かつて社会人だった高校生として二度目の青春を送っていた。
できることなら、静かに暮らしたい。
どうやら、望む平穏は随分と遠いらしい。
原作は途中までの履修となるため、設定や時系列に独自解釈が含まれます。
原作との相違点が生じる可能性がありますが、ご了承ください。
青春。そう聞いて、何を浮かべるだろうか?学校、友達、部活と様々だ。俺は、そんな青春は過去の物だと思っていた。ろくに勉強せずに、身の丈に合った、てきとうな高校へ進み。そこで楽な部活を、それなりに楽しんで卒業した。その後、これまたてきとうな専門学校に進み、微妙に違う空気に流されたまま卒業した。そして、それなりで入れた会社で、それなりの仕事をしていた。
学生と言う、青春のゴールデンタイムをそれなりに過ごした俺は、社会に揉まれ、上司に揉まれ、なんなら雨や雪にも揉まれた。だから、その青春を声たかだかに謳歌する者は眩しかった。そして、そこに突然放り込まれた俺は、ただ、机に伏せて背けるのだった。
江ノ電、七里ヶ浜駅の近く、峰ヶ原高校。なんだって事はない普通の学校だ。俺は縁もゆかりもなかったが。では、そんな学校がなんだというのか。それは、…いや、学校じゃないな。社会人の俺が、縁もゆかりもない高校の話をするのか。随分と勿体ぶったが、そう、なぜか高校生として通っているからだ。
なぜそうなったのか、それはまるで心当たりがない。ただ、酷く疲れた日に、普段飲まないお酒に逃げたからだろうか?それとも覚えはないが、飛び降りて輪廻転生でもしたのだろうか?それを知るすべはもうない。それを知っても仕方ないと諦めがついている。じゃあ、なぜそれを考えているのか、それはこの学校という雰囲気に嫌気が差しているからだろう。
伏せた体は耳までは覆えない。昨日のテレビはどうだ。SNSはどうだ。誰がかっこいい、かわいい。聞き耳を立てずとも、強制的に聞こえてくる雑音。鬱陶しいこの上ない。そして、合間に混ざる侮蔑的な差別の温床。なんで社会人の俺がこんなに疲れなきゃならない。時代は変わったのだろうか?いや、知ろうとしなかったのだろうか。この学校に安息な場所は少ない。定番の屋上も誰かがたまり、校舎裏も誰かが居座る。静かな部室も俺にはない。──じゃあ、休もうか?そんな安易で甘美な提案を俺にしてくれる親も友もいない。ただ、居候が1人、口煩く学校へ行けと俺の穴を蹴るのだった。
そんな煩い学校も静かになる時がある。そう、授業中だ。今も板書に夢中な中年教師が、分からなくもない数式を書き連ねる。それを書き取る炭素の音が教室に響いている。一種の流れにも似た音を、俺は好きになった。その時だけ雑音が減るからだ。まあ、隠れてスマホを触る不届き者も視界に入るが。それは自己責任だろう。俺は知らないし、何も言わないが中年教師も気づいているだろう。そうした時間もいずれ終わってしまう。
無謀にもチャイムが鳴った。再び、俺を雑音が襲う。こんなに耳が弱くなったのはなぜだったか。どうでも良いことで、俺は気を紛らわす。今は昼休憩。生徒が2番目に元気な時間だろう。机をつなげて弁当を食べる集団。学食で何を食べるか相談する声。早弁して体育館に走る男子共。必要なのかカメラを廻す女子共。そして、少なくない1人組。これが学校なのか、峰ヶ原だからなのか。少し興味はある。
そんな事をスカしながら、1人組の俺は2年1組の教室を出た。廊下にもたまる生徒を横に、俺は何処かの安息地を探す。階段で上に下に彷徨う。何がしたいのか、何がしたいのだろうか?足元を見ながらゆっくり進む。雑音は、今は少ない。
ブルブルと、ポケットから振動が伝わった。俺は少し悩んでから通知を開く。
