いた。

 

「配色計画と、導線設計は、わたくしの担当ですわ。光の透ける布の選定から、電飾の色温度の調整まで。チャリティ・バザーで培った、美的感覚を、いかんなく——」

 

「はいはい、セシリアのおかげおかげ」

 

「鈴さん、聞いておられまして?!」

 

「聞いてる聞いてる。すごいすごい。さすがイギリス」

 

「その、心のこもっていない相槌は、何ですの!」

 

 いつもの、応酬だった。

 

 だが、誰も、本気では、怒っていない。

 

 光る教室の中で、五人が、それぞれの持ち場で、最後の仕上げを、している。脚立の上の、鈴。床の、シャルロット。スイッチの前の、ラウラ。配置を指図する、セシリア。そして、隅で、几帳面に、椅子を並べ直している、箒。

 

 その光景を、一夏は、扉の前で、しばらく、眺めていた。

 

 半年前。

 

 この学園に来たばかりのころ、一夏は、この少女たちのことが、よく、分からなかった。強くて、個性が濃くて、距離の取り方が、分からない。自分だけが、ずっと、遅れているような気が、していた。

 

 それが、今は。

 

「一夏、ぼーっとしてないで、手伝いなよ!」

 

「ああ、悪い」

 

 呼ばれて、一夏は、教室に入った。

 

 鈴に渡された飾りを、言われるまま、天井の糸に、吊るしていく。紙でできた、小さな貝殻の飾り。糸が、なかなか、結べない。

 

「もうちょっと右! あ、それじゃ高すぎ。下げて。あー、今度は下げすぎ!」

 

「どっちだよ」

 

「いいから! 私の言う通りにすれば、いいの!」

 

 無茶な注文に、振り回されながら、それでも、一夏は、笑っていた。

 

「あ、そうだ。一夏、試してみる?」

 

 ふと、鈴が、脚立を降りて、教室の奥を指した。

 

 そこには、銀色の、かき氷機が、据えられていた。明日の、目玉商品だという。

 

「特製かき氷! 味見してよ。シロップ、私が調合したんだから」

 

「お前が、調合?」

 

「そう。中華街の、秘伝のレシピ。……は、嘘だけど。適当に混ぜた」

 

「適当なのかよ」

 

 それでも、断る理由もない。一夏は、差し出された、小さな器を、受け取った。

 

 青い、シロップのかかった、かき氷。海をイメージしたのだろう。スプーンで、一口、すくって、口に運ぶ。

 

「……あれ。うまい」

 

「でしょ!」

 

「いや、待て。なんか、後味が、変だ。塩……?」

 

「あ、それ、塩の効いたやつ。スイカに塩、的な。甘みが、引き立つでしょ」

 

「引き立つ、か……?」

 

 一夏が、首を傾げていると、セシリアが、つかつかと、寄ってきた。

 

「お貸しなさい。わたくしが、審判して差し上げますわ。淑女の、繊細な舌で」

 

 そう言って、一口。

 

 次の瞬間、セシリアの顔が、見事に、固まった。

 

「……鈴さん」

 

「なによ」

 

「これは、かき氷では、ありませんわ。塩水の、かかった、氷ですわ」

 

「失礼ね! ちゃんと甘いでしょ!」

 

「甘さと、塩辛さが、殴り合っておりますの! これを、お客様に、出すおつもり?!」

 

「出すわよ! 売れるわよ! 斬新だもの!」

 

「斬新と、まずいは、違いますのよ!」

 

「あんたに言われたくない!」

 

 また、始まった。

 

 シャルロットが、まあまあ、と、割って入る。ラウラが、横から、ひょいと一口すくって、淡々と、「……私は、嫌いではない」と言って、二人を、黙らせる。

 

「ラウラさん?!」

 

「ラウラ、あんた、味覚……」

 

光る教室に、笑い声が、満ちていた。

 

 一夏は、その輪の中で、もう一口、その妙なかき氷を、口に運んだ。

 

 甘くて、しょっぱくて。おかしな、味だった。

 

 昼間、道場の裏で、箒の竹刀を受けた時の痛みが、まだ掌にじんわりと残っている。

 

 あの時、自分の無力さを思い知って、それでも背負う側になりたいと、空を見上げた。その重い決意と、目の前のばかばかしいほどの喧騒。

 

