朝の通学路を、西住みほは一人で歩いていた。
大洗女子学園に転校してきてから、まだ日が浅い。新しい教室、新しい友達、そして再び向き合うことになった戦車道。少しずつ学校生活には慣れてきたものの、胸の奥にはまだ落ち着かないものが残っていた。
戦車道を選んだことが、本当に正しかったのか。
そんな考えが頭をよぎるたび、みほは小さく首を振った。
沙織や華、優花里。自分を受け入れてくれた友達がいる。だからこそ、今度は逃げずにやってみたいと思っていた。
そのとき、前方を歩いていた少女が、ふらりと足を止めた。
顔色が悪い。歩く速度も遅く、今にも倒れてしまいそうだった。
「あの……大丈夫ですか?」
みほが声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫じゃない。眠い」
「ね、眠い?」
「朝は苦手なんだ……」
少女はそれだけ答えると、また歩き出そうとした。しかし、足元がおぼつかない。
みほは慌てて腕を支えた。
「無理しないでください。学校まで一緒に行きましょうか?」
「……助かる」
短い返事だった。
少女の名前は冷泉麻子。朝がとにかく苦手で、低血圧のために朝の通学は一苦労なのだという。
みほは彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと学校へ向かった。
この出会いが、今日の模擬戦で思いもよらない形につながることを、二人はまだ知らなかった。
*
大洗女子学園の演習場では、戦車道を履修した生徒たちが準備を進めていた。
生徒会チームの38(t)、歴女チームの三号突撃砲、バレー部チームの八九式中戦車、一年生チームのM3リー。そして、みほたちが乗るⅣ号戦車。
その少し離れた場所には、T-34初期型も停まっていた。
農業科の倉庫で見つかった戦車を、雪村伊里奈、朝倉こはる、水野千紗、黒田すみれの四人が修復してきたものだ。前日にはほかの戦車道履修生たちも手伝い、車体の汚れを洗い落としたばかりだった。
もう、T-34を見て驚く者はいない。
ただ、実際の模擬戦に出るのは今日が初めてだった。
「雪村さん、点検表はこれで全部」
すみれが記録を確認しながら告げる。
「ありがとう。こはる、操縦の感覚はどう?」
「昨日と変わらないよ。右側へ曲がるときはちょっと気をつけたいけど、普通に走る分には問題なさそう」
「千紗は周囲の確認をお願い。車体に違和感があったら、どんな小さなことでも知らせて」
「分かった」
伊里奈は三人の顔を順番に見た。
六週間近く続いた修復作業。初めは一人で始めた作業だったが、三人が手伝ってくれるようになり、やがて放課後の時間を一緒に過ごすのが当たり前になっていた。
部品を磨き、工具を探し、失敗した作業をやり直す。前日は他の履修生たちも一緒に車体を洗ってくれた。あのとき、伊里奈はこの戦車がもう自分一人のものではないことを改めて感じていた。
「今日は初めての模擬戦だから、焦らないこと。敵を見つけても、すぐ撃つとは限らない。私が判断するけど、みんなも気づいたことがあれば必ず報告してね」
「了解!」
こはるが元気よく返事をする。
「せっかく直したんだし、最後まで走りきろうね」
「うん。そのためにも、無理はしないこと」
伊里奈はT-34の車体に手を置いた。
ただ動くところが見たい。それが修復を始めた理由だった。
今は違う。
この戦車で仲間と戦ってみたい。四人で力を合わせて、戦車道をやってみたい。そんな気持ちが、少しずつ自分の中に生まれていた。
そのとき、空の彼方から大きなエンジン音が響いてきた。
「ん?」
こはるが顔を上げる。
演習場にいた生徒たちも、次々に空を見上げた。
輸送機が近づいてくる。
そして、その機体から何かが投下された。