『今日はシチュー』
それは居候からだ。思わず、ため息がこぼれる。高校に進学する際に拾ったそれは、ご飯が作れず、洗濯ができず、部屋を汚す。条件は最悪の不良物件。まあ、顔は良い。それを見捨てずに拾った僕を誰か褒めてくれ。
『今日はカレー』
『ケチ』
レスポンスの速い居候は、いつもこんな感じだ。そこは少ない利点だろう。遅いと俺は上司に怒られた。しかし、シチューか。牛乳を買わないといけない。時間はあっても面倒だ。
『お姉ちゃんは?』
再び、通知が届く。なんでこいつは短く用件を告げるのか?本人に問うことはないが、内心で愚痴る。
『学校には居るんじゃないか?』
『様子を聞いてるの(怒り)』
『校門で突っ立ってるのしか見てない』
『はあぁ、1人組にはその程度しか情報網がないか(哀れ)』
『今日はゴーヤにするぞ』
『ごめん』
ため息を再び吐き出した。面倒いが窓の外を見る。そこには、日陰となった場所で男女が向き合っている。告白だろう。今どき珍しく手紙で伝えるのか。珍獣を観る気分になった俺は、休憩時間の終わりを感じて教室に戻るのだった。
特に変わらない日常を過ごした俺は、放課後になっても変わらない。部活や買食い、ショッピングにカラオケ。矢継ぎ早に教室から人が捌けていく。教室には俺を含めて3,4人といった所か。静かな教室が図らずも出来上がる。今じゃなかったらと常々思う。
『今日は早い?』
マナーモードが働く。
『そっちも放課後でしょ。未読スルーするな』
『いつも通りだ』
『牛乳』
『ゴーヤの聞き間違いか?』
『牛乳!!(怒り)』
やはり、ため息を付きたくなる。
「帰らないのか?」
「…珍しいな、お前がこの時間に教室にいるなんて」
「忘れ物を取りに行く途中だよ。宍道はいつもいるよな」
まあ、俺─宍道大介はいつも教室でゆっくりとしている。突然声をかけて来た目の前の国見佑真は、それをなぜ知っているのだろうか。
「静かだからな」
「1年の時から変わらないな」
「人はそう変わらない」
「そうか?まあ、宍道は変わってないな。──っと、時間だな。じゃあな」
そう言って、嵐みたいなあいつは廊下を走っていった。なんか、疲れたな。俺は机に立てかけていたリュックを背負う。帰る準備はとうに終わっていた。なぜか校舎内を走る陸上部を横に、俺は校舎出入口まで降りた。教室で時間を潰した結果、下校の一番隊はとうに帰り、二番三番が順不同で下校する。まばらに歩く生徒の中で、一際目立つ存在がいたが、関わると面倒いので迂回する。そのまま、江ノ島電鉄を経て藤沢駅まで電車に揺られる。そこから、徒歩で20分。途中のコンビニで牛乳を購入。更に歩き、大通りから少し外れた築20年くらいの賃貸マンションにたどり着く。増設されたオートロックを抜ける。エレベーターに乗って、1つの部屋に着く。俺の借りてる家になる。中には変わらぬ居候がご飯を待っているだろうか?待っているんだよな…。ちょっと憂鬱気味に鍵を開けた。
「遅いわよ」
「ほれ」
「はいはい、着替えてきたら?待ってるわ」
「手伝う事は?」
「……」
彼女に期待するのは無駄なことだった。流石は家の御猫様だ。拾った時は警戒して、気を許したらこうなるのだ。もしかしたら、昔職場で聞いた都市伝説みたいな奴かもな。名称は忘れたけど。そんな事を思考しては消しながら、俺は制服から着替える。そして、俺の夕食の為に調理の準備をする。人参を刻んでいると、リビングのテレビから小難しい力学用語?が聞こえる。「ウィグナーの友人」そんな用語だと思うものが耳に入る。その特異な耳ざわりに内容が気になったが、チャンネルを変えられた。趣向に合わなかったようだ。気ままだが、慣れた。鍋の火を見つつ、米が炊けたかを確認する。
