私たちの話 (Гарри)
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01「長い前書き:私」

 長門、那智、グラーフ・ツェッペリン、響、時雨、古鷹、瑞鶴、香取、天龍、明石、夕張、日向、伊勢、吹雪秘書艦、妙高、足柄、羽黒、川内、伊五八、伊八、不知火、隼鷹、北上、利根、摩耶、鈴谷、名取、そしてそれ以外の私が出会った全ての艦娘に。


 まずは、この本で取り上げる全ての人々に感謝を捧げたい。特に、長門、古鷹、響、グラーフ・ツェッペリン、那智、時雨に。この本が世に出たのは、実にあなたたちのお陰である。つまり印税についても大半はあなたたちのものであり、私の取り分は本来七分の一ほどしかないところを、致し方ない事情あるいは純粋な好意によって全額受け取ることができ、それによって私は自分の子供を私立の学校に通わせてやることができている。全く感謝の念に堪えない。

 

 それから、特にというほどではないが、かつて肩を並べて戦ったある一人の艦娘と、かつて私のいた海でこれから生きていく一人の艦娘にも感謝しておく。前者の艦娘については、今何処で何をしているのか知らないし、別段知りたいとも感じないが、きっと健康で過ごしていることと思う。結構なことである。後者については私はよくよく知っているので、ここでは深く触れないことにするが、彼女は気にするまい。

 

 さて、一通りの感謝が終わったところで、前書きらしいことを書くことにしよう。まずは私の話や、この本についての話から始めるのが、礼儀にも道理にも(かな)うのではないかと思うので、そうする。

 

 試しに軍歴などから述べてみよう。私はおおよそ十年ばかり、艦娘「加賀」として戦った。退役したのは暫定的終戦宣言が行われた年だから、もう二十年ほども前(やれやれ!)のことである。加賀という艦娘がどんな役割を負っていたか知らない人の為にここで述べておくと、私こと加賀は正規空母という区分に入れられる艦娘であり、主な役割は妖精が搭乗する小型の航空機によって、「制空権を確保する」か、「敵である深海棲艦を爆撃・雷撃する」ことであった。「加賀」の艤装は他の正規空母艦娘と比べても多数の航空機を運用できる為、戦争中は攻めと守り、両方の要として重用された。

 

 戦争中に軍にいたほとんどの艦娘たちがそうであったように、私は十五歳で国によって義務付けられた検査を受け、加賀としての艦娘適性があることが確認され、当時よくされていた表現をそのまま使えば、「義務の呼び声に従って」志願した。戦後に生まれた人には分からないかもしれないが、適性があると分かった時の私は本当に心の底からほっとした。覚えている限り、私の近所で起こった二件の自殺は、年若い少女たちによる、適性がなく艦娘になれないことを苦にしてのものだった。今の常識で彼女たちの絶望を理解しようとするのは無理だろうから、そういう時代だったのだと思ってくれればそれでいい。何故なら、こういう悲劇は、私の住んでいた辺りだけでなく、日本国内の何処ででも起こっていたことだったからである。

 

 周囲の期待通り軍に志願した私は、訓練所に送られた。私が十五歳の頃、日本国内には訓練所が全国に七ヶ所あって、私の送られた訓練所は出身である中国地方、呉鎮守府近くに位置していた。駆逐艦娘時雨と初めて会ったのはこの訓練所でのことである。運命的な出会いとは言えなかったし、決して初回から意気投合した訳でもなかったが、私たちは結局、互いに一番長い付き合いになった。

 

 訓練所で私がどんなことをしたか、そして軍によって何をされたか、必要以上に詳しく書くつもりはない。そういうことを知りたければ、私の本以外にも沢山の本が出ているし、その内の何冊かは非常に正確で、戦争当時を知る私としてはよくもまあ出版できたものだと感心するほどである。だから、注意深く書評を探ってそれを見つけ出し、読んだらいい。ただ言っておくと、私の人格形成において最も重要なタイミングだったのだろう十五歳という時期に、あの場所にいたという事実は、私の人生に対して大きな影響を与えたに違いないと確信している。

 

 長いとも短いとも言えない訓練期間が終わった後、私と時雨は同じパラオ泊地に配属された。教官から宣言を受けた時、強い失望を感じたことをはっきりと覚えている。大多数の艦娘たち同様に私も国内勤務希望で、じめじめして蒸し暑そうな東南アジアのひなびた小島になど、好き好んで行きたいとは思っていなかったからだ。とはいえ下った配属命令には逆らえず、その後十八歳になるまでそこで過ごした。古鷹、那智、長門、グラーフ、響と会ったのはこの間になる。