「えっ、何あれ!?」
落下してきたのは、戦車だった。
パラシュートに吊られた車体が地面へ降り立つ。勢いを受けた戦車は、そのまま駐車場へ滑り込み、停められていた車を押し潰してようやく停止した。
「うそおおおっ!?」
生徒会の柚子が悲鳴を上げた。
戦車のハッチが開き、中から一人の女性が姿を現す。
陸上自衛隊の戦車教官、蝶野亜美だった。
彼女は軽やかに地面へ降り立つと、生徒たちの前へ歩み出た。
「皆さん、こんにちは!」
明るく張りのある声が演習場に響く。
「今日から皆さんの戦車道を指導する、蝶野亜美です!」
その勢いに、生徒たちは思わず姿勢を正した。
蝶野は生徒たちを見回し、みほの姿を見つけると表情を明るくした。
「あら、西住さん!」
突然名前を呼ばれ、みほはびくりと肩を揺らす。
蝶野は、みほの母である西住しほに教わったことがあると話し、姉の西住まほにも触れた。
周囲の生徒たちがざわめく。
西住流。その名を知らない者は、戦車道を履修する生徒の中にはほとんどいない。
みほは困ったように笑い、小さく頭を下げた。
伊里奈は、その様子を少し離れたところから見ていた。
みほが戦車道の世界で知られた家の出身であることは知っている。けれど、自分がそれを知っている理由を話すつもりはなかった。
今はただ、みほが周囲の注目を浴びることに戸惑っているように見えた。
蝶野は演習場に並ぶ戦車へ目を向け、今日の訓練について説明した。
最初の授業は、戦車を使った模擬戦。
生徒たちの顔が一斉にこわばった。
戦車を動かすことにも慣れていない。射撃や連携の練習も十分とは言いがたい。それなのに、いきなり戦車同士で戦うことになるのだ。
「……いきなり試合かあ」
こはるが小声で呟いた。
「模擬戦だよ」
伊里奈は落ち着いた声で返す。
「でも、やることは変わらない。周囲を見て、報告して、決めた手順で動く。できることを一つずつやろう」
「分かった」
こはるは息を吐いて、操縦席に座り直した。
*
模擬戦の準備が始まると、Ⅳ号戦車では誰がどの役割を担当するかという話し合いが続いていた。
車長、操縦手、砲手、装填手、無線手。戦車を動かすには、乗員それぞれが自分の役割を果たさなければならない。
みほは戦車の知識があり、経験もある。そのため車長を任されそうになったが、本人は強く辞退した。
結局、役割はくじ引きで決めることになった。
車長は武部沙織。操縦手は五十鈴華。砲手は秋山優花里。そして、みほは装填手を担当することになった。
「みぽりん、分からないことがあったら教えてね」
沙織は車長席からみほに声をかけた。
「うん。できる限り手伝うね」
みほは頷いた。
伊里奈は少し離れた場所から、そのやりとりを見ていた。
みほは知識があるのに、自分から指揮を執ろうとはしない。理由は分からない。けれど、彼女が何かを抱えていることだけは、表情から伝わってくる気がした。
「雪村さん、こっちも役割の確認をしよう」
千紗に呼ばれ、伊里奈は仲間へ向き直った。
「そうだね。こはるが操縦。千紗は周囲の確認と報告。すみれは車体の状態と走行記録。私が車長として指示を出す」
「了解」
「雪村さんが砲手も兼ねるんだよね?」
すみれが確認する。
「そう。けれど、見つけたものを全部撃つわけじゃないよ。撃つかどうかも、こちらがどこにいるかも考えながら決める」
「車長って、考えることが多いんだね」
こはるが感心したように言った。
「だから、みんなの目が必要なんだよ」
伊里奈は三人を見た。
「私一人では見落とすこともある。気づいたことは遠慮せずに言って」
三人は、それぞれ力強く頷いた。
準備が整うと、六両の戦車が演習場のスタート位置へ移動した。
Ⅳ号戦車。38(t)。三号突撃砲。八九式中戦車。M3リー。そして、T-34初期型。