「できた?」
「皿くらい出してくれ」
「わかってるわよ」
彼女は戸棚を開けていく。見つからないのだろうな。手が離せないので場所を足で指示する。痛っ、叩かれた。ワークトップに皿が並べられる。煮えたシチューを俺は皿に注ぐ。それを彼女が並べる。俺は注ぎ終わった鍋を水に漬ける。彼女はもう椅子に座って待っている。俺もそれに続く。「いただきます」と習慣を終えた俺は、今日のシチューの出来を確かめる。味見はしない派の俺は、味付けが半ばランダムになる。今日は塩辛くない。薄くない。濃過ぎない。うん、当たりだった。その証拠に、彼女も文句言わずにスプーンを動かしている。
「…いつもこうなら良いのに」
「じゃあ、自分で用意してくれ」
「いや」
「はぁ、まあ良い。風呂は入ったか?」
「あんたの前はいやだからまだ」
「はいはい、さっさと入るよ」
「そうして」
ちょっと長い付き合いだから、聞きはするも返事はわかっていた。でも、聞くことは大事だ。それを俺は学んでいる。まあ、相手は面倒くさそうだけど。
「そういえば、お姉ちゃんの事はどうなのよ」
「…お前の方が詳しいと思うぞ」
「高校ではあんたの方が詳しいから。目立つんだからすぐに様子なんか分かるでしょ?」
「テレビは、難しいか」
「まあね、不便よね。スマホもここの回線遅いし」
マンションの回線は増設の際に付けられた物だが、安く最低限の物のため、高速回線にはほど遠かった。と言うか、低速の方が早い。
「大家さんはその辺りは疎いからな。改善は難しいだろうな」
「はあ、そうなのよね。それのお陰で助かっている部分もあるけど」
「だな」
「さて、あんたはさっさと入って来てよ。私が入れないじゃない」
「はいはい」
そう言って、使った食器を食洗機に入れる。ボタンくらいはやってくれると信じて俺は風呂場に向かう。洗濯機に下着を突っ込み、浴室へ入る。2年弱使っている浴室だけど、俺の体が大きいからか少し狭く感じる。彼女であれば広いだろうな。体を洗い、張ってくれていた浴槽に浸かる。
思えば、高校生になってから2年弱か。早いものだと思う。右も左も分からない俺に、大家さんが住居を貸してくれたから今になる。大家さんのネットに疎い所とほんわかしている所は、玉にキズな気もするが感謝が大きいな。彼女も大家さんに足を向けて寝れないだろう。そんな彼女とも2年か。生活が安定してきた所での拾いものだった。その時は、公園で見たことのある顔が見え、迂回しようとした。だが、泣いているのを見て、何を思ったか気づいたら部屋に入れていた。風呂に入れさせた後、話を聞いたが、俺も前例がなければ信じなかった。けど、前例があってしまった。それもあって放っておけず、大家さんを通して今の生活だ。
「はあ、明日もせっつかれるんだろうな。…面倒だ」
ゆっくり20分も湯船に浸かり、俺は寝間着に着替える。そして、入れ替わりで彼女が入り、洗面所の鍵を閉めた。
彼女を待っている間、リビングのソファーに座り、テレビをつける。バラエティー、ニュース、アニメ、ドラマ、チャンネルを変えながらまばらに見る。知っているような知らない番組ばかりであり、違和感からあまり楽しめないでいた。
「上がったよ」
「ああ、…なんか飲むか?」
「うん」
キッチンに立ち、お湯を沸かす。その後、インスタントのコーヒーとココアを取り出す。カップに注ぎ、彼女に持っていく。ココアの入ったカップを渡し、ソファーに座る。
「ありがとう。…熱」
「淹れたてだからな、ん、熱」
「フフ、あんたはてきとう過ぎんのよ」
「飲めれば良いだろ。…それよりも、大丈夫か?」