 

 古鷹が深い海の底へと去り、グラーフが日本を後にして、時雨が重い懲役刑を食らい込んだ後、私と長門、それから那智は、とある理由から国内に引き抜かれることとなった。しかしもちろん私たちは、よき友人であり、仲間を失った悲しみを共に分かちあった響を、一人僻地に残していくことに耐えられるほど人間味を失っていなかった。幸いにも成人一人とティーンエイジャー二人による本気の駄々によってこの小さな戦友も一緒に本土へ帰れる運びとなったが、お陰で響はその後何年も何年もその際のことで「あの時、君たちは……」と彼女の戦友をからかったものである。実のところ、時々今でも言われる。

 

 異動先の基地では、艦娘という最も新しい兵器の、または歩兵の形態を可能な限り活かす為の戦術研究に従事した。このことの多くについては軍機である為、ここには書けない。また、機密指定が解除される頃には私は墓の下だろう。控えめに言って死ぬほど(・・・・)エキサイティングな日々だったので、そのことについて語る機会が存在しないのは非常に残念だ。

 

 本土の基地に異動した私たちの話に戻ろう。どういう訳か、響は栄えある第一艦隊に配属され、私と長門、那智は第二艦隊に組み込まれた。もしかしたら、十八歳にもなって駄々をこねる正規空母やその仲間たちを第一艦隊に入れるのは嫌だと提督は思ったのかもしれない。このことで私と響の友情が揺らぐことはなかった──と言いたいが、嘘を言っても彼女にはお見通しだから、正直になることにしよう。私と響は、それから暫くの間、今まで通りには行かなかった。

 

 でも私はあの頃十八歳で、人生で最もうぬぼれやすい時期だったのだ、という言い訳をするぐらいは彼女だって許してくれるだろう。私よりほんのちょっと年上である以上、それぐらいの寛容さを見せてくれたっていい筈だ。ダメなら話をちゃんと付けましょう。電話でも手紙でもメールでもしてちょうだい。

 

 個人的には、最悪の時期はこの頃だと考えている。響との間にわだかまりができ、第二艦隊に入れられ、しかも運悪く何回目かの戦闘で先任の艦娘二人が轟沈したのだ。補充として訓練所を出たばかりの川内と同期の妙高が入ってくれてからは少しよくなったかと思いきや、翌年には長門と那智が二人とも轟沈寸前の負傷をし、右腕を失った那智は隊を去った(嬉しいことに彼女はその数年後に戻ってきた)。挙句の果てに、その直後に行われた大規模作戦で第二艦隊の旗艦さえもが轟沈したのだ。

 

 そして言うまでもなく、被害を受けたのは第二艦隊だけではなく、第一艦隊にも一人の轟沈が出た。つまり三人の欠員が出た訳である。これを満たす為の補充員は、しかし足柄と羽黒の二人しか送られて来なかった。結果として、重巡であり経験豊富、冷静にして有能な妙高が第一艦隊と第二艦隊を必要に応じて掛け持ちすることになり、彼女にのしかかる重責と労苦は二年後、私が二十一歳の時、第一艦隊にいた空母艦娘が退役するに当たって補充されたとある重巡と、軽空母隼鷹が配属されるまで続いたのだが、ここから終戦までのことは私が軍からの依頼を受けて書いた唯一の作品である、『船乗りは帰ってきた』で詳しく書いているので省く。ぜひ買って読んで欲しい。

 

*   *   *

 

 退役して自分にとっての戦争が終わった後、私にはまだ元気な親もいたし、数年に渡ってこつこつと積み上げてきた貯蓄というものもあって、急いで新しい職や人生を探す必要がなかった。そのお陰で、思うがままにゆっくりできた。それは艦娘にとって、想像の中でのみ叶えることのできる真の贅沢だった。問題は、その時の私はもう艦娘ではなかったということだ。十年ぶりの故郷では海上哨戒もなく、索敵殲滅任務もなく、夜間当直も存在しなかった。私は段々と平和に飽き始めた。明日の夜もまたベッドに戻れるか、と夜ごと夜ごとに不安に思う日々を恋しくなど感じはしなかったが、それはそれとして、平和というのはどうも私にとって大変なものだぞ、と考えるようになったのである。

 

 この本で取り上げた人々以外にも、私の知り合いには大勢の艦娘がいる。その中の幾らかは幸せになり、また幾らかは私のようにほどほどの生活を送っているが、ある僅かな人々は戦時よりも不幸な日々を送っている。私は、終戦時の私にとって人生の全ての期間において続いていた戦争が終わったことを、緩やかながらに受け入れていくことができたが、彼女たちにはそれができなかったのだ。残念ながら自分のことを精神的に強靭であると信じられるほど厚顔ではないので、私ができたことを彼女たちができなかった理由は、何か別のところにあるのだろうと思う。

