跳べ、ウラヌス ~ウマ娘オリンピック物語~ (空見ハル)
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#1 最強のふたり

スペシャルウィークたちがターフを走るより少し前の話。イタリアにある小さなウマ娘の育成寮に、誰にも理解されず、孤独に走り続けるウマ娘がいた。そんなウマ娘の下に一人の東洋軍人が訪れる。男の名は「西 竹一」。ただ一人心を閉ざしていたウマ娘は、この奇妙な男に徐々に惹かれていく。そして2人は走り始めた。「世界」という、大きなステージを目指して。

これは、世界で"最強"だった、ウマ娘とトレーナーの物語。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。


私を理解してくれる人間なんて誰もいない。

 

 私は一番になりたかった。

 

 誰かのやり方じゃなくて、誰かの言いなりになるのではなくて……私の力で、誰よりも強いウマ娘に。

 

 でも、周りの人は誰も分かってくれなかった。

 

 最近”この国”が変わりはじめてからは特にそうだ。皆と同じにしろ、お前は良いところの生まれだから大人しくしていろとか、そんなことばっかり。皆と同じにしていたら、皆と同じくらいしか強くなれないじゃない。

 

 私と真剣に向かい合ってくれて、ましてや私の強くなりたい夢を応援してくれる人なんていなかった。

 

 だから私は今のように、いつも怯えながらも何かを言ってくる寮の口うるさい管理人か誰かを蹴とばしてトレーニングに明け暮れてた。

 私たちが住むこのイタリア陸軍の競技ウマ娘寮では、ただの競争だけではなくて障害飛越競技をするウマ娘たちも広く育てられていた。私もその一人。

 

 時には小さな、時には巨大な障害物を飛び越えてひたすら速く走り続ける競技。

 

 私はそんな競争を戦うウマ娘たちの中でもひと際大きい。それに自分で言うのも何だけど、力は強いし戦うのは好きだった。

 

 でも、だからかな。私はよく怖がられて、今や一人ぼっちだ。競争の障害に怯えるウマ娘も沢山いるくらいだ。そんな障害よりも大きなウマ娘の私が怖いんだろうか。

 

 私の周りには誰もいない。ウマ娘も、人間も。

 

 でも良い。

 

 例え私一人でも、誰よりも速く、誰よりも強く、

 

 ——誰よりも、高く跳ぶために。

 

 そんな私を理解してくれる人間なんてどこにもいない。ずっとそう思っていた。

 

 「褐色の髪に星の模様……君かあ。この国の人間でも手に負えない一番の豪傑と言うのは」

 

 だけどある日、いつも通り一人でトレーニングに明け暮れていた私に話しかけてくれた男の人がいた。

 襟を正してぴしりとした上着。軍服のようだけど、だぼっと広がったズボンに、更にその下に履いたきらきらした靴はフランスのエナメル製だろうか。帽子のデザインは軍隊っぽいけど、横に張り出したトップに短いひさしは軍人ぽくはなく、何だかへんてこにも見えた。

 しかも髪は七三分け。服を見る限り軍人だけど、まるでローマのナンパ師みたいな風貌だ。

 でもその歩き方や表情はまるで、絵本の中の王子様みたいとも言えるかも意外と格好良くて真面目そうな……

 

 "見ない顔ね。ここの国の人じゃない。"とりあえずそう声をかけてみた。

 

「ああ、お転婆で可愛らしいお嬢さんの顔を見るためなら、どんなところへでも」

 

 前言撤回。

 

 この顔は良い東洋人らしき胡散臭い軍人は、笑いながら私の横に座って勝手に話し始めた。

 自分が東洋の日本という国からこのイタリアに来た貴族で軍人だということ、共に世界一になれる最高のウマ娘を探していること、そして、その”最高のウマ娘”が私だということ。

 

「君のことを聞いてからすぐに分かった。君は世界で一番のウマ娘になれる」

 

 ……突然何?どうしてそんなことが分かるの?

 

「分かるさ」

 

 何が?

 

「健全なる精神は、健全な肉体に宿ると言うだろう。そう、君のこの脚! この脚には……」

 

 そう言って私の脚を触ろうとして来たこの変態貴族は、もちろん思いっきり蹴り飛ばしてやった。

 

「ああ、やっぱり思った通りだ」

「君となら世界一になれる」

 

 そう言いながら地面で大の字になっているこの東洋人のことを、この時はただの変人だとしか思わなかった。

 あれだけ強く言って蹴とばしたならもう来ないだろうと。

 

  しかし翌日、またこの貴族はまたわざわざ私に会いに来た。今度は私がランニング中に、クライスラーの良い車に乗って並走しながら。どうやら貴族と言うのは嘘じゃなかったらしい。

 

「私は昔から速さが好きだった。昔日本にいた時、オープンカーで帝都を爆走した時があってね、警察によく怒られたものだよ。あまりにも口うるさく言われるもんだから、警察に職員用の宿舎をまるまる一棟贈ってやったのさ。それからは何も言われなくなったよ」

 

 そんなどうでもいいような話をべらべらと喋りながら、どれだけスピードを上げてもあの貴族は追ってくる。

 というかあんた、そんなことして本当に貴族なの? そう言うと彼はにかっと笑って言った。

 

「ああ、貴族だよ。君ら西洋人が嫌う日本の、その中でもはみ出し者さ。君と同じ」

 

 息が上がって膝に手をつく私の隣に車を着け、貴族は笑みを崩さずに車から降りた。

 

 ……人種がどうとかは興味ないけど、あんたみたいな変態貴族とは一緒にしてほしくない。

 

「はは、良いね。より君が欲しくなった」

 

 やっぱり変態貴族。

 もうどこかへ行って。あんたと私は全く違うのよ。

 

「君と私はどうしたって似てしまうのさ。その眼、その志が」

 

 だから、なんで私とあんたが似ているって分かるのよ。

 もうお願いだから帰って。私は強いウマ娘になるために忙しいの。

 帰らないと、いい加減本当に殴るわよ?

 

「頼むから話だけでも聞いてほしい。君の”夢”の、目標のために」

 

 もういい加減にしてよ!

 さっきから、分かったような口を……!!

 

 ……私は笑みを崩さない貴族の顔面目掛けて拳を叩きつけた……つもりだった。

 

「……おっと、やっぱり噂通りのお転婆娘だ」

 

 私はいつの間にか貴族の体の上で浮いていた。

 

 ……え?

 

 投げ飛ばされていたのだ。

 ……でも、貴族はそのまま私を優しく柔らかい芝の上に着地させた。

 

「柔術だ。我々日本人みたいな身体の小さい者が、力の強い者に打ち勝つための武術だ。勝つためには身体の強さだけではない。強い心を持つ必要がある」

 

 それは私の心が弱いということ!? ……と叫びたかったが、私より小柄な変な貴族に投げ飛ばされた意味の分からない事実にどうでもよくなり、ただ芝の上で大の字になって眼を閉じた。

 

「君の心が弱いとは言わない。でも、今の君のままではその心の強さを、最大限引き出すことはできない。……私も、同じだった」

 

  もう良い。黙って聞くわ。

 

「ああ、私はな。生まれた時から貴族になることが定められていた。50の別荘に大量の株券、それに遺産。しかも中華のお偉いさんとの繋がりを持つ大層な家系と来た。小さいときから私は、そんな”家”に見合うような人間になれと強く言われてきた」

 

 な、何よ、私よりもよっぽど良い生活をしている坊ちゃんじゃない。

 

「そうだな、坊ちゃんだ。でも、私は”それだけ”の自分が好きではなかった。私はどこまでいっても”貴族の家の跡継ぎ”でしかない。ただの坊ちゃんでいるのは飽き飽きした。君だってそうだろうさ」

 

 わ、私は……!

 

「だから! 私はそれに反抗したかったのか、違う自分を見つけたかったのか。初等科の時はよくクラスの奴らと殴り合いをしたし、車を持ってからは帝都を走り回った。アメリカ製のボートに銀座の女給を乗せて海を走り回ったりもした。だけど、それでも気分は晴れなかった。結局私は、貴族としての”期待”を裏切って自分という存在から目をそらし続けているだけだった。それも、君と同じ」

 

 私が自分から目をそらしている? それは違う! 私には夢がある。あんたとは違う……!

 

「ではなぜこの小さな寮にずっと居続ける? 世界一の強いウマ娘になるという夢を持っていながら」

 

 そ、それは……!

 

「私もそうだ! 違う自分を見つけると言いながら、結局は”華族は軍人になるもの”と言われて結局そのまま軍人になって今だ。だけど、その中で私も夢を見つけた。ウマ娘だよ。自分だけじゃない。相棒であるウマ娘と共に高め合い、走り続ける。そして果てには、世界中に夢と希望を与えられる存在になれる」

 

 世界中に夢と、希望を?

 

「ああ。そうすればきっと”貴族としての私”だけじゃない。世のため、そして相棒のウマ娘のため、君の夢のために生きることができる。本当の意味で、”自分”としてだ」

 

 私のため……あなた、自分として?

 

「そうだ。だから、一緒に日本に来ないか。私に、世界で一番のウマ娘になることを手伝わせてくれ。そして、私の夢を叶えることを手伝ってくれ」

 

 私は……

 

「うん」

 

 私は、一番になりたい。世界で一番のウマ娘に。でも、ここの寮の人は、誰も分かってくれなくて……

 

「ああ、どうして世界一のウマ娘になりたい?」

 

 悔しいけど、あんたの言う通り、たぶん私も同じなんだよ。

 

 私も最初は期待されてきた。”お前は良い血を持った親に生まれた、体格も素晴らしいウマ娘だ”と言われて。……でも、私はその期待を裏切った。障害競走に出された私は小さな障害さえも足を引っかけて転んでしまって。

 

 それからは家の人も寮の人も、私のことを見てくれなくなった。私は期待に答えるために走ってきたのに。

 

 それからというもの、他のウマ娘たちにさえ、怖がられるだけじゃなくて、きっと私が"可哀そう"だと思われていた。そんな奴らのことが本当に嫌だった。だから、喧嘩ばかりして、それで、私の育成をしていたトレーナーの中尉にさえ、見放されて……

 

「だけど、まだ走り続けた」

 

 見返してやりたかったのもある。私のことを勝手に期待して、勝手に見放した奴らに。私に同情した奴らに。

 

 でもそれ以上に、私は”私”を証明したかった。誰の期待でもない、”私”自身の力で強いウマ娘になるんだと。例え一人でも、私は強く走れるんだと。世界一になれるんだと。

 

「……そうか。お互い孤独だな。私には相棒のウマ娘がまだいなくて、君にも共に一番を目指す仲間もライバルもいない。お互い孤独な者同士……それなら、一緒に夢を目指したほうが良い」

 

 でも私はさっき言った通り、簡単な障害でも跳び越えられないウマ娘だよ。あんたの期待通りの走りは、世界一の走りはできないかもしれない。

 

「そうか? そう思うなら実際に跳んでみるといい。このクライスラーを跳び越えてみなさい」

 

 この車、高そうだけど良いの? もしぶつけたりしたら……

 

「代わりならいくらでもあるさ。それに、君なら跳び越えられる」

 

 ……。

 

 私はこの東洋から来た貴族の言葉を、一度だけ信じてみようと気になった。

 

 でも、一つの低い障害でも跳び越えられないことがある私に、この大きな車を跳び越えられるのだろうか。そんな不安が頭をぐるぐるとする。

 

 ああ、世界一になると突っぱねたのに、なんて情けないんだろう。

 

 それでも一度だけだ。これで失敗しても、この知らない貴族に、他の人たちと同じように見放されるだけ。もう慣れたことだよ。

 

 そう言い聞かせて、私は後ろに下がり、貴族のクライスラーめがけて走った。

 

 大きな障害が迫ってくる。

 

 …………。

 

 やっぱり違う。

 

 怖い。

 

 怖い。怖い。

 

 慣れたなんて嘘なんだよ。本当は、もう誰にも見放されたくない。自分を信じてくれた人の期待を裏切るなんて、もう……

 

 この、この障害を、跳び越えられなければ、また……

 

「今だ、跳べっ!!」

 

 え、嘘、まだ跳ぶには早いじゃないっ……

 

 —―——!!!

 

 

 ……………………。

 

 

 ……気づけば私は、空を飛んでいた。

 

 下には黒いボディのクライスラー。後ろには、笑ったあの貴族の顔。

 

 そしてそれは一瞬のこと。

 

 着地。しっかりと脚を折り曲げて宙から帰還する。

 

 嘘、跳べた。

 

 飛べたっ!?

 

「言っただろう。君は跳べると」

 

 でも、どうして?

 

「先日トレーニングを見ていて気づいたが、君は踏み込みは素晴らしい。だが他のウマ娘なら障害物を跳び越えるときに脚を曲げて跳ぶところを、君は脚をまっすぐ伸ばして跳ぶ癖があった。それは障害を目前で跳ぶときには致命的な癖だが、踏み込みをしっかりすれば通常よりも高く、遠くまで跳べる天性の武器にもなり得る」

 

 私は、他よりも遠く、高く跳べる? だから、他のウマ娘よりも障害から遠いところから跳んだほうが良い?

 

「そうだ。やっぱり私が見込んだ通り、君は最高のウマ娘だ」

 

 あ、あんた……何者なのよ。

 

「こう見えても、”神様”の下でウマ娘について学んできたものでね。だから安心して背中を任せて良いぞ、”ウラヌス”」

 

 ウ、ウラヌ……何?

 

「君の、世界で戦うウマ娘としての名前だよ。君の前髪の星の模様を一目見てから、名前は決めていた」

 

 ”ウラヌス”って、どういう意味?

 

「天王星のことだよ。太陽系の中でも遠くにある星だ。君と私なら、そんな遠くの星にだって行ける走りができる。それに、名前の基になったギリシア神話のウーラノスは、天空神で天そのもの。空を飛ぶような君の走りにはぴったりだろう?」

 

 ウラヌス……。

 

 腰に手を当てて、私の名前を少し照れくさそうに、でも嬉しそうに話すその顔に、私はしばらく見とれてしまっていた。

 こいつは……ううん、この人は、私と同じだと言っていたけど違う。この人は夢を”見ている”んじゃない。きっと今も走って夢を”追いかけている”。きっと、まだ私はこの人と同じスタートラインにも立てていない。

 

 ……だけど。

 

 きっとこの人と一緒なら、きっと……

 

 世界で一番の、ウマ娘に……!

 

 

 ……分かったわ。”あなた”と一緒に走ってあげる。

 

「よろしくな、ウラヌス。君ら西洋で言えば、私は”トレーナー”というものになるのかな」

 

 ええ、そうよ。そんなあなたの名前は? いつまでも”貴族さん”じゃ嫌でしょう。

 

「私は……」

 

 教えてよ、私の相棒。私の、”トレーナー”さん。

 

「……"西"だ」

 

「"西 竹一"だよ」

 




 この作品を書くにあたり、実際に西竹一大佐やウラヌスについての資料を漁ってみました。史実とは異なる点もありますが、楽しんでいただけたら幸いです。

 出会った"最強のふたり"は、一体どこへ行くのか? 次回にご期待。


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#2 好敵手

1930年(昭和5年)、イタリア陸軍の小さなウマ娘育成寮から抜け出したウマ娘「ウラヌス」と、そのトレーナーとなった日本軍人の「西竹一」は、"世界一のウマ娘"を目指すため、ヨーロッパの障害跳越国際競技会を転々とする旅に出る。
 そこで対峙するのは、イタリア方式のバ術を学んだイタリアの強敵たち。そしてその中でもひと際高く跳んでいたのは同じ日本人のトレーナーを持つ、白いラインが入った茶髪のウマ娘だった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 もちろん史実と異なる部分も多々あり、特に今回は史実から見ると時系列がおかしな点があります。



『私に、世界で一番のウマ娘になることを手伝わせてくれ。そして、私の夢を叶えることを手伝ってくれ』

 

 生まれて初めてだった。

 

 私のことを認めてくれた人。私にただ勝手な”期待”だけをするのではなく、一緒に歩もうと言ってくれた人。

 

 そしてそのために、遠く離れた島国から、遥々海を渡って笑いかけに来てくれた人。

 

 初めて自分を認めてくれた”西竹一”という日本の貴族軍人に連れられて、私はイタリア陸軍の小さなウマ娘育成寮から抜け出した。

 いつもは口うるさくて怯えていた寮の管理人も、私が寮を出るときには少し寂しそうな顔で見送ってくれたっけ。最後くらい、優しくしてあげればよかったかな。

 

 でもとにかく、私は、彼と……”トレーナー”と一緒に広い世界に出た。

 すぐにトレーナーの国である日本に行くかと思ったけど、何でもトレーナーは軍隊に半年の休暇をもらってイタリアに来たばかりらしく、どうせならと一緒にヨーロッパを巡る列車に飛び乗った。

 そしてこれから相手にする”世界”を見るためにも、ヨーロッパを転々とすることにしたのだ。

 

 その旅のはじめ、列車の中でトレーナーは地図を広げ、一点を示して私に笑いかけた。

 

 ……ロサンゼルス?

 

「そう、”ロサンゼルスオリンピック”。知っているか?」

 

 ううん、今まで寮から出ることもあまりなかったから。

 でもオリンピックは昔本で読んだから知っている。世界中の人間やウマ娘が集まって、スポーツで競い合う、世界で一番の大イベントだって。

 

「そうだ。”平和の祭典”、オリンピック。武器や大砲を持たず、正々堂々とスポーツで戦う。素晴らしいことじゃあないか」

 

 軍人であるあなたがそんなことを言うなんて。

 

「別にどうしても戦いたくて軍人になったんじゃない。それにこの新聞記事を見てみろ。昨年からの不況で世界中が滅茶苦茶だ。この欧州でもファシズムがなんやらと」

 

 それは分かるな。なんだかここ最近、前にいた寮の周りも変な感じだった。

 

「君はイタリア軍の競技ウマ娘だったから、政治的な話も伝わってきそうなものだな」

 

 ファシ……党? が何とか、黒いシャツがどうとか。シャツの色なんて変えてもしょうがないのにね。

 

「はは、ウラヌスには政治は難しいかな」

 

 ……それって馬鹿にしている?

 

「いいや、まさか。でもとにかく今は世界全体がどこか苛立っているような、疲れているような、そんな具合だ。だからこそ、君はそのままで良い。そのままが良い。ウラヌス。君は、何も考えず、ただ真っすぐに走れば良い」

 

 ええ、言われなくてもそうするつもり。

 それじゃあ、そのオリンピックっていうのに出るのが目標ってこと?

 

「まさか。出るだけじゃない。目指すは優勝。”金メダル”だ」

 

 金メダル……それって……

 

「ああ、”世界”で”最強”の座を取りに行くってことだ。その審査会が来年にある」

 

 つまり、あと1年しか時間はないってこと!?

 

「不安か?」

 

 ……どうだろう。

 

「もし不安に思っているのなら、証明してみるか」

 

 証明?

 

「ああ。言っただろう? 君は、ただ真っすぐに走れば良いと。……ほら」

 

 ……これは!

 

「これで君は、”誰よりも強いウマ娘”になれるぞ」

 

 

 トレーナーは私にプレゼントをくれた。

 

 トレーナーとお揃いのカーキ色の日本軍服に帽子、軍隊の星印がついたひらひらの格好いいスカート、それに白いタイツ、そして新しくてぴかぴかの黒い長靴と蹄鉄。

 どれも普通の軍のウマ娘が来ている物とは少し違い、トレーナー流に、オシャレにアレンジされている。

 

 ”勝負服”ってやつらしい。

 私は”服なんて変えなくても良いよ”と言ったけど、トレーナーは”折角可愛いんだから、世界一になったときのために衣装慣れしないとな”と笑った。

 ……別に、トレーナーに褒められて嬉しいとか、衣装がお揃いで嬉しいとかじゃないから。

 

 でもほんの少し、ほんの少しだけ、わくわくした。嬉しかった。

 

 だから少しだけ調子に乗って、髪型もこっそりトレーナーと同じ七三分けにしてみたら、トレーナーは嬉しそうにしてくれていた。

 

 ……このトレーナーがくれた勝負服が、勇気を与えてくれる。”世界”で戦うための勇気が。そう思った。

 

 そうだ。

 

 この服を着て私が戦うのは、ウマ娘の華の舞台。

 

 ——”ウマ娘競技”……”バ術”。

 

 速さを競うだけのレースじゃない。だからといってただ美しさを追求すればいいだけじゃない。

 ウマ娘の健脚だけが出せる活発さ、ウマ娘の洗練された肉体だけが魅せられる美しさ、ウマ娘の鋭敏な感覚だけが見極められる正確さ……その全てが試される競技。それがバ術。

 

 そしてウマ娘だけではない。そのウマ娘の相棒であるトレーナーもこの競技の命とも言える要素。一緒に会場に出て、ウマ娘の挙動の一つ一つに声をかけてサポートする。もちろん、本番までのウマ娘の体調管理やトレーニングなども役割の一つだ。

 

 ウマ娘とトレーナーが固い絆で結ばれていなければ勝つことができない。文字通り一心同体の競技。だから競技の結果発表の時も、ウマ娘はもちろん、トレーナーの名前も呼ばれる。

 

 その競技の複雑さから、通常のレースとは違い一人一人がまるでダンスのように技を披露し、審査員が評価。減点方式で競い合い、最終的に減点が少ないウマ娘とトレーナーが勝利する。

 

 バ術には様々な種目があるけど、私が得意とするのは”障害跳越競技”。

 

 コースに配置された決められた障害を、美しく、大胆に、素早く跳び越える競技だ。

 障害跳越競技は他のバ術と比べるとよりスポーティーな競技で、合理性や効率が重要な競技。

 

 障害を避けたり、障害の前で止まってしまったり、跳んでいるときにぶつかってしまったら減点。連続で続けば失格。コースからはずれたり転んでしまっても失格になってしまうハードな競技だ。しかもタイムがあり、それを越えても減点だ。

 

 元々ウマ娘は走るのが得意だけど、意外と臆病な性格の子が多い。だから巨大な障害を前に立ちすくんでしまうウマ娘も多い。

 

 でも私は違った。

 

 寮にいた時も喧嘩っ早くて障害なんか蹴っ飛ばしてやりたいくらいだった。まあ、それをしても減点なんだけど。とにかく、この競技は私に合っていた。そしてトレーナーも、この道のスペシャリストと来た。

 

 私とトレーナーはそんなバ術の腕前をオリンピックに向けて試すためにも、欧州を駆け巡る武者修行に出た。

 

 

 ——ローマ。

 

 まずは私の故郷・イタリア。イタリアはバ術が盛んで、国際競技会が頻繁に行われている。

 私とトレーナーは会場に出る。バ術が盛んなだけあって、周囲は凄い人だ。

 

 水濠障害があるわね……。

 

「ああ、高さ150cmの障害、下はプール。水浸しを走って越えなければいけないな。こんなダイナミックな障害、日本では見たことないよ」

 

 練習では何度か跳び越えたことがあるけど、いけるかな。

 

「いいかウラヌス、決して焦るな。遠くから、確実に跳ぶんだぞ」

 

 ”分かった”……そう言って私は跳んだ。

 

 トレーナーがくれた、素敵な日本の勝負服を身にまとって。

 

『イタリア生まれの貴婦人・ウラヌスとそのトレーナー・ニシ、減点12、順位は16位!』

 

 ……16位か。

 

「気を落とすな。私のところに来て初めてのバ術競技会、しかも大勢の参加者がいる中で16位。入賞だ。十二分に凄いぞ!」

 

 気なんか落としてないわ! 次は絶対に誰よりも強い、一番になるんだから。

 ……でも、凄いわね。イタリアチームのウマ娘は。皆体格が良いわけでもなく、正直見た目あまり強そうなウマ娘というわけでもないのに。

 

「ああ。トレベッコ、ヴィッストール、オゾッポ、クリスパ。上位のウマ娘たちは皆、強靭な体格をしているわけではない。ただ、トレーナーとの連携や技術はすごい」

 

 ”イタリア方式”のバ術か……。

 

「今、イタリアは障害跳越では最高峰だからな。イタリアのバ術は体格や腕っぷしに寄らなく繊細、正に”技術”だ。イタリアはトレーナーもウマ娘に皆備わっている根本的な力を引き出す術を知っている。ウラヌスも、寮にいた時はよく学んだだろう」

 

 ええ、まあね。悔しいけど、寮の時のトレーナーも教えは本当にためにはなったわ。

 

 寮で私のトレーナーをしていたイタリア陸軍の中尉は、イタリアでも名の知れた有名なトレーナーだった。だから私だけじゃなく、本当に沢山のトレーナーをしていたのだけれど……

 色んな場所で少しずつ障害に慣れることで、自然な跳越をできるようにする。一歩一歩の歩みを意識して、力だけではなくバランスを取って脚への負荷を減らして、決まった型にはまらずにあくまで自然に高く跳ぶ。これがイタリア方式。だからイタリアのウマ娘は、他のどの国のウマ娘よりも高い障害を難なく跳ぶ。

 

 そもそも今まで他のフランスやドイツで障害跳越の技術で知られていたのは、障害の跳越といったスポーティーな要素は薄い、いわばウマ娘の舞踏(バレエ)のような競技”バ場術”からくるものだった。

 古くはバ術といえば、バ場術だった。でも、その技術だけじゃあ障害跳越に適さない。障害跳越はより野生の本能に近いものだから。

 だからこそ他の国の常識に囚われず、よりスムーズで自然な身体の動かし方を見つけろ。

 

 見放されてきた私でも、トレーナーだった中尉のこの教えは嘘じゃなかったと思う。

 

「イタリアの教えは君の中にある。しかも君は他のウマ娘よりも体格が良い。次はさらに上を目指せると思うぞ。それに、イタリア方式は私も学んできたからな」

 

 そう言って笑うトレーナーに少しだけ元気づけられ、私たちはまた違う競技会に赴く。

 

 

 ——海を渡ってポルトガル、リスボン。

 

 一番大きな障害は190cm……かなりね。

 

「なあに、少し高いだけだろう。寮で跳んだクライスラーを思い出すんだ」

 

 言われなくても、そうするわ。

 

「それじゃあ、いつもより少しだけ前のめりに跳んでみようか。一気に身体を傾けて素早く跳ぶんだ」

 

 なっ……さっきイタリア方式は繊細がどうとか言っていたのに。

 というか、そんなの危ないんじゃないの!?

 

「そういう大胆な跳び方の方が受けるし面白い。いけるいける。俺とウラヌスだからな」

 

 意味が分からないわよ……。

 

「よし今だ、跳べっ!!」

 

 

 …………。

 

 

『日本の貴公子・ニシと共に走ったウマ娘・ウラヌス、減点4! 第1位!』

 

 嘘、あのやり方で、一位? 私が……!?

 

「やったなぁ、ウラヌス!」

 

 ……あ、当たり前でしょうっ!

 

「嬉しいなァ。偉いぞ、ウラヌス。やっぱり私たち二人は最強だ」

 

 …………。

 

 ——他にも沢山の競技会に参加。ニース、ミラノ、国境を越えてフランス、ドイツ……ヨーロッパを転戦して次々と入賞を勝ち取っていった。

 他の、特にイタリアの強敵相手に優勝するのはやっぱり難しかったけど、それでも沢山の大会でトレーナーと一緒に名前を残すことができた。

 

 そもそも、まだバ術で名前を知られていなかった日本人トレーナーが外国のウマ娘と競技会に出て次々と入賞、はたまた優勝までする……それ自体がヨーロッパの人々にとって驚きと興奮に満ちた出来事だった。

 

 そしてそうした勝負の連続は、私たちにも大きな影響を与えた。

 

 

——イタリア、トリノ。

 この大会では、イタリア国際競技会の中でも栄えある”ヨランダ王女杯”が開催されていた。

 ヨランダ王女というのは、イタリアでは名が知れた屈指の名トレーナーで、スポーツの天才にして絶世の美女。しかもイタリア国王のエマヌエーレ3世の娘……とにかく、そんな彼女の名前がつけられるほどに盛大な競技会ということだった。

 ヨランダ王女はイタリアでバ術をするトレーナーはもちろん、ウマ娘にとって憧れらしい。私はそうでもなかったけれど、優勝したら王女から直接優勝の印であるブルーリボンを耳につけてもらえるというから、何となく負けていられないと思っていた。

 

 けれど……

 

『ウマ娘・ウラヌス、トレーナー”ニシ”、減点4! 第2位!』

 

 私とトレーナーはいくつもの障害を跳び越えていったけど、一度跳ぶタイミングを逃して反転したせいで減点。優勝を惜しくも逃してしまった。

 

 それでも入賞した。トレーナーも”大丈夫、またこれから一緒に頑張ろう”と言ってくれたから別に落ち込んだりはしていなかったけど、それよりも気になったのが……

 

『同じく日本から来た貴公子・”イマムラ”、ウマ娘・”ソンネボーイ”、第1位!』

 

 優勝していたトレーナーが、私のトレーナーと同じ日本人だったということだ。

 

「やァ、西君。良い走りだったけど、惜しいところで届かなかったね」

「ありがとうございます。ただ届かったのは今村さんに、ですけどね」

 

 このトレーナーと同じ日本軍服を来た”イマムラ”という少佐は、トレーナーの上官で恩師とのことらしい。トレーナーと一緒にヨーロッパに渡ってきたようで、よく一緒に競技会に出ていた。

 トレーナーの上官だけどそれでも偉ぶるような様子はなく、道中の列車の中でも何度か会ってはトレーナーと親し気に話しているのを見かけている。きっとトレーナーと同じくフレンドリーで良い上官なんだろう。

 

「今回は運よく私らに分があったようだけどね。ウラヌス、君は西君と一緒だとやっぱり良い走りをするねえ。思った通りだ」

 

 ……思った、通り?

 

「いやァ、実はね、君のことを西君に……」

「……今村さん」

「おっと、この話はまた別の機会に」

 

 はぁ……。

 

 よく分からないけど、イマムラも私のことを気にかけていたようだ。

 トレーナーが何やらイマムラと話していて気になるけど、まあそれは良い。

 

 私が気になるのは……

 

「あなたがウラヌスですか」

 

 あんたは……。

 

「”ソンネボーイ”です」

 

 イマムラと一緒に走っていた、”ソンネボーイ”。

 私と同じ日本軍式の勝負服を着ていて、茶色い髪に白いラインが目立つ、無表情で物静かなウマ娘。

 

 ソンネボーイの競技中もずっと彼女を見ていたけれど、本当に彼女は凄かった。

 ただ大胆なだけではない巧みな飛び越し、障害の間の走りも軽快かつ高回転で流暢。スピード感がありスリムな競技が好きなイタリアで好かれるタイプの走りだった。

 

 そう、私が負けた、ウマ娘……。

 

「あなたもヨーロッパでトレーナーに拾われたと聞きましたが」

 

 拾われたんじゃない。私が”一緒に行く”って言ったのよ。

 でも、あなた”も”って……あんたもヨーロッパで?

 

「はい、そうですよ。ボクも”イマムラ”トレーナーに、イギリスで」

 

 でも、あんたも本当に私と同じで、最近トレーナーと一緒になったばかりなの?

 あの走り……

 

「勝つべき戦いに勝たなければいけなかった。当然の走りをしたまでです」

 

 む、何だか勝てなかった私からしたらかちんとくる言葉ね。

 国際大会で1位になったんだからもっと笑って喜びなさいよ。

 

「ごめんなさい、ボク、感情を表に出すのがあまり得意ではなくて」

 

 なんか、調子狂うわね、この子は……

 

「でもボクの目標はここじゃない、というのもあるかもしれません。もっと先です。あなたなら分かると思いますが」

 

 ……”ロサンゼルス”。

 オリンピックね。

 

「はい、ボクにとっての夢です。”オリンピックでトレーナーと優勝する”。今にとってのボクには、それだけが」

 

 どうしてあんたも、オリンピックに?

 

「ボクにはもう後がありませんから。だから、ここで勝ち続けるしかないんです」

 

 ……後がない?

 

 ソンネボーイはそう言うと競技会場を真っすぐ見た後、”それでは失礼します”と言って会場を出て行った。

 あの子も私と同じで、故郷で”何か”を抱えていたんだろうか……。

 そんなことを考えていると、イマムラが何やら焦ってこちらに駆けてきた。

 

「ああ、また失礼、ウラヌス。ソンネボーイを見なかったかい。表彰式があるんだが 」

 

 ああ、イマムラ。ソンネボーイならさっき帰っていったわよ。

 

「は!? まずいな、そういえばソンネボーイに表彰式があるのを言っていなかった……」

 

 え、表彰式あるのにあの子帰っちゃったの?

 

「ああ、あの子は少しうっかりなところもあるからな。しかしこれはまずい、このままだと表彰式に出るヨランダ王女にも失礼だ」

「……ん、待て、あのオランダチームのウマ娘、うちのソンネボーイに似ていないか?」

 

 いやまあ、確かに茶色で白いラインが入った髪の子だから似ているけど……。

 

「よし。おーい、お嬢さん、一緒に表彰式に出てくれないかい?」

「えっ、でも私、入賞もしていないんですけど……」

「良いから良いから、一緒にブルーリボンを貰いに行こうじゃないか」

「そ、それじゃあ……後でソンネボーイさんにお会いできますか? 一緒に走りたいんです 」

「うーむ、これからの予定もあるから一寸困るかもな。でも考えておこう」

 

 ちょ、さすがに代わりはまずいでしょ、代わりは!

 

「細かいことは気にするな、ウラヌス。私とソンネボーイは勝った。それでいいじゃないか」

 

 よくはないだろうと思うけど。

 

 ……その後イマムラは名の知らないウマ娘の少女を連れて本当に授賞式に出て、喝采を浴びていた。

 オランダのウマ娘は、ヨランダ王女から勝利の証のブルーリボンを結ばれて、戸惑いながらも照れくさそうに笑っていた。確かに遠目で見ればソンネボーイとの見分けがつかないくらいそっくりだ。

 しかしヨランダ王女は、名も知らぬウマ娘にむかって、”いつかソンネボーイと一緒に走ってみたいわ”とひそかに笑っていた。

 

 私はそんな目の前の華やかな光景を眺めつつ、私はもうこの会場にはいないウマ娘のことばかりを考えていた。

 

 そう、”ソンネボーイ”……

 

 私は見た。あのウマ娘……ソンネボーイの走りと跳越を。

 あの体重のかけ方……しっかりと腰を落として、下半身全体に重量を分散させて跳んでいた。しっかりと脚を折り、障害が高くなれば高くなるほどミスなく素早く跳んでいた。あれはイタリア方式を熟知した動き。まるで、獲物を狙うために藪を跳び越える”狩人(ハンター)”のよう。

 そういえば、イタリア方式の走りは元々ウマ娘たちが狩りをして暮らしていた狩人(ハンター)だった時のスタイルと同じなのだという。

 

 あのウマ娘は、一体……。




 ソンネボーイと今村少佐のヨランダ王女杯でのエピソードは実際にあった出来事です。しかしこれはウラヌスが西と出会う前の出来事で、リスボンの大会で190cmの障害を飛び越えて1位になったのも実は史実では西さんと出会う前の出来事です。それでも二人はヨーロッパの競技会で次々と結果を残し、一躍有名人となりました。
西とウラヌス、そして二人に並ぶ実力を持つ今村少佐とソンネボーイ。戦いの舞台は、日本へと移っていきます……。


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#3 敵は幾万

 ヨーロッパでの国際競技会で善戦しついに日本へ向かうことになったバ術ウマ娘「ウラヌス」と、そのトレーナーで日本軍人の「西竹一」は、あと半年を切ったロサンゼルスオリンピック予選会を考えていた。
 しかし、強力なライバルウマ娘「ソンネボーイ」とそのトレーナー「今村安」少佐の活躍を前にウラヌスは圧倒されてしまい、オリンピックへの重圧に押しつぶされそうになってしまう。日本でトレーニングするが調子が上がらないウラヌス。そんな彼女が東京の建設現場で出会ったのは、一人の栗毛のウマ娘だった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


 欧州で半年間戦った後、私とトレーナーは日本の”浅間丸”という豪華客船に乗って、トレーナーの祖国である日本に向かっていた。

 しかし、ヨーロッパを転戦していたときの列車旅もそうだったけど、トレーナーと一緒にいるとまるで自分も大富豪になった気分だなあ。

 ……とにかく私はきらきらとした客船で海を見ながら、トレーナーとヨーロッパでの戦いを振り返っていた。

 

 特にあのトリノ大会。ソンネボーイとイマムラは印象的だった。

 

「ははは! そうか、ソンネボーイの代わりに、違うウマ娘を表彰式にね。豪胆な今村さんらしい」

 

 いや、笑いごとじゃないでしょう。ソンネボーイだって、折角勝ったのに。

 

「ソンネボーイなら、後から今村さんが直々にブルーリボンを耳に結んであげていたぞ。何度か会ったが、彼女の笑った顔は初めて見たな」

 

 一応、ちゃんとリボンはあげていたのね。

 ソンネボーイが良かったのなら、それで良いけれど。

 

「……それで。どうだった? 半年間私と一緒に戦ってきた感想は」

 

 そうねぇ……。

 正直、”世界”を知ったわ。

 

「”世界”を?」

 

 今まで”世界で一番強いウマ娘になる”って言い続けてきたけど、やっぱり世界はそう甘くない。実際、ヨーロッパで転戦してきたけど、1番になれたのは少しだけだった。

 

「それでもほとんど入賞したけどな。あんなに沢山の大会に出て沢山入賞できたウマ娘はそうそういないぞ」

「それにほら、今欧州のウマ娘の間では私たちの話で持ちきりだ。この新聞記事を見てみろ。『絶世の美男子とウマ娘、ヨーロッパを転戦』、『東洋の貴公子、愛バと共に国際競技会で好成績』」

 

 ……ほとんどトレーナーの顔の話ばかりじゃないの。

 

「はは、顔には確かに自信があるからね。でも、欧州で大きな話題になるほど良い成績を残せているってことだよ」

 

 ……まったく。

 でも、本当に大丈夫なのかな。私、上手くやれているのかな。

 

「ああ大丈夫だ。私もいる。 どうした、折角これから日本だというのに」

 

 別に。

 ただ、少しだけ心配なの。日本に行ったら本格的にオリンピックに向けた準備が始まる。オリンピックの審査会まではあと半年もない。そして、オリンピックまでももう2年を切っている。確かに私たちは良い成績を残せたけど、それでも……

 

「なるほど、”ソンネボーイ”だな」

 

 え?

 

「いや、さっきからよく彼女の話をするからね。気にしているのかと思って」

 

 そ、それは……少し、少しだけね。

 だってあの子、凄いじゃない。沢山の人がいる大きな大会のトリノでも1位になって、他の大会でもいい成績を残していた。トレーナーのイマムラだって……

 

「確かに彼女の走りや踏み込みは素晴らしい。スマートで欧州人好みの動きだ。トレーナーの今村さんも強敵だな。なんたって私の恩師だ」

 

 ソンネボーイは日本に行ってもきっと良い走りを続ける。私たちと同じか、それ以上に。

 

「そうかもしれないな」

 

 あの子は、”もう後がない”と言っていた。

 一体あの子は、どうしてこんなにも凄い走りを続けられるんだろう。一体何のために……

 

「……そういうことなら、直接本人に聞いて見ると良い」

 

 本人?

 

「ああ、一緒に乗っているだろう。浅間丸に」

 

 

・・・・・・

 

 

 ……見つけた。

 

 私はトレーナーの言う通り、浅間丸の中を歩き回ってソンネボーイの姿を探して歩いていた。豪華客船と言うだけあって、大理石がふんだんに使われたその豪華な船内の眩しさに眼を覆った。

 ”豪華疲れ”して甲板に出て見ると、そこにソンネボーイはいた。海の波をただぼーっと見つめている。

 

 ねえ。

 

「……あなたは、ウラヌス」

 

 ヨーロッパではお世話になったわね。イマムラは一緒じゃないの?

 

「はい。トレーナーは”船内の貴婦人たちとポーカーをしに行く”とのことです」

 

 はあ。日本のトレーナーって何でこうも遊び好きなのかしら。うちのトレーナーも私と話した後に”船内の貴婦人がたにご挨拶をしてくるよ”とか言ってどっか行っちゃったわ。

 

「でも私はそういうところが良いと思います。良い意味で軍人らしくないところが」

 

 まあそうね。変にがちがちなトレーナーだったら、それはそれで嫌だわ。

 ……隣、良い?

 

「ええ、構いませんよ」

 

 ありがとう。

 

「……」

 

 …………。

 

 私とソンネボーイはしばらく穏やかな海の波波を見つめていた。

 大きな波をいくつも越えて、私たちは日本へと行く。まだ見たこともない、遥か東の島国に。まるで、長い長い海で行われる障害跳越のようだ。

 そんなことを思っていると、ソンネボーイはゆっくりと私のほうを見て口を開いた。

 

「……ウラヌスは、オリンピックが不安ですか?」

 

 どうしたの、急に。

 

「ボクは少しだけ不安です。オリンピックの審査会まであと少し。審査会は通過しても、慣れない国でちゃんと練習できるのか」

 

 何言ってんのよ。あんたはトリノであんなにも良い結果を残せているのに。

 

「それだけじゃありません。もしも、ボクがオリンピックに負けるか、最悪出られなくなったら、どうなってしまうのか」

 

 どうなってしまう……?

 そういえば言っていたよね。あんた、”もう後がない”って。

 

「はい」

 

 あんたは……”ソンネボーイ”は、どうして走るの? どうしてそうまでして、オリンピックを目指すの?

 

「……それは、誓ったからです。絶対にオリンピックで勝つと。私の祖国……イギリスで」

 

 イギリスで?

 

「はい。私はイギリスの田舎町で生まれたんです。とても小さな田舎町。狩りで生計を立てていている、イギリスでは一般的なウマ娘の家系に生まれました。そのためにいつも野原を駆けまわっていたんですけど、倒木とかを跳び越えながら走るボクを見た軍人さんが障害飛越競技に向いていると言って、陸軍に誘ってくれたんです」

 

 なるほど、あんたは家で狩りをしていた頃から、軍に認められるほどに良い走りをしていたわけね。それに、狩りの走りが原型のイタリア方式のバ術も上手かった。

 

「家もそこまで裕福ではありませんでしたから、必死になって狩りに必要な走りの勉強をしたお陰かもしれません」

「とにかくそこから陸軍寮に入って、障害跳越競技のウマ娘として育てられて、トレーニングでも良い結果を残すことができました。自分で言うのも何ですけど、イギリス陸軍では話題のウマ娘だったんですよ?」

 

 ……凄いわね。あんたは、沢山の人からの”期待”に答えられたわけだ。

 

「”期待”、ですか。そうかもしれません。だからこそボクは世界で一番のウマ娘になろうと思ったんです。私を応援してくれた人たちや、ウマ娘のために。だけど、その夢をイギリスで叶えることが難しくなりました。あの、憎き”暗黒の木曜日”のせいで……」

 

 ”暗黒の木曜日(ブラックマンデー)”?

 

「去年のアメリカで起きた恐慌ですよ。あなたの国も大変だと聞いていましたが……」

 

 私はあまり軍の寮から出なかったし他の人と話さなかったから詳しくは知らなかったけど、そういえばトレーナーから聞いたことがあったかも。

 

『それにこの新聞記事を見てみろ。昨年からの不況で世界中が滅茶苦茶だ』

『今は世界全体がどこか苛立っているような、疲れているような、そんな具合だ』

 

 今は世界が疲れている、だからこそお前はただ自由に走れとトレーナーはそう言っていた。

 

「”先の大戦”(第一次世界大戦)が終わって陸軍も予算が削減された上に不況の連続。私たちを寮で置いておいたりトレーニングするだけでも軍ではお金がかかる。ましてや国際競技会で実践を積むのも……」

「ぼくの周りでも満足にトレーニングできずに辞めていくウマ娘も沢山いて……ボクはまだある程度の成績があったから残れましたが、それでも満足なトレーニングもできなくて、気づいたらボクを見てくれる人はほとんどいなくなりました」

 

 ……あんたも。

 

「……?」

 

 あんたも……”孤独”だったのね。

 

「”孤独”、ですか……そうかもしれません。……悔しかった。ボクは……」

 

 うん。

 

「4月になると、リヴァプールのグランドナショナルのニュースが新聞で出てくるんです。バ術じゃない、レースのニュースが」

 

 グランドナショナル……イギリスの障害”競走”。バ術じゃない、レースはずっと盛り上がっていたのね。

 

「恐慌で不況になった中でも一攫千金を目指してスターを目指すウマ娘たちが沢山いましたから。でも、ボクらバ術のウマ娘はほとんど軍人。軍縮や予算削減が進むイギリスでは盛り上がりも薄くなってきて、レースに出るウマ娘のようにはいきませんでした」

 

 それであんたは満足に走れなくなって、イギリスに来たイマムラに誘われた?

 

「はい、ボクはそこでトレーナーと誓ったんです。絶対に世界で一番のウマ娘になって……ボクを見てくれなくなった沢山の人たちを見返してやるんだって」

 

 …………。

 

「それに、ボクをここまで育ててくれたトレーナーやウマ娘たちの分も走りたかったんです。無念の中で満足に走ることができなかったイギリスの……いや、この恐慌の中で無念の中に走ることができなくなった、全ての国のウマ娘とトレーナーのために。そのためならボクは、イギリスから出て別の国のウマ娘にもなれる。そう思ったんです」

 

 そう、なんだ。

 

 この眼はあの時と同じだ。

 トリノで見たあの美しい走りをしながらも光っていた強烈な眼光。誰にも一位を譲らないという、あの眼だ。

 ソンネボーイは私と同じ”孤独”だったと思っていたけど、違う。

 

 ソンネボーイは……孤独を”背負っていた”。

 

 満足に走れないままに表舞台から去ったバ術のウマ娘、そしてその無念を晴らせてあげられなかった沢山のトレーナーたちの意志を。それも、煌びやかなレース場の盛り上がりの裏の世界ともいえる場所で、ひたすらに。

 

 ……そういえば。

 

 あんたは前に”後がない”と私に言っていたけど、あれはどういう意味なの?

 

「そのままの意味ですよ」

 

 そのままのって...

 

「トレーナーから聞いた話ですけど、日本もボクのふるさとに似た状況......いや、もっと悪いらしいです。関東大震災、知っていますか?」

 

 ......いいえ。

 

「日本は今も恐慌と災害に苦しんで、職を失うどころか身売りをする人までいるそうです。日本は、ボクがいたイギリスと同じく苦しんでいる。だから、もしボクが結果を残せなかったらイマムラは日本にボクを残してくれるのか……」

 

 それは……

 

 ……私は何も言えなかった。

 

 ソンネボーイが言っていたことは、私も他人事ではないから。

 トレーナーは、もしオリンピックで私が結果を残せなかったら、もし負けたら……私と一緒にいてくれるんだろうか。トレーナーは”一緒に世界一になろう”と言ってくれた。でも、その”期待”をもし私が裏切ったら……?

 

 でも”それ”を、ソンネボーイは覚悟してこれから走ろうとしている。

 

 私は、ソンネボーイに勝てる?

 

 

 ……トレーナーと、一緒にいられる?

 

 

・・・・・・

 

 

 1931年3月。

 ヨーロッパを発ち、日本に着いた私とソンネボーイは、陸軍から熱烈な歓迎を受けて入国。”日本のウマ娘”として迎えられた。

 通った東京の町では、ヨーロッパ転戦で好成績を上げたトレーナーと私の活躍は、遥か海を越えた日本でも伝わっていたようだった。そんな私たちを称える人々が沢山、港や東京の町で日の丸を持って出迎えてくれた。

 

 東京は、日本は不思議な場所だ。木造や煉瓦の建物がいり混じり、西洋風の紳士服を着て歩いている人がいるかと思えば、本の中でしか見たことがないキモノを来ている婦人もいる。イタリアにいた頃に読んだサムライの話とは大違いの光景だ。

 

 ……でも、そんなのは今はいい。

 

 トレーナーと出会った時は楽しみな日本だったけど、今はそんなことを考えている暇はなかった。

 

 私たちとソンネボーイは千葉県の習志野にある兵や陸軍ウマ娘兵学校の寮に入った。

 戦場で戦うウマ娘兵である”キ兵”やその担当兵を育てる学校だけど、私やソンネボーイのような競技ウマ娘も名義はウマ娘兵としてここに入る。

 

 しかしそこでやるのは戦う訓練じゃない、誰よりも美しく走り、誰よりも高く跳ぶ……”オリンピック”に向けた、そんな訓練だ。

 

 日本に来てしばらくして分かったのは、日本はロサンゼルスオリンピックにかなり”本気”でだということだ。

 

 今まで日本はオリンピック選手団を何度か送ってきたけど、今までの会場だったヨーロッパからは遠く、またそこまでスポーツが普及していなかった日本はあまり大きな結果を出していなかった。出していたのは、陸上や水泳くらいのものらしい。

 だから今度のロサンゼルスオリンピックは海を挟んだお隣のアメリカということもあり、一番に大きな選手団を派遣するのだという。お金もなかったそうだけど、トレーナーが言うには、”タバタ”という騒がしい男がどうにかしたとか。

 

 とにかくも、そんなオリンピック競技の中でも”華”である障害跳越。

 

 私は私自身のためだけじゃなく、そんな日本の威信を背負っていかなければならなのだと今更思い知らされた。

 

 だから、絶対に負けられない。毎週、オリンピック予選を想定した模擬コースでソンネボーイと戦う時、そう心に決めて走った。跳んだ。

 

 

 ……だけど。

 

 

「ウラヌス、西竹一、減点8!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なぜ。

 

「ウラヌス、西竹一、減点12!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なぜだ。

 

「ウラヌス、西竹一、減点14!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なんで。

 

「ウラヌス、西竹一、反抗2、失権!」

「ソンネボーイ、今村安、減点4!」

 

 なんで上手く跳べない……!!

 

 

 ”反抗”は、障害を前に大きく後退したり、障害前で円を描くように大きく退くことだ。1回なら減点4、2回なら失権……早い話失格だ。

 

 力が抜ける。手をつき、ただ視界に広がる地面を見続けるしかなくなる。

 

「大丈夫か、ウラヌス」

 

 コースで見守ってくれていたトレーナーの言葉も今は耳に届かない。

 ”反抗”2回。今までの私ならありえない失敗。

 どうしてだ、どうして……

 

 ……いや、分かっている。

 

 私は恐れているんだ。

 

 ソンネボーイを。

 

 私の夢を。

 

 日本中からの”期待”を。

 

 

「ウラヌス?」

 

 ねえ、トレーナー。

 

「どうした。あまり気を落と……」

 

 少し、歩いてきても良い?

 

「え?」

 

 ちょっと疲れちゃったから、一人で町を歩きたいの。

 

「でも寮が……」

 

 お願い。

 

「……分かった。外出許可は私が申請しておく。夜までには帰ってくるんだよ」

 

 ……うん。

 

「そうだ、ウラヌス!」

 

 ……なに?

 

「今夜、うちでパーティーをしようと思うんだ。良かったら、一緒にどうだ?」

 

 …………。

 ……考えておく。

 

 

・・・・・・

 

 

 ……こんな時にトレーナーはパーティーとか、何やっているんだか。

 イタリアではあんなにも応援してくれたのに……トレーナーは、私のこの不安とか気づいてくれていないのかな。

 

 そんな思いのままひたすら走って、歩いていたら、いつの間にか千葉県を抜けて東京に出ていた。

 

 競技から抜け出して、ただぼんやりと街並みを眺めていたら気づいたことがある。

 

 東京の町は、今もひび割れている。

 

 あらゆる建物のところどころにひびが入っている。郊外には今も傾いている塔が建っていた。関東大震災……ソンネボーイやトレーナーから聞かされて知った大災害。

 不況、失職、身売り……日本の人々は、8年前の災害に今も苦しめられている。

 

 でも東京の人々からは、そんな悲惨な過去を笑い飛ばすかのような活気を感じられた。

 町ではバスや車が入れ替わるように走り、その車窓から私に手を振る。

 

「あ、ウラヌスだ!」

「ウラヌス?」

「知らないのか? ヨーロッパで勝ちまくっていたヒーローだよ」

 

 ……と。

 私を見て手を振るとき、彼ら彼女らは笑顔になった。そして言う。”頑張ってね”と。

 トレーナーとのヨーロッパ転戦で私もすっかり有名人だ。

 

 でも、私はあのヨーロッパ転戦の私では……いや、最初から私はそこまで強くなかったのかもしれない。

 あのトリノ大会だってそうだった。ソンネボーイが優勝。でもあの子はすぐに競技場を出た。思えばソンネボーイは、最初から今まで、ずっとオリンピックの勝利しか見ていなかったんだ。

 そしてきっとそれは、あのヨーロッパの幾度の大会の中で何度も勝ちを取ってきたイタリアのウマ娘たちも同じなんだろう。

 

「応援してるぞー、ウラヌスの姉ちゃん!」

 

 東京の人々の声援が、今は痛い。

 このひび割れた東京で頑張っている人々のほうが私よりも遥かに強い。そんな人たちの”期待”を、私は今……。

 

 お願いだよ、私はそんな、”期待”を受けるほどのウマ娘じゃ……。

 

 早くどこかに行こう。

 そう思って、私は再び東京の町を駆けた。

 

 ……あれは?

 

 しばらく逃げるように走って”府中”という町まで来ると、巨大な建設現場が視界に入ってくる。イタリアでもなかなか見ない巨大な建造物が建とうとしているのが分かった。

 そのとんでもなく巨大な建設現場に圧倒され、思わず足を止める。

 

「あれ、君もレースに出るウマ娘かな? ここら辺では見ない顔だねえ」

 

 立ち止まりぼんやりと建設現場を眺めていると、後ろから声をかけてきた女の子が一人。

 ……ウマ娘だ。栗毛のおっとりとして、私よりも細くてすらっとしたウマ娘。

 

「君も見に来たのかな。 “東京レース場”」

 

 ……東京レース場?

 

「そう。再来年、1933年の秋にできるんだって。目黒から移ったんだよ。ほらごらんよ、こんなに立派なレース場、中山以外で初めて見た。目黒の3倍なんだって。大きな駐車場だってある。ここはきっと、100年後も立派なレースができるような凄い場所になるんだろうなあ」

 

 私は、レースに出たことがないからよく分からないけど、でも確かに凄い場所ね。私の故郷でもこんなに立派な走る場所はなかったかも。

 

「ねえ。ところで君もレースに出たことがないんだ? 実は、私もなんだあ。今年がデビューでね。中山の新バ競争に出るんだよ。君も?」

 

 私は、そもそもレースに出るウマ娘じゃないの。障害跳越のウマ娘。”ウラヌス”っていうの。知らない?」

 

「そうかあ、どうりで。レースに出るウマ娘にしてはがっしりしていると思ったよ。わたしはそういうニュースには疎くてね。いっつもトレーナーに”レースに出るウマ娘たるもの、世間を知らんでどうする”って怒られるんだ。わたしのトレーナー、すっごく怖いんだよ」

 

 そうなんだ。私のところのトレーナーとは大違い。

 私のトレーナーはいつも夜はパーティーだ、競技中もお前はいけるだろうとか何とか、色々とテキトーでね。紳士と言えば紳士なんだけど、ちょっと変人だし。酒好きだし。

 

「良いなあ、優しそうで。でも、私のトレーナーもお酒を飲んだらとても優しくなるんだよ。優しんだけど、お話が止まらなくなって大変なんだあ」

 

 ふふ、そう。でもあなたのトレーナーもきっと悪くない人なんでしょうね。

 

「うん。とっても厳しいけど、優しいんだあ。君も、トレーナーのことが大好きなんだねえ」

 

 だ、大好き!? いや、そんなんじゃ……

 

「でも、さっきまで怖いくらいの顔をしていたのに君、トレーナーの話をしている時だけ笑ってた」

 

 ……っ! あ、ああ、そうだ!

 ……しかし本当に立派なレース場になりそうね! レースが大盛り上がりなのは、日本も同じか。こんな大きなレース場ができるほどなんだもの。

 

 レース、レースか……そういえばとソンネボーイの言葉を思い出す。レースが盛んなイギリス。その陰でひたすらに生き残りを駆けて走り、跳び続けていた彼女の話を。

 ”期待”を裏切ったら、私は日本にいられなく……トレーナーと一緒に走ることができなくなるかもしれない。

 ……ああ、頭が痛くなってきた。

 

「あー、うん本当にね。最近のレースは大盛り上がりだよ。中山レース場も毎週人がいっぱい。でもわたしはね、そんな大盛り上がりのレースの中で走るのが不安なんだ」

 

 不安?

 

「普通に走るのも不安だけど、私の姉さんが凄いウマ娘でねえ。だから、私もそんな凄い姉さんと同じで、沢山速く走らなければいけないんだよ。それに、私のトレーナーは姉さんのトレーナーでもあったからねえ」

 

 そうなんだ。それは、あんたも不安になるわね。そんな不安を抱えながら、一人で走らなければいけないなんて。

 

 ……”期待”だ。

 血、家族、過去の栄光……私たちのように陽の下で走る者たちが背負う宿命。私たちはそれを

 そうか、それは、バ術のウマ娘もレースのウマ娘も同じか。

 

「でもね」

 

 ……え?

 

「そんなトレーナーに言ったら、こう言ったんだよ。”馬鹿者。姉と同じ走りができるのかとか、まだ本番のターフを走ったこともない者が考えるなんて驕りも甚だしい”って」

 

 手厳しいわね。

 

「”関東の鬼”って言われるくらいに厳しいトレーナーだからねえ。でも、その後にすぐ笑って私にこう言ったんだよ」

「”お前は一人で走っているわけじゃない。もしそんなことで何か言う輩がいたら、私が許さん”」

「”だからお前は、ただひたすらに走れば良い”って」

 

 厳しいけれど、優しいトレーナーなのね。

 

「うん。トレーナーはね、私に”一人で走っているんじゃない”って教えてくれたんだよ」

「それでトレーナーと約束したんだあ。中山を走って目黒を走って、そして東京レース場も新しくできたら一緒に走ろうねって。だからここに来ると、このおっきなレース場で走っている自分が思い浮かんできて、少しだけ不安が消えるんだよ」

 

 一人で走っているんじゃない、二人で、トレーナーと……。

 

 東京レース場の建設現場を眺める栗毛のウマ娘の眼は、愛おしいものを見るように、そしてキラキラとしていた。

 彼女はそのトレーナーとの約束に救われて走っているのだろう。きっとその約束を胸に、これからデビュー戦を走るのだろう。きっとそこには、血もプレッシャーも関係ない。彼女はきっと、トレーナーとの楽しみな約束だけのために走るんだ。

 二人で、レース場のターフを。

 

「ふふ、初対面なのに少し話し過ぎたね。でも、君のことは他人のようには思えないな。何だか、君も不安そうな顔をしていたし」

 

 不安、か。私は……

 

「それに、私と同じで大好きなトレーナーがいるようだし」

 

 なっ! だから大好きとかじゃ……

 

「それじゃあね、ウラヌス。お互い、頑張ろうね」

 

 ちょ、待ってよ。あんたは——

 

「私は”アスコツト”! ウラヌス、君とはまた、会える気がするよー!」

 

 ……行っちゃった。

 

 栗毛のアスコツトは、何やら清々しい顔で走り去っていった。流石レースに出るウマ娘。あの走りができる彼女ならきっと、レースも心配いらないだろう。

 

 ……私は……どうかな。不安が消えて心が癒えたわけではない。

 私は予選、本番のオリンピック、そして国の”期待”を背負っている。

 まるで、一人で沢山の敵に囲まれているかのようだ。

 

 一人……

 

 ……トレーナー、か。

 

 そういえば、トレーナーが家でパーティーをするって言っていたっけ。

 最初はこんな時にパーティーなんて、トレーナーはちゃんと競技のこと考えてくれているのか、と思ったけど、もしかしたら、元気づけてくれようとしていたのかな。

 もう日が暮れそうだし、言ってみようかな。もし元気づけてくれようとしているなら、トレーナーにも悪いし。

 

 ……別に大好きとかではないけれど。

 

 

 私は東京レース場の前に停めてあった黒いオープンカーを景気づけに跳び越え、東京の笄町にあるトレーナーの家に向かった。

 




西さんとウラヌスは史実でも出会ってすぐのヨーロッパ転戦では大活躍でしたが、今村少佐とソンネボーイも大会で優勝するなど凄まじい活躍を見せていました。史実の西さんやウラヌスが今村・ソンネボーイコンビをどう思っていたかは詳しくは分かりませんが、強力なライバルだったのは確かですね。

さて、次回からはついにロス五輪予選会。ウラヌスはどのようにオリンピックへの不安を乗り越えていくのでしょうか。乞うご期待。


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#4 話せばわかる

 トレーナーの西竹一に招待され、東京にある西邸を訪れたウラヌス。そんな中でもウラヌスは、オリンピックの重圧の中で憂鬱な気分だった。そんなウラヌスに声をかけたのは、"犬養"という老人。犬養はウラヌスに、オリンピックとは何かを問いかける……。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


『トレーナーはね、私に”一人で走っているんじゃない”って教えてくれたんだよ』

 

 府中で出会った栗毛のウマ娘、アスコツトの言葉でふとトレーナーのことを思い出した私は、パーティーとやらに参加するために麻布、笄町のトレーナーの家に来ていた。

 来たのだけれど……

 

 ”なんじゃこりゃ……”

 

 そんな言葉が自然と口から漏れ出した。

 いくらトレーナーはお金持ちの貴族と言っても、東京の笄町と言えば一等地で地価も高いらしいし住んでいる家も少し大きめくらいだと思っていた。

 しかし目の前に広がるのは、”庭”と言っていいのか分からないほどにだだっ広い芝。ゴールを置けばサッカーが出来そうだ。しかもその中心に建つのは、庶民を威圧するかの如く佇むこれまた巨大な家。家と言うか邸。豪邸。

 西洋風の豪邸の周りには立派なスーツを着た貴公子や貴婦人がお行儀良く歩きながら談笑している。幸い私はトレーニング中も軍服を着ていたから浮かないし問題ないだろうけれど、ドレスコードがありそうな家って何よ。

 しかし、信じられないけど前に教えてもらった場所で間違いないし、どでかい門の表札に堂々と”西家”と書かれていたから本当にトレーナーの家なんだと。

 こんな家、私なら年中住んでいたら気が休まらなさそうだ。

 

「ごきげんよう」

 

 ゴ、ゴキゲンヨウ……。

 

 素敵なドレスを来たご婦人に挨拶を返す。

 日本語はトレーナーと出会って日本へ行くと決めてから必死に覚えたけど、やっぱりまだぎこちない発音になってしまう。特に上流階級の言葉なんて何も知らないから挨拶なんかはオウム返しするしかない。

 ちなみにイタリアにいた頃は英語で話していた。トレーナーはイタリア語も全然話せたみたいだけど、私はイタリア軍のウマ娘学校に通った時に英語を習っていたし、初対面のトレーナーは英語を話していたから私もずっと英語で話している。

 しかし、ここにいる人は皆英語くらいぺらぺらと話せそうだけど……。

 

 そんなのはどうでもいいとして、ひとまずトレーナーの姿を探すことにする。トレーナーは日本陸軍の制服がお気に入りで、いつも襠が高い大きな帽子を被っているからすぐ分かるはずだ。なんでもあれは、最近日本の青年将校で流行っている”チェッコ式”というようだ。イマムラもそうだったけど、軍人のくせに皆やけに洒落ている。

 

 しかしそんな洒落た軍帽を被った姿は見つからず、そびえ立つ豪邸の中に入っても同じだった。ホールでは、庭と同じく沢山の貴族らしき人たちがこれまた歩き回っている。

 

「おや、その軍服、君がウラヌス君かの?」

 

 ひとまずトレーナーを探して豪邸の中をぎこちなくうろうろしていると、隅の方で一人座っている老人に話しかけられた。流暢な英語だ。

 大きなひげを蓄えた白髪の老人は他の貴族たちとは違い、質素な黒いスーツを着ている。

 

 ……私?

