君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
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夜が明けるたび、俺の口座には金が増えた。
五万一千二百円。六万三千四百円。四万九千八百円。
古いスマートフォンの画面に並んだ数字を見つめながら、俺はその下へ指を滑らせた。十日前の記録まで遡り、もう一度、上から順に確かめる。入金に間違いはない。ZAロワイヤルの賞金として振り込まれた額は、どれも俺が仕事で一日かけて稼ぐ金より大きかった。
最初の夜には、手が震えた。
今は違う。
「……昨日より、一万三千六百円少ないな」
声に出してから、少し遅れて違和感が来た。
昨日より少ない。それが最初に思い浮かんだ感想だった。今日も何万円もの金を手に入れたことではない。ゼラオラが怪我をせずに帰ってきたことでもない。前の夜に届かなかった数字のことばかりが、頭から離れなかった。
窓の外では、ゴミ収集車が低い音を立てている。俺は寝袋に身体を横たえたまま、スマートフォンを伏せた。壁際ではゼラオラが、自分の布団に座ってこちらを見ていた。
「……何だよ」
答えの代わりに、あいつは俺が手を伸ばした端末の上へ前脚を置いた。
「分かってる。寝るよ」
ゼラオラはまだ動かない。しばらく目を合わせていると、ようやく手を退けた。俺は端末を鞄へしまい、目を閉じる。
もう少し眠れる。今日は午前中、事務所で資材の記録を整理することになっていた。タラゴンから、しばらく重い荷物を持つ仕事はさせないと言われている。先週、伝票の数字を二度間違えたせいだ。
仕事を減らされるのは怖かった。だが、現場で事故を起こせば、俺だけの問題では済まない。それも分かっていた。
眠らなければならない。
そう思うほど、まぶたの裏には数字が浮かんできた。
♦
ラシーヌ工務店の事務所には、朝から紙の匂いが満ちていた。
資材の発注表、納品書、車両の点検記録。机の片側へ積まれた書類を種類ごとに分け、日付と品目を照らし合わせていく。単純な作業だが、気を抜くと似た数字が入り混じる。俺は定規を一行ずつ当てながら、慎重に確認していた。
手元の紙に書かれた金額が、昨夜の換金額と似ていることに気づく。
三万八千五百円。
資材の代金だ。ただの数字のはずなのに、その額が賞金メダル何枚分に相当するかを考えてしまう。すぐに頭を振り、品目の欄へ視線を戻した。
「リュカ。休憩入れ」
顔を上げると、タラゴンが事務所の入口に立っていた。
「ここまで終わらせてからにします」
「その『ここまで』がいつまで経っても終わらねえから言ってんだ。手ぇ止めろ」
「……分かりました」
鉛筆を置く。握っていた指が、すぐには伸びなかった。
タラゴンは机へ視線を落とし、整理された書類の束を確かめた。作業が遅いと叱られるかもしれないと思ったが、そうはならなかった。
「間違いは減ったな。だが顔色は相変わらずだ」
「元からこんな顔です」
「それで通ると思うなよ」
俺は返事をしなかった。
「現場は信用が第一だ。倒れそうな奴に無理させて、誰かを怪我させりゃ取り返しがつかん。休ませてんのは嫌がらせじゃねえからな」
「……はい」
その通りだった。頭では、よく分かっている。
仕事を続けるためには休息が必要だ。怪我をすれば、もっと長いあいだ働けなくなる。工務店は俺の生活を支えてくれている場所でもある。そんな場所で迷惑をかけたいわけじゃない。
それなのに、休憩を告げられると胸の奥がざわついた。身体を動かしていない時間が、何かを失っている時間に思える。
俺が椅子から立ち上がると、タラゴンは小さく息を吐いた。
「……今夜は少しくらい早く寝ろ」
「そうします」
嘘をつこうと思ったわけではなかった。
今夜は早く帰るつもりでいた。昨夜の収入が少なかったから、少し多めに稼ぎたいとも思っていた。両方とも本当の気持ちで、どちらかを選ぶ段階になるまで、矛盾していることから目を逸らしていた。
♦
休憩室へ入ると、ゼラオラが窓際で眠っていた。
あいつには昼のあいだ、なるべく休んでもらっている。夜の戦いでは、俺の何倍もの速度で街を走り回る。どれほど強くても、疲れないわけじゃない。だから、工務店の人たちにも頼んで、危険のない場所にいられるようにしてもらっていた。