 

 そして、私が苦労しながらでも戦争の終わりを消化していくことができたのは、自分に文章を書くという趣味があったからだと私は信じている。私の生活を支えてくれている熱心な読者の方々ならお分かりだとは思うが、私の作品(『船乗りは帰ってきた』『一年間の休暇』『ドーン! お前は沈んだ!』など)は全て戦争について書いた、あるいは戦争期を描いたものだ。覚えている限り、世に出た作品以外も大半がそうだと思う。恐らく私は、文章に自分の体験を、記憶を、あるいは感情を投影することによって客観視し、受け入れていったのだ。

 

 そういう意味では、私が書いた、描いた戦争は極めてリアルなものになっている筈である。ただそう思わない人も大勢いるというのは確かなことらしく、私が戦争について書くと、大抵その後で何人かの読者から「あなたの書く戦争は明るすぎる」と言われる。「戦争はこんなものじゃなかった筈だ」と。批判を恐れずに事実を述べれば、そう言ってくるのは決まって男だ。そしてこれは私の推測でしかないが、彼らはまた、戦後間もなく発生した過激派組織の攻撃に際して、口々に「これは戦争だ」「戦闘地帯のようだ」と言い立てた連中でもあるだろう。口やかましく、同じ嘘を何度も何度も、騒ぎ立てた奴らだ。彼らに対して今以上に感情的になって「あなた方に戦争に関してどうこう言う資格はない」と答えることもできるが、普段の生活で十分に感情的に振舞っている分、せめてここでぐらいは大人らしく振舞ってみよう。

 

 という訳で、私はここできっぱりと言っておく。まず先に述べた、戦後最大の事件についてのことから話を始めよう。あれは戦争状態(・・・・・・・)などではなかった(・・・・・・・・)。戦争とは死の恐怖を抱いて毎晩眠ることだ。漠然とした恐怖と危険を前に、戦うにしろ従容として受け入れるにしろ、何らかの反応を余儀なくされることだ。そこから逃げられないということだ。誰かに送った手紙がある日を境に受け取り先不在で戻ってくるようになるのを、不思議に思わない日々を送ることだ。友達のアクセサリーや一房の髪の毛を空っぽの棺に入れて焼くことだ。毎秒毎秒、これが私の最後に見るものかもしれない、と考え続けるようになることだ。戦争とは、いつ終わるか知れず、永遠に続くとも思われるような理不尽な狂気と暴力の嵐の中に囚われることだ。

 

 その渦中であなたが頼りにできるのは、隣にいる友人たちと自分自身だけであり、休めるのは生死を共にしたその戦友たちといる時だけだ。警察も、消防も、病院も役には立たない。翻って、十六年前の事件ではどうだったか? 事件の発生直後から警察は精力的に活動し、消防士たちは果敢に鎮火を試み、医師や看護師たちは傷ついた人々の治療に当たった。そして事件当日からたったの一週間もしない内に、街は普段の姿を取り戻したのだ。当日でさえ、現場から離れた場所では悲劇と無関係に平和な日常が営まれていた。だから、あれはただの事件だったのだとする他にない。

 

 とは言ったものの、戦争の全てが悲惨な記憶でしかないのかと言われれば、それもやや真実とは異なる。私は多くのことを知り、多くのことを聞き、そして目にして今日まで生きてきた。その中にはどうしてもまぶたの裏から離れないものもある。ふと鼻の奥によみがえるにおい(・・・)の思い出が、遠くから聞こえてくる音の記憶が、私の中に確かにある。だが、私が私の人生の一番大切な日々を捧げたあの戦争のことを思う時、いつも最初に胸の中によみがえるのは、不思議と楽しかったことや、心安らぐものばかりなのだ。

 

 古鷹に執筆の手ほどきを受けた時に彼女が見せた優しい眼差し、そうやって見て貰いながら書いた小説が小さな賞を取った時の彼女の瞳のきらめき、私が那智の悪ふざけに怒って基地中を追いかけ回した時のあの疲労感、長門と二人でドライブに出掛けたある暑い日の太陽、生真面目で信じやすいところのあるグラーフにどれだけとんでもない嘘を信じさせられるかみんなで競ったこと、初めて酔っ払った響があんまりおかしな姿を見せたせいで、時雨がひっくり返ってのたうち回るほど笑う姿……。

 