 その二つの光景が、同じ一つの学園の中に、同時に、ある。

 一夏は、その落差に、ときどき、立ちすくみそうに、なる。

 

 ——だが。

 

 吊るした飾りが、淡く、光る。

 

 その光を、見上げる鈴の横顔が、子供みたいに、無邪気で。

 

 その隣で、シャルロットが、嬉しそうに、笑っていて。

 

 ラウラが、二杯目のかき氷に、手を伸ばしていて。

 

 セシリアが、それを見て、また何か、言おうとしていて。

 

 ああ、そうか、と、一夏は、思った。

 

 これを、守りたかったんだ。

 

 横島が、自分の首を賭けてまで、姉を、取り戻そうとしたのも。

 

 姉が、立てない脚で、それでも、弟を巻き込みたくなかったと、言ったのも。

 

 きっと、こういうものを、守るためだ。

 

 紙と布で、できた、作りものの海。

 

 その下で、笑う、当たり前の、誰かの顔。

 

 妙な味のかき氷で、馬鹿みたいに、言い合う、いつもの時間。

 

 それを、当たり前のまま、明日も、明後日も、続けさせるために。

 

「一夏?」

 

 ふと、気づくと、箒が、こちらを、見ていた。

 

 椅子を並べる手を止めて、淡い青の光の中で、不思議そうに。

 

「どうした。また、妙な顔を、しているぞ」

 

「いや」

 

 一夏は、首を振った。

 

「なんでもない。……ただ、いいな、って、思って」

 

「いい?」

 

「これ。海の家。みんなで、ばかみたいに、張り切ってるの」

 

 箒は、少し、目を、見開いた。

 

 それから、ふっと、口元を、ゆるめた。

 

「ばかみたいに、は、余計だ」

 

「悪い」

 

「だが」

 

 箒は、光る教室を、ぐるりと、見回した。吊るされた魚。揺れる波。言い合う、鈴とセシリア。二杯目を食べる、ラウラ。

 

「……悪くない、とは、思う」

 

 その横顔も、淡い青の光に、染まっていた。

 

 いつも、生真面目に、引き結ばれている口元が、今は、わずかに、ほどけている。

 

「明日が、楽しみだな」

 

 一夏は、言った。

 

 本心、だった。

 

 地下のことは、まだ、胸の奥に、重く残っている。それは、消えない。消えていいもの、でもない。

 

 けれど、今夜だけは。

 

 この、光る教室の中でだけは。

 

 一夏も、ただの、一年生として。明日の祭りを、楽しみにしていたかった。

 

「ねえねえ、終わったらさ」

 

 鈴が、脚立を、片付けながら、言った。

 

「明日、私たちの店、一番に来てよね、一夏。海の家の、特製かき氷。サービスしてあげるから」

 

「さっきの、塩のやつか……?」

 

「失礼ね! 明日までに、改良するわよ!」

 

「改良の余地しかないけどな」

 

「うるさい!」

 

 シャルロットが、笑いながら、配線をまとめる。ラウラが、名残惜しそうに、かき氷機を見ている。セシリアが、明日の、紅茶の仕込みの話を、始める。

 

 光る教室に、笑い声が、満ちていた。

 

 明日は、祭りだ。

 

 一年で、いちばん、騒がしくて、楽しい、二日間が、すぐ、そこまで、来ている。

 

「さ、今日は、ここまで。明日に備えて、もう、休もう」

 

 シャルロットの一声で、五人は、片付けを始めた。

 

 電飾の、スイッチを、切る。

 

 淡い青の光が、消えて、教室は、また、ただの、暗い教室に、戻る。

 

 けれど、暗闇の中にも、紙の魚の、輪郭が、窓からの月明かりに、ぼんやりと、浮かんでいた。

 

 明日、また、ここに、光が、灯る。

 

 そう思うと、一夏の胸も、少しだけ、明るくなった。

 

「じゃあな、また明日」

 

「うん、また明日」

 

「一夏、遅刻するんじゃないわよ!」

 

「しないって」

 

 口々に言い交わして、五人と一人は、教室を、後にする。

 

 窓の外は、もう、すっかり、夜だった。

 

 学園を囲む海の、その向こうに、本土の灯りが、小さく、点々と、滲んでいる。

 

 一夏は、廊下の窓から、ふと、その灯りを、見た。

 