 

「ウラヌス君、西君から君の話はよく聞いているよ。オリンピックに向けて頑張っているようだね」

 

 あなた、トレーナーの知り合い?

 

「知り合いに家を貸してくれた縁がある。それに西君はオリンピックにも出場する予定らしいから挨拶にと思ってね。急になってしまったから、今思えば申し訳なかったかのう。西君は君との時間もあっただろうに」

 

 い、いいえ……あの、オリンピック関係の方?

 

「いいや、ただロサンゼルスのために金を寄越してほしいという男がいたから、大蔵大臣になる知り合いに紹介してもらって話しただけだよ。そうそう、その”田畑”という記者が面白い男でねえ。口は相当悪いが、スポーツに対する情熱では、彼にかなう者はいないかもしれんなあ……と、ああごめんね。関係のない話を」

 

 ……はぁ。

 

 ”タバタ”という男の名前、そういえばトレーナーも言っていたな。オリンピックに関係がある人だそうだけど、いつか私も会うことになるんだろうか。

 ……じゃなくて。

 

 大蔵大臣になる知り合いって……あの、あなた、何者?

 

「私かい? 私は”犬養”という者でね。あまり外で姿を見せたら驚かれるからお忍びで来ているんだよ。知らないかな?」

 

 ”イヌカイ”……お忍びということは有名な方なんでしょうけど、ごめんなさい。日本に来てからはほとんどトレーニングしかしていなくて。

 

「いいや良いんだよ。こうして私の孫と同じくらいの娘と普通に話せる機会なんてなかなかないからね。私も嬉しいよ。よければ、どうぞ」

 

 え、ええ。どうも。

 

 優しい顔でにっこりと笑うお爺さんに促されるまま、テーブルを挟んで向かい合わせになって座る。

 大蔵大臣がどうとか言っていたから、ただ物ではないから何となくかしこまってしまうけど、雰囲気的に普通の優しいお爺さんにも見えるからこれが分からない。

 

「時にウラヌス君は最近トレーニングを頑張っていると西君からも聞いていたけど、たださっきからの様子を見たところ、何か気になることでもあったかな」

 

 え?

 

「いいや、急でごめんね。何か不安そうな顔をしてそこらを歩いていたからね。……もしかして、オリンピックのことかな」

 

  す、鋭い……ですね。まだあまりお話もしていないのに。

 

「はは、そんなかしこまらなくていいよ。いやね、職業柄、人の様子をまじまじと見てしまうのが癖でね。少し気になってしまったんだよ。もしかしたら私たち国民が君に、いらぬ重圧をかけてしまっているのではないかとね」

 

 重圧というか何というか……。

 でも、少しだけ正解かも。私はオリンピックに出るために沢山トレーニングをして少しでも勝てるように努力してきました。でもなかなか成果がでなくて……それで少しだけ不安なんです。私が、この日本という国のウマ娘になった私が、皆からの”期待”に答えられるかどうか。

 

「”期待”?」

 

 ええ。

 だって、ロサンゼルスオリンピックは、日本にとってとても大切な大会だと聞いた。今までよりも沢山の選手団を送り込んで、沢山メダルを取りに行くんだって。そんなオリンピックの最後を飾るのが私たち障害跳越競技のウマ娘。だから負けられない。私たちは。もし負けたら……

 

「ふむ。なるほど、君の悩みは”それ”か」

 

 うん。だからどうしても不安で。

 

「時にウラヌス君。君はオリンピックとは何だと思う?」

 

 え? オリンピック?

 

「そう。君がこれからそんな”期待”を背負っていくのだというオリンピック。それは一体なんだと思うかね」

 

 オリンピック……。

 世界中の人々が集まってスポーツで戦う、世界で一番の、大会。

 ……平和の、祭典。

 

「そう。”スポーツの祭典”であり”平和の祭典”、それがオリンピックなんだよ」

「最近は恐慌で世の中が暗くなり、近頃満州の方では戦争やら何やら騒ぐ軍人もいる。そんな彼らが訴えている”戦争”というのは、勝つほうも負けるほうも苦しく、気持ちも晴れることは決してない。だけどね、スポーツは良い。スポーツは国がどう、政府がどうというものではない。一対一、チーム対チームの真剣勝負。勝つほうも負けたほうも清々しい気分になれる。時には負けて悔しく心が曇ることもあるだろうけど、それでも最後には潔い。それがスポーツ、オリンピックだよ」

 

 国がどう、政府がどうではない、か。

 でも、私は日本代表のオリンピック選手のウマ娘。だから勝たないと……

 

「私はね、ウラヌス君。君が国の威信だとか、国民の期待だとか、そんなことのために最初から走っていたわけでないことくらい分かる。そんなのはまるで戦争ではないか」

「あくまで一国民としての私の意見だけどね、君たちに求めるのは国の期待でも、更に言うと金メダルでもない。君がロサンゼルスという地に立ち、沢山の力で競技場を走って跳んで競い合うこと。そして、沢山の人と輪になることだよ」

 

 輪になる?

 

「そう、五輪。オリンピックの”五輪”だ。日本人、アメリカ人、イギリス人、イタリア人、中国人……。黄色人種、白人、黒人……。皆が一緒になって手をつなぎ、お互いの功績を称え合う。そうして海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる。私はそれで良い。それが良いと思っているよ」

 

 国のためじゃない。ただ自分の出せる力を全力で出して競い合う。そして、最後には皆で笑い、語りあう?

 ……できるかな。私に。

 

「少なくとも、ウラヌス君には難しい事ではないと思うよ。君にはあの豪傑の西君もいるだろうからね」

 

 …………。

 

「なるほど、西君とも何かあるわけだ」

 

 ……そう、かもしれません。

 

 “もしボクが結果を残せなかったらイマムラは日本にボクを残してくれるのか……”

 

 何度も蘇る、あのソンネボーイの言葉。

 結果を残せなくて国の人たちから後ろ指指されるのは、本当言うと別に良かったんだ。イタリア軍の寮にいたころの私なんて、誰から見向きもされなかったんだから。

 それでも、トレーナーは私をどう思うんだろう。もしトレーナーに見捨てられたら……。

 

 ああ、これじゃあ、アスコツトとかいうウマ娘が言っていて言い訳した”トレーナー大好き”が本当みたいじゃない。

 

「おせっかいだがね、その悩みは、西君本人と話したかな?」

 

 ……え?

 

「でもウラヌス君、私はね、さっきの五輪の話もそうだけど、きっと世の中の暗い話や大きな問題も、一人一人が抱える問題もね。全てではなくても、きっとそのほとんどは一つの言葉で終わる話だと思うんだよ」

 

 一つの言葉? まるで魔法みたいな話。

 

 イヌカイという老人は穏やかな顔を浮かべて席を立ち、”そんな難しい話じゃないさ”と言い、笑った。

 

「”話せばわかる”」

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 イヌカイの不思議なお爺さんとお話をした後、豪邸のベランダにようやくトレーナーを見つけた。気づけばもう夜になってしまっていた。

 

 ”話せばわかる”

 

 そんな中でもイヌカイのお爺さんの言葉が、ずっと胸に残っていた。

 思えば、私は日本に来てからまともにトレーナーと笑いあったこともなかった。……いや、思えば出会ってからちゃんと笑いあって、話したことってあったっけ。

 そう思いながらも私は、普段通りにトレーナーの前に立つ。

 

「 来てくれたのかウラヌス。来ないんじゃないかと心配したよ」

 

 ……ま、全く、夜でホームパーティーなんていうから私とトレーナーだけかと思ったのに、なんであんなに知らない人が沢山いるのよ。

 

「あ、あー、すまない。本当はそのつもりだったんだが、えらい来客が来たもので、そのための会場準備をしていたら人が集まってしまってね。本当はこうして、ウラヌスと二人で話したいと思ったのだが」

 

 何よ、話したいのなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。本当を言うと、行こうかどうか迷ったくらいなんだから。こんなオリンピックの審査会前にパーティーなんてーって。

 

「はは、すまないすまない」

 

 全く。

 

 ベランダの柵にトレーナーと並んで寄りかかる。もう太陽は静まって、東京の街の明かりが少しずつ灯されていく様子が綺麗だ。……初めてかもしれない。こんなに落ち着いて、日本の景色を眺められたのは。

 

「ところでどうだ、東京の街を歩いて、うちに来て、少しは心休まったか」

 

 ……いいえ。

 全っ然。街を歩いていたら変に注目されるし、変なウマ娘にも会って変なこと言われるし、ここに来たら知らないお爺さんとも話すことになるし、気は休まらなかった。

 

「そうか。まあ騒がしい街だからな」

 

 そんな街の中でも毎日騒がしいのはあなたでしょうけどね。

 まあでも、気は休まらなかったけど、外に出られて良かった。少し頭を冷やせたわ。

 

「そうか。それなら良かったかな」

 

 結果的にはね。

 

「……なあウラヌス。その何というか、私は無理をさせすぎていないだろうか」

 

 ……え?

 

「時々思うんだ。君とは一年ほど一緒に競技をしてきたけど、思えばオリンピックや競技のこと以外で君と正面から話したことがほとんどなかったとね。君と話すとき、私はいつも君とちゃんと話せている気がしないんだよ」

 

 ……そうかも。トレーナーと一緒にいて楽しいけど、遊びに行ったりとかもしてなかったし、なんだか競技ばっかりになってしまっていたわね。それでもちゃんと話せていなかったのは、私も同じよ。

 

「だから、何か大切なことを君が一人で抱え込んでいる気がして、私も少しだけ不安だったんだ。私はトレーナーとして、しっかりと君と向き合えているかどうか。君に重荷を背負わせてしまってはいないか。……君と最初に出会ったときに話しただろう? 私の過去を」

 

 ええ。”貴族”としての”期待”、そんな期待に反抗しながらもなった軍人。それがあなた。

 

「そうだ。私は君、ウラヌスに、そんな私の過去と全く同じ重荷を背負わせてしまっているのではないかと思った。だからしっかりと話したかった。だがほら、私の口下手は知っているだろう?」

 

 女を口説くのが上手い遊び人が何言ってんのよ。

 ……でも、それは私も同じだった。

 さっきね、ある人と話して気づいたの。私、これからロサンゼルスで一緒に走るのに、トレーナーとちゃんと話せていなかった。だから話したかった。

 

「ウラヌス……君は、私に何を話したかった?」

 

 私が話したかったのは、一つだけ。

 

「ああ、何だい」

 

 トレーナー、あなたは……

 

 私がもしオリンピックで良い結果を残せなかったら、どうする?

 

「え?」

 

 ソンネボーイが言っていたわ。この国は今大変で暗い話ばかり。ソンネボーイ自身も、不況のせいでイギリスから出るハメになったんだって。

 だから……もし私がオリンピックに負けるようなウマ娘だったら、トレーナーだってきっと日本の人たちに酷いことを言われるかもしれない。不況だから私のトレーニングの世話をするだけでもきっと大変だよ。私といたら、迷惑がかかることになるかも。

 もしそんなことになったらさ、トレーナーはどうする?

 

「ウラヌス……君は、ずっとそんなことを思っていたのか」

 

 う、うん。

 

「ふむ」

 

 それで、どうなのよ。

 

「……ふ、ふふふ」

 

 な、なによ。

 

「……はははははははは!!!」

 

 ちょ、何笑ってんのよ!! こっちは真剣なのよ!

 

「ははは、いやァ、すまない。そうだよなそうだよな」

 

 むぅ、本気で蹴ってやろうかしら。

 

「だってなウラヌス。不況がどうとかいうけどな、それを今の私に言うか? 真昼間から貴族たちと高級酒で飲んだくれて麻布の街で高級車を飛ばす私に。いいか、西家が貧乏になるのは、私が死ぬまであり得ないぞ」

 

 でも、でも分からないじゃない。もしそうだとしても、もし私が原因であなたが後ろ指を指されるようなことがあれば……

 

「それも杞憂だ。私は日本陸軍一の暴れん坊、西竹一だぞ? 今まで後ろ指を指されることなんて散々してきた。だから私は良いんだ。もしそんなことでウラヌスに酷いことを言う輩がいたら、私が決して許さない」

 

 ……!

 

 アスコツトのトレーナーが言っていたんだっけ。

 ”お前は一人で走っているわけじゃない。もしそんなことで何か言う輩がいたら、私が許さん”

 ……おんなじだ。

 私のトレーナーもおんなじ。トレーナーは、私のことをちゃんと、見てくれていたんだ。

 

「それになウラヌス。私は出会ったとき、君に言ったはずだぞ」

「”一緒に世界一になる”って。だから私は、少なくとも君と世界一になるまではずっと一緒に走り続ける。約束だ」

 

 トレーナー……。

 

 トレーナーは笑いながら私の頭に手を置き、撫でてくれた。

 そして優しい顔で笑った。

 

「だからさウラヌス。これからは、楽しいことも苦しいことも、一緒に走って跳び越えていこう。私と君は、世界で一番の、”相棒”だ」

 

 ……っ!

 

 と、トレーナーぁ……っ……!

 

「あ、ああ、撫でられるのは嫌だったか」

 

 ううん。嫌じゃない。やめないで。

 

「泣いているのか、ウラヌス」

 

 な、泣いていないっ……!

 

「ふふ、そうだな。そうだな、ウラヌス」

 

 ……うん。

 

 それからしばらく、トレーナーは笑いながら、でも私の頭をずっと撫で続けながら東京の街並みをずっと眺めていた。まるで、私が泣き顔を見られたくないのが分かっているかのように。

 

 本当にバカ。いつもそれくらい紳士でいろっての。

 

 恥ずかしさから心の中で悪態を吐きつつも、トレーナーの大きな手のひらに心が洗われていくようだった。

 それからしばらくして、私の頭から手を離した後にトレーナーが私の顔を見て口を開いた。

 

「なあウラヌス、今日の最後にさ、君の言葉で聞かせてくれないか。私と一緒にこれからもずっと走り、跳んでくれると」

 

 私の言葉で?

 

「ああ。今まで正直私も不安だったんだ。君と話をするたびに、私が君のトレーナーとして君の本当の言葉を聞けているのか」

 

 本当の、言葉……。

 

「”相棒”としての言葉だ。今までの君と話すときは、まるで”君の繊細な心を覗き見なければいけない”ような、そんなぎこちなさがあったように思うから。だから私は……」

 

 ねえ、トレーナー。

 

「……うん」

 

 私はね。

 

 「私は……

 

 そうか。

 本当に私は今までトレーナーと本当の意味で話せていなかったんだ。相棒だと、これから一緒に走る一生の仲間だと頭では分かっていても、きっと私はどこか怖がっていたんだ。トレーナーと一緒にいることに。

 

 でももう大丈夫。私はトレーナーの”相棒”。

 だからこれからは”本当の私”でトレーナーと向き合おう。

 

 ”話せばわかる”

 

 ……本当だね。お爺さん。

 

 

「私はトレーナーの一生の”相棒”よ。だからトレーナー、一緒に行きましょう。世界一のステージ、ロサンゼルスに!」

 

 

 本音で心から話せば、きっとどんな障害も乗り越えていけるんだ。

 

 

「ああ! ……はは、やっと笑ってくれたな、ウラヌス」

「これからはもう逃げないから」

「ああ」

「全く、口下手なのは、誰かさんと一緒ね。誰かさんが言ってたな。”私と君は似ている”って」

「そうだな。だからこそ私は、君を選んだんだ」

 

 その日、街の光が照らす夜の東京の真ん中で、私とトレーナーはいつまでも笑いあっていた。

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 トレーナーと笑いあい、本音で話し合った夜からすぐに私とトレーナーは毎日トレーニングをする日々に戻った。

 それでも、あの夜の前の私とは違う。

 40kmもある東京から習志野までの道のりを毎日超えてきてくれるトレーナーがいるから。私たちには心配することがない、絆があると知ったから。

 それに、あのアスコツトというウマ娘、そしてイヌカイのお爺さんの、応援のような言葉が胸に残っていたから。

 

「ソンネボーイ、今村安、減点8!」

「ウラヌス、西竹一、減点4!」

 

「……良い目になってきましたね、ウラヌス」

 

 そんな風に言って汗をぬぐって毎日競い合う、ライバルがいるから。

 

 そして遂に迎えたロサンゼルスオリンピックの国内予選審査会。

 この審査コースを最後まで跳ぶことができれば、晴れて日本の”オリンピックウマ娘”として堂々とロサンゼルス入りを果たすことができる。

 場所は習志野原と中山レース場の間の道路。沿道には沢山の人たちが応援に訪れていた。

 

「ついに予選審査会……」

「調子はどうだ、ウラヌス」

「絶好調に決まっているじゃない! 当然よ」

 

 何せライバルであるソンネボーイと幾度も戦ってきて、高め合ってきた。

 それに私にはトレーナーがいる。あの夜に話し合ってから、きっとそれを本当の意味で確信できたんだ。

 あの夜から、何だか胸がわくわくとしてしょうがないんだ。

 

「なあウラヌス、そういえば聞きたいことが」

「なに?」

「あの夜、私と話したときにウマ娘と爺さんがどうとか。あれって何のことだ?」

「え? あー、”アスコツト”っていうウマ娘と、あと”イヌカイ”っていうお爺さんと話したのよ。知らない?」

「アスコツトという娘は知らないが、イヌカイさんは知っているよ。……なあウラヌス、その爺さんに何か失礼なこととかしていないよな」

 

 やっぱりあのイヌカイのお爺さん、只者じゃなかったのね。

 というか失礼なこととかしていないかって……トレーナーらしくないけど、これは相当な大物っぽいわ。

 

「大丈夫、少し話をしただけ。応援してくれたの。私たちのオリンピックを」

「そうか。それなら、しっかりと恩返しをしなくちゃな」

「この予選会を通過したらまた会えるかな」

「うーん、そうそう会える人ではないからね。ああ、でも……」

「でも?」

「”オリンピックで勝てたら”、会えるかもしれないな」

 

 なるほど、”それだけ”のお人だったってことね。私、失礼なことしなかったかな。

 

 でもそうか。

 私が走り跳ぶ理由。それは国のためじゃない、トレーナーと離ればなれにならないためじゃない。それは分かった。でも何のために走るのか。何のために跳ぶのか。それは正直ぼんやりとしていた。

 私はそれでも良いと思ったけど、でも段々と霧が晴れてきて、分かってきた。

 

 ”贈るため”。

 

 私を応援してくれたトレーナー、そして応援してくれたアスコツトやお爺さん、沢山の日本の人たちがいた。でも、そんな人たちの期待に答えるためじゃない。

 私が走るのは、跳ぶのは、そんな人たちへの、私にとっての一番のプレゼントなんだ。

 

「トレーナー、私、走るよ。私を応援してくれた人たちに贈らなきゃ。私たちの勝利を」

 

 それがきっと、私が走り、跳ぶ理由なのかもしれない。

 

「ああ。……よし、行くぞ、ウラヌス!」

「うんっ!!」

 

 その日、私は一番の走りと跳びを見せた。

 ロサンゼルスの風景と、沢山の人の笑顔を思い浮かべながら。

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 「(ウラヌス君、西君とよく話ができたようだね)」

 

 『ウラヌス、ソンネボーイ、オリムピック予選審査会に合格』

 華やかとはほど遠い質素な日本間の一室で、老人・犬養毅は新聞の一面を大きく飾る、障害を勢いよく跳び越えるウマ娘の写真を見て笑った。

 

「(オリンピック……か)」

 

 犬養は新聞の写真に写るウラヌスと、そして前に知り合いの政治家から紹介された男の顔を思い出していた。

 

「(オリンピックを目指す者たちは、皆輝いた眼をしておるな)」

 

 犬養毅は追い詰められていた。

 犬養は軍部側を擁護したのにも関わらず、内閣が軍縮条約を締結した時に起こった統帥権干渉問題について青年将校から反感を買っていた。更に世界恐慌による貧困も前内閣の政策が上手くいかないまま、何度も断った総理大臣になってしまっていた。相当の重みを背負わされてしまったというわけである。

 そんないつ爆発するか分からない軍部や国民をいつも相手にしていた犬養にとって、オリンピックというのはどこか煌びやかな、美しいものに思えたのだった。

 

「(そういえば、西君にオリンピック後のパーティーに誘われていたのう)」

 

 つい先日西邸を訪れてウラヌスに言葉を贈っていた犬養は、西からオリンピックが終わった後のパーティーに招待されていた。招待状には”祝勝会”と書かれていた。気が早いものだと、犬養はテーブルの上に置かれた招待状を見て笑った。

 

 犬養は他の日本人と同じく、スポーツとはどういうものか最初は分からなかった。庭瀬藩の藩士として少年期は刀を振る術を学んだが、学生となりその後政界に入ってからは運動をする暇もなく日々が過ぎていった。

  しかし最近は剣道も競技化しているらしく、声をかけてきたとあるオリンピック男は、もし日本でオリンピックをやるのなら剣道も競技にできるのではないかと言っていた。それなら自分も引退してそういった競技に打ち込むのも悪くはないのではないかと、せわしない日々を送りながらも犬養はぼんやりと想像した。

 

「(まあ、この老体だと身体がもたんだろうけどのう)」

 

 だからこそ犬養は、選手たちを含め、オリンピックへ行こうとする多くの者たちを応援し、後押しするのだった。自分には見ることが難しい世界を、その目で見てきてほしい。今まで国のため、国民のためという感情を半ば強制されてきた世界から、多くの人々が競い合い笑いあう輝かしい未来を。

 それがウラヌスや西の背中を押した理由の一つでもあった。

 

「(しかし、そうか。東京で、オリンピックか。それは良いものだ)」

 

 熱心な記者のあのオリンピック男、それに続き都知事まで言っていた、”東京オリムピック”。

 関東大震災に揺れその復興もままならず、国内不安が漂う中では本来考えられないオリンピック。しかし、それでも犬養はそんな夢のような提案に一種の希望のようなものさえ抱いていた。

 先月に満州で起きた関東軍による暴挙とも言える武力行使。そこから連なる上海での武力衝突。もはやこの国の軍部は正常とは言えず、にもかかわらず国民でさえこれを称賛する有様だった。その一見強くて輝かしい行動の下には、数千の屍が眠っている。本来民が望むべきはずの平和はそこにはなかった。

 だからこそ犬養はスポーツで、オリンピックで、競技を通して互いの技で”語り合い”、少しでも平和の花道を、この日本という国の国民たちが理解し約束してくれないかと些細な願いを持っていた。

 もちろん犬養は首相として、そんなことで事態が収まるほど甘いものではないということはもちろん分かっていた。けれども例え他国に矛を向けなどしなくとも、あらゆる問題について話し合えば分かり合えることもある。それを示したかったのだ。

 そしていつかは、国も人種も思想も違う相手と握手をして、日本国民の歓声の中競い合える日がいつか来るのだと、犬養は心の底から願っていた。

 だからこそ犬養は都知事とも密かな約束を交わした。自分が生きている限りは、必ず”東京オリムピック”を叶えようと。

 

「(楽しみだね、オリンピック)」

 

 犬養はそんな”東京オリムピック”の願いを叶えるためにも、西やウラヌスたちの背中を押した。オリンピック男や都知事の声を聞いた。そのためにロサンゼルスから積み重ねていこうと考えた。

 犬養は西の招待状とは別にテーブルに置かれた、雑な文字で書かれた別の”招待状”を眺めていた。

 

「(あのオリンピック男め、字くらい綺麗に書けないものかね)」

 

 それは”オリンピック男”から渡された、オリンピック開催地への赴く選手たちに向けて作られた、”国際オリンピック派遣選手応援歌”のお披露目会。発表の式典だった。

 新聞の一般公募で選ばれたその歌は、君が代の旋律を取り入れた、けれども逞しく清々しい気分になれる、正に”オリムピックの歌”なのだという。

 力強く勇ましい、けれど正々堂々と勝負し最後に笑いあう、平和の歌だ。きっと交響楽団の指揮と演奏によって奏でられるその歌は、何よりも素晴らしいものになるだろうと想像できた。

 

 

 ”走れ大地を”

 

 

 招待状には、達筆すぎる文字で、でかでかとそう書かれていた。

 

 犬養は招待状を眺め、今日の午後七時に行われるその式典を想像し、少年のような気持ちで待っていた。

 

 ……その時だった。

 

「失礼いたします!!」

 

 大声を出し、部屋の扉を勢いよく開けたのは、血走ったとも言えるほどに切羽詰まった表情の、護衛のために表にいた巡査の平山だった。

 

「どうした」

「軍服を来た暴漢が侵入してきました、どうかお逃げください!」

 

 犬養は表情一つ変えなかったものの、”ああ、ここまで来たか”と一つ息を吐いた。

 犬養は軍縮条約や満州の武力行使の政府の対応のせいか多くの軍人から反感を買っていた。剃刀か何かの刃が入った脅迫状がこの総理官邸に届いたのも一度や二度ではない。

 だから、いつかこうなるだろうとは思っていたのだ。

 

「逃げない。会おうじゃないか」

 

 そう言って平山を外にやった。

 そうした中でも犬養は心の中で、ウラヌスに贈ったあの”言葉”を心の中で何度も復唱していた。それが犬養の意志であり、矜持のようなものだった。

 

 その後、間も置かずに海軍の少尉服を着た者が2人、陸軍士官候補生の服を着た者が3人、拳銃を向けてどたばたと押し入ってきた。いずれも険しい顔をし、犬養を睨んだ。

 そして一団の代表者らしき海軍少尉服の男は何も言わずに拳銃の引き金を一度引いた。

 

 かちっ

 

 しかし不発。

 男は拳銃を犬養に向け、睨んだまま固まっていた。

 

「まあ、そうせくな」

 

 犬養はいつも議会で野次を収めているのと同じく手を振り、一団を見まわした。

 

「なあ若いの。撃つのならいつでも撃てる。こっちで話を聞こうじゃないか」

 

 犬養は日本間の真ん中に置かれた椅子に向けて歩いた。

 

 内心、犬養はもう生きてこの邸宅を出ることができないのだと悟っていた。

 そしてテーブルの上に置かれた達筆すぎる招待状を見て、約束を守ることができないことを詫びた。

 

 ”走れ大地よ”

 

 その歌をこの耳で聞くとができない、少しの未練を感じながら。

 

 犬養は目を閉じて、床の間を背に、一団に囲まれながら椅子に座った。

 

 そして考えた。日本の未来を、平和を。

 

 

「靴くらい脱いだらどうだ。ここは家の中だ」

 

 

 ああ、オリンピックへ行くあの男よ、ウマ娘よ。

 

 西よ。

 

 ウラヌスよ。

 

 沢山の選手たちよ。 

 

 

「総理、靴の心配など後でもいい。私たちが何のために来たか分かるだろう」

 

 

 この暗闇を抜け出し、海を越えてあのロサンゼルスへ着いたなら。

 

 どうか平和の花道を辿ってほしい。

 

 だから。

 

 

「そうか」

 

 

 走れ、大地を。

 

 力のかぎり。

 

 泳げ、正々。

 

 飛沫をあげて。

 

 

「なあ、若いの」

 

 

 君らの腕は、君らの脚は。

 

 我らが日本の。尊い日本の。

 

 

「まあ、靴でも脱げや」

 

 

 ”腕”だ。”脚”だ。

 

 

「話せば、わかる」

 

 

 ……犬養は目を開き、一団の中心に立つ男に真っすぐ目を向けて言う。

 しかし、その男は睨んだ目の色をも変えずに叫んだ。

 

 

「問答無用。撃て。撃てぇ!!」

 

 

 五月一五日、総理官邸。

 

 テーブルに置かれた、西とウラヌスの写真が載った新聞は、薄黒い血に濡れた。



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#5 異邦人

 オリンピックの審査会に見事合格したウラヌスと、そのトレーナーである西竹一は、念願のロサンゼルスでのトレーニングを開始した。清々しい環境の中でオリンピック本番に備えられると思えた矢先、ウラヌスはとある日系のウマ娘と出会い、アメリカでの人種差別の実態を知る……。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


 壮大な夜の荒野の道。

 無限かと思うほどに続く砂とバラックの数々は、不思議と眠りを誘わせずに見つめてしまうような魅力があった。日本やイタリアでは見られないような、そんな風景だからだろうか。

 とにかくも私とトレーナーは、そんな場所を意味もなく車で走っていた。

 トレーナーがアメリカに来るなり早速と買った、パッカードのコンバーチブル。しかもラジオ付き金色塗装のオリジナル。若干趣味が悪いことに目をつむれば良い車だ。それに加えてトレーナーも私も、立派な礼服を仕立てて着ている。

 洒落た服装にアメ車で二人きりのドライブ。気分は一流ハリウッドスター。少し洒落ている。

 

「バラックが多いわね」

「恐慌の影響だよ。あっちやそっちで職を失った者たちが隙間風の入る家を建ててそこに住んでいるんだ」

「アメリカも世知辛いのね。街はなんなにも煌びやかだったのに」

「えてして、大国というのはそういうものだよ」

 

 日中の暇な学生がしそうな会話をしながら、ぼんやりと助手席に座って景色を眺める。

 アメリカの、ロサンゼルスの景色だ。

 

 私とトレーナーは、秋に行われていたロサンゼルスオリンピックの予選審査会に合格。イマムラとソンネボーイも同じく合格。それは当然、ロサンゼルスへの切符を手に入れたということ。無事、ライバルと共にロサンゼルス行きが決定したわけだ。

 私とトレーナーはいたく喜んだ。ソンネボーイはいつも通りすんとしていたけど、イマムラの笑顔に答えて少しだけ微笑んでいたのを覚えている。

 

 それからはまたソンネボーイと競い合うように、習志野を走って跳びまわる日々に戻った。毎日泥だらけになり、お互いに強がりを言いながら走る。疲れたらトレーナーと並んで座り、何気ない話をする。夜は寮に戻ってフォームや体力づくりの勉強をする。まるで大学進学前の受験生のように熱心な生活。でも、そんな生活もトレーナーと話し合う前に比べれば遥かに苦ではなく、むしろ心地よささえ感じられた。

 

 そしてそんな日々を一年半ほど過ごした後の1932年の5月28日、ついに待ち望んだロサンゼルスオリンピック前夜。陸軍ではトレーナーの同期や他のウマ娘たちが軍歌を歌って応援してくれていたのを覚えている。

 私たちウマ娘競技選手団は沢山のオリンピック選手たちに先駆け、真っ先にロサンゼルスへ向かう競技団だった。私とトレーナー、ソンネボーイとイマムラ以外にも、何人かのウマ娘とそのトレーナーも総合競技とかに出場するようで、支援の人たちも含めると結構な大所帯だ。

 とにかくオリンピック開幕の2ヶ月も早い出発。それでも浅間丸に乗り込もうとする私たちを見送りに、横浜の港は日の丸を持った人々で埋め尽くされていた。

 今でも思い出す。

 

 ”走れ、大地を”

 

 中学生で17歳の男の子が考えた、勇ましく、でも清々しい歌。

 大地を駆けるウマ娘や陸上選手たち、飛沫をあげて泳ぐ水泳選手たち、そして日本代表として正々堂々と競技場で戦う全てのオリンピックに関わる人たち。そんな人たちに贈られた歌だ。

 

 その歌を胸に波に揺られ、航海中もトレーナーやソンネボーイと一緒に船内トレーニングを続ける。それからしばらくして浅間丸から降りればそこはアメリカ。からっとした晴れ空で、涼しい風が吹く快適な場所。

 

 本番まで2ヶ月あるけど、それまでの練習場所も確保されていた。流石アメリカ。習志野の陸軍学校よりもはるかに広い、リビエラ・カントリークラブの広大なポログラウンド。そこで沢山の選手とウマ娘たちがオリンピックに向けた練習に勤しんでいた。アメリカ、メキシコ、スウェーデン、そして日本。名だたるライバルたちが揃った練習場。気分も上々。

 これなら何の気兼ねもなく爽やかにオリンピックを迎えることができる。

 

 ……そう思っていた。

 

 それは、ポログラウンド入りして練習を始めたばかりのこと。

 私と西はイマムラ・ソンネーイと合流し、アメリカやメキシコの軍人やウマ娘たちと交流した。他のライバルたちもバ術を嗜む紳士淑女たちで、嫌味のない清々しい雰囲気の中練習が行われた。

 障害跳越競技はイギリス貴族の流れを汲む競技。競技の重要な項目の一つには審判や観客への礼儀も含まれる。だからオリンピックのウマ娘競技では新参者である私たち日本の選手団も親切に受け入れてくれたのだろう。

 

 日本のウマ娘競技選手団がオリンピックに参加するのも珍しいのか、トレーナーとイマムラは沢山の新聞記者からインタビューを受けていた。何を聞かれているのかわからなかったけど、何やらトレーナーが変なことを言って皆が笑っていたのは覚えている。

 

 でもそんな中、どうしても気になる存在があった。

 

 ふと練習コースの外側を見ると、今すぐにと、すたすたと歩いて帰ろうとするウマ娘がいた。しかも見たところ、トレーナーやイマムラと同じような肌色のウマ娘。どうやら日系のようだった。

 

「どうして帰るの? ねえ、一緒にトレーニングしないかしら」

 

 今は私も同じ日本のウマ娘。だから、少しだけ親近感を覚えて話しかけた。

 社交的でいつも色んな人と仲良くなれるトレーナーを見習って、私も和やかに現地の人とお話の一つでもしてみたかったのだ。

 

「なに?」

 

 しかしその日系のウマ娘は、予想に反して鋭い目で睨んできた。

 

「え? あ、ああ、私はウラヌス」

「知ってる。日本のウマ娘だろう。オリンピックの」

「うん。知っていたのね。嬉しいわ」

「別に、新聞とかに大きく載っていたし、当たり前」

「あなたもオリンピックに?」

「違う。ここら辺に住んでいるだけ」

「そう。ねえ、どうして帰るの? 来たばかりでしょう。一緒に走ってもいいじゃない」

「別に。帰っちゃ悪いのか?」

 

 相変わらず相手の反応は冷たく棘がある。

 

「いえ……ねえ。何をそんなに怒っているの」

「何をって。そんなの、お前たちがいるに決まってるだろう」

 

 こちらを振り向いて私を睨む。

 

「あ、ああ。もしかして前までここで練習していたの? それなら大丈夫よ、遠慮しないで一緒に走れば…… 」

「そうじゃなくて……」

 

 相手は指をさす。相手はもちろん私。

 

 

「お前たち、”日本人”がいるからだよ!」

 

 

 そう叫んで、私に指さしたウマ娘は不機嫌そうに走って帰ってしまった。

 

「どうした、ウラヌス」

 

 何が何だか分からずにぽかんとしている私を心配して駆けよるトレーナー。

 心配をかけまいと話そうか迷ったけど、もやもやを抱えたままではいたくなったからトレーナーにさっきのことを正直に話した。

 

「そうか。日系のウマ娘が?」

「ええ。どうやら私たち日本人を快く思っていないらしいの」

「そうか。珍しいな、港では日系人たちが私たちを熱烈に歓迎していたがな」

 

 そう。

 私たちが浅間丸でアメリカ入りしたとき、それはもう割れんばかりの歓声が響き渡っていた。その主は日系のアメリカ人たち。自分たちのルーツや生まれ故郷である私たち日本の選手団来米に怖いほどに熱狂しているようだったのだ。

 

「まあ、世界は人種では区切れない。色々ってことだな」

「それは、そうね……」

 

 その時は驚いて少しもやもやするくらいだった。

 

 練習は午前だけなので、午後はトレーナーと一緒にロサンゼルスやその近郊に出かけることにした。私たちは1930年のヨーロッパ転戦のせいもあって特に名前を知られているのかあちこちで声をかけられた。

 

 そしてその夜、道端で会ったとある日系の奥さんが、自分が手伝いをしている美味しい小料理屋があるので来ると良いということでお邪魔させてもらう。

 

 ちなみにトレーナーは、美人なアメリカの女の人に囲まれていてどこかに行ってしまった。後で蹴ってやる。

 

 とにかく、日系の奥さんを見て思い出すのは、ポログラウンドにいたあのウマ娘。

 料理を出しながら談笑していた奥さんに、何となくその時の話をした。

 

「……たぶんそのウマ娘の子はね、日本人が嫌いなんだねえ」

「でもどうして? 同じルーツの日本人を嫌うの?」

「ふふ、ウラヌスちゃんは本当に、差別もなく育ったのかしら。そういえばウラヌスちゃんも、イタリアから日本に行って日本人になったのよね」

「そう、トレーナーと一緒に日本に行った」

「ヨーロッパでは、アジア人差別はなかった?」

「あったかもしれないけど、分からない。私はそういうの分からないから」

 

 例えあったとしてもトレーナーは貴族で性格もあんなだし、当人も気にしないどころか逆に丸めこんでしまうだろう。

 それに私も陸軍のウマ娘寮からほとんで出てこれなかったし、それどころではなかったから人種がどうとか政治がどうとかよく分からなかった。

 

「ウラヌスちゃんにはそのままでいてほしいけれど、でも知っていたほうがいいかもねえ」

「うん、なにを?」

「私たちと、このアメリカのことを、ね」

 

 奥さんは私の向かいに座って話を始めた。

 

「私たち日系アメリカ人はね、家を持つことができないの」

「家を持つことができないって、自分の家を? アメリカ人なのに、そんなの変だ」

「ねえ。でも、それが現実のお話なの。私たち日系アメリカ人は、他のアメリカの人たちと同じバスに乗ることも、同じプールに入ることも、そして同じオリンピックスタジアムに入ることもできないの」

「オリンピックスタジアムにも?」

「そうなの。本当は私もウラヌスちゃんの活躍を間近で見たいけど、見られたとしてもあまりよく見えないかもねえ」

 

 そんなの悲しい。だって、港であんなにも私たちを歓迎してくれて、行く先々であんなにも沢山の日系の人たちが私とトレーナーを応援してくれたのに。

 

「それは私たちだけじゃない。ウラヌスちゃんが練習していたところの門番さん、大きな黒人さんじゃなかった?」

「あ、そうだった」

 

 私たちが練習していたリビエラ・カントリークラブの門番は、私よりももっと背が高い黒人の男の人だった。声をかけてもあまり振り向いてくれないけれど、いつも仕事を全うしているしっかりとした人だった。

 

「その人のような黒人もそう。アジア人も黒人も、他のアメリカ人たちと同じように過ごすことはできない。まるで日本人でもなければアメリカ人でもない、”異邦人”みたいだねえ」

「そうなんだ。オリンピックも、他の人たちみたいに見ることができないんだ……」

 

 オリンピック。平和の祭典。沢山の国、人種、民族の人たちが全力で競い合い、輪になって踊る。そんな大会。

 そう聞かされていたはずなのに。

 

「だからそのウマ娘の子はきっと、自分がそんな差別を受ける原因の”日本”を、恨んでいるのかもしれないね」

「でも、そんなのおかしいよ。だってその差別の”原因”は日本じゃなくて、そんな差別をする人たちじゃない」

 

 私はイタリアのウマ娘寮での生活にあまり良い思い出はない。でも私はイタリアを恨んだことはなかった。私が障害跳越を覚えられたのはイタリアにいたお陰だし、嫌なことも沢山あったけど、それでもイタリアに生まれたことを後悔したことはない。

 あのウマ娘が自分のルーツである”日本”を恨んでいる。それが本当ならあまりにも悲しい。国が全てではない。でもそんなの、まるでそんな生まれを持つ”自分”さえも嫌っているようで……。

 

「いつか、こんな話をしなくても良いような。そんな世界が来ると良いねえ」

 

 そう言って困ったように笑う奥さんの顔が、どうしても忘れられなかった。

 

 それから奥さんにお礼を言って、トレーナーに倣って少しだけ多めにお金を払った。奥さんは”勝てると良いねえ”と言いながら、ずっと手を振ってくれていた。

 手を振り返して大通りに出た後、私は外で待っていたトレーナーと合流した。

 ちなみに一発蹴った。

 

 それでも何となくもやもやとした気持ちを抱えたまま、私とトレーナーは夜の荒野のドライブに洒落こんでいたというわけだ。

 

「なんか、分からなくなっちゃったな」

「何が?」

 

 珍しく自分で運転すると言い出してハンドルを握っていたトレーナーが私の方を見る。

 良いけど前見なさいよ、危ないでしょうが。

 

「……オリンピックが」

 

 トレーナーの家で会った、あのイヌカイのお爺さんも言っていた。

 平和の祭典。沢山の人々が輪になる、それがオリンピック。

 私はそう思っていた。なのに、こんなのはまるで”逆”じゃないか。

 

「全てが理想通りにはいかない。特にこのアメリカでは」

「自由と夢の国なのに?」

「だからだよ。皆好き勝手なことばかり言うんだ。それにな、ポログラウンドにいたオリンピックのライバルたちだって、私たちのことを裏でなんて言っているかもわからん」

「そうなの?」

「ああ、跳越競技選手の上に貴族だから、表立っては紳士淑女ぶってはいるがね。私や今村さんはアジア人な上に、障害跳越ではほとんど実績がなかった日本の選手だ。内心、私たちには勝てると思っているだろうさ」

 

 どこへ行っても人種の話ばかり。いつもただ走って跳び越えてに全力だった私にとっては、どんな理由があろうともそれは理不尽なものにしか思えなかった。

 

「他の競技でもそうなのかな。陸上とか水泳とか」

「そうだろうなあ。オリンピックにこんなに沢山の選手団を送ったのは日本にとっても初めてだからね。色々言われるだろうさ」

 

 私たちが戦わなければいけないのは、競技そのものだけじゃない。偏見や差別といった理不尽な価値観からもだったんだ。

 

「……そういえば水泳で思い出したが、もう少ししたら水泳の日本選手団が到着するみたいだから見に行ってみるか」

「え? うん。良いけど、どうして?」

「同じ境遇の中で戦う日本の仲間たちを見るのも、いい刺激になるだろう」

 

 

・・・・・・

 

 

 私は翌日、トレーナーと一緒に先日到着したばかりだという水泳日本選手団の一行を尋ねた。

 

 ロスの選手村の近くに置かれた屋外大型水泳競技場。そこには沢山の人々が集まり、フェンス越しに観戦していた。その中心は大型プール。

 競技場に着くと黒人の門番さんに事情を説明し、入れてもらう。

 

 私は”着いたばかりなんだから本格的な練習はまだなんじゃない”と言ったけれど……

 

「いけー宮崎! スピード落とすなよ! おいおい北村、落ち着け、落ち着いて泳げー!!」

 

 ブレザー姿に眼鏡の男の大声に答えるように、必死に大きなプールを泳ぐ水着姿の男の人たち。日本の水泳選手たちは、既に練習に全力で打ち込んでいた。

 

「……凄い。水泳って私、初めて見たかも」

「ああ、ウラヌスが見ているのと言ったら、いつもの水泳練習くらいだものな」

 

 あれはクロールだろうか。

 水をかきわけて筋力を鍛える泳法とは違う。本当に速さで勝負するための、真剣勝負のための泳ぎ。

 

「綺麗」

 

 思わずそんな言葉が出てくるほどに洗礼された動き。

 機械の歯車のように一つ一つのフォームにこだわりを感じる。まるで職人だ。

 

「……あっ! おい宮崎、北村、女子が見に来てくれているぞ! ウマの女子だぞおい!! 頑張れ頑張れ!!」

 

 あっ、皆フォーム乱れた。

 なんだあの男は。

 

「あー、ユー、アメリカン、ウマムスメ、ガール、オーケイ?」

 

 さっきまで大声を出していた監督らしき眼鏡の男は、下手クソな英語を喋りながらこちらに歩いてきた。

 

「私たちは日本人よ。こっちは私のトレーナー」

「なんだい日本人……あー! ウマ娘競技の娘かい。何でこんなところに来たんだい。なあ、そっちの洒落た軍人さんよ」

「うちのウマ娘……ウラヌスの良い刺激になればと思ってね」

「あー、そうかい。まあ、見て行きなよ。こっちは最高の盛り上がりだかんねえ!」

 

 プールを見渡して見ると、確かに凄い人たちがフェンスの外から日本の水泳選手たちの泳ぎに声援を送っていた。その殆どが恐らく日系のアメリカ人。

 ……ただ、プールの中で泳いでいるのは日本人だけだ。

 

「ねえ、どうしてプールで泳いでいるのは日本人だけなの? プールサイドにはアメリカの選手もいるようだけど……」

「あー、あいつらかい」

 

 眼鏡の男は、プールサイドにいる水着姿の白人を見て笑った。

 

「ヤンキー、ね。俺の付き添いが言っていたんだけどね。何でもこっちでは有色人種と白人は一緒に泳がないらしいんだよ。見てごらんよ、フェンス周りに集まる日系人。あの人らも言っていたんだよ。プールサイドへ行くことすらできないんだってさ。だから今だってフェンスの外から眺めてんのさ。それにあのヤンキーたち、さっきから俺たちが泳いでいるところをじろじろ見ていやがる。だから当てつけに思いっきり泳いでやってんのさ」

「……そうなんだ」

 

 あの日系の奥さんが言っていたとおりなんだな。有色人種と白人は一緒に泳げない。

 

「……なるほどね」

 

 少しだけがっかりしていると、トレーナーだけはプールサイドのアメリカ選手団をじっと見ていた。

 

「なんだい軍人さんよ、ヤンキーのカッパたちを見つめて」

「Japanese style crawlとか何とか……。あれは君らを見て研究しているんじゃないかね」

「研究? あのずっと見てくるヤンキーらがかい」

「ああ、だから君らと泳がずにずっと見ているのさ。日本選手団の動きを」

 

 確かに、プールサイドのアメリカ人たちはプールには入らないものの、日本人選手たちの動きを見て何やら真剣に話し合っているようだった。その瞳はばかにしていたりといった印象は微塵もなく、ひたすらに真剣だった。

 

「前に新聞で見たけど、君らは去年にアメリカ人チームと戦っているんだろう」

「ああ、よく知っているね。そうだよ。日米対抗水上競技会! あんときは水泳大国アメリカに大勝利だったねぇ!! 神宮プールのスタンドは満員御礼! 40対23の大差でうちらの勝利! 特にうちのかっちゃんが…… 」

「あ、ああ。そう、それだ。とにかく、アメリカの選手たちはよっぽどそれが悔しかったんだろうさ。人種がどうこうじゃなくて、一人一人が水泳選手としてね。ほら」

 

 見てみると、日本選手の分析が終わったのか、アメリカ選手団たちが次々と真剣なまなざしでプールに入っていった。そのまなざしに日本人選手たちは圧倒されつつも、負けないとばかりに更に速く泳ぎ始めた。

 

「彼らにとっては、人種がどうこうなんてどうでも良い。一人一人が選手として、負けられない戦いなんだろうね。だから……」

「そうかい、なんだいなんだい、それならそうとヤンキーらもそう言えば良いじゃんねえ! あ、ヘイ! アメリカンオリンピックチームキャプテン、キッパス君! キッパス君!」

 

 口が悪いなあ……。

 トレーナーの話も聞かずに、アメリカ選手団に駆けよっていく男。どうやら前の競技会で知り合ったらしく、男とアメリカの総監督は何やらにこやかに、けれど真剣に話し合い始めた。

 

「”話せばわかる”……か」

「え?」

「いいや、誰かさんが言っていたと思ってね」

「私が言ったんじゃなくて、イヌカイのお爺さんよ。この世の問題の大半は、話せばわかる。オリンピックは、そんな風に”語り合える”一番の大会だって」

 

 皆が輪になって、競い合う、平和の祭典。

  勝つほうも負けたほうも清々しい気分になれる。時には負けて悔しく心が曇ることもあるだろうけど、それでも最後には潔い。

 それがオリンピックなんだって。

 

「あー! そうだ、ウマの娘と軍人さんよ。言いたいことがある」

 

 アメリカの監督とは話が終わったのか、眼鏡の男が再びこちらに駆けてきた。

 

「勝てよ、絶対。金メダルだ」

「え?」

「出るからには金メダル! 我々日本は一種目も失ってはならん! 当然だよね」

 

 突然の応援? だ。もちろん金メダルは目指すつもりだけど……。

 

「君らウマ娘たちがどんな練習をしてきたか分らんけどね。ウマ娘競技というのはオリンピックの華なんだろう? それならもちろん勝ってもらわなきゃ困るじゃんねえ! まあ日本のバ術は世界相手には大したことないと聞いたけどもね」

「な、なんですって?」

「あー、気を悪くしないでほしい。でもこっちの水泳はもちろんアメリカに勝てる見込みがある。でも水泳だけ勝っただけだと日本の選手団として面目が立たないのだよ。な、だから、うん。取れっ、金メダル!」

 

 あー、これは応援ではない。催促だ。

 

「なああんた、私はとにかく、うちのウラヌスにあまりプレッシャーをかけないでくれよ」

 

 大会前のプレッシャーになるからと止めるトレーナー。

 

「私は大丈夫だけど、それでも何よ。メダルが全てではないでしょう? どうしてそこまでメダルに拘るの、メダルの亡者さん」

「はは、別にメダルの亡者になったつもりはないんだけどねえ。強いて言うならだけど、理由はあるよ」

「なによ、その理由って」

 

 オリンピックには順位があるし、メダルもある。だから皆が競い合う。

 でもただただメダルに拘るのは、それはイヌカイのお爺さんが言っていた平和の祭典とは少し離れてしまうのではないかと想い、むっとしてしまった。

 その理由は何なのだろう。それが気になった。

 

「ああ、勝ちとか負けとか、ただそれだけなら本当はどうでも良いんだよ。でも、今の時代、大事なことがあるそれは……」

 

 それは、意外な答え。

 

「世界中の、”日本”を明るくするためだよ」

 

 まるで、高尚な新聞記事の一面のような答えだった。

 

「世界中の、日本?」

「そう! 見てみなよ。このプールの周りは差別されて競技場にすら入れない日系人だらけ。オリンピック前の新聞は日本を叩く記事ばかり。この国、アメリカだけでも日本や日系人への差別、差別、差別、差別だらけ。でもそれは、ある意味では俺たち日本人がしけた面して暗い顔してばかりなせいもあるんだよ」

「……そうなのかな」

「そうに違いない! 満州やら上海やら暗殺やらで日本はもう滅茶苦茶だ。だけどね、今ここで俺たち日本人が沢山のメダルを取って、世界中の新聞で”日本勝利”、”金メダル大量”と書かれればさ、少しは証明できるじゃんね。俺たち日本人や日系人は武器を持って人を脅さなければいけないほど軟弱者じゃない。スポーツで正々堂々と戦える、立派な奴らの集まりなんだってね。それに日本でも盛り上がればさ、きっと戦だなんだなんて馬鹿らしくなるかもしれないじゃないか」

 

 私たち”日本”が勝つ。そうすれば、差別を受けた日系人にとっての光になる。それだけじゃない、きっと今戦争だと盛り上がっている日本人もきっと、平和の祭典に盛り上がり、戦争すらも馬鹿らしくなるかもしれない……か。

 

「何よあんた急に、そんな高尚なこと言って。新聞記者にでもなったつもりなの?」

「まあ、新聞記者だからね」

 

 あ、そうだったんだ。

 

「さすが、”オリンピック男”だな」

 

 そう言ってトレーナーは笑った。

 オリンピック男……あ、もしかして。

 

「もしかして、あんたが”タバタ”?」

「なんだい、知ってたのかい。ああ、”田畑正治”だよ」

 

 トレーナーやイヌカイのお爺さんが言っていた、騒がしい”オリンピック男”。

 なるほど、それが日本水泳選手団の総監督というのなら納得かもしれない。

 

「だから、そんな”オリンピック男”からの頼みだ。勝てよ、”ウラヌス”とやら」

 

 そう言って笑う”オリンピック男”、タバタ。

 その顔は、さっきまでの騒がしい男じゃない。オリンピックに本気で挑む、一人の男の顔に思えた。

 

「言われなくても、勝つわよ。絶対に」

「そうか、よく言った! 信頼しているよ、これで逝っちまった犬養の爺さんも報われるだろうからね」

 

 ……え?

 

「今、なんて?」

「日本にいたのに知らないのかい? バカみたいに新聞でやっていたのに」

「いえ、トレーニングばかりしていて、新聞とか見れていなかったから……」

 

 犬養って……あのイヌカイ?

 

「殺されて死んじまったよ、総理大臣の、犬養の爺さんはさ」

 

 

・・・・・・

 

 

 後日、ポログラウンド。

 最近の日課どおり、微動だにしなかった守衛さんに挨拶をして一番にトレーニングに入る。最近は守衛さんも少しだけ話しかけてくれるようになった。

 もちろん一番だからポログラウンドには誰もいない。本来なら清々しく練習できる最適な環境だ。

 けれど、相変わらず少しだけもやもやする。昨日のタバタから聞いた話。

 

「ねえ、何で教えてくれなかったのよ」

 

 そう、トレーナーは知っていたはずだ。

 私のトレーナーでいつもふらふらしているとはいえ軍人。イヌカイのお爺さん……一国の首相が暗殺された、軍人に。しかも私たちがいた習志野からそう遠くない東京の真ん中で。

 

「オリンピック前の大切な時期だ。ウラヌスのトレーニングに支障をきたしたらいけないと思った」

 

 ”だから私にも言わなかった?”と確認すると、トレーナーはまた”そうだ”と言った。

 

「あのねえ、私がちょっと落ち込んだのは、そうやって隠し事されたのもあるのよ? 何でも本音で話し合うって。誓いを立てたじゃない」

「別に隠し事ってほどでもないがな」

「分かっているけど……」

 

 それにしても、イヌカイのお爺さんが総理大臣で、死んだ?

 

 ”海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる。私はそれで良い。それが良いと思っているよ”

 

 そう言っていたお爺さんが、そんな”暗い世の中”に殺されてどうすんのよ。

 このロサンゼルスで、あのオリンピック男や私が金メダルを取って、世界中の選手と手を取り合って……そうすれば日本が少しでも平和になるかもしれない。そんな世界を見たいんじゃなかったの?

 

 悲しさよりも、悔しさが募る。

 

 なんでもイヌカイのお爺さんが死んだ事件について、日本では軍人の行動を称賛するような声も少なくないらしい。

 

 病んでいる。狂っている。

 

 お爺さんが殺した人間が叫ぶのは戦争まっしぐらの日本。戦争は勝つほうも負けるほうも苦しく、気持ちも晴れることは決してない。そんなのは、どう考えても認められていいはずがない。

 

 もし日本が、そんな争いばかりの国になったら?

 私たちは、オリンピックの選手たちは、私のようなウマ娘はどうなる?

 平和を望む沢山の日本の人々は、どうなる……?