 戦争の全てが、海の上にあった訳ではないのだ。戦いであった訳ではないのだ。あの時、あの時代、私と私の友人たちが交わし合った冗談や、まるっきり子供じみた遊びや、悪戯や、愚かな行いもまた、戦争の一部だった。私たちはその中に生きていた。私たちのやることは何もかも、その一部だったのだ。

 

 だからやはり、先ほど話題にした「事件」は事件だし、私の描く戦争はしばしば憂鬱さや死の恐怖、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とは無縁のものになるし──私はそのことで戦争というものを都合よく捻じ曲げたつもりにもならない。

 

 前書き程度に留めるつもりが、年寄りじみた言い訳で長くなってしまった。最後に一つだけ述べて、締めくくることにしよう。この本は、もちろん戦争についての話であると同時に、私たちの個人的な話でもある。あの戦争を戦い、生きて、死んだ、まだ元気で若く、年相応に愚かだった、少女たちの……あの頃艦娘だった、私たちの話だ。



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02「長門型戦艦:長門」

 長門は私が十六歳の時にパラオにやってきた。私より一つ若く、それにしては奇妙なほどの明るさで元気一杯の……まあ、言葉を取り繕わずに言えば子供だった。彼女はみんなとすぐに仲良くなった。そういう才能があったのだろう。しかし私だけは孤高の砦を高く築いて遠ざけた、と言うと嘘になる。ああ、だから、つまり、認めよう。私も彼女のことが気に入っていた。この長門はそういう人間性というものを、確かに持っていたに違いないのだ。

 

 私にとって初めての旗艦であり、誰からも慕われるタイプだった重巡古鷹とは異なり、長門は誰とでも対等かつ気安い付き合いのできる艦娘だった。男には子供らしい悪戯っぽさが受け、女には凛々しさが受けたのではないだろうか。ただ、悪戯で済まされないようなこともやったというのも否定できないのだが。控えめに言っても、彼女は頭の大事なネジを何本か母親の腹の中に置き忘れて生まれてきたとしか考えられなかった。仲間内では、「愉快なやつ」というのが彼女に対する総評だった。

 

 ある十一月のことだ。次の日にでも私と長門とで出かけようという話になった。ところがパラオの十一月というのは、東京の十一月とは全く違う。乾季の始まりに当たり、日本の夏のように気温が高いのだ。そんな中を歩いて出かけるのはお断りしたかったし、かといってタクシーを呼べばそれだけ無駄な出費になる。当時の艦娘の給料は、そのリスクの割に高いとは言えないものだったから、これは大問題だった。すると長門が、自分がどうにかすると言い出した。「足のことは任せておけ」と彼女は自分の胸をどんと叩いて言った。「計画があるんだ。私が考えておいた」

 

 翌日、基地を出て指示された通りの合流地点で待っていると、遠くからエンジン音が聞こえてきた。それが近づくにつれて、私は心の中に長門の顔をはっきりと思い浮かべ始めた。果たしてそれは彼女だった。青い車体のポルシェに乗って、サングラスを掛け、呆然としている私の前に車を止めると窓を開けて言った。

 

「どうだ、胸が熱くなるだろう?」

 

 私は彼女の手際のよさに、すっかり感心した。もし別の鎮守府か何処かに転属することになったら、こういう旗艦の下で戦いたいと思った(ちなみにこれは実現した)。助手席に滑り込んでシートベルトを締めると、長門は滑らかに車を発進させた。当初の予定では買い物に行く筈だったが、十キロも走ると、別段欲しいものがある訳でもないのにショッピングをするより、このまま車を走らせ続ける方が楽しいんじゃないか、ということになった。それに屋根は太陽からの熱を遮り、車内はクーラーで涼しいばかり、そんな天国から外に出るなんて考えられなかったのだ。

 

 長門は生き生きとして車を走らせ続けた。山道を行き、海の見える崖路を走った。私たちはクーラーを止めて窓を開け、カーステレオで音楽を流し、二人でその歌に合わせて歌った。間奏からのAメロ出だしのタイミングを間違った長門が、はにかみの笑い声を上げた。私も少し笑った。太陽の光が開け放たれた窓から差し込んでいた。嗅ぎ慣れた潮の香りを感じながら、まるで戦争なんかとは一切無関係の、民間人であるかのように無邪気な気持ちのままでいた。

 