 無数の、小さな光の、群れ。

 

 そのどこかで、明日も、誰かが、当たり前に、暮らしている。

 

 その当たり前を、守るために、自分は、強くなりたい——そう、思った、ばかりだった。

 

 だが。

 

 一夏は、知らなかった。

 

 その、本土の灯りの群れの、どこかに。

 

 ——いま、この祭りへ向けて、別のものたちが、静かに、近づきつつあることを。

 

 その、海を渡る、いくつもの影が。

 

 明日、この光る教室の、ずっと下を、目指していることを。

 

 光る教室の中の、誰一人として。

 

 まだ、知らなかった。

 

     

 

      ◇

 

 

 

 

 本土の、名も無い港町。

 

 夜の埠頭は、淀んだ潮と古い油の匂いに沈み込んでいた。

 

 岸壁では、使われなくなって久しいクレーンが、骨だけの影を夜空に晒している。潮風に塗装を剥がされた鉄骨が、月のない空を背にして黒々とそびえていた。係留された小型船が波に押されるたび、舷側を防舷材にこすりつけ、ぎい、ぎい、と規則正しい軋み声を立てる。

 

 それ以外に音はない。街の喧騒は遠く、この寂れた片隅まではほとんど届くことがなかった。

 

 その埠頭の隅に、一台のコンテナトラックが息を潜めるように停まっている。

 

 エンジンはとうに切られ、灯火も落とされていた。誰の目も引かない場所であり、決して目を引いてはならない場所だ。

 

 明日、彼らはそれぞれ何食わぬ顔を取り繕い、表玄関からあの島へと渡る。今はそのための最後の夜だった。だからこそ、今夜だけはこのような暗がりで、互いの素顔を突き合わせる必要があったのだ。

 

 昼間の彼らは、まったく別の顔を持っている。

 

 ある者は某国の対DD装備開発主任。ある者は名の通った軍需企業の技術顧問。またある者は、権威ある研究機関から招かれた客員。いずれも社会的にれっきとした肩書きを持ち、いくら洗っても埃ひとつ出ない経歴を備えた、表の世界の住人たちだ。

 

 明日、彼らの名は視察団の公式名簿に、いっさいの不審を持たれることなく並ぶことだろう。

 

 そうでなければ、あの島へは近づくことすら叶わない。

 

 各国の要人が足を運ぶ祭典なのだ。その警備体制は、もはや一国の催しという次元をはるかに超えている。聞けば、周辺の海域にはとうに幾重もの厳重な封鎖線が敷かれているという。素性の知れない輩が、まぐれで紛れ込めるような甘い網では決してない。

 

 通り抜けられるのは、本物だけだ。

 

 本物の肩書きと、本物の経歴。一点の曇りもない、輝かしい表の顔。それを持つ者だけが、堂々と正門のゲートをくぐることができる。

 

 その、本物の顔を持つ男たちが。

 

 今は灯火を落とした薄暗いコンテナの中で、ぽつんと灯るひとつの作業灯を囲み、車座になって座り込んでいた。

 

 彼らは無言だった。

 

 それぞれが手元の機材を黙々と検めている。その指の動きに、迷いはない。

 

 床に並べられた部品の中には、市販の規格には存在しない、いびつな形のものも混じっていた。明日、彼らはこれを視察用の計測器具や、ありふれた精霊石の機材と偽り、手荷物に紛れ込ませて持ち込む。

 

「巻紙は、手筈を整えたか」

 

 一人が、部品を弄る手を止めずに低い声で訊ねた。

 

「ああ。『みつるぎ』の渉外担当として、明日、正規の手続きで入る。こちらの枠は、確実に押さえてある」

 

 向かいに座る別の一人が、淡々と応じる。

 

「派手にやるんだろうな。あの女はいつもそうだ。表で大きく暴れ回り、学園側の目を根こそぎ引きつける。狙いは、あの白い機体――表向きは、そういうことにしておく」

 

「囮としては、上等な駒だな」

 

「ああ。名簿の上では、埃ひとつ出ない完璧な女だ。暴れるのは、無事に門をくぐり抜けてからでいい。だからこそ、せいぜい派手に目立ってもらわねば困る」

 

 短い確認が終わると、それきりまた、重い沈黙が落ちた。

 

 彼らが欲しているもの。

 