模擬戦では、それぞれの車両をアルファベットで呼ぶことになった。
みほたちのⅣ号戦車がAチーム。生徒会の38(t)がBチーム。三号突撃砲がCチーム。八九式中戦車がDチーム。M3リーがEチーム。そして、伊里奈たちのT-34初期型がFチームだ。
エンジン音が重なり、演習場の空気が変わる。
伊里奈は車長席から周囲を見渡した。
木々の間に続く進路。起伏のある地形。遮蔽物の位置。相手がどこから現れ、どこへ進もうとするか。
まだ試合は始まっていない。それでも、考えるべきことはいくつもあった。
開始の合図が響く。
六両の戦車が、それぞれの進路へ動き始めた。
*
AチームのⅣ号戦車は、慎重に前進していた。
「えっと、みんな、準備はいい?」
沙織が車長席から声をかける。
「はい!」
優花里が砲手席から答える。
「装填、準備できています」
みほも返事をした。
華は操縦席で前方を見つめ、ゆっくりと戦車を進めていく。
「大丈夫です。落ち着いていきましょう」
「うん。みんなで頑張ろう!」
沙織の声とともに、Aチームは演習場の奥へ進んでいった。
しかし、試合が始まると、各チームはすぐに動き始めた。Bチームは機動力を生かして位置を変え、Cチームは地形を利用し、Dチームは連携しながら進む。EチームのM3リーも、慣れない操縦に苦戦しながら前進していた。
Aチームは、まだ隊形を整える前に複数の車両から狙われてしまった。
「えっ、ちょっと待って! なんでこっちに来るの!?」
沙織の悲鳴が響く。
砲弾が近くに着弾し、土煙が上がった。
「華さん、逃げて!」
みほが声を上げる。
「は、はい!」
華は慌てながらもⅣ号戦車を動かした。
その様子を、伊里奈は少し離れた場所から見ていた。
「千紗、Aチームを追っている車両の位置を確認して」
「分かった。右前方に二両、動いてる」
「こはる、正面へ出すぎないで。遮蔽物を使って進もう」
「了解!」
FチームのT-34は木々の陰を利用しながら進んだ。
伊里奈は、Aチームを助けるためにすぐ飛び出すことはしなかった。今の位置から無理に近づけば、こちらの進路も敵に知られてしまう。修復した車体に負担をかける危険もある。
まずは戦況を見極める。
敵がどこにいるのか。味方がどこへ向かうのか。どこなら安全に動けるのか。
「すみれ、車体は?」
「今のところ問題なし。振動もいつもと同じ」
「ありがとう。千紗、敵の動きに変化があったら知らせて」
「了解」
Fチームは戦場の端を進んでいった。
そのころ、Aチームは砲弾を避けながら必死に走っていた。
みほがハッチから身を乗り出し、前方を確認する。
その視界に、草地に横たわる少女の姿が入った。
顔の上には本が載っている。
「えっ、人がいる!?」
みほは声を張り上げた。
戦車は止まれない。少女はまだ、近づいてくるⅣ号戦車に気づいていなかった。
「危ないです!」
みほの叫びが、砲声の響く演習場にこだまする。
少女はようやく身を起こした。
「……え?」
迫り来る戦車を見て、少女は慌てて立ち上がる。避けようとしたものの、進路は塞がれ、彼女はとっさに車体へ取りついた。
「麻子!?」
沙織が叫ぶ。
みほも、朝に出会った少女だと気づいた。
冷泉麻子はなんとか車体へ乗り込み、車内へ身を滑り込ませた。
「ちょっと、何やってるのよ!」
「それはこっちの台詞だ……」
麻子は不機嫌そうに答えた。
「今はそんなことを言ってる場合じゃありません! 敵が来ています!」
みほの言葉で、全員が前を向く。
Aチームは追撃を振り切るため、吊り橋の方向へ進んでいった。
*
「雪村さん、Aチームが橋へ向かってる」
千紗の報告に、伊里奈は視線を移した。
遠くに見えるⅣ号戦車は、敵の追撃を受けながら狭い橋へ向かっている。