 二十年経ってから思い出してみると、いかにも青春映画のワンシーンのようだ。そうは思わないだろうか? 車、音楽、若者たち、笑い声、太陽、海、潮の香り……しかし、現実と映画は違う。私たちは運悪くバイクに乗った現地の警察官に見つかってしまったのだ。車を止めるように命じられ、長門が路肩に寄せて停車すると、バイクから下りてきた警察官が開きっぱなしだった運転席側の窓を覗き込んできた。その警察官というのがまあ、私たちより一つか二つ、多くとも三つしか変わらないだろう青年だった。彼は言った。

 

「免許証を」

 

 長門はそれを渡した。若き警察官はそれをじっと見つめてから彼女に返し、「話がある。一旦、車から降りなさい」と命じた。長門は信じられないものを見る目で彼を見つめ返すと、とんでもない返事をした。「この暑い日に『話があるから車から降りろ』だって? 冗談じゃない、お前が車に乗ったらどうだ!」そして長門の返事の突拍子のなさから、その意味を理解できないでいる哀れな若き警察官の胸元を掴み、後部座席に引きずり込むと、ドライブを再開した。

 

 当然ながら警察官はこの不法行為に対して警告したし、無視されると腰の拳銃を抜きもした。大戦艦は気にしなかった。その頃はまだ、深海棲艦や艦娘に対して十分に有効な通常兵器や小火器というものが存在しなかったからだ。私たちはドアを固くロックし、警察官を後ろに乗せたまま、ドライブの続きに取り掛かった。

 

 もちろん、すごい大騒ぎになった。いざ基地に戻ろうという段になって私が「このまま帰るのって、マズいんじゃないかしら?」と言ったせいで、長門が警官を道路に追い出してしまったのも悪く作用した。警官は私たちが何をするか分からずに腰の無線を使えないでいたのだが、置き去りにされて頭のおかしい艦娘二人の目を気にしないでよくなると、即座に警察本部に連絡したのである。とはいえ、その時点で彼を懐柔する方法は間違いなく存在しなかったので、何をしたって物事は悪い方にしか転がらなかったと思う。警察本部は前代未聞のこの珍事に呆れるやら途方に暮れるやら、何はともあれ形だけでも抗議しておけということになり、そのまま当然の流れで基地にも伝わった。

 

 運がよかったのは、日本でもパラオでもお役人というのは仕事が遅かったという点である。お陰で私たちが提督に呼び出されたのは、長門に基地の近くで車から降ろされ、ばらばらに帰ってから何時間か後のことだった。頭の上で白と黒が一進一退の領地争いを繰り広げている年頃の提督は、私たちを呼びつけると、男らしい威厳を持った声で開口一番に言った。「二人とも今日は外出許可を取っていたな?」「はい、提督」年長者ということで、私が代表して答えた。提督は鋭い視線を長門に送りながら、言葉を続けた。

 

「警察から連絡があった。艦娘二人に若い警察官が車で拉致されたそうだ。何でも一人は頭の横で髪を結んでいて……もう一人は詳細な長さこそ分からんが、ロングヘアーらしい」

「了解しました。ただちに瑞鶴と翔鶴を呼んで来ます。長門、手伝いをお願いできる?」

 

 私の冗談で場が和むということこそ起こらなかったが、警察が、ひいては海軍が掴んでいる情報は余りにも少なすぎた。第一、私と長門は別々に基地を出て、別々に戻って来ていたのだ。私たちがやった全てのことについての証拠は、あくまであの若い警察官の言葉しか存在しなかった。市街地を走らなかったので監視カメラに捉えられるということもなかったし、自動速度違反取締装置、いわゆるオービスはそもそも設置されていなかった。という訳で、私たちは徹底的に白を切り通し、疑わしきは罰せずの原則に従って無罪を勝ち取ったのである。何日かして、提督から「この疑惑については不問に処す」と告げられた夜、私と長門は法に対する小さくて無意味な反逆の成功に祝杯を挙げた。

 

 そしてその次の日、長門は無許可外出の上に車で警察署前に乗り付けると、クラクションで煽りに煽った挙句にパトカーに突っ込まれて捕まった。私は提督の指示で彼女を迎えに留置場に行き、少しだけ語気を強くして尋ねた。「何でまた、あんなことをしたのよ?」すると彼女は、明らかに警棒で何発か殴られた傷の残る顔で、にやっと笑って答えたのだ。

 

「面白そうだったからかな。まあ、そう怒らないでくれ」

 

 この件についてのコメントは差し控えておこう。でも一つ付け加えておくと、長門が何かとんでもないことをやってしまうのは、常に娯楽の為という訳ではなかった。時には義憤に駆られて、という事件もあったのである。それは大体、こういう筋だった。まず、パラオ泊地の総司令官が日夜文字通りに身を削って戦う艦娘たちにボーナス休暇を与えようと決めた。

 

