――フランドール・スカーレットになれるのかもしれない。
その考えは、一度浮かんでしまうと、なかなか頭から離れなかった。
私は自分の指を見つめた。
小さな指だ。
前世の私が持っていた手とは、形も大きさも違う。けれど、今の私にとってはこちらの方が馴染み深い。生まれてから今日まで、この身体で生活してきたのだから、当然だろう。
前世の記憶が戻ったからといって、それまでの私が消えてしまったわけではない。
両親のことも、これまで過ごしてきた時間も、覚えている。前世の記憶は、それらを塗り潰すのではなく、その上に重なっていた。
私は私だ。
ただ、以前よりもずっと多くのことを知っている。
そして、知っていることの中には、どうしても忘れられない存在があった。
フランドール・スカーレット。
前世の私は、彼女が好きだった。
幼く愛らしい姿も、どこか人形を思わせる雰囲気も、背中から伸びる奇妙な翼も。無邪気さと残酷さが同居するようなところも、底知れない力を持ちながら、どこか危うく見えるところも。
好きなところを挙げていけば、いくらでも言葉が出てくる。
公式作品で描かれた彼女だけではない。二次創作で見た彼女の姿にも、何度も心を奪われた。
彼女について考えることは、私にとって楽しいことだった。
それは今も変わらない。
変わったのは、その気持ちの先に、新しい願いが生まれたことだ。
――フランドールになりたい。
前世では、そんなことを現実の目標として考えたことはなかった。
好きなキャラクターになりたい、という気持ち自体は、想像するだけなら難しくない。けれど、実際に別の存在になる方法など、普通はない。
だから、私は彼女を好きなままでいた。
その距離が、今になって変わったのだ。
この世界が、私の知っている『呪術廻戦』の世界なのだとしたら。
人間の身体や魂に干渉する術式が存在していても、おかしくはない。
そして、私自身も、何かを変える力を持っている。
ならば。
「……なれるのかな」
小さく呟いた声は、誰に聞かせるものでもなかった。
答えは分からない。
そもそも、今の私が持っている力についてさえ、ほとんど何も知らないのだ。
できることがあるのは分かる。
しかし、それがどこまで可能なのかは分からない。
フランドールになるためには、何が必要なのか。
姿を変えればいいのか。
身体の構造まで変える必要があるのか。
彼女と同じ能力を持つことはできるのか。
そもそも、どこまで変われば、私はフランドールになれたと言えるのだろう。
考え始めると、疑問はいくらでも増えていった。
けれど、今ここで答えを出す必要はない。
まずは、自分に何ができるのかを確かめればいい。
私は、改めて自分の指に意識を向けた。
指先から第一関節、第二関節へ。
目で見える形を、ゆっくりと追っていく。
普通なら、指はこの形をしている。
骨があり、関節があり、その周りを肉や皮膚が覆っている。指を曲げようと思えば、筋肉や腱が働き、関節が動く。
けれど、先ほど自分の身体に起きた変化は、それとは違っていた。
指を動かそうとしたわけではない。
ただ、変えたいと思った。
その瞬間、自分の中にある何かへ意識が触れた。
目で見えるものではない。
手で触れられるものでもない。
それでも、確かにそこにあると感じられるもの。
私自身を、私自身として成り立たせている何か。
その輪郭に、意識が触れる。
ほんの少しだけ、形を変える。
その後で、指先が歪んだ。
「……!」
思わず、息を呑む。
指の先端が、わずかに伸びていた。
皮膚が引き延ばされたように見える。けれど、無理に引っ張られたときの痛みはない。
そもそも、私は指を引っ張っていない。
自分の中にある何かを変えた。
それに応じて、指が変わった。
そうとしか思えなかった。
私は目を離さず、もう一度試した。
先ほどと同じように、自分の中に意識を向ける。
指そのものを押したり、引いたりするのではない。
その形を決めている、もっと根本にあるものを探る。
感覚をつかみかけたところで、少しだけ形を変える。
指先が伸びた。
今度は、先ほどよりも狙ったとおりだった。
戻す。
元の形を思い浮かべ、輪郭を戻す。
指先が、ゆっくりと元の形に戻っていった。
できた。
思わず、頬が緩む。
たったこれだけのことなのに、嬉しかった。
自分の身体が、自分の意識に従って変化した。
しかも、普通に身体を動かすのとは違う方法で。
私は何度か、指を伸ばしては戻すことを繰り返した。
成功するたびに、変化させるときの感覚が少しずつ分かってくる。
何も考えずに変えようとするよりも、変化させたい場所をよく見て、そこに意識を向けた方がやりやすい。
ただし、見ているだけで変化するわけではない。
意識の向け方が曖昧だと、思いどおりに形が変わらなかった。
逆に、変えたい形を細かく考えすぎても、うまくいかない。