みほたちの位置までは距離があった。今から無理に近づいても、間に合う保証はない。それに、T-34の車体に負担をかければ、せっかく直した部分に不具合が出るかもしれない。
伊里奈は地形を確認した。
「こはる、今の進路を維持して。橋には近づかないで」
「助けに行かないの?」
こはるが尋ねる。
「今、急いで向かっても、こちらまで動けなくなる可能性がある。まずは状況を確認する」
伊里奈は言葉を選びながら続けた。
「助けたいと思うことと、助けられる位置にいることは別だよ。無理に動いて二両とも動けなくなったら意味がない」
千紗は遠くを見つめた。
「分かった。橋の周囲を見ておく」
「お願い」
伊里奈はAチームの動きを追った。
みほが車外へ降り、橋の先から華の操縦を誘導している。Ⅳ号戦車が橋の端へ寄りすぎた瞬間、橋が大きく傾いた。
その直後、追撃していたCチームの三号突撃砲の砲弾がⅣ号戦車の後部に命中した。
「当たった……!」
こはるが声を上げる。
しかし、Aチームは撃破されていない。車内で何かが起きたらしく、動きが一瞬止まった。
みほが急いで車内へ戻っている。華が操縦席で動かなくなっているのが見えた。
そして、麻子が操縦席へ移る。
Ⅳ号戦車が再び動き始めた。
「動いたね」
千紗が言った。
「うん。麻子さんが操縦を代わったんだ」
伊里奈は、Ⅳ号戦車が危険な位置から抜けようとしていることを確認した。
助けに行くことだけが、仲間を助ける方法ではない。今、自分たちができるのは、戦況を把握し、別の敵に不意を突かれないようにすることだ。
「周囲の警戒を続けよう。こちらも、まだ試合の途中だから」
*
Ⅳ号戦車の車内では、麻子が操縦席に座っていた。
「私がやる」
麻子はそう言うと、慣れた手つきで操縦を始めた。
みほは驚きながらも、すぐに周囲を確認する。
「ありがとうございます、冷泉さん!」
「礼はいい。まだ敵がいる」
麻子は短く答えた。
追撃してくるCチームに加え、BチームやDチームも動いている。Aチームは、まだ危険な状況から抜け出せていなかった。
「優花里さん、敵の位置を確認してください!」
「はい!」
みほは敵の位置と自分たちの進路を見比べた。
どこへ動けば次の射撃に対応できるのか。敵の砲塔がどちらを向いているのか。仲間が安全に動ける場所はどこか。
その判断に従い、優花里が照準を合わせた。
砲声が響く。
敵車両の動きが止まった。
みほの指示と仲間たちの連携によって、Aチームは追撃を振り切ろうとしていた。
一方、FチームのT-34にも、別の車両が近づいていた。
「左側、車両を確認!」
千紗が報告する。
「距離は?」
「さっきの車両より近い。こちらに気づきかけてる」
伊里奈は砲塔を動かした。
相手の車体が遮蔽物の向こうから姿を現す。こちらの位置に気づくまで、あとわずかだろう。
「こはる、停止。車体は動かさないで」
「了解!」
T-34が止まる。
伊里奈は照準を合わせた。相手の動きを読み、射線が通る瞬間を待つ。
引き金を引けば、当てられる。
だが、相手がこちらを向くより先に撃つ必要があった。
「撃つよ」
砲声が響き、相手の車両は判定を受けて離脱した。
「やった!」
こはるが声を上げる。
しかし、その直後、車体に小さな振動が伝わった。
「雪村さん、右側の振動が少し強くなった」
すみれの声だった。
伊里奈はすぐに判断した。
「停止。すみれ、記録と照らし合わせて。千紗は周囲を警戒して」
「分かった」
こはるは戦車を止めた。
伊里奈は車体の状態を確認する。今すぐ動けなくなるような異常ではなさそうだ。だが、右側の旋回に負担がかかっている可能性はある。
「無理な旋回は避ける。次に動くときは、広い場所を選ぼう」
「でも、敵が来たら?」