 けれど、皆に与えることは現実的ではない。そこで彼は泊地に所属する提督一人につき艦娘二人まで、当時のパラオで一番上等なホテルでの三日間の完全休暇をプレゼントすることにした。方法は公正を期する為にくじ引きで行われ、私たちの間では長門と彼女の親友である那智が当たりを引いた。二人は朝から大喜びで出かけて行き──その日の夕方には帰ってきた。提督は渋い顔をした。総司令の顔を潰すことになりかねないからだ。しかしもしかしたら、と提督は一縷(いちる)の希望に縋った。何か、思いもよらなかったような理由(・・・・・・・・・・・・・・)があって、渋々戻ってきたのかもしれない。

 

 そこで私が二人の事情聴取を行うことになった。長門の部屋に那智を呼び、三人で軽い雑談をしてリラックスすると、私が呼び水を与えるまでもなく彼女たちは話し始めた。「全く、あのホテルの連中は人を馬鹿にしているとしか思えんな」と那智が真面目くさったしかめっ面で言うと、長門は「今回のことはいい経験になっただろうよ、ビッグセブンを侮るとこういう結果になる、というな」と笑った。それから詳しく何をしたのか教えてくれた。

 

 夕方前までは楽しかったらしい。着替えなどの荷物を部屋に置いてからは、同じ基地の艦娘たちとも合流して、ホテルのプールで泳いだり、カフェで甘味に舌鼓を打ったり、レストランで食事したり、バーで散々飲んだりしたそうだ。さしずめ海軍の貸切状態になっていたことだろう。問題は二人が遊び疲れて部屋に帰って来た後、ニュースでも見ようと部屋に備え付けのテレビに注目した時に起こった。テレビ台とテレビとが、金具で固定してあったのだ。那智がそれを指摘すると、たちまち長門は憤った。彼女は酔いもあって、声を荒げて言った。

 

「私たちがテレビを盗むとでも思っていたのか?」

 

 それにすかさず彼女の親友がこう被せた。

 

「そしてそれを、ちんけな金具で防げるとでも思っていたというのか!」

 

 こうして二人は持てる感性と艦娘としての経験を総動員して、気づかれることなく部屋からテレビ台ごとテレビを運び出し、ホテルの駐車場に投げ捨てると、思い上がった経営者たちに貴重な教訓を与えてやったことに満足して、古巣に帰って来たのだった。つまり提督の微かな希望は、望まぬ形で叶えられたのである。それは私が戦争中に見た中でもトップレベルの平和なアイロニーだった。これ以上のものはなかったか、あったとしてもこんなに平和なものではなかった。私たちは長い間笑った……。

 

 このような幸福な笑いもあれば、不幸な笑いもあった。本土に転属してからのこと、長門と那智が連れ立って護衛任務に駆り出された後だ。二人が島嶼(とうしょ)部で護衛対象諸共(もろとも)に消息を絶ち、死んだのかもしれないと仲間内で話し始めていた頃、ぼろぼろの長門が一人っきりで帰ってきた。顔は泥やよく分からないもので汚れ、服は血染め、丁寧に揃えられて艶やかだった髪は乱れ、敵の砲弾がつむじ(・・・)をかすったのだろうが、そのせいでまるで落ち武者のような姿になっていた。

 

 彼女は護衛対象が全滅した後、那智と二人で島に逃げ込むことで深海棲艦との交戦を生き延びたが、捜索隊が遅いので助けを呼ぶ為に重傷の親友を残して単独で脱出してきたのだった。今となっては折悪くと言うべきなのだろうが、長門が出撃用の水路を逆走して工廠に現れた時、丁度その場には吹雪秘書艦以外の第一艦隊から第四艦隊まで、ほとんど全艦娘が集合していた。もちろん、二人の戦友を探す為だ。そこに長門が現れた。上述の姿で。工廠中がしんと静まった。そして長門は彼女が体験したあらゆる悲痛を感じさせる、かすれた叫び声を上げた。

 

「助けてくれ」

 

 その瞬間──ここからのことを書くのには、本当に勇気がいる──私は、私たちは、笑ったのだ。文字通りの、正確な定義に沿った上での、爆笑だった。私たちは笑った。笑い転げた。呆然とした長門の顔を見て笑い、彼女の髪を見て笑い、足にへばりついた海草類を見て笑った。あの場にいた全員がだ。私も、明石も、工廠の整備員たちも。川内はひっくり返ってじたばたと転げ回り、妙高は私の肩を掴んで倒れないようにしつつも、くの字にした体を大きく震わせていた。誰もが笑っていた。ただ一人、長門だけが例外だった。