「…何のこと?」
「何、動いてないだろうと思ってな」
「ふーん、それ以上言ったら蹴るわよ」
少し彼女との間を空ける。流石に鍛えているやつの蹴りはくらいたくない。
「動いているわよ。体型には敏感なのよ」
「まあ、そうだろうけどさ。行動範囲的にな」
「仕方ないじゃない。迷惑かけられないわよ」
「…まあ、面倒くさいことにはなるな」
湯気があがるカップを机に置く。一度、彼女のことで大きく動いた事があった。だが、今のSNSが発展した時代に随分と考えなしの行動だった。騒ぎになりかけ、しばらく部屋からでれなかった。
「…さて、もう寝るわ」
「ああ、お休み」
「お休み」
彼女は、カップを置いたまま部屋に戻る。置かれたカップを見つつ、明日の教科を思い出す。数学、現国、…後で確認だな。俺も寝るか。カップを片付け、俺の部屋に入る。ものは少ない。けど、必要なものは大家さんとアルバイトでどうにかしている。ああ、後、彼女も動画投稿している。結構人気らしく、副収入みたくなっている。回線が悪いから時間がかかるらしいけど。さて、明日も煩い1日だ。早く寝よう。
翌日、まだ寝ている彼女を置いて、俺は電車に揺られる。生徒の半数が利用するこの電鉄は、厄介事も同時に運ぶ。俺はそれに巻き込まれたくない。だから、早めに登校している。そんな、まだ人も少ない電車内。適当に観察した事をメッセージで送る。それくらい以外は特に事件もなしに、俺は七里ヶ浜駅で降りるのだった。校門から生徒が増え始め、ざわざわと音が強くなる。特に聞きたい音楽もないが、イヤホンをつけて遮断する。
「…あいつのカバーか。なんで入ってるんだ?おすすめであがったか?」
彼女が投稿した歌ってみたカバー曲。再生数はそこそこだったと思う。まあ、アイドルと似た声だってそのファンが付いたんだろう。彼女の複雑そうな顔は今も思い出せる。
「この歌ってみたが流行れば、あいつもやりやすいだろうがな」
記憶に残る投稿サイトには、沢山の投稿があった。それにうまい具合に溶け込めば、目立たなくなる。どうせ収入は微々たるものだ。あいつもブランクが空かないようにできれば妥協もする。まあ、あいつがのびのびしている所を一度は見てみたいが、今は無理だろうな。母親に選ばれなかったと泣いていたあいつが、動画投稿できているだけでも今は十分なんだ。
今日も教室は雑音が残響となって酷いものだ。青春に浮かれるものは一様に声が大きい。だから、俺は関わらない。そう思いたい。
「宍道、ここを教えてくれ」
「…なんで俺に聞く。国見はどうした」
「今、少し言いにくい」
「…面倒事だな」
「双葉と言い、みんなそう言うな」
「病院送られ事件の件といい、そう言われても仕方あるまい」
「そうなんだけどな…」
そう言って、頭をかくコイツは梓川咲太。準1人組族だ。そして、広げられる現国の教科書。…教えるとは何をだ。漢字ならドリルを出せ。
「そういえば、宍道は桜島先輩について何か知っているか?」
「ああ、何かと目立つからな。それがどうした」
「…いや、綺麗だなって思ってな」
「…狙うのなら止めておけ」
「国見にも言われた」
「だろうな」
面倒事に好かれる奴だ。おそらく何かあったのだろうな。まあ、こちらに来ない程度に応援はしてやるよ。だが、これは自分でやれ。
「サンキュー、ひとまず双葉の所に行ってくる」
「報告はいらん。…ああ、そうだ。1つ頼む事があった」
「なんだよ、珍しいな」
「なに、桜島先輩が活動休止したのは何年前だったのかを聞いておきたかっただけだ」
「?おかしな事を聞くな。中学卒業直後だよ」
「……そうか、ありがとう。すまないな引き留めて」