こはるの問いに、伊里奈はまっすぐ答えた。
「そのときは、そのときに判断する。今から無理をして壊す必要はないよ」
こはるは一度唇を結び、それから頷いた。
「分かった。雪村さんの指示に合わせる」
伊里奈は砲塔をゆっくり旋回させ、周囲を確認した。
勝つために動くことと、無理をすることは違う。
戦車を直した時間も、手伝ってくれた仲間の努力も、簡単に失いたくはなかった。
そして、仲間を信じて判断を任せることも、車長として必要なことなのだ。
「千紗、前方の状況を教えて」
「右前方は開けてる。左側に別の車両がいるけど、今はこっちを見てない」
「よし。右側から移動しよう。ゆっくりでいい」
「了解!」
T-34は慎重に再び走り出した。
*
模擬戦は少しずつ終盤へ向かっていた。
Bチームは機動力を生かして戦場を駆け回っていたが、Cチームの射線に捕まり、側面からの攻撃を受けて判定を受けた。Cチームも、別方向から接近したDチームとの交戦で動きを止められ、やがて撃破判定となる。
Dチームは小回りの利く車体を生かして反撃を試みたが、火力と装甲の差を埋めきれず、戦闘から離脱した。
残るEチームは、地形の悪い場所から抜け出そうとしていた。
「動かないよお!」
M3リーの車内から悲鳴が響く。
車体が泥にはまり、履帯が空回りしていた。前進しようとしても、後退しようとしても、車体はわずかに揺れるだけで抜け出せない。
Eチームは何度か脱出を試みたが、結局、走行不能の判定を受けて戦闘から離脱した。
残るのはAチームとFチーム。
それぞれの車内で、乗員たちは戦況を確認していた。
「雪村さん、他の車両の動きが見えない」
千紗が報告する。
「残っているのはAチームだけかもしれないね」
伊里奈は地図と周囲の地形を見比べた。
ここまでの戦闘で、T-34は数度の射撃と移動を繰り返している。車体の反応に小さな違和感はあるものの、走行そのものは続けられていた。
だが、気になる点が消えたわけではない。
右へ曲がるとき、操縦手の操作に対して車体の反応がほんの少し遅れる。低速では気にならない程度だった。走行試験でも、短い距離を移動する限りでは大きな問題は出ていなかった。
修復作業の間、伊里奈たちは動かせる状態まで戻すことを優先してきた。部品の損傷を確認し、交換できるものを交換し、動作を確かめた。けれど、車体内部の機構すべてを専門的な設備で検査できたわけではない。
それでも、今日ここまで走れている。
伊里奈は今できることを考えた。
「こはる、急な方向転換は避けよう。相手が見えたら、まず距離と位置を確認する」
「了解」
「すみれは、振動の変化を見ていて。千紗は敵の位置を最優先で知らせて」
「分かった」
伊里奈は砲塔を前方へ向けた。
「Aチームを探そう。けれど、追いかけるだけにはならないようにね」
T-34は木々の間を抜け、少し開けた場所へ進んだ。
*
Aチームもまた、残る敵を探していた。
車内では、沙織が必死に車長として状況を整理しようとしていた。
「えっと、今までの相手は……もういないんだよね?」
「はい。少なくとも、見えている範囲では動いている車両はいません」
優花里が答える。
「でも、まだ一両残っています」
みほは周囲を見回した。
戦場には静けさが戻りつつあった。先ほどまで響いていたエンジン音や砲声が遠ざかり、木々の葉が揺れる音が聞こえる。
「最後の一両……どこにいるんだろう」
沙織が呟く。
「焦らずに探しましょう。こちらの位置を先に知らせてしまうと不利になります」
みほはそう言いながら、地形を確かめた。
Aチームはこれまで、敵から逃げるだけで精いっぱいだった。けれど、今は違う。麻子が操縦を担当し、華も意識を取り戻している。優花里は砲手として戦車を捉え、沙織は皆に声をかけ続けている。