 

 あの時、何がおかしかったのか? 私はこれまでに何度も、自分にそう問うてきた。親友を救う為に、命がけで敵中を単身突破してきた英雄の、笑われるべき箇所とは何だったのかと。時間を掛けて、私は答えにたどり着いたように思う。それもまた、アイロニーだったのだ。長門の姿、やったこと、やってきたこと、声の響き、何もかもが──長門は笑い続けている私たちの中を通り抜け、執務室へと走り出した。工廠にはそのまま、狂ったように笑う彼女の同僚たちが残された。

 

 那智が助け出された後、彼女以外では最も長門と付き合いのあった私が代表になって、謝りに行った。その時には既に長門も体の修復を済ませており、髪も傷も元の通りに治っていた。彼女は謝罪を拒むことなく、私たちは許された。「気にするな」と彼女は言った。「面白かったんだろう?」と。あなたならそんな時どうする? そう、つまり読者のあなたなら、だ。言い訳をするのだろうか? 何か自分よりも大きな力に動かされたのだ、などと。それとも私がやったように、単に口を引き結び、押し黙って、その場を去るか? 何が正解だったのか知りたいのは私もだ。けれど、経験から述べておく。

 

 黙ってその場を辞するのは、正解ではなかった。負傷からの完全な回復ができずに那智が去ってしまった後、長門はもう「愉快なやつ」ではなかった。私たちがそうしたのだ……。



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03「戦争の後で」

 人類に対して融和的な深海棲艦たちとの講和が成立し、暫定的終戦宣言が発せられてからかなり後のことだが、私はふと思い立って電車に乗り、長門を訪ねて行ったことがある。もう少し正確に時期を特定するなら、何本かの短編が雑誌に載った後、『船乗りは帰ってきた』を執筆し始める少し前のことだ。ただしその執筆自体はもう決定事項であり、海軍と融和派深海棲艦(正確にはそのスポークスパーソン)の双方から依頼を受け、あの戦争が終わるに至った経緯を、その大きな流れの渦中で散々翻弄された、ある哀れな一人の艦娘に主な焦点を当てて描くことに決めていた。

 

 しかしそれをすると、どうしても長門の個人的な部分について踏み込まなければならなくなるのが難点だった。というのも、その艦娘は私と同じ基地に所属していただけでなく、長門とも少なくない因縁があったからだ。二人はかつて長門と那智に起こった悲劇を大筋ではそのままなぞりつつも、結局どちらも欠けることなく帰ってきていたのである。作家としての都合、そしてクライアントの方針もあって、その時の話を省くことはできなかった。

 

 そこで、長門に会って話をしようと決めた。終わってから考えてみると、手紙でもよかっただろう。長門は彼女なりに折り合いをつけた後だったし、そこまで注文を多数つけられたとは思わない。でも、彼女を「愉快なやつ」でなくしてしまった罪というのがもし存在するなら、私はそれを背負わなければならない立場だった。顔を見もせず、手紙で彼女の古傷を抉る許可を取ろうとする、などということは、とてもできなかったのである。それに長門がどう思っていようと、彼女は私にとって戦友であり、友達だった。色々と理屈をこねたが、結局、私は彼女に会いたかったのだ。

 

 そういう具合で、私は彼女に会った。場所は彼女の自宅だ。突然の来訪にも関わらず、長門は私の為に二日ほど休みを取って迎えてくれた。

 

 戦争が終わった後、艦娘たちには三つの道があった。一つは退役して、民間人に戻る道。その後就職するか、退役艦娘向けの特設学校に通うかは個々人の選択だった。もう一つは新規に創設された軍警察に転職する道。これは艦娘や深海棲艦の関わる犯罪・事件専門の法執行機関であり、終戦後間もなく多発した過激グループによる事件や武装蜂起の鎮圧に大きく貢献した。戦後、世論において勢力を獲得しつつあった艦娘不要論の勢いが止まったのは、この組織の活躍によるところが大きい。そして最後の一つにして長門が選んだのが、軍に残る道だった。

 

 けれども長門は長門型戦艦の一番艦で、戦後に輸送船の護衛などとして必要とされた海上警備部隊で活躍するには、燃費や弾薬の消費量が大きすぎた。そこで軍は視点を変えて、彼女の豊富な経験に目をつけた。長門を艦娘訓練所の実技教官にしたのである。戦争中は重巡が実技訓練教官を務めることが多かったが(砲撃・雷撃・航空機の扱いをある程度一人で教えられるからだ)、戦争が終わってからは戦艦には戦艦が、重巡には重巡が、空母には空母が、といった風に、その艦種ごとに教官をつけることが可能になっていた。これは言うまでもなく、人手が余るようになったからだった。私見だが、そのお陰でいきなりでも二日休みが取れたのだろう。