「別に良いけど、じゃあな」
そう言って梓川は教室を出て行った。放課後だからと騒がしい音が遠くで聞こえる。今日の教室は少し煩い、これならば惜しくはない。…帰ろう。
電車に揺られ、俺はマンションに帰って来た。今日は、炒飯だな。
「…帰って来たのね」
「どうした、元気がないな」
「…ううん、それよりも早くご飯」
「…わかった」
出来た炒飯を彼女と食べる。昨日よりも元気はない。だが、まだ直接踏み込むべきではない。そう直感が警告する。だから、俺は何も言わなかった。風呂に入り、部屋に戻る彼女を見送った。そして、低速で動画のコメント欄を開く。──閉じる。回線が遅くても避けられないか。
次の日、彼女は出てこなかった。一応、朝ご飯は伝えた。…プリンでも買ってこよう。それでどうにかなるとは1ミリも思ってないが。
『なんかこの声、スイートバレットの子に似てないか?』
『似てるかも』
『もしかして、本人?』
『そっくりさんでしょ』
『豊浜のどかに似てる』
『でも、なんか違うかな』
『スイートバレットの豊浜のどかにそっくり』
『うん、なんか下手だな比べると』
『まあ、声真似のそっくりだからでしょ』
電車内で、書き込みを眺める。随分と好き勝手言っている。…正直、こうなる可能性も考えていた。いくらSNSに疎い俺でも調べるくらいはできる。比較するその残酷さは人なりに知っている。だが、当人の感情に蓋をする行為はしたくなかった。幸い、電波の遅いマンション内であれば、目にする可能性を下げられると踏んでいたが、まだまだ甘かったか。削除は難しい。投稿サイトであれば管理者権限でいけた。でも、外部サービスは適応外だ。最悪は投稿を止めること。最高は維持だろうか?ひとまず、話し合おう。会議のテーブルに彼女を座らせなければならない。
そうと決めた俺は、学校を欠席した。いつも微妙に頼りみしている直感も今だと言う。だから、俺は急いでマンションに戻る。そして、彼女──豊浜のどかの部屋の前に立つ。
「のどか、起きているか」
「……」
「…これからについて話そうと思う」
「……」
「俺はお前を傷つける気はない。ただ、お前と話したい。動画コメントのことは知っている。そして、概ねの状況もな」
「……」
「これでもお前の保護者だ。だから、話し合いたいと思う。だめならこのままでも構わない」
ガラッと引き戸が開かれる。そこには隈が少し見える豊浜のどかがいた。
「……大介」
「…なんだ」
「…お腹すいた」
「…ああ」
用意していた朝ご飯を温め直す。のどかはそれを勢いよく完食した。完食した食器を端に寄せ、俺とのどかは向かい合う。
「……」
「…まず、状況を整理しようと思う。いいか?」
「…うん」
「まずは『高松のぞみ』のアカウントだが、SNSで発信されてから少しづつ登録者が増えている。爆発的じゃなく、本当に少しずつだ。次に、コメントだが、のどかの意見次第でコメント欄凍結なんかはできる。ただ、外部は厳しい。それこそ何か他に大きな話題でもないと厳しいな」
「……そっか」
出来るだけ淡々と告げた。励ますようにとか同情とか色々あったけど、のどかには違うと思った。だから、なんてことないように告げた。でも、これはちゃんと聞く。
「のどか、お前はまだ投稿を続けたいか?正直、やめても誰も文句はない。俺も大家さんも」
「……比較されて、負けたんだよね。…自分に」
「それは書き込みのてきとうな意見だろ」
「…私は、あののどかの努力を知っている。だから、負ける事もあるかもって思ってた。投稿もする時にもそれは考えてた」
「……」
「でも、負けたんだよ。お姉ちゃんの時みたいに」
「……」