自分たちにも、できることがある。
みほはそう考え、少しだけ顔を上げた。
「右の斜面を確認してみましょう。車体を隠せる場所が続いています」
「分かった。麻子、そっちへ行ける?」
「行ける」
麻子が短く答え、Ⅳ号戦車を進めた。
そのころ、Fチームは地形の向こう側からAチームの進路を探っていた。
「雪村さん、前方に車体の跡がある」
千紗が報告する。
「新しい?」
「うん。土がまだ崩れていない」
「Aチームが通った跡かもしれないね」
伊里奈は地面を見つめた。
追跡することはできる。しかし、車体の跡だけを頼りに進めば、相手がこちらを待ち構えている可能性もある。
「こはる、少し速度を落として。次の遮蔽物まで進んだら一度止まろう」
「了解」
T-34は慎重に進んだ。
車体が段差を越えた瞬間、右側から鈍い振動が伝わった。
伊里奈は眉を寄せる。
「今の振動、すみれはどう思う?」
「さっきより強かった。走行記録と比べると、右側に負荷がかかったときに出やすいみたい」
「分かった。無理に曲がらないようにしよう」
「雪村さん、もし戦闘中にもっと強く出たら?」
すみれの問いに、伊里奈は少し考えてから答えた。
「そのときは停止も考える。動かせるからといって、最後まで無理に走らせる必要はないよ」
言葉にした伊里奈自身も、悔しさを感じていた。
自分たちで直した戦車だ。自分たちでできる限りのことをした。だからこそ、万全ではない部分が残っていることを認めるのは簡単ではなかった。
それでも、車長として優先するべきなのは、意地を張ることではない。
「敵を見つけたら、無理のない場所から戦う。それでいこう」
三人が頷いた。
*
「前方に戦車!」
千紗の声が車内に響いた。
伊里奈はすぐに照準器を覗いた。
木々の隙間に、灰色の車体が見える。Ⅳ号戦車だ。
「Aチームを確認。こはる、車体を止めて」
「了解!」
T-34が停止する。
相手はまだこちらに気づいていないようだった。伊里奈は周囲の地形を確認する。正面から撃ち合うならT-34にも分がある。だが、ここから無理に進めば、右側の旋回に負担がかかる可能性があった。
「千紗、Aチームの向きを見て。こちらを向いている?」
「まだ。少し斜め前を向いてる」
「すみれ、車体の状態は?」
「今は大丈夫。でも、さっきの振動は気になる」
「分かった」
伊里奈は照準を合わせた。
先に撃てば、優位を取れる可能性がある。だが、相手がこちらに気づいていない今、撃ったあとにどこへ移動するかまで考えなければならない。
伊里奈は射撃位置を見極め、砲塔をわずかに調整した。
「撃つよ」
砲声が響いた。
砲弾はⅣ号戦車の近くに着弾したが、決定打にはならなかった。
「外れた……!」
こはるが声を上げる。
「大丈夫。相手は気づいた。次の動きを見よう」
Aチームがこちらへ向き直る。
Ⅳ号戦車の砲塔が動いた。
「こはる、少し後退してから右へ――」
伊里奈が指示を出しかけた、その瞬間だった。
操縦操作に対して、車体の反応が遅れた。
ほんの一瞬。
けれど、戦闘中にはその一瞬が大きい。
「右へ曲がらない!」
こはるが叫ぶ。
「操作を急がないで! いったん前進を止めて!」
伊里奈はすぐに指示を修正した。こはるは操作を緩め、車体を立て直そうとする。しかし、旋回の反応は普段より鈍いままだった。
砲塔を動かすことはできる。エンジンも回っている。走行そのものが止まったわけではない。
それでも、狙ったとおりに車体の向きを変えられない。
「すみれ、何が起きてる?」
「まだ分からない! でも、右側に負荷がかかったときの動きがおかしい!」
「分かった。こはる、急に曲げないで。前進を使って向きを変えよう」
「やってみる!」
T-34がゆっくりと動き出す。