 それはあの島のどこかに隠されているという、一人の女だった。「銀の福音」の搭乗者であり、すでに人の形を半ば超えつつあるという存在。そして――その彼女を、辛うじて人の形に押し留めているという「何か」。

 

 元は単なる噂に過ぎず、正確な裏を取った者は誰一人としていない。だが、あの夏、確かに海の上で何かが起きた。コメリカが重い口をつぐみ、日本が深く沈黙した。大国が見せたその不自然な沈黙こそが、噂の真実味を何よりも雄弁に裏づけていた。

 

「……正気の沙汰じゃないとは、思いますがね」

 

 輪の中にいた若い男が手を止め、ふと溢すように言った。その声には、隠しきれないためらいが滲んでいる。

 

「だが、問題はその先です。あの島のいちばん奥に、俺たちが本当にたどり着けるんですか」

 

「正確な図面はない」

 

 最初に口を開いた男が、顔を上げずに静かに答えた。

 

「ただ、地下だろうと踏んでいるだけだ。降りた先の入り組んだ間取りまでは、誰も知らん。予想が外れたら、それまでのことよ」

 

「なら――」

 

「平時なら、とうてい無理な話だ。あの学園の地下区画は、それこそ蟻一匹通しはしないだろう」

 

 男は淡々と語りながらも、決して手を止めない。

 

「だから、平時ではなくする」

 

 男は組み上げた手の中の部品を、作業灯の明かりへとかざした。

 

「明日、表で巻紙が暴れる。学園の監視の目が、一斉にそちらへと引きつけられる。――それで、十分のはずだ」

 

 言いかけて、男は、輪から少し離れて座る、一人の男のほうへ、ちらと視線を投げた。

 

「もっとも、あちらさんは、それだけじゃ気が済まんらしい。海から、何やら、呼ぶそうだ。――好きにすればいいさ。囮が二枚に増えるなら、こちらとしては、ありがたい話よ」

 

 その、海から呼ばれるものが、何であるのか。

 

 若い男は訊かなかった。いや、訊けなかったのだ。

 

「二重の混乱、というわけですか」

 

「ああ。学園中の目という目、手という手が、根こそぎ表の襲撃に割かれる。要人を守り、客を逃がし、突如降ってわいた騒ぎに対応する。その、ほんの一瞬だ。いちばん奥の守りが手薄になる。我々はその僅かな隙を突き、客の顔を貼り付けたまま、最深部へと降りる」

 

「……俺たち自身が、ですか」

 

 若い男の声が、乾いて掠れた。

 

「外から捨て駒を雇って、地下を走らせるとかじゃ――」

 

「誰を雇うと言うんだ」

 

 男は冷ややかな視線を若者へ向けた。

 

「素性の知れんゴロツキなど、海域の封鎖線でとうにはじかれる。表玄関を堂々とくぐれるのは、我々だけだ。本物の顔と経歴を持つ、我々だけなのだ。だから、我々自身が行く。自分の足で踏み込み、自分の手で掴み取るしかない」

 

 コンテナの中が、しん、と静まり返った。

 

 若い男は耐えるように俯いた。

 

 自身の血は流さず、汚れ役は常に外から金で買う。それがこれまでの、彼らエリートたちの絶対的な流儀だったはずだ。築き上げた表の顔を汚さないための、賢明な分別。だが、今回ばかりはその理屈が一切通らない。本物しか入ることの許されない領域だからこそ、本物が自らの手を泥に沈めるしかなかった。

 

「怖いと言うなら」

 

 最初の男の声が、わずかに和らいだ。

 

「今ここで降りてもいい。今夜のうちなら、まだ引き返せる。明日、提出する名簿からお前の名をそっと消すだけで済む」

 

「……いえ」

 

 若い男は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「行きます。俺はもう、ここまで来てしまったんだ」

 

 機材を握るその指先がわずかに震えているのを、男は見て見ぬふりをした。

 

 誰もが、心の底では理解していた。

 

 明日、この中から果たして何人が無事に帰ってこられるのか。それは神にすらわからない。彼らは本物の顔を持つ、安定した表の世界の住人だ。だが、その輝かしい顔と地位を投げ打ってでも、なすべきことがそこにはあった。委員会の許す安全な範囲の、そのすぐ向こう側。コアによる完全な統制の、さらに外側へ。

 