 

「なあ、ウラヌス、大丈夫か?」

 

 そうだ。

 

「大丈夫。別に悲しんだり落ち込んだりしているわけじゃないから」

 

 勝つんだ。

 

 ”期待”のためじゃない。

 

 ”国”のためでも、

 

 ましてや”民族”のためでもない。

 

 死んだお爺さん。

 

 応援してくれた沢山の人。

 

 私を受け入れてくれた、日本の沢山の人たち。

 

 そしてトレーナー。

 

 そして、私。

 

 皆のために。

 

「ちょっとごめん、トレーナー」

「え、あ、ああ。どこに行くんだ?」

「あの子のところよ」

 

 私はポログラウンドの端っこで帰ろうとしている、あの日系のウマ娘を見つける。

 

「ねえ、あんた」

「……なに? しつこいんだな、お前も」

「それくらいじゃないと、オリンピックのウマ娘は務まらないの」

 

 前と同じで、また私のことを厳しい目つきで睨んでくるウマ娘。

 でも、前にあれだけ私たちが嫌だと言っているのにここに走りに来ているということは、きっと彼女も走るのが好きなんだろう。

 

 ……それなら、なぜ走って跳ぶことを辞めてしまう。

 

「また帰るの?」

「白人と日系人は一緒にターフも走れないんだよ。それに、お前がまた来たから」

 

 恨めしそうに私を見るウマ娘。何だかこっちが差別を受けている気分だ。

 

「喧嘩をするつもりはない。でも、一つだけ聞いてもいい」

「なんだ?」

「あんたは、私たち日本に金メダルを取って欲しいと思う?」

「金メダル? そんなの、無理っていうのじゃだめか?」

「当たり前でしょう」

 

 ”今から金メダルだなんて、なんて驕りだ。”とでも言いたげな顔だ。

 それは仕方がない。トレーナーも言っていたけど、日本のトレーナーやウマ娘はウマ娘の競技においても新参者で未熟者。このウマ娘じゃなくても、誰も勝てるなんて思っていない。

 

「なあウラヌス、この際だからはっきりと言う。あの軍人にも言っておけ」

「うん」

「金メダルなんか取るな。お前たちが調子に乗って勝ったら勝ったで、俺たち日系人が酷い目に会うに決まっている。それにどうせ勝てないんだ。だからそんなできないことを口にするな!」

 

 ああ、予想通りだ。

 彼女は私たちが勝つと思っていないどころか、私たちに”勝ってほしくない”とさえ思っていた。

 私たち日本人がオリンピックで勝てば、その腹いせに自分たちが攻撃されるかもしれない。だから勝たないでほしい。

 思えば、前に差別の話をしてくれた料理屋の奥さんもそうだった。私たちが勝てるようにとは言っていない。”勝てるといいねえ”と、曖昧な言葉。きっと、どこか思うところがあったのだろう。

 

「……ねえ、あんた、名前は?」

「あ? 何だよ、急に」

「いいから、大人しく答えなさいよ」

「……ぅ」

 

 少し強気にどっしり構えると、少しビビられる。

 私は身体が大きい上に軍服を着ているから怖いのだろう。思わず故郷でしばらく一緒だった寮の管理人を思い出した。

 

「……イノウエ」

「名前を聞いたのだけれど……まあ良いわ。イノウエ」

「な、何だよ」

「私もあんたに言いたいことがあるの」

 

 このイノウエは、もしかしたら他の日系の人も、私が勝てるはずがないと思っているんだろう。一部は勝ってほしくないとさえ思っているんだろう。

 でも、そんなことに私は……

 

「ふざけるな!」

「ひぃ……!」

 

 無性に腹が立っていた。

 

「なぜ勝てないと決めつける? まだ日本人になったばかりの、見習いの私でさえトレーナーとの、”日本人”としての勝ちを信じているのに、何で!?」

 

 そうだ。彼女らは何も悪くない。日本という国の一部の軍人がどんな暴挙を起こそうと、他の国と仲が悪かろうと、それで日系の人々が差別を受ける筋合いなどありはしない。

 

 そのはずなのに、何だこれは。

 

 日々の差別を恐れるのは分かる。それは仕方ない。でもあろうことか私たちに負けろとまで言い出す。ありもしない罪に身を縮めるばかりで、同胞に酷い言いがかりまでつける。

 

「あんたが何といおうが関係ない。勝つんだよ、私は! 私たちは! 私も、あんたも!!」

「……ぅ、でも、本当に勝てるのか? 日本のウマ娘が、アメリカの、ヨーロッパのウマ娘に……?」

 

 もはや私に押されて縮こまっているイノウエ。

 はあ、もはやさっきまでの威勢のよさはそこにはない。

 

「勝てる」

 

 そんな弱気のウマ娘の代わりに、私が言い切った。

 

「勝ってやる。日系人だとか白人だとか関係ない」

 

 私が必ず、それを証明してやる。

 

「だからあんたも見に来なさい。オリンピックの最終日、大賞典障害跳越(グランプリ・デ・ナシオン)。必ずそこで勝ってやるわ」

「で、でも、私たちは競技場には……」

「そんなのうちのトレーナーが開けてあげるだろうから、後は押し入るなりなんなりしなさい」

「そんな乱暴な……」

「とにかく、私が言えるのはただ一つ」

 

 そうだ、彼女も私も、同じウマ娘。ウマ娘なら、やることは一つ。そこには国も民族も人種も関係ない。

 

 

「勝つわよ、”私たち”は」

 

 

 正々と跳べ。

 

 

 走れ、大地を。

 



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#6 ソンネボーイ

 ついに迎えたロサンゼルスオリンピック最後の競技、大賞典飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)。そこに立ち向かおうとしていたのは、「ソンネボーイ」とそのトレーナー「今村安」。一生を賭けた一大勝負に息をのむソンネボーイ。その決意の裏には、かつてのイギリスで誓った想いがあった……。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


 ……”ボク”が。

 

 ”ソンネボーイ”が。

 

 ”走り始めた”のはいつからだっただろうか。

 

 イギリスの草原。

 

 どこまでも続く空。見える地平線ははるか向こう。

 

 ボク以外にあるのは、小さな家と、いつも優しいお父さんと、お母さん、あとはペットの可愛くて大きな犬。それだけ。

 ボクたちだけがいる、長閑で穏やかな世界。それ以外には何もいらない。子供の頃からボクはそんな世界で駆けていた。

 

 ユーカリの木々が時には花を咲かせる、まるで絵本の中のような場所。

 

 そんな世界でのお気に入りは、沢山の草や倒木を跳び越えながらするペットの犬との追いかけっこ。もちろん走ることが大好きなウマ娘のボク。いつも犬に追いついて、勝って、抱きかかえて笑う毎日だった。

 

 ボクと家族しかいない、いたとしても家の近くの道を通る人くらいの、地平線までがボクにとっての世界だったあの頃。

 

 ”あなたは世界は一番速くて、高く跳べる、強い子だよ”

 

 お父さんやお母さんもボクのことを”世界一”と言って可愛がってくれた。

 だから、ボクは世界で一番強い。世界で一番速い。世界で一番高く跳べる。そう思っていた。

 何の不安も心配もなかった。いつもの家のお手伝いの狩りのために走り回るのも毎日楽しかった。素敵な世界。ボクたちだけの世界。

 

 でも、”世界”はそうじゃない。ボクの家から見る地平線の向こう側にもあることをボクは知った。

 

 ある穏やかな晴れの日、やけに洒落た格好をしたイギリス陸軍の将校がボクの家にやってきた。普段は来客もほとんどない、何もない場所。そんな世界には似合わないくらいの貴族のようだった。

 

 ”ここに、良い走りをするウマ娘がいると聞いた”。彼はそう言った。

 

 その人はなんでも、王立砲兵連隊の若い将校で、他の国と戦えるような、”良い脚”を持ったウマ娘を探していたという。

 

 ”他の国と戦える”と言ったから、ボクのお母さんが泣いて止めていたのを覚えている。お母さんは第一次世界大戦で戦場に行ったウマ娘だった。詳しい話は本人もしたがらなかったから聞かなかったけど、学校で習ったから知っている。穴に篭り、自由に走ることができない、いつ撃たれるか分からない戦場。ボクがそんな地獄のような場所に連れていかれると思ったのだろう。

 

 でも、それは誤解だと将校の人は言った。

 

 ボクのその”脚”は、きっと障害跳越……ジャンピングで最高の走りを、跳躍を見せてくれる。だから自分が、彼女のトレーナーになって、”世界一”のウマ娘にする。

 

 その人は、真っすぐな目でそう言った。

 どうやら、家の近くの道を車で走っていた時に、遠くからボクの走りを見ていたようだった。

 

 それを聞くと、お母さんもお父さんも、手を挙げて喜んだ。ボクが”世界一”のウマ娘候補に選ばれたと喜んでいた。

 

 この時、イギリスのウマ娘の多くの憧れはレース場で走って、一着を取ること。でもボクはそこまで足も速くなくて、軽快に走るレースウマ娘向きの体型じゃなかった。

 だからボクはウマ娘の夢、レース場のターフ(芝)を走るという夢は諦めて、考えないようにしていた。ボクはきっと世界で戦えない。そんな”世界”は、きっとボクには存在しないようなものなんだ。家から見える地平線まで、近くの動物が沢山いる森の外側までがボクの世界。

 そんな考えに、ボクのお母さんもお父さんも気づいていたんだろうけど、それについて咎めたりすることはなかった。それでころか、ボクのことをいつも”世界一”だと支えてくれた。

 ボクはそんな優しいお母さんとお父さんに甘えていた。”世界”の外側を見ないようにしながら。

 

 だからそんな時に声を駆けてくれた将校さんの誘いは、ボクにとって”世界”が開けた瞬間だった。

 

 ボクは最初戸惑っていた。この家の近くまでが、ボクの全てと思い込んでいた。いや、思い込むようにしていたから。少し怖かった。それでもお母さんとお父さんの喜んだ顔が見たくて、きっと嬉しくて泣いてしまうほどの姿を見せたくて。

 

 だからボクは、イギリス軍の競技ウマ娘になり、”走り始めた”。

 

 メインの種目は、もちろん障害跳越。誰よりも美しく、誰よりも高く跳ぶ。足が速ければ良いわけじゃない。ただただ障害を跳べばいいだけじゃない。

 そんな競技の”世界一”になるための、”トレーナー”との日々が始まった。

 

 環境は思ったより悪くなかった。軍隊というからには厳しくて嫌になるほどに辛い場所かと覚悟はしていたけど、優しいトレーナーの気遣いもあってか、銃を持ってひたすらランニングしたりとかそういうのはなく、のびのびとトレーニングをすることができた。

 

 沢山並ぶ高くて厚い競技用の障害も最初は怖かったけれど、毎日一つずつトレーナーと一緒に跳び越えていった。一つの障害を跳び越えるたび、ボクにとっての”世界”が広がっていくようで、楽しかった。

 

 周りには、トレーナーがボク以外に見ていたライバルたちも沢山いたけど、そんなライバルともトレーニングを終えれば、分かり合える大切な友達になった。皆もボクと同じで小さな世界から飛び出してきたウマ娘たちだった。

 ボクと同じでレース場を走るのには向いていない。だけどレース場を走るウマ娘にはできない、バ術、”障害跳越競技”だからこそ戦える、ボクと同じようなウマ娘たちが沢山いた。

 

 快適なトレーニング環境、優しいトレーナー、分かり合える大切な仲間たち。

 

 これ以上に幸せはない。きっとこれからも幸せが続いて、お母さんとお父さんにも喜んでもらえるような、”世界一”のウマ娘にだってなれる。

 

 ……そう、思っていた。

 

 

・・・・・・

 

 

 1932年8月14日、午後2時。

 

『これより、馬術大賞典障害跳越競技(グランプリ・デ・ナシオン)を開催いたします!』

 

 ロサンゼルスオリンピック最終日。

 オリンピックの注目だった陸上競技は、多くのメダルをアメリカが獲得する結果に終わった。日本でもニシダという選手が棒高跳びで銀メダルを取っていたけれど、それ以外に日本の姿を見ることはなかった。スポーツ列強である欧米の力強さを見せつけられた。

 

 会場のロサンゼルス・メモリアル・スタジアムを埋め尽くす、陸上競技の熱狂が未だ冷めない人々。

 

 大賞典跳越競技、グランプリ・デ・ナシオン。

 

 ”オリンピックの華”の競技は、そんな大きな期待と興奮の渦の中で始まった。

 

 ボクはトレーナーのイマムラと並んで、スタジアムの待機場所からそんな渦を眺めていた。

 

「凄い、人の数ですね」

「本当に、思ったよりも凄いものだね。10万人の観衆というのは」

「イタリアの競技会よりもずっと、ずっと多いです」

「ああ。大丈夫か、ソンネ」

「当然ですよ、トレーナー。大丈夫、大丈夫です」

 

 ボクとトレーナーはロサンゼルスに来てからここまで、休まずにトレーニングに励んできた。

 

 それはもちろん、”世界一”になるため。シンプルだ。

 

 同じ日本の障害跳越チームには当然ニシとウラヌスもいて、一緒に海を渡ってロサンゼルスに来たけれど、ボクはこの二人と行動を共にすることはしなかった。

 オリンピック馬術には団体戦と個人戦がある。

 団体戦の場合、自分の国の選手が獲得したメダルの数で金銀銅が決まる。個人戦はもちろん金メダルを取った人が金メダル、簡単な話だ。

 しかし団体戦でメダルを獲得できる条件は、最低3人のウマ娘が無事にゴールできること。ボクたち日本に至っては、そもそもボクとウラヌスしか出ていないから団体戦の対象外。ボクとウラヌスは協力する理由もない、ライバル同士。

 練習用のポログラウンドでも、いつも一人か、トレーナーとのトレーニングだった。

 

 改めてスタジアムを見渡す。

 溢れんばかりの歓声。

 この歓声の多くは、期待は、きっと自分に向けられたものではないものだろうことは分っている。バ術後進国・日本。しかも会場はアウェー。そんなウマ娘であるボクの勝利を予想する人なんて、ほとんどいないだろう。

 

 それでも、いやだからこそ、ボクはここで負けられない。負けてはいけないんだ。

 

 ロサンゼルス・メモリアル・スタジアム。

 スタジアムの縦横いっぱいに使われた全長1m、高さ1.6mのものや水濠などの障害が19個。

 イタリアの国際大会の比ではない、長いコースに大きな障害が立ちはだかる。しかもその障害は今まで見てきたどんな障害よりも分厚く、跳躍のタイミングが難しい位置に置かれている。あの障害を跳ぶのは難しく、しかももし躓けばただでは済まないだろう。

 

 ボクはそんな障害に向かおうとするライバルたちを睨んだ。

 

 この競技に参加する選手は僅か11組、4カ国。

 アメリカ3、メキシコ3、スウェーデン3、そしてボクら日本が2。

 

 その中でもひと際目立つのが……

 

「……チェンバレンとショーガール」

 

 アメリカ代表の”ショーガール”と、そのトレーナーの”ハリー・チェンバレン”。

 そして。

 

「ローゼンとエンパイア……か」

 

 スウェーデン代表の”エンパイア”と、そのトレーナー、”クラレンス・フォン・ローゼン・ジュニア”。

 どちらもトレーナーは叩き上げの軍人。しかもショーガールとチェンバレンは前のオリンピックでも結果を出している障害バ術の達人。ローゼンは父親がIOC委員会メンバーのオリンピック家系で、この競技への想いも強い。きっとエンパイアもそんなトレーナーの期待に答えようとするだろう。

 それでもボクだってイタリアの国際大会で優勝したソンネボーイ。相手にとって不足はないはずだ。

 

 必ず勝つ。必ずだ。

 

 アメリカにも、スウェーデンにも、メキシコにも絶対に負けない。もっと言えば、ウラヌスとニシにもだ。そのために死に物狂いでこのロサンゼルスで練習してきた。

 

 ……必ず。

 

「なあ、ソンネ」

「? なんですか、トレーナー」

「そんなに立って競技場ばかり睨んでないでこっちに来て少し休まないか。一杯やりながらでもさ。そんなずっとそっちを見ていても疲れるだろう」

「……何でこんな時にまで飲もうとしているんですか。何ですか、そのスキットルは」

「アメリカは禁酒法とかいうよくわからん法が敷かれているらしくてな、こうしてわざわざ欧州のウィスキーを仕入れて入れているんだよ。西の奴もやっていたぞ?」

「いや、そうではなく。もう競技も始まるんですよ? ボクらは3組目ですぐなんですから、少しでも相手を見て観察を……」

「まあまあ、そんな相手ばかり睨んでもしょうがないじゃないか。べつに一緒に走って競うわけではないのだから。一寸こっちへ来て座ると良い」

「……もういいですよ。ボクはここで見ていますから」

 

 はあ。なんでこんなトレーナーと一緒になってしまったんだろうと思うことがたまにある。それでも、トレーナーは競技中に的確な指示をくれて上手くいくから不思議なものだ。日本のトレーナーというのは、皆こんなものなのだろうか。

 

「一応聞きますけど、トレーナーはこの競技を勝つつもりはちゃんとあるんですか?」

「ああ、もちろんだ。ソンネは?」

「ボクも、当然ですよ」

 

 背中越しに話すトレーナーの声を聞きながら、競技場を見る。

 既に一番目に走るメキシコ代表ウマ娘の”エルアス”とトレーナーの”ボカネグラ”が位置についている。

 勝負の一番目。ボクらも彼女らも、ここで失敗すればこのオリンピックは終わり。大人しく国に帰るしかなくなる。

 彼女らもどうだろう。メキシコに帰って、彼女らはどうする?

 ボクはオリンピックで負けたとしたら、どうしたらいい? イギリスから遥々日本へ来て、このオリンピックのために走ってきた。そのオリンピックで負けたら、ボクに居場所はある?

 

 この競技に勝つつもりはある? 勝てる自信はある?

 いや、違う。

 勝たなければいけない。勝たなければ、ボクの明日はないかもしれない。

 絶対に勝つんだ。

 

 たとえ、この競技を最期に、走れなくなるとしても。

 

 たとえ、死んでしまうとしても……。

 

 

・・・・・・

 

 

 イギリス陸軍のウマ娘としてトレーニングを始めてから、ボクの世界は”始まった”。

 

 イギリスで行われる地方の障害跳越競技に参加したのを今でも覚えている。若い将校ながら的確な指示を出してくれたトレーナー。小さな大会だったけど、それでも競技ウマ娘としての初めての勝利。しかも減点も少ない圧勝だった。

 優しいトレーナーは沢山褒めてくれた。寮にいた友達やライバルたちも自分のことのように喜んでくれて、イギリス陸軍内でも評判のウマ娘になった。

 そしてトレーナーは言ってくれた。

 

 ”今回の走りで確信した。必ず君は、世界一のウマ娘になれる!”

 

 だから、一緒に世界を目指そうと。他の皆もそれを応援してくれた。

 優しくて強いトレーナー。最高の仲間たち。これ以上ないほどの幸せ。ボクは世界へ出る。そうすれば、きっともっと強く、幸せな日々になるに違いない。あの時はそう思っていつもわくわくしていた。

 

 

 ……けれど、そんな幸せな日常は一瞬にして全て崩れ去った。

 

 

 1929年、世界恐慌。

 

 

 ブラックマンデー。暗黒の木曜日。呼び名は何でもいい。

 遠いアメリカで起きた株価の大暴落。それでイギリスは、いや世界中が滅茶苦茶になった。

 

 ”ごめんね、私、もうここにはいられなくなっちゃった”

 

 陸軍寮で同室だった、一緒に競っていたライバルが1929年の終わりにそう言った。悔しさに拳を握りしめ、涙を流しながら。

 不況の影響で実家が倒産し、競技ウマ娘として活躍することが難しくなったという。それは彼女のトレーナーも同じだった。

 

 イギリス陸軍も軍縮の中でも政局の不安から植民地の治安維持などに部隊を割く方針に転換し、”余分な部隊”を維持する余裕がなくなったらしい。陸軍は競技ウマ娘の削減に動き出し、大会などで目立った活躍がないトレーナーは原隊に返され、そのウマ娘も当然退役になった。

 

 ボクと同室だった彼女は、たしかに大会で目立った成績はなかった。

 それでも彼女は、ボクに負けないくらいに頑張り屋で、入着まであと一歩という隠れた実力を持っていたはずだった。あと一年走れば、それこそ彼女もオリンピックに出ることができるくらいの力を秘めていた。そしてそれが彼女の夢でもあった。

 それなのに……。

 

 それからボクの周りのウマ娘とそのトレーナーたちの多くが姿を消し始めた。

 ウマ娘の行き場はなくなり、トレーナーはアイルランドやインド、アフリカなどに送られるか、除隊になっていった。

 

 今まで沢山のライバルと仲間たちに囲まれていた陸軍の練習場も、随分と寂しくなってしまったのを覚えている。

 

 でも、それだけでは終わらなかった。

 

 ある日、ボクを担当していた優しいトレーナーがいつもの練習場に来なくなってしまった。

 

 ”ボクのトレーナーを知りませんか?”

 

 いつも練習場にいた砲兵隊の将校にトレーナーの居場所を聞いた。

 

 “いや、知らないな。彼の家はそこまで遠くないから、迎えに行ってあげたらどうだ?”

 

 恐慌が起きてから仲間も皆どこかへ行ってしまい、良いこともあまりなく、トレーナーも何だか元気がなかった。折角だからこの将校が言うようにトレーナーの家に行って驚かせてあげようと思い立った。

 

 その日は練習を休み、外出届を出して言われたトレーナーの家に向かった。繁華街の隅にあるアパートの一室がトレーナーの家だった。

 

 インターホンを何度か鳴らしても出なかった。きっと寝過ごしてしまっているんだろうと思った。

 だからボクは、トレーナーの名前を呼びながら扉を開けた。

 けれどそこには、机だけのあまりにも綺麗すぎる部屋があるだけだった。部屋の机の上には、紙がただ一枚置かれているだけだった。

 

 ”私は家族の後を追う”

 ”ごめんな”

 

 綺麗すぎる部屋、別れの手紙。その二つでボクは嫌でも察した。

 アパートの前で呆然と立ち尽くしていると、砲兵隊の将校が急いでやってきたことで、ボクの察したことは現実であることを知らされた。

 

 ボクのトレーナーは、死んだ。

 いや違う。恐慌に殺された。

 

 トレーナーは、家族が失業と不況による不安から自殺したのを見て、それを追って自ら命を絶ったのだという。

 

 あんまり。

 あんまりだ。

 もう声を上げて泣くのもバカバカしくなるほどに、あんまりなことだった。

 

 夢を持った沢山のライバルのウマ娘やトレーナーたち。

 バ術に関わっていたあらゆる陸軍の人たち。

 そしてボクの優しいトレーナー。

 

 皆いなくなった。仲間も、トレーナーさえも。

 残ったのは、行き場を失ったボク一人。

 

 ボクが。仲間が。トレーナーが。

 一体誰か、何か悪いことをしただろうか。

 こんな仕打ちを受けなければいけないほどのことを、ボクらの誰かがしただろうか。

 こんなのバカげている。

 幸せだったボクらの”世界”は、”夢”は、一瞬にして崩れ去った。

 

 何かを考えるのも嫌になり街から離れてとぼとぼと歩いていると、ふと見た先にウマ娘のトレーニング施設を見つけた。グランドナショナルがどうと言って笑いあっているから、どうやらレース場で走る民間のウマ娘たちのようだった。

 

 ああ、きらきらしているなあ。

 

 貧しい中から夢を掴もうとする選び抜かれた沢山のウマ娘たち。どん底に落ちて一人だけになったボク。全くの逆だ。

 

 そうか。

 きっとバチが当たったんだ。

 きっと元々いたボクの家。”小さな自分の世界”から出ようとしたから。神様から大きな大きな天罰が下ったんだ。

 

 でも。

 それならなぜ?

 なぜバ術で夢を掴もうとしていたボクら陸軍のウマ娘には天罰が下って。

 今ボクが見つめている、レースで同じく夢を掴もうとしているウマ娘たちはあんなにも笑顔で走ることができている?

 

 確かにボクらは軍人。彼女らのようなスターとは違う存在。スタート地点も、走る競技も違う。それでも、皆が夢を追いかけていたのは同じじゃないか。皆が一生懸命に頑張っていたのも、皆が笑いあっていたかったのも……。

 

 そう考えていると、その日が終わるころには、悔しさを超えた、憎しみのような感情を覚えていた。

 

 それはレースに出場するウマ娘にではない。ましてやライバルのウマ娘たちを追放した陸軍や、トレーナーの家族にでもない。

 

 それはボクの運命。

 この世界。

 この不条理な歴史に。

 

 そのために、ボクは……。

 

 

・・・・・・

 

 

 

 

 もう二度と、”負けない”と決めたんだ。

 

 

 

『3番、ソンネボーイ、ヤスシ・イマムラ!!』

 

 

 10万人以上の人々が見守る、歓声で満ちたコロシアムの真ん中に立つ。

 

 1番、メキシコのエルアスとボカネグラ大尉は2つの障害を落下させて、第8障害で3度障害を前に反転……つまり拒止してしまい失格。

 2番、アメリカのベイブウォーサムとウォフォード中尉も4つの障害を落下させ、第10障害で3度拒止、更には転倒してしまい失格。

 障害跳越競技では3度の拒止はもちろん、一度でも地面に膝をついたら失格となる。

 ここまでメキシコとアメリカの代表選手が一度もゴールにたどり着くこともできない。困難なコースであることを思い知らされ、会場は緊張の空気に包まれていた。

 

 今回のコースに置かれた障害は、通常の大会では考えられないような、跳ぶタイミングが難しいように置かれていて、しかもその障害はどれも幅が広い巨大なものばかり。

 もしかしたらこのまま誰もゴールにたどり着くことさえないままこの競技は終わってしまうのではないか。そんなことさえ思えてくる。

 

「なあソンネ、行けるか? 昨日までトレーニングづくめだっただろう」

「行くしかないですよ、トレーナー。それにさっきも言ったように、大丈夫です」

「相変わらずちょっと冷たいな、ソンネは」

「トレーナーはもっと緊張感を持っても良いと思います」

「ソンネが大丈夫だというなら私も大丈夫。私は君を信じるだけだよ」

「……そうですか」

 

 それに、イギリス陸軍時代のトレーナーとは大違いとはいえ、これはこれでも色々と考えてくれている愉快なトレーナーとの”約束”もある。

 

 

「……さあ、行こう!」

 

「はいっ」

 

 

 ボクは走り出した。

 

 障害跳越のはじめはまず駈足(かけあし)。

 軽く走りながら競技場を一周する。一周を終えると審査員がタイムスタートの合図の旗をさっと下ろす。それが競技開始の合図だ。

 

 競技場を走りながら、コースの障害を眺める。

 

 信じてるとは言いつつも、ボクを心配そうに見つめるトレーナーの目線を受けながら。

 

 このグランプリ・デ・ナシオンは、4カ国のみの参加。バ術強豪国であるイタリアやイギリス、フランスやドイツすら参加していない。それはヨーロッパから遠く、食事や健康バランスの維持が難しい競技ウマ娘のコンディションを維持しづらいのもある。

 しかし何よりも、競技に用いられる障害が巨大で太いためにウマ娘の脚がひっかかって転倒したら無事では済まないことから、欧州のトレーナーたちが出場を辞退したから。

 

 

 つまりこれは、それだけに、文字通り”命を賭けた”競技なんだ。

 

 

 一周を終える。

 

 走る。

 

 まずは第1障害を跳んでいく。

 

 高いポールの障害。これなら跳び越えられる。イタリアでも似たような高い障害を越えた。

 

 ああ、その先にも多彩な障害がずらりと並んでいる。まるで今までの障害跳越人生を辿っているかのようだ。

 

 コースの事前下見をして、跳ぶタイミングも必死に研究して、それこそ前日の夜まで頭に叩き込んだ。

 

 第2障害。

 

 これは命を賭けた戦い。絶対に止まってはいけない。絶対に障害を前に震えても、地面に膝をついてもいけない。

 

 第3障害。水溜まりを超える水濠障害。

 

 汗が噴き出す。なんだか視界がふらふらとしてきた。それでも止まってはいけない。絶対に。こんなところに落ちてびしょ濡れになって失格なんて格好もつかない終わりは絶対に嫌だ。

 

 第4障害。

 

 くそ。

 跳ぶ高さが足りなかったせいか、ポールに少し脚をひっかけて落としてしまった。

 ああ、くそ。本当に視界がくらむ。一体何なんだ。

 

 ……まあ、そんなのは分かり切ったことか。

 障害を跳び越えながら走り続けるというのは、見た目以上に大きな負担がかかること。一つの高い障害を跳び越える旅に全身から汗が吹き出て身体が異常に熱くなるのを感じる。レースでも障害はあるが、ボクらはバ術という競技の性質上姿勢を崩さないで綺麗に跳ばなければいけないし、跳ぶ障害も大きい。

 

 本当に、全てを諦めて何も考えずに寝転がってしまいたいほどに辛い競技だ。

 

 

 第5障害。

 障害に少しひっかかり、また落とす。

 ああ、くそ。何でだ。何で視界がかすむ。何でもっと高く跳べない。

 

 ここで負けたらボクはどうなる? ボクはもう他に行くところはないのに。

 

 

 第6障害。水濠。

 落ち着け。

 このコースを完走できたウマ娘は一人もいない。

 ここまでこのペースで来れば、あとはゴールだけでもすれば勝ったも同然だ。

 

 

 第7障害。

 障害を落とす。

 もういい。止まるな。止まらなければ勝ちだ。

 

 ボクは誓ったはずだろう。世界一のウマ娘になると。

 家族と。ライバルと。イギリスのトレーナーと。そしてイマムラ……このトレーナーと!

 

 そうだよ。

 イギリスに、世界に見捨てられ、ボクはトレーナーに、日本に拾ってもらった。ここで負けたら……世界一になれないウマ娘になってしまったら、ボクはいよいよ終わり。死んだも同然に違いない。

 

 そんなことになるのならボクはもういっそのこと、この綺麗な競技場で死ぬまで走り切ってやろうか。

 

 

 第8障害。

 バンケット。長い高台になっていて、跳んで高台に跳び乗り、ある程度のところで跳び降りなければならない。地味に苦しい障害だ。

 

 辛い。苦しい。

 でも走らなきゃ。

 

 

「…………!!」

 

 

 何か聞こえる。

 

 ……トレーナーの声か。

 

 でもごめん。何だか意識が朦朧としてきて、何を言っているのかよく分からない。

 

 バ術は人バ一体。ウマ娘7:トレーナー3の力で勝敗が決まると言う。ただ立ってボクらウマ娘に指示を出しているだけに見えるトレーナーも、必死になってコースを読み、ウマ娘の状態に合わせた指示を出さなければいけない大切な役割がある。だから本当はボクも、トレーナーの声に耳を傾けなければいけない。

 

 でもごめん、トレーナー。

 

 もうよく分からなくなってきたよ。トレーナーと競技前までどうやって打ち合わせをして、どうやって勝とうと話していたかさえ。

 

 

 第9障害。

 また障害を落とす。もういい。

 走れ。走れ。

 

「…………れ!!」

 

 トレーナーの声がぼんやりと聞こえる。

 ごめんトレーナー、聞こえないよ。走って、跳ぶのに精一杯だ。

 心の中で、バ術ウマ娘失格だと笑う。

 

 でも絶対に約束は果たすよ。世界一のウマ娘になるって約束は、きっと。

 

 でも。なんだろう。

 

 あれ、おかしいな。

 

 ボクは何で、世界一のウマ娘になると言ってここまで来たんだっけ。

 家族のため。イギリスの皆の期待のため。それもあった。でも、そんな皆と離ればなれになってしまってもここまで走ってこれたのはなぜだったっけ。

 

 拾ってくれた日本の期待のため?

 

 いや違う。確かボクには、もっと大切な……。

 

 

 

 第10障害。

 

 沢山の枝が大量に積み重ねられた上に、更に巨大な横木が置かれている異様な障害。

 アメリカのベイブウォーサムがついに跳ぶことができなかったのはこれだ。

 

 

 ……あの華は……?

 

 

 異様な障害を前に視界の動きがスローモーションのようにゆっくりになる。

 横木の隙間から小さな華が咲いていた。赤くて綺麗な、小さな華。

 

 ……ユーカリ?

 

 

「危ないっ! 止まれ、ソンネ!!!」

 

 

「……っ!」

 

 

 朦朧とした意識が少しだけ戻り、トレーナーの声が聞こえた。

 

 ボクはすぐに反転する。拒止1だ。あと2で失格。

 

 

 ……でもなんだろう。ふと思い出して、ぼんやりとした頭の中に一つだけ浮かんできた。

 

 

 そう、トレーナーとの出会い。約束を……。

 

 

・・・・・・

 

 

 走る。

 

 跳ぶ。

 

 走る。

 

 跳ぶ。

 

 1929年冬、誰もいないイギリス陸軍の練習場。10個くらいのポールと柵の障害が置かれた広い草原。少しだけ雪が積もり始めている。足場が悪い。それでもひたすらにダッシュとジャンプを繰り返す。

 

 ああ、ばっちり。こんな雪の中でもばっちりの飛越だ。

 

 トレーナーとフォームを研究して、ライバルの皆と沢山のコースを跳んできた。その経験もあって、今ならどんな障害飛越コースでも走り切ることができる。そう思えた。

 

 ただ、ここにはもう信頼できるトレーナーも、大切なライバルたちもいない。

 

 残されたのは、ほぼお情けで選ばれて一人ぼっちになったボクだけ。

 

 ライバルたちがいなくなったイギリス陸軍のバ術チーム。

 

 ”今回の走りで確信した。必ず君は、世界一のウマ娘になれる!”

 

 そう言っていた、トレーナーすらも……。

 

 ああ、ボクは一体何のために走っていたのか。何のために跳んでいたのか。

 

 どれだけコース読みや飛越が上手くなっても、ただただ空しいだけだった。

 

 トレーナーがいなくなっても、新しいトレーナーを探す気にもならなかった。陸軍の競技ウマ娘人口が減った今でも、もちろんボク以外にも競技を続けている将校やウマ娘はいる。探せば見つかるだろう。

 

 それでも、あれだけにボクに真摯に向かい合ってくれて、一緒に高め合える仲間を見つけることができるなんて、到底思えなかった。

 

 はあ、もういい。疲れた。

 

 今日このコースを跳んだら、実家に帰ってまたあの”小さな世界”に戻ろうか。そうではなくても街をふらふらしようか。それともいっそのことトレーナーの後を追ってやろうか。

 

 そう思い、一通りコースを周り終えた後、連隊の司令部に向かうことにした。

 

 連隊長に辞表を出せばきっと認められるだろう。その後はどこにでも行ってやる。そう決めていた。

 

「……ユーカリの木」

 

 隊舎の窓から見える、練習場の草原を囲んでいたユーカリの木。皆と笑いあっていた頃には、綺麗な花を咲かせていた。色んなユーカリが植えられているのか、季節になると多彩な色を見せていたユーカリの花。それを見ると、皆との日々を思い出して悲しくなる。でももう皆のことを思い出して泣く気力さえもない。

 

 トレーナーが死んだときも、ライバルの皆がいなくなったときも、一人でコースを周っているときも涙は出なかった。

 

 すべてが理不尽な話。バカバカしい話。涙なんて出るはずもなかった。

 

「失礼します」

 

 ……だから。

 

 これで終わりにしよう。そう決めた。

 

 姿勢を正し、連隊長室に入る。

 

 もう誰もいなくなり、走る意味も、跳ぶ意味も分からなくなったボクだ。

 

 でもこれから帰るにしろ生きるにしろ死ぬにしろ、せめてお世話になった陸軍には迷惑はかからぬよう、けじめをつけてからにしようと決めた。

 

 決めたのだけれど……。

 

「おお、よく来たな」

 

「…………誰?」

 

 

 この男に、ボクは出会ってしまった。

 

 

「単刀直入に言おう。私と、世界を目指さないか?」



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#7 ユーカリ林の少女

 突如世界を襲った恐慌によって多くのものを失ったとあるウマ娘。そこに現われたのは、日本陸軍のバ術トレーナー・今村安。それから彼に連れられ欧州へと渡り、世界を驚かせたのが"ソンネボーイ"だった。そしてソンネボーイは夢の舞台であるロサンゼルスオリンピック・大賞典飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)で立ち止まる。彼女はトレーナーと共に、何を思うのか。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


「単刀直入に言おう。私と、世界を目指さないか?」

 

 もう全てが嫌になって陸軍の競技ウマ娘を辞めようと思った1929年の終わりの隊舎。

 連隊長室に辞表を出しに行ったら、知らない謎の中年男性が一人。

 

「……ふ」

「ふ?」

「不審者だああぁ!!」

 

 知っている部屋に見知らぬ男。まごうことなき不審者だった。

 

「いや待て、誰が不審者だ! どう見ても素敵な好青年じゃあないか」

「どこがですかっ! それに青年というほどの歳でもないでしょう!」

「……ぐ。痛いところを突きおって」

 

 改めて見ると軍服らしきものを着ているけど、見たこともない服装。しかも明らかにヨーロッパの人間ではない、恐らくアジア人だ。ボクよりも少しだけ背が高い。

 

「あなた、まさか異国のスパイか何かですか」

「こんな堂々としたスパイがいたらとしたら、そいつは転職をしたほうがいいかもしれんな」

「異国の服を着ていますし、この国の人ではないみたいです」

「……まあそうだな。スパイというのは半分あっているかもしれんな。だが、ウマ娘競技の、だがね」

「やはり……。やはり本部に通報しなければ……!」

「おいおい、まあ待て! 冗談も通じないのか君は」

 

 だっていかにも怪しいから。

 

「ここに入るには君の上司の許可は得ているどころか歓迎されていたんだぞ。目的は……君だ」

「え? ボク、ですか」

「うむ。言うなれば、君の実力を見させてもらいに来たんだ。そのためにここへ」

「それだけのために?」

「ああ、それだけのために」

 

 そう言って口上の整った髭を触って笑う男。よく手入れされた髭。貴族か何かなのだろうか。

 

「さっき、”世界を”と言いましたけど、どういうことですか?」

「ああ、それじゃあ言おうか」

「は、はい」

「私と、オリンピックに出てほしい」

「……オリンピック?」

 

 予想外の単語が出てきて拍子抜けしてしまう。

 なんかもっとこう、切羽詰まったようなこととか、とんでもないことを言われるのだろうと思っていたから。

 ……いやあまあ、オリンピックはとんでもないことか。

 

「その、よく分からないのですが。オリンピック? ぼ、ボクが?」

「ああ、君だ。君が良いと思った。あ、まさかオリンピックを知らないか?」

「失礼な、それくらい知っていますよ」

 

 確かにボクは、イギリスの小さな大会で優勝した経験はある。

 けれどもオリンピックといえば世界中の猛者が集うスポーツの祭典。そこで戦い、勝つというのは並大抵のことではない。そんな大会に出るのは、本当に昔からバ術を嗜む家系で幼いころからバ術のトレーニングを積んでいるウマ娘が出るべき場所。

 たまたまスカウトされたようなボクが行くべき場所では……。

 

「なぜ自分が、と思っているだろう」

「……え?」

「見れば分かるさ」

 

 そんなに分かりやすいだろうか。

 ボクは自分でもあまり自分の表情が分からない。だからいつも固いと仲間たちにも言われていたくらいだった。

 

「確かに、君は昔からバ術をやっているような血筋でもないようだね」

「……はい。実家で狩りの手伝いを」

「なるほど。君の健脚はそこからきているわけだ」

 

 ボクの周りのライバルたちもそうだったが、レース然りバ術然り、あらゆる勝負に挑むウマ娘はその家系や血の繋がりが重視される傾向にある。バ術競技を嗜んでいたウマ娘の子はまたバ術を目指すのが定番。だからそういったウマ娘たちは貴族であることも多く、バ術がしばしば”貴族のスポーツ”と言われる所以でもある。

 そんな中でボクのような庶民の生まれは異端とも言える。しかし障害飛越の動きの源流は、かつて狩りをしていた頃のウマ娘の跳び方や走り方。ボクのように地を駆けまわっていたウマ娘にも大きなチャンスがある競技だった。

 ……そして結局、ボクだけが残ったわけだ。

 

「君の飛越するときの安定した姿勢、けれど前へ前へと走るその美しさ。他では見ることができなかったものだ。聞くとイギリス陸軍内での評判も良かったそうじゃないか」

「……それでも庶民出のボクにはバ術の血は巡っていない。ついこの前まで、もっと競技会で成果を出していたウマ娘はここに沢山いました。きっと探せばまだ見つかるでしょう。なのになぜ?」

「真のトレーナーは血で相手を選ばない」

「……え?」

「例えどんなウマ娘だろうと、共に上を目指す。それが真のトレーナーというものだ。そう、君の前のトレーナーと同じように」

 

 ”必ず君は、世界一のウマ娘になれる!”

 

 かつての自分のトレーナーを思い出す。

 あの人はいつもボクと真っすぐ、優しく向き合ってくれていたけど、きっと色んな苦労があったに違いない。

 貴族ではないウマ娘であるボクの、優しいトレーナー。陸軍内でも浮いていたに違いない。それでもボクをいつも気にかけてくれて、ボクも陸軍内で浮かずに沢山の仲間に恵まれることができた。きっとボクが高く跳べることができたのは、トレーナーのお陰だったんだ。

 ……でも、それなら尚更。

 

「残念ですが、お断りします。ボクはもう跳ばないと決めたんです」

 

 トレーナーがいないこんなボクは、もう跳べなくなったということじゃないか。

 

「その手に持った紙は?」

「除隊申請書です。ボクはもう、陸軍を辞めるつもりで来ました。なぜあなたがボクを選んだのかは知りませんが、他を当たってください」

「ここを辞めてどうするつもりだ? 最近は不景気だ。行く当てなんてあるのか」

「実家にでも帰りますよ。やっぱり、ボクがここにいるのは間違いだったんですよ」

「ふむ、言っても無駄か?」

「ええ、決めたことですから」

 

 どうせこの男の言う通りに着いていったとして、こんな一人ぼっちのボクが走ったところで期待に答えられるはずがない。

 除隊申請書を机に置いて、連隊長室から出ようとしたところだった。

 

「……そうか、分かった。それなら乗っていくと良い。実家まで送ろう」

 

 男は窓の外にある車を指して言った。

 

「…………」

「そんな不審な目をするな。別にどこかに連れ去ろうと言っているわけじゃあない。ここで会った縁というものだ。それにここの連隊長とは気が合ったからね、除隊に関しても私が説明しておいてやるから」

 

 そう言って半ば強引に外に出て車に乗せられた。

 普通ならこんな見ず知らずの男についていくことはないけど、どうせ実家以外に行く当てもない身だ。除隊もしっかり連隊長と話をしてけじめをつけようと思ったけど、この男が除隊の世話をしてくれるとか何とか言っていて、なんだかどうでも良くなった。

 

 ボクは荷物をまとめてオースティンの古い車に乗った。

 持っていく荷物は整理すると、背負い鞄一つに収まった。何もない実家から着の身着のままトレーナーに誘われて来たことを、昨日のように思い出せた。

 

 もう全て忘れよう。トレーナーやライバルたちのことも、自分がバ術ウマ娘だったということも。

 母さんや父さんはどう思うだろう。そんなことを考えると少しだけ後ろめたくも思うけど、それでもこれもけじめだ。

 ひとまず実家に行くべく、この男の車に乗る。

 

「思えば、何であなたがボクの実家の場所を知っているのですか」

「いや、知らない。だから君が教えてくれ」

 

 この男は……。

 そう思いながらも助手席で案内をしながら座った。

 

「そういえばあなた、名前は?」

「私か? 私は今村だ。”今村安”。日本陸軍でバ術のトレーナーをしている」

「そう、ですか」

「私も良いが、君の話も聞きたいね。どういう風に英陸軍に?」

「ボクは……」

 

 実家までの車内では、面接のようなやり取りがずっと続けられた。ボクがどうやってイギリス陸軍に入り、仲間に恵まれ、そして別れてきたのか。

 全く、色々あって落ち込んでいるのにこの人ときたら……。どこかで日本はレイギの国と聞いたけど、日本のトレーナーには気を遣うという文化はないのだろうか。

 

 そんな不思議な空間で2時間ほど走り続けて着いた先、そこにはボクのよく知る草原そのままの景色が残っていた。

 

「……ここであっているか。君の故郷は」

「はい。……1年半ほど空けていましたが、何も変わっていません」

 

 競技場にも植えてあったユーカリの木々。いつも家の犬と追いかけっこをして過ごしていた、沢山の木が横たわる穏やかな草原。

 今は冬で雪が少し積もっているけれど、そんな中でもいつも走って跳んでいた小さなころを思い出す。

 ボクが大きな一歩を踏み出す前の、”小さな世界”。

 

「ボクが生まれ育った、故郷です」

 

 まるで時間が止まったかのよう。

 今目の前にした実家も、ボクが家を出てから全く変わっていない。草原の中にぽつんと佇む木製の家。ところどころ前より痛んでいるところはあるけど、ほとんど変わらない。

 ……そう、不自然なほどに。

 

「お母さん、お父さん、ただいま」

 

 家のドアを引くと、鍵もかかっていなくて、ぎいと音をたてて開いた。

 

 ドアの向こうにいるはずの人に一刻も早く話をしたかった。

 陸軍のバ術ウマ娘になれたことを誰よりも喜んでくれた、お母さんとお父さん。まずは二人に伝えたかった。

 

「あれ、お母さん? お父さん?」

 

 ごめんねって。

 ボクは結局、立派なウマ娘になることは叶わなかったよ。

 

「いないの? いつもここにいるはずなんだけど……」

 

 でもボクを連れてくれたあのトレーナーはとても優しくて、とても楽しくトレーニングができたんだよ。そしてそこで活躍して、沢山の仲間とライバルができたんだよ。

 

「お母さん!」

 

 手紙にも書いて送ったけど、ボク、本当にそんな仲間たちのお陰で、小さな大会だけど優勝もできたんだ。そしたら寮の仲間やトレーナーも、沢山褒めてくれたんだよ。

 

「お父さん!」

 

 でも皆いなくなっちゃった。あの貧乏の波のせいで。トレーナーも、仲間の皆も。それでもボクは残れたけど、ボクは自分から諦めちゃったんだ。もう疲れたんだよ。

 

「ねえ、どこにいるの……?」

 

 お母さんとお父さんは何て言うかな。優しく抱きしめてくれるかな。それとも頭をなでて笑ってくれるかな。でも不思議だな、ボクが悲しむようなことをする姿が思い浮かばないよ。二人はいつも、ボクに優しくしてくれていたから。

 

「ねえ……」

 

 ああ、でもどうしてだろう。

 

「返事をしてよ!」

 

 ここにいるはずの二人の声が帰ってくることも、目の前に現れることも、決してなかった。

 

 

・・・・・・

 

 

 家の裏にあった墓石に、ボクと、あとずっと傍にいたイマムラという男は近所でもらった花を手向けた。

 

 ……お父さんとお母さんがもういないと聞かされたのは、少し離れたところにあった農家の人からだった。この花も、気の毒にとその農家の人からもらった。

 

 ちょうどボクがあの家を出て陸軍に入ってから半年くらい経ってからお母さんが流行りの病気にかかったらしい。お父さんも治療費のためにも炭鉱に出て働いていたけど、そこでの環境が悪かったせいかお父さんも流行りの病にかかった。お母さんが亡くなった後、お父さんも後を追うように亡くなったらしい。

 

「……君はこのことは?」

「知りませんでした。たぶん、ボクに心配をかけないために黙っていたんだと思います」

 

 お父さんもお母さんも、ボクが”世界一”のウマ娘に慣れるように優しく背中を押してくれた。陸軍に慣れ始めてから送られてきた一通の手紙にも、ただボクを応援してくれる優しい言葉がひたすらに詰まっているだけだった。

 まさか、こんな、こんなことになっているなんて……。

 

「これも天罰なんですかね」

「……え?」

「さっき車で話した通り、ボクはこの小さな世界から抜け出して、バ術という大きな世界に飛び込んだ。そしてそこで少し成功したからって調子に乗ったからきっと、神様からお叱りを受けて……」

 

 大切な人に背中を押されて、そしてイギリス国内の小さな大会で優勝して、それでトレーナーと”世界一のウマ娘になれる”と言い合って、その行き着く先がこのざまか。

 

「ボクのお母さんとお父さんは何も悪いことをしていない。むしろボクをいつも支えてくれた、この世で一番素敵な人たちだった。トレーナーも、寮の皆もそうだった。それじゃあ悪いのはボクしかいないじゃないですか。きっとボクが……」

「……日本生まれの私には君たちの言う神がどうというのは分からない。そんな外の人間である私が言うのも何だがね」

 

 墓石に置かれた花を見つめてただ俯くことしかできないボクの肩に、イマムラは手を置いた。

 

「世界を目指したから、強いウマ娘になろうとしたから、沢山の人に応援されたから……そんなことで不幸が訪れるような世界があったとしたら、そんなの理不尽だとは思わないか?」

「……そうですね、理不尽。理不尽中の、理不尽です」

 

 当たり前じゃないか。

 ボクは前にレースに出るためのウマ娘が楽しそうにトレーニングしているのを見かけた。彼女らは民衆の大歓声の中をひたすらに駆ける存在。ボクらのように気難しいルールの元跳んだりすることはない。民衆のスターだ。

 

 ライバルが去り始めた後、ボクらバ術のウマ娘は段々と世間から注目されなくなっていった。大会で良い成績を出したウマ娘がいても、新聞に大きく載るのは稀。

 イギリスが近年世界大会の成績が芳しくないというのもある。しかしこの不況の中、より民衆に近いスターが大勢いるレースに、世間の多くの目が向いていったんだ。

 同じく彼女らもきっと、レースの頂点を、果ては世界を目指しているのだろう。

 

 ……それなら、おかしいじゃないか。

 なぜボクが、ボクらだけがこんな目に。どん底に落ちなければならない。それこそ理不尽の塊じゃないか。

 

「でも、それならどうしたら良いんですか。ボクにはもう一緒に跳ぶ人もいない。それどころか、帰るところさえ……」

「一緒に跳ぶ人ならここにいるさ」

「……え?」

「それに、帰る場所もある。もちろん、この国ではなくなってしまうがね」

 

 振り返ると、イマムラが微笑んでボクを見ていた。

 ……最初は怪しいと思った、というより今も少し思っているけれど。でも考えたら、この人くらいじゃないかとも思う。イギリスでもがくたった一人の小さなウマ娘のボク。そんなボクの走りを、飛越を、真っすぐと真剣に見てくれていた人は。

 

「君がおかしいと思うこんな世界ならば。そんな世界そのものに報いるしかないじゃないか。君が、君たちが世界を目指して走り、跳んでいたことは決してムダではなかったと、証明するしかないじゃないか」

「……できますかね」

「ああ、できるさ! 君と、私なら! 必ず」

 

 なれる、ボクが? “世界一”の、ウマ娘に……。

 

「この暗くなった世界の中で、君が太陽(Sonne)のように輝く飛越を見せ、少年(boy)のような笑顔を人々に届けることができれば、必ず」

 

 ボクはもう一度彼に向き直る。

 

 これが最後のチャンス。

 そう感じた。もう故郷も、ライバルも、よりどころさえ失ったボク。

 これからのどこかで躓き、膝をついてしまったのならば、もうボクはどこにも行くことが出来なくなる。全てがおしまいだ。

 

「……分かりました。それなら賭けてみます。イマムラ。ボクの、新しいトレーナー」

 

 それでも全てを失い、何もかもが亡くなったボクに残された唯一の道だ。ここで賭けに出なければ、いつ行動を起こす?

 

「ああ。今日から君は、”ソンネボーイ(Sonne Boy)”だ」

 

 今だ。今しかない。

 

「見返してやろう。君を見てくれなかった者たちに。この理不尽な世界に!」

 

 ボクは、”ソンネボーイ”。その名に恥じない競技をする。

 

 それしか道がない。

 

 やるしかないんだ。

 

「君の除隊の話は連隊長にしておこう。今日から君は、日本陸軍のウマ娘、私の相棒だ」

 

 この男と。

 

「この、理不尽な世界で、輝く……日の出の国、日本のウマ娘……」

 

「そうだ! 君は間違いなく世界で戦える。……そうだな」

 

 トレーナーと一緒に。

 

 

「あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね」

 

 

・・・・・・

 

 

 ロサンゼルスの真ん中にあるコロシアム。

 

 グランプリ・デ・ナシオン(大賞典障害競技)。

 

 ここまで2組のウマ娘とトレーナーが挑戦し、2組が失格となった難関。その最難関、第10障害。前人未踏の壁。

 

 トレーナーの声も聞こえなくなるほどに疲弊し、拒止してしまっていたボク。

 だけどまだ間に合う。拒止は3回まで許されている。まだ跳べる。跳べるはずだ……。

 

 昔を思い出して再びその決意を思い出した。

 

 そうだ、ボクは決めたじゃないか。

 

 ボクにはもう家族も友人もいない。

 

 ボクにあるのは、”日本代表”という肩書と、イマムラというトレーナーだけ。

 

「……ン…」

 

 だからボクはイマムラと一緒にどこへでも行って戦ってきたじゃないか。

 

「……れ……」

 

 ドイツ、フランス、ポーランド、スイス、イタリア、そしてロサンゼルス。

 どこへ言ってもボクは良い成績を収めることができた。だからこそボクはトレーナーの隣で跳ぶことができた。

 

 ボクはまだ、トレーナーの隣で跳んでいたい。まだ世界で”最強”のウマ娘になる夢を果たせていない。

 

「……まれ、……」

 

 

 だから、だからボクは……

 

 この障害も、超えていかなければいけないんだ……!!

 

 

「止まれっ、ソンネ!!」

 

「トレーナーっ……?!」

 

 

 反転し、第10障害に向き直って再び越える……その時だった。

 

 トレーナーが、大きく手を広げて、ボクと障害の間で立ち塞がった。

 

 トレーナーを突き飛ばすわけにもいかず、ゆっくりと立ち止まる。

 

 それでも膝はつけない。ついたら失格だ。

 

 肩で息をする。かなり辛い。苦しい。でも勝たなければいけない。なのになぜ……。

 

 

「主審、この競技は棄権します」

 

 

 トレーナーはボクの飛越を見ていた審判に手を挙げ、そんなことを言い出した。

 

「なっ……!」

 

 審判もあまりに突然の行動に、驚いた顔で固まる。

 

「トレーナーの私の判断です。どうか……」

「ま、待ってください!! トレーナー、ボクはまだ跳べます! そこをどいてください!」

「ダメだソンネ、動悸や発汗が異常だ。このまま続けるのは危険すぎる。今日はもう休もう。十分だよ」

 

 もう……? もうって……。

 

「ダメなんですよ。ここで勝たないと、ここで一番にならないと!」

「また挑戦すれば良い」

「”また”なんてないんです! ここで勝たないと……!!」

 

「……主審、少し時間をいただいてもよろしいですかな」

 

 トレーナーは主審が頷いたのを見ると、ボクの肩に優しく手を置いた。それでも決して、ボクと障害の間から動こうとはしない。

 大勢の観客が見守るスタジアムの真ん中、まるで時間が止まったかのように静寂に包まれていた。

 

「なあソンネ、覚えているか。私と一緒にイタリアに渡った日のことを」

「……なんですか突然」

「いいから。覚えているかい」

 

 大勢の観客が静まる。まるでボクとトレーナーだけの世界。

 

 覚えているかって? そんなの……

 

「忘れるはずがないじゃないですか。トレーナーはボクと一緒にイタリアへ行って……」

「ああ、競技会のために、色んな所に行ったよな。イタリアはもちろん。ドイツ、フランス、オーストリー、ハンガリー、ベルギー、チェッコ、スイス、ポーランド、ルーマニア。ヨーロッパ中を周った」

「ずっと一緒でした。ボクも忘れませんよ、トレーナーと一緒に行った場所と、その思い出は、絶対に」

 

 ボクとトレーナーはイギリスを出て、イタリア陸軍のキ兵学校に留学。そこからヨーロッパの国際大会を転々とする日々が続いた。

 トレーナーと一緒に出場するのはもちろんボク。

 

 ”世界一のウマ娘になる”

 

 今まで世界どころかイギリスの小さな町からさえ出られなかったボクにとっては、そんな夢に大きく近づいた日々だった。

 

「あの時は大変だったなあ。まさか欧州のバ術家は、大会前でも深夜までパーティーに出るなんて知らなかったからね」

「はは、トレーナーはいつも大変でしたよね。いつも二日酔いで頭を痛くして。それに、ダンスもちょっぴりへたくそで」

「笑わないでくれたまえよ」

 

 慣れない国、慣れない習慣。庶民出のボクも不安なことだらけだったと思う。

 それでも、一度協議に出て、トレーナーと一緒に沢山のウマ娘と競い合ってしまえば、そんな不安もいつの間にか消えていたんだ。

 

「毎日が楽しかった。制服も2着しか持っていなかったから、いつも膝が擦り切れたボロボロの軍服でパーティーに出ていて恥ずかしかったよ。西君にもよく笑われたものだ」

「ええ」

「それに、君も私が見込んだ通り大層強かった。障害を跳び越えるときの体勢、心持ち、全てが良好だった。イタリア軍の優秀なトレーナーとウマ娘たち相手に良く良くあそこまで戦えたものだった」

「……ずっとこうだったかのように、安心する、良い思い出です。でも……」

 

 トレーナーにノせられて危うく話し込んでしまうところだった。

 障害飛越は制限時間を超えても減点されていく。こんな競技場のど真ん中で話し込んでいる場合ではない。

 ……でも、トレーナーはじっとボクの顔を見つめている。なぜかボクはそんな彼の目を見ると、無理やりにでもどいて行こうという気にもなれなかった。

 

「今はとにかく、どいて、ください、トレーナー。ボクは、行かなければ……」

「ただ一つ、私はずっと気になっていたんだ。ソンネ」

「……何、ですか」

「君は、何を考えていつも障害を跳んでいた? 何を考えて、ヨーロッパを駆けまわっていた?」

「……え?」

「そしてソンネ、君はそうになってまで、今何を考えて跳んでいる?」

 

 スタジアムの真ん中で立ち話をしているトレーナーとボク。

 そしてその一方は汗が吹き出し肩で息をして声が震えていて、今にも膝がつきそう。きっと瞳孔も開き切っているだろう。

 この異様な光景を、何万もの人々が見守っている。変な具合だ。

 

 でも、それでも、ボクが走り続けているのは……。

 

「そんなの、決まっているじゃないですか」

 

 そう、決まっている。

 

「失いたくない。見捨てられたくない。もう二度と、大切なものを……あなた、トレーナーを、帰る場所を、失いたくない……」

「それは今もかい?」

「……イギリスから旅立つとき、言いましたよね、トレーナーは」

 

『あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね』

 

「ええ。あの時の言葉は本当でしたよ。あなたの言った通り、イタリアに留学してすぐの林。そして、その障害の木……」

 

 ユーカリの花。

 ヨーロッパに渡って半年も経たずして、ボクの日常は、世界は大きく変わった。

 せわしなく過ぎていくトレーニングと競技会の日々、勝利と敗北の連続、でも何よりも、いつも笑いながら寄り添ってくれるトレーナーがいた。いつも一緒の、帰る場所があった。

 イタリアで学んだトレーナーのバ術があれば、ボクは今までよりも強くなることができた。この人の隣ならば、ボクは”世界一になる”という約束も果たすことができるだろうと……この人と出会ってから、帰る場所がないなんて思わなくなった。

 でも……。

 

「でも、今度は怖くなったんです」

 

 かけがえのない居場所ができたら。

 

「もう失いたくない。トレーナーに会う前の、ボクみたいな風には、なりたくない」

 

 それを失いたくないと思うのは当然じゃないか。

 

「もしボクがここで負け続けたら、世界で勝てないウマ娘になってしまったら!! 世界を目指すあなたの……トレーナーの傍にいられなくなるかもしれない……だから……!」

「ソンネ……」

「もう誰にも見放されたくない。もう一人ぼっちは嫌だ。嫌だよ……」

 

 なんて弱いのだろうと思う。

 日本初の国際大会優勝ウマ娘。自然バ術の先駆者。日本代表。

 そんな仰々しい栄光を並べたとしても、ボクのよりどころは一つしかない。ボクはただ、怖いものから必死に逃げてきてここまで来てしまっただけなんだ。

 

 ああ、ボクは、ボクは……。

 

「バカだなあ。ソンネは」

 

 トレーナーはボクをイギリスのあの小さな世界から連れ出してくれた時のように、優しく微笑んで……ボクの頭に掌を置いた。

 

「私が、世界一になりたいだけのために君を選んだと思うのか?」

「だ、だって、トレーナーは、オリンピックに出たいからボクを……」

「私は、”君と”オリンピックの舞台に立ちたかったんだよ。イギリスで見た君の真っすぐな走りと飛越。その姿を見てソンネ、私は君と一緒にバ術をしてみたいと思った。私は君と一緒にこの舞台にいることができる。それだけで幸せだったんだよ」

「でも、恐慌の今、ボクとトレーナーも結果を残さないと……!」

 

 世界恐慌。貧困の時代。それによって奪われたボクの家族や友人たち。もしかしたら、今のボクのトレーナーも……。

 

「そんなの心配しなくても良いに決まっているじゃないか。私はあの西君の上司だぞ? 仮にカネがなくてソンネと離れなければいけないようなことになったら、恥を忍んで西君に土下座してでもカネを借りるさ。何も心配いらないんだよ」

 

 トレーナーは優しくボクの頭を撫でる。

 

「全く、ソンネは真面目すぎる。君はまだ学生くらいの歳だろう。そういうのはな、私たちのような大人に任せておけば良いんだよ」

「子ども扱いしないでください……」

「子供でも、大人でもさ。少しは頼ってくれると嬉しいな。私は君の居場所を作るだけじゃない。君の相棒、トレーナーなんだから」

「トレーナー……」

 

 ああ、なんだったんだろう。そうだよ。少し考えたら分かることじゃないか。

 トレーナーだけじゃない。ウラヌスやそのトレーナーのニシを見ていたら分かる話だったじゃないか。

 

「ごめんな、ソンネ。もっと君と話していれば君に必要以上のものを背負わせることもなかった。イタリアに留学して君が不安だった時、ヨランダ王女杯で君がいち早く立ち去っていた時、オリンピック直前まで一人で猛練習をしていた時……」

「そ、そんな、トレーナー! 違うんです。それも全部、ボクが、先走っていたから……!」

 

 イタリアに留学して不安だったけど、それはトレーナーと一緒に競技会に参加しているうちに段々となくなっていったんだ。

 

 オリンピック直前まで過度な練習をしていたのも、世界の舞台を前にボクが勝手に先走っていたから。

 

 ヨランダ王女杯でいち早く競技場から出たのも……あれも、うっかりだけじゃない。きっと心のどこかで怖がっていたんだと思う。

 欧州の大きな大会での優勝。形だけを見れば圧倒的なボクの勝利に見えるかもしれない。でも違う。欧州勢、特にイタリアチームの圧倒的な技術と力。ギリギリだった。圧倒的な力を前に、”一人”でどうやって立ち向かえばいいのかと。

 

 そうなんだよ。トレーナーはボクの”帰る場所”だけじゃない。

 

 ボクの、相棒だ。

 

「ごめんなさい」

「うん、私こそ、ごめんな。トレーナー失格かな」

「ううん、そんなことない。ごめんなさい……」

「良いんだよソンネ。泣いても良い。弱音を吐いたって良い。時には膝をついて、助けを求めたって良い。これからは”一緒”に、ゆっくりと”世界一”のウマ娘に向けて走り出していこう」

 

 今思い出す。

 

 一昨年のヨランダ王女杯。ユーカリの花が咲く、誰もいないイタリアの競技場。

 

 ”もらい忘れていたぞ”と優しく笑いながらトレーナーがつけてくれた、ヨランダ王女杯の優勝ブルーリボン。

 

 ”おめでとう。凄いなソンネ。本当に君は、誰よりも美しく強いウマ娘だ”

 

 そんな言葉ももらったボクは、イギリスから出て初めて笑った。

 

 それは世界一に近づいたことの達成感だと思っていた。自分の力が欧州でも通用するという優越感だと思っていた。でもそれだけじゃない。

 

 嬉しかったんだ。楽しかったんだきっと。

 

 一緒にヨーロッパ中を駆け回って得た努力の証を、大切なトレーナーから直接もらえたことが。

 

『あのユーカリの木の花が次に咲くときには……君はもう、きっと思わなくなっているはずだよ。自分に帰る場所がないなんてね』

 

 きっとあの時初めて実感していた。自分に帰る場所ができたのだと。

 そのユーカリの花が枯れ、新しくユーカリの花が咲いた今、またボクは変わったのだろう。

 もう帰る場所のために”一人”で戦うボクはいない。

 時には頼り、時には甘え、時には助ける、ボクのトレーナー。この人と”一緒”に、世界一のウマ娘を目指していこう。

 

 だから今は……。

 

「ありがとう、トレーナーぁ……!!」

 

 ボクは泣きながら、トレーナーの軍服に顔を隠し、

 

 そして、膝をついた。

 

「日本代表、トレーナー・イマムラ、ソンネボーイ、失権!」

 

 審判が旗を上げて宣言する。

 

 失権。この大会での勝利はあり得ない。

 

 しかし長い長い静寂を破り、ボクとトレーナーを中心に、会場は万雷の拍手と歓声で埋め尽くされた。

 

 

・・・・・・

 

 

 第3走目のボクの出番は終わり、スタジアムの真ん中から退場する。

 前のチームと同じく第10障害前で膝をついたことによる失権。言ってしまえば完全な敗北。オリンピックで、トレーナーと一緒に世界一のウマ娘に輝くという夢は残念ながら果たせなかった。

 でも泣いてトレーナーと話して、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 

『オリンピックは、参加することに意義がある』

 

 誰の言葉だったか、オリンピック会場にある碑に刻まれた言葉を思い出した。

 

「あ、あの、ソンネボーイ……」

 

 思いふけっているところに駆け寄ってきたのは、ウラヌス。

 

 思えば、この娘とも、同じ日本代表でもまともに話し合ったことがなかったかもしれない。トレーナーとニシはよく話し込んでいたけど。

 

「ウラヌス、一つだけ良いですか」

 

 そうだ。もう意地を張っても仕方がない。時には頼る。時には手を取る。トレーナーと話してそう心に決めた。

 だから……。

 

「ウラヌス! 一つだけ、お願いがあります」

「あ、は、はいっ!」

 

 ボクはウラヌスの肩をがっちりと掴んで、ただ一つだけの大切なお願いをした。

 

「勝ってください。あの第10障害、難関ですが、必ずあの障害を越えてゴールにたどり着いてください」

 

 きっと今のボクは、目が赤くなって本当なら人前に見せたくない姿だろう。それでもボクはウラヌスに託さなければいけない。

 

 ”オリンピックは参加することに意義がある”。

 でも、ボクの夢はまた別だ。この暗い世界で、今まで勝ったことない日本のウマ娘として勝利し、バ術で光を灯す。そうすればきっとイギリスで離ればなれになった仲間たちも、不況にあえぐ日本も、少しは報われるはずだ。

 

 だから、一つだけ。

 

 勝て。

 

 走れ。

 

 

「跳べ、ウラヌス!!」

 



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#8 We Won.-前編-

1932年ロサンゼルスオリンピックの最後を飾る”オリンピックの華”、大賞典障害飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)。その11番として競技に挑もうとするウラヌスとトレーナーの西。しかし競技前から西の様子がおかしいことに気づくウラヌス。ウラヌスはライバルたちに背中を押され、”世界一”を決めるスタートダッシュを迎える……。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


『アイルランド、すまない、君は……どうして……』

 

 いつもの軍服を着て洒落た軍帽を被った長身の男、西竹一は一人のウマ娘に寄り添い、そして涙を浮かべていた。

 寄り添われているウマ娘は下を向きながら右の脚を抑えている。

 

『トレーナー、ごめんなさい、ごめんなさい、私……』

『もう良い、痛むだろう。喋るな』

 

 ウマ娘は大切な右脚を負傷していた。彼女は障害飛越のバ術ウマ娘。走り、跳び、誰よりも美しく勝利するのが生きがいの存在。そんな彼女にとって、脚というのは一つの命とも変えられないほどに大切なものだった。

 脚を悪くしたウマ娘はバ術の世界はもちろん、軍にいられるかどうかも怪しい。

 

『ごめんなさい、トレーナー。私、もうオリンピックに出られなくなってしまった』

 

 ”アイルランド”と呼ばれるこのウマ娘は、西にとっての生涯を賭けた相棒になるはずだった。彼女は生涯に入れ込みすぎる性格だったものの、その飛越力は素晴らしく、西とも意気投合していた。

 アイルランドとは2m10cmという日本の障害記録に共に挑戦したりと、西はアイルランドと共に突き進んでいた。

 しかし、そんな中の、大切な大会前での負傷。華々しい舞台で共に戦い散っていくのなら軍人としてトレーナーとして慰めてやれる余地もあった。しかし、西にとって華々しい舞台を前にした挫折というのは、到底受け入れることができないものだった。

 

『ああ、良いんだよ。アイルランド、君が出ないくらいなら私は……』

 

 愛バと共に走ることができないというのは、トレーナーにとっても同じくこれ以上の悲しみはないというほどのものだった。愛バ精神を重んじる生粋のトレーナーだった西にとっては特に重くのしかかる苦痛となった。

 

『西君。私だが、良いかい』

 

 失意の西に歩み寄ってきたのは、上官であり恩師の今村だった。しかし愛バを失ったにも等しい衝撃を受けている西は、尊敬する恩師の顔を見る余裕もなかった。

 

『今村さんですか。何ですか』

『こんな時に再三言うのも酷だがね。アイルランドがオリンピックに出られなくなった今、”彼女”と出るしかない。頼むよ、西君』

『もう嫌なんです。今村さんには分かりますか。愛バと共に走ることができなくなった悲しみが』

『私だってトレーナーとして長くやってきた。だから愛バを失ったことはある。……その、君ほど入れ込んでいたかどうかは分からないがね』

『……やっぱり私はもうオリンピックには出ません。遊佐さんや大島さんにもそう伝えてください』

 

 西と今村は、”ウマ娘の神様”とも言われる遊佐や大島といった名だたる軍人から指導を受けていて、ロサンゼルスへも共に向かうはずだった。そう、アイルランドと、もう一人のウマ娘も共に。

 

『頼むよ西君。大島さんから君を”彼女”と……”ウラヌス”とロサンゼルスに出すように説得してこいと言われているんだよ。だから君は』

『ウラヌス? ウラヌスですか……』

『そうだ。ウラヌス君だって良い飛越をするじゃないか。癖はあるが、君も熱心にトレーニングしていただろう。だから……』

『彼女は確かに大きな癖がありますが良いウマ娘ですよ。でも、アイルランドに変わるウマ娘はどこにもいないんです』

『分かっている。でもオリンピックはすぐそこなんだ』

『オリンピック、オリンピックと……』

『西君、まだウラヌス君が……』

 

『あんなクセ者と走るくらいなら! 私はオリンピックなんか——!!』

 

 全てが嫌だと言わんばかりに叫んで西は振り向いた。

 

『……と、トレー……ナー……?』

 

 そこには、悲しそうに見つめてくるウマ娘がいた。

 高身長の栃栗毛、星型の模様がある前髪。”ウラヌス”だった。

 

 目の前が真っ暗になる感覚……いや、本当に真っ暗になっていくのを感じる。

 

 自分の発言の意味を。トレーナーとして、彼女にどんな思いをさせてしまったのかを。

 

 そして、そうなっても相談する相手も、一緒に走ってくれるウマ娘がもういなくなってしまうことを。

 

 重く、ぐさりと、空間が捻じ曲がるかのような感覚と共に身に感じていた。

 

 ウラヌスの眼が語る。

 

 自分は役立たずだったのかと。自分はもういらないのかと。

 

 ああ、違うんだウラヌス。

 

 ただ、私は、もう疲れたんだ。なんでこんな辛い思いをしてまで、トレーナーをしているんだと。

 

 このオリンピックさえも、きっと私は、お情けで選ばれたに違いない。

 

 身勝手だと笑ってしまうだろう。

 

 でも信じてくれ、ウラヌス。私にはもう君しか……

 

 …………。

 

「……っ!!」

 

 目覚める。

 

 ロサンゼルスの選手村の一室、ベッドの上。

 

 夢。

 

 ウマ娘のトレーナーにとっては残酷な夢だ。

 

 愛バの故障、そして愛バからの失望。

 

 オリンピックに出ると決まってからは、悪夢が鮮明になっていった。

 

「アイルランド……か」

 

 覚えはない。覚えはない名……のはずだ。

 でもその名前を心の中で唱えると、どこか胸が苦しくなるような感覚を覚える。

 ”ウラヌスと一緒だったウマ娘? 私の、トレーナー?”