しかし、Aチームはその間にも位置を変えていた。
みほはⅣ号戦車の中から、Fチームの動きに注目していた。
「今、T-34の動きが遅れました」
「車体の不調かな?」
優花里が尋ねる。
「まだ分かりません。でも、さっきまでの動きとは違います」
みほはすぐに結論を出さなかった。
相手が何か失敗したと決めつけるのではなく、見えていることを確認する。車体の向き、移動速度、砲塔の旋回。T-34は射撃を続けられる状態だが、車体の移動にわずかな遅れが出ている。
「麻子さん、距離を保ちながら、左側へ回れますか?」
「やってみる」
麻子は操縦桿を動かした。
AチームのⅣ号戦車が移動する。
「優花里さん、照準を合わせてください。まだ撃たないで」
「はい!」
みほは相手の動きを見続けた。
T-34が再び方向を変えようとする。そのとき、車体の反応が遅れ、砲塔の向きと進行方向が噛み合わなくなった。
今なら、射線が通る。
だが、みほはすぐには撃たなかった。
相手の車体がどの方向へ動こうとしているのか、もう一度確かめる。
「……今です。優花里さん!」
優花里が引き金を引いた。
砲声が響く。
Aチームの砲弾が、T-34の車体に命中した。
判定旗が上がった。
模擬戦終了を告げる合図が、演習場に響き渡った。
*
車内に、しばらく沈黙が落ちた。
こはるは操縦桿を握ったまま、動かなかった。
「……負けちゃったね」
千紗が小さく呟く。
すみれは手元の記録を見つめていた。そこには、走行中に発生した振動の変化と、旋回時の反応の遅れが記されている。
「雪村さん……」
伊里奈は、すぐには返事をしなかった。
悔しくないわけがない。
修復に費やした六週間。放課後を使って部品を磨き、動作を確かめ、何度もやり直した作業。三人が手伝ってくれた時間。そして、今日、初めて戦車道の試合に出たこと。
それらが、最後の一瞬で途切れてしまったような気がした。
けれど、戦車が撃破されたことと、修復した時間が無駄だったことは違う。
「みんな、怪我はない?」
伊里奈が最初に尋ねた。
「うん、大丈夫」
「私も平気」
「問題ないよ」
三人の返事を聞き、伊里奈はようやく息を吐いた。
「よかった」
それから、操縦席のこはるへ向き直る。
「こはる、最後の動きについて、覚えている範囲で教えてくれる?」
「右へ曲がろうとしたんだけど、いつもより反応が遅かった。操作を入れても、車体がついてこない感じで……」
「その前から、同じような感じはあった?」
「少しだけ。最初は地面のせいだと思ったんだ。普通に走ってるときは問題なかったから」
「そうか」
伊里奈はすみれの記録を受け取った。
右側の振動。負荷がかかったときの反応の遅れ。短い走行では表面化しなかった症状が、戦闘中の方向転換で明確になった。
外から見ただけでは分からない。部品を目視で確認しただけでも、見つけられない可能性がある。
車体を動かせるようにすることと、戦車として十分な負荷に耐えられる状態にすること。その間には、まだ大きな隔たりがあったのだ。
「……私たちだけで直せたと思っていたけど、足りなかったんだね」
こはるが悔しそうに言う。
「違うよ」
伊里奈は静かに首を振った。
「みんなが直してくれたから、今日ここまで戦えた。修復が無駄だったわけじゃない」
「でも、最後に動かなかった」
「うん。だから、次に何をすべきかが分かった」
伊里奈は記録を見つめた。
「車体の外側を確認するだけでは見つけられない不具合が残っている。内部の機構も含めて、専門的に点検してもらう必要があるね」
「自動車部に?」
千紗が尋ねた。
「そう。私たちだけでできる範囲には限界がある。これ以上、分からないまま手を入れて、別の部分まで壊したくない」
伊里奈はT-34の車体に手を置いた。