俺が椅子を引く音で、片耳が動く。
「寝てていい」
小さく声をかけると、ゼラオラはもう一度目を閉じた。
鞄からパンを取り出そうとしたところで、扉が開いた。
「……あ。いた」
カナリィだった。
以前と同じ派手な服装で、片手には飲み物を持っている。俺の姿を見つけるなり、あからさまに眉を寄せた。
「おまえ、またそんなの食べてんの?」
「そんなのって何だよ」
「パン。昨日も見た気がするんだけど」
「昨日も食べたからな」
「……そういうこと聞いてないし」
カナリィは向かいの椅子に座った。用事があるようには見えない。自分の飲み物に口をつけ、俺の手元をちらちら見ている。
「推薦、通ってよかったじゃん」
「……ああ。助かった」
「それだけ?」
「ほかに何かあるのか」
「別に。もうちょっと感謝してくれてもいいと思っただけ」
「ありがとうって言っただろ」
「言い方がさあ……」
彼女は言葉を切り、窓際のゼラオラへ視線を移した。
「それで、今どこまで上がったわけ?」
「Y」
「まだYなんだ」
「始めたばかりだからな」
「ふーん。まあ、おまえのゼラオラなら、すぐ上がれそうだけど」
以前、四体続けて負けたときのことを思い出したのか、カナリィは少し不満そうな顔になった。だが、すぐに表情を戻す。
「……毎晩、出てんの?」
「出られる日は」
「休みは?」
「必要なら取る」
「それ、休んでない人が言うやつじゃん」
俺はパンの袋を開けた。
カナリィはしばらく何かを言いたそうにしていたが、突然、自分の端末を取り出した。明るい画面が点き、映像の一部がこちらを向く。
「これ、昨日のぼくの配信。見た?」
「見てない」
「だろうね。そもそも動画、まともに動かないんでしょ、そのスマホ」
朝に初めて会った日の言葉が、胸の奥を小さく刺した。
「……別に困ってない」
「ぼくは困るんだけど。話が通じないし」
「お前の配信を見る義務はないだろ」
「それは、そうだけど!」
彼女は一度口を閉じ、それから何でもないことのように続けた。
「ゼラオラのこと、配信で話したら面白そうって思ったんだよね。あんなに強いの、珍しいし」
「やめてくれ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
カナリィの指が止まる。
「……は?」
「俺たちのことは、勝手に話さないでくれ。写真も、名前も」
「いや、まだ話すなんて決めてないし。確認しただけじゃん」
「……そうか」
手元のパンが、少し潰れていた。
昔、母さんの顔が写った写真を知らない人間の画面で見つけたことがある。善意の活動報告として載せられたものだった。俺たちの暮らしが、誰かの頑張りを証明するための材料になっていた。
あのときの息苦しさを、俺はまだ忘れていない。
「……悪い。言い方がきつかった」
カナリィは、すぐには返事をしなかった。
「……分かったよ。勝手に載せたりしない」
飲み物を持ち上げ、わざとらしく顔を背ける。
「ほんっと、おまえって面倒くさい」
「……ああ」
その後、彼女は配信の話をやめた。
俺はパンを食べながら、ようやく呼吸が落ち着いていくのを感じていた。向かいに座るカナリィは、しばらく黙っていた。いつもならすぐに悪態が返ってくるのに、その日は何も言わなかった。
♦
Xランクになったのは、それから四日後だった。
指定された場所へ行き、挑戦資格を示す。相手のポケモンが三体並んだが、ゼラオラは一度も大きく後退しなかった。俺は必要な指示だけを出した。最後の一体が倒れると、画面に昇格の文字が浮かんだ。
Xランク。
Yから、たった一文字変わっただけだった。
相手のトレーナーは、倒れた相棒のそばへ膝をついた。俺は礼を言い、ゼラオラに怪我がないことを確かめた。あいつはいつもどおり、俺が手を伸ばす前に頭を近づけてくる。
「……ありがとう」
声をかけ、額を撫でる。
そこまでは、以前と変わらなかった。
変わったのは、そのあとだった。
昇格の通知を閉じた俺は、すぐに今夜の賞金メダルの数を確かめていた。
今日はまだ換金倍率が低い。夜明けまで時間がある。ここから別のバトルゾーンに移れば、あと五人くらいは倒せるかもしれない。そうすれば、翌朝に入る額が増える。