 そんな思いを巡らせるのは、今に始まったことではなかった。

 何度も繰り返す、夢。悪夢に他ならない。

 

 何よりも苦痛だったのは、夢の外で見たことがないような、ウラヌスの悲しむ顔。トレーナーが愛バに絶対させてはいけない、悲哀の顔だった。

 

「……と、いかんいかん。また時計を持ったまま寝てしまっていたか」

 

 アメリカ製の銀時計。これはストップウォッチの機能も付いた優れモノだ。

 いつも身に着けている物の中でも高価で長く使っている物というのもそうだが、これはトレーニングの時にウラヌスの競技タイムを測る時に使っている。いわばウラヌスとの努力を刻んだ大切な時計。

 トレーナーとしてイメージトレーニングをするときもあるが、その際も無意識にこの時計を弄っているのだった。

 

 しかしこの時計はヨーロッパ転戦どころかウラヌスと出会う前から持っているもので、どこで手に入れたものか西本人も把握していなかった。アメリカ製だが、ロサンゼルスに来てからは一度も時計を買ってはいない。いつの間にか手にして、ウラヌスと時間を重ねている内に大切なものになっていた。

 

 不思議な時計だった。

 

「……しかしもうこんな時間か。トレーニングに行かなければな」

 

 しかし、時計のことを一日考え込むほどの余裕はオリンピックに出るトレーナーにはない。

 

 西はいつもの日課通り七三分けの髪型を鏡の前で整え、お気に入りの軍服と軍帽で彩る。気分は優れなくとも、毎日欠かさない日課だ。愛バに醜い姿を見せるわけにもいかない。トレーナーとは常に、担当ウマ娘に信頼を置かれるような存在でなければならない。

 

 頑張るウラヌスの顔を思い浮かべてご機嫌な朝を迎えようとするが、どうしても毎朝見る悪夢が脳にこびりついていた。

 若干の情けなさに、笑う。

 

「(まあ、一つ言えるのは……)」

 

 改めて持っていたアメリカ製の時計を、軍服のポケットにしまい込む。

 

「(愛バにあんなことを言っているようでは、良い死に方はしないだろうな)」

 

 そんなことを思いながら、西は無理やり笑って外に出た。

 

 

・・・・・・

 

 

 1932年8月14日。ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム、大賞典障害飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)。快晴。

 

 ソンネボーイとイマムラの第3回目の競技は、第10障害での拒止により失権。長大なコースに分厚く困難な障害を前に倒れた。

 

『跳べ、ウラヌス!!』

 

 それでも、彼女の、ソンネボーイの勝負の炎は消えてはいなかった。

 ぼろぼろになろうとも、あと少しで死ぬことになろうとも、彼女は”それ”を諦めずに、私に託した。

 

 それは、”勝利”。

 

 競技場の真ん中で語られたソンネボーイの勝負への執着とその理由。

 

”バ術で日本を、世界を明るくする”

 

 そういえばあのオリンピック男も言っていたな。

 

“それに日本でも盛り上がればさ、きっと戦だなんだなんて馬鹿らしくなるかもしれないじゃないか”

 

 このロサンゼルスオリンピック、大賞典障害飛越競技での勝利は、それだけの意味がある。

 そしてその勝利のハードルは、競技場に置かれた大障害コースのように高く、険しいものになっていった。

 

『4番、エンパイア、トレーナー・クラレンス・フォン・ローゼン・ジュニア、ゴール!! 減点16!!』

 

 会場が大歓声に沸く。

 それはソンネボーイとイマムラの相棒劇に匹敵するほどの大歓声だった。

 

 一時はクリア不可能かと思われたこの大賞典飛越コースをついにゴールしたのだから当然。しかも北欧の障害飛越界では注目の星だったローゼン中尉が成し遂げたというのだから更に当然だった。

 

「さすがスポーツ家系のローゼン中尉。そしてその愛バのエンパイア。唯一の欧州勢としてここは譲れないか……」

 

 大会の出番を前にして並んで観戦していたトレーナーが思わずといった具合に呟く。

 トレーナーの言う通り、この大会に出場している欧州勢はローゼン中尉らスウェーデンのみ。バ術強豪国であるドイツやイギリス、そして私の故郷のイタリアすらも参加していない。

 欧州から遠いために、繊細なウマ娘をサポートするための体制が整えづらいこと、今回のコースの障害が従来のものよりも分厚く困難になっているために伝統を重んじる欧州チームが嫌がり、またウマ娘の怪我を恐れたことなど理由は様々だ……とトレーナーが以前言っていた。

 でも理由はどうであれ、古くからのバ術強豪である欧州勢として唯一の参加。しかもローゼン中尉は古くからのスポーツ家系。エンパイアもローゼン中尉と深くかかわる欧州バ術界のスターウマ娘。負けられないはず。

 

 ”期待”だ。

 彼女らはその期待に答えたというわけだろう。

 

 それだけじゃない。

 

 私は思わずトレーナーを見る。

 

「…………。」

 

 どこか険しい顔をして見つめるトレーナー。

 

 思い出す。

 

 ”私は、少なくとも君と世界一になるまではずっと一緒に走り続ける。約束だ”

 

 トレーナーはそう言って、私が必要以上に背負っていた重荷を取り除いてくれた。だからこそ私は今ここに立ち、胸を張って競技に挑むことができている。

 

 でも、トレーナー。

 

 あなたは……?

 

 

・・・・・・

 

 

 時は戻り、オリンピック本番前の週。練習用のポログラウンド。

 

”勝ってやる。日系人だとか白人だとか関係ない”

 

 あの日系のウマ娘……イノウエにそう断言した日から、私とトレーナーのトレーニングは本番に向けた仕上げに入っていた。

 

「いいかウラヌス。良い飛越ウマ娘は障害を見ながら跳ぶ。辛いから怖いからと言って顔を上げるな!」

「怖くなんてないわよっ」

「違うっ! もっと手前で跳べぇ!」

「うぅ……了解っ!」

 

 ちなみに、東京の邸宅で話し合ってからはより遠慮がなくなったせいか、元々厳しかったトレーニングは厳しさを増していた。普段はあんなのだけど、トレーナー・ニシによるトレーニングの厳しさは日本陸軍のバ術トレーナーの中でも随一だ。

 いつもポログラウンドの隅で自由に練習しているソンネボーイを羨ましく思うくらいだ。

 

「(まああの娘はあの娘で、自分に一番厳しいみたいだけど)」

 

 ソンネボーイはイマムラとのトレーニングが終わった後も、ずっとトレーニングを続けている。観光をするでもなく、しかもたった一人だけで。

 勝利だけを見て一直線なのは凄い事だが、同時に心配になる。

 

「どこを見ているっ! もう一周行くか」

「あーもう行く! 行ってやるわよ!」

 

 まあ、他人を心配している余裕はあまりなかったわけだけど。

 ただそんな過酷な練習を終えると、トレーナーはいつものややふぬけて陽気な西竹一に戻る。少なくとも、ロサンゼルスに来たはじめの週まではそうだった。

 

「はぁっ、はぁ……トレーナー、もういつものセットは終わりじゃない?」

「………そうだな。よし、今日はここまで。お疲れ様」

 

 ほら。優しく駆け寄ってきてこちらを見る。……でも最近は気になることもある。

 

「なあウラヌス、脚は大丈夫か?」

「え、脚? まあ、ええ、大丈夫だけど」

「そうか。それなら良い」

「何か跳び方とか変だった?」

「いや、私がただ気になっただけだった。私は他のトレーナーと話してくるから、ウラヌスは好きに休んでいると良い」

 

 そう言ってトレーナーは私のタイムを測っていた時計をじっと見ながら、どこかへ歩いていった。

 

 オリンピック本番まで一週間を切ってから、どこかトレーナーは素っ気ないというか、遠慮がちな反応を見せている。

 

 少し前なら”よし、ロスの街に繰り出すぞ”とか言って私を連れ出してくれるはずなのに。

 オリンピック直前になって遊ぶ暇があるかと言われたらもちろんトレーナーとして色々あるのだろうけど、そんな時にでも外に出てぼんやりしているのが私のトレーナーだ。

 

「(いったい何を考えているのやら……)」

 

 あのトレーナーが変な挙動をしているときは碌なことを考えていないときだ。

 

 まあでも、このグラウンドでは他国のウマ娘とも交流しながら休むことができる。ここでのんびりするそんな体験も、なんだか”オリンピック”といった具合で、私は好きだった。

 

「お疲れ様、ウラヌス殿。そちらの練習は相変わらず過酷ですね」

「エンパイア、あなたもお疲れ様。どう、ロスの障害はやっぱりスウェーデンとは違う?」

「ええ、そうですね。貴公は欧州遠征帰りとのことでしたが、スウェーデンはまだでしたかね?」

「ええ、北欧はまだね。いつか行って跳んでみたいわ」

 

 スウェーデン代表の一人にして北欧随一の飛越ウマ娘のエンパイア。貴族のトレーナー、しかもバ術と社交界に出入りしていた家系のウマ娘なだけあって、その所作はまるでどこかの国の王子様のようだった。

 ……同じく貴族のトレーナーを持つのに、私にはそんな所作が見につかないのはなぜだろう。

 

「やっぱり、スウェーデンの大障害よりも難しそう?」

「ええ、故郷の競技会で使われているものよりも確かに険しいです。が、わたくしにとって不足はありません」

「流石、北欧の貴婦人。北欧の意地という、大きなものを背負っているのね」

「そんなことはありませんよ。わたくしもトレーナー殿もたしかにスポーツ家系ですけど、それを重荷だと思ったことはありませんから。それに、言うなら貴公もではないですか。見ましたよ、前のあのウマ娘との会話」

 

 例の、イノウエとの会話だろう。練習前でかなり目立っていたから、きっとエンパイアも知っているはず。

 

「見ず知らずのウマ娘のために勝負を賭けるとは、やはり大したものですよ。貴公は」

「それこそそんなんじゃないわ。だって……」

「だって?」

「どちらにせよ、私たちが勝つもの」

「はは、凄い自信だ。これは負けていられませんね」

 

 私は、欧州で活躍してきたソンネボーイとも幾度も勝負してきたし、勝率も良い感じだ。それにトレーナーだって……

 

「それなら、貴公のトレーナー殿にも同じ意気込みを聞かせてあげたら良いと思うよ」

「……え?」

「貴公も気づいていると思うが、最近の貴公のトレーナーはどこか様子がね。大会前になるとそわそわするのは競技者の常だけれども、一応、ね」

 

 たしかに、最近のトレーナーはどこか心配性で素っ気ないところがある。何を考えているのか分からない。大会前の緊張化と思っていたけど、確かに話し合っても良さそうだ。

 

「トレーナーがた男性は選手村にいるはずですから、様子を見に行くと良いかもしれませんね」

「……う、うん。ありがとう、エンパイア」

「いいえ、お互い、悔いのない戦いをしたいですから。それに……」

 

 エンパイアは立ち上がって言った。

 

「勝つのは、私たちですよ、ウラヌス」

 

 

・・・・・・

 

 

 ロサンゼルスオリンピックは、”選手村”というものが初めて開かれたオリンピックだと聞いた。ロサンゼルスを見下ろせるボールドウィンヒルズにその選手村はあったが、宿泊可能なのは男子のみであり、私たちウマ娘のような女子は近くにあるチャップマンパークのホテルに泊っている。正直陸軍の寮生活に比べると快適でありがたかったけど、トレーナーと離れてしまうのは難点だった。

 

「しかし、大した場所ねえ……」

 

 選手村というものは陸軍の寮のようなものかと思ったが、まるで一つの町のように賑やかな場所だった。食堂がいくつかあって郵便局や歯科、ラジオ局や病院、映画館まである。何なら習志野のキ兵学校よりも随分と立派。それに世界各国の国旗が立てられていてとても華やかだ。

 

「トレーナーの部屋はたしか、ここね」

 

 選手村の角にある小さな家のドアを叩く。

 

「む、ウラヌスか。どうした」

「あら、結構良いところで寝泊まりしていたんだ」

「ああ、ロスは良いぞ。居心地が良い」

 

 選手たちはこの2人1部屋のポータブルハウスに住んでいる。

 部屋はベッドと椅子が2つずつ、ドレッサーに洗面所、シャワー室もある。ホテルのそこそこ良い一室くらいに充実していた。私たちもホテル泊まりだから悪くないけど、この部屋も良い。……と、そんなことはどうでも良い。

 

「どうしたウラヌス。何かトレーニングに問題でも?」

「いえ、問題と言うか……どちらかというとトレーナーのことだけれど」

「私?」

「ええ、最近様子が変だったから、どうにも気になってトレーニングに集中もできなくてね」

「……そうか。それはすまなかったな。相棒の担当ウマ娘を困らせるとは、私も落ちたものだ」

 

 トレーナーが困った顔をして帽子の上を撫でる。困ったときはいつもこう。トレーナーの癖だ。

 

「だから聞きたいのは……」

「あ、そうだウラヌス。それなら詫びに映画でも見ないか? 気分転換にでもさ」

 

 そうしてトレーナーは”行こう行こう”と言って私を押す。

 確かに選手村に映画館があって面白そうだとは思っていたけど……。まるで自分のことを詮索されたくないとでも言いたげに私を映画館まで引っ張っていった。

 

 トレーナーは私のことはいつも気にかけつつも色んな事を聞いてくる癖に、あまり自分のことを話したがらない。最後にトレーナーについてよく話してくれたのって……。

 

”私と君は似ている”

 

 イタリアで出会ったときか。

 

 そんなことをぽわぽわと思い出しながら、トレーナーと二人映画館に入る。どうやらオリンピック選手は全員無料で観ることができるらしい。が、トレーニング時間の昼間ということもあって観客は私とトレーナーだけだった。

 

 二人だけの映画館。

 

 フィルムはトレーナーが持ち込んだらしく、映し出されたのは”ロビンソン・クルーソー”という、フェアバンクスという俳優の新作映画だった。

 所謂トーキー映画で、フィルムで映画を映してレコードで音楽が流れる。音はがさがさだけど、随分と映画も進んでいるものなんだと感心した。

 

「フェアバンクスとはウラヌスと会うためにイタリアに行ったときに知り合ったんだ。行きの船で意気投合してね。この前会って、この映画も新作だけど特別にフィルムとレコードを貸してくれたんだ」

 

 ”ちなみにチャップリンやピックフォード婦人とも”と、得意げにトレーナーは言った。

 ダグラス・フェアバンクスと言えば映画に疎い私でも知っているくらいのハリウッドスター。いくら日本の貴族とは言えそれは絶対嘘だろうと聞き流した。

 

 ロビンソン・クルーソー……船乗りに憧れたロビンソン・クルーソーは家出をして海に出る。しかし嵐で乗っていた船から投げ出されてしまい、なんやかんやあって無人島に漂着する。そしてそこで何とか生活し、ある日無人島にやってきた船の船長を助けて故郷へ帰るが家族は死んでいて、最終的に旅の途中で会った仲間と一緒にビジネスに成功した後また船に乗って冒険に出るという長いお話。

 

 海に投げ出されて大冒険。故郷には帰る場所もない。まるで誰かさんのようだ。そしてそんな誰かさんを幸せにしてくれるだろう別の誰かさんは、今何やら様子がおかしい。

 

「……ねえ、トレーナーはさ。」

 

 どうせ二人きりの映画館。並んで座り映像を見ながら話す。

 

「うん?」

「どうして私を選んだの」

「え? 出会ったときに言ったじゃないか」

「”私に似ている”ってやつでしょ。そうだけど、そうじゃなくて……」

 

 よく考えたら、余程のことがなければそもそもあんな町はずれの陸軍寮に立ち寄るなんてそうそうない。トレーナーは最初一緒に世界一のウマ娘を探すため……とか言っていたけど、それならあんな辺鄙な寮じゃなくて、それこそウマ娘学校に行けば良いはずだ。なんであのとき、わざわざ私の飛越を見るためにあんなところまで来たのか。

 

「……私があの時はるばるイタリアに訪れたのは、ウラヌス、君のためだった」

「え、イタリアに来たのも?」

「ああ、言っていなかったか?」

「世界一になるためのウマ娘を探しているとは聞いたけど、最初から私に会うためだったとまでは言っていなかった!」

「はは、そうだったのか」

 

 どういうこと? どういうことよそれ。

 トレーナーがたまたま通りかかって、そしてたまたま私を見つけたのだとばかり思っていた。だって、トレーナーはイタリアに半年間休暇で来ていて、オリンピックに出るウマ娘を探しているとしか言っていなかったから。

 

「最初に教えてくれたのは今村さんだった。イタリアに、フランス生まれの大した飛越ウマ娘がいると」

「最初に見つけてくれたのは、イマムラ……!?」

「もっと言えば、ソンネボーイだった。ソンネボーイが今村さんと共にイタリアを巡りながら走っているうちに、ある将校から話を聞いたらしい。恐らく、君のトレーナーだろう。そして小さな陸軍寮でひたすら跳んでいる君を見つけた。それで今村さんがすぐに私に電報を寄こしたんだ」

「……どんな? どんな風に言っていたの?」

「”あのイタリアでも手が付けられないウマ娘がいる”ってね」

 

 何よ、誉め言葉ではないじゃない。それ。

 

「実は君と会う前から君のことは”買っていた”のさ。領収書は切っていないから忘れたが、契約金数千リラ。君と会う前日にはポケットマネーでもう支払い済みだった」

「なるほど、私が何と言おうと、私は最初からトレーナーと一緒になる運命だったってことね。……でも、それでもわざわざ見たことのない私のためにイタリアまで?」

「不思議と、”行かなければいけない”と思った」

「行かなければいけない?」

「そう。面白そうな娘だと思ったのは確かだけどなぜだろうな、会ったら気が合うと思ったんだ」

 

 トレーナーはポケットからいつも私のタイムを測っている時計を取り出し、大切そうに撫でた。

 

「はは、何でだろうな。君とは本当に、初めて会ったはずなのに。不思議とな。オリンピックで一緒に走るウマ娘を探そうとか色々言ったけど、本当はそんなのどうでも良かったのかもしれないな」

「え?」

「なんだろうな。君にはどうしても会いたかった。不思議と、どうしようもなく。ただ、君と会ったときに世界一になると言っていたけど、それはだんだん分からなくなってしまったよ」

「……ねえ、本当にどうしたの。前までそんな弱気な男じゃなかったわよ、トレーナーは」

 

 ”参ったな”と困ったかのような笑みを浮かべて自分の頭をなでるトレーナー。トレーニング中は見せないが、オリンピックを嫌がるではなくても、どこか憂鬱な表情をするときがある。

 

「……偶に思うんだ。私の家で君と話し合っても、私は本当にこのまま進んでも良いのかと。このまま君とオリンピックに出て突き進んでいも、何だか取り返しのつかないことになるんじゃないかって。私はとにかく、君に悲しい思いをさせることになるんじゃないかって」

 

 トレーナーの言っていることの真意はよくわからない。まるで夢の中のようにぼんやりとした不安なのだろうか。

 分からない。分からないよ、トレーナー。

 

「それに私は陸軍の中でも大の変わり者だ。金持ちの海外通。私を疎んでいる上官も少なくはない。しかもずっとバ術に明け暮れている。オリンピックが終わった後にも私を理解してくれる居場所があるのか……」

 

 しばらく下を向いて話してから、トレーナーははっとし、”すまない、つまらない話をしてしまった”と苦笑いをした。

 そして……

 

「そう思えば、私はお情けでこの大会に選ばれたのかもしれないな」

 

 と、また苦笑いしながら話した。

 

 ……ねえトレーナー、なんでそんな悲しそうな顔をするの? 一体、何に苦しんでいるの?

 

 聞きたいことは沢山あっても、トレーナーに私、なんて言えばいいのか分からない。




オリンピック中にロサンゼルスオリンピック編を終えたいと思っていましたが、かなり遅くなりいつの間にかパラリンピックが始まってしましました;;
今後も仕事の関係で遅くなったりするかもしれませんが、この作品は必ず終わらせようとは思っているので、温かく見守ってください。

さて、西とウラヌス物語、ロサンゼルスオリンピック編もフィナーレが近くなってきました。彼らが史実通りの道を歩むのかどうか、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。


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#8 We Won.-後編-

大賞典障害飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)で出番を迎えたウラヌスと西は、10万人の観客の下、様々な想いを抱えて競技場を駆け抜ける。その一方で、ウラヌスに”必ず勝つ”と約束された日系ウマ娘のイノウエは、五輪マークが輝くオリンピックスタジアムのゲート前に立つ。様々な形で戦う彼女たち。彼女たちの行く末は、ウラヌスと西の最後の飛越に託された——

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


 1932年8月14日。ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム。

 イタリアでトレーナーと出会ってからの憧れの舞台だったはずなのに、トレーナーとの心の距離は今までよりも遠く感じる。

 

 そんな中でもオリンピックは動きに動いていた。

 

 スウェーデンのローゼンとエンパイアは初めてゴールして会場が沸いた後も、次々とトレーナーとウマ娘たちが障害に挑んて行く。

 5番目、メキシコのカルロス・メヒア少佐とカングロは第2障害に阻まれて失権。

 6番目、アメリカのウィリアム・ブラッドフォード大尉とジョー・エルシャーは6個の障害を落下させて24点もの減点になりつつも走破。もはやこの困難なコースでは、走り切っただけでも10万人の万雷の拍手が鳴り響く。

 トレーナーの負傷により棄権のための7番飛んで8番のスウェーデン、アルケ・フランケとウルファ。このコンビはローゼン&エンパイアと並んでスウェーデン選手の優勝候補と灘高かったけど、鬼門の第10障害に阻まれて失権。

 この時点で全ての参加国各一人は失権になるという普通なら考えられない事態に陥った。この障害飛越競技は各国3人の記録を合計して団体の優勝が決められるけど、もう3人走り切れる国はないから団体優勝国はなし。

 そして9番、メキシコ最後のプロコピオ・オルチッツ大尉とピネロ。こちらも障害に阻まれて失権。なんとメキシコのチームに至っては一組も完走することすら叶わなかった。

 しかし……

 

『10番、ショーガール、トレーナー・ハリー・チェンバリン! 減点12! 暫定一位だ!!』

 

 開催国・アメリカの星、ショーガールとそのトレーナー・チェンバリンがなんと減点12という好成績で完走。会場の真ん中で、溢れんばかりの喝采を受けていた。

 私とトレーナーは11番目。この喝采の後に跳ぶのはやや気が引けてしまう。

 

「ヘイ、ウラヌス」

「どうも、ショーガール」

 

 12点減点というこのコースとしては驚異的な結果をたたき出したショーガールが帰ってくる。正にやり切ったと言わんばかりの清々とした顔をしていた。

 

「良い走りだったわ。暫定一位おめでとう」

「ええ。次はアナタよ、ウラヌス」

 

 ショーガールとは練習していたポログラウンドで何度か話したことがある。彼女は開催国・アメリカ選手の中でも特に注目を集めていたウマ娘で、毎日のように新聞記者が詰めかけていたのを覚えている。

 ”期待”。アメリカで一番の”期待”を、彼女は背負っていた。

 

「最近浮かない顔をしていたけど大丈夫? ファイト、ファイトよ、ウラヌス」

「うん……」

「そうか、ウラヌス殿はまだ悩んでいましたか」

 

 ショーガールと話していると、スウェーデンのエンパイアも駆け寄ってくる。どうやら前にポログラウンドで話していたことを少し気にしてくれていたみたいだった。

 

「ひとまずおめでとう、ショーガール殿。貴公の走り、本当に素晴らしかったです。悔しいですが」

「ええ、エンパイア。あなたには負けていられませんもの。……しかし」

「……うむ。次は貴公ですが、ウラヌス殿はトレーナーとまだちゃんと話していないのですか」

「話したけど、よく分らなかった。トレーナーも何を考えているのか」

「フゥン、なるほど、ウラヌスはトレーナーと痴話喧嘩でもしているのね」

 

 痴話喧嘩ならどれほど良かったことか……。

 トレーナーの真意が掴めない。このまま走っても、私は勝てるのだろうか。

 

「まあでも、それなら丁度良いのではないですか」

「ええ、ウマ娘が何の壁もなく語り合えるのは一つだけ」

「……一つ、だけ?」

 

 ショーガールとエンパイアは顔を合わせて笑う。

 

「「走っているとき」」

 

 そして10万人が見つめるスタジアムの中心を見た。

 

「我々ウマ娘は、走り跳ぶために生まれてきたんです」

「次はウラヌスと、あなたのトレーナー……ニシの出番よ」

「言ってきてください、ウラヌス殿。同じ世界で戦うウマ娘として、応援していますよ」

 

 ショーガールとエンパイアに背中を押される。

 

 そうだ、私は日本の、陸軍の、オリンピックの以前に、”ウマ娘”。

 走り、跳び、競い合うのが生きがいのウマ娘。その真剣勝負の中では、下手な小手先も、嘘も通用しない。そんな中だからこそ語り合えるものがある。

 

「うん、ありがとう2人とも。言ってくるわね」

 

 ”頑張って”と背中を押してくれるライバルたち。それだけでも、このオリンピックに出場した価値があるのではないかと思う。

 

「トレーナー!!」

 

 もうすぐに出番。11番目のコールを前に、トレーナーはまだどこか不安そうに立ち上がって待っていた。

 

「ウラヌス、来たか」

「ええ、トレーナー。行きましょう」

 

『11番、ウラヌス、トレーナー・タケイチ・ニシ!!!』

 

 日本から来た貴公子と欧州で経験を重ねたウマ娘のコンビに、会場は沸き立つ。

 けれど私は、エンパイアやショーガールほどそこまで期待されているわけではない。トレーナーは若手、ヨーロッパでもヨランダ王女杯で優勝したイマムラとソンネボーイのほうが話題になっていたほどだ。まあでも良い。逆に気が楽だ。

 それでも、負けないように戦うと決めた。

 

「ねえトレーナー。トレーナーはさ、ちょっと前に自分のことを”お情けでオリンピックに選ばれた”と言っていたけどさ」

 

 トレーナーと並んでコースにつき、位置につく。

 

「私は、トレーナーとここまで来れて良かったと思っている」

「……ウラヌス」

「どんなことがあっても、私は帰る場所はない。前に見たあの映画と一緒。それでもトレーナーと一緒にここまで来れて、後悔したことは一度もない。だから教えてよ。トレーナーの考えていること、その不安を。走りながらでも良いからさ」

 

 私はまだ浮かないような顔をしているトレーナーを見て笑う。ああ、”逆”だなと思いながら。

 

 競技開始の笛が鳴り響く。

 

 

 私とトレーナーは、大地を蹴って走り始めた。

 

 

 

・・・・・・

 

 

 ”勝ってやる。日系人だとか白人だとか関係ない”

 

 ”だからあんたも見に来なさい。オリンピックの最終日、大賞典障害跳越(グランプリ・デ・ナシオン)。必ずそこで勝ってやるわ”

 

 私、日系ウマ娘の”イノウエ”は、とある日本のウマ娘にそう言われた。

 

 日本のウマ娘と言っても、明らかに最近日本に来たばかりと言っていいほどのフランス系の娘だった。それでも、誰よりも日系のウマ娘である私に正面向き合って話してくれたウマ娘。日本人として、同じウマ娘として。

 

 有色人種のウマ娘は、白人のウマ娘とは走ることができない。

 自由の国・アメリカとは言うが、それは差別を受けている有色人種ではないことが前提のお話。

 

 そう思っていたけど、あのリビエラカントリークラブのポログラウンドで見た景色はそれとは違っていた。あいつ……ウラヌスは知らないかもしれないけど、私は最初にグラウンドから去ってからもしばらくは木の陰からあいつの練習を見ていた。

 

 今までなら考えられない光景。

 

 アメリカ、スウェーデン、メキシコに混じってウラヌスと……そのトレーナーが走っていた。トレーナーは日本人で、やけに洒落た伊達男だった。

 それでもそのトレーナー……バロン・ニシというらしい男は、笑いながら他の白人のトレーナーとも交流し、お互いをライバルとして見ていた。そしてリビエラカントリークラブの門番をしている黒人の男ともよく談笑していた。

 ただ同じくバ術で戦う人々と正々堂々と戦う。そこには国境も、人種差別もない。”オリンピック”の世界だった。私はそんな光景に、少しだけ惹かれたのかもしれない。

 

 ……だから、こんなところに来てしまったのだろう。

 

「はぁ、本当に、来るつもりはなかったんだけどな」

 

 ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムの大きな正門。でかでかと五輪マークがつけられている、厳かな雰囲気のゲート。

 

 普段は避けているロスの街を走り、わざわざ来てしまった。

 こうして来て入ろうか迷ってうろうろしている今も、10万人の観客の歓声がたまに聞こえてくる。正門前には、満員の観客席からあぶれたのであろう人々が見たい見たいと詰めかけていた。

 

 ”オリンピックの華”、障害飛越。あいつはそう言っていた。

 

「……あれ」

 

 でも自分は日系ウマ娘。私はどうせ入れないと、帰ろうかと迷っていると、正門前で何やら騒いでいる男がいた。

 

「ええい、いいから通せば良いじゃんねえ! これはオリンピックだよ!? 何をそんな小さいことを言っているんだ」

「ええ、あの、ですからこのスタジアムには決められた人しか入れないんです。お引き取りを」

「もうその言葉は百万回は聞いたよ。良いから通してくれんかね」

 

 何やら日の丸が縫われたスーツのような服を着て、眼鏡をかけている男が大柄な門番相手に、日本語の大声で騒いでいた。そしてその後ろには、何人かの日系人や黒人の人が困惑した顔で立ち尽くしていた。あ、中にリビエリカントリークラブの門番さんや、ロスの料理店に前からいる奥さんもいる。

 

「……どうしたんだよ日本のおっさん。そんな大声出して」

「お? 日系のウマ娘とは珍しいね。あー、ワッツスピークイングリッシュ?」

「日本語なら分かるから。それで、どうしたの?」

「おー、そうかい。あ、君もオリンピックを見に来たのかね? じゃあ俺のことももしかして知っている?」

「おっさん、誰」

「失礼な娘だなあ。マイネームイズ・タバタ! 日本の水泳選手団代表の田畑! 知らない?」

「知らね。別に、オリンピック見に来たわけでもないし。水泳もよく知らないし」

「何だそうかい……じゃなくて聞いてほしんだけどね、俺がオリンピックスタジアムに来たら、バ術を見たいらしいこの人らがスタジアムに入れてもらえてなかったらしいからね、この門番に入れてやれって言ってやっているんだよ。……なあ、おい!」

 

 そう言ってすぐに、ヘタクソな英語と日本語が入り混じった大声で、門番に訴えかけていた。

 

「ですから、その、特定の人たちを入れるわけにはいきません。それに、席はもういっぱいですし……」

「席がいっぱいでも、中で立って見ている奴らがいるのは知っているんだぞ!? それにこれはオリンピック。平和の、世界の祭典っ! なら別に入れてやっても良いじゃんねえ」

 

 そう行っては止められてを繰り返している。

 全く、あのウラヌスといい、オリンピックでアメリカに来る日本人は、何でこうも暑苦しくて、お人よしな人ばっかりなんだろうか。

 はあ、なんだか疲れる。

 

「ねえ、あのゴルフ場の近くに住んでいるウマ娘のイノウエちゃんよね」

 

 ”入れろ””入れない”の問答を繰り返している男二人を横目に、後ろにいた日系の奥さんを見る。ロスの料理店で働いているおばちゃんで、私もよく会う馴染みの人だった。

 

「あ、うん。おばちゃん、どうしてここに」

「たぶんイノウエちゃんは知っていると思うけど、実はね、日本のウラヌスちゃんが言っていたの。”私が勝って、少しでも私たちを喜ばせてあげたい”って。日系人とか人種とか以前に、私たちを喜ばせてあげたいって、言ってくれたの。だからね、少しでもウラヌスちゃんのことを見れたらと思って来たらね」

 

 この男がいたわけか。

 

「きっとね、嬉しかったんだねえ、わたし。このアメリカに住んでからは白人とか日系人とか、そういうことばかり考えていたけど、久しぶりだった。人種も何も関係なく、真っすぐに笑ってくれる娘は。だから、少しでもウラヌスちゃんに会えたらと思ったんだけどねえ……」

 

 どこか諦めたかのような顔をして下を向くおばちゃん。

 

 ……なんでだよ。なんでだよ、あいつ。ウラヌス。

 私にも言った。”必ず勝ってやる”、”日系人も白人も関係ない”って。

 勝つ勝つ言ってるけど、相手は世界で戦うオリンピック選手。しかも自分はバ術新参者の日本選手で、相手はアメリカやスウェーデンみたいな強い国の選手。

 何の根拠があって言っているんだよ。勝つって。何でそんな、バ術の選手でも、ましてや差別の中でうずくまっているような私たちに、真っすぐに、笑って言えるんだよ。

 

 ああ……。

 

 なんか、情けなくて涙が出てきた。

 

 走ったことを、跳ぶことを諦めてきた私が。真っすぐに笑って跳ぼうとしているウラヌスを見ていると……。

 ああ、畜生。こんなつもりじゃなかったのにな。このままで良いと思っていた。どうしようもないと、変えることなんかできないんだと。日系だから。差別されるような人種だから。でもそう思って卑屈になって、いつの間にか自分で自分のことを蔑んでいたのかもしれない。

 でも、あいつは言ってくれた。”関係ない”。私はウマ娘。走り、跳ぶのが生きがいの、どこまでいっても大好きな、ウマ娘。人種も何もない。なら、なぜ今立ち止まっている? 誰かに邪魔をされている?

 

 そう思うと、何だか腹が立ってきた。

 

 走り跳ぶことさえも奪われて、その上あいつの走りを見せてもらうことさえもできないのか。日系人以前に、一人のウマ娘として。

 

「……おい、門番」

 

 私は、もう立ち止まりたくない。

 

「通せよ。あいつの走りをちょっと見るくらい、それくらいの権利はあるはずだ」

「ダメです、お引き取りください」

「この……なめやがって。ウマ娘、なめんなよ!!」

 

 そう言って強行突破しようと走ろうとする。

 そうだ。私はウマ娘。走るのが大好きな、ウマ娘。ライバルと競い合い、走る。そのための……!

 

「捕まえたぞ! これ以上暴れるようなら、警察を呼ぶぞ!!」

 

 でもダメだ。門番に取り押さえられ、転ぶ。

 

 ああ、クソ。

 これはツケだろうか。今まで諦めて、立ち止まって、あいつとは違って。そんな風に生きてきたから。

 あのオリンピックマークの門を通れないのは、あいつと違って、私が、弱かったから……。

 

「おいおい、嬢ちゃん泣くなよ。……おい、放してやりなさいよ。ウマの子にそんな……」

 

 あのわけわからん日本人にまで心配される始末。

 ああ、というかそうか。泣いてるのか、私。まあそうだよな、情けない、私だから……。

 

 地面に伏して、あまりの自分の情けなさに涙を流していた。

 

 ……そんな時だった。

 

「まあまあ、放しなさい。彼女については私が面倒を見るから」

 

 オリンピックマークの門の下から現われたのは、日本の軍服を着たおじさん。ウラヌスのトレーナーに似た服装。……というかよく見たら、ポログラウンドの端っこで別のウマ娘とトレーニングしていた男だ。

 

「ですが、このウマ娘は……」

「私はバ術競技に出ている軍人だ」

「ええ、たしか……イマムラさんでしたよね。何か要件が?」

「うん、この門の前にいる皆を競技観戦に招待しに来た。通してあげてほしい」

 

 そう言って丁寧に門番の男を諭す、紳士風の日本人、イマムラ。ウラヌスのトレーナーよりも物腰が柔らかそうに見える。

 

「ただ、しかし、普通なら日系の者をこのような施設に入れるなど……」

「ほう、それならオリンピック委員会に報告しようか。アメリカは人種を理由に競技場への入場を制限するような、オリンピックに相応しくない国だと」

「そ、それはっ……」

「競技場に有色人種を入れるのは問題ないと既に確認済みだ。他のプールなどの施設は知らないがここはオリンピック・スタジアム。ああ、別にさっきのように報告しても構いませんぞ。ちょうどバ術の審査員には私の上司の遊佐大佐もいる。オリンピックの役員として顔が利くはずなんだが……」

 

 そう言って表情を変えて門番を睨みつける。

 そう、確かに変だと思っていたけど、オリンピックスタジアムに人種制限はないはず。ただ、アメリカ社会の一般的な風潮もあり、門番とかがきっと私たちのような人種の人間を入れないようにしているんだ。

 

「……わ、分かりました、分かりました。どうぞお通りください」

「うん、ありがとう。失礼したね。あなたも、良ければ私の部下のバ術を見に来ると良いよ」

「え?」

「ウラヌスと、彼を見るとね、きっと人種だとか何だとかを忘れて、見入ってしまうはずだよ」

 

 そう言って笑い、私たちに”どうぞこちらへ”と、オリンピックマークの門の下から手招きするイマムラ。私やおばちゃんは、ひとまずその通りにどこかぽかんとしながら歩いていった。”簡単に通れちゃった”と唖然としながら。

 

「あー、ありがとうね、今村さん」

「田畑さんはそもそもバ術が始まる前に入っておいてください。そりゃあ手続きしなければ入れませんよ」

「あー、うん。そうだね。次は気を付ける……って、ロスの次はないか。それじゃあ、また」

 

 と言って、自分だけ駆け足でスタジアムに入っていくタバタという変な男。あの男は手続き不足で入れなかっただけだったのかい。

 

 ひとまず、とウラヌスの走りを見るために、私たちはオリンピックの門をくぐる。

 平和の祭典、スポーツの祭典、オリンピック。今まで私たちは諦めて、締め出されて、この大会を見ることができないとずっと思い込んでいた。でもこの門をくぐった瞬間、そんなのは思い込みに過ぎなかったのだと、しっかりと実感した。

 

「……あなたがイノウエですか」

 

 そして門をくぐると、今度はウラヌスに似た格好良い日本の勝負服を着たウマ娘が一人、立っていた。あの娘は、ポログラウンドの端っこでトレーニングしていたウマ娘だ。

 

「ボクはソンネボーイ。同僚のウラヌスから、あなたがたを通すようにと再三お願いされたので、トレーナーと一緒に競技場を一寸抜け出して来ました。一緒に特等席で、ウラヌスたちを見ましょう」

 

 そう言って、”ウラヌスに説得されて大変だった”と言わんばかりに笑うソンネボーイというウマ娘。それに”まあ、私たちは失権だから良いけどね”と笑うトレーナーのイマムラ。

 

「はぁ……。本当なら慰められても良いくらいなのですが、その”失権”の直後にあなたに伝言を頼まれました」

「ウラヌスから? 」

「ええ、あなたに」

 

 そして、ソンネボーイは言った。

 

 

「遅れないで来なさい。ちゃんと見ているのよ、”私たち”が勝つところを……と」

 

 

 ……何だ、それ。

 

 伝言で伝えるほどでもないだろう。

 

 そう思いつつも、それを聞いて今まで流していた涙が引っ込んだように思えた。

 

 ”私たち”は、勝つ……か。

 

 ……ふっ。

 

 分っているよ、これでもちょっとは信じてるんだからな。ウラヌス。

 

 そう思いながら、私たちはオリンピックマークの下、大きな大きなスタジアムに堂々と入っていった。

 

 

・・・・・・

 

 

 ……。

 

 障害飛越前の一周走を終え、まずは第一障害を越える。

 

 競技開始の笛が鳴ってから、ゆっくりと、正確に障害を見据えて跳ぶ。障害を見ながらしっかりと、自然に跳ぶ。トレーナーたちとイタリアで学んだ自然バ術の鉄則だ。

 

 私とトレーナーは11番目。12人走る中では最後の2番目。12番目に走るウマ娘は強豪国スウェーデンのコルネットとハルベルグ大尉。高得点で完走しても不思議ではない。それでもここで一番になれば、最低でもメダルは保証されている。

 

 そして、できるだけ速く、けれど長くこのコースに残って完走したい。トレーナーと、話し合うためにも。バ術は走ると言ってもレースのように全力疾走はしない。トレーナーと話し合いながらも進められる競技だ。

 

「……っ! っねえ、トレーナーは、さ、どうしてオリンピックに出ようと思ったの?」

「なんだ、突然、競技中に」

「障害くらい、トレーナーの合図があれば簡単に跳べるわよ。……っ! ほら」

 

 そう言いながらすいっと第2障害を越える。

 優勝するにはショーガールの減点12よりも少ない減点で完走しなければならない。障害落下や4点減点。障害のポールを3つ落とした時点でアウト。一応油断は禁物だ。

 

「ねえ、話してよ。そうじゃないと私、不安なの。トレーナーのことを知らないまま、このままオリンピックを終えるなんて嫌だ」

 

 あくまで前を見て、競技の障害飛越に集中する。

 それでもトレーナーへの真っすぐとぶつけた言葉が通じたのか、トレーナーも駆けながらゆっくりと口を開いた。

 

「……私が昔から名家の生まれだったのは、会った時に話したかな」

「ええ」

 

 莫大な財産を持つ名家、華族は軍人になる者と言われ軍人になった暴れん坊、その中の唯一の光と見たバ術に価値を見出しトレーナーをしている。それがバロン・西。トレーナーは出会ったときにそう話してくれていた。

 

「華族としてだけの自分が嫌だった。昔から喧嘩ばかりして親を困らせたものだった。そしてそれだけじゃない。私には兄がいた。二人な」

「お兄さん? でも、そんな人は一度も見たことは……」

「死んだ、らしい。病に侵されてね。だから私は三男。にも関わらず西家の後を継ぐことになった」

「そうなんだ、知らなかった……」

「とは言っても、兄の顔も知らない。私が生まれる前か、小さいときだったから。でも、だからか私は多くの人からより”期待”を持たれるようになった。だから本当は、このオリンピックも、本当なら私のような若造が出る幕ではないのかもしれない」

「……だから、”お情けで選ばれた”って?」

「……そうだな。でも私はそれ以前に君のトレーナーだ。君を行くべき場所に導くのが仕事だ」

 

 あの映画館でどこか俯きながら言っていたトレーナーの言葉。

 トレーナーは私のためにどこまでもついてきてくれている。ヨーロッパ、日本、アメリカ。でも、トレーナーは……?

 

 第3障害の水濠通過。序盤は疲れも出ていないからまだ大丈夫。メキシコのウマ娘の中にはこの障害で詰まった娘もいる。噂通り、険しいコースだ。

 

「……変な話をしても良いか」

「トレーナーの話なら何でも、良いよ。聞かせてよ」

「毎日、夢を見るんだ。ウラヌスと……もう一人のウマ娘の夢」

「私と、もう一人?」

「そう、”アイルランド”、知らないか?」

「ううん、聞いたことない」

「そうだな、私もだ」

 

 そう言って笑うトレーナー。トレーナーは私と会う前からバ術家だし、私の他にもウマ娘のトレーニングを担当したことはあるだろう。だけど私と会ってからは、トレーナーはずっとつきっきりでトレーニングをしてくれていた。

 ましてやトレーナー含め”アイルランド”なんてウマ娘は、日本軍の他のウマ娘でも聞いたことはないはずだ。

 

 ……第4、第5障害。今のところは順調だ。10万人の観衆が見守る中、すいすいと駆けまわっていく。だけどそんな中でもこんな話をしながら跳んでいるのも、ある意味私たちらしいと言えるのだろうか。

 

「夢の中の私は、ウラヌスと、あともう一人の別のウマ娘の担当でね。もう一人のウマ娘とオリンピックに出ようとしていた」

「なるほど。それがアイルランド。ふーん、私以外のウマ娘とオリンピックに?」

「はは、浮気者だと罵るなよ? あくまで夢だ。……でも、アイルランドは脚を故障する。もう走れなくなって、バ術ウマ娘としていられなくなった。だから私は、君と一緒に走ることになった」

 

 トレーナーとしては分からないけど、ウマ娘として脚が使えなくなる苦しみは想像に難くない。ウマ娘の生きがいは、走り、跳ぶこと。ウマ娘の命。そしてトレーナーにとっての脚が担当ウマ娘なのだから、それは絶望と言っていいほどの悲しみだろう。

 

 しかし、最近の練習でやけに脚の怪我を気にしていたのもそれが理由か。

 

「そんな中で私は君に酷いことを言った。私はウラヌスのことを誰よりも信頼している。所詮夢だ。それは分かって……ウラヌス、危ないっ!」

 

 第6障害。幅5mの水濠障害。水濠を越えなければいけないはずが、左脚が水に浸かる。これでも障害を越えられなかったから減点4。あとワンミスしか許されない。……でも、不思議と何のプレッシャーも感じない。

 

「……っ! それで?」

「っ、ああ、でも、それがきっかけで偶に思うようになった。私は、本当に君のためになれているのか? そして、もう一つ……」

 

 第7障害。

 

「私はウラヌスとここまで来た。このオリンピックで勝つのも夢ではない。そのためにここまで来たのだから。……しかし私とウラヌスは、本当にこのままで幸せになれるだろうか。私はただの貴族から、ウラヌスはイタリアにいた一ウマ娘から抜け出せた。今や世界で戦うトレーナーとバ術ウマ娘。しかし、それで私たちは、日本の私の邸宅で約束したように一緒に良い道を歩んでいけるのか?」

「……何が、そんなに、不安なのよっ! 私とあなたは人バ一体! イタリアで、日本で、そしてこのアメリカで! そんな下らない心配は吹き飛ばしたんじゃなかったの!?」

 

 第8障害。

 さすがに息が切れてきた。確かに言われていた通り、この障害は今までの比ではないほどにきつい。ヨーロッパのウマ娘が毛嫌いするのも分かる。

 

「予感がするんだ。毎朝、夢から覚めて時計を握るたびに! 分からないが、このままでは私は君をとんでもないところまで連れて行ってしまう気がして……私はトレーナーとして君をここまで連れてきてしまった責任がある! そもそもこのオリンピックまでの道筋に、意味はあったのか……」

「……っ! はぁ、バカ。本当にバカね、トレーナーはっ!!」

「……え?」

 

 第9障害。

 ……本当にバカ。トレーナーはバカだ。私は、こうして一つ一つの障害を跳んでいる間にも出会ったときのことを思い出している。あのクライスラーの車を跳び越えたときの感動を。

 

「私はトレーナー、あんたについていった記憶なんて一度もない! 私は、トレーナーの隣でいつも走っていたつもりなの。私は、トレーナーと一緒に歩みたいからここまで来た。ヨーロッパを巡って! 日本で汗と涙を流して! そしてこのロスで、一緒に勝ちたいからここまで来た! それに……!!」

「ウラヌス、止まれっ……!」

 

 第10障害。エルアス、ベイブ・ウォーサム、ウルファ、そしてソンネボーイ……歴戦のウマ娘たちがここで膝をついた、ユーカリの木の障害だ。

 その障害は、欧州の障害を跳んできたバ術ウマ娘からしてみれば異様とも言える。私もトレーナーの掛け声で立ち止まった。

 

 ……拒止1。減点4。今ので合計8。ショーガールの減点は12。……もう二度とミスは許されない。

 

 でも、大丈夫だ。関係ない。

 

 トレーナーと話し合って、私は絶対に決めた。

 

 こんな障害、軽々と跳び越えて勝つんだ。一位に、なるんだ。

 

 世界で、一番の、ウマ娘に。

 

 だって、ねえ、トレーナーは今までの道筋に意味はあったのかって言ったけどさ。

 

「トレーナー、そんな塞いでないでさ、耳を澄ましてみなよ」

 

 聞こえるでしょう?

 

 

「——頑張れっ!! ウラヌスーー!!」

 

 

 今までの道筋に意味は求めない。そんなことを考えて進んできた覚えはないし、私たちらしくないから。でも一つ言えるのは、決して無駄ではなかった。今までも、これからも。

 

 だって、ほら。

 

 

「負けんじゃねえぞっ! 絶対に勝つって、約束したんだろうがあああぁぁ!!」

 

 アメリカで出会った、苦しみ諦めかけていたウマ娘。

 

「ウラヌスちゃん、頑張ってーーー!!」

 

 ロサンゼルスの港まで駆けつけてくれて、私とトレーナーのことを毎日応援してくれていた沢山の人たち。

 

「西君、負けるな! 私とソンネのぶんまでっ!」

 

 私を見つけ出して、トレーナーと出会わせてくれたイマムラ。

 

「ウラヌスっ、約束は、守ってくださいよー!」

 

 私といつも競い合い、勝利を託してくれたソンネボーイ。

 

「ウラヌス殿、調子よさそうですね」

「うん、ライバルとして応援するわ。頑張れー、ウラヌスー!」

 

 今まで世界中で真剣勝負をしてくれた、沢山のウマ娘たち。

 

「おい、ウマの嬢ちゃんと軍人さんよ、負けんじゃないぞー!」

 

 あと、あー……オリンピックのために激励してくれた沢山の人たち。

 

 きっとオリンピックの大切なことを伝えてくれたイヌカイのお爺さんや、競馬場で会ったレースで走るウマ娘だって。

 

 こんなにも私とトレーナーのことを応援してくれている。きっと、今世界で一番の声援を、私は受け止めて走っている。10万人の観客、仲間たち、それ以上に多くの人たちからの声援を。

 

 これからのことは分からない。トレーナーの言うように、これから取り返しのつかないようなことが起きるのかもしれない。

 

 でも、トレーナーの隣で走って跳んで、こんなに幸せな私が、そしてトレーナーが、道を誤ってきた? 何か間違えていた? ……そんなことは、絶対にない。

 

 だから、これからも突き進むんだ。トレーナーと一緒に。

 

「私はどんなことがあっても、絶対に負けない。私は幸せだよ。例え向かう先が地獄だったとしても、私はトレーナーと一生走り続ける」

 

 私は立ち止まった第10障害に向き直り、一気に駆けだす。

 

 ”そう思うなら実際に跳んでみるといい。このクライスラーを跳び越えて見なさい”

 

 だって、ねえ、知っているよね、トレーナー。

 

 ウマ娘は、走り、跳ぶのが生きがい。最後まで障害を跳び越えて、一歩一歩大地を踏みしめて、完走するのがウマ娘。

 

 ”君なら跳び越えられる”

 

 その言葉で私は、初めて走り出せたの。スタートダッシュを切れて、最初の生涯を跳び越えられたの。

 

「だってトレーナー。私と、トレーナーはさ」

 

 だから今更止まれない。止まらない。

 

 もしこれからも、私とトレーナーの前に障害が立ちはだかったとしても……

 

「宇宙の遥か先の——」

 

「う、ウラヌスっ!?」

 

 

 高く高く、跳び越えてやるっ!!

 

 

 

「惑星(Uranus)までも跳んでいけるコンビなんだから!!」

 

 

 

 私は腰を捻りながら、強く地面を蹴って跳んだ。

 

 ああ、高い! あのクライスラーのときの比じゃない。

 

 まるでこのまま、地球の外側へも行けそうなジャンプ。

 

「行くよ、トレーナー!」

「あ、ああ!」

 

 そして地面に着地し、再び走り出した。

 

 第11障害。

 

 ここまで来れば、私とトレーナーはもう負けない。

 

「ねえトレーナー、勝つよ、一緒に!!」

「……ああ、すまなかった、ウラヌス。

「謝罪なら後で聞くわ」

「ああ、行こう。行くぞ、ウラヌス!」

 

 これは報いるためなんだ。

 

 第12障害。

 

 私とトレーナーの旅路は、私たちだけで作り上げてきたものではない。沢山のライバルたち、沢山の応援。過去じゃなくて、”今”、そして”未来”のために。

 

 第13障害。

 

 この勝利は、私だけじゃない、私と、トレーナーと——

 

 最後の、第14障害。

 

 私は上を向き、人差し指を高々と上げた。

 

 見よ、世界よ。

 

 これが私と、トレーナー。私がバ術の、世界一の……

 

 

 ……最後の、第14障害っ!

 

 

 

「私たちの、勝ちだっ(We Won)!!!」

 

 

 

 世界最強の、ウマ娘とトレーナーだ!!