「次の修理は、自動車部にお願いしよう。私たちは今日の記録をまとめて、どんな症状が出たのかを正確に伝える。直すのを任せることは、投げ出すことじゃないよ」
すみれは、記録用紙をしっかりと握り直した。
「分かった。今日の振動と旋回の反応を整理しておく」
「私も、操縦していて感じたことをまとめる」
こはるが続ける。
「周囲の状況も、どこで症状が出たかも書いておくね」
千紗も頷いた。
伊里奈は三人を見て、小さく微笑んだ。
「ありがとう。私たちの次の課題だね」
*
模擬戦が終わり、各チームが演習場へ戻ってきた。
AチームのⅣ号戦車からは、沙織たちが次々と降りてきた。
「終わったぁ……!」
沙織は大きく息を吐いた。
「皆さん、お疲れさまでした!」
優花里が明るい声を上げる。
みほは、FチームのT-34へ視線を向けた。
最後の射撃をしたのは自分たちだ。けれど、あの瞬間に起きたことが、単純に相手の判断ミスだったとは思えなかった。
T-34は、車体を曲げようとしたところで反応が遅れていた。砲塔の動きや、それまでの射撃には大きな乱れがなかった。だからこそ、最後の動きが気になった。
みほは伊里奈たちのもとへ歩いていった。
「雪村さん」
呼ばれた伊里奈が振り向く。
「今日はお疲れさまでした」
「西住さんたちも。最後の射撃、見事だったよ」
「ありがとうございます。でも……最後、T-34の動きが少し変わったように見えました。車体に何かあったんですか?」
伊里奈は一瞬だけ考えた。
「たぶん、内部の機構に不具合が残っていたんだと思う。修復中の点検では分からなかったけど、負荷がかかったときに旋回の反応が遅れた」
「そうだったんですね……」
「まだ、はっきりした原因は分からないよ。だから、自動車部に点検をお願いするつもり」
みほは、T-34の車体を見上げた。
「自分たちで直した戦車を、ほかの人に見てもらうのは勇気がいると思います」
「そうかな」
伊里奈は少し首を傾げた。
「自分たちで直したからこそ、分からないところをそのままにしたくないんだ。今日の試合で壊れた部分があるなら、そこも含めて確認してもらいたい」
みほはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。
「……そうですね。私も、戦車についてもっと勉強します」
「うん。私たちも、もっと勉強しないとね」
伊里奈はそう言って、みほに手を差し出した。
「次に戦うときは、今日よりいい試合にしよう」
みほは少し驚いたあと、その手を握った。
「はい」
二人の手が離れる。
その様子を見ていたこはるが、伊里奈の肩を軽く叩いた。
「雪村さん、次は絶対に勝とうね!」
「そのためにも、まずは修理だよ」
「分かってるって!」
千紗とすみれが顔を見合わせ、笑った。
伊里奈も小さく笑みを浮かべた。
戦車を直したいと思ったのは、ただ、もう一度動くところを見てみたかったからだ。
けれど、今はそれだけではない。
この戦車で仲間と戦いたい。彼女たちと一緒に、もっと上手くなりたい。
その気持ちが、確かに胸の中に生まれていた。
T-34はまだ完璧ではない。自分たちも、まだまだ未熟だ。
それでも、今日の敗北で分かったことがある。
直すべき場所があるのなら、直せばいい。自分たちだけでできないことがあるのなら、助けを求めればいい。大切なのは、分からないことを分からないままにしないことだ。
伊里奈は、もう一度T-34の車体を見上げた。
「次は、もっといい戦い方をしよう」
彼女の言葉に、三人が頷いた。
錆びた鉄の塊だった戦車は、今では四人をつなぐ場所になっていた。
そして伊里奈は、まだ自分でも気づいていない。
この大洗での時間が、自分の中に閉じ込めてきた過去を、少しずつ揺り動かしていくことを。