 その抗いがたい渇望が、彼らをこの正気ではない賭けへと容赦なく駆り立てていた。

 

 その緊迫した輪から、わずかに離れて。

 

 ただ一人、機材へはいっさい手を伸ばそうとしない男がいた。

 

 他の者が必死に部品を検める間も、彼の手は首から提げた革紐の先――そこに結ばれた「黒い欠片」を、何かに憑かれたようにしきりに撫で続けている。得体の知れない非正規の部品群よりも、なおのこと、この場で異質な空気を放っていた。

 

 彼らの中で最も古く、そして最も静かな男だった。

 

 彼の経歴は、ここに集った誰よりも眩く磨き上げられていた。すでに人類がかなりの地区から撤退を余儀なくされた南半球。第三世界の対DD防衛における血みどろの最前線で、技術的な要職に長く就いていた男だ。DDという圧倒的な脅威が、いかにして無力な人を、豊かな土地を、無慈悲に踏み潰していくか。それを安全な書物の上ではなく、吹き荒れる焦燥と絶望のただ中で、嫌というほど目の当たりにしてきた。

 

 その痛ましい経験と知識ゆえに、委員会も巨大企業もこぞって彼を欲しがった。

 

 彼『は』選ばれたのだ。類まれな優秀さゆえに。そして、死と隣り合わせの泥濘から、安全に守られた「線の内側」へと一方的に引き上げられた。

 

 その時、彼が後方に残してきたものの大半は――無情にも選ばれなかった。

 

 彼の守るべき土地は放棄の対象となり、冷酷な線が引かれた。才ある者だけが、こちら側の世界へ。それ以外の多くの命は、そのまま焦土へと置き去りにされた。彼は選ばれた側にいた。暗闇の中から掬い上げられた、ほんのひと握りの側に。

 

「あんたも、俺たちと一緒に地下へ来るんだろう」

 

 最初に口を開いた男が、暗がりに沈むその横顔へ声をかけた。

 

「お前たちとは、求めるものが決定的に違うがな」

 

 古い男は欠片を撫でる手を止めず、ひどく静かな声で言った。

 

「お前たちの欲しいものは、地下に隠されている。あの女も、それを人の形に留める何かも。莫大な価値のために、己の手で奪えばいい。――だが、私はただ、この目で見たいだけだ。人の形をとうに超えたという、その歪な姿を。人が引いた安寧な線の、その向こう側を」

 

「……辿り着くのは同じ女のもとだ。別々の用件で、か」

 

「ああ。同じ、深い場所へ」

 

 男は、首元の黒い欠片を労るように撫でた。

 

「私の役目は、とうに済んでいる。ゆうべのうちに、済ませておいた。残るは、地下へと降りるだけだ。お前たちと同じ表の顔を被り、同じ正門からな」

 

 最初の男は、それ以上は深く訊ねなかった。

 

 これ以上言葉を交わしたところで、決して分かり合えないことを熟知していたからだ。

 

「……怖いか」

 

 ふいに、古い男が沈黙を破った。

 

 怯える若い男へ向けた言葉だった。責め立てるような響きは微塵もない。むしろ、迷子をいたわるような、ひどく穏やかな声音だった。だからこそ、その優しさが聞いた者の背筋をぞわりと冷たく撫で上げた。

 

 若い男は、硬直したまま何も答えられなかった。

 

「怖くて、いいんだ」

 

 男は黒い欠片を、ひどく慈しむように指の腹で撫でながら続けた。

 

「私も、ずっと恐ろしかった。あれが、ありとあらゆるものを平等に踏み潰していくのが。……我々人間は、勝手に線を引く。優秀な人間だけを安全な内側へ引き上げ、そうでない人間を、容赦なく線の向こうへ置き去りにする。そうやって他者の命を踏み台にし、我々は生き延びてきた」

 

 輪を囲む他の男たちも、息を潜めたまま一切口を挟まなかった。

 

 この男が、かつて見捨てられた第三世界の最前線で何を見て、どれほど多くの者を見殺しにしてここへ引き上げられたか。それを皆、知識として痛いほど知っていたからだ。

 

「だが、ある時、確かな真実に気づいたのだ」

 

 男の声が、病的な熱を帯びて低く沈み込んだ。

 