さっきまで相手がいた場所へ、もう目は向いていなかった。
ゼラオラが俺の袖を引いた。
「……あと少しだけ」
あいつは動かなかった。
俺は一度、端末を伏せた。目の下が熱い。眠気で焦点が合わず、街灯の光が二つに見える。夜明けまで残っている時間と、明日の出勤まで残っている時間。その両方を数えて、ようやく思い直す。
「……悪い。今日は帰ろう」
ゼラオラは黙って俺の横へ並んだ。
帰ると決めた途端、喉の奥が苦くなった。もう少し戦えば金が増えたかもしれない。母さんのために使えたかもしれない。その考えを振り払うまで、何度も振り返ってしまった。
♦
夜の帰り道で、例のヤブクロンを見つけた。
飲食店の裏手。ゴミ袋が並ぶ、街灯の届きにくい場所だ。初めて見たときと同じように、ヤブクロンはこぼれた紙や空き容器を小さな腕で寄せ集めていた。
あれ以来、ここを通るたびに姿を探すようになっていた。毎晩会えるわけではない。いない日もあれば、袋の陰からこちらを見ているだけの日もある。
今夜は、ゼラオラが先に気づいた。
「……いたか」
ヤブクロンは俺たちを見るなり、びくりと身体を縮めた。逃げなかったが、近づいてもこなかった。
ゼラオラがゆっくりしゃがむ。普段、勝負になると目で追えない速さで動くあいつが、今は足音を殺している。
「無理に近づくなよ」
俺が言うと、ゼラオラは耳を動かした。
少し離れた場所に、破れた袋から飛び出した紙コップが転がっていた。風で路地へ流されそうになっている。俺はそれを拾い、集積場所の端へ置いた。
ヤブクロンがこちらを見ていた。
「……片付けてるのか、お前」
答えが返るとは思っていなかった。それでも、ヤブクロンはちょっとだけ身体を揺らした。驚いたのか、警戒したのかは分からない。
この街には、見た目だけで嫌われるポケモンがいる。臭いだとか、汚いだとか、人間の都合で追い払われる。だからといって、俺が今ここで何かを言ったところで、ヤブクロンの暮らしが変わるわけでもない。
自分だって、他人の生活をどうにかできるほど立派な人間じゃない。
俺は立ち上がった。
「……邪魔したな」
歩き出すと、後ろで小さな音がした。振り返れば、ヤブクロンがゴミ袋の陰から半分だけ顔を出している。
それだけだった。
名前をつけることも、手を伸ばすこともなかった。ただ、翌日もこの道を通れば、また姿を探してしまうだろうと思った。
♦
金の使い道を考える時間は、いつも夜明けのあとに来た。
連続した入金の記録を確かめ、家賃の引き落とし予定を見て、最低限の食費とゼラオラの食事代を除く。足りない月が来たときのために少し残し、それ以外を故郷へ送る。
数字を揃えていくと、不思議な安心感があった。
母さんが病院へ行く交通費に困らない。家の修繕を後回しにしなくて済む。これまで買えなかった生活用品を、必要なら買える。自分ができることが、ようやく増えてきた。
その一方で、俺自身の生活は少しも変わらなかった。
朝はパン。昼もパン。夜は安くなったものを選ぶ。足りないときは水で紛らわせる。スーパーに入るたび、まず値引きの棚へ向かう。かごに入れた商品が高いと感じれば、棚へ戻す。
金がなかった頃に身につけた癖は、残高が増えても消えなかった。
ある日の帰り道、スーパーの冷蔵棚に並んだ惣菜を見て、足が止まった。温めればそのまま食べられるものだった。野菜も、肉も入っている。いつも買うパンより何倍か高い。それでも、買えない金額ではない。
手に取って、栄養成分の表示を見た。
これを食べれば、少しは身体が楽になるかもしれない。昼間、頭が働かなくなることも減るかもしれない。タラゴンにまた顔色を心配されずに済むかもしれない。
そう考えたのに、手は動かなかった。
この金を使わなければ、母さんに送れる。
たったそれだけの考えで、惣菜を棚へ戻した。
ゼラオラが俺の手元を見ている。
「……今日は、こっちでいい」
安いパンを取ると、あいつは耳を伏せた。
叱られているような気がして、俺は目を逸らした。
金を稼ぐことには慣れた。だが、その金を自分に使うことには、どうしても慣れなかった。
♦
二週間ほどが過ぎた頃、母さんから電話があった。