 

 

 

『……11番、ウラヌス、トレーナー・タケイチ・ニシ! 減点8!! 暫定一位!!』

 



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#9 Ob-La-Di, Ob-La-Da

大賞典障害飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)を走り抜け、見事勝利を収めたトレーナー・西とウラヌス。二人は金メダルを胸に下げ、沢山の仲間たちに囲まれてオリンピックを終えて帰国するも、名残惜しさからか西はウラヌスを連れてロサンゼルスへと戻る。そこには、変わらない沢山の人々の笑顔があった。
西とウラヌスのロサンゼルスでの勝利を目指した旅はここでフィナーレを迎え、新たな歴史へと進んでいく……。
(今回は長めです。)

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


「私たちの、勝ちだっ(We Won)!!!」

 

 

『……11番、ウラヌス、トレーナー・タケイチ・ニシ! 減点8!! 暫定一位!!』

 

 

 1932年8月14日の快晴の下、オリンピックが始まって以来一番の喝采がロサンゼルスの街を包み込んだ。

 

 私とトレーナーは元々バ術界隈では出てきたばかりの新人で若造。しかもバ術優勝経験がない日本のコンビ。誰も私たちがこの競技で最高点をたたき出すとは思っていなかっただろう。

 

 それからはあと一組、スウェーデンのコルネットとエルンスト・ハルベルグ大尉だったが、障害の落下や拒止、タイムオーバーなどが重なり50点を超える減点になりながらも完走。会場は温かな拍手に満たされた。

 

 そうして1932年ロサンゼルスオリンピック、大賞典障害飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)の全出場者の結果が出た。

 

 第三位、銅メダルはスウェーデンのローゼン・ジュニアとエンパイア。

 第二位、銀メダルはアメリカのチェンバリンとショーガール。

 そして第一位、金メダル。西竹一、そして私、ウラヌス。

 

 勝敗は決したのだ。

 

 

 私たちは、勝った(We Won)。

 

 

 私はトレーナーと一緒に、目標だったロサンゼルスの舞台を走り切ることができた。正直、もしかしたらあの瞬間は、それだけで満足だったかもしれない。

 トレーナーと走りで語り合い、一緒に障害を跳び越えた。もう誰も追いつけない。誰にも負けない。二人なら。暫定一位、金メダル……結果を聞くよりも前、最後の障害を跳び越えた時から、それは分かっていたんだ。

 

 それから会場10万人の万来の拍手の下で授賞式が催された。私とトレーナーには金色に輝くメダルが首にかけられた。トレーナーはその後すぐに審査台にいた恩師のユサ大佐に駆け寄って固い握手を交わしていた。日本軍人としてのプレッシャーもあっただろうけど、トレーナーは走り切ることができたおかげか清々とした顔をしていた。

 

 しばらくするとスタジアムの観衆と共に巨大なメインポールに大きな日の丸、日章旗が高々と掲げられた。それと同時に観衆全員が起立する中、500人以上の一流の奏者らによる君が代が演奏され、その音はロサンゼルスの街中に響き渡った。

 

 それは、世界で初めて日本の軍人とウマ娘がオリンピックの金メダルを獲得した瞬間。

 

 ——トレーナーと私が、世界で”最強のふたり”になれた瞬間だった。

 

 それからは競技の疲れもあってぼんやりとしか覚えていない。

 だけど……

 

「おめでとう、ウラヌス!」

「わ! あ、イノウエ……?」

「本当だな。本当に、本当に勝ったな! 日本のトレーナーと、ウマ娘でも。西と、ウラヌスでも!!」

「……うん、言ったじゃない。絶対に勝って」

 

 目に涙を浮かべて、大急ぎで駆け寄ってきたイノウエ。

 

「ウラヌス」

「ソンネボーイ……約束通り勝ったよ、あなたの分も最後まで走り切ることができた」

「……調子に乗らないでくださいね。お互いに、です。今回のロス大会ではドイツやフランスはもちろん、ボクらが苦戦してきたイタリアのチームも出ていなかったんですから」

「ええ、そうね」

「……でも……」

「?」

「……その、ありがと、ウラヌス」

「……! ……うん」

 

 少しツンツンとしつつも、眼に涙を浮かべてお礼を言う可愛いソンネボーイだったり。

 

「ウラヌス殿、おめでとうございます」

「凄い飛越だったわ! congratulation!!」

「わわわっ!! あ、ありがとう!」

 

 銅のメダルを下げたエンパイアと、銀のメダルを下げたショーガールが自分のことのように喜びながら抱きついてくれて、他のウマ娘も皆祝福してくれたり。

 

 そして何よりも……

 

「ありがとう、ウラヌス」

 

 無駄な言葉はいらないとばかりに優しい笑みを浮かべて、私の頭を撫でてくれたトレーナー。

 

 そんなかけがえのない光景は、もう二度と忘れることはできないと思う。

 

”皆が一緒になって手をつなぎ、お互いの功績を称え合う。そうして海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる”

 

 いつだったか、もうこの世にいないイヌカイのお爺さんが言っていた言葉。

 そう、これがオリンピックだ。国も人種も、信条も宗教も、政治も過去でもない。お互いに力を出し合って真剣勝負をして、称え合い、輪になる。

 

『これにて、1932年オリンピックロサンゼルス大会の、全日程を終了いたします』

 

 歌う声が聞こえる。笑う声が聞こえる。称える声が聞こえる。

 私たちの”オリンピック”は、そんな最高の景色の中で幕を閉じた。

 

 

・・・・・・

 

 

 オリンピックが終わった後は、私たちはロサンゼルスから撤収して国に還らなければならない。もう数か月滞在したロサンゼルス。すっかり我が家の気分のホテルや練習場。

 勝利の後はまるで一瞬かのように去らなければいけないと思うと、寂しさが募る。

 

 最後に皆で汗を共にしたリビエラカントリークラブのポログラウンドに集まって写真を撮り、ソンネボーイと一緒に一人一人抱き合って再開を約束した。

 

「エンパイアは、これからどうするの?」

「わたくしはオリンピックではもう十分に走ったつもりです。これからはトレーナー殿と一緒に祖国でバ術振興に務めようと思っています。トレーナー殿は、一緒に空の旅をしようと」

「空の旅?」

「トレーナー殿はパイロットなんです。偶に危なっかしい飛行をするので、わたくしがしっかり見てやらないと」

 

 エンパイアのトレーナー……フォン・ローゼン・ジュニア伯爵は父親がIOCメンバーの高貴な家系。エンパイアもそれに見合ったお堅いウマ娘かと思っていたが、トレーナーのことを話している柔らかい笑顔は、他のウマ娘たちと変わらなかった。

 

「ショーガールは?」

「トレーナーも正直ベテランだし、私と一緒にオリンピックはもう引退ねー。前の前のアントワープから出続けたからもう良いみたい。私は初めてだったけど、このメダルを取れた今はもう悔いはないわ! トレーナーは陸軍に戻るし、私は地元でバ術を続けようかな」

 

 そう言って少しだけ寂しそうにメダルを撫でるショーガール。

 

「二人ともいなくなるんだ。もしまたオリンピックに出るのなら、会えるかもしれないと思ったのに」

「何を言ってるんですかウラヌス殿。オリンピックがなくとも、私たちは繋がっている。いつかスウェーデンに遊びに来てくれると言っていたでしょう?」

「そうよ! アメリカとニッポンはお隣のトモダチ! あなたのトレーナーも、きっとまたアメリカに来てくれるわよ!」

「そうそう、わたくしはもう出ませんが、わたくしの仲間たちはまだまだ現役ですよ」

 

 そのエンパイアの言葉で”次は負けないぞ”と意気込み握手を交わす、ウルファとコルネットのスウェーデン組。ウルファは第10障害の拒止で惜しくも失権になってしまったウマ娘。コルネットは、私の次の最後に跳び、タイムオーバーの50点減点ながら走り切った侮れない相手だ。もしかしたら4年後、彼女らと再び勝負をすることがあるかもしれない。

 

 オリンピックが終わり、地元に帰って活躍しようとする者、引退する者、次のオリンピックに進む者、様々だ。

 

「ウラヌス殿はどうするのですか?」

「私は……分からない。トレーナーとも話していないから。でも、私はこれからももっとトレーナーと一緒に走って跳びたい。これからも、先に進んでいきたい……と、思う」

「うむ、ウラヌス殿は”世界最強”のウマ娘ですからね」

「ええ、またウラヌスと会えるの、楽しみにしているわね!」

 

 私はどうしようか……まだ分からない。

 でも、それでもトレーナーとはずっと一緒にいたい。これからも走っていたい。その気持ちは、固く、変わらないと確信している。

 

「これからも走る……ですか」

 

 オリンピックのライバルたちと別れた後、私とソンネボーイは並んで歩いた。ソンネボーイとは同じ日本選手団のウマ娘なのに、別々でトレーニングしていてまともに話すことも多くなかったから、これから沢山話したいと思っていたから。

 

「うん。たしかに金メダルを獲ってロスでは勝ったけど、前にソンネボーイが言っていた通り、まだまだ本場のヨーロッパのウマ娘たちと戦っていないから。本当の”世界最強”になりたいと、思うようになってきたの」

「流石は、オリンピック優勝ウマ娘ですね」

「あら、あなたもヨランダ王女杯を勝った、欧州大会優勝ウマ娘じゃない」

 

 そう軽口を言い合い、笑いあう。随分とソンネボーイも力が抜けて、お互いによく話し合えるようになってきた。

 

「あなたはこれからどうするの?」

「ボクはオリンピックが終わった後にすぐトレーナーと決めました。”先”を目指します」

「先? 先ってことは……1936年ね」

「いいえ。そのもっと先ですよ。今回で自分の力不足も実感しましたから、しっかり準備して必ず勝ちたい。だから、次の、その次を目指します」

「ということは……1940年!? 8年後って……凄いわね」

「ボクらもまだまだ若手ですから、8年後なんてあっという間ですよ。その時まで力が衰える予感もありません」

 

 全力疾走で走るレースのウマ娘たちとは違い、バ術のウマ娘たちは

 

「それにそうだ。1940年って……」

「ええ。噂に聞いた話ですが、どうやら……」

 

 ウラヌスは、ポログラウンドのポールから日章旗が下ろされるのを眺めながら言った。

 

「日本。東京になるみたいですよ」

 

「……え? 日本!? 日本でオリンピック!?」

「ええ。一昨年あたりから議会の方で話が上がり、既に”東京オリンピック”、更に冬季には”札幌オリンピック”をIOCに提案することが決議されたみたいですよ」

「東京に、札幌。凄いわねえ。アジアで、日本でオリンピックかあ」

「はい。何でも今の東京市長と……そして最近亡くなられた犬養首相の悲願だったとか」

「イヌカイ……」

 

”海を越えた世界中の選手たちが輪になって笑いあえば、こんな暗い世の中も、少しは明るくなる。私はそれで良い”

 

 イヌカイのお爺さんが言っていた、オリンピック。

 今の日本は世界恐慌、財閥の台頭と格差の拡大、政府不安、満州事変や上海事変……アメリカの新聞をたまに読んでも、日本の良い話を聞くことはあまりなかった。

 けれども、私が選手村で交流した沢山の国の選手たち。競技場で沢山の声援を送ってくれた多くの人々。そこには争いも政治不安もない。理想の世界。自分の脚が頼りの、正々堂々とした、最後まで潔い真剣勝負。もしそれが日本でも実現したら、少しは日本も変わるかもしれない。

 

「分かった。それじゃあ、それまで私ももっと強くなるから。必ず、またあなたに勝つから」

「ええ、待っていてください。必ず、あなたに勝って、私が金メダルをもらいますから」

 

 私とソンネボーイは固い握手を交わし、その後ろで各国の国旗が下げられる。

 

 ロサンゼルスオリンピックは、こうして幕を閉じた。

 

 それからはあっという間。優勝から8日後には日本へ帰る船に乗らなければいけない。私とソンネボーイは選手村を後にして、ロサンゼルスから東京に戻るための準備をし始めた。

 

 その準備の間にも私とトレーナーは”オリンピックの華”の金メダリストとしてアメリカ中のパーティーや富豪からひっぱりだこで、ゆっくりする暇もなく嵐のような体験をいくつもした。

 帰るまでは毎晩毎晩お酒を浴びるようなパーティーの日々が続き、他にも……

 

「ね、ねえ、トレーナー……」

「うん?」

「ほ、ほん、もの……?」

「ああ、前に映画館で言っただろう。友人だって」

「初めましてウラヌス! 君とニシの走り、本当に感動したよ。紹介が遅れたね。私はダグラス・フェアバンクス。ニシの親友さ」

 

 ハリウッドの超超大スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻、いわゆる”ピックフェア”とお茶をした。

 絶対トレーナーの冗談か何かと思ったけど、後から話を聞くとトレーナーが私に会うために乗った欧州行きの船上で出会ったらしく、トレーナーとは本当に親しい友人といった具合でずっと喋っていた。もちろん、私はがちがちに緊張していた。

 しかもその後あのチャールズ・チャップリンとも友達だといって会っていたから驚きだ。正直その間は緊張して”はい”とか”そうですね”くらいしか喋れなかった。

 

 あとは……

 

 ロサンゼルス東郊、アーケーディア。

 

「ここが、これから建設されるレース場ですか」

「ええ、金メダリストであるバロン・ニシとウラヌスさんに是非、起工式に立ち会ってもらいたいと思いまして」

 

 ロサンゼルス郊外に新たに建設されるウマ娘のレース場……”サンタアニアパークレース場”というらしいが、そこの起工式に呼ばれた。これから立派なものが建つであろうこのレース場のオーナーも、にこにことしながら私たちと話している。

 私もトレーナーもレースについてはあまり詳しくないけど、同じウマ娘が関わる競技ということで、レース界隈からもパーティーやら式やらで引っ張りだこになっていた。

 

「アメリカのレース場では、日本人のウマ娘が走ったりしているの?」

「まだ見かけませんね。しかし、いつかアメリカと日本が同じレース場で走れることを祈っていますよ。」

「うむ、その舞台がこのレース場になるのなら、私もウラヌスも嬉しいよ」

「ええ、そうね」

 

 イノウエが言っていたように、アジア人と白人が一緒にスポーツをする機会と言うのは、オリンピック以外ではほとんどないと聞く。その架け橋となるのなら、このレース場に来た甲斐もあっただろう。

 

「しかし、私たちにとっては羨ましいというか、あなた方には眩しいものがあるのですよ。特にバロン西、あなたには」

「私か?」

「ええ。私たちアメリカ人には爵位というものが元からありませんから。あなたのような美しい貴族には憧れるのですよ」

「はは、それなら私もそれに見合うような行いを心掛けるとしますかな。ノブレス・オブリージュです」

 

 いつも美女を探して酒を飲んで歩いているような男が何を……という言葉は飲み込む。

 

「しかし、我々ウマ娘のレースに関わる者もバ術に負けていられませんな。いつかここはあなたのようなバロン(男爵)を超える……そうですな。いつか、”皇帝”が走るようなレース場にしてみせましょう」

「”皇帝”ですか……そんなウマ娘がいたら、是非見てみたいですな」

 

 そんな話をしつつ、私たちは起工式に立ち会って写真を撮った。

 

 ……そうして、私とトレーナーはアメリカ中を駆け巡った。沢山の有名人にも会ったし、今まで体験したことのないような豪勢なパーティーにいくつも出て、サインや写真をこれでもかと求められた。アメリカ人でもないのに、まるで国の英雄。

 

 それからは慌ただしすぎて覚えていない。

 港から船が出る日になった時……

 

「なあ、絶対にあんたの……ウラヌスのこと、忘れないから」

 

 そう言って抱きしめてくれたイノウエの顔は覚えている。

 

 ああ、でも……

 

「西君、実はとても言いづらいことがあってね」

「どうしたんですか、今村さん」

「いや実はね。オリンピック後に皆で酒を買って盛大にパーティーしただろう? 実は有り金を全てそこにつぎ込んでしまってね。そのー……実は帰るカネがない」

「……は?」

 

 イマムラがオリンピック後の連日のパーティーで酒を買い込んで飲みすぎて、私たちの帰国費用がすっからかんになっていたっけ。

 とりあえず選手団代表の大島中将に泣きついて軽く叱られた後にお金をもらって何とか帰りの船を確保することができた。

 

 そんな珍事があったものの、私たちのオリンピック、ロサンゼルスの旅はひとまず終わりを迎える……はずだった。

 

 

・・・・・・

 

 

 一か月後。

 

「……で、なんであんたたちがまだここにいるんだよ」

 

 ロサンゼルス、リビエラカントリークラブのポログラウンド。

 イノウエとトレーナー、そして私が並んで話していた。

 

 少し前にに涙を流しながら感動の別れを演じてしまったせいか、イノウエはバツが悪そうな顔をしている。

 

 なぜ私たちが一ヶ月経ってもロサンゼルスにいるのかというと、あれはロサンゼルスから出て、9月8日に日本に到着してから間もない時の話だった。

 横浜港一面は日の丸の旗を持った人々で埋め尽くされていて、その波は東京駅までずっと続いていたという。とにかくも大歓声の波で私たちはロサンゼルスの民衆以上の大歓迎を受けた。大日章旗を持ったトレーナーと私を先頭にバ術の選手団は二重橋まで練り歩いた。

 それからは豪華な車に乗って明治神宮まで参拝しに行き、午後には文部大臣主催の大歓迎会があって、その後更には日比谷音楽堂で東京市主催の大歓迎会と続いた。

 そこに来て、ただ必死に走り跳んで勝利をつかみ取った私たちが日本に与えた影響を思い知った。これほどに沢山の人々が見ていて喜んでくれていたのだと、少し嬉しくなったものだった。

 私は一度陸軍寮に戻ったときも大騒ぎだったけど、トレーナーも家に帰るとそれはそれは大勢の人が行列を作って大騒ぎだったらしく、三日三晩パーティーだったらしい。

 これだけの大歓迎を受けて、私たちのオリンピックは歓声の内に終わる。次へ向かう準備をしなければ。……と思っていたのだけど、日本に帰って一ヶ月くらい経った時だった。

 

”よしウラヌス、ロスへ戻るぞ”

 

 そう言って私とトレーナーは二人だけでロサンゼルスにとんぼ返りして、再びロサンゼルス中を周って、またリビエラカントリークラブのポログラウンドを訪れた。そうしたらイノウエがいたわけだ。

 

「イノウエ君か。君とちゃんと話したことはあまりなかったかな」

「うん。同じ日本にゆかりがある者として、あんたの走りには本当に見惚れてしまった」

「はは、君の頑張りもウラヌスからよく聞いているよ。今まで、よく頑張ったね」

「う、うん。ありがと……」

 

 それにしても何よ、二人ともそんなに仲良くしちゃってさ。

 

「あれ、ウラヌスなんか怒っているか?」

「別に」

「ほら、バロン西、あんたの愛バが妬いてるぞ」

「そうなのかウラヌス。まあ日本に行ってから少し離れていたからな」

「なっ……! ったく、別に何も思っていないわよバカ!」

 

 確かに少し寂しいと思わなくも……

 ……じゃなくて。

 

「そういえばイノウエ、あなた、ここで練習できるようになったんだ」

「あー、うん。前までは追い払われていたけど、あんたたちのお陰だよ。ここは元々ゴルフ場だから戻るまでの間だけど、俺みたいな日系のウマ娘でも自由に走って良いって言われたんだ。ほら、あのスタジアムの門番、覚えているか?」

「ああ、私たちの競技の前にあなたたちが揉めていたという」

「そう。あの門番があんたたちの競技を見てえらく感動したらしくてね、あれから俺のことをよく応援してくれているんだ」

 

 そういえば前にロサンゼルスを離れた時、イノウエの他にも眼に涙を浮かべて熱く握手してくれたガタイの良い男がいた。

 ”俺が間違っていました! 間違っていたよ。だって、あんたたちの走り、最高でしたよ。本当に最高だった!”

 そう言って、泣きながら何度も何度も”ありがとう”と言ってくれた人。

 

「それでな、最近はここで練習をさせてくれているんだよ。聞いてくれよ、最近は140cmの障害を超えられるようになったぜ」

「おお、そうか。それなら私とウラヌスがあのスタジアムで跳んだような160cmの障害までもう少しじゃないか!」

「ああ! あんたらのこと、すぐに追い越してやるぜ」

 

 そうか。

 繋がっていく。

 私とトレーナーが跳んだあの夢の舞台は、多くの人たちにとっての障害を跳ぶための有機になっていたんだ。国や人種、差別といった障害。夢への勇気を出すための障害。

 私たちの飛越が、沢山の人々を結んでいく。

 

「だから、改めて、ありがとな。二人とも」

「私たちは何もしていない。ここまでの一歩を踏み出したのは、君の力だ」

「……ああ。しかし、また会えてよかったよ。さっきも聞いたが、何で戻ってきたんだ?」

「たしかに、私もついていって今更だけど本当になんでロスに戻ってきたの?」

「あぁ。そうだなぁ……まあ色々あるが、一つはイノウエ、君だよ」

「あ、え……俺?」

 

 イノウエの、ため?

 それは初耳だ。

 

「君は一人のウマ娘として、バ術の舞台に立ちたいのだろう? だから、私が君をスカウトしに来た」

「……え?」

「さっきの話を聞くに、君には才能があるみたいだし、バ術への情熱は本物だ。今回のオリンピックの成功で、日本陸軍も新たに優秀な飛越ウマ娘を求めるはずだ。だから、どうだ? 一緒に日本陸軍に来ないか?」

「ほ、本気か?」

「ああ、もちろん」

 

 そうか、トレーナーはまた新しいウマ娘をスカウトしに来たのか。

 たしかにイノウエは差別を受けてもなお負けないバ術への情熱がある。話を聞く限り成長のスピードも速く実力も確かなはずだ。

 でも、トレーナーの担当ウマ娘に? 私と一緒に、イノウエが?

 それって……

 

「……話は嬉しいけど、やめておくよ」

 

 ……え?

 

「そんな、すぐに断って、良いの? だって、私たちのところに来れば……」

「良いんだよ。だって、ウラヌスが少し寂しそうな顔してたしな。”私のトレーナーがイノウエに取られるー”って」

「……っな!! そんな顔なんて……っ」

「はは、ほんっとトレーナーのことになると弱いよなあ、あんた」

 

 別に寂しいなんか……ま、まあ、急な話だとは思ったけど……。

 

「それにな、俺は決めたんだよ。俺は日系だけどアメリカ人だ。こんな国だけど、アメリカに生まれた誇りがないわけではない。それに、俺はあんたらと一緒になりたくて今頑張っているんじゃない。あんたらのような”世界最強”のウマ娘とトレーナーを更に超えるような、そんなウマ娘になりたいから今頑張っているんだ」

「……そうか。決意は固いようだし、それなら、君のアメリカでの成長を楽しみにするとしよう」

「いいの、トレーナー」

「ああ。まあ、別に思い付きで言っただけで熱心に新しい担当ウマ娘を探しているわけではないしなあ。私にはウラヌスがもういるから」

「そうだぞ、バロン西。ウラヌスをあまり悲しませちゃダメだ」

「はあ、もうつっこむのも疲れたわ」

 

 トレーナーが私がいるからと言ってくれたのが少し嬉しかったのは、内緒だけど。

 

「俺さ、いつかアメリカ陸軍に入ろうと思うんだ。そしてオリンピックに出て、あんたらと競ってみたい。そして勝つ。すぐには無理かもしれないけど、それが今の、俺の目標だ」

「そう。それなら時期的に考えると……次に会えるのは東京かもしれないわね」

「東京!? 東京でオリンピックをやるのか!?」

「ええ。聞いた話だけど、1940年のオリンピックは東京でやるらしいわ」

「そうか……東京か……」

 

 イノウエはどこか夢を見るような表情で空を見上げる。きっと日本へ行ったこともないだろう。その輝く瞳は、イタリアでトレーナーと出会った頃の私を思い出させるものだった。

 

「でも1940年かー……その時には、日本に行けるようになっていれば良いな」

 

 アジア系アメリカ人の海外渡航は簡単なことではない。それに、それだけではない。

 私たちのオリンピックの活躍もあるとはいえ、最近は中国情勢もあってアメリカと日本は対立気味にある。これから戦争になるんじゃないかという声さえもあった。1940年といえば8年後。その頃に気軽にお互いの国を行き来できるのか、それをイノウエは心配に思っているんだろう。

 

「きっと大丈夫さ。私たちもその時を楽しみに待っているから」

「ああ、そうだな。今から考えても仕方がないもんな」

 

 そうしてにっと笑い、イノウエは”見ていてくれ”と言って、140cmの障害を軽々と跳び越えた。

 

「当たって砕けろ!(Go for broke !)ってやつだよなぁ!!」

 

 イノウエの飛越は、あのオリンピックスタジアムでの私たちの飛越に負けないほどに、力強く、美しいものだった。

 

 

・・・・・・

 

 

「当たり前だが、オリンピックの時と比べると随分静かになったなあ」

「そうねえ」

 

 イノウエが”あんたらが帰ってきたこと、折角だから皆に伝えてくる”と言っていったんポログラウンドを出ていったから、私とトレーナーは芝の上に座って休んでいた。

 ポログラウンドはオリンピックの練習場の役目を終えて、今はイノウエが持ち込んだ簡易的な障害だけが置かれている。

 アメリカ、メキシコ、スウェーデン。他にも沢山の国の選手が覗きに来たり、そんな華々しい舞台があったのが遥か昔化のように、静かな空間が広がっている。

 

「……ねえトレーナー、本当は、なんでロサンゼルスに戻ってきたの?」

「ん?」

「いや、だって、本当にイノウエのために戻ってきたわけではないでしょう? そんな熱心に勧誘していたわけではなかったし」

「私が、ウラヌスさえいてくれれば良いって言ったのは本当だぞ?」

「だから、心配していないったら」

 

 トレーナーとロサンゼルスに来てからは、招待されるがままに色んな所に行ったり、ロスで遊んだりするくらいだった。

 

「……隠し事はなしって約束したもんな。でも本当に、私自身も分からない。ロスは良いところだ。知り合った人も皆温かいし。でも、そうだな。ただ」

「ただ?」

「前に進むのが惜しくてなあ。だってこんなにも綺麗じゃないか。ロサンゼルスの、オリンピックの景色が」

「あら、オリンピック前にあんなに後ろ向きになっていた人がそんなことを言うなんて」

「……よせよ。でもまあ、満足だよ。ウラヌスと一緒にここまで来れて」

「……そうね。私も」

 

 ロサンゼルスのポログラウンド……私がイタリアを出た時に目指していた景色。実際にそこにて、しかもトレーナーの隣で。それが、どんなに幸せなことなんだろうと、ゆっくりと息を吐いてしまう。

 

 ……でもトレーナー、トレーナーか……。

 

「はあ、でもさ。私もね、さっきのイノウエに乗るわけじゃないけど、気になることがなかったわけではないなーって」

「なんだ、その曖昧な言葉は」

「いやね、大したことじゃないんだけどさあ……」

 

 今まで一緒にロサンゼルスを巡っていて……いやそれより前、一緒にヨーロッパ中を周っているときから思っていたことがある。

 

「トレーナーってさ、モテるよね、しかもかなり」

「……どうした、急に」

「いや、ただそうだなーって思ってさ」

 

 トレーナーと一緒に色んな国を巡っている間に気づいたことがある。

 例えば、トレーナーと一緒にイタリアの競技会に出た後の時。

 

”あのお方よ! 日本のバローネ(男爵)! 背が高くて素敵ねえ”

”それに見て。エルメスのブーツにぴしっとした軍服……あんなにも似合うのは、イタリアの貴族でもそうそういないわあ……”

 

 そんな黄色い声、ローマやミラノを歩いているだけでも100回は聞いた。

 

 ロスに来た時も……。

 

”あの人が噂のバロン西かしら?”

”ごきげんよう、あの、よろしければ、一緒に踊ってくれませんか?”

 

 そんな風に声をかけられては丁寧に対応するトレーナー。そして。

 

”あなた方のような美しい女性とのダンスは、最後までとっておきたいのです”

 

 とか言ってキャーキャー言われていた。確かにトレーナーは顔は良いし外から見たら魅力的に見えるのだろう。私からしてみればトレーナーは厳しくトレーニングに打ち込んでいるときの方がぽいし、普段のキザ男はなんとなく胡散臭いように思える。

 

 ただ、それは私だけみたいだけで、本当にまあモテるモテる。

 それはそうだ。異国から来た良い顔をした高身長の軍人。しかも貴族。華々しいバ術のトレーナーときた。

 

 だから、気になることがある。

 

”トレーナーとのこと、少しは頑張れよ、ウラヌス”

 

 さっきイノウエが皆を呼びに行く前に私にそう謎に囁いていったのもあって、その疑問は加速していった。

 

「トレーナーってさ」

「ああ」

「好きな人っているの?」

「……は?」

 

 ……別にトレーナーのことはそういう意味で今好きだとかそういう意味じゃない。

 ただ、あれだけモテるトレーナーが心に決めた人がいないのか、それが気になった。思えば今までトレーナーとオリンピックやバ術の話は沢山してきたけど、もっと内内の話をしたことってなかった気がする。オリンピックが終わって一緒に世界最強になった相棒。

 ……そんな相棒のことで知らないことがあるのは、何だか嫌だった。

 

「好きな、人か。そうだな……好ましいと思っている相手ならいるぞ」

「えっ!?」

「うん?」

「……い、いいえ」

 

 ……そう言われれば、気になってしまう。当然だ。

 もしかしてその人って……。

 

「ほら、この人だ」

 

 胸ポケットから一枚の写真を取り出す。その中身は……

 

「……え、誰?」

 

 列車で軍刀を持って席にもたれて格好をつけているトレーナー……は分かる。そしてその席に寄り添うように座っているのは、モデルさんと間違えるほどに美人で、微笑みを浮かべる女の人。そしてその両腕の中では、上等な服と帽子を着けた男の子と女の子が、ぎこちなさそうにしつつも笑っていた。

 

「あの……この人たちは?」

「妻と……娘と息子だ。可愛いだろう?」

「……は?」

 

 妻と……む、娘と息子? え、子供っていうこと?

 いや、まあ、たしかにトレーナーはう三十代後半だし結婚していてもおかしくない歳だけど、うー、え?

 うん、とりあえず……

 

「聞いてないわよ!!?? あんたが結婚して子供までいるなんて!!」

「ああ、言っていなかったか? おかしいな、前家に来たときは皆外に出ていた時だったか……?」

「け、結婚!? いつから?」

「結婚は15年前くらいだったかな。子供もその後間もなくだね。川村伯爵の家のご令嬢でね。彼女も私に負けないくらいのお転婆で……」

「いやいや、上手く頭に入ってこないわよ今言われても! 」

 

 ……私と会うよりも全然前じゃない!

 

 前にトレーナーの家に行ったときは家全体がパーティー会場で落ち着かなかったから分からなかったのかな。でもその後もトレーナーとはトレーニングが終わった後によく街に繰り出して飲み歩いたし、私と別れた後も他の軍人と一緒に三次会、四次会としこたま街で遊んだ後は家で朝までパーティーだったと聞く。とても一家の大黒柱とは思えない行動だったけど……。

 まあ、それが”西 竹一”……か。

 結婚する前からきっとこんなのだったのだろう。結婚しても奥さんとかくれんぼでもして遊んでいそうなくらいのやんちゃな男だ。……結婚のことも本当に私に隠していたわけではないのだろう。そんな素直な人だからきっと私も……

 

「そう、か……ふふ、結婚ね……」

 

そう考えていくと、何とは言わないけど、さっきまで変な想像をしていた自分が少しおバカに思えてきて、笑えて来る。

 

「……ふふ、はははははは!!」

「お、おい、どうした、ウラヌス、何で泣きながら笑っているんだ?」

「放っといてよ。ふふふ……もう、ほんっとうに、良い日ね、今日は!」

「ウ、ウラヌス……?」

 

 そう。でもきっとこれで良かったんだ。

 私とトレーナーは唯一無二の相棒。世界一のウマ娘とトレーナー。

 トレーナーのことをもっと知れて、絆がもっと深まった気がして……なんかちょっとだけムカつくけど、何となく嬉しい気がした。

 

 

・・・・・・

 

 

「……へぇ、あんたに奥さんと子供がね。」

「皆驚くが、そんなに意外なのか……?」

「意外というか……あんた正気かって感じだよ」

「正気かって。この品行方正な私が?」

 

 皆その品行を疑ってんのよ。

 毎日毎日ナンパしたりされたりして異常な金の使い方をして、酒を浴びるように飲んで過ごしている一家の大黒柱なんて聞いたこともない。

 

「全く、オリンピックを走り切った時の感動を返してほしいよー。なー、ウラヌス」

「でも大丈夫よ、ウラヌスちゃんにも良い子は見つかるわ」

「うむ、ウラヌス殿は高貴なウマ娘だ。心配いらないさ」

「ええ、ファイトファイト!」

 

 

 はあ、何度も言ったけど、トレーナーのことはそんな眼で見ていなかった……と思うし、別に気にしていない……

 

 ……って。

 

「何も言わなかったけど、いつの間にこんなに沢山呼んだの!?」

 

 さっきまで三人だけだったポログラウンドには、オリンピックで知り合った人たちがずらり。ロサンゼルスの先々でお世話になった人はもちろん、ロスのおばちゃん……というか何でエンパイアとショーガールまで!?

 

「あんたたち、故郷に帰ったんじゃなかったの!?」

「いやね、ウラヌス殿がまたロスに来たというから、トレーナーの飛行機に載ってとんぼ返りしてきたのさ。それに、前から聞いていたイノウエ殿のことも知りたかったからね」

「私はアメリカだからロスまですぐだからネー!」

「ほんと、やっぱりオリンピックに出るようなウマ娘はめちゃくちゃね」

 

 さっきまで何となく寂しさを感じていたのが嘘みたい。今やポログラウンドは人でいっぱい。トレーナーの家で毎晩やっているパーティーにも負けないくらい賑やかだ。

 

「しかし本当に、ウラヌスさんとまた会えて本当に嬉しいですっ!!」

 

 あのロサンゼルスのオリンピックスタジアムにいたガタイの良い門番まで。声がでかい。もはや最初に見た人と全然違う。でも、彼はもちろん、私も皆も、あのオリンピックで変わったということなんだろうか。

 

「なあウラヌス」

「うん」

「俺、もう一人じゃないよ」

 

 イノウエはポログラウンドを見わたして、大事なものを見る優しいまなざしで、微笑みながら私に言った。

 

「あんたに初めて会ったときに言ったよな、”日系人だとか白人だとか関係ない”って」

「ええ。それに今更だけどさ、約束通り勝ったけどどう?」

「ああ、それはな……」

 

 見渡す。

 このグラウンドは色んな人種・国の人々が入り混じり談笑している。オリンピックは終わったはずだけど、まだ続いているようにも思えるほどに。

 

「さいっこーーだよ!!」

「ふふ、さいっこーね」

「ああ、本当なんだな。オリンピックは人種も国もない。実力勝負。買ったら潔い。そんなところだったんだって。その証拠に、俺は今一人じゃない。あんたは、俺の人生をまるっと変えちまった」

「それは違う。一歩を踏み出したのはあなた。あなたが自分を変えたの。それにこれからよ、あなたはもっと素敵なウマ娘になるんだから」

「……っ、なんだよ、ったく。口が上手くなって、本当にトレーナーのニシに似てきたんじゃないか?」

「もう、勘弁して」

「俺もいつかウラヌスみたいな、強いウマ娘になって口説いてやるよ」

 

 そう言って笑いあう。

 

「しかしイノウエ、君はこれから具体的にどうするつもりだ? 一応一度スカウトした身、君の今後のことも聞いておきたい」

 

 トレーナーが入ってきて、聞く。

 でも確かにアメリカで頑張るとはいえ、現実は厳しいはずだ。それでもイノウエは自信満々にバ術で生きていくという。

 

「あー、それについては大丈夫だ。なっ!」

 

 そう言って視線を投げかけたのは、なぜかあのガタイの良い門番。眩しいくらいの笑顔でサムズアップしている。

 

「……え?」

「いやー、実はさっき色々話してみたら意外と気が合っちゃってさ。あいつもやけにバ術に感動したらしいから、俺の世話をしてくれるんだと。さっき決まった」

「はいっ! 感動しましたっ! イノウエさんは責任を持って私がオリンピックへ連れて行きますっ!!」

 

 いやもはや誰よあんた。キャラが違うよ。

 

「あいつ、昔陸軍にいた時期があるらしくてな。こいつも色々と手を回してくれるってさ。まだ俺たちみたいな日系人は入隊できないかもだけど、いつかチャンスができたら必ず陸軍に入って、オリンピックに出る。絶対だ」

 

 オリンピックのバ術競技は、軍に所属するウマ娘とそのトレーナーしか出ることができない決まりがある。陸軍に入ることは、オリンピックバ術の絶対条件だ。

 でも、あの大男がトレーナーなら、心配もいらなさそうだ。どっちも素人っぽいけど、きっと大丈夫だろう。

 

「あ、明日からトレーニング場所確保しておけよ。練習始めねえといけないからな!」

「はいっ! 死ぬ気で探しますっ!!」

 

 なんか、どっちがトレーナーなのかも分からないけど、ある意味イノウエらしいやり方なのかもしれない。

 

「そうか、それならイノウエと競うのが楽しみになってきたな、なあウラヌス」

「ええ、1940年……」

「東京オリンピックじゃんねえ!!!」

 

 うわっ。誰。

 ……と思ったら、眼鏡で低身長の男。ああ、オリンピックの。

 

「お、あんたも来てたのかオリンピック男」

「まあ、一応選手団代表だったから、オリンピック関係の会議も見ておきたかったのよ」

「なんか、いたから連れてきたぞ。誰だっけ」

 

 イノウエ、たしかあなたと一緒にスタジアムに入っていった人よ。

 

「そしたら、なんと、ドンッ! IOCの総会で、正式に東京がオリンピックの候補地に立候補されましたっ!!」

 

 皆がおおっと声を挙げる。もちろん私も。

 

 オリンピックは今までヨーロッパやアメリカでしか開催したことがない。だから日本のようなアジアの国がオリンピックに立候補もできるのかと半分疑っている人までいた。だからこれは大きな一歩だ。

 

「……ふふ、東京オリンピック。東京オリンピックかっ!」

「トレーナー、嬉しそうね」

「嬉しいというかな。さっきまで立ち止まっていたいと思っていたのが少しだけバカらしくなってきたのさ。……よーし!」

 

 トレーナーは笑って大きく手を広げ、私たちの前に立った。

 

「皆、聞いてほしい! 私とウラヌスは、このロサンゼルスオリンピックで金メダル、優勝することができた。でも、この勝利は私とウラヌスだけのものではない。日本の新聞では私の発言を”日本国の勝利”と書かれたこともあったがそうではない。応援してくれた君たち、そして私とウラヌスと、真剣に戦ってくれたアスリートたち……皆の勝利だ(We Won)! 本当に、心から感謝している。 だから、ここに約束しよう」

 

 今までにないくらいに嬉しそうな顔をして興奮するトレーナーを前に、皆が熱狂する。トレーナーは、これが締めだとばかりに思いっきり叫んだ。

 

「1940年に東京オリンピックが開催された暁には、ここにいる全員、日本へ招待する! そしてまた会おう、オリンピックで!!」

 

「おお! 本当か!? これは燃えてきたぜ!」

「自分、感無量ですっ!」

「ふふ、それならイノウエちゃんとウラヌスちゃんをちゃんと見に行かないとねえ」

「こりゃあ、オリンピックの企画頑張らないといけないじゃんねえ」

「ふむ、わたくしどもも引退するのが惜しくなってきたな。トレーナーに東京だけ出られるように言ってみようか」

「良いじゃない! ウラヌスたちにはまだ負けられないもんね。そう思ったら東京で走るのもEasyEasyよ!」

 

 ポログラウンドにいる全員が、眼を輝かせて、未来を見始めた。

 オリンピックで出会い、オリンピックで一つになれた私たち。皆で輪になった。でも、それはこのオリンピックが終わっても消えることはない。私たちの人生は続いていく。でもその中で、このオリンピックの日々は大切なモノとして、きっと残り続けるだろう。

 

 しかしほんと、トレーナーは無茶苦茶なことを言う。まあでも、トレーナーのことだから本気で言っているんだろうけど。

 

 皆が輪になって笑う。

 

 ああ、本当にここまで来て良かった。イタリアの陸軍でダメになりそうだった私。そこからトレーナーと出会ってイタリアで一緒に走って、ソンネボーイたちと競いながら日本に渡って……トレーナーと話し合って、イノウエたちと出会って……オリンピックで金メダルをもらって。

 繋がっている。人生は繋がっている。

 

「ねえ、トレーナー」

「うん?」

「これがさ、大団円って言うのかな」

「……ずっと言っているだろう。これからさ」

「……うん、そうだね」

 

 そして続いていく。これからも。時には辛いことがあっても、きっと最後は皆で歌えるような素敵な人生になるように、これからも走り続けていくつもりだ。

 

「あ! そうだそうだ、さっきウラヌスと話して思いったてな、家族に手紙を書いたんだ。ロサンゼルスでの日々の感想をね」

「本当に? 見せてよ。きっと私と金メダルをとったときの素敵な瞬間が書かれているのかしら」

「ああ、別に良いぞ。手紙はあまり書かないから、これで良いのかな」

「手紙なんて気持ちがこもっていれば何でも嬉しいのよ。どれどれ……」

 

 ”オレはこっちでもモテているよ”

 ……以上。

 

「……良いわけないだろっ!!」

「痛ぁっ!! け、蹴るな蹴るな」

 

 ……少しだけ不安になるときはあるけれど、私はこれからも、唯一無二の相棒、トレーナーと走り続ける。

 

 この先も、ずっと、一緒に。

 

 きっとね。

 

 

・・・・・・

 

 

 ロサンゼルスを再び訪れて、ポログラウンドで笑いあったその日の夜、西は夢を見たという。

 

 気づけば、西は、ウラヌスと共に走ったスタジアムにいた。スタジアムには既にないはずの競技用の障害コースがまだ残っていて、そのコースの真ん中には見覚えのあるウマ娘がこちらを見て立っていた。

 

「……君か。アイルランド……だったかな。ということは、これは夢か」

「お別れを言いに来たんです、トレーナー。またあなたに会えて良かった」

「お別れ?」

「ええ。”こっち”でもどうやら、あなたに会えるのは”ここまで”のようなので」

 

 アイルランドはスタジアムの観客席を、ぐるっと回って眺めていた。

 スタジアムには誰もいない。観客どころか、競技の審査員やオリンピック役員、掃除屋までも。アイルランドと自分しかこの世界に存在しないようだと、西は思った。

 

「それにしても、ほんとびっくり。オリンピックの舞台って、こんなに大きいんだ。ここで10万人の歓声を浴びたら、そう思うとわくわくしますね」

「君も、ここで走る予定だったんだよな」

「はい。あなたの隣で。でもそれは叶わなかった。あなたの隣には、ウラヌスがいたから」

「君の言う”そっち”の私は、ウラヌスに酷いことを言っていたよな。それに何よりも、君の脚……」

 

 アイルランドの脚を見ると、そこには包帯が巻かれていた。でもアイルランドはしっかりとその脚で地面を踏みしめて立っている。少し歩いているところを見ても、不自由さはない具合だった。

 

「これは夢ですから、自由に歩けるんです。それに、私の脚はトレーナーのせいじゃありません。私は競技に入れ込みすぎる性格でしたから、それで無理をしすぎたんです。あなたにも、よく叱られました」

「……そうだったかな。うん、そうだった気がするよ。」

 

西は繰り返し見ていた夢でしかアイルランドに会ったことはない。しかしアイルランドが言う”こっち”というやつの感覚なのだろうか、ウラヌスと同じくずっと一緒にいたたかのような、そんな不思議な感覚が頭の中に残っていた。

 

「ねえトレーナー、最後にお願いがあります」

「お願い? なんだ、最後なんだろう。遠慮なく言ってくれ」

「はい。私と、このコースを走ってくれませんか」

「コース? この、オリンピックのコースを?」

「そうです。ウラヌスと走ったときのように」

 

 西はスタジアムのウマ娘競技用の障害コースをぐるっと見渡した。西はつい一か月前にウラヌスと走ったロサンゼルスオリンピックの舞台を思い出していた。

 

「……分かった。でも本当に脚は大丈夫なのか」

「はい。これは夢ですから、ほら」

 

 そう言ってアイルランドは、巻かれていた包帯を取って軽くジャンプして見せた。

 

「それなら、よし。行こうか」

 

 西はアイルランドの最後の頼みを叶える義務があると思った。それは、彼女のトレーナーとして。彼女にとっての相棒であったのだろう、自分として。

 

 ウラヌスの時と同じく、西はアイルランドが飛越する隣で軽く走りながらも見守っていた。

 

 第1障害。

 

 不安だった飛越は問題ない。

 それだけではなく、西はその飛越に見惚れていた。

 しっかりと脚を曲げ、高すぎず、しかし確実に跳ぼうとするお手本のような飛越。ウラヌスの大胆な飛越とはまた違った良さを持つ、繊細な飛越だった。

 

「君の飛越は綺麗だな。まるでお手本のような飛越だよ」

「はい、トレーナーに鍛えられました。日本で」

「ウラヌスと一緒に?」

「ええ。あの子は意地っ張りだけど、確かな熱意と実力があった。よきライバルでした。……あーあ、だからかな、少し妬けちゃうな。オリンピックでトレーナーと走ったのがウラヌスというのが」

 

 アイルランドは前を向いて走りながらも、疲れる様子もなく微笑んでいた。西との会話を、ひとつひとつ噛みしめて、楽しむかのように。

 それでもアイルランドは、障害を一つ一つ、丁寧に跳んでいった。見事な飛越、姿勢は決して崩さない。これは夢だからなのか、それともアイルランドが持つ力なのか、西は驚きつつも隣をついていった。

 

「君も……ウラヌスと同じで、ヨーロッパで出会ったのかな」

「そうですね。私はオリンピックで共に戦うためのウマ娘として、私の名前と同じアイルランドであなたにスカウトされたんです。その時は、”アイリッシュボーイ”という名前を貰って」

「アイルランドの少年……か」

「ええ。ウマ”娘”なのに、と、イマムラと一緒にいたソンネボーイと一緒に笑っていました。でも、その名前は気に入っていました。……それからはウラヌスと一緒に東京に出てトレーニングをしました。車越えをしたり、2m10cmの障害を飛び越えたこともありましたね」

「2m10cmか! それは凄いな。そんな障害、跳び越えられるウマ娘はこの世に10人いるかどうかだ」

「ええ、思えば短かったけど、キラキラした日々だった。世界恐慌の影響もありアイルランドのバ術界で足踏みしていた私をアイルランドから引っ張り出してくれて、世界に飛び出すことができた。そしてオリンピックの目の前まで、あなたの隣にいることができたんです」

「……でも、君は怪我をした」

「さっきも言った通り、これは私の落ち度でした。トレーナーも見たと思います、ソンネボーイのあの狂気的とも言えるほどにレースに入れ込んだ走り。私もああでした。周りが見えなくなると、一歩間違えればウマ娘は”命”を落としかねない。そして事実、私はそうなった」

 

 彼女の言う”命”、それは脚のことだろう。でもそれはある意味、比喩と言えないほどだ。ウマ娘にとって、走ることは、生きること。

 あの時のソンネボーイも、もしあのまま走り続けていればただでは済まなかったかもしれない。コロシアムの端から見ていた西でもはらはらさせられた競技だった。

 

「自業自得とも言えます。でも、私はそれでも、こんなことを言うと怒られるかもしれないけど、少しだけ嬉しかった部分もあったんです。あなたが泣いて私のことを気遣ってくれて、治療中いつも隣にいてくれたこと。私とじゃなければオリンピックに出たくないとまで言ってくれたこと。ここまでして、オリンピックという大舞台まで連れて行きたかったんだと、分かったから。だから、私はもう満足なんです。走ることはウマ娘の生きがい。でも、それだけではないはずだから」

「それでも、私は……!」

「それに、あなたは、トレーナーはここで立ち止まって良い人間じゃない。私の分も……というのはおこがましいですが、これだけの人を笑顔にする。担当ウマ娘だけじゃない、見る人を笑顔に、元気にできる力があるのですから」

 

 ”見てください”と、アイルランドは第6障害を跳び越えたあたりから笑った。

 西は言われて、ふとスタジアムを見渡した。すると、今まで誰もいなかったはずの観客席には10万人を超える沢山の人が声援を送り、待機場所には今村やソンネボーイといった仲間たちが静かに見守っていた。

 正に、ロサンゼルスオリンピックの光景そのものだった。

 

「トレーナーは、私じゃない。ウラヌスと、この光景を、沢山の人が輪になって笑いあう、そんな競技を魅せることができたのでしょう? 私は、そうやって、あなたが、あなたらしく競技しているのが一番の幸せなんです。次はベルリン、その次は東京。あなたにはこれからも、あなたらしく走っていって欲しいんです」

「でも、”君のほう”の私は、そのウラヌスにも……」

「安心してください。”こっち”のトレーナーとウラヌスも、”そちら”とそうは変わりません。この景色と同じ。やっぱりあなたの相棒は、ウラヌスなんですよ。あなたの隣には、あの子が相応しい。例えどんな世界だったとしても、それは変わらないんですよ」

 

 そう言ってアイルランドは優しく、けれどもどこか少し寂しげに、観客席を眺めた。本来彼女が受けるはずだった、このロサンゼルスの歓声。彼女の眼には、一体どれほどの気持ちが渦巻いているのか、トレーナーであったはずの西にも、想像することは難しかった。

 

「だから、トレーナー!」

 

 アイルランドは、やや息を整えてから、一気に難関の第10障害を超える。幾人もの挑戦者が挫折した第10障害。それをまるで小さな小枝をまたぐかの如く軽々と跳ぶ。その飛越は、2m10cmの障害を跳び越えたというアイルランドの実力を体現していた。

 

「ここで私はお別れです。あなたの相棒と、ウラヌスと! ずっと走り続けてください。あなたがたには、これから尋常ではない大きな”障害”が立ち塞がることになるかもしれません」

「”これから”? アイルランド、君は一体……!」

「私から詳しく言う事はできません。でも、トレーナー。あなたはもうこの夢に、私に、縛られる必要はもうない。あなたとウラヌスにとっての”勝利”は、私にとっての、私たち(We)にとっての勝利でもある。そこに後ろめたさなんて、どこにもないんですから」

 

 気が付けば、あっという間にアイルランドはロサンゼルスオリンピックの難関コースをクリアしていた。

 ”11番、アイルランド、トレーナー・タケイチ・ニシ! 暫定一位!!”

 そんなアナウンスが会場に大きく響き渡る。響く拍手、溢れる歓声。

 

「ああ……満足です。これは”夢”。でも、それでも……あなたと最後に走ることができて、このロサンゼルスの舞台に立つことができて、本当に良かった」

 

 アイルランドは、小さく笑みを浮かべて上を見ながら、一筋の涙を流していた。

 そうだ、本当は彼女は悔しかったはずだ。世界の舞台を前にした故障。挫折と引退。それは誰にも想像しがたい、”命”を奪われるということ。彼女はそんな舞台を、例え夢の中でも叶えられたのだろうかと、彼女にとっての救いになったのだろうかと、そうだったら良いと、西は思った。

 

「さあ、次はあなたです、トレーナー。ここからはあなたたちの番。その時計が延々と時間を刻むかのように、あなたがたの長い長い旅が始まるんですよ!」

 

 アイルランドはロサンゼルス10万の歓声を、舞台の真ん中で手を挙げながら、トレーナーに向き直った。

 

「そうだ、この時計だ。この時計のことを知っているのか? 私がいつからだったか持っていた、この時計を」

 

 それは、いつからだったか持っていたアメリカ製の銀腕時計。ストップウォッチの機能もついた優れモノ。ウラヌスの記録を刻み続けた、西にとって大切な時計だ。

 

「その時計は、特別な物。私がトレーナーとロサンゼルスでの勝利を誓いあった時に贈ったものです。私と、そしてウラヌスの走りを測り、刻み続けたその時計。……知っていますか? ウマ娘レースの世界には伝説があって、ある”時計”には、過去と、そして未来を変える力があるそうですよ」

「過去と、未来を?」

「はい。過去と未来、選択の連続によって世界は変わっていきます。選択によって、いくつもの世界が”枝分かれ”していく。その中には後悔してもしきれないこと、取り返しのつかないことだってある。でも、枝分かれした一本を辿っていけば、もう元に戻ることはできない。それがルール。だけど、もし”別の一本”、より良い”一本”に跳び、移ることができたら、幸せだと思いませんか?」

 

 西は、突然の哲学的なアイルランドの話を理解することはできなかった。けれど、少しの涙を浮かべながらも、どこか励ますような、応援してくれているような表情のアイルランドの言葉は、どこか重みがあるように感じられた。

 

「……私は、定まった未来は変えられないと思っていた。もちろん今だってそうだ。私は軍人だし、決められたことに従う。ルールから逸れることはしない。そういうものだと思っている。私は不器用だから、そこまで大きな望みを、抱えきることはできない」

「真面目ですね。やっぱりそう。女の人と遊んでも、家族を放って毎晩飲み明かしても、あなたはやっぱり繊細な人です」

「でも、さ。確かにな。もし変えたい未来があるとして、そんな、取り返しのつかない、辛い未来があったとして……」

 

 西は少しだけ寂しそうな表情をしたアイルランドに向き直り、静かに笑って呟いた。

 

 

「もし変えられる未来があるとしたら……変えたいよな、そんな未来を」

 

 

 そう言って西は、競技用の、お揃いの軍帽を被ったアイルランドの頭を優しく撫でた。

 

「……それなら、やることは一つ。簡単なようで難しいですけれど、たった一つ」

「なんだ」

 

「何があっても……何があってもです。あなたの相棒……あの子の……ウラヌスの隣にいてあげてください」

 

 アイルランドは、真っすぐ西の眼を覗いて、はっきりと言った。

 

「……何があっても、か。それは確かに、難しいことだな」

 

 トレーナーというのは、バ術においては、あくまで軍隊におけるウマ娘のサポートに過ぎない。トレーナーが変わることも、途中でどちらかが除隊することも珍しくはない。そしてお互いに離れてしまえば、いつまでも隣にいるというのは難しいこと。簡単に約束できることではない。

 だから西はうんともムリとも言わず、笑いながらアイルランドの頭を優しくなでていた。

 アイルランドもまた、その反応を分かっていたかのように、”しょうがない”とでも言いたげにふと笑った。

 

「……ありがとうございました。トレーナー。私は、本当に満足。幸せでした」

「……ああ」

 

 ロサンゼルスの景色は、キラキラと、白い光に包まれていく。夢の終わりなのか、それはまるで日の出のように、世界を明るく彩っていた。

 

「あなたとウラヌスの……そして、”私たちの勝利”のゴールを、いつまでも祈っています」

 

 そう言ってアイルランドは、眼に涙を浮かべながら、一番の笑顔を浮かべる。

 

 

 ”これにて、1932年オリンピックロサンゼルス大会の、全日程を終了いたします”

 

 

 世界にアナウンスの音声が流れる。

 

 それを最後に、西のロサンゼルスオリンピックは終わりを告げる。

 

 そして、新たな旅路が始まるのだった。

 




前回から2か月も間が空いてしまいましたが、ここで西とウラヌスを描いた「跳べ、ウラヌス」、ロサンゼルスオリンピック編は終了し、一区切りとなります。ここまで読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。

今後の更新は不定期になるかもしれませんが、ゆっくりとでも必ずこの物語は終えようと思っています。これから西とウラヌスはどのような道を歩んでいくのか。ご期待ください。


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『跳べ、ウラヌス』前編設定資料集 & 後編予告

1932年ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得した西竹一とその愛馬・ウラヌスを元にした物語『跳べ、ウラヌス』。
西とウラヌスが1932年ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得するまでの前編・「ロサンゼルスオリンピック編」が終了したので、そこまでの舞台設定、人物設定資料集をこちらに掲載します!

そして二人の物語はベルリン、そして東京へ。
西とウラヌスの飛越の先、その着地点は、一体どこなのか。
新たな物語が始まる!