指先を伸ばす。
そこまではできる。
けれど、伸ばした先端を細くし、関節の位置を変え、皮膚の輪郭まで整えようとすると、途端に難しくなった。
意図した形がまとまらず、指全体が歪む。
慌てて元の形に戻す。
どうやら、何でも自由に変えられるわけではないらしい。
少なくとも、今の私には。
私は失敗した指を見つめながら、さっきの感覚を思い返した。
変化させようとしたとき、私は指の骨や筋肉を、一つずつ動かそうとしたわけではなかった。
そもそも、骨や筋肉を直接操作しているという感覚自体がなかった。
もっと曖昧で、それでいて、自分の身体を変えるための根本に近い何か。
それを変えた結果として、指が変わった。
では、その何かとは何なのだろう。
私は、前世の記憶を探った。
呪術廻戦。
私が知っている物語の中に、肉体を変形させる術式が存在していた。
無為転変。
真人という呪詛師が使う、魂の形を変える術式だ。
魂の形を変えれば、それに従って肉体も変化する。
少なくとも、私の知っている物語では、そういう能力だった。
もちろん、今の私の力が無為転変そのものだと決まったわけではない。
前世の記憶にある知識と、今ここで起きている現象が、どこまで一致しているのかは分からない。
けれど、もし似た仕組みを持っているのなら。
私が変化させているのは、肉体ではなく、魂なのかもしれない。
そう考えると、先ほどの感覚にも説明がつく。
自分の中にある何かに意識を向け、それを変える。
その結果として、肉体が変化する。
もし、私の考えていることが正しいのなら、肉体の形を決めているのは、肉体そのものではないのかもしれない。
私が変えている何かに、肉体が追従している。
それが魂なのだとしたら、今の現象にも説明がつく。
ただし、これは仮説だ。
私は魂を目で見たわけではないし、今の感覚が本当に魂を捉えているのかどうかも分からない。
以前、奇妙な現象を目にしたときには、霞のようなものが見えた。
あれと、今感じているものは同じなのだろうか。
それとも、別のものなのだろうか。
今のところ、答えは出ない。
あのときは、目の前の現象を理解するより先に、何かが起きてしまった。
けれど、今回は違う。
自分の身体を対象にして、意識を向け、変化を起こし、その結果を確かめられる。
少なくとも、同じことを何度か試すことはできる。
ならば、そこを出発点にして調べていけばいい。
私は、もう一度指先を見つめた。
今度は、ただ伸ばすのではなく、先端だけを細くしようと考える。
意識を向ける。
変えたい形を思い描く。
けれど、うまくいかない。
指先が少し伸びたあと、輪郭が崩れた。
私はすぐに元の形へ戻す。
もう一度。
今度は、変える範囲を狭くする。
指全体ではなく、先端だけ。
その部分の形を意識し、ほんの少しだけ変える。
今度は、わずかながら形を保てた。
完全に思いどおりではない。
けれど、先ほどよりは確実に狙った形に近かった。
私はその変化をじっと観察した。
変えたい場所を絞ると、少しだけ制御しやすくなる。
少なくとも、今の実験ではそうだった。
これが本当に操作する範囲の問題なのか、それとも意識の向け方が変わったからなのかは分からない。
確かめるには、条件を変えて何度か試す必要があるだろう。
そう考えると、やるべきことは案外はっきりしていた。
変化させる場所を変える。
変形の大きさを変える。
意識の向け方を変える。
それぞれの結果を比べる。
まだ幼い私に、難しい研究ができるとは思わない。
けれど、試して、観察して、違いを確かめるくらいならできる。
そして、今の私には、それを続ける理由があった。
フランドールになりたい。
その願いを叶える方法は、まだ見つかっていない。
けれど、自分の力で身体を変えられるのなら、何かにつながる可能性はある。
姿を変えることだけで、願いが叶うとは思っていない。
フランドールの翼は、ただ背中に何かを生やせば再現できるものなのだろうか。
彼女の能力は、どのような仕組みで成り立っているのだろう。
彼女の身体を構成するものは、私と同じなのだろうか。
分からないことばかりだ。
だからこそ、知る必要がある。
「……面白い」
思わず、声が漏れた。
誰かに褒められたわけでもない。
何か大きな成果を得たわけでもない。
ただ、自分の力で、自分の身体を少しだけ変えられた。
それだけのことが、こんなにも楽しい。
私は、変化した指を元に戻した。
そして、もう一度、最初から試す。
今度は、先ほどとは違う形を思い描いた。
うまくいくとは限らない。
けれど、失敗したところで、何が分からなかったのかを考えればいい。
繰り返していけば、いつかは分かることも増えるだろう。
私は自分の指を見つめ続けた。
フランドール・スカーレットになるために。
まずは、自分の力を知るところから始めよう。