「…負けたら、なくなるんだよ。家族も自分も」
その瞳に光は見えない。それが今ののどかなのだろうか。
思い出す、あの公園で、のどかに出会った時、俺は『スイートバレットの豊浜のどか』を知らなかった。だが、生活が落ち着いた時にのどかが聞いていた曲があった。それがスイートバレットの曲だった。そして、のどかにとても似た少女が踊っているのを見た。
「…今回も負けちゃった。それも自分に」
うつむくのどか、机に置かれた手は震えている。
俺は、すぐにのどかに尋ねた。悪手だったが、のどかは話してくれた。この画面ののどかがこの世界でののどかなんだ、自分はここでは偽物だと。それを聞き、俺はすぐには理解できなかった。偽物と言う目の前の少女はどこも偽物ではなかった。まるで超常現象を話すのどか。だが、俺にも超常現象の覚えがあった。そう、俺もこの世界とは別の記憶がある。俺の世界に桜島麻衣と言う女優は存在しなかった。少なくともこれほどの人気ではない。だから、遅れたが、俺はのどかを信じた。
「本当に負けたのか」
「負けよ、だって、そうでしょ?」
「俺は正直に言って、勝ち負けは分からない」
「…知ってる。大介は歌、下手だから」
「……ああ、だから、あの書き込みが本当かどうかは分からない。いつもの嘘っぱちだって考えられる」
「でも、本当かもよ。あっちは本物、こっちは偽物何だし」
のどかはそう吐き捨てる。あの綺麗な瞳は酷く濁っている。
信じた俺は、のどかの望みを聞いた。最初は何も浮かべなかった。しかし、再度尋ねると、歌いたいとこぼした。歌、全くの門外漢だった。でも、ある意味の同類を見捨てたくなかった。国見に頼ったアルバイトでお金を稼ぎ、3カ月分の給料でパソコンとマイクを買った。そこからだ、『高松のぞみ』の誕生は。のどかの名字の豊浜に、近い高松自動車道から繋がりを残すために借名。そして、これはのどかの望みから始まった。だから『高松のぞみ』それがこの名前の意味だ。本人には恥ずかしくて言ってないがな。
「俺はお前を偽物と思った事はないぞ」
「それはあんたが本物を知らないからでしょ」
「いや、知ってるぞ。SNSで散々見た」
「じゃあ、何で偽物じゃないと思ったのよ」
「…SNSで見ただけで本物と思い込むほどリテラシーがないわけじゃないぞ?……後は、あれだシュレディンガーの猫だ」
「…意味は?」
「……その豊浜のどかに会って見ないと本物か偽物かを判断できない」
「…もう少し精神論で判断してよ」
「ん、なら、あの日、初めて動画投稿用の歌を歌ったお前の笑顔は嘘でも偽物でもなく、本当に綺麗だった。」
驚くほど正直に言葉が出てきた。力学の用語を引っ張ってもだめだった俺は、何も考えられなかった。そして、前を見たくない。すっごい恥ずかしい。だから、のどかがどんな顔をしているかなんて、まったく分からなかった。
事の顛末を言おう、結果として、のどかは一時的にコメント欄を閉鎖させた。今すぐは難しかったようだ。だが、いつかは声を聞きたいとも言っていた。
次、SNS、これに関しては俺達で出来ることはなかった。だが、思わぬ援護射撃─爆撃がSNSを襲った影響で有耶無耶になった。それは──
「今日で何日目だよこのニュース」
「仕方ないよ、お姉ちゃんの復帰宣言何だし」
「そんなにすごかったんだな」
「そりゃあ、もうね」
桜島麻衣の電撃復帰によって、母体数の少ない批判のつぶやきなど、まとめて流されてしまったのだった。今、『高松のぞみ』について検索しても、過去ログが表示されるだけだった。俺は素直にホッとしたが、のどかは少し複雑そうであった。でも、最高目標の維持には成功した事が俺にとって重要事だった。