※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


「舞台設定」

<ウマ娘と軍事>

 ウマ娘の人間を超える圧倒的な力の軍事利用は、紀元前2000年頃から考えられていた。ウマ娘はその前から人間と共存して農業や運搬などの力仕事に従事していたが、このころからウマ娘はその速さを活かした機動戦の中核を担うようになり、車輪を用いたバ車を引いて人間との連携・輸送を行うようになった。

 紀元前8世紀ごろには技術の発達によりウマ娘の力に耐える丈夫な弓の開発が行われ、アッシリアはこのウマ娘弓兵を用いて世界帝国に上り詰めた。その歴史から、ウマ娘は人間の女性とは全く別の存在とみなされ、世界中の軍隊でも人間の女生とは別に、男性と同等かそれ以上の存在として扱われた。

 

 一方で、ウマ娘は大飯喰らいで人間の兵士よりも兵站管理が難しく、また軍事利用に値するまでの、その大きな力の制御のために訓練が必要であるという難点があった。そのために古来からウマ娘の訓練や体調管理などを専門とする人間の役職も生まれ、これは後に「トレーナー」と呼ばれることになる。

 ウマ娘兵とこれをサポートするトレーナーはどちらも「キ兵(騎兵)」と呼ばれるようになり、古来からその強さや、ウマ娘とトレーナーの間に生まれる絆の美しさもあり、人々の憧れの兵科となった。

 当然、その軍事的影響は歴史にも多大な影響を与え、歴史上有名な人物の多くはウマ娘と共に歴史を築いていった。有名なトレーナーには、ハンニバルやチンギス・ハンなどが存在する。

 

 キ兵の台頭は、人間・ウマ娘共に「キ士(騎士)」や「武士」といった戦士階級を生み、歴史的に大きな影響を与えていた。しかし15世紀ごろからの火薬・銃の普及などの発展は軍事におけるウマ娘の立場を徐々に変えていくことになる。銃や大砲による遠距離攻撃は、防御力が低いウマ娘にとっては脅威となった。やがて戦列歩兵といった人間の数と技術を活かした戦術が主流になっていくが、それでもしばらくはその機動性からキ兵の重要性は失われず、銃を持って戦うウマ娘兵も現われた。

 

 明確にウマ娘兵の重要性が失われていったのは20世紀前半である。日露戦争からの「機関銃」の主力化は、脆弱なウマ娘にとっては脅威であった。第一次世界大戦の初期ではウマ娘兵の突撃は機関銃によって無力化されて大量の死者を出した。これにより塹壕、戦車といった新技術の発展によってウマ娘が得意としていた突撃は無意味となり、主な軍務は後方での輸送が主になったが、それも自動車の発展によって徐々に減ることになった。第一次世界大戦では、危険な砲弾輸送や、中には人間と変わらない塹壕戦や白兵戦を演じることになってしまい、その過程で唯一無二の相棒であるウマ娘とトレーナーとの悲しき別れが多く起こった。以降、ウマ娘の軍事的な価値は大きく下がることになる。

 しかし古来からあるキ兵への憧れは民衆の間では依然根強く、現代にいたるまで儀典の場で活躍している。

 

 

<バ術>

 ウマ娘は上の通り、かねてから人間の歴史と密接な関係にあり、近代に入る前までは常に軍事における中心的な立場にいた。そこで生まれた、ウマ娘が行う機動戦に必要な動作の一つ一つが、バ術の発祥である。古代ギリシアにはトレーナーであるクセノポンがバ術書を記し、それらは現代にいたるまで通用するものとして継承されている。

 バ術のポイントには、計画通りのコースを素早く走る、戦場の障害物を跳び越える、長距離をペースを乱さずに走る、などがある。これらは歴史を通してトレーナーによる訓練によってウマ娘は洗練させていった。

 そして16世紀ごろ、銃器が発達し鎧が無意味になり、ウマ娘が軽装だが美しい軍服を身にまとうようになると、欧州を中心に、戦場の中でのウマ娘の動作に「美しさ」を見出すようになっていった。それからしばらくすると、イタリアやフランスを中心に、人間のバレエのようにウマ娘が綺麗な動作(華麗なステップなど)を披露し点数を競う「競技バ術」が生まれた。19世紀終わりごろになると障害を跳ぶことを重視した「障害飛越」などが生まれ、バ術の種目はまとまりを見せていった。

 近代に近づくとトレーナーによるウマ娘の訓練法や走法も定まり始め、欧州を中心とした「ブリティッシュ」、西部劇時代に発展しアメリカを中心として広まっている「ウェスタン」などが生まれ、現代にいたるまで用いられている。このように、バ術はレースとは全くの別物として、違う広がりを見せていった。

 

 近代までに競技バ術はある程度まとまりを見せ、バレエのようにその動作一つ一つの美しさを競う「バ場馬術」、ハードル走のようだが飛越そのものを重視した「障害飛越」、これら二つにクロスカントリー(耐久走)を入れて3日かけて競う「総合バ術」の3つが主なものになった。

 

 競技によってルールは様々だが、基本的にウマ娘としてのその姿勢の美しさを競う競技のため、転倒したり力尽きたりして膝をつくと失権となるなど共通点は多い。

 

 バ術競技はその歴史から貴族、その中でも軍人がやるものとして発展し、オリンピック競技に採択された後も、1952年のヘルシンキ大会まで、あらゆる大会における参加権は、トレーナー・ウマ娘共に軍人のみに与えられた。そのため参加するトレーナーは軍服に、ウマ娘は軍服をモチーフとした煌びやかな「勝負服」に身を包んで競技に参加する。

 その煌びやかな競技イメージから、庶民でも参加できて純粋な競争であるレースとはまた違う、ウマ娘の憧れの競技である。

 

 ちなみにウマ娘がホッケーのような道具を持って点を入れ合う「ポロ」というスポーツもあるが、こちらは走ることを命とするウマ娘には馴染まなかったせいか、あまり普及しなかった。

 

 バ術におけるトレーナーは、古来からの関係、そしてレースと同じく、ウマ娘の体調管理やトレーニングなどを専門とする。レースと違うのは、バ術は「人バ一体」の思想がより根強く、トレーナーも競技に出場する点である。

 トレーナーはレース前日に競技場を巡回してコースを覚え、競技当日はウマ娘の隣で適切な指示や声援を送る。ウマ娘はこれらの指示を通してペース配分やステップ、飛越を図るため、地味に見えて非常に重要な役割である。そのためバ術は、最低でも競技の3割はトレーナーの力によるものと言われており、オリンピックにおいてもウマ娘・トレーナー双方にメダルが送られる。

 このように、バ術はレースよりもウマ娘とトレーナーの結びつきが強くなる傾向にあり、この強い絆を含む関係性に憧れてバ術の扉を叩くウマ娘や人も少なくはない。

 

 

<障害飛越競技>

 バ術の競技の一つで、トレーナーのサポートの下、ウマ娘が、決められたコースを、設置された障害を跳び越えながら通過する競技。かつては狩猟をしていたウマ娘同士の腕試しやトレーニング目的で行われていたが、1900年初頭からイタリアを中心に競技化され、1900年のオリンピック パリ大会からはオリンピックにおけるバ術競技の定番になっている。

 障害飛越は他のバ術と同じく、トレーナー・ウマ娘がコンビで出場し、そのトレーニングの成果も競うことになる。

 競技形式は様々だが、国際競技会などオリンピックでのルールは以下の通り。

・障害に触れてバーを落下させたり障害を破壊してしまった場合、減点4。

・障害前で立ち止まって反転したり(拒止)した場合は「反抗」となり、減点4。反抗2回で「失権」。

・タイムを計測し、規定タイムを超過した場合は超過4秒ごとに減点1。

・転倒したり、力尽きて膝をついてしまった場合、コースアウト(経路違反)した場合には「失権」。 

  高得点を狙う場合には、確実に障害を跳びこえて、かつ素早くコースを走破する必要がある。障害には飛越方法が決まっているほか、障害間の移動は45秒までという制限もついている。これらを守れなかった場合は総じて失権となるので、注意が必要。

 トレーナーはウマ娘のトレーニングのほか、競技前にコースの下見が可能で、下見を元にトレーナーは競技計画を立てる。下見にはウマ娘や他の指導者の同伴も許されている。

 競技ブリティッシュの流れを汲んでいるために礼節を重んじるのは他のバ術と同じで、ウマ娘の勝負服も、軍服や礼服を元にしたものと決まっている。

 障害飛越は、バ場バ術と違い制約が少なく、障害を跳び越えるタイムアタック的要素と相まってスポーティな競技として知られており、バ術の中でもその派手さから人気が高い。オリンピックにおいても一時期は現代のマラソンのように、閉会式前の最後に行う競技として注目され、”オリンピックの華”とまで言われる競技である。

 ウマ娘の持久力や身体能力をより重視する一方で難しい小技を多く覚える必要がない点から、レースをしていたウマ娘のセカンドステージとしても注目され、レースから転向して出場するウマ娘も少なくはない。

 

 

<ウマ娘と名前>

 これはレースウマ娘にもバ術ウマ娘にも共通していることだが、アスリートとなるウマ娘は通常、戸籍上とは別の名前を授かることが多く、生涯を通してその名前を名乗るウマ娘がほとんど。その名づけ親はトレーナーであったり親であったり、中には占いで決める者だったり様々。しかし日本のメジロ家など、名家の場合、家から決まった名前がつけられることも。

 

 

<日本陸軍とウマ娘>

 日本の軍事におけるウマ娘、バ術の源流は主に武士にあったが、明治維新前後に欧州からのバ術思想が入ってくると、欧州流のキ兵運用が行われた。

 日本における近代キ兵が大きな発展を遂げたのは、日露戦争において活躍した「秋山好古」の存在が大きい。自身も優秀なキ兵である秋山は、ロシアとの戦争を想定した強いウマ娘とトレーナーづくりに尽力。陸軍全体が普仏戦争で勝利したドイツ式への転換を進める中、秋山はフランスの強くて効率的なウマ娘運用に着目。秋山は自ら部隊を率いて、機関銃を併用した戦法によってロシアのコサック師団を破った。

 以降、秋山がフランス流キ兵を学ぶために留学したソミュールキ兵学校は、優秀な日本陸軍のトレーナーが多く学ぶ場になり、日本バ術の礎を築く場所となる。

 

 そんなソミュールに留学したキ兵の一人に「遊佐幸平」がいる。遊佐は日露戦争で樺太で武勲をたてた後にソミュールでバ術を学び、日本競技バ術の発展に大きな影響を与えている。その温厚な性格から多くの人に慕われた一方で、ウマ娘を見る眼は誰よりも鋭く、遊佐が育てたウマ娘はどれも優秀で、長距離耐久走において2日間で480キロ走破するなど強烈な成績を残す者もいた。遊佐はバ術における日本の世界進出に取り組み、1928年のオリンピック アムステルダム大会では、7人の仲間と共に初めてオリンピックに参加。それからも今村や西といった、「跳べ、ウラヌス」作中にも登場するバ術家を育て、ロサンゼルスにて初の日本人オリンピック審判員を務めるなど活躍した。

 

 

・・・・・・

 

 

「登場人物」

<日本陸軍の人々>

・西 竹一

誕生日:1902年7月12日

身長:175cm

体重:微減(奥さんに注意されているらしい)

 

[跳べ、ウラヌス]

日本陸軍のキ兵将校で男爵。そのため「バロン西」の異名を持つ。1930年にウラヌスと出会い、彼女のトレーナーとなる。

 身長175cmという当時の日本人としては高い身長、整った顔立ち、そしてそのフレンドリーな性格、更に剣道や柔道の有段者であることからよくモテる。本人も天然ジゴロなところがあり、その容姿と性格もあって国内外問わず人気がある。ハリウッド俳優や皇族などとも交友があり、ウマ娘たちからの人気も高い。

 妻子持ちにも関わらず、毎晩同僚と飲みに出歩いたり、街で美女と話して賭け事をするのが日課の遊び人だが、貴族や軍人としての期待を背負い、そのプレッシャーに日々悩まされている繊細な一面も持つ。

 バ術でのトレーナーとしての腕は恩師の今村も認めるほどで、その腕と眼は、イタリアで誰も手をつけられなかったウラヌスの癖や実力を見抜き、オリンピックまで導くほど。西のトレーニングは今村らの自然バ術も取り入れられてはいるものの、実は独自のスパルタ式。

 

[史実]

 男爵で富豪だった西徳二郎の三男として生まれる。のちに後を継いで「バロン西」となり、陸軍士官学校を経て陸軍入隊後、騎兵を志す。1930年にはヨーロッパへ渡り、イタリアにてのちの愛馬である「ウラヌス」と出会う。そこからは今村安と共にヨーロッパの国際競技会に出場した後、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。ウラヌスと共に大賞典障害飛越競技で優勝。2021年現在、史上唯一の日本人馬術金メダリストとなる。

 

 

・ウラヌス

誕生日:忘れたらしい

身長:180cm

体重:増減なし(体重管理はばっちりだとか)

スリーサイズ:B:92、W:65、H:90

 

[跳べ、ウラヌス]

 栃栗毛で、額の髪に白い星のマークがあるウマ娘。実はフランス生まれ。フランスの家から期待をかけられるままにイタリア陸軍に移り、イタリア陸軍の兵舎で孤独に走り続けていたところを西にスカウトされた。それからは日本陸軍のウマ娘としてヨーロッパの国際競技会、そして1932年ロサンゼルスオリンピックに出場する。

 気が強く誇り高い性格だが、常に周りに気を配っている。西の担当ウマ娘になってからは、自身も同じように高貴なる者として恥じることのない振る舞い(ノブレス・オブリージュ)を心掛けるようになった。だが肝心の西が自由奔放なため、日常生活では逆にトレーナーを叱ることも多い。それでも西の方がいつも上手な模様。

 いつも煌びやかな日本陸軍の軍服を着ているがスタイルが良く、西と同じく最近は同じ陸軍ウマ娘からは憧れの的になっているらしい。最近はトレーナーに似てやや天然ジゴロになってきているとか。

 作中での表現はなかったが、実は西よりも身長が高い。が、スタイルが良くて体格だけ見たらやや小柄に見える。身長は西よりも高いがそれでもよく頭を撫でられていて、当人も実はそれを気に入っている。

 

[史実]

 栃栗毛のアングロノルマン種。1930年4月、イタリアを訪れた西によって購入され、愛馬となる。額にある星と体高180cmほどの巨体が特徴で、その性格は激しく、イタリアでの熟練の馬術家しか乗りこなせなかったと言われているが、西にだけはなぜか初対面でも頭を摺り寄せ、懐いたという。しかし、ウラヌスは後肢を伸ばす癖のある跳び方をするため、西はそれだけが気がかりだった。

 ウラヌスは西、そして今村と共にヨーロッパ各地の国際競技会で活躍。1932年ロサンゼルスオリンピックでは西と共に大賞典障害飛越競技に出場。最後の障害では、西とウラヌスは危うく飛越に失敗しそうになる。しかしウラヌスは自らの意志で後肢を横に捻り見事障害を跳び越えたという逸話を持つ。

 

 

・今村 安

誕生日:1890年1月30日

身長:168cm

体重:微増(食事よりお酒)

 

[跳べ、ウラヌス]

 西の恩師にして、日本バ術界の最先端を担う軍人。1929年からのヨーロッパ留学でウラヌスを見つけ、西とウラヌスを引き合わせた張本人。その旅の中で自らの担当ウマ娘となるソンネボーイをイギリス陸軍から連れ出す。

 自由奔放な西や、真面目過ぎるソンネボーイなどに挟まれて色々と振り回される苦労人。とはいえその誰よりも強い愛バ精神からくるバ術の腕は本物で、1930年のヨーロッパ転戦では、ヨランダ王女杯に勝利し、日本人初の国際バ術競技会優勝を果たした。

 バ術においてはイタリアのキ兵学校で学んだ「自然バ術」を活かした独自の「今村バ術」を確立させている。トレーニングは、西に比べると優しめで、ウマ娘に寄り添い毎日のルーティンを重視している。その紳士的な性格も相まって、陸軍ウマ娘にとっては優しいおじさんのような存在らしい。

 実はかなりの酒好きで、ロサンゼルスオリンピックでは、部下であり生徒でもある西の優勝に気をよくして酒を飲みすぎてしまい、帰りの金を使い果たしてしまうという珍事を起こす。

 

[史実]

 元藩士の名家に生まれ、兄にはラバウルの戦いで有名な今村 均がいる。陸軍士官学校を経て騎兵になり、1929年からはロサンゼルスオリンピックに向けた馬術の技術九州のためにイタリアのピネロロ騎兵学校に留学。留学中にはヨーロッパ各国を回り、ウラヌス、ソンネボーイ、ファレーズといった日本オリンピック馬の調達を行った。

 1930年には西と共にヨーロッパ各地の国際競技会を回り、愛馬・ソンネボーイと共にトリノにてヨランダ王女杯に優勝。2021年現在に至るまで、本場・ヨーロッパの馬術国際競技会において日本人が優勝した唯一の例である。

 ロサンゼルスオリンピックにおいてはイタリアでの国際大会優勝経験もあり、実は西よりも注目されていた日本人選手だった。期待の中、ソンネボーイとともに出場するも、障害に阻まれて落馬。失権となる。

 オリンピック後も日本で馬術家の育成に力を注ぎ、今村がイタリアで学んだ”自然馬術”を元に残した「今村馬術」は、戦後に至るまで日本人の馬術家にとって重要な教典となった。

 

 

・ソンネボーイ

誕生日:春(詳しい日付はトレーナーにしか教えていないとか)

身長:159cm

体重:微増(日本の食事が美味しいせいらしい)

スリーサイズ:B:79、W:56、H:80

 

[跳べ、ウラヌス]

 前髪に白いラインがある、栗毛の元イギリス陸軍ウマ娘。1929年の冬、世界恐慌によって家族やトレーナーを亡くし、絶望の淵に追い込まれていたところを今村にスカウトされ、日本陸軍に入隊する。一人称は”ボク”。

 バ術ウマ娘としてはまだ若いながら、性格は静かかつ真面目で、かつてイギリスの仲間とも約束した”世界一のウマ娘になる”という目標を胸にトレーニングを続けている。しかしそこに縛られるあまり周りが見えなくなることもあり、1932年ロサンゼルスオリンピックでは、競技に入れ込むあまり、気づかないうちに自分を瀕死に追い込んでしまっていた。そのために難関の第10障害で膝をつき、失権となる。

 口数が少なく表情の変化に乏しいが、今村に褒められたりしたときには静かに笑ったり照れ隠しをするなど、豊かな表情を見せる。また、今までトレーニング以外に興味はなく同期のウラヌスともあまり話さなかったが、オリンピック後は陸軍内で一緒に行動して話すことも多くなった模様。たまには力を抜いて楽しく過ごすことを学んだらしい。

 最近の悩みは、ウラヌスと身長の差がありすぎること。

 

[史実]

 1929年の冬に今村によって購入されたイギリス産・ハンター種。英語読みだと”サニーボーイ”になる。1930年からはヨーロッパ各地の国際競技会を転戦するが、この時ソンネボーイは7歳で、馬術馬としてはデビューしたばかりの新馬だった。

 しかし今村流の巧みな調教によって若くしてその実力を発揮し、ナポリ、ローマと好成績を残し、トリノのヨランダ王女杯では見事優勝を果たす。「ソンネボーイは飛越が巧みで歩度増減、回転がスムーズ」な良い馬だとイタリアでも話題となり、中にはソンネボーイを譲ってもらおうとするイタリアの軍人まで現われたという。これはのちにウラヌスを今村に引き寄せる大きなきっかけとなった。

 ヨランダ王女杯の際には現地で雇った厩務員が優勝発表前にさっさとソンネボーイを帰してしまったために表彰式に立ち会うことができず、今村は代わりにソンネボーイによく似た馬を借りて表彰式に出た、というエピソードが残っている。

 1932年ロサンゼルスオリンピックでは今村と共に走るも失権。以降、オリンピック参加などの記録は残っていない。

 

 

 

<???>

・アイルランド

[跳べ、ウラヌス]

 ロサンゼルスに滞在中の西の夢に出てくる不思議なウマ娘。かつては”アイリッシュボーイ”という名前だったらしい。

 アイルランドでいう”こっち”の世界では、アイルランドはウラヌスと並んで西の担当ウマ娘として活躍。2m10cmの障害も跳び越えたこともあるという。しかしロサンゼルスオリンピック前に障害に入れ込みすぎるあまり脚に重傷を負い、二度と走ることができなくなってしまった。

 夢の中でアイルランドは西に自分の想いを話し、ウラヌスの傍にいてあげるようにと伝える。

 

[史実]

 癖が強い馬であったウラヌスの前に、西の愛馬として活躍したアイルランド産ハンター種の馬。アイリッシュ・ボーイという名でも文献に登場する。癖の少ない良馬だったが、やや興奮して障害に入れ込んでしまう傾向があった。

 オリンピック前までは西の本命として1932年ロサンゼルスオリンピックに出場予定だった馬で、日本にいたころには西と共に2m10cmという障害飛越の日本記録を打ち立てている。ウラヌスと共にオリンピック予選会を通過するも、オリンピック直前に肢を負傷。以降の競技参加が不可能になってしまう。

 西は愛馬の故障に深く悲しみ、副場だったウラヌスの癖がオリンピックに向いていないとも考えていたために、オリンピックの辞退とまで言っていた。しかし今村らの説得によって西はウラヌスと共にオリンピックに出場。アイルランドの悲しみを乗り越え、見事優勝を果たしている。

 

 

<日本の人々>

・アスコツト

誕生日:?

身長:164cm

体重:微減(トレーナーに食べ過ぎを注意されたらしい)

スリーサイズ:B:88、W:56、H:88

 

[跳べ、ウラヌス]

 東京に来たばかりのウラヌスが出会った、栗毛のレースウマ娘。府中競馬場建設予定地を眺めて、ここで走ることが一つの夢だとのんびり語る。

 トレーニングはもちろん礼節などに関しても非常に厳しい”関東の鬼”と呼ばれる敏腕トレーナーに指導を受けていて大変らしいが、いつも気遣っているトレーナーのことは好きだとか。トレーナーはお酒を飲むと少し優しくなるとの本人談。

 自身の姉も同じ敏腕トレーナーと共に結果を出しており、そんな姉の存在を少しだけプレッシャーに感じているという。

 

[史実]

 1928年生まれ、栗毛の牡で、父・チヤペルブラムプトン、母・種秀、母父・インタグリオーという良血。日本競馬史のレジェンドである尾形藤吉が騎手・調教師を務めた。一歳年上の兄には、帝室御賞典優勝馬で当時最強と謳われたワカクサがいた。

 尾形曰く温順、素直で、口向きが軽い性格だったそうで、調教をよく聞くが根性がある馬だったという。1931年の中山秋開催からデビューして初勝利を挙げ、1933年に至るまで数々の重賞に勝利。当時最高額の優勝賞金記録を打ち立てた。

 

 

・田畑 政治

[跳べ、ウラヌス]

 西たちがロサンゼルスで出会った眼鏡の男性。その正体は日本水泳選手団の団長。猛烈な早口と人の話をどこか聞いていない慌ただしい性格をしているが、どこか憎めない不思議な男。新聞記者でもあり、政治部にも関わらずかねてからオリンピックに関する話を多方面に持ちかけていることから、”オリンピック男”として軽い有名人になっている。

 ちなみにロサンゼルス大会の水泳では選手団長・指導者として宣言通りアメリカを圧倒し、大量のメダルを獲得した。

 

[史実]

 戦前から日本水泳の発展に寄与し、東京オリンピック招致においても大きな役割を果たした田畑政治その人。スポーツ指導、オリンピックの招致活動に全力で当たる一方で、朝日新聞の記者でもあり、大正から昭和への改元や、五・一五事件など、歴史に残る大事件の体当たり取材をいくつも行った。

 政治家・河野一郎とも深いかかわりがあったと言われている。

 

 

・犬養毅

[跳べ、ウラヌス]

 西邸のパーティにてウラヌスが出会った”イヌカイのおじいさん”。その正体は第29代内閣総理大臣の犬養毅その人であり、ウラヌスに世界中の人々が輪になって笑い合えるようなスポーツの尊さを語っている。東京都知事が熱心に進める東京オリンピック招致にも関心を示し、その意向は記者である田畑にも語っていた。

 ロサンゼルスオリンピック壮行歌の発表会に田畑から招待を受けていたが、その直前に青年将校の襲撃を受け、暗殺される。

 

[史実]

 立憲政友会総裁や各大臣、内閣総理大臣などを歴任した大物政治家。浜口内閣で締結されたロンドン海軍軍縮条約によって表面化した統帥権干渉問題を受けて行動を起こした青年将校により暗殺される(五・一五事件)。その際の「話せばわかる」「問答無用」のやり取りはあまりにも有名。

 史実でも同日、東京都内にてロサンゼルスオリンピック壮行歌の発表会がある予定だったが、この五・一五事件によって延期になっている。

 

 

 

<ロサンゼルスの人々>

・イノウエ

誕生日:6月15日

身長:156cm

体重:微増(トレーニングをはじめた筋肉効果らしい)

スリーサイズ:B:72、W:54、H:78

 

 ロサンゼルスで障害飛越ウマ娘に憧れてトレーニングしていた、日系アメリカ人のウマ娘。しかしアメリカ国内で広がる有色人種への差別によってトレーニング場所で白人と走ることができず、空き地を転々としていた。一人称は”俺”。

 今までは憎しみや悔しさで競技に入れ込みすぎるところがあったが、ロサンゼルスでウラヌスと西に出会い、二人の走りを見てからは少しだけ考えを変えて、世界で多くの人々と競い合うことを目標に、プロのバ術ウマ娘を目指すようになる。

 かつては誰にでも強く当たり、外の人間を拒絶していたが、それは差別を背景とした理不尽な現状を”ナメられていたから”と考えていたため。ウラヌスと出会ってからはやや口が悪くも、競技に対して熱い想いを持つようになり、いつかオリンピックに出場することを目標にしている。

 ロサンゼルスの日系コミュニティにいて、幼いころから面倒を見てもらっているらしい。

 座右の銘は「Go for broke!(当たって砕けろ!)」。

 

 

・門番

 1932年オリンピック ロサンゼルス大会中、メイン会場だったロサンゼルス・メモリアル・スタジアムの門番をしていたガタイの良い男。元アメリカ陸軍軍人だったが、紆余曲折あり門番の仕事を任されていた。

 元々真面目な性格で、オリンピックでは規定に従いアジア人の立ち入りを止めていたためにイノウエらと対立していたが、西とウラヌスの走りを見て、人種や国の隔たりのない、美しい走りに感銘を受けてイノウエに謝罪する。その後はイノウエに気に入られて振り回されるようになり、イノウエの練習場所選びやタイムキーパーをするようになる。そしてそうしている内にいつの間にか彼女のトレーナーになる。ウマ娘については勉強中で、トレーナーになってからもいつもイノウエの言う通りに振り回されているため、外から見たらどっちがトレーナーかも分からないらしい。

 元々陸軍に入っていた伝手で、どうにかイノウエを正式な競技ウマ娘にできないかと奔走している。

 実は、本名は「ミラー」。

 

 

・おばちゃん

 ロサンゼルスの小料理店で働くおばちゃん。イノウエと古くから親しく、いつも応援している。職がなく、生活に困っていたところを親切な料理屋の主人に拾われ、今は比較的安定した暮らしができているらしい。いつかイノウエが競技場で走ることができるのを楽しみにしている。

 

 

 

<ロサンゼルスオリンピック出場選手>

・エンパイア

誕生日:11月10日

身長:175cm

体重:増減なし(貴族たるもの、体重管理は基本らしい)

スリーサイズ:B:88、W:65、H:93

[跳べ、ウラヌス]

 ロサンゼルスでのウラヌスのライバルの一人。スウェーデン代表、4番。高貴な家の出で、所作の一つ一つが綺麗で、スウェーデン軍服を元にした美しい王族のような勝負服を身に着けている。トレーナーはクラレンス・フォン・ローゼン中尉で、彼もまた代々バ術に関わる名家の出。家族の中にはオリンピック委員会に深くかかわる者もいる。

 アメリカやイギリスの障害飛越大会でいくつもの優勝を飾っているスターで、オリンピックの優勝有力候補だった。優勝には惜しくも届かなかったものの、難関コースを初めてゴールし、銅メダルを獲得している。

 ノブレス・オブリージュを体現した性格で、誰にも等しく礼節を重んじ、勝負になると手を抜かず全力で相手する。北欧の凛々しい軍服を着た、中性的で王子のような見た目も相まって、ヨーロッパのバ術界では大スターになっている。一人称は”わたくし”、相手のことを”貴公”と呼ぶ。

 トレーナーのローゼン中尉がパイロットのため、よく一緒に乗って空の旅をしているらしいが、やや操縦が荒いらしく本人は正直少しだけ苦手。

 オリンピック後は引退を考えていて、トレーナーからエアショーに出ようと持ちかけられているが、トレーナーを引き止めてもう少しバ術を続けようか迷っているらしい。

 

[史実]

 1932年にクラレンス・フォン・ローゼン中尉の愛馬として1932年ロサンゼルスオリンピックの障害飛越競技に出場し、銅メダルを獲得する。ローゼン中尉とエンパイア(Enpire)は、アメリカとイギリスでの大会で優勝経験もあり、優勝最有力候補の一組だった。

 ローゼン中尉はオリンピック委員会書記長の父を持つ名家出身の軍人で、パイロットでもあった。ローゼン中尉はロサンゼルスオリンピックにて馬場馬術、クロスカントリーにもサニーサイドメイドという馬と共に出場し、個人戦でそれぞれ5位、3位の結果を残している。しかし翌年・1933年に航空機・Sk10でエアショーに出場した際に、飛行機事故で死亡。28歳という若さだった。

 

 

 

・ショーガール

誕生日:5月19日

身長:172cm

体重:ヒミツ!

スリーサイズ:B:93、W:59、H:90

[跳べ、ウラヌス]

 ロサンゼルスでのウラヌスのライバルの一人。アメリカ代表。実は葦毛で、綺麗な白っぽい髪の毛。アメリカンガールらしい陽気な性格だが、バ術選手として様々なパーティに出入りしているためか、所作はとても綺麗。誰にも隔たりなく陽気に接する、沢山の人に好かれるタイプ。その葦毛の美貌と性格から、オリンピック前から注目されていたウマ娘の一人だった。

 ロサンゼルスではウラヌスの前の10番で、僅か12点減点の暫定一位で完走する。

 トレーナーはチェンバリン少佐。1920年のアントワープ大会からオリンピックに出場している大ベテランで、本人も陸軍随一の運動能力を持っているらしい。

 オリンピック後にはトレーナーのチェンバリンと共にバ術を引退する予定だったが、ウラヌスたちの熱意を見て、まだ続けようかトレーナーと相談したいらしい。

 

[史実]

 1932年ロサンゼルスオリンピックの障害飛越競技で、ハリー・チェンバリン少佐と共に銀メダルを獲得した葦毛の馬。目立つその毛並みと美しさから、競技中は特に注目された馬だった。アメリカが障害飛越競技でメダルを獲得したのは、これが初である。

 チェンバリン少佐は1920年のアントワープ大会、1928年のアムステルダム大会にも出場した大ベテラン。第一次世界大戦に第161歩兵旅団の副官として参加した際は終戦後も欧州を視察、イギリス騎兵連隊なども訪問して馬の技術を学び、アメリカに持ち帰った。ロサンゼルス大会では障害飛越競技のほか、総合馬術競技にも出場。団体戦ではアメリカ、フランス、オランダ3国のみの参加とはいえ、見事アメリカを勝利に導き、金メダルを獲得した。ロサンゼルス大会後は騎兵旅団長などのキャリアを積み、第二次世界大戦にも参加。1942年にはニューヘブリデス島防衛の指揮を任されるが、戦中に病を患い、本国に帰還した後死亡した。馬術において多大な功績を残し、アメリカ障害飛越選手の殿堂入りを果たしている。

 

 

・そのほかの参加選手(ウマ娘&トレーナー)→(結果)

1番:エルアス & アンドレ・ボカネグラ(メキシコ)→失権

2番:ベイブ・ウォーサム & ジョン・W・ウォホード(アメリカ)→失権

5番:ガングロ & カルロス・メヒア(メキシコ)→失権

6番:ジョー・エルシャー & ウィリアム・ブラッドフォード(アメリカ)→減点24

7番:(棄権)

8番:ウルファ & アルケ・フランケ(スウェーデン)→失権

9番:ピネロ & プロコピオ・オルチッツ(メキシコ)→失権

12番:コルネット & エルンスト・ハルベルグ(スウェーデン)→減点50

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

「年表」

 

<1886年>

・初の近代オリンピック、アテネ大会開催。

 

 

<1892年>

・今村安、生誕。

 兄・振(のち台湾銀行勤務)、均(のち陸軍大将)に次ぐ、名家の三男に生まれる。

 

 

<1900年>

・オリンピック パリ大会開催。

 初めてバ術がオリンピック競技となる。

 

 

<1902年>

・西竹一、生誕。

 

 

<1907年>

・イタリア陸軍、バ術、特に障害飛越においてフェデリコ・カプリッリの新方式を採用。

 「自然バ術」が生まれ、近代障害飛越の基礎が固まる。

 

 

<1912年>

・西竹一の父・西徳二郎が死去。

 西竹一、西家当主の後を継ぎ、幼くして男爵(バロン西)となる。

 

・オリンピック ストックホルム大会開催。

 短距離走で「三島弥彦」、マラソンで「金栗四三」が日本人初のオリンピック選手として参加。 

 

 

<1913年>

・アメリカ、カリフォルニア州にて、日系移民の土地利用を制限する「排日土地法(外国人土地法)」が成立。日米関係の悪化に繋がる。

 

 

<1914年>

・第一次世界大戦 勃発。

 大戦により1916年のオリンピック ベルリン大会が中止に。

 機関銃などの登場により、ウマ娘兵の活躍の場が大きく減る。

 

 

<1918年>

・第一次世界大戦、対戦国の間で休戦。 大戦の終結へ。

 

 

<1923年> 

・関東大震災。

 

 

<1924年>

・西竹一、川村海軍大将のご令嬢と結婚。

 のちに長男、長女、次女の三人の子供に恵まれる。

 

・西竹一、陸軍士官学校キ兵科を卒業。

 見習士官としてウマ娘をサポートするキ兵になる。

 

・オリンピック パリ大会開催。

 日本陸軍、バ術競技を初視察。

 

・アメリカにて「排日移民法(1924年移民法)」成立。アジア人移民の排除へ。

 

 

<1928年>

・オリンピック アムステルダム大会開催。

 近代オリンピックにて、ウマ娘以外で初の女性参加。

 日本陸軍、初のバ術競技参加。

 トレーナー:遊佐幸平、岡田小七、城戸俊三、吉田重友

 ウマ娘:先駆、卓出、久軍、丘山

 

 

<1929年>

・10月、暗黒の木曜日。世界恐慌、始まる。

 

・4月、今村安、イタリアのキ兵学校へ留学。

 冬、今村安、道中のイギリスにてソンネボーイと出会う。

 

 

<1930年>

・西竹一、休養をとり、アメリカと欧州へ遠征。

 道中、ハリウッドのダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻と知り合う。

 

・西竹一、今村安の電報によりイタリアへ。

 3月、ウラヌスと出会う。

 

・西竹一と今村安、ウラヌスとソンネボーイと共に、ヨーロッパ転戦。

 ナポリ、パレルモ、ローマ、トリノ、リュツェルン、アーヘンなどの国際バ術競技会に参加。

 今村安、ソンネボーイと共に、ヨランダ王女杯にて、国際バ術競技会での日本初優勝

 

 

<1931年>

・満州事変 勃発。

 

・7月、西竹一と今村安、ウラヌスとソンネボーイを連れて日本に帰国。

 ウラヌスとソンネボーイ、正式に日本陸軍のウマ娘になる。

 

・ウラヌス、建設中の府中レース場前にて、アスコツトと出会う。

 

・10月、東京市会にて、「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で可決。東京オリンピック開催への機運が高まる。

 

・10月、アスコツト、中山秋期開催でメイクデビュー戦に勝利。

 

・フランス パリにて、1936年夏季オリンピック開催地投票。

 ベルリンがバルセロナを破り、圧勝。

 

 

<1932年>

・五・一五事件。犬養毅、青年将校らに暗殺される。

 犬養毅が参加予定だった、オリンピック壮行歌「走れ、大地よ」の演奏会が延期に。

 

・目黒レース場にて初の「東京優駿大競走(日本ダービー)」開催。

 

・3月、府中レース場の本格的な建設が始まる。

 

・西竹一とウラヌスら、ロサンゼルス大会に先駆けてアメリカ入り。

 ウラヌス、イノウエと出会う。

 

・オリンピック ロサンゼルス大会開催。

 障害飛越競技に西竹一、今村安、ウラヌス、ソンネボーイの日本選手団が出場。

 今村安とソンネボーイ、第10障害に阻まれて失権。

 

 西竹一とウラヌス、オリンピック最後の大賞典飛越競技(グランプリ・デ・ナシオン)にて優勝。

 

 

・カリフォルニア州アケーディアにて、レース場の建設構想がまとまる。

 西竹一とウラヌス、工事現場を視察へ。

 のちの、皇帝・シンボリルドルフも走った「サンタニアパークレース場」。

 

・西竹一、ウラヌスと共にベルリンオリンピックと東京オリンピック参加への意志を固める。

 

 

 

・11月、ドイツ国会総選挙にて、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が圧勝。

 アドルフ・ヒトラー、ドイツの全権掌握に向けて動き出す。

 

 

 

・・・・・・

 

 

<後編 次回予告>

 

 

 ロサンゼルスオリンピックを終えた西とウラヌス。

 二人は日本へと戻り、次のオリンピック、ベルリン大会への挑戦が始まる!!

 

 

「お久しぶりだねえ、ウラヌスー!」

「あんたは……!」

 

「頼む、この子を、立派な飛越ウマ娘にしてほしい」

 

「え、37戦中、30回入着!?」

「えへへ、ぶい!」

 

 

 別世界からの新たな仲間。

 

 

「これからはボクがあなたのトレーニングをサポートします!」

「ひぃ! こ、これが、友情……トレーニング!?」

「鬼だねえ、ソンネちゃんは」

 

 

 万全の体制でベルリンへと向かうウラヌスたち。

 歴史は進み、新たな物語が幕を開ける。

 

 

 だが……。

 

 

「攻撃目標は、警視庁!」

「合言葉は……」

 

「通しなさいよ」

「あんたたちのやり方は間違っている!」

 

「よしてください、ウラヌスっ!」

 

「何もかも滅茶苦茶だよ」

「俺たちがロスで見た景色は、幻想だったのかねえ」

 

 

 歴史と共に移り行く日本。

 

 そしてその変化は、オリンピックにも……。

 

 

「所詮、”ヒトラーのオリンピック”さ」

 

「ナチスはオリンピック期間中だけ、ユダヤ人差別を抑えているんだよ」

 

「……一体なんなんだ、このコースは」

 

「あの子はそんなことしない! あんたたちみたいな奴らに、あの子とトレーナーの何が分かるっていうの!?」

 

「我がドイツは、君ら日本選手団の働きに感謝しているよ」

 

 

 暗雲が立ち込めるオリンピック。しかし、希望はまだ残っていた。

 

 

「この東京で! 盛大にぶち上げてやろうじゃんねえ!!」

 

「イノウエたちを思い出す。絶対に皆で会うって約束したから」

 

「君たちなら絶対に、もっともっと高く跳ぶことができる!」

 

「トーキョー! トーキョー! トーキョーで決まりだっ!!」

 

 

 彼女たちの希望は、夢の”TOKYO”に託された。

 

 ただ、その道のりもまた、長く、険しいものになる。

 

 

「今この状況で、中国が賛成するとお思いですか?」

 

「これだがね、我が陸軍に選定を任せていただきたい」

 

「いいわけないだろっ!」

 

「今だからやるんでしょう、オリンピックを!」

 

「もう無理、無理なんだよ」

 

「それでもトレーナーは、私と一緒に走ってくれるんでしょ?」

 

 

 歴史は動き出す。

 

 

 それは光か闇か

 

 

 夢の舞台、世界中が一つになれる、オリンピック。

 

 

 彼女たちの行く末は、未来の競技結果は、まだ決まってはいない。

 

 

 彼女たちは走り続ける。

 

 

 

「あなたの相棒……あの子の……ウラヌスの隣にいてあげてください」

 

 

 

 瞳の先にある、ゴールだけを目指して――。

 

 

 

 

 

 『跳べ、ウラヌス』、激動のベルリンオリンピック編、冬期間中にスタート!

 

 

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

 

 

「臨……スを……」

 

 

 

 

 

「臨時……ース……」

 

 

 

 

 

「臨時ニュースを……します」

 

 

 

 

 

「大本営陸………」

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

「臨時ニュースをお伝えします」

 

 

 

 

 

 

「臨時ニュースをお伝えします」

 

 

 

 

 

 

 

 

「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「帝國陸海軍は本8日未明、西太平洋にて、アメリカ、イギリス軍と………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”もし変えたい未来があるとして、そんな、取り返しのつかない、辛い未来があったとして……”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”変えたいよな、そんな未来を”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




設定の大半は史実の資料を基に組み上げています。
果たして物語は、史実からどう変化していくのか……。

ベルリンオリンピック編、ご期待ください。


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#10 新たなる希望

ロサンゼルスオリンピックを終えたウラヌスと西竹一。西はロサンゼルスから去る直前、一人の日本陸軍騎兵少佐と言葉を交わす。その後、ウラヌスと共に横浜で出会ったのは、以前見たことがあるレースウマ娘の勇敢なる姿だった。
新たな仲間、日本ウマ娘の”新たなる希望”と共に、ウラヌスと西の次の飛躍が始まる……。
「跳べ、ウラヌス」後半戦、1936ベルリンオリンピック編、ついにスタート!

「騎」の字が公式で確認されたため、キ兵→騎兵表記になりました。やったね。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


1933年初期 ロサンゼルス日本国総領事館

 

「失礼します」

 

 雪がちらつき寒さが響くロサンゼルス。その中心にある、日本国旗とアメリカ国旗が掲げられた大きな建物の一室に、西竹一はやや慌ただしくも背筋を伸ばして入った。いつもの軍服姿だが、チェッコ式の大きな帽子は腕に抱えている。

 

「やあ西君、よく来てくれたね。でも30秒遅れだよ」

 

 そう言って眉を上げて小さくしかるのは、西と同じく軍服姿の男だった。

 西よりも年上で、上着を崩し白いシャツを見せた格好をしていた。その雰囲気は近所の気の良いおじさんといった具合であまり軍人らしい雰囲気はないが、肩には少佐の階級章が載せられていた。

 

「はは、噂通り時間には厳しいご様子で。大使も少し困っていた様子でした」

「む、軍人以外にはうるさく言っているつもりはなかったのだが、これからは気を付けよう」

 

 そう言って”茶でもどうだ”と立ち上がるのを、西が”いえ遠慮なく”と静止した。

 

「まあでもね西君。軍人としては時間は大事なものだよ。”勝敗は最後の数分時”というがね、戦車だ飛行機だという今の時代、勝敗を決するのは30秒かそれ以下。ここが戦場なら、30秒の間に何百人の部下が倒れてしまうのかを、これから指揮官になるかもしれない我々は考えなければいけないんだよ」

「なるほど噂通り真面目なお方だ。私も背筋が伸びる思いですよ」

「おっと、少し説教臭くなってしまったね。これだと、評判の私のユーモアも受け入れられなくなってしまいそうだ」

 

 少佐は笑いながら”まあ座りなさい”と言い、西もそれに従った。

 

「噂はかねがね聞いております。騎兵学校時代は、気性の荒いウマ娘相手でも熱心にトレーニングを行う名トレーナーだったとか」

「はは、今世界の中心にいる男にそう言われるとは変な具合だな。こちらも金メダリストが直々に会いに来てくれるなんて嬉しい限りだよ、本当に」

「ええ、妻にも驚かれましたよ。そろそろ帰国なのですが、同じ騎兵畑で有名だった方がこちらで観戦武官をしていると聞いて、車を飛ばしてきました」

「ウラヌス君はいないのかい。ここ最近はウマ娘の子たちと話す機会すらあまりなくてね。オリンピックの話なども直接してみたかったのだが……」

「それなら気が利かなかったようで申し訳ない。ウラヌスはこれからトレーニングに向けた休養中で、移動は控えさせているんです。この後すぐ合流しますが、少佐もいかがですか」

「それは残念。これから視察のために列車に乗らなければいけないからね。日本に戻ってからゆっくりとお話をさせてもらうよ」

 

 そう言って少佐は机に置いてある手紙を取り、”よし”と言って立ち上がった。

 

「……手紙ですか?」

「もう2年以上も日本から離れてしまっているからね。こまめに家族に手紙を送ってやらないと。可愛い娘がいるんだ。だから、ほら」

 

 少佐は、西に直筆の手紙を嬉しそうに見せた。

 少佐の手紙には、アメリカ人の子供が三輪車に乗って遊んでいる絵が連なって書かれていた。優しい絵のタッチからは、陸軍大学校を首席で卒業したという優秀な軍人といった雰囲気ではなく、温かな父親を感じさせられた。

 

 ”お父さんはこうしてアメリカの子供達が遊んでいるところに出会うと、必ず立止ってじっとしばらくそれを眺めています。太郎君やたこちゃんも、こうして元気に遊んでいるのかと思うと、少し寂しくなります”

 

 その後も妻を気遣い、家族を想う文章や絵が重ねて書かれていた。

 

「たこちゃん?」

「ああ、娘のことだよ」

「絵がお上手で。これは漫画というものですかな」

「うむ。少し恥ずかしいがね、描くと子供たちが喜ぶんだ。西君も家族がいるのだろう。手紙の一つや二つ、出さないと子供たちが悲しむぞ」

「私も、ウラヌスに叱られてたまに手紙を出すようになりましたよ」

「良い心がけだね。ウラヌス君に感謝だ」

 

 西は心の中で”相変わらず素っ気ない文章らしいが”と付け加えた。相変わらず愛情のこもった手紙とやらは苦手なのだと、西は心の中で苦笑した。

 

「ええもう、トレーニング以外では、彼女に頭が上がりませんから」

 

 少佐は西と共に大使館を出た通りを越え、向かいにあるポストに手紙を出した。少佐は満足げな一方で、少しだけ寂しそうな表情を見せた。

 

「手紙ではいつも、アメリカの様子を書いているよ。通りでは自動車が行きかい、子供たちも活き活きと遊んでいる。先のオリンピックもたまげたものだった」

「ええ、私も沢山のアメリカ人と話をしましたが、そこで話されることにはいつも驚きで溢れています」

「西君も、アメリカで友人ができたかね」

「ええ、沢山できました。」

 

 西は大使館の前を歩く人々を眺めながら笑った。そうしながら、西は沢山の友人の姿を思い浮かべていた。フェアバンクスやピックフォードだけではない。イノウエらロサンゼルスで知り合った仲間や、競い合ったウマ娘とトレーナーたち。

 西は再びそんな沢山の仲間たちがいる地を離れることを想像し、少しだけ寂しさを覚えていた。

 

「……西君。君は、アメリカ人と戦争できると思うかね」

「はい?」

「排日移民法が成立されて移民差別が進んだのもあってか、アメリカとの戦争を望む声も少なくはない。だが、実際に見てみてどうだ。圧倒されたよ。技術や産業は圧倒的。それに何よりも彼らは勤勉で、決して反米派が思うような軟弱な国民ではない」

「……ええ」

「アメリカ人と戦争をしてはならない。そうは思わないか」

 

 少佐は真剣な顔をして西を見た。西はそんな表情に一瞬驚くも、帽子を被りなおして少佐のほうを見た。

 

「……私は軍人ですから。そうなったときは、軍の意向に従うまでです」

「そうか。驚いたな。君はめっぽうな遊び人と聞いていたから、軍に関してはある程度物いうと思っていたのだがね」

「はは、私にも貴族としての義務がありますから。ただ遊び人と言われるのは本当ですがね。先日もバ術士官のパーティーの後、皆でカジノに……」

 

 庶民派である少佐は、そんな西の話を聞いて少しだけ渋い顔をしていた。

 

「おっと失礼」

「……遊びまわるのも良いけどね、君には相棒のウマ娘のウラヌス君もいるからね、あまり軍の中で浮くのも良くないよ。実際、君らのような、バ術選手としての騎兵を快く思わない連中もいる」

「私はこれが取り柄でもありますから、今更止まれませんよ」

「まあしかし、ウラヌス君には”ここ”まで連れてきてもらったんだから、あまり心配かけちゃいけないよ」

「ええ、それは肝に銘じておきましょう」

 

 少佐は西とひとしきり話した後、腕時計を見た。”列車の時間だよ”と、参ったといった表情で西を見た。

 

「それじゃあね西君。ウラヌス君によろしく」

「ええ、またお話できますかね」

「どうかな。君と私とでは、”生まれ”も性格も違うからね。真逆と言って良いかも」

「では、むしろ会わないほうが?」

「はは、そうかもな」

「ええ、それではお互いの居場所に戻りましょう」

「うむ、ではまた」

 

 少佐は鞄を持ち、柔らかな表情で襟を正した。

 

「そういえば、陸軍から伝言を頼まれていたんだ。君、陸軍からの指令くらいすぐ読みたまえ」

「ああ失礼、ウラヌスがいないととうっかり」

「全く、真面目なんだかそうじゃないんだか……」

「それで、指令とは」

「ああ、指令というかお願いだね。依頼主は……”東久邇宮殿下”。宮さまだ」

「ああ、殿下」

「ああって、君……皇族とも知り合いなのか」

 

 東久邇宮とは、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)のことだった。

 東久邇宮は皇族軍人であり、フランスに7年間も留学した欧米にも通じる知識人であった。フランスでは愛人を作るような軍人としても皇族としても自由人であり、同じく自由な貴族軍人である西とは気が合い親交があった。バ術競技が盛んなフランス留学経験があり、ウマ娘にも精通していることから、西とはバ術やバ政に関する話をよく交わしていた。

 

「君に、ウマ娘について相談したいから会えないかと。何でも民間からの大切な話であるから忘れないようにとのことだ」

「ウマ娘……民間? それで、場所は?」

「ああ、場所は……横浜だ」

 

 西の先輩である騎兵将校、”栗林忠道”少佐は、”帰国早々大変だな”と笑った。

 

 

・・・・・・

 

 

1933年 5月14日 神奈川県横浜 根岸レース場

 

『やってまいりました、横浜特別。さあ、昨年の横浜特別では新星・ワカタカが勝利しましたが、今年はどのようなレースが待っているのでしょうか』

 

 会場内に実況と大歓声が響き渡る。

 横浜・根岸レース場。

 最近開設したばかりの新しいレース場で、スタンドは鉄筋コンクリート製の地上7階。日本では珍しいエレベータが備えられている。スタンドからは港と富士山が一望できる、間違いなく東洋一のレース場だった。

 日本でのウマ娘のレースは、”レースクラブ”と呼ばれる団体がレースを開催・運営しているが、その中でも横浜の”日本レース・クラブ”は、唯一政府からの補助金を受け取らずに独立して運営している、財政的にも安定したレースクラブだった。だからなのか、横浜のウマ娘レースは施設も良く他よりも一段と盛り上がりを見せていた。

 

 私、”ウラヌス”はそんな活気に圧倒されながら、ロサンゼルスから日本に帰った後に、トレーナーと並んでレースを見ていた。

 

「ねえ、なんで私はロスから帰った後に横浜にいるのかしら」

「しょうがないじゃないか。宮さまからの頼みなんだから」

「宮さま?」

「日本の皇族のことだよ。その中のお一人が私の友人だ」

「本当にトレーナーは交友関係が広いわねぇ」

「それに良いじゃないか。たまにはレースを見て盛り上がるのも。同じウマ娘として、感じるところもあるだろう」

「まあ、それも良いけどね」

 

 それに、日本に帰ってからトレーナーとゆっくりでかけることができるのも、何となく嬉しかった。……ゆっくりではないか。

 

『今回の注目馬はアスコツト!!』

「……え?」

 

 ぼーっとスタンドからレース場を見渡していると、実況席から聞き覚えのある名前が飛び出してきた。

 

「アス……コツト……?」

『現在重賞3連勝中のアスコツト、最後のレースです。トレーナーを務めるのは、3年前にハクショウに伝説の逃げを打たせた期待の星・尾形トレーナーであります。』

 

 以前府中で出会ったあの栗毛のウマ娘。しかしあの時のあどけない新米レースウマ娘とは違う。闘志に満ちた凛々しい瞳、そして鍛え上げられたトモ。間違いなく、一着だけを目指すレースウマ娘がそこにいた。

 

「アスコツト……ああ、以前ウラヌスが言っていたあのウマ娘」

「ええ。でも、横浜特別ってかなり大きなレースよね。まさかこんなに……」

「うむ。良いな、あのウマ娘。本格化も終えているだろうが、まだまだ伸びしろがありそうだな」

 

 レースではないとはいえ、陸軍で数々の名ウマ娘を育ててきたトレーナーから見ても、アスコツトは仕上がっているように思えるようだった。

 

「でも、引退だってさっき……」

「ああ、みたいだな。彼女はもう3年走っている。レースウマ娘としては引退してもおかしくない時期ではあるね」

 

 レースウマ娘の選手生命は長くない。デビューがやや遅めなら3、4年走り続けられば御の字だ。特にこの頃のレースウマ娘は一週間に3回もレースに出ることも珍しい事ではないし、それだけ無理に走ったら自然なことだ。

 全力疾走せず無理なスケジュールを組むことも少ないバ術ウマ娘の選手寿命は10年以上にも及ぶ。だからバ術ウマ娘の私からしても、命を削って走る彼女たちは、どこか別の世界の住民のように思えた。

 

『アスコツトは先月には中山四千米と帝室御賞典、更に目黒記念といった大競争で連勝しています。そして迎えたこの最後のレース、勝つことができるのでしょうか』

 

 アスコツトほか各ウマ娘が発バ機につく。レースクラブのスターターもスタート地点に置かれたやぐらに登った。

 使われている発バ機は白いテープがスタートラインに置かれた”バリアー式発バ機”だ。スターターの合図でテープが上に上がり、その瞬間にレースが始まる。当然バ術にはないため、珍しさを感じる。

 

「よーい……」

 

 スターターが旗を上げ……

 

「スタート!」

 

 振り下ろす。その瞬間に白いテープは上方に撥ね上がり、その下を一斉にウマ娘が駆けて行った。

 

『スタートしました。一番人気のアスコツトが先行しております。流石の加速力。他のウマ娘の追随を許しません』

 

 アスコツトは発バ機を飛び出し、中からすぐに先頭につく。

 スタンドの最前列にいると、鼓膜が破れそうなほどの大歓声が響き渡る。トレーナーもこれほどの歓声に慣れていないせいか、なぜか私の耳をぺたっと倒してくれていた。

 しかしアスコツトたちレースに臨むウマ娘はそんなことも気にせず、堂々と芝を駆けていく。

 

 特にアスコツトは先頭を譲らない。アスコツト以外に前に出る馬はいない。その走りに他のウマ娘たちもその迫力に圧倒されているのか、後ろのウマ娘は既に”むりー”と言い、思わずといった具合に声を出して後退していく。

 

「す、すごいっ……!」

「ああ、あのウマ娘は……!」

 

 私とトレーナーは思わず前のめりになってアスコツトの走りに見入ってしまう。

 

 数々の重賞も潜り抜けてきたのだろうアスコツト。その走りは、とても引退するウマ娘とは思えない、現役の、最高のウマ娘の走りだった。

 私は思い出す。府中で姉妹の活躍を背負いながらも戦わなければいけない運命に少し不安を感じていた表情。そんな彼女はもういない。あの時とは別人のよう。

 

「(でもそれは……私も同じか)」

 

 私もあれから変わった。オリンピックという世界の舞台で戦い、トレーナーと一緒に金メダルを取れた。沢山の仲間と笑いあい、”世界最強のウマ娘”に近づけた。だからアスコツト……あなたも……

 

『さあ、早くも第3コーナーに入りました。先頭は依然一番人気アスコツトでございます』

 

 私を見たら同じことを思ってくれる? 私も今のあなたみたいに、かっこよくて、輝いて見えるかな。

 

「……っ、頑張れー! アスコツトー!!」

 

 私が叫んだ瞬間、アスコツトがちらりと目線を投げかけてくれたかのように思えた。

 そしてアスコツトは瞬間、ふっと笑みを浮かべ、堂々と、しかしどこか静かにゴールラインを踏んだ。

 

『アスコツト、ゴールイン! 中山四千米、帝室御賞典、目黒記念に続き、第11回横浜特別を制し、有終の美を飾りました。タイムは3:31.1……』

 

 1933年5月14日、一人のウマ娘が、ターフの上での、ウマ娘としての生活を終えた。

 

 

・・・・・・

 

 

「最高の走りだったわ。お疲れ様、アスコツト」

「やっぱりウラヌスだったかあ。ありがとうねー」

「覚えていてくれたんだ」

「うん。びっくりだよ。スタンドから聞こえる声でもしかしたらって思ったらさ、ウラヌスがいたんだもん。最後は正直キツかったけど、声が聞こえてきてね。嬉しかったよー」

 

 横浜特別が終わり、開催も終えた人がまばらのレース場。私とアスコツトは久しぶりの再会を果たした。トレーナーは”あっちで話してくるからアスコツトとゆっくり話すと良い”と言って、スタンドを上って行った。

 

 横浜特別の結果はもちろん、アスコツトの、堂々の一着だった。

 アスコツトはこれでレースは引退。アスコツトが得た賞金額は68423円。それまでのどのウマ娘よりも多くの賞金を稼いだウマ娘となった……らしい。

 当の本人はどこかのんびりしているから、こうして目の前にいても実感が湧かない。でも、さっきのレースでの走りを見たら納得した。

 

「もう引退式は終えたの?」

「うん。沢山の人たちが来てくれていてね。何だか……きらきらしてた」

「ふふ、きらきら、か」

 

 アスコツトの引退式には、その引退を惜しむ沢山のウマ娘ファンが詰めかけていた。実際、アスコツトはレースウマ娘としてはベテランと言えるくらいのレース歴だけど、未だに掲示板を外したことが一度もないし、安定した走りを続けている。まだまだ現役を望む声が多かった。

 

「私ね、去年は2着続きでどうしても1着に慣れなくて悩んでいたけど、ウラヌスが金メダルを取ったっていうニュースを聞いて、私もがんばろーって思えたんだ。私もあんな風に、堂々としていたいって」

「見てくれていたんだ。私たちのニュース!」

「えへへー、前よりはちゃんと見るようになったんだよー、ニュース」

 

 そういえば前会ったときに、ニュースを見ないから鬼トレーナーに怒られていたって言っていたっけ。

 

「でも、あの走りはあなたの頑張りに違いないわ。あんなに美しく走るウマ娘は知らないもの。綺麗だったわ」

「もー、照れるな。ありがと、ウラヌス」

「ああそうだ、これだけの走り、このまま引退させておくには惜しい」

「……え?」

 

 アスコツトと話していると、スタンドの奥からトレーナーより年上だろうか。40代くらいの男性が歩いてくる。その雰囲気はどこか厳かで迫力があり、目の前にいるだけで背筋が伸びるような異様な男だった。

 

「あ、トレーナー!」

「と、トレーナー!?」

「いかにも。私はアスコツトのトレーナーをしている、尾形だよ。以後、お見知りおきを」

 

 厳しいトレーナーだとは以前アスコツトから聞いていたが、予想以上だ。

 しかし尾形トレーナー……後から聞いた話だけど、日本のレース界で彼の名を知らない者はいないという。他には譲らないほどの優れた眼と腕を持つトレーナーで、去年も”ワカタカ”というウマ娘を逃げ切り戦法で勝利に導き、日本中で話題になったという。日本ウマ娘のレース界の地位向上を目指して礼節にも厳しく、誰よりも恐れられていた。そこからついたあだ名が……

 

「君が、ウラヌス君か」

 

 ……”関東の鬼”。

 

「は、はいっ!」

「ふむ……」

 

 そんな人物からじっくりと見られていると、何だか自分が悪い事でもしたのかとさえ思ってしまう。やましいことをしてこなかったかと振り返ってしまうような、緊張感がある。

 

「……ふふ。思ったよりも背が高くて驚いたよ。確かに良い脚を持っているね。オリンピック優勝、おめでとう。君はウマ娘の誇りだよ」

「あ、ありがとうございます?」

 

 ……あれ?