工務店からの帰り道だった。まだ日は沈みきっていない。店先には夕方の客が集まり、どこかから焼きたてのパンの匂いがした。
「もしもし、母さん」
『リュカ。今、少し話しても大丈夫?』
「うん。僕はちょうど帰るところ。どうしたの?」
『この前、またお金を送ってくれたでしょう。ずっと気になってたの』
声は穏やかだった。だから余計に、胸が苦しくなった。
「仕事が忙しかったからさ。少し余裕ができたんだ」
『それにしても、あんまり多いわ。母さん、何に使っていいのか分からなくなっちゃう』
「必要なときに使ってよ。病院に行くときとか、家のこととか」
『必要な分はちゃんと使わせてもらってるわよ。でもね、全部あなたからもらうつもりはないの』
母さんは少し言葉を選んだ。
『診療所の先生とも話してる。紹介先のことも、できるところから進めてもらってるわ。あとは、先生たちの説明を聞いて、私がちゃんと決めないとね』
「……うん」
『私の身体のことだから。あなた一人で背負わなくていいのよ』
俺は立ち止まった。
通りの向こうで、小さな子供が母親の手を引いている。買い物袋を提げた女が笑い、子供は何かを指差していた。何でもない夕方の風景だった。
「僕は、できることをしてるだけだよ」
『それは分かってる。だけど、リュカにもちゃんと暮らしてほしいの。暖かいもの、食べてる?』
「食べてるよ」
『……そう。ならいいんだけど』
母さんはそれ以上追及しなかった。
追及されないことに安心し、同時に申し訳なくなった。俺は母さんに嘘をついている。だが本当のことを話せば、あの人は送った金より俺の身体を心配するだろう。そうなれば、また余計な苦しみを増やしてしまう。
『ゼラオラも元気?』
「うん。ほら、ここにいるよ」
スマートフォンを下げると、ゼラオラが小さく鳴いた。母さんの笑い声が聞こえる。
『あの子にもよろしくね。二人とも、無理しないで』
「……うん。母さんもね」
通話が終わっても、しばらく動けなかった。
自分が稼いだ金で、母さんの選べる道が増えていく。それは確かに嬉しい。けれど、母さんが本当に望んでいることを考えると、どうしても目を合わせられない気がした。
母さんは、俺に生きてほしいと言っている。
俺は、母さんに生きてほしいと思っている。
同じことを願っているはずなのに、どうしてこんなに噛み合わないのだろう。
♦
翌日、カナリィがまた休憩室へやってきた。
扉を開けるなり俺の顔を見て、露骨に眉をひそめる。
「……おまえさ、ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「絶対嘘。前より目の下、黒くなってるんだけど」
「元からだ」
「それ、便利な言い訳だよね」
彼女はいつもどおり向かいに座った。何の用事なのかは分からない。ゼラオラに軽く手を振ると、あいつは短く鳴いて返事をした。
「Xに上がったって聞いたよ」
「……ああ」
「おめでと。まあ、ぼくに勝ったんだから、当然っちゃ当然だけど」
「ありがとう」
俺がそう答えると、カナリィは一瞬だけ黙った。
「……なんか、素直だと逆に変なんだけど」
「どうしろってんだよ」
「そういうとこ!」
少しだけ声を上げたあと、彼女は俺の鞄に目を向けた。
「ねえ。ZAロワイヤル、そんなに楽しい?」
「楽しいとかじゃない」
「じゃあ、何で毎晩出てるわけ?」
俺は答えなかった。
勝てば金が入るからだ。母さんに送れるからだ。それだけのことを、どうして口にできないのだろう。彼女に知らせたところで、何か変わるとは限らない。それでも、知られた後のことばかりが怖かった。
カナリィは俺の沈黙を見て、少しだけ目を細めた。
「……また、関係ないって言うんでしょ」
「……悪い」
「謝ってほしいんじゃないし」
彼女は飲み物を机に置いた。
「ぼく、別におまえの秘密を全部聞きたいわけじゃないんだけど」
そこで言葉を止め、窓の外を見た。何を続けようとしていたのか、俺には分からない。
「……ま、いいや。倒れたら勝負もできないんだから、ほどほどにしなよ」
「分かってる」
「その返事、信用できないんだよね」
立ち上がった彼女は、部屋を出る前に一度振り返った。
「あと、ゼラオラにはちゃんと休ませなよ」
「……それは守ってる」