「あれは――ただの一度たりとも、人間を選別しなかった。強者が線を引いた内側の人間も、見捨てられた外側の人間も。賢い者も、愚かな者も。何ひとつ区別することなく、ただ美しいまでに等しく、すべてを踏み潰していった。……あれだけだ。この腐った世界で、あれだけが、誰のことも決してえこひいきしなかった」

 

 男は、首元の黒い欠片を祈るようにきつく握り込んだ。

 

 その先を、男は口にしなかった。

 

 もはや言葉にする必要などなかった。

 

 白くなるほど握りしめられたその黒い欠片が、すべての絶望と執着を雄弁に語っていた。それがもとは、何であったのか。彼が残酷な線の向こうに置いてきた、数え切れぬ無数の命の、そのたった一つの名残。

 

「私は、ただ見せつけたいだけだ」

 

 男は、わずかに開いたコンテナの扉の、その隙間の向こうへと視線を投げた。

 

 真っ暗な夜の海。そして、遥かな沖合にぽつりと滲む、巨大な人工島の灯り。明日、祭りの熱狂でいっそう眩く光り輝くはずの、あの島。

 

 勝手に線を引いて、都合のいい誰かを内に容れ、不要な誰かを外へと弾き出す。その、途方もなく傲慢な秩序が放つ光。

 

 男の虚ろな目は、その煌びやかな灯りの、さらに向こう側を見据えていた。海と空の境界さえドロドロに溶け合った、漆黒の夜の闇の、もっと奥深くを。まるでそこに、巨大な「何か」が這い寄っているのが見えているかのように。

 

 あの、分厚い壁に守られた島に。安全な線の内側で、安穏と笑いさざめく者たちに。――お前たちと、見捨てられた私の同胞とに、命の違いなど何ひとつありはしなかったのだと。

 

 絶対的な暴力の前では、人間は誰もが等しいのだと。その絶望を、根こそぎ見せつけたい。

 

 一度失われたものは、もう二度と還らない。この冷酷な人間の世界では、決して。だが――人が引いた矮小な線の、その外側の理屈からなら。

 

 いつか、必ず。

 

 男は本気でそう信じて疑わなかった。その狂気に満ちた夢を、輪の中にいる誰一人とも分かち合うことのないまま。

 

「……灯りを、消せ」

 

 最初の男が、感情を押し殺した低い声で命じた。

 

「仕舞いだ。今夜はそれぞれの塒へと散れ。明日に備えて、表の顔で深く眠っておけ。――その立派な顔も、今夜が永遠に見納めかもしれん」

 

 カチリと音がして、唯一の作業灯が消された。

 

 コンテナの中が、完全な闇へと沈み込む。

 

 やがて、一人、また一人と、闇に紛れて扉の外へと滑り出ていく。それぞれの、輝かしい表の顔が待つ安全な寝所へと還っていくのだ。

 

 だが、ただ一人。

 

 あの古い男だけが、すぐにはその場から動こうとはしなかった。

 

 扉の隙間から細く差し込む、わずかな星明かりの中。冷たい黒い欠片を手のひらに握り込んだまま、男はなおも、暗い海の向こうをじっと見つめ続けていた。

 

 どれだけ距離が遠くとも。狂気を宿したその眼差しには、沖合に浮かぶ標的の島影が、すでに燃え盛るようにくっきりと灯って見えているかのようだった。

 

 その暗い沖合の果てで。

 

 IS学園を擁する人工島は、明日の華やかな祭りを待ちわびて、こうこうと無数の灯りをともしている。

 

 色とりどりの紙の魚が光る、賑やかな海の家。

 

 最後の飾りつけをしながら、無邪気にはしゃぎ回る少女たち。

 

 二度と立てない脚を抱え、冷たい地下の奥深くに横たわる、一人の女。

 

 削り出されるようにして、少しずつ人の形へと戻されていく、もう一人の女。

 

 そして、すっかり冷めきったコーヒーの前で、培養ポッドのガラスに掌を当て、絶やすことなく己の力を注ぎ続けている、一人の男。

 

 そのすべての営みの上に、祭りの前夜の灯りが、残酷なほど明るくともっている。

 

 彼らは何も、知らない。

 

 きらびやかなその灯りへ向けて、明日、深海からいかなる絶望が招かれようとしているのかも、知る由もない。

 

 明日。

 

 祭りが、始まる。

 

 

 






ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/
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