 

「ねーねートレーナー、私は?」

「もちろんアスコツトも、よく頑張ったね。さっきの走りも、私が見てきた中でも一番だったよ」

「えへへー、ちゃんとトレーナーの言ったこと、守ったからね」

「うんうん、本当に、君は私の誇りだ」

 

 さっきまでの厳かな雰囲気かとは一転、私達を目の前にすると表情を柔らかくして、相棒であるアスコツトの頭を優しくなでていた。

 

「トレーナーはね、少し怖いときもあるけど、私たちウマ娘にはすっごく優しいんだ」

 

 何かを察したアスコツトが、私に耳打ちして教えてくれる。

 その表情からは、尾形トレーナーへの信頼が滲み出ていた。なるほど、名トレーナーか。厳しいだけではない、この人の本物のウマ娘への愛が、この一瞬で見ることが出来た気がする。

 

「あの、アスコツトを引退させるのが惜しいって言ってましたけど……」

「ああ、うん。ウラヌス君も見ただろう、あの走りを。あの堂々とした一着を。しかも、今年に入って4走連続だ。とはいえレースウマ娘としての選手生命を考えた時に、これ以上走らせるわけにはトレーナーとしてできない。しかし……」

「ええ。あれだけ走れるのに勿体ないというのが正直……。」

 

 ウラヌスはスタートした後からもペースを崩さずに先頭を突っ走り、重賞に参戦しているからには強豪ぞろいであろうウマ娘たちの追随を許さなかった。

 

「なるほど、だからですか。彼女を私に預けるというお話は」

 

 アスコツトの今後について少し気に病んでいると、スタンドから私のトレーナーが降りてきた。

 

「西中尉、宮さまとのご会談は」

「殿下との話は済ませておきました。陸軍騎兵学校の件についても説明はいただいていますので」

「なるほど、それなら彼女を預けても問題ないね」

「……ちょ、ちょっと待って。話が見えないのだけれど」

 

 正直、ここに来てから宮さまとかアスコツトとか、尾形トレーナーとか状況が把握できないし、そもそもなんで横浜にレースを見に来たのかも分からない。

 

「ウラヌス君。私はね、アスコツトをこれからも走らせてあげたい。アスコツトも、そう思っているんだろう」

「うん。私、トレーナーのお陰で走るのが好きになれた。まだまだ、走ってみたい。まだ、果てを見ていないから」

「……うん。だからね、彼女の”未来”を、君たちに預けたい。”バ術”のウマ娘として」

「アスコツトを、バ術に転向させるってことですか!?」

「そうだ。彼女は器用にあらゆるトレーニングをこなすし、教えをよく飲み込んで素直な走りをしてくれる。脚の状態も十分だし、バ術……障害飛越でも十分戦えるウマ娘だ。次の人生を歩ませてあげたい」

 

 レースからバ術への転向なんて、日本では今まで聞いたことがない。

 そもそもウマ娘がレースで求められる能力と、バ術で求められる能力は違う。

 レースで求められるのはスタートの瞬発力と、純粋な走る速さ、そして並んでくるウマ娘に負けないという絶対的な闘争心。それを持ってレースに勝つこと以外は次のことであり、とにかく速く、勝つためのトレーニングをする。

 しかしバ術に求められるものは違う。コースを頭に叩き込み、時間内に障害を確実に跳ぶ力、そして常に落ち着きトレーナーに従い競技をこなす冷静さが必要。猛烈な闘争心を養い速さを求めてきたウマ娘にそれを求めるのは酷とも言えるかもしれない。

 

 まあ、でも……。

 

「私は嬉しいなあ、ウラヌスと一緒に、障害飛越の競技に出られるかもしれないからねえ」

 

 あのレース運びと今の様子を見ても、冷静さ、気性の荒さという点では、アスコツトは心配ないっぽいけど。

 ……むしろトレーナーと会う前にやさぐれていた私だったり、異常なほどにストイックだった”ライバル”、ソンネボーイの前の姿の方が、気性の荒いレースウマ娘っぽさがあったかもしれない。

 

「しかし、障害飛越とレースでは体づくりの点でも違いますし……」

 

 ただ何となくトモを見てみると、さっきのレース中にいたどのウマ娘よりもがっしりとしていた。障害をずっと跳んでいた私ほどではないにしても、安定して障害を跳べそうなくらいには仕上がっている。

 

「なに、心配いらないよ。私の知らないところで雇い主が坂道で車を引かせる練習をさせていたみたいでね、お陰で普通よりも仕上がっているから、障害を跳ぶための筋力も心配いらないよ」

「うんうん。もっと強くなれば、戦艦の弾薬運びもできるかも……でも、それは流石にきついかー」

「そこまでの物を運ぶほどに重くなられても困るわよ」

 

 しかしなるほど。引いていた”車”というのは人力車のことだろう。それを引きながら坂路の練習をしていたのなら、脚のでき方も納得だ。

 

「それにね、私は嬉しい反面、正直悔しいという気持ちもあるんだよ。ウラヌス君は日本人とは言えフランス生まれのウマ娘だ。日本の血が入った純血のウマ娘は今まで、オリンピックで結果を残していなかった。トリノで勝った今村さんのソンネボーイもイギリスからだろう。私はね、日本純血で、そして何よりも、私の相棒であるアスコツトが世界で活躍している姿が見たいんだよ」

 

 何の血が入っているのか……というのは、人間にとってはあまり関係がなくても、ウマ娘の世界では大いに関係がある大切な指標だ。一見差別的にも思える言葉だけど、競技においてはそうではない。

 ウマ娘の力というのは血統からくるものが大きい。体の仕上がりにしろ競技に対する執念にしろ、競技に適性のあるウマ娘から生まれるウマ娘は、また同じく適正を持って生まれてくることが多い。ウマ娘は、親から子へ、その想いを引き継いで走り続ける生き物だから。

 私やソンネボーイのように何百年も競技を続けてきたイギリスやフランスのウマ娘は、そういった意味では計り知れない力を持っている。それゆえに多くの国からオファーを受ける。

 しかしバ術でもレースでも、日本が本格的に競技に取り組みはじめたのは最近の話だ。こうして力を持ったアスコツトが現われたのは、これからの日本のウマ娘全体にとってチャンスと言えるかもしれない。

 

「宮さまとは話をした。もし西中尉が引き受けていただけるのなら、陸軍騎兵学校にアスコツトを入れると」

 

 それはつまり、私と同じ日本陸軍に入り、日本を背負ってバ術の世界に身を投じるということ。私の、ライバルになるということ。

 

「頼む。西中尉、アスコツトを、障害飛越で、世界で戦わせてやってほしい」

 

 そう言って尾形トレーナーは姿勢を正し、堅い表情で深々と頭を下げた。それはまるで、自分の大切な娘を、嫁に送り出す父親のように。はたまた、大切な息子を、戦地に送り出す時のように。

 

「……私は陸軍に籍を置く、一人のトレーナーに過ぎませんし、上官でもある殿下や、陸軍騎兵学校の意向に従うだけです。しかしそれを抜きにしても、アスコツトは……彼女は、私にも惜しいほどのウマ娘です。なので、尾形さんがそう仰られるのでしたら……」

 

 トレーナーは尾形トレーナーに向き直り、尾形トレーナーと同じく姿勢を正し、帽子を脱ぎ、頭を下げた。

 

「尾形さんの大切な愛バ、私が責任を持って預からせていただきます」

 

 トレーナーの言葉を聞くと、アスコツトはぱあっと明るい表情を見せた。

 

「ねえ聞いた、ウラヌス。これから私たち、ライバルだね」

 

 そう言って私に抱きつくアスコツト。喜んでいるようだけど、その反面、その無理なほどの元気さは、苦楽を共にしてきた尾形トレーナーとの別れを惜しんでいるようにも思えた。

 

「ええ、次に目指すのはオリンピックかな。一緒に頑張りましょう。私も、負けないから」

 

 でも、それでも、アスコツトは私たち日本陸軍の仲間で、同じ競技で戦うライバルになるんだ。後でソンネボーイにも紹介しなければいけない。

 私たちの様子を見て、トレーナー二人はどこか安心した表情を見せていた。

 

「……ところで西中尉。あなたの噂はかねがね聞いているよ」

「ええ、聞いていただけましたか。私とウラヌスの活躍を」

「ああ、それもそうだけど……君は軍人であり貴族ながら、大層な”遊び人”だと聞いているよ。奥さんもいながらね」

 

 空気が凍る。トレーナーは”しまった、知られていたのか”という具合に表情をこわばらせた。

 

「いや……そんなことありませんよ。ロスでも貴族らしい振る舞いを心掛けていて……なあ、ウラヌス」

「ロスでは毎日お酒とパーティー三昧で、カジノに入り浸っていた挙句女の人に手を出して、日本にも碌に手紙を送っていませんでした」

「おいっ、ウラヌスっ!?」

「ほう……?」

 

 尾形トレーナーはピキピキと音をたてるかのように表情を変えた。

 まあ、いいじゃない。いっつもトレーナーの遊び癖には困らされているわけだし、偶には仕返ししても。

 

「西中尉。私は常々周りのウマ娘に関わる者には言っているんだ。ウマ娘は神様に祀られた、この世で最も正直で神聖な存在だ。だからこそ、それに関わる者は礼節を重んじる紳士でなければならないと」

「あ、ええ、はい……」

「何もかもやめろとは言わん。私も酒は好きだ。それに大事なアスコツトを預けるんだ。西中尉の腕も人間も買っているつもりだ。でもね、さっきも言った通り、ウマ娘に関わるトレーナーとしての、最低限度の振る舞いというものがあると思うのだよ。ウマ娘についてだけじゃなくて、世間についても知らなければならん」

「はい、その通りです……」

 

 トレーナーは初めてみるほどに縮こまり、今にも地べたに正座しそうなくらいだ。

 

「ねえ、ウラヌスのトレーナーさんって、もしかして少し残念な人?」

 

 アスコツトが、これからお世話になるトレーナーに不安を抱いている。

 

「そこが良いところでもあるんだけどね。まあ、ただ、少しどころか結構残念なもんよ」

 

 羽振りは良いし優しいから、悪い人ではないんだけどね。腕は確かだし。

 

「とにかく、西中尉には今日みっちり教えることがありそうだ」

「はは……いや、私は軍務があるので……」

「なにか言ったかな?」

「た、助け……ウラヌス……」

「自業自得でしょう。たまには誰かに怒られた方が良いわ」

「そんなっ……!」

「こいっ、西中尉!」

 

 その日の夜、今まで聞いたこともないくらいの怒号と、大の大人の情けない声が横浜に響き渡った。

 なるほど、”関東の鬼”の名は本当のようだった。

 

 でも、日本の”新たなる希望”、その日のアスコツトは、尾形トレーナーとの別れを惜しむ寂しい表情ではなく、私と一緒に笑いながら過ごしていた。

 そうして日本ウマ娘の”新たなる希望”、アスコツトが、私たちの仲間でライバルに加わった。



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#11 放課後ティータイム

1936年のベルリンオリンピックに向けてトレーニングを始めるウラヌスとアスコツト。トレーナーである西は大尉に昇進し騎兵学校教官になり忙しくなっていたため、新しい”先生”がつくようで……?
トレーニングが終わった後、ウラヌスたちは、西欧風の喫茶店で、看板ウマ娘の”アリー”と共に言葉を交わす。ウラヌスたちは、そんな厳しいながら楽しい平和な時間を過ごし、ベルリンに向けてトレーニングを重ねるのだった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


「これからはボクがあなたがたのトレーニングをサポートします!」

 

 そんなソンネボーイの声が陸軍騎兵学校のトレーニング場に響き渡ったのは、1933年8月はじめのことだった。

 

「わあ、よろしくね、ソンネちゃん」

「……って、ウラヌスが呼び捨てで、何でボクはちゃんづけなんですか……」

「ええー、いいじゃない。なんか可愛くて」

 

 私たちが横浜レース場で話してしばらくして、尾形トレーナーは正式に宮さまの下に赴いたらしく、アスコツトを陸軍騎兵学校に預けることが決まった。そして晴れて私と同じトレーナーを師として、バ術競技の扉を開いた。すぐにトレーナーの下でバ術の基礎を教わって、早速今日から飛越の練習も始めようという事になったのだけれど……

 

「なんでトレーナーじゃなくて、ソンネボーイとイマムラがいるの」

「ご挨拶だなあ。良いじゃないか。私は西君の上官だよ?」

「別に良いのだけれど……そういえばイマムラを見るのは何だか久しぶりね」

「ああ、私は騎兵学校じゃなくて、今月から北海道の旭川騎兵連隊付きになったからね!」

「それじゃあ、ここにいたらまずいんじゃ……」

「いや、たまたま騎兵学校に用事があったからね。ソンネの様子も見たかったから、連隊に戻る前の空き時間に戻ってきた」

 

 じゃあこの人すぐ北海道に戻るのね……。

 

 それは良いとして、今は午前だけど、なぜか私のトレーナーがいない。代わりになぜかソンネボーイ&イマムラコンビが仁王立ちのドヤ顔でコースに立っている。

 

「おじさんはソンネちゃんのトレーナーさんかな」

「おじさんじゃなくて今村少佐と呼んでおくれ。アメちゃんあげるから」

「わーい!」

 

 イマムラは日本陸軍騎兵のおじさん的存在ということでウマ娘たちに慕われている。

 でもイマムラ、そこまでいくとただの不審者よ。

 

「あー、それで、トレーナーは?」

「言っておくが、西君は午後まで来ないよ!」

「なんで!?」

「西君は、めでたく大尉に昇進して騎兵学校の教官になったからね。昼までは”授業”があるんだよ。いやあ、私の10年前を思い出すなあ」

「ああ、なるほど」

 

 そういえば横浜から帰ってしばらくしたら、トレーナーが帰ってきて、昇進するんだと喜んで言っていた。ロスでの活躍が称えられたのもあるのだろう、しかも教官職まで任されるとは。

 でもトレーナーが先生かー。うーん……。

 

「ちなみに西君は教え子の将校たちと夜中に飲みに行くらしいけど、ウラヌス君のトレーニングにはしっかり出るからと言っていたから心配いらないぞ」

 

 やっぱり。尾形トレーナーに絞られた後なのに相変わらずだ。奥さんに怒られればいいのに。

 それに騎兵学校の教官ってことは、将校だけじゃなくてウマ娘の訓練もするのか。

 

「どうしよー、トレーナーが他の娘にうつつをぬかさないかしらーって感じ?」

「顔に出ていますね」

「あんたら、本当にぶん殴るわよ」

 

 別にトレーナーが他のウマ娘を教えることには何も思わないけど、あのトレーナーはああ見えても、トレーニングは鬼なところがあるから教え子の方が心配だ。

 

「……って話が逸れたわ。トレーニングのお話」

「ええ。ボクは大変悔しいながら、ロスではニシとウラヌスに惨敗しました。ボクはあなたがたに追いつくために、これから切磋琢磨して強くなっていくつもりです。ボクにとってあなたはライバル。だからこそ! あなたにも強いままでいてもらわなくては困るのですっ!!」

 

 ビシィと私を指して、ソンネボーイの宣戦布告とも言える言葉を受け取る私。しかし、それなら尚更私のトレーニングを見ていて良いんだろうか。

 

「それに、ソンネと私は次のオリンピックに出る予定はないからね。7年後に向けて調整する余裕がある。でもウラヌス君、そして新たにアスコツト君もだと思うけど、君たちにはあと3年と時間がない。私もソンネも君たちの走りを見て参考にもなるから、これからはちょくちょくトレーニングを共にさせてもらうよ。西君のいない間のサポートだと思ってほしい」

「なるほど、友情トレーニングだねえ!」

「何それ」

「レースのウマ娘が何人かでトレーニングするとね、皆がぼわーって能力アップする、育成には欠かせないシステムなんだよ!」

 

 アスコツトが言っていることはよく分からないけど、それでも”先生”がいない間のトレーニングを見てくれるのはありがたいことだ。それに、ソンネボーイとイマムラは、イタリアの騎兵学校で学んでいた生粋のバ術家だ。期待できる。

 

「……よし、それじゃあ、ソンネ、あとは頼むよ」

「え、は!? トレーナーもボクと一緒にいてくれるんじゃ!?」

「私はもう北海道の連隊に行かなければ。大丈夫。技術的なことは全てソンネに教えたし、十分に吸収している。あとは頼んだよ」

「はい。あの、トレーナー……今度は早く帰ってきてくださいね」

「ははは、今度は北海道土産を買ってきてあげるからなー」

 

 何を見せられているんだ私とアスコツトは。

 そして本当にイマムラはそそくさと騎兵学校を出て行った。

 ソンネボーイは自分のトレーナーの旅立ちを寂しそうに見送った後、ぱんと自分の頬を叩いてこちらに向き直った。

 

「……ごほん。ではトレーナーから任せられましたし、早速トレーニングに移りましょう」

「ソンネちゃん、トレーナーさんは良いの?」

「良いんです、どうせ来週また来ますし」

 

 あ、頻繁に帰ってくるのね。

 

「と、に、か、く! ボクのトレーニングは厳しいですよ! ニシやの比じゃないくらいに、ね」

「……なんだか悪寒がする」

「鬼だねえ、ソンネちゃんは」

「そこっ! 私語は慎むように! まずは走り込みからぁ!!」

「おっ、走るのは私得意だよ。ウラヌス、競争だね!」

「ひぃ! こ、これが、友情……トレーニング!?」

 

 鬼コーチがついただけではなく、走り込みの並走相手が元レースウマ娘だったのもあり、飛越練習の前に私の体はへとへとになるのだった。

 

 

・・・・・・

 

 

「ウラヌス、姿勢をやや低くして障害物を見ながら跳んでみてください!」

「ええっ、でも早めに前向いて次の障害物に向かった方がよくない?」

「いえ、助走と踏み切りの時には下を見たほうが良いんです。首を上げていると腰が変に湾曲しますから、踏み込みが悪くなります。姿勢も固くなりますからね。リラックスして跳んでみてください」

「うん、でも連続障害の時は?」

「踏み込み後の宙に浮いた段階で前を確認して、後は足元に集中するようにした方が良いですね。コースに関しては頭に叩き込んだうえでトレーナーの指示を聞けば良いので問題ないと思います」

「なるほど……。分かった。もう一回行ってみるよ」

 

 並走相手が相手なだけに地獄の走り込みとなったウォーミングアップを終えて、やっと飛越練習を始める。

 ソンネボーイのアドバイスは的確だった。ロスでは無茶が祟って失権になったとはいえ、元々は日本チームの優勝候補だったし、イタリアの本格的な騎兵学校で学んだという点では、理論で言うと私より勝ると言って良いかもしれない。

 

 ”自然バ術”。

 

 強豪国・イタリアで主流だった、バ術理論。従来のバ場バ術から発展した理論とは違い、飛越のために作られた無駄のない理論だ。自由な、自然な姿勢を主とし、イタリア留学をしていたイマムラが日本に持ち込んで、騎兵学校では話題になっている。実際、合理的な飛越に基づく理論を実践して見ると、確かに飛越が格段に良くなっていた

 

「……っ! よしっ、どうっ!?」

「少し硬いところもありますが、流石ですね。ウラヌスは跳び方が少し変わっているので、後でニシに見てもらって独自に修正していってください」

「うん、分かった! ……やっぱり私の跳び方、良くないかなあ」

 

 トレーナーと出会ったときにも言われたけど、私は跳ぶときに片脚を伸ばして踏み切り、思いっきり高く飛越する。普通は片脚も少し折り曲げて無理なく跳ぶのだけど、正直危なっかしい跳び方とも言える。

 

「いえ、これはこれで武器になる跳び方……とニシも言っていたんですよね。あなたのトレーナーが言うなら問題ないと思います」

「そうかー。良かった」

「逆にウラヌスは、他は変に癖づいてなくて良いです。学校の他のウマ娘に教えたこともあったのですが、こちらではバ馬バ術に影響されている飛越ウマ娘も多いので、そちらの方が少し困っていました。」

 

 日本陸軍のウマ娘は障害飛越の選手であっても、バ馬バ術の特徴を持つ歩き方・走り方をするウマ娘が少なくない。具体的に言えば、かかとを重心下にしてやや直立気味となり姿勢が良く見える”収縮”の体勢だ。日本陸軍のウマ娘はバ馬バ術の内容を参加競技に関わらず基礎教育に組み込んでいるみたいでこうなるのだけど、この姿勢は自由に伸び伸びとした姿勢にするべき障害飛越でする姿勢とは真逆だ。

 こういった癖は一度こじらせると直すのに2年はかかる。初期教育が飛越向けとは言えなかったのも、日本が今まで障害飛越で勝てていなかった理由の一つだろう。

 

 ……そういう意味では。

 

「よっほっ……よしっ! こっちもどう、ソンネちゃん!」

「おお、驚きましたよ、アスコツト。素晴らしい飛越ですね」

「えへへー、まぁね。でも、飛越と言っても、石ころくらいの高さじゃない、これ。しかも走る速さも、これくらいでいいの?」

 

 アスコツトが一周しているコースに置かれているのは、足首ほどの高さの横木だった。支えで少し高くなったものと地面に直置きされた横木が、3mごとに置かれている。

 それにコースを周るのも、駆足というより速足(はやあし)でとソンネボーイに言われたらしく、跳ぶというより跨ぐ具合だ。

 

「最初からいきなり高い障害は跳びませんよ。それに、こうすることで足元を見て、かつコースを把握して跳ぶ癖がつきます。こうして色んな障害物を跳ぶのもまた大切なことなんですよ」

「なるほどー、これだけでも飛越の良し悪しが分かるんだ」

「ええ、さっきウラヌスにも言った変な癖があるのかとかの確認にもなりますからね。ですが、アスコツトは、バ術ウマ娘にある変な癖もありませんし、素直な姿勢をしているので本当に良いですよ。これなら1年半後には飛越ウマ娘として十分仕上がると思います」

「ほんとに!? やったー!」

 

 たしかに前からのアスコツトの練習を見ているけど、レースで走っていたウマ娘とは思えないほどに癖がなく落ち着いていて、バ術の基礎もすぐ習得していた。当人の素直さもあってか吸収も早い。いつか私も追い抜かれてしまいそうなほどだった。

 

「よし、二人とも、今日はここまでにしましょう」

「もう終わりで良いの? 走り込み以外はアップ程度に思えたけど」

「ええ、時間は比較的まだあるので、一つずつゆっくりと進めていきましょう」

 

 そう言って練習コースに並べた障害を撤収しだすソンネボーイ。トレーナーが用意したトレーニングよりも遥かに疲れず早く終わった。

 

「ソンネちゃん、鬼だったらどうしようかと思ったけど、結構優しいね」

「ええ、いつもしかめっ面でストイックっ娘のソンネボーイだから、トレーナーより鬼のようなトレーニングをされるのかと……」

 

 そんな風にこそこそとアスコツトと話しながら片付けをする私。

 

「聞こえてますよ」

 

 ぎくっ。

 

「今日は初日ですからね。自然バ術の運動は、”易”から”難”に上り、最高潮に達した後に下っていく山なりのスケジュールでやるんです。無理な運動でモチベーションが下がっても困りますから」

「あー……ということは」

「明日からはだんだん難しくなっていくってことね……」

「ピークに達したらあとは簡単な運動になっていきますから、それまで頑張りましょう。それにまだですよ。ほら」

 

 ソンネボーイが指した先には、何やら笑顔のトレーナーが歩いてきていた。

 

「おおウラヌスとアスコツト。ソンネボーイもいるな。トレーニング、ありがとうな」

「いえ、トレーナーとニシのお願いですし、ボクがやりたいと言い出したことなので」

「うんうん。ソンネちゃんの教え方、凄く上手だったよー。ところでトレーナー、教官はどうだったのー?」

「ん、教官か。いやあ、教官というのも良いものだなあ! ロスの話も沢山聞かれたし、夜は飲みに行く約束までしちゃったよ。はははは!」

 

 相変わらずの目立ちたがりで人たらしのトレーナー、教官職は合っているようだった。

 

「そういえば先に教えていたウマ娘たちは”むーりー”とか言いながら皆倒れこんでいたぞ」

「まだ初日なのにあんまり騎兵学校のウマ娘を絞りすぎないの。嫌われても知らないわよ」

 

 まあ悪い人ではないしトレーニング自体も理にかなっているし、それに……まあ、万一にも嫌われることはないでしょうけど。

 

「ま、それはそれとして、それじゃあ、始めるか!」

 

 そう言って奥の倉庫から障害物の高いハードルを抱えてくるトレーナー。

 

「……ん? あれ、トレーニングは終わったわよ、トレーナー」

「何言ってるんだ、それはソンネボーイのトレーニングだろう。後半戦は私のトレーニングだ!」

「……は」

 

 これから、あの、トレーナーの、スパルタトレーニング……?

 

「よし、じゃあ改めて走り込みからだ!」

「おっ、走るのは私得意だよ。ウラヌス、競争だね!」

「ん゛っ! でじゃびゅっ!!」

「それを言うならデジャブですね」

 

 なんでもいいけど、また走り込むのはキツい……。そして元レースウマ娘のアスコツトはあいかわらずスタミナおばけだ。

 

「よし行けぇ! 周回遅れは飯抜きだぁ!!」

「ひいぃぃ!!」

 

 本当の鬼はより身近にいると、再確認させられたトレーニングだった。

 

 

・・・・・・

 

 

 昼過ぎになると、トレーナーも飲みがあるからと言って早めにトレーニングを終えた。

 

「ほんっと、今日は特に鬼のトレーニングだったわ……」

「いやー、私も流石に疲れた疲れた!」

「全然そうは見えないけどね……あんたの体力はバケモンよ」

 

 アスコツトは相変わらずのスタミナで、あとコース100周はできそうなくらいだ。一応ウマ娘の短距離選手とも言えるレースウマ娘だったはずだけど、なぜこんな体力があるのか……。

 

「……それで、ボクたち3人は平日なのになぜ東京の喫茶店に?」

 

 私たち3人は千葉県の習志野から出て、軽く走って帝都・東京の喫茶店に出ていた。

 普通、騎兵学校も士官学校も中隊の中にある区隊ごとに共同生活をするのが普通。その場合は簡単に外には出れないけれど、それは学生の話。学生でも教官でもない私たちの立場は特殊だ。

 それに私たちウマ娘は、いつだったかアスコツトの尾形トレーナーが言っていたとおり、陸軍では”神に祀られた存在”で、待遇はかなり良い。もちろん、私たちもトレーナーあってのものだし、それでえばったりすることはないけど。

 でもお陰で、トレーナーの計らいがあれば、勤務外に外出許可を取れば外に出ることくらいは可能だ。

 まあ……。

 

「今回はトレーナーの”飲み”のついでに出れているだけだけどねー」

「あんのトレーナー……たまにはちゃんと昼に帰りなさいよね……」

「ウマ娘よりも自由なトレーナーは聞いたことがないですね」

 

 トレーナーはさっき男十何人かで一列に肩を組んで笑いながら飲み屋街の方に駆けて行った。学生を飲みに連れ出す教官って学校的に大丈夫なんだろうか。

 

「ふふ、お三方とも、何だか何だか楽しそうですね」

 

 そう言っていると、店の奥から3人分のお茶を持って微笑みながら歩いてくる、色白で西洋風の女の子が一人。背が低くまだ15もいかないくらいで、可愛らしいエプロンを着ている。しかも人間ではなく、青毛のウマ娘だ。

 

「ありがとう、”アリエル”」

「……あ、その、アリーと呼んでほしいです、ウラヌスさん」

「ああ、ふふ、そうだった。ありがとう、アリー」

 

 彼女は”アリエル”こと”アリー”。私が東京に来てから常連になっている喫茶店『ふりいでん』の名物娘だ。

"ふりいでん"はドイツにルーツを持つ家系のようで彼女もお店も名前が西欧風でオシャレだ。ランチ帯にはボリュームある料理も出るからウマ娘にも人気のお店。だからロスから帰ってきてからは、ソンネボーイとアスコツトを連れてよく女子会の会場にしている。

 アリーはそんな”ふりいでん”の店主である、日本人のお母さんのお手伝いをしている。まだ15にもならないのに健気な良い子だ。そして……

 

「ひ、ひゃいっ! あ、ありがとうございましゅ……ウラヌスしゃん……」

 

 私に憧れているらしい。

 

「アリーちゃんはウラヌスのこと大好きだねえ」

「え、あ、はい! もちろんです! 見てください、これ!」

 

 そう言ってアリーは家の奥から一着の着物を広げて興奮気味に見せてきた。

 

「……な……」

「おお、綺麗な着物じゃないですか」

「というかこれ、ウラヌスー?」

 

 着物に描かれていたのは、オリンピックのマークと青空を背に走る私、ウラヌスが描かれた着物だった。子供向けなのか可愛らしくアレンジされている。なんだろう、少女向けの漫画?に描かれてそうなタッチだ。

 いや、というか……

 

「なんじゃこりゃああ!!」

「こ、これは!あの! ウラヌスさんのロサンゼルス大会金メダルを祝して作られた、限定100着の記念着物なんです!銀座の人気着物店に朝から並んで、やっと買えたんですよ!」

「私、許可してないわよ! そんなでかでかと着物の柄になるなんて、ちょっと可愛くなっているし!」

「良いじゃん良いじゃん、可愛いよー、ウラヌスは」

 

 だとしてもなんかゆるいキャラクターみたいな見た目になっているし。あと着物も無駄に良い生地を使っていて高そうだ。

 

「と、とにかくアリー、あまりそういうのにお金を使いすぎるのは良くないわよ。そんな、私が許可していないのに勝手に作られたものを……」

「うう、でも、私、ウラヌスさんグッズ沢山持っているんですよ。ちゃんと4つずつ買っているんです。ウラヌスさんぬいぐるみにウラヌスさん模型にウラヌスさん湯呑にウラヌスさん饅頭……」

「あー、観賞用、保存用、布教用、予備用だねぇ。分かる分かる」

「分かるんかい。……え、というかちょっと待って!? 私が知らない謎グッズが次次と判明しているんだけど!!」

「そうなんですか? ロサンゼルス大会の後は商店街はウラヌスさんグッズでにぎわっていましたよ」

 

 何それ怖い。

 

 確かに帰国して横浜に着いた時には沢山の人が道を埋め尽くして大喝采が起きていたのは覚えている。”オリンピックの華”の金メダリストとはそういうものらしく、私自身も少しふふんと上機嫌になったけど。

 流石にこれはやりすぎじゃあ……。

 

「……そういえば、ニシと、ボクのトレーナーがロスにいるとき、電話で何やら話していましたね。商店街がどうとか……」

 

 あんのトレーナーども、勝手にグッズの許可出しやがったなあ!!

 

「まあ、良いじゃない良いじゃない。私もレースの重賞勝った後なんかはあったよ? グッズ。帝室御賞典を勝った後なんかは結構凄かったねえ」

「ええ……でも、レースとちょっと違うでしょう。バ術でこういうのは聞いたことないよ」

「日本人の、それも商店街の商魂は逞しいからねえ」

「……ところで、ボクのグッズもあるんですか?」

「はい。ウラヌスさんグッズの隣によく置いてあるんです」

「ボクもやはり……。ち、ちなみに、売れ行きは、どちらが……?」

「ソンネさんも人気なんですよー。癒し系グッズが多いです。でも、売れ行きはやっぱりウラヌスさんのグッズの方が……」

「うむむ……ま、負けませんよ、ウラヌス!」

 

 頼むからこんなことで張り合わないでちょうだい、ソンネボーイ。

 まあ、何はともあれ、とりあえず次トレーナーとイマムラに会ったときには一発蹴っておこう。

 

「そういえばさあ、アリーちゃんはどうしてウラヌスに憧れているのー? やっぱりオリンピックー?」

「もちろんそれもそうです! でも、私、ウラヌスさんのあの跳ぶときの表情とか姿勢とか、内にあるだろう闘志とか……そういうの全部ひっくるめて、かっこいいって思えるんです……!」

 

 そう言って、当人の前だからか空のお盆で恥ずかしそうに顔を隠しながら一生懸命に話すアリー。

 

「そ、そうなの。ありがと……」

 

 こうして真っすぐ、かわいい子に純粋な憧れを向けられるのには慣れていなかったから、少し照れる。

 

「私、ウラヌスさんがヨーロッパで活躍している新聞を見た時から気になっていて、オリンピックの選考会で走るウラヌスさんを見かけたんです! その走りを見た時から胸がドキドキして、ワクワクして、いつか、私も陸軍に入って、ウラヌスさんみたいな立派なバ術ウマ娘に……」

 

 そう言って一生懸命に私のことを語ってくれるアリー。

 そうか、あの選考会の走り、いやその前のヨーロッパ転戦の時から、憧れのまなざしで私を見てくれる人がいたんだ。

 

 こういう声援はトレーナーと話してオリンピックの決意を固める前は私にとってプレッシャーで、不安の種、敵だとさえ思っていたくらい。でもトレーナーと並んで金メダルを下げて……そうして今になると、この声援のありがたさが分かる。

 こうして可愛い子の純粋で無垢で、でも何よりも真っすぐな憧れを受け取れるようになったのも……

 

「ありがとう、アリー。あなたみたいな可愛らしい子に憧れてもらえるなんて、本当に嬉しいわ」

 

 トレーナーのお陰だろうか。いや、うん、きっとそうなんだろうな。

 

「でも大丈夫よ。こんなにも真っすぐで綺麗な眼をしているあなただもの。強くて素敵な、バ術ウマ娘になれるわ」

 

 何だか愛おしくなり、思わずアリーを抱き寄せて頭を撫でながら、そんなことを思っていた。

 

「………あひ……」

「……あひ?」

「……あひひゃございましゅぅぅ…………」

「お、ちょ、ちょっと!」

 

 謎の声を漏らしながら、もう全てやり切ったとでも言いたいかのような安らかな顔をしてアリーは気絶した。気絶しても変わらず綺麗な顔をしている。

 

「流石にキャパオーバーだよ、ウラヌスー」

「見ているだけで恥ずかしくなりましたよ。ほんと、なんなんですかあなたは」

「ちょ、見てないで助けなさいよ! ……大丈夫アリー!?」

「ひゃ、ひゃい……」

「ねーねー、そのまま膝枕でもしてあげなよ。アリー喜ぶよ」

 

 何だか分からないけどそんなことしたらアリーが死んじゃう気がする。

 

「……しかしあれですね、ウラヌス」

「何よ、ソンネボーイ」

「だんだん似てきましたよね、ニシに」

「そーだよねー。実はウラヌス、最近騎兵学校のウマ娘にもモテモテだし? それに朴念仁なところもねえ。やだやだ」

 

 とりあえず煽られているのは分かったわ。

 

「でも、トレーナーに似ているのは当然じゃない? 私は、あの人のお陰で強くなれたんだから」

 

 そう、私はトレーナーのお陰でここまで来れた。今遊び惚けていて、ちょっと前まで鬼のようなトレーニングをしているトレーナーでも、いやああいうトレーナーだからこそ、こうして今もオリンピックに挑戦し続けられるんだから。

 

「…………あ、あははぁ……」

「…………またそういうことを恥ずかしげなく……」

 

 何やら顔を赤くして眼を反らす二人。

 

「何よ、じゃあ、二人はどうなの? ソンネボーイはイマムラでしょ、アスコツトは尾形トレーナーとさ」

「え、そこで私に振るのを!?」

「なんでボクらもそういう話に!?」

「良いから良いから、ここで語りつくしちゃいなさいよぉ」

 

 トレーニング後の”放課後ティータイム”。

 3人(と気絶している1人)で開く女子会は、トレーナーが帰ってくる夜まで続いた。

 そんな中でも出てくる話題がトレーナーやバ術なのも、私たちらしいのかな。

 

 

 ……あ、帰ってきたトレーナーは一発蹴って、次の週に帰ってきたイマムラにも一発蹴りを入れておいた。



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#11.5 私の、ボクの、トレーナー

ロサンゼルスオリンピックが終わり、西とウラヌス、今村とソンネボーイのトレーナーとウマ娘の絆は深まっていく。唯一無二の相棒となったバ術ウマ娘とトレーナーは、互いに大切な想いを秘めつつ、汗を流しながらも幸せな生活を綴っていくのだった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


<ウラヌスの場合>

 

 私のトレーナーは”西竹一”こと”バロン西”。1930年のイタリアで、やさぐれていた私に声をかけてくれた、貴族で日本軍人の敏腕トレーナー。そしてオリンピック金メダルまで私を連れて行ってくれた、私の相棒でもある。

 全然貴族軍人っぽくない遊び人だけど。

 

 そんなトレーナーとの一日は早い。

 

 私らのような日本バ術ウマ娘の多くは陸軍騎兵学校所属だから、騎兵学校のウマ娘宿舎で暮らしている。少し手狭だが必要なものは揃っていて、ある程度の階級のトレーナーが担当だと部屋もよくしてもらえる。ウマ娘の階級や地位はトレーナーの階級や地位とほぼイコール。ロサンゼルスオリンピックで勝ってそこそこの有名人になったトレーナーのウマ娘である私もまた、広めの一人部屋を用意してもらえている。ありがたいことだ。

 でも、私も一応は軍人。非番の日以外は、5時半には騎兵学校の起床ラッパの音で起きて、15分後には体操、それから室内掃除諸々をして6時半には朝食を食べなければならない。それからはトレーナーと一緒に体力づくりを含むバ術の鍛錬をする。団体行動も少ないから学生らより遥かにマシとはいえ、一応ハードスケジュールだ。

 

 朝食を終えて騎兵学校の練習場に行くと、トレーニングのスケジュールを決めて練習用コースを設置し終えたトレーナーがいつも笑顔で私を待っている。

 

「おはよう、ウラヌス! 今日も元気かぁ」

「ええ、トレーナー、今日はご機嫌ね」

「ああ、今村さんから助言をもらって新しい訓練を思いついたんだ。一緒にやろう」

「分かった。ありがとう、トレーナー」

 

 本当に嬉しそうに笑うトレーナー。バ術ウマ娘とトレーナーは一心同体。トレーナーもまた、私のトレーニングが上手くいきそうなときは自分のことのように喜んでくれる。 

 それにいつも私よりも早くにコースの準備をしてくれているのだと思うと、いつもトレーナーには感謝でいっぱいだ。

 

 でも、私のトレーナーはトレーニングになるととても厳しくなる。

 

「ウラヌス! 走れ走れぇー! タイムをもう少し縮めないと、次のオリンピックにはほど遠いぞぉ!」

「……っ! わ、わかったわ!!」

 

 バ術にはトレーニング方法含めて、イタリア式やドイツ式、フランス式といった方法がある。例えば、イマムラとソンネボーイはイタリア式のバ術だ。でも、トレーナーのトレーニングはそのどれでもない。

 言うならばそう、”スパルタ式”だ。

 

「あと10周!!」

「……っ! 了解っ!」

 

 でも、そんなトレーニングが私には性に合っているし、きっとトレーナーもそれは分かっている。もちろん何よりもキツい。挫けそうになる時もあるけど、そんな時はいつもトレーナーが励ましてくれる。

 

「よし、やったな、ウラヌス! ウラヌスはやっぱり凄いウマ娘だ」

 

 屈んで息を荒くする私の頭を、そう言って撫でてくれる。

 私は180cm、トレーナーは175cmと、実はトレーナーよりも私の方が背が高い。だからいつもトレーナーが褒めてくれるときは背中や肩をぽんとしてくれる。

 でも、トレーニングが終わり私が屈んだり座ったりしていると、少し背が低くなるからかトレーナーは頭を撫でてくれる。

 口では絶対に言わないけど、このトレーナーの手の感触、そして……

 

「えらい、えらいぞ、ウラヌス」

 

 この笑顔が好きだ。

 言わないけどね。

 

 お昼を挟んで午後のトレーニングが終わると、トレーナーと別れてトレーニングの余韻を感じながら入浴と夕飯。21時半には就寝する。

 規則正しい軍隊生活も、厳しいトレーニングも、トレーナーと一緒だから乗り越えられる。それどころか、いつも楽しく過ごすことができていた。

 

 休日にはまた違った楽しみがある。追加トレーニングをするときもあるけど、何よりも楽しいのはトレーナーとの買い出しだ。ソンネボーイたちと行くこともあるけど、トレーナーと一緒に行くことが多い。

 陸軍といえど生活に必要な歯ブラシや石鹸、一部衣類は自前で用意しなければいけない。街に出て買い出しをして、気分転換がてら街をぶらぶらする。歩きながら、トレーナーと何気ない会話をする。

 私の方が背が高いから、最初はトレーナーから”不思議な具合だなぁ”と言われていたけど、今や当たり前の光景だ。

 

「なあウラヌス、この前商店街で買ったんだが、これ可愛くないか」

「……なっ! また私のグッズが勝手に! しかも今度は何それ、随分精巧に作られているけど……」

「粘土を焼いて作った人形らしい。人形というかもはや模型だなぁ。よくできている」

「そんなもの持ち歩かなくて良いじゃない。本物なら毎日一緒にいるでしょ」

「いやでもな、これ本当に隅から隅までよくできて……」

「下から覗くなバカ!!」

「痛っ!! 足を踏むな足を」

 

 話すのは突拍子もなかったり変なことだったりするけど、バ術とか担当トレーナーとか、そういうものを抜きにした、”相棒”としての時間。そんな何気ない時間が、なんだかくすぐったいけど好きだ。

 

「あの……西竹一さんですよね」

「……? はい」

「あの、いつも騎兵学校の近くで見ています……!」

 

 トレーナーと一緒に何気なく歩いていると、綺麗な女の人にトレーナーが話しかけられることがある。というかトレーナーから話しかけることも多い。

 トレーナーは日本人としては175cmの高身長で軍人でありながら長髪。貴族らしく所作も綺麗で顔も良い。私は特にそこに大きな魅力を感じたわけではないけれど、女性から人気が高い理由はまあ分かる。

 

「ありがとうございます。その綺麗な眼でいつも見られていると思うと、私も背筋が伸びる思いですよ」

「そんな……綺麗だなんて……」

「良かったら今夜、一緒に、食事でもあたたたたたたたた……こらこら耳を引っ張るなウラヌス」

「今日は備品を買って家に帰るんでしょ。奥さんに怒られるわよ」

「分かった、分かったウラヌス」

 

 トレーナーが女の人とほいほいと遊びに行くのはいかがだと思う。奥さんも子供もいることだし、お金はあるだろうから家に不便はかけていないだろうけど……でも、仮にも一家のお父さんなんだからしっかりするべきだと思う。

 それに、今は相棒の私と出かけているわけだし……別に、妬いているとかそんなんじゃないけど……。

 

「あ、ウラヌスさんだ!」

「あれ、アリー?」

「はいっ、あの、奇遇ですね」

「あれ、髪切ってもらったの?」

「あ、いや、はい。気づいてもらえて嬉しいです。でも、どうでしょうかね。あまり他の人には気づいてもらえなくて」

「それは酷いわね。とっても可愛くなったわよ。前から可愛いけどね」

「ひ……ひゃいっ! あ、あの……ありがとうございましゅ……」

「……私には怒るのに、ウラヌスが女の人を口説くのは良いのか。ずるいぞ」

「なっ、口説いてなんかいないわよ! 私のは……そう、下心がないから良いの!」

 

 前にソンネボーイとアスコツトにも言われたけど、私はトレーナーに似てきているらしい。そんなつもりはないのに……でも最近は騎兵学校の他のウマ娘から視線を感じる気がする。こう、やけに熱い視線が……。

 無意識にトレーナーっぽくなっているのだろうか。良いような悪いような。

 でも、トレーナーに似てきたってことは、私もトレーナーの相棒として見合った日々過ごせているっていうことだろうか。それなら少し、嬉しいかもしれない。

 

 とにかく、トレーナーと出会ってからはこうして充実した日々を過ごしている。

 毎日トレーナーと汗をかいて、笑って、並んで歩いて、いつかの勝利を目指す。正に一心同体。イタリアでたった一人で走っていた私とは違う。そんな宝物のような時間。

 

 でも、そんな中でも一つだけ、誰にも言わない、私が密かに好きな時間がある。

 たまにしかやってこないその時間は、トレーナーは苦しんでいるかもしれないから申し訳ないけど、それでも私が安心のような感情を抱ける時間。

 

「……なあ、ウラヌス、いるか」

「……どうしたの? こんな夜に」

「いや、飲みでもどうかと思って」

「良いの? それに私は飲まないわよ」

「良いんだ良いんだ、どうせ敷地内だし。行こうか」

 

 ”その時”はいつも何かしら理由をつけて、騎兵学校の敷地内にある、星が綺麗に見える原っぱに座って話をする。いつも買い出しの時にするような、何でもない話。トレーナーはお酒を飲んだりして、私はぼーっと星を眺めながら。

 

「……なあウラヌス」

「うん?」

「私は、君のトレーナーとして、軍人として上手くやれているだろうか」

「なーに突然、そんなこと」

「いや、最近騎兵学校の教官をやっているが、上手くいかないことも多くてな」

 

 こうしてトレーナーが私と二人きりで話すときは、誰にも漏らせない愚痴だったりをこぼす時。どうしても、不安になっているとき。

 トレーナーはロサンゼルスで金メダルを取った、騎兵の中でも優秀だと称えられるトレーナーだ。でも、いやだからこそ、軍内では肩身が狭い思いをすることも多いみたいだ。

 それに、陸軍内では”バ術トレーナーは世界各国を巡って遊びまわっている”という言いがかりもある。あの軍人らしからぬ性格も合わさって、陸軍内では誤解を受けることも少なくない。

 

「最近はトレーニングをしているウマ娘もつらそうな顔をしている気がする。だから君にも……」

「バカなこと言わないの。きっと、陸軍のお偉い方に変なことを言われているから後ろめたい気分になっているだけよ」

「そうかな」

「そうよ。……ほら、膝貸してあげるからそんな顔しないの」

「……ああ」

 

 そんな時は、たまに膝を貸したりしてトレーナーとゆっくり話をする。いつもトレーニング後に頭を撫でられるから、そのお返しだ。

 

「大丈夫、私はトレーナーが私たちのことを誰よりも考えてくれていることを知っている。トレーナーのトレーニングも全然嫌じゃない。なんて言ったって、トレーナーは私の相棒なんだから」

「……そうなのか?」

「ええ。なら私はどう? トレーナーから見て」

「ウラヌスは、私が見た中で最高のウマ娘だ。当たり前だろう」

「でしょう? それなら、あなたも最高の騎兵でトレーナーなの。だから大丈夫、大丈夫だから」

 

 トレーナーはいつも笑って遊びまわって、何も考えてないように見える人も沢山いる。格好良くてキラキラしていて完全無欠なトレーナーだと思うウマ娘も沢山いる。

 

「まったく、そんなことを言いたいのなら奥さんがいるじゃない」

「……家族にこんな姿見せられるか」

「そう、そうなんだ。私にはいいの?」

「……ああ……」

 

 でも実際は違う。誰よりも嫌われたり、何かを失うのを恐れていて、誰よりも頑張って強がっている。誰よりも繊細な人だ。

 そんなトレーナーを、私の膝の上で暗い顔をして不安を一つ一つ漏らしてくれるようなトレーナーを知っているのは、世界の中で私だけ。トレーナーが弱いところを見せてくれるのは、私だけ。

 私はロサンゼルスオリンピックで金メダルを手にしたあの日から、トレーナーとは、お互いに嘘をつかないと決めた。お互いに正直に前に進もうと決めた。

 だから今は……

 

「……私のことを分かってくれるのは、ウラヌスだけだからな」

 

 そんな言葉を漏らしてくれる、誰も知らない、私だけが知っている、私のトレーナーの姿。このちょっとした時間が、私が何よりも好きな時間だった。

 

 トレーナーはかっこいいしトレーナーとしても優秀。でも遊び人で……そして誰よりも繊細。私の担当トレーナー。

 

 私はそんなトレーナーの”相棒”として、世界一のウマ娘になるまでは、トレーナーと二度と離れないと決めていた。

 

 

・・・・・・

 

 

<ソンネボーイの場合>

 

 ボクのトレーナーは”今村 安”。日本陸軍少佐。1929年の終わり、全てに絶望していたボクの手を引いてくれた人。たった一人だったボクを、沢山の人たちがいる世界の舞台に連れてきてくれたトレーナー。

 

「おはよう、ソンネ。よく眠れたかい?」

「はい、体調管理は万端です」

「よしよし、じゃあまあ、今日もゆっくりやるか」

 

 トレーナーは陸軍内でも優れた腕前を持つ名トレーナーだ。実際、1929年には騎兵で唯一ヨーロッパ留学に出されたし、ロスで金メダルを取ったあのニシの恩師でもある。

 でも……。

 

「あれ、ソンネ、トレーニングどこまでやったかな」

「前、2回目の高障害練習をしたからその続きです」

「おおそうか、すまんすまん」

 

 本当にそうなのだろうかと、たまに不思議に思うほどトレーナーはマイペースなところがある。

 まあでも、トレーニングのスケジュールの立て方やその指導法から、かなり頭が切れるのだろうというのもまたすぐに分かるのだ。

 

「……っ! どうですか、トレーナー」

「うん、前よりもよくなったな。手の位置を数度上げるとより推進力を得られるから、次は意識してみなさい」

「す、数度ですか……?」

「うむ、バ術は数学だよ、ソンネ」

 

 トレーナーがよく言う言葉だ。

 バ術は勘の競技に見えるが、実際は細かい数学と理論で構成されている。

 ヨーロッパ転戦をしているとき、トレーナーはよく”本当は騎兵になるつもりはなかったんだ”と言っていて意外だったのを覚えている。トレーナーは数学が好きで、元々砲兵になりたかったと言っていた。

 ”でもソンネに会えたから騎兵で良かったかな”とも言ってくれて少し嬉しかった。でもその分、仙台にいるお子さんには技術屋になってほしいらしい。

 

 とにかく、そんな理論を体現したのがボクとトレーナーのバ術だと信じている。

 

「だいぶ良くなってきたな。ソンネ」

「はい。スケジュール通りに跳ぶと、本当に前より良くなりました」

「ロスの時は練習期間をあまり取れなかったからね。今度は万全の状態で挑みたいな」

 

 今でも思い出す。出会ったときにイギリスで、トレーナーがボクに言ってくれた言葉。

 

 ”例えどんなウマ娘だろうと、共に上を目指す。それが真のトレーナーというものだ”

 

 トレーナーがボクにいつも教えてくれる”自然バ術”は、そんな言葉を体現したかのようなバ術だ。

 自然のままに、ありのままに。しかし正確に、道を誤らないように。あれだけ絶望し何もかも信じられなくなったボクも、ここまで走って跳べるようになった。トレーナーと歩んできた短くも長く感じるこれまでの時間のようだった。

 

「よし、問題ないですね。流石トレーナーです」

「うん。良かった良かった」

「そういえばこの前ニシに頼まれて教えたウマ娘たちも綺麗に跳んでくれていましたね」

「難しいことじゃないからね、何事も、こつこつとした積み重ねさ」

 

 しかし、トレーナーが教えたウマ娘は皆、最初どれだけ飛越が下手でも、どれだけ気性が荒くても、数か月たてば不思議と上手に素直に跳べるようになる。それは先のバ術理論もそうだけど、トレーナーの腕と性格もあるのだろう。

 そんな”真のトレーナー”の相棒でいられることが、ボクにとっての何よりもの喜びだ。

 

 最近のトレーナーはその腕を買われてか旭川の騎兵連隊付きとなり、スケジュールが不定期だ。トレーニングが終わると事務やニシの手伝い、遠ければ北海道行きと大忙しだ。バ術との兼ね合いもあって大変らしい。

 それもそのはず。

 例えばトレーニング後に事務室でボクとトレーナーが作業していたとき。

 

「あ、あの、今村少佐!」

「ん、ああ、君は、先日トレーニングを見たウマ娘学生の……」

「は、はい! 少佐のご指導のおかげで、先日の競技会でいい成績を収めることができたので、ご報告をと思いまして……」

 

 先に言った通り、トレーナーは優秀だ。それに加えて多くのウマ娘から慕われている。トレーナーの下でバ術を習い技術を成長させていったウマ娘は数知れない。

 これだけ優秀なトレーナーなら、あちこちで引っ張りだこになるのも分かる。

 

「……ということで、またトレーニングを見ていただけると嬉しいです」

「うん、分かったよ。体を冷やすとトレーニング時の故障にも繋がる。今日は冷えるから、暖かくして寝なさい」

「……! あ、ありがとうございます、お父さ……」

「?」

「……あ、いえ! すみません! 間違えちゃって……それじゃあ、失礼します!!」

 

 そう言って顔を赤くしながら敬礼し、勢いよく飛び出していくウマ娘。

 

「…………。」

「そんな目で見るんじゃないソンネ、私がどうこうしたわけじゃあないだろう」

 

 トレーナーは見ての通りウマ娘からの人気が高い。まあニシとは違ってモテるとかじゃなく、”優しいおじさん”、”お父さん”みたいな存在としてだけど。

 今騎兵学校で人気の障害飛越トレーナーといえばトレーナーとニシだけど、ニシのトレーニングはスパルタ式で厳しく、私のトレーナーは自然バ術を元にした緩やかだけど確実で優しいトレーニングと、対照的。

 どちらが良い悪いではなくそれぞれのウマ娘ごとに向き不向きがあるけど、派手なニシの性格やトレーニングとはまた違う人気がウマ娘の間ではあるようだ。

 

「でもちょっと嬉しそうでした」

「……まあ私にも息子がいるからね。あまり会ってやれてないから、少し、ね」

 

 担当トレーナーがそれだけ人気なのは、ボクも何となく誇らしい気分だ。

 ……でも正直、それで忙しくなって会う機会が減るのは、寂しくないと言ったら嘘になる。

 だから……

 

「……ならボクも、トレーナーのこと”パパ”って呼びましょうか」

 

 普段言わない冗談をちょっと言ってみたりする。

 

「はは、ソンネはしっかり者だし、ソンネが娘なら私も助かるだろうなあ」

「! ……そ、それじゃあ、今日だけそう呼びます」

 

 ボクのトレーナーは優しくて人気者。

 

「ソンネ」

「何ですか、パパ」

「う……なんかむず痒いな」

 

 父も母も今やいなくなってしまったボクは、そんな親代わりとも言えるトレーナーに、少し甘えたくなるのだ。

 

「……あーじゃなくて、最近すまないな。あまりトレーニングに顔出せたりしていなくて」

「……え?」

「いや、私は君と”世界一”を目指すと、”もう寂しい思いはさせない”と言ってイギリスから連れ出した。その言葉通り私は君のトレーナーとしてやっていけているのか、最近少し不安でな」

「……大丈夫ですよ、ボクは」

「そうか? それはそれで寂しいなあ」

「そ、そうじゃなくて……ボクはロスでトレーナーと言葉を交わしてから、”一人じゃない”って気づきましたから。それに、”世界一を目指す”ということ、今も忘れていないんですよね」

「ああ、もちろん。私とソンネが目指すところは、いつも一緒だよ」

 

 ボクのトレーナーは優しくて、いつも担当トレーナーであるボクのことを考えてくれている。それをボクは知っている。いつも肌身離さず持っている手帳にはボクのトレーニング計画が書かれていて、北海道から帰って来た時なんかはその手帳がいっぱいに埋まっていることも。いつも、ボクのことを見てくれていることを知っている。

 

「ボクには、それだけで十分です。イギリスにいたあの頃とは違う……離れていても、ボクはトレーナーといつも一緒ですから。だから……」

 

 だからボクはそれに答えよう。焦らず、ゆっくりとでも、ボクを救ってくれた、イマムラというトレーナーと一緒に走りながら。

 

「あ、おーいソンネボーイ。前のトレーニングについてだけど……」

 

「だから、これからもよろしくお願いします、”パパ”!」

 

「……は?」

「……!!!! う、ウラヌスっ!!??」

 

 トレーナーと、走りながら……の、前に……。

 

「あ、いや、何も見てないわよ、ソンネ」

「じゃあ何で目が泳いでいるんですか! 教えてください!」

「そ、それじゃあ、また明日ね」

「待ってください! これには大きな誤解が……」

 

 この走り出したウラヌスを止めなければ。

 

「ねえ聞いてーーアスコツトーー!! ソンネボーイがイマムラと何か怪しい関係にー!!!」

「なっ! 誰が怪しいと!? 待ってください、じゃなくておい待てえ! ウラヌスぅーーーー!!!!」

 

 私は一人じゃない。……それに当分は、例え寂しくなりたくても、寂しくはなれなさそうだ。




小休止の日常回です。


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#12 関東大空襲

1933年8月9日、関東一帯で空襲警報のサイレンが鳴り響く。高々と煙が上がる東京の街。ウラヌスは騎兵学校で目が覚めると、世界は一変していた……。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


 目が覚めたら世界が変わっている。一晩で世界が自分の知らないところになっていた。そんな経験はあるだろうか。

 

 ……私は、たった今、経験している。

 

 1933年8月9日 東京

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 私は軍服を着たまま騎兵学校の宿舎から飛び出し、東京の街中を駆けていた。

 

「戦闘機がこっちに来るぞ!」

「おい、こっちに水よこしてくれ! バケツ早くしろ!」

「おい、対空戦闘急げと高射砲に伝えろ!」

 

 けたたましいサイレン音と声が騎兵学校でも東京でも……恐らく関東全体で響いている。

 街のいたるところで煙が上がり、さっき通ったニコライ堂も煙で入り口が見えていなかった。炎が広がっているようには見えないからそこまで酷くはないらしいけど……。

 

 街からは煙が上がり、さっきから爆音が絶えず鳴り響いている。

 

 空の上を見ると、赤い翼の戦闘機と、日の丸をつけた陸軍の戦闘機がぐるぐると回っているのが見える。どっちも複葉機。

 

 空襲だ。

 

 今日も朝からトレーニングのために練習場に行き、トレーナーを待っていた。しかし時間になってもトレーナーは来ない。

 それから一人で自主練して日が暮れ始めてきた時に空襲警報のサイレンが鳴り響きはじめ、戦闘機が何機も空に現われた。そして、東京から煙が上がっているのを目にした。

 騎兵学校でトレーナーは見ていないし、今日の朝までトレーナーは家にいるはず。いるとしたら……煙が上がっている東京だ。

 

 爆発音はあまり聞こえないが、今もあちこちで対空砲や高射砲の射撃音が響いている。空はサーチライトで照らされ、敵の攻撃を避けるために灯火管制が敷かれているのか、街は真っ暗だ。

 

「トレーナー……トレーナー……!」

 

 おかしい。なぜだ。

 

 満州で中国やロシアと小競り合いしているのは知っているけど、私たちの頭上を飛んでいる赤い羽根の戦闘機がその中国のものなのかも分からない。

 なぜあんな小さな戦闘機が空を回っているのか? 中国か。それともロシアか。それとも反乱か?

 

 ……いや、どうでもいい。

 とにかくトレーナーを探さないと。

 私のトレーナーを……!

 

「……! あっ、ウラヌスさんっ!」

「あ、アリー! 」

 

 気づけば”ふりいでん”の目の前まで走ってきてしまっていた。

 アリーも防空頭巾をぎゅっと被りながら不安そうな表情で顔を出した。

 

「アリー、大丈夫? 怪我はない?」

「は、はいっ。ちゃんと配られた防空冊子どおりに動いているので大丈夫です。これから力仕事が必要なところに行きます」

「え、ええ……大丈夫なの?」

「はい、私もウマ娘ですから! ウラヌスさんも陸軍ですから、これから大変ですね」

「私は……そうなのかな」

 

 私は一応陸軍軍人で基礎訓練は受けたけど、対空砲の使い方も知らないし戦えるわけでもない。こういう時に自分の無力さを思い知るけど……。

 

「そうだ、トレーナー! トレーナー知らない!?」

「え、西さん見ていないんですか?」

「ええ、昨日は家にいて今日の朝来なかったから、もしかしたら東京かもって……」

「西さんでしたら、先日笄町の家で見たのでもしかしたらまだ……」

「! わ、分かった! ありがとう!!」

 

 私はトレーナーと一心同体。トレーナーがいてくれさえすれば、きっとこんな窮地も乗り越えられるはず。

 

 私はトレーナーの家に向かって走る。

 あちこち煙だらけで咳が出る。でも、走らなきゃ。

 

 走っていると、煙が道路を塞ぐように覆っているところがいくつもあり、人々はそれを消そうとしているのかバケツリレーをして必死に水をかけている。

 

「あっ! 嬢ちゃん、そっちは……」

「トレーナーの家に行かないといけないのっ! 大丈夫だから!!」

 

 私は思いっきり脚を溜めて煙が湧く地面を跳び越える。

 今の飛越は、ロスの最後の障害以上かもしれないと、日々の特訓の成果に、心の中で少しだけ笑った。

 

 その後も障害物を跳び越えながら全力で走る。あのロスの頃と同じくらい、いやそれ以上に必死になって走る。

 

「……! と、トレーナーの家っ……!」

 

 笄町の近くまで来ると、以前来たトレーナーの家の庭から煙が上がっているのが見える。

 よくトレーナーがパーティーをしていたり、休日に寝椅子で休んでいたりする場所だ。

 

「嘘……トレーナー……」

 

 嘘……だよね。

 

「トレーナー……言ったよね。一緒に次のオリンピックを目指すって! 一緒に”世界一”になるって!」

 

 トレーナーの家に近づいてくる。

 

 お屋敷かと思うほど大きな家。幸い、家に被害はないみたいだ。まだ無事かもしれない。

 

「トレーナーぁ!!! 返事をしてぇ!!」

 

 

 私は必死の思いで、庭に駆けこんだ。

 

 

「……? ウラヌス?」

 

「……は?」

 

 私は目に涙を浮かべて、煙で顔を黒くして、戦闘機が飛び交う空の下、トレーナーの無事を祈りながら東京の街を駆け抜けた。そうしてやっとたどり着いた家でトレーナーは……。

 

「げほっ……ちょっと煙が強すぎたな。後で家の窓を吹かなければ」

 

 うちわを仰いで自分で煙を起こしていた。

 

「どうしたウラヌス、そんな目を赤くして……っていたたたたたたた!! 耳をつねるなウラヌス! ちぎれるちぎれる!!」

「ど、どういうことか説明しなさい! なにぼけっと焚火してんのよ、こんなに心配していたのにっ!!」

 

 無事だったのは一安心。今すぐに膝を地面について泣きだしたい気分でもある。

 しかしこの野郎は一体何をやっているのか。敵の空襲を受けているさなかで。

 

「あっ、あー、言っていなかったかそういえば」

「言ってなかったって?」

「演習演習。防空大演習のこと」

「は? え、演習?」

 

 演習って、あの訓練的な、演習?

 でも、騎兵学校の前でも東京でもあちこちで煙が上がって……。

 

「……あーそうか、ごめんなウラヌス。私は東京の視察をしていてな。そのついでに、家で手伝い中だったんだ」

 

 あ、トレーナー、自分で、煙を上げて……。

 

 思えば、さっきから爆発の音とか聞こえないし、建物も破壊されていなかったような……。

 

「おっ! 空では相変わらずやっているなあ。見てみろウラヌス、新型の九二式だぞ。どっちが勝つだろうなあ」

 

 よーーく見てみると赤い羽根の戦闘機と、日の丸の戦闘機、どっちも同じ戦闘機だ。トレーナー曰く九二式? 敵同士っぽい動きをしていたけど、どちらも機関銃を撃っているわけでもない。

 

「あの、この、対空砲の音は?」

「ああ、全部空砲だよ。地元の連隊が進出してきて陣地を敷いているらしい。あと海に空母が来ているらしいからそれかもなぁ。珍しいから、後で見に行ってみるか」

 

「……は」

「は?」

「はあああぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」

「お、おい! ウラヌス!!」

 

 私は今までの不安や恐怖が身体から全て抜けて、庭の芝生にぶっ倒れた。

 

 1933年8月9日から行われたこの”第一回関東地方防空大演習”は、一府四県の関東地方全体で11日までの3日間、一府四県の関東地方全体でそれはもう大々的に行われた。

 

 街では灯火管制が敷かれ、煙が上がり、対空砲の銃撃音が絶えず鳴り響き、街の人たちは防空頭巾を被って大声を出している……こんなことされたら、そりゃあ本物の大空襲だと思う。大した演習だ。

 

 その後私はトレーナーを蹴った後に防空演習の手伝いをして、3日間を過ごした。

 

 

・・・・・・

 

 

1933年8月中旬

 

「……あー、ウラヌス、まだ怒っているのか」

「…………。」

「頼むから機嫌を直してくれよ。ウラヌスぅ」

 

 喫茶店”ふりいでん”のテーブル席で向かい合って座っているトレーナーは、最近よく発する情けない声を出していた。

 

「あのー……どうかしたんですか、西さん」

「アリー。いやぁ……前の防空演習の時のこと、事前にウラヌスに言い忘れてね。よほど私の心配をしてくれていたらしくて、あれからあまり口をきいてくれないんだ」

「別に、心配なんか、してないし。トレーナーなんか……」

「ふふ、あの時、ウラヌスさんは血相を変えて西さんのことを探していましたもんね。あ、あの時のウラヌスさん、新鮮で、格好良かったですよ……?」

 

 そう言ってとてとてと仕事に戻っていくアリー。

 もう、アリーまで、からかわないでほしい。

 

「はぁ……別にもう怒ってないわよ。ただびっくりしただけだから」

「そ、そうか。そうだよな、うん」

 

 まったく、なんだかガールフレンドを怒らせて腰が低くなっている男みたいでこっちも落ち着かない。防空演習の時、今までの人生でないくらい本気で怒ってしまったのが効いたのか。

 だって、もしかしたらトレーナーが空襲で巻き込まれたんじゃないかと、本気で心配して……あー、これじゃあ、おかんか何かみたいだ。やだやだ。

 

「しかし、なんで急にあんな大規模な防空演習をやったのかしら」

「最近は陸軍が満州に手を出して情勢が不安定だからな。中国と戦争になれば、日本が空襲を受ける可能性もゼロではない」

 

 1931年から始まった満州での事変は今年の5月で終わった。陸軍によって建設された”満州国”を中国は事実上黙認。

 

 ”万歳! 万歳!”