「だったら、自分にも少しは同じことしなよ」
扉が閉まった。
俺はしばらく、彼女が座っていた椅子を見ていた。
誰かに心配されることは、苦手だった。ありがたいと思う気持ちより先に、何を答えれば相手が納得するかを考えてしまう。カナリィの言葉も、いつもなら邪魔だと思って終わりだったはずだ。
なのに、今日は少しだけ耳に残った。
ゼラオラが俺の肘へ額を押しつけた。
「……分かってるって」
そう答えながら、今夜も出るつもりでいる自分がいた。
♦
月末が近づいた。
工務店からの給料日と、ZAロワイヤルの入金が重なる。通帳代わりの画面には、少し前なら想像できなかった数字が並んだ。母さんへ送る額を決め、必要な残高を残す。送金が完了すると、画面の中の金額は大きく減った。
だが、不安は消えなかった。
次の月も同じ額を稼げるのか。病院からいつ連絡が来るのか。もし手術が難しいと言われたらどうするのか。金で解決できないことがあるのなら、なおさらAランクへ行くしかない。
Xになったからといって、ゴールが近づいた気はしなかった。
Xの次には、まだ別のランクがある。その先にも、さらに別のランクがある。アルファベットを一つ進めるたび、願いに少し近づいているはずなのに、数字を稼ぐことの方がはっきりした手応えを持ち始めていた。
その晩も、俺は夜明け近くまで走った。
相手の顔は、ほとんど覚えていない。
勝ち負けの表示が切り替わり、メダルが増え、別のバトルゾーンへ移る。途中で拾ったカードの条件を達成し、報酬の数字を確認する。ゼラオラの様子だけは何度も確かめた。あいつが首を振れば止める。疲れたと示せば帰る。そこは約束していた。
ただ、自分の身体から上がる警告だけは、毎回後回しにできた。
寒さに震える手。乾いた喉。少しずつ重くなる足。
夜明けの通知が鳴る頃には、立ち止まっただけで眠ってしまいそうだった。それでも画面に換金額が出ると、頭の奥に小さな光が灯る。
今日は、昨日より多い。
明日も、この額を稼げれば。
そんなことを考えてしまう。
ゼラオラが俺の手を握った。
「……帰ろう」
その温かさだけが、数字の外に残っていた。
♦
帰り道、スーパーの前で足を止めた。
朝に近い時間でも開いている店だった。棚には値下げの札が残り、惣菜やパンが並んでいる。俺は一度、野菜と肉の入った弁当を手に取った。
これまでなら、値段を見ただけで棚へ戻していたものだ。
今なら、買える。
買ったところで、母さんに送る金がなくなるわけじゃない。次の家賃が払えなくなるわけでもない。俺が温かいものを食べても、誰も困らない。
そう考えた。
なのに、裏面の値札を見た途端、別の計算が始まった。
その金で、母さんは何を買えるだろう。
これを毎日食べれば、一か月でいくらになるだろう。
手術の日が決まったとき、あと少しだけ金が足りなかったら。
俺は弁当を棚へ戻した。
安いパンを一つ選ぶ。レジで支払いを済ませ、外へ出ると、ゼラオラが黙って俺を待っていた。あいつの食事は別に用意している。自分の身体より大切にしていることを、間違いだとは思わない。
けれど、さっきの惣菜くらい買ってもよかったのではないかと、どこかで考えていた。
買えないのではない。
買わなかった。
その違いを認めるのが、妙に怖かった。
帰路の途中、俺はいつもの路地を覗いた。薄暗いゴミ集積所の陰で、ヤブクロンがこちらを見ていた。
ゼラオラが小さく鳴く。
「……おはよう、って時間か」
俺が言うと、ヤブクロンは少しだけ身体を揺らした。警戒は解いていない。距離を詰めれば、すぐに袋の陰へ隠れてしまうだろう。
俺は足元に落ちていた紙切れを拾い、まとめられたゴミの脇へ置いた。ヤブクロンは、その動きをじっと見ていた。
それ以上は何もしなかった。
この街には、金を払えば手に入るものがある。どれほど働いても、まだ届かないものがある。何も払わずに近づけば、嫌がられることだってある。
俺は、目の前の小さなポケモンに何をしてやれるのか、まだ分からない。
ゼラオラと並んで歩き出す。
夜は終わった。金は増えた。母さんに送る額も増やせる。
それでも、俺が今夜食べるのは、昨日と同じ安いパンだった。
明日の朝も、仕事がある。
それだけは、どれだけ勝っても変わらなかった。