 

 中国との戦闘が終わったあの日のことは今でも覚えている。

 騎兵学校の青年将校、そして東京で見た多くの人々は、この満州国の建設、事実上の”日本軍の勝利”に歓喜していた。私は元々フランス生まれのイタリア育ち。今は日本人とはいえ、戦争があり情勢が不安定になっている事実に素直に喜ぶことはできなかった。

 

「まあ、この演習についても、どこまで意味があるのか分からないが……」

 

 それは、トレーナーも同じようだった。トレーナーは軍がどうとか戦争がどうとか、そういったことに若干の嫌気が指しているようにも思えた。

 今回の演習についても、同じくだ。

 

「トレーナー、防空演習にあまり乗り気じゃなかったものね」

 

 だからか、トレーナーは防空演習中も教え子たちに軽い指示は出しつつも、”ああ、いいんじゃないか”とか、”じゃあ、それで”といった具合で家でゆっくりと煙を起こしたりしていた。そういえば、トレーナーのお子さんも珍しいからか少し喜んでいたっけ。周りがドタバタしている中、異様な光景だったから覚えている。

 

「大きな声じゃ言えんがね、あんな演習意味があると思うか?」

「そうかしら、結構大きな演習できっちりやられていたと思うけど……」

「灯火管制を敷いて、煙起こして、戦闘機を上で飛ばしただけだ。東京の街を見渡してみろ。どこもかしこも木造だ。爆撃機の一機でも入って爆弾を落としてみろ。東京全体が燃え上がるぞ」

「……確かに、そうかも」

「そうなったらバケツの水ごときでは火は消えない。灯火管制もどうかな。最近は暗くても周りが見える装置とか、人が乗らない飛行機さえあると聞いたぞ。それに航空戦演習も稚拙だ。東京上空に敵機を入れた時点でおしまいなのだから、敵を一機も街に入れない防空網を作るべきなんだよ」

 

 トレーナーがやけに熱く語っているのを見て驚いた。バ術トレーナーなのもあって普段陸軍では割と不遇な立場だからか、溜まっているものでもあるのだろうか。

 

「…………。」

「ん、どうした、ウラヌス」

「あ、いや、トレーナーも軍人なんだなって思ってさ」

「失礼だなァ。これでも士官学校と騎兵学校を出た大尉なんだぞ、大尉!」

 

 はいはい、昇進して嬉しかったのは分かったから。

 

「ああでも、すまないな、ウラヌス。こんな時に軍の話なんてしてしまって」

「もう、子供じゃないんだから。それに、私も訓練を受けた軍人よ。基礎の基礎だけど」

「……そうか。でも、ウラヌスたちにはあまりこういう話はしたくないんだ」

 

 トレーナーは、私に政治のいざこざや軍事のあれこれに関わらせないようにしてくれている。それはバ術に集中してもらうという意味もあるし、私を軍の面倒ごとに関わらせたくないのだろう。

 

「……でも、さ。私も今日の演習で少し思ったことがある」

「何だ」

「いやさ、もし日本で戦争が起きて戦わなければいけなくなったとき、私は本当に無力なんだなあって。対空砲もほとんど触ったこともないし、銃も訓練で触った時くらい。少なくとも、トレーナーがいてくれなくちゃ、私、何もできないんだなって」

 

 ウマ娘はトレーナーあってのもの。騎兵とはそういうもの。分かってはいるけど、それでも他の陸軍軍人があれこれ動いている中で一人だけ何もできないのは、少し情けなく思ってしまうのだ。

 

「大丈夫だよウラヌス、そんなこと気にしなくて。私とウラヌスは、もっと大切な使命があるだろう」

「使命?」

「ああ、”バ術で世界を変える”。ロスのことを覚えているだろう。私たちの飛越が、沢山の人たちを繋いで、笑顔にしたあの時」

「ええ、忘れることはない。これからも」

 

 華のロサンゼルス。人種も国籍も関係ない、バ術の実力で競い合い、最後は互いを称え合い歌ったあの日々を。あの平和の祭典を。

 

「争えば、その時点で終いなんだ。そうならないように力を尽くしたほうが良い。その方法は何でもいい。その方法が、バ術でも良い。そう思うだろう」

「ええ、そうね。それにさ、トレーナー」

「ん?」

 

「もし何かあっても、それこそ例え戦争になったとしても、トレーナーは私から離れない。そうでしょう?」

 

 私はそう言って笑いかける。

 

「……ああ、そうだな。きっとそうだ」

 

 トレーナーは恥ずかしそうに、それか未来を思うかのように、窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。

 

「でも、トレーナー。さっきの演習批判はあまり外で言うものではないわよ」

「分かってる分かってる。ただでさえ陸軍では肩身が狭いからな」

「もう……そろそろ行きましょうか」

 

 折角の休暇だ。喫茶店でゆっくりするのも悪くないけど、トレーナーと色々でかけるのも悪くはない。

 

「あ、ウラヌスさん、西さん、ありがとうございましたー!」

「ええ、また来るわ」

 

 防空大演習が実際どうだったかはとにかく、何となく

 ……しかし、後から知った話だけど、トレーナーが言っていた関東防空大演習への批判と同様のものが、実際に新聞の一面を飾っていた。この『関東防空大演習を嗤う』と題された社説が陸軍内で大問題になっていたこともまた、この時私達は知らなかった。

 

「明日からまたトレーニングね。演習でてんやわんやだったし」

「そうだなー」

 

 刺激的なニュースや事件が世の中を騒がせている昨今だけど、私とトレーナーの日常は変わらない。そんなことをぼーっと考えていると……。

 

「あたっ」

「あっ、ごめんなさい」

 

 通りの人にぶつかってしまう。

 私はかなり背が高いから、油断しているとよく人や物にぶつかってしまいがちだ。

 

「ごめんなさい、ぼーっとしていて」

「ああいえ、僕もよそ見していて、申し訳ない……」

 

 そう言って頭を下げてくれるのは、トレーナーと同じような将校風の軍服を着た男だった。丸眼鏡をかけており、トレーナーみたいに軍服をいじくったりしていないから真面目そうな雰囲気だ。

 

「ん、中尉か。士官学校の者かい」

「あ、いえ、自分は歩兵です。もしかして、西大尉ですか」

「ああ、いかにも」

「お噂はかねがね。ロサンゼルス大会の優勝、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう。失礼だが中尉、所属と名前は?」

「ああ失礼、申し遅れました。3連隊の”安藤”です」

 

 アンドーと名乗る男は、服装を正してトレーナーに敬礼した。

 

「ということは、そちらはウラヌスさんですか。先ほどは失礼しました」

「ああいえ、こちらこそぼーっとしていて、すいません」

「いえ……こちらこそ。実は西大尉とウラヌスさんのご活躍に感服いたしまして、よろしければお二方とも、今度偕行社でお話でも」

 

 偕行社とは、九段にある将校クラブのことだ。将校の交流会が頻繁に開かれているほかに、軍服が売っていたりするため、私やトレーナーもよく利用している。

 

「ええ、機会があれば、是非」

「それでは急ぎがありまして、これで」

 

 そう言って”アンドー”は急ぎ足で陸軍士官学校がある方向へ走っていった。

 

「……はー良かった。悪い人じゃなくて。良い人そうだったし」

「ああ、そうだな。うーん……」

「どうかしたの?」

「いや、あの”安藤”という中尉、以前偕行社で見たことある気がするな」

「陸軍将校なんだからいてもおかしくないでしょう」

「いやまあそうなんだがね、彼、前に士官学校の将校らと何か話しているのを見た気がするよ」

 

 トレーナーはアンドーを目で追いながら、私に言った。

 

「あまり深入りしないほうがいいかもな」

 

 そして、それ以上のことは語らなかった。

 

 

・・・・・・

 

 

 しかし、このアンドーという中尉とはすぐに会うことになった。

 トレーナーと喫茶店で話した次の日、古くなってきた軍服のボタンを新調しに、一人で偕行社に寄った時だった。

 

「あれ……」

「お疲れ様です! 昨日ぶりです、ウラヌスさん」

「え、ええ、アンドーも何か買い出し?」

「いえ、自分は少し用事があってその帰りです」

 

 昨日もそうだったけど、よく見たらアンドーの軍服はよれよれだった。恐らく長く変えていないのだろう、派手で煌びやかな軍服を好む青年将校としては珍しい格好だった。

 

「そういえば、先日のお詫びがまだでしたね。お茶の一杯でも」

「あ、大丈夫よ。あれは私も悪かったし……」

「いえいえ、逆に私も、特に西大尉のことなどお聞きしたかったので」

 

 そう言って売店から紅茶を2杯買ってきてテーブルに置いた。私は悪いと思いつつ少し居心地悪い感じで席に着いた。

 別にいいのに。よほど律儀な人なのだろう。うちのトレーナーと大違いだ。

 

「ところで、どうしてうちのトレーナーに興味が?」

「西大尉は同じ士官学校出身の青年将校ながら世界で活躍されていますから、尊敬しているんです。それに、将校の集まりにもあまりお見掛けしませんから、お話だけでも聞きたいな、と。勝手ながら」

「そうなんだ。てっきりうちのトレーナーは他の将校と夜な夜な飲みに行っているのかと……」

 

 でもたしかに、最近のトレーナーは教官として”教え子”たちと飲みに行くのはよく見るけど、それ以外は私や他のバ術トレーナーと出かけたりするくらいだ。まあ、教え子と飲みに行くのもどうかとは思うけど。

 

「最近は青年将校の間の派閥争いも徐々に激しくなっていますから、分かります。西大尉とお会いしたい気持ちもありますが、今や有名人ですものね。きっと影響力のことまでも気にしておられると思うと、頭が下がる思いです」

 

 いや、ただそういうのが面倒くさいだけなんだと思う。

 

「しかし派閥争いかぁ……。バ術のところではあまりそういう話は入ってこないから、新鮮な感じ。新聞の中ではよく見るけど」

 

 トレーナーはあまり触れてほしくないのだろうけど、新聞はよく読むし、周りの将校の話が聞こえているから陸軍内の派閥についても何となく分かる。

 

 最近は”昭和維新”という文字が新聞の一面を踊っている。先の五・一五事件もこれが根源にある。無駄にさえ見える政争を繰り返す政党政治を敵視し、天皇親政の大改革を起こそうとする運動。陸軍内でそれを主張するのが”皇道派”だ。陸軍士官学校出身の青年将校を中心に広まっているらしい。そして、それに対して政治をもってして列強に対抗する国防国家を作り上げようとしているのが”統制派”。陸軍は徐々に、この2つで分裂しようとしている。

 

 トレーナーは直接は言葉にしないけど”バカバカしい”とすら思っているのだろうか、関心がないと言うか、そういう派閥行動を嫌っていると言っていいほどだ。

 

「羨ましい限りです。今は軍隊内部で争っている場合ではない。日本が一致団結して、この情勢を乗り越えていかなければいけないのに……」

 

 それはきっと、アンドーもそうなのだろうか。

 

「今、日本は大変だものね……」

「ええ、恐慌の影響で、漁村農村は貧困にあえぎ、最近入営してくる兵隊も随分と痩せています。私の地元の金沢でも、親戚の姉が身売りしたとか……」

 

 私たちバ術に関わる者たちは基本的には貴族だったり良いとこの出が多い。トレーニングや大会だけでも随分とカネがかかるものだから自然とそうなる。トレーナーは言わずもがな、イマムラも出身は名家だったはずだ。そしてウマ娘もまた、自然と裕福な日々になっていく。

 でも地方から出てきて入営してくる兵隊たち、そして彼らを見る士官学校出の青年将校たち、彼らだからこそ見えるものがあるのだろうか。私達が気づいていないだけで、本来国民を守るための軍人として、見なくてはいけないものがあるのではないか。

 

「……なんだか申し訳なくなってくるわね。こうしてバ術をしているのも」

「あ、自分はそういうつもりでは! 僕は、西大尉とウラヌスさんの活躍は大切なものだと思っていますよ。あのロスで金メダルを獲得したときのニュースが流れた時の皆の笑顔、今でも思い出します」

「わかってるわかってる、ちょっと言ってみただけよ。トレーナーにもよく言われているから」

「ええ……でも、本当なんですよ。武器を持ってばかりでは、国は守れませんから」

 

 バ術をやり続けることに意味がある。それはトレーナーと一緒にいて感じて、トレーナーが教えてくれた。でもアンドーのような他の陸軍将校に直接言葉にしてもらうと、より安心する。

 最近は情勢不安もあって、軍事とは離れた競技バ術を敵視するかのような将校も少なくないから。

 

「”平和の中の戦い”もまた重要だと日々気づかされることがあります。それこそバ術のような。今日、特にそう思いました」

「今日?」

「ええ、実はさきほど、”鈴木貫太郎”閣下のお宅にお邪魔して、政治について話し合ったんです」

「スズキ……」

「あのー、天皇陛下の侍従長をなさっている方で、元海軍軍人、日露戦争の英雄です。天皇陛下からの信頼が厚いお方なんですよ」

 

 スズキ、カンタロウ……なるほど元海軍軍人。しかも天皇の侍従長となると、日本ではかなり有名な人なのだろう。私も日本人としてまだまだだ。

 

「鈴木閣下は前の軍塾条約の対応で最近軍人から嫌われていたので、正直私もどんな方なのかと構えておりましたが、いやァ感服したものです」

 

 その後もアンドーはスズキ閣下について色々と語ってくれた。彼の素晴らしい歴史観や国家観、そして何よりも、武器を互いに向けなくてもいい、民のための国を作るべきだという未来志向。

 ”西郷隆盛のような懐が深い大人物。噂を聞いているのと実際に会ったのでは全く違った”と、アンドーは嬉しそうに話した。

 きっと彼は青年将校の一人として会う前から思うところがあったのだろう。でも、実際にひざを突き合わせて話して見ると、その”人”が分かったのだろう。

 

 ”話せばわかる”……きっと、彼はそう思ったのではないか。それに気づけたからこそ、嬉しかったのだろうか。

 

「……っと、ああ、すいません。自分ばかり関係ない話を」

「いいえ、正直私も他の将校についてよく分からなかったけど、あなたのような人がいることが分かって良かったわ」

「いえいえ、是非今度は西大尉もご一緒に」

 

 そう言って嬉しそうに立ち上がるアンドー。貴族のような高貴さとは別な、なかなかに紳士な男だと思った。

 ただ……

 

 ”あまり深入りしないほうが良いかもな”

 

 そんなトレーナーの言葉にひっかかりを覚えていた。そんな人には見えないけど……トレーナーの考えすぎだろうか。

 

「そういえば、派閥と言えば……」

「? はい」

「あなたはどうなのかしら。何か、陸軍から変えたいこととかあるの?」

 

 失礼を承知で、少しだけ踏み込んでみた。

 

「自分は……自分も、今の政治に思うところはあります。国を変えたい。それは今に悩む国民なら誰もが持っている考えです。ただ……」

「ただ……?」

 

「暴力では解決しない……そう思います。僕は、実力行使はしないと、誓っていますから」

 

 そう言ってアンドーは、静かに笑った。

 



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#13 夢のトーキョー

1934年11月、西とウラヌスは、”オリンピック男”である田畑に呼び出され、1940年東京オリンピックのことを聞く。しかしその中では、大物政治家も関与しているようで……?
一方、陸軍青年将校の間では、陸軍士官学校で起きた事件を機に皇道派と統制派の対立が露わになる。それはやがて日本全体を飲み込む、大きな暗闇の始まりだった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


「トーキョー! トーキョー! トーキョーで決まりだっ!」

 

 そんな男の大声が東京に響き渡ったのは、1934年の11月。防空演習も乗り越え、天皇に男児ができたり、海軍のトーゴーって人が亡くなったりと世の中はばたばたしていたけど、あれから1年平和なバ術練習の日々を過ごしていた時だった。

 

「と、トーキョーって?」

「オリンピックのことに決まっているだろう! ねぇ!」

 

 やけに大声と早口で喋るのは、眼鏡で少し背が低い男。”オリンピック男”の”タバタ”だった。

 

 最近の休日は東京の街でアスコツトと一緒に体力づくりのためのマラソンをすることにしていて、その日も周りの迷惑にならない程度の速足で東京の街を走っていた。自分で言うのも何だけど、私もアスコツトもすっかり有名人だから、一緒に少し照れながら気持ちよく走っていた。そしたら……

 

 ”お、君、ロスのウマのウラヌス君じゃんね! ちょっとこの後トレーナーの西君連れてこっち来てくれる?”

 

 と急に言いだしてどっか行ったから、仕方がなくトレーナーを家から連れ出して、銀座にある大日本体育協会とやらの本部の一室に来ていた。

 

「……それで、ウラヌスはとにかく私も呼び出されたのはなぜ?」

「それは決まっているだろう! 君らがロスの英雄コンビだからだよ!」

「そもそもの話が見えないのだけれど……」

「だからオリンピックの話に決まっているだろう! 1940年、次の次のオリンピックさ!」

 

 ああ、そういえばこの部屋の扉に”紀元二六〇〇年オリムピック競技会 東京開催に関する実行委員会”と書かれた紙が堂々と貼られていたな。

 

「田畑さん、決まりとは言うが、まだ総会で決まったわけではないでしょう。候補には他にもヨーロッパと南米含め大量にいると聞いているが……」

「たしかに、オリンピックの開催都市は3市に絞って、そっから投票が行われるがね。でも、俺には分かるぞ! 1940年は、トーキョーで決まりなんだ!」

 

 私は政治とかにはあまり興味がなかったから、たまに新聞で騒がれている通り1940年のオリンピックは東京で決まっていたのかと思ったけど、どうにも違うようだった。

 しかし決まっていないとして、どうしてこの久しぶりに登場した謎の男は”東京オリンピック”にする自信がこんなにもあるのだろうか。

 

「うちは今国際問題の中心……まあいってしまえば俺ら日本が”それ”なんだが……とにかく、そんなアジアで唯一の候補国。平和の祭典をやるなら今、ここしかないだろう。アメリカのロスでぶちあげた次は、アジア! 日本のオリンピックに決まっている!」

「……しかし、ロスのバ術もそうだったが、欧州から遠いと彼らは嫌がるのでは?」

「それなら大丈夫だ! 東京でオリンピックをやるときには、参加国にそれぞれ100万円の補助をすると東京市長が確約した!」

「なんだって?」

「東京市長は今回の話にかなり乗り気なんだよ。特に君ら! 君らが金メダルを獲得したあのバ術! それを、東京で直接見てみたいんだってさ」

 

 私たちのバ術、そしてこの男が団長をやっていた水泳は、今でもロサンゼルスオリンピックの話をするときには一番盛り上がるものだった。特にバ術は誰も金メダルを予想していなかっただけに、今でも私とトレーナーは異常なほどにありがたがられることがある。

 

「対立候補になりそうなのはイタリアのローマかねぇ。あそこのムッソリーニは、今の俺らと同じでそうとうやる気らしい。でも問題ない! すぐにそこを乗り越えて、”東京オリンピック”だよ!」

「良いじゃないトレーナー、元々私もソンネボーイもそのためにも今頑張っているんだし」

「そうそう、良いねえウマの嬢ちゃん、その通りだよ!」

「うーん……」

 

 しかし、何やらトレーナーはどこか難しい顔をしていた。

 

「一つ聞きますが、なぜ東京市長はここまでやる気に? いや、新聞を見ると東京市長だけでなく多くの政治家も興味を持っているようですが。まさかロスの私とウラヌスの走りを見たからだけではありませんよね」

「あー、いや、ね」

 

 そう言って扉に貼られた”紀元二六〇〇年オリムピック競技会”の張り紙を見るタバタ。

 

「なるほど、1940年、”紀元二六〇〇年”か」

「……私も言ったよ? オリンピックは世界の祭典、日本のあれこれは関係ない。でも、しょうがないじゃんか。こうでも言わんと日本のお偉いさんは動かんのだから」

 

 紀元とは「皇紀」という、日本の最初の天皇が即位した年から数えた年法のことで、東京オリンピックができるかもしれない1940年がちょうど2600年目という節目の年ということ。

 たしかに、その記念にオリンピックを……というのは、また違う気もしてくる。

 

「それに大丈夫。これは平和の祭典! 政治的主張や国際問題はここにはもちこまない。これまでもそうやってきただろう。だから大丈夫、大丈夫!」

 

 そう言ってタバタがトレーナーの肩をばしばしと叩きながら笑っていると……

 

「失礼するよ。やあ、田畑君じゃないか。久しぶりだね」

 

 一人の老人が入ってくる。

 随分と良いスーツを着ていて、何となく他とは違う雰囲気を纏っている。外をちらりと見ると、送りの黒い車が止まっていた。

 

「げ、なんでこんなところに」

 

 タバタはあからさまに”まずい”といった具合に顔をしかめた。

 

「……なぜこのようなところに大蔵大臣が?」

「あーいえ、それはだね……」

 

 ……大蔵大臣?

 

「おや、ウマ娘のお嬢さんがいるね。こんにちは」

「あ、どうも、こんにちは。あの、あなたは……」

「これはこれは、失礼。ウマ娘のお嬢さんが知らないのは無理もない。私は大蔵大臣の”高橋是清”だよ。ウマ娘のお嬢さんがいるということは、そっちは……」

「ああ、はい。陸軍大尉で、このウラヌスのトレーナー、”西竹一”です」

「おお、そうかい。軍人がいるから私ももう終わりかと思ってしまったがね」

「私は政治には疎いものでして、大臣を襲ったりする趣味はございません」

「そうかそうか、この田畑君もそうだが、ここは面白い男が多いな。軍人には私を嫌う者ばかりだと思っていたからね」

 

 そう言って笑う。大蔵大臣というだけあって、予算関係で軍隊と揉めがちなのだろう。

 しかしタカハシ大臣。前のイヌカイのおじさんも驚いたが、どうにも私は偉い人と縁のようなものがあるのだろうか。

 

「そ、それで大臣、体協に何かご用が……?」

「いやすぐ帰るのだがね、折角だから寄ったんだよ。ほら、オリンピックの、あの田畑君がアムステルダムの時に私のところに来たのを思い出して」

「あ、ああー、そうですな」

 

 ”アムステルダムの時”とは、1928年のアムステルダムオリンピックのことだろう。タバタはそのころからオリンピックに関わっていたのか。

 

「あの時君が言っていた、オリンピック。ロサンゼルスも見ていたが大成功だったね。国民は大歓喜。私は争いは好まないがね、ああいう形で大いに盛り上がるのは結構じゃないか。私も、”カネを出した”甲斐があったよ」

「……田畑さん、”カネ”、とは?」

「ああ! 大臣、ありがとうございます! いやはや、今ちょうどこのロサンゼルスの英雄、西君とウラヌス君と、次の東京オリンピックについて話していたんですよ!」

 

 あからさまに大声で大臣と親しく話すタバタ。なるほど、彼が日本のオリンピック男として有名だった理由が分かった気がする。

 

「東京、か。それまで私が生きていたらだが、楽しみにしておこう。あまりカネを使いすぎないようにね」

「そんなこと言わずに、オレもあと100年は生きる予定なので、大臣も長生きしてくださいよ」

「そんなこと言っても何も出ないよ。……しかし東京か。やるなら期待しているよ。日本の国がどれだけのものか、世界に知ってもらう機会にもなるからね」

「ええそれはもう。前言った通り、じゃんじゃん期待してもらえれば!」

「うむ、次はベルリンだったかな? ヒットラーも随分と力を入れているようじゃないか。あれだけ大きな大会をやれば、国の威信のためにも豊かさのためにもなるだろうからね」

「……お言葉ですが大臣」

「ん、何だね、西君」

「オリンピックは政治や国のためでは……」

「ああ、分かっとる分かっとる、体協の嘉納君も。そう言っとった」

 

 そう言って、”分かった分かった”という具合で笑いながら、大臣は部屋を出て行こうとする。

 

「……最近青年将校の間でよからぬ噂を聞きます。お気をつけて」

「はは、青年将校である君に言われるとはね。ありがとう」

「それと最後に……」

「ん?」

「大臣にとって、あなたがた政治家にとって、オリンピックとは何ですか」

 

 トレーナーはまっすぐとした目で大臣にそう問う。

 トレーナーは疑問に思っているのだろう、スポーツに、バ術という舞台に政治が、国が関わってくることが。そうなれば、もはやそれは……。

 

「……それは、君がベルリンに参加したら分かるさ。私個人はとにかく、政治にとってオリンピックとはどういうものか、ね」

 

 そう言って表情を変えることなく、大臣は車に乗って帰っていった。

 

「……田畑さん、随分前からカネを?」

「そうしないとあんたらもロスにはいなかったよ。それだけでかくなったってことさ。オリンピックは」

 

 そう言って”しょうがないさ”と笑うタバタ。何だか、目を泳がせながら。

 

「……まさか、まだ何か?」

「あ、いや」

「……イタリア」

「うっ!」

「ローマ」

「ぎくっ!」

 

 図星と言わんばかりに声を上げる。

 

「さっきやけに力説しているからそうかと思いましたよ。”ローマは問題ない”ってね。ちなみになぜ?」

「お、俺が言ったんじゃないぞ。そんなのやばいとは言ったんだ。ただ、あの嘉納治五郎の爺さんが言ったから!」

 

 ”嘉納治五郎”……ロスの時にも少し顔を見たことがあるかもしれない。日本のオリンピック委員会……いや、世界のIOCでも強い影響力を持っているだろう人だ。

 

「……ムッソリーニに直接交渉して、1940年のオリンピックを東京に譲ってもらう……ですか。考えたものですね」

「遥か彼方のアジアでオリンピックをするには、こうするしかないんだよ。ねえ、分かってほしい」

「そこまでして、あなた方も政治家も、オリンピックに何を求めているのですか」

「気持ちは分かる。だから、必ず! ロスを超える素晴らしいオリンピックにして見せるから! だからほら、頼むよ、西君、ねえ! はっはっはっ!」

「はぁ……本当にそうなるかは、次のベルリン次第でもありますがね」

 

 トレーナーはどこか不安そうな顔をして、窓の外を見たのだった。

 

 

・・・・・・

 

 

 タバタと話をし、トレーナーと別れて騎兵学校に戻ってきた。

 トレーナーは少し心配事があるみたいだけど、私は純粋に東京でオリンピックをやるのが楽しみで仕方がないというのが正直なところだ。

 あのタバタの口から”トーキョーが確実”というのなら、本当にできるかもしれないと思った。ソンネボーイとまた競い合うことが、そしてもしかしたら、ロスのイノウエとも。

 

「よし……もっと練習しないとな」

 

 思わずそう声が出てしまうほどに、その時が来た東京の景色を思い浮かべてしまう。

 

 でも、トレーナーが言っていたことが気になるのもまた確か。

 

 ”ムッソリーニに譲ってもらう”。

 

 1940年のオリンピックを、直接交渉して譲ってもらう。つまり、イタリアには降りてもらうということだ。

 

 でもそれは、オリンピックの精神として正しいものなのだろうか。

 私だって少しだけどイタリアで育った身。イタリアのバ術の素晴らしさは知っているし、彼ら彼女らも自分たちの国で競い合いたいという気持ちがあるだろう。

 だからこそIOCは次のオリンピック開催地を投票で決める。公平に。一国と一国の代表が話して決めていいものなのだろうか。

 

 ムッソリーニというイタリアのトップは嫌いじゃない。バ術には理解がある人だというのはイタリアにいた時から知っているし、そのお陰かイタリアにいた時はバ術に関して不自由することはなかった。

 ただ、どうにもあのイタリア時代は、私にとって何とも言えぬ息苦しさのようなものがあったのは覚えている。どうにも日本までもがそんな空気に飲まれてしまうのではないかと、私はトレーナーと同じ、不思議な不安を感じていた。

 

 そんな風にぼんやりと廊下を歩いていた……その時だった。

 

「全員止まれ!」

「動くな、全員動くな!」

 

 廊下の奥から、将校服を着たウマ娘が急に大きな声を上げて歩いてきた。更に後ろに2人ほど歩兵がついており、十四年式拳銃を手に持っている。

 全員顔が険しく、明らかにただ事ではなさそうだ。

 

 階級を確認する。頭の者は通い。ウマ娘の地位は担当するトレーナーの階級と同義であるが、分かりやすいように階級章をつける者もいる。ただ、ウマ娘同士なら軍隊の階級というのは、互いの階級が近ければあまり意味をなさない。

 とにかく、いかなる理由があろうと、急に銃を向けて上がりこんでくるのは失礼というものだ。

 

「同じ陸軍のウマ娘に拳銃を持って怒鳴りこむとは何事よ!」

 

 ただ気になるのは、全員”憲兵”と書かれた腕章を着けていること。

 

「君は……ほう、バ術のウラヌスか。少し人気になったかと思えば、君は陸軍の内情にも口を出すおつもりかね」

 

 騎兵学校にはあまりいないが、陸軍内ではたまにいる、私のような競技バ術ウマ娘を煙たがる連中だろう。明らかに良い目をしていない。

 

「……なんですって? 私も大日本帝国の軍人よ。その権利はあるはず」

「君は元々イタリアから来たんだろう。まあ、その体格と顔を見れば分かるがね」

「あら、日本軍人のくせにそんなに心が狭いのかしら? イタリアの飲んだくれでももっと懐が広かったはずだけど?」

 

 しかしこの子、私よりも小さいのによくもこんなにえばれるものだ。

 悪意に真面目に怒っても損するだけ。拳銃を持った人がいるのが気になるけど、まさか同じ陸軍軍人を撃つことはないだろう。

 大丈夫、大丈夫だ。

 

「……ふん、それなら教えてやろうかウラヌス。私たちがどうしてここに来たのかを」

「ええ、最初からそれを言いなさいよ」

「今朝、陸軍士官学校の方でクーデター計画が発覚した。首謀者は……皇道派の青年将校と生徒ら。我々憲兵隊が彼らを捕らえて事なきを得たが、もう少し遅ければどうなっていたか分からなかった」

「く、クーデターですって……?」

 

 皇道派。陸軍派閥の一つ。

 武力による国家改造を企んでいるのは知っていたけど、まさか本当に蜂起の準備を……?

 

「軍法会議は来年になるだろうが、クーデターは国家安寧を任された陸軍軍人にとって許されざる重罪。私達が取り締まってやらなければいけない。”土管”の連中だけじゃなく、当然、”ここ”もだ」

 

 憲兵のウマ娘は廊下の床を指して得意げに笑った。

 陸軍士官学校に並んで、ここ、陸軍騎兵学校も若い兵士が多い場所。特に大きな力を持ったウマ娘が。……しかし、騎兵学校に来る兵士やウマ娘は、エリートや余裕のある者が多いせいか、派閥争いに加わる者はあまり見たことがない。ここまで憲兵に踏み込まれるのも初めてだろう。

 

「残念ながら、”ここ”にそんなことを企むような輩はいないわ。さっさと戻って上官に報告しなさい」

「ほう、それなら言おうか。”ここ”のウマ娘に一人、皇道派の動きに関与した疑いのある者がいると思うのだが。二度、関与が疑われている青年将校と会って話している者が、ね」

「な……なによ……」

「”安藤”という名の青年将校を知っているはずだろう、君は」

 

 な、アンドーは知っている……と言っても、それは一年も前の話で、あれ以来見かけることもないから特に気にしていなかったけど。

 

「なぜアンドーの名前が?」

「彼含め、歩兵第3連隊の何人かがクーデターに関わる予定だったのではと疑われている。生憎証拠はこれから探すのだがね」

「なっ……アンドーがクーデターに!?」

 

 ”僕は、実力行使はしないと、誓っていますから”

 

 アンドーは、そう言っていた。それは覚えている。彼が進んでクーデターに加担するとは思えない。

 

「彼は元々皇道派の中心人物たちと接触していた疑いがある。まったく、陛下を利用して国家転覆を企むとは、許されざる暴挙だ」

「まだ逮捕されていないんだし事実確認もまだなんでしょ? それに、そんなに皇道派を恨むあんたこそ、”統制派”とかいうやつなんじゃないの?」

「だとしたら? 私らに非はない。何にせよ、君が彼に加担した可能性があるという事実も変わらない。さあ、来てもらおうか。ロスの英雄……ウラヌス君」

 

 なるほど、彼女が本当に統制派なのかは分からないけど、これに乗じて競技バ術選手であるにも関わらずロスのことで受けが良い私を潰そうとしているのだろう。

 どちらにせよ、国家転覆の冤罪を着せられたらたまったものではない。

 

「たしかに私はアンドーという軍人と話をしたことはある。ただ、クーデターがどうとかいう話をした覚えは一度もない。覚えもないことで連れていかれる気はないわ。せめて、その証拠が出てから来なさいよ!」

「そうか、それなら……」

 

 憲兵のウマ娘が手を上げると、後ろに立っている二人が拳銃をこちらに向けてくる。それを私の後ろでひっそりと見ていたウマ娘の学生が悲鳴を上げた。

 しかし、証拠もなく調査も済んでいないのに逮捕するのは、いかに憲兵であろうと本来許される話ではない。

 

「いいか。証拠云々など後の話だ。大事なのは、皇道派の分からずやを少しでも陸軍から消し、国家を正しい道へと導くことだ。君がどうこう言おうと関係ない。少なくとも私にとっては、な」

「だから、私は皇道派でも何でもない! ただのバ術選手よ!」

「問答無用、来いっ!」

 

 憲兵のウマ娘は、私の腕を掴もうと一歩前に出てくる。私は思わずそれに身を引いてしまった……その時だった。

 

「……っ! お、おおお!!!」

 

 急に廊下の奥から現れた人影は、憲兵の懐に踏み込み、相手を引き出す。そしてぐるりと背中にかけて回して地面に叩きつけた。見事な背負い投げだった。

 

「あ、と、トレーナー!」

 

 こんな見事な投げをするのは、私の知る限りトレーナーしかいない。

 

「ぐっ……な、何をする! 私はただ職務を……」

「彼女の腕を掴んで、引きずりだすのが職務なのか?」

「あ? って、なっ、バロン西! なんで……」

「口を慎めっ! そして立て! それが上官に物を言う態度かっ!!」

 

 トレーナーから今まで聞いたこともない怒号が飛び出す。こんなにキレているトレーナーを見るのは初めてだ。

 

「はっ、も、申し訳ありません……」

 

 私も思わずびくってなってしまうほどの迫力に、憲兵のウマ娘もしぶしぶといった具合で立ち上がって軍帽をかぶり直し、敬礼した。

 

「いいか、よく覚えておけ。今後、私のウマ娘含め騎兵学校の者に不当に手を出そうとしたときは、貴様の居場所がなくなると思え。分かったな」

「は、はい……」

 

 本来人間が適うはずがない、大きな力を持つ憲兵のウマ娘もすっかりトレーナーに圧倒され、後ろの兵士に”もういくぞ”と言って退散していった。

 

 なんとか揉めることなく、助かった……。

 

「あ、ありがとう、トレーナー」

「いや、良いんだ。街中で憲兵を見かけて心配になってな。まったく、神聖な騎兵学校に派閥争いを持ち込まないでほしいものだ」

「いえ、私も少し迂闊だったから……思えばトレーナーに言われていたのに」

 

 ”あまり深入りしないほうがいいかもな”

 トレーナーはアンドーについてそう言っていた。彼がクーデターに参加していなかったとしても、どうやら皇道派であるのは確かなのだろう。

 

「いや、危険な人物ならとにかく、主義主張の違いで人と関わるなという方が不当だろう。気にするな、ウラヌス」

「ええ……でも、何だか少し心配ね。こんなことになるなんて」

「ああ、最近やけに陸軍内に不穏な空気が流れている。なんとか、騎兵の者たちだけでも守れればいいんだが……」

 

 トレーナーの不安もわかる。

 でも私はトレーナー、あなたの方が心配だ。ただでさえ私と同じく競技バ術で有名になり、おまけに貴族であるばかりに陸軍内でも浮いているのだ。今回のことも、陸軍内であまり良い噂は流れないかもしれない。

 

「……あ、そうだ、そういえば、その、トレーナーさ」

「ん、なんだ?」

「さっきの、”私のウマ娘”っていうの、色々誤解が生まれそうだから、さ」

「ん゛ん゛!! あいや、別に変な意味で言ったわけじゃないぞ! 私の担当って意味で……」

「ふふ、もう、わかってるから、もう」

 

 だからトレーナーに何かあったときには、私が傍にいて、守らなくちゃ。

 絶対に。

 

 

・・・・・・

 

 

1935年4月 東京九段 偕行社

 

「安藤だ」

「ああ、入れ」

 

 陸軍将校交流の場である偕行社の一室で、3人の青年将校が秘密裏に落ち合っていた。それぞれ村中、磯部、そして安藤で、全員大尉相当の階級を持っている。

 

「”十一月”の件か」

「そうだ、磯部と話していたが、全く承服できない話だ」

 

 先の陸軍士官学校でのクーデター発覚事件は、”十一月事件”と呼ばれ、陸軍内で大きな問題になっていた。皇道派の青年将校が歩兵連隊を率いての重臣や政府首脳の襲撃を計画したとされるこの事件では、直接関与しなかった安藤を除き、関与の疑いがかけられた村中と磯部は休職となっていた。

 

「ちなみに聞くが、本当に、直接行動を起こすつもりはなかったんだよな?」

 

 安藤は鋭い視線で2人を見た。安藤は本当に十一月事件について覚えがなく、クーデター計画について相談もしていなかったからであった。事件については、憲兵からの調査を受け初めて知ったくらいだった。

 

「僕も憲兵隊から取り調べを受けたが、クーデターなど、身に覚えのないことだった」

「安藤には悪かったと思っている。でもそういう相談があったのは以前からだっただろう。雑談みたいなものさ。”計画をした”なんて出鱈目だ」

「うん、幸い今のところ実刑が出るほどではないみたいだが、これは明らかに統制派の陰謀、不当な粛軍だ。他の青年将校も怒っているよ」

 

 磯部と村中は怒りを露わにしていた。

 十一月事件は結局、その全貌があやふやなまま処理が進んでいった。関与した学生や将校は逮捕された。結局証拠不十分でそれ以上の追及はされなかったものの、それぞれ退校・停職ということになり、不当な処分だと怒る将校も少なくはなかった。

 当事者である村中と磯部も当然同じで、これを対立する”統制派”の陰謀だと考えていた。

 

「相談したのが事実だとしたら、なぜ僕に相談がなかった。百歩譲って直接行動をするにしても、急に言われていても困るぞ、磯部」

「前々からしていた話じゃないか。直接行動をするなら、安藤のとこの歩3が主になるだろう。”もしも”の話をしていただけだ。本当にそれだけの話だったんだよ」

 

 皇道派に属するような青年将校らは主に東京の第1師団歩兵第1連隊と第3連隊、そして近衛師団近衛歩兵第3連隊所属がほとんどだった。その中でも第1師団歩兵第3連隊は安藤も所属する皇道派が多くいる部隊として有名だった。 

 

「しかしそれならなぜここまでの騒ぎに?」

「正にさっき磯部と話していたんだが、最近、教育総監の真崎閣下に今回の責任を取らせるつもりという噂がある」

「まさか、そのために?」

「ああ、統制派が皇道派排除のためにやったでっちあげだよ」

 

 ”真崎甚三郎”は、皇道派の中で最も地位が高い人物の一人で、陸軍の教育を担う教育総監でもある。

 

「もしそれが事実だとしたら、”永田”を切るしかないと……」

 

 磯部はそう漏らした。

 ”永田鉄山”は、統制派の代表的人物であった。”永田の後に永田なし”と言われるほどの秀才で、磯部ら青年将校の間では、十一月事件も永田が暗躍した結果だという論が少なからず流れていた。

 

「俺は時期尚早だと磯部に言っているんだが……」

「だってそうだろう、これ以上統制派の好きにさせていては、陸軍も……」

「僕は、直接行動するなら反対だ」

 

 安藤は立ち上がり、磯部を見た。

 

「永田さんを切ったところで何も変わらない。今すべきは僕らの鬱憤を晴らすことではなく、日本を救うためにどう行動するかを考えるべきだ」

「安藤……!」

「それに正直、僕は永田さんにも恩がないわけではない。誰も傷つかずに”昭和維新”を達成できるのなら、それが一番だろう」

「……磯部、安藤の言う通りだ。ここで焦って直接行動に出ても、成功の保証はない」

「……っ。分かった、分かったよ」

 

 磯部は2人になだめられ、”しょうがない”といった具合で息を吐き、腕を組んだ。

 

「ひとまず、俺は磯部とこの不当な粛軍に関する意見書を陸軍長官に出してくる」

 

 村中は『粛軍に関する意見書』と書かれた何十部かの書類を出した。

 

「これで流れが変わればいいんだが……ん?」

 

 村中がそう話していると、廊下の方からがやがやという声が聞こえてきて、3人はびくりとした。

 

「あまりここの相談を他の連中に見られたらまずいな。また疑いが深まる」

「よし村中、出よう」

「……もし何かあれば僕にも言ってくれ。直接行動を支持しないとはいえ、君たち同志を見捨てるつもりはない」

「分かった、ありがとう」

 

 直接行動ではなくあくまで抗議の方針でまとまった3人は、急いで部屋を出た。

 

 その際に、村中の手から、気づかぬうちに報告書の一枚がひらりと落ちる。

 

「……ん?」

 

 それを、廊下を歩いていた一人の中佐が見ていた。

 

「どうした、相沢」

「……いや、先に行っていてくれ」

 

 中佐は連れを行かせた後、『粛軍に関する意見書』を拾い上げた。

 

「”辻大尉のスパイ的行動”、皇道派の先の事件への関与は”デマ”……?」

 

 中佐はその文書の一つ一つに目を通した。

 先の事件が統制派の代表的人物の一人である”辻 政信”の陰謀であること、統制派による皇道派を排除するための罠であったこと……。

 

「統制派、辻……これが事実だとしたら承服できん話だ。そしてこれが本当だとしたら、背後にいるのは……」

 

 彼は目の色を変えた。

 

「”永田鉄山”か……」

 

 陸軍中佐、”相沢 三郎”は、意見書を大切そうにしまい、腰に下げていた軍刀に手を触れたのだった。

 



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#14 嵐の前

陸軍士官学校以降、陸軍は荒れていた。皇道派と統制派の対立はより深くなっていった。そんな中、皇道派先鋒の磯部と村中は免官となり陸軍省を歩いていた。そんな二人に「相沢」と名乗る中佐が軍刀を下げて声をかける。
一方、ウラヌスとアスコツトは、ベルリンに向けてトレーニングを重ねる。2人は新しくできた府中の東京レース場に立ち寄り、ベルリンを越えたその先の目標を話す。
オリンピックの前の静かな日々。それは、オリンピックとはまた別の、世界を巻き込む嵐の前兆であった。

※これは史実を基にしたオリジナルウマ娘、トレーナーのお話です。
 当作品はフィクションであり、版権元や実在の人物とは一切関係はありません。

本作の元になっている史実の「バロン・西」とその愛馬「ウラヌス」の活躍について、本作を絡めながら解説している記事をnoteに書いています。併せて読むと楽しめると思いますので、是非ご覧ください。
→https://note.com/sorami1942/m/md1ad0d6975b7


1935年8月12日 東京・牛込区 陸軍省

 

「まずいぞ村中、こちらも免官となってしまったし」

「6月の、朝鮮での計画も失敗だった。このままでは後が……」

「永田を切るのには反対ではなかったのか? 安藤ともそう話しただろう」

「しょうがないじゃないか。最早これしか手はないんだ。”直接行動”よりはマシだろう」

 

 皇道派将校の磯部と村中は、陸軍省の廊下を歩いていた。

 2人は8月中に陸軍士官学校事件の責任を取って正式に免官となり、陸軍士官学校から去ることになっていた。2人は免官までの間には陸軍士官学校が統制派の陰謀だとする『粛軍に関する意見書』を校内でばらまき、6月に統制派の頭である永田鉄山が満州・朝鮮視察に出た際には暗殺計画を練ったものの、失敗していた。

 陸軍士官学校事件の影響もあり、皇道派は統制派に対して劣勢に立たされており、このままでは皇道派そのものが崩壊していてもおかしくない状況であった。2人は免官の辞令を受けた陸軍省の廊下の帰りでも、この先どうしようかと嘆いているのだった。

 

「どん詰まりだよ。どん詰まり。陸軍中央どころか士官学校からも離れたんじゃ、維新なんてできっこないじゃないか。なあ、磯部」

「しかし、今ここ、陸軍省に、永田がいるかもしれないんだぞ。どうだ、村中。もうどうせ後はないんだ。ここで永田を切っちまおうか」

 

 永田鉄山は軍務局長を勤めている。軍務局は、兵員・予算管理など陸軍の軍政を司る重要な部署であり、その長たる軍務局長の部屋はまさに2人がいる陸軍省にあった。永田鉄山がいるとすれば、大抵はそこだった。

 

「やめとけ。永田が今ここにいる保証はないし、もう俺たちは他の士官に居所を聞ける立場でもない。無駄死は嫌だ」

「そうか……」

 

 かつかつと誰もいない廊下に軍靴の音が響く。磯部と村中は”どうしよう”と繰り返しながら、ぼんやりと歩いているしかなかった。

 

「……安藤の言う通りだったのだろうか」

「どうした、磯部がそんなこと言うなんて、珍しいじゃないか」

「いや、ここまで追いつめられると少しな。天が”ここまでにしておけ”と言っているような気がしてな」

「じゃあやめるのか。ここで」

「そうは言わないが……」

 

 村中は”まあ、分からなくはないがな”と言いながら歩く。

 2人は特に陸軍士官学校事件以降、頻繁に統制派の陰謀と昭和維新の必要性を訴えてきた。しかしそれもなかなか実らず、維新を掲げ実際に行動に移す将校も出てこなかった。”もはやここまで”……そんな考えが、2人だけでなく皇道派将校の多くに流れ始めていたのだった。

 

「もういっそ満州にでも行こうか。それで山賊狩りでもして市民を守ってよ、その方がお国のためになるんじゃねえのかな」

「そうだなぁ」

 

 そうぼやきながら2人はちょうど軍務局長室の目の前を通った……その時だった。

 

「皇道派の先鋒に立っていた将校が……情けないものだな」

 

 そう言って2人の前に堂々と立っていたのは、中佐の階級章をつけた陸軍将校だった。

 

「はっ! い、今の会話は……!」

「いい、私も君たちと”同じ”だ」

「……というと?」

「そこの部屋に永田がいる。さっき給仕に確認しておいた」

「なっ……!」

「ち、中佐殿、あなたは……?」

 

 中佐はにやりと笑う、

 

「私は”相沢三郎”。はるばる仙台からやってきた、お前たちと同じ志を持つ者だ。こちらもお前たちに聞きたいことがある」

「聞きたいこととは……?」

「”あれ”に書かれていることは真実か。”粛軍に関する意見書”の内容は」

 

 磯部と村中は互いに顔を合わせて頷き、村中は真っすぐな目で相沢に話した。

 

「すべて、真実です。例の事件は、皇道派を追放しようとする統制派の陰謀です」

 

 ”それが聞きたかった”とばかりに、相沢は満足そうに頷いた。

 

「そうかそうか。だとしたら、本来元帥たる陛下がお持ちのはずの軍の決定権を侵したということ。これは明確な統帥権違反だ。軍も国も天皇陛下あってのものだ」

 

 相沢は腰に下げた軍刀を握り、抜刀前の姿勢を取りながらドアノブに左手をかけた。

 

「ま、まってください、中佐、何を……!」

「村中と言ったな。お前たちは、もし皇道派の賛同者が集まり、国を変えられるとなったら、最終的にどうしていた?」

 

 慌てて止めようとする村中をぎろりと睨みながら、相沢はそう問いただした。

 

「……直接行動です」

 

 思わず固まる村中に代わり、磯部が前に出て答える。

 

「同志たちとともに武力を持って、諸悪の根源である政治家や軍上層部を速やかに鎮圧、”昭和維新”を達成し、天皇陛下と共にある国を築き上げます!」

「……そうか」

「はい!」

「やめておけ」

「は……え?」

 

  同じ同志であるはずの相沢に自身の計画を自邸された磯部は、鳩が豆鉄砲を食ったように立ちすくんだ。

 

「直接行動はいかんぞ。下手な決起は国軍の崩壊へと繋がるかもしれん」

「しかし、皇道派である我々の本懐は……」

「直接行動で政府の要人らを襲撃したところで何が変わる? 犬養を殺して何か変わったか? 問題は、もっと根本にある。根本から変えなければ、この国の現状はどこまでいっても変わらない」

「では、どうすれば?」

「さあな、とにかく頭を使え」

 

 相沢は目つきをこれでもかと鋭くして真っすぐと立った。

 

「日本を正しい道に導けよ」

 

 相沢は、ドアを勢いよく開けて中に押し入る。

 思わず磯部と村中はドアの横に隠れ、恐る恐る中を覗き込んだ。

 

「永田ぁ!!」

 

 相沢はそう叫んだかと思うと、すぐに軍刀を抜き、ドアの向かいに座っていた男に斬撃を喰らわせた。一閃の刀に目を見開いたのは、間違いなく永田鉄山その人であった。

 

「なっ……!」

 

 自身も永田を暗殺しようとして何度も失敗した磯部であったが、いざ惨殺されている姿を見ると、思わず固まってしまっていた。

 相沢は振り下ろした刀を再び構え、左手で刀身を握りながら思いっきり突き刺した。まるで銃剣つきの小銃を扱うが如く素早い動きに、永田はその場で一言も発することもなく血を吐いて倒れた。

 

「永田に天誅を加えた」

 

 事を済ませて部屋から出てきた相沢は、表情も変えずにそう呟いた。

 

 彼の左手は、軍刀の刀身を握ったために、赤く染まっていた。

 

 

・・・・・・

 

 

「……何だか騒がしいわね」

「陸軍省の方かなあ」

「おい、ほら、 喋っている余裕があるなら周回数増やすぞー!」

「「それは勘弁してぇ!!」」

 

 今日も騒がしい東京の街並みを横に、私とアスコツトは走り続けていた。東京一周。早走り程度だけど、相当きつい。最後のスタミナ仕上げというやつだ。

 トレーナーは、相変わらず無駄に高そうな高級車で並走しながら私たちの走りを見ていた。

 

 東京オリンピックも楽しみだけど、今一番集中しなければいけないのは、来年のベルリンオリンピック。気を抜いている暇は、もうなかった。

 つい数か月か前、騎兵学校のいつもの練習場で、トレーナーはオリンピックに向けた計画を発表していた。

 

『ウラヌスは、ベルリンでももちろん障害飛越だ。ロスの感覚を忘れずに、私と跳べ。やることは変わらない。良いね』

 

 それは私も分かっていることだった。他のバ場術や耐久走もある程度の心得はあるものの、私が一番に力を発揮できるのは障害飛越。これは決まったことだ。

 だけど、アスコツトは違う。レースを引退してこっちに来てから、アスコツトはバ術の基礎から叩き込まれて、日本陸軍では初期から教え込まれるバ馬術から障害飛越まで教えられていた。

 

『アスコツト、君もベルリンは私と走る。アスコツトは……』

『”総合”に出す』

 

 ”総合”……”総合バ術”。トレーナーは意を決したようにもう一度そう言った。

 総合バ術は、動作の一つ一つの美しさを競う”バ場術”、超長距離をいくつかの障害を越えながら走って速さを競う”耐久走”、そして”障害飛越”の全てを3日かけて行い、その全ての評価をもって競う過酷な競技だ。

 美・走・技、その全てが求められる。

 

『アスコツトはレースウマ娘上がりだが、その冷静さも器用さも素晴らしい。どこでもやっていける。だからこそ賭けてみたい』

 

 トレーナーはそう言ってアスコツトの両肩を叩いて激励した。

 

『これで勝てば、日本の……いや、世界のバ術史に名が刻まれるぞ』

 

 アスコツトは、生まれも育ちも日本。しかも、重賞をいくつも買ったレースウマ娘だ。そのような馬が総合で……いや、バ術競技で世界を相手に勝ったことは一度もない。

 その期待は、尾形トレーナーやレースのファンだけではない。トレーナーの眼からもしっかりと感じられていた。

 アスコツトは総合に出ることを伝えられても、ただ……

 

「分かりました。日本とトレーナーのために、精一杯頑張ります」

 

 少しだけ笑いながら、アスコツトは何ともないといった具合で答えた。

 重賞をいくつも走ったアスコツトにとって、このオリンピックをどう思っているのか、いまいちつかめないまま、私は今日もアスコツトの隣を走っている。

 

 実際、アスコツトの走りは安定している。レースウマ娘特有の入れ込みや姿勢の不安定さが全くない。教えられればそのまま吸収する、素直な性格をしている。

 バ術ウマ娘でもここまでのはそうそういない。無理をしていないか少し心配になるくらいだ。

 

「……あ」

「……? どうしたの、アスコツト」

「府中……」

「ああ、レース場ね」

「懐かしいねえ」

 

 私とアスコツトが初めて会った府中レース場の前。あの時はまだロスの前で、レース場が完成すらしていなかったけど、去年の11月に開催してからは賑わいを見せている。

 アスコツトはいつもこの場所を通ると、何かを考え込むようにじっとそちらを見つめる癖のようなものがあった。

 

「……少し休憩にするか」

 

 どこかぼーっとしているアスコツトを見たトレーナーは、車を停めてそう言った。

 

「2人で待っていてくれ。そこで飲み物でも買ってこよう」

 

 私とアスコツトを置いて、トレーナーはレース場の外れに歩いていった。

 

「トレーナー、私も行くわよ」

「いやいい、アスコツトとレースでも見ていると良い」

 

 ……2人で話でもしておけということだろうか。

 アスコツトはこのレース場を訪れるたび、何かを考えている。オリンピックまでに、何か不安があるのなら解消したほうが良いだろう。

 これも、先輩の仕事か。

 

「……それじゃ、見てく?」

「……うん。いいよー」

 

 府中レース場……目黒レース場が廃止になって、今は”東京レース場”か。

 新しくできた目新しく巨大なレース場には、特別競争がないにも関わらず大勢の人々でひしめきあっていた。その目線の先には、5人ほどのウマ娘が、ターフの上で今まさに出走しようとしていた。

 

『さァ始まりました。各古馬優勝戦、注目は、先日の東京優駿大競争で9着となりましたクレオパトラトマス……』

 

 2年ほど前から始まったラジオのための実況が、レース場に響き渡る。

 

「あ、あの子、良い脚しているねえ。力強い脚をしている。あれは重い斤量を背負っても走れる良い脚だよ」

「やっぱり分かるんだ」

「うん、これでも昔走っていたからねえ」

 

 きっとここよりも過酷なレースを何度も走り切っただろう。それはそうか。

 アスコツトは芝の上を全力で走るウマ娘たちを、どこか愛おし気に、そしてどこか羨まし気に眺めていた。

 

「……ねえ、アスコツトはさ」

「うん」

「やっぱりまだ走りたいって思う? レース場で」

「どうしたのー、急に」

「いえ、なんとなくだけど……」

「……そっかあ」

 

 アスコツトはじっとレースを見つめてしばらく黙っていた。

 眼下のターフでは、5人のウマ娘が壮絶な競合いを繰り広げている。芝は2600、良馬場。帝室御賞典という特別競走を勝ったことがあるらしい注目のクレオパトラトマスが、60kgのハンデを背負いながらも爆走している。現役最強ウマ娘の一人に数えられている彼女に追いつきそうなウマ娘は、他にいなかった。

 

「そりゃあボクも思うことはあるよ。またターフを走れたらってさ。それは、レースに出たことがあるウマ娘なら、皆が思うことさ。それに、この府中に来ると、ボクはよりね」

「そういえば初めて会ったときも府中のレース場を眺めていたわよね」

「ボクのトレーナーと……前のね。約束していたんだよ。いつか、府中のレース場で走ろうって。ボクがデビューする前からね」

「ええ、私とアスコツトが会ったのもちょうどその時だったわね。よく覚えている」

「ボクはね、元々体があまり強くなくて、肢も少し悪かったんだあ。身体も小さかったし、誰もボクの担当になろうというトレーナーはいなかった。そんなボクを拾ってくれたのがトレーナーでね、その時言ってくれたの。”お前はこれからできる府中のレース場でも難なく勝って、世界一のウマ娘になれる”って」

「府中を越えていきなり世界って……尾形トレーナーの夢はおっきいわね」

「ふふ、そうだねえ。でも、トレーナーは新しくできる府中レース場で新しく開かれるレースが、日本一のレースになるってずっと言っていてねえ。そこで勝てば日本一。でも、トレーナーはそこを越えて”世界一”を目指すんだって。ボクならいつか、海外にだって行けるって。だからボクは頑張ったんだあ。坂路を何度も登って、長距離を何度も往復して、そして特別競走にも沢山勝った」

 

 ”世界一のウマ娘”……その夢を語るウマ娘は大勢いる。

 この東洋の島国である日本で、世界を相手に戦えるウマ娘は多くはない。そのための実力を、技能を手にすることも困難だろう。バ術が発展し世界をリードしつつあったイタリアでくすぶっていた私でさえ、どれだけ努力しても一人では至らず……そして一度栄冠を手にしてもなお今も目指し続けているものだ。

 

「まあでも結局、ボクは府中で走ることはなかったんだよねえ。引退があと1年でも遅かったら、もしかしたら違ったかもしれないけど……」

「だから、まだ走りたい?」

「うーん、でも、きっとボクのことを気遣ってくれたんだろうし、それでもまだこうしてバ術の世界で走らせてくれている。それに、ボクにはまた、この府中で走るチャンスがあるはずだから。しかも、それこそ世界を狙えるチャンスが、ね」

「……もしかして、それって」

「うん。やるんだよね、1940年。オリンピック」

 

 1940年に予定されている東京オリンピック。

 オリンピックでバ術競技が行われる場所はまだ決まっていないけど、開場したばかりで大きな府中レース場はほぼ間違いなくオリンピックの競技場として使われるだろう。正に、世界一を決める場所になるはずだ。

 

「ボクは府中でまた走りたいけど……でも、だから今はまだいい。ボクはベルリンオリンピックで良い成績を残して、そして必ずこの府中レース場で勝つ。そう決めてる。ボクはレースからバ術に身を置かせてもらっている身。ベルリンで結果を残さないと……」

 

 アスコツトは”さあ”と、ターフで行われているレースに背を向けて、練習に戻ろうとしていた。

 

「ボクは、”日本の総大将”だ」

 

 小さく、自分に言い聞かせるように、呟きながら。

 

 尾形トレーナーも、そしてトレーナーも言っていた。

 アスコツトは、”日本生まれのウマ娘として世界一になれる”と。それは、フランス生まれの私への挑戦状とも言えるチャレンジだった。

 

 私達は仲間でありライバル。いつも穏やかに見えるアスコツトも、今日は獲物を追い続ける野生動物のような眼をしているように思えた。

 

「世界一……か」

 

 芝2600mの大レースは既に終わっていた。優勝したのは、やはり注目のクレオパトラトマス。素人目でもものすごい走りを見せていた。それこそ、世界を狙えそうなほどに。

 

 レースウマ娘の選手寿命は短い。その分、短期間で入れ替わり入れ替わり沢山のウマ娘が勝負の世界に入ってくる。その全員が、日本一、世界一のウマ娘を目指して。

 バ術ももちろん過酷だ。長い期間の中で耐え抜かなければいけないことも多い。しかし、レースはそれとはまた違う、血生臭いと言って良いほどに熾烈な競争社会だ。そんな中で生き残り、結果を残してきたアスコツト。

 

「これは強敵だな……」

 

 私はベルリンに向けて、背筋を伸ばして再び走り始めた。

 

 

・・・・・・

 

 

東京某所

 

「……なあ村中、直接行動しかないだろう。次の道は」

 

 東京のとある一室で、皇道派将校である磯部は神妙な面持ちで小さくつぶやいた。

 

「……磯部、安藤や相沢中佐の言葉を忘れたのか。直接行動はいかんと」

「それならどうする? その相沢中佐のも、結局は無駄に終わったじゃないか」

「まだ無駄に終わったと決まったわけでは……」

 

 皇道派と対立する、統制派の棟梁とも言える永田鉄山が襲われた相沢事件は、陸軍内だけでなく日本中で議論を巻き起こした。相沢三郎中佐の行動は、「軍臣、財閥、正当の手先となり皇軍を私兵化している統制派への懲罰」として皇道派の軍人や一部マスコミによって大々的に宣伝された。世論は相沢中佐や皇道派将校の思惑通りに進んだと思われた。

 しかし、この”相沢事件”の公判での法廷闘争で皇道派が息詰まると、徐々に陸軍内での皇道派将校の”整理”が行われるようになった。彼らが主張する”昭和維新”への勢いは徐々に弱まり始め、2月に入ると、ついには皇道派の青年将校が多く所属する陸軍第1師団が満州へ送られることが決まった。

 

「俺たちは今まで”直接行動”という選択はしてこなかった! しかしそれは、いざというときの切り札として”直接行動”という切り札を持っていたからだ。しかしそれに欠かせない第1師団という手札がなくなれば、俺たちの昭和維新はここで終わりだ。統制派の奴らが俺たちを抑え込めば、庭の隅で囀る虫のように弱弱しく消えていくことしかできないではないか!」

 

 3月には陸軍第1師団は満州へと送られる……それは、皇道派の重要なカードである武力を失うという事であり、それは即ち皇道派そのものの没落を意味することになる。

 

「しかし磯部、相沢中佐の言葉もあるし、肝心の歩三の安藤は……」

「ああ。安藤め、まさか蹶起に弱腰なうえに満州行きを受け入れるとは……」

 

 大尉に昇進し、第1師団歩兵第3連隊長となった安藤は、第1師団の満州行きについては、抗議することなく「北満の地で奉公できることを楽しみにしていた」と言い快諾すらしていた。皇道派であるが穏健派として知られる安藤は、村中と磯部からの蹶起の誘いも断っており、武力行使には積極的ではなかった。

 

「しかし大丈夫だろう。安藤は真面目な男だ。事が起これば必ず使命を果たすはずだ。それに、同志の野中が説得に行っている。蹶起は第1師団の満州行きの前までだな」

「なあ磯部、以前言っていたが、本当に陸軍上層部と……陛下の同意は得られるんだろうな」

「ああ、川島陸軍大臣も直接は言わんが好意的な反応を頂けたよ。真崎大将も資金援助を約束してくれた。陛下におかれても……今の日本の惨状を痛ましく思っておられるに違いない。我々が起てば、必ずやご理解くださるだろう」

 

 磯部は、1935年中旬から陸軍の重要人物に繰り返し接触していた。川島陸軍大臣や、皇道派で陸軍大臣を罷免されたばかりの真崎大将にも蹶起に関する相談を行い、いずれもそれを否定されることはなかった。水面下で蹶起の準備は着々と進んでいたのだ。

 

「うむ……やるとしたら、攻撃目標は」

「総理官邸、農村の不況を見過ごしてきた大蔵大臣の私邸を含む政治中枢、侍従長官邸が主だ。あとは蹶起にあたり新聞や通信、警察の制圧だな」

「分かった。やると決めたら、俺もとことんやろう。こちらで計画を整理してみる」

「それでは、俺も改めて上と打ち合わせをしてくる。村中も、頼んだ」

「ああ……そうだ、磯部」

 

 村中は部屋の扉の前で振り返った。

 

「合言葉は」

「決まっているだろう」

 

 磯部は立ち上がり、小さく笑った。

 

「”尊皇斬奸”」

 

「ああ、”尊皇斬奸”……して、蹶起日は具体的にいつにする」

「そうだな、各所への説得や部隊の動員、武器の調達を含めて考えると……」

「うむ」

 

「……2月26日だ」

 

「……雪になりそうだな」

 

 皇道派による蹶起が、東京で始まろうとしている。

 




半年ぶりの投稿になってしまいましたが、今後もゆっくりと更新を続けて行こうと思います。


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