 

 私たちは落ち着いてテーブルにつき、コーヒーを飲んで、あれこれと話し合った。ほとんどが昔のことだった。見たこと、聞いたこと、やったこと、やらなかったこと、やってしまった(・・・・・・・)こと……どれもこれもが、既に通り過ぎてきた過去であるにも関わらず、新鮮だった。長門はアルバムを引っ張り出してきて、テーブルの上に広げた。そこには何十枚、何百枚もの写真が挟まっていた。食堂で本を読んでいた古鷹がふと目を上げてカメラを見た瞬間が、那智にからかわれて顔を真っ赤にしてドイツ語で何やら叫んでいたグラーフ・ツェッペリンの姿が、その他の戦友たちの姿が、テーブルの上に広がった。そこでは死んでしまった人々でさえ、まだ生きていた。

 

 そして誰もが若かった。艦娘は、外見的には老けることがない。それでも確かにそこにいる私たちは、不真面目な、傷つきやすい若者で、一秒一秒を必死に生きていた。私はアルバムの中から一枚の写真をすっと引き抜いて、長門に示した。

 

 それは彼女の大親友にして、海軍で最も新しい英雄の教官を務めた艦娘、那智がメインの被写体となっているものだった。下着を履いて黒染めのぼろ布を身にまとっただけの、半ば素っ裸と言ってもいい恰好で、陸軍の兵士から譲って貰ったフェイスペイント用の油性練り白粉(ドーラン)で顔から手足の先まで全身にトライバル紋様じみたメイクを施し、陸軍が置き忘れた(・・・・・)突撃銃を槍のように持って、未開の蛮族を思わせるポーズを取っている。とても広報には使えそうにない写真だ。「ああ」と長門は息を吐き出すように言った。「この時はひどかったな」そして、微笑んだ。那智の隣には、似た格好の長門が堂々としたポーズで立っていたからだ。響は彼女たちを評して「部族民」と、この写真を撮った時に真正の呆れ顔で言った。「二人とも、すっごく、どうかしてる」長門は反駁しようとしたが、被せるように「どうかしてる」と響に言われては閉口するしかなかった。

 

「今までに参加した作戦の中で、これが一番楽しかったわね」

 

 私がそう言っても、長門は新しい反応を見せることなく追憶の微笑みを浮かべ続けていた。思い返しているに違いなかった──彼女と彼女の大親友が、その格好のまま民間人の家に突入した夜のことを、だ。必ずしも私が擁護する必要はないが、念の為言っておくと、これは正規の作戦だった。敵の攻勢によって危険域となった海域にある小島に住んでいた民間人がたった一世帯、頑固に立ち退きを拒んでいたのである。それまでに当該の島を領有する国家の警察や陸軍が説得の為に出向くなどしていたものの、成果は上がっていなかった。それどころか、投石だの骨董品の小銃だので威嚇され、負傷者が出るのも時間の問題になり始めていたのである。そこで私たちの出番となった。艦娘の肉体は深海棲艦のそれと同様、小口径の銃弾程度でどうにかできるものではなかったからだ。

 

 が、海軍にも外聞というものがあって、海軍の艦娘が民間人をとっ捕まえる姿を、捕まえられる側の民間人にすら覚えていて欲しくなかった。護送された後で、海軍について現地メディアなどにあることないこと吹き込まれてはたまらんぞ、という訳である。なので泊地司令は私たちの当時の提督に、よくよく言い聞かせた。「いいか、何があっても海軍がやったとは分からんようにするんだぞ」提督はそれをそのまま私たちに伝え、具体的な方法は旗艦だった古鷹に任せた。彼女はまず艦隊員を集合させ、意見を募った。すると長門が真っ先に言った。「変装して覆面をつけた上で夜陰に乗じて接近、突入すれば十分ではないか?」この余りに真っ当な計画に、他の誰も反対できなかった。思えば、古鷹はこの時点で疑うべきだったのだろう。

 

 旗艦古鷹はその場で突入班と支援班に艦隊を分け、突入班は長門と那智が担当することになった。反対意見が皆無だったとは言わないが、何と言っても二人は海軍で一、二を争うトラブルメーカーであり、深海棲艦と戦うより、憲兵や他の艦娘たちと殴り合っていることの方が多いんじゃないか、と陰で噂されていたほどの人物だったのだ。人間を相手にするのなら、古鷹でさえも及ぶまい、というのが、その頃の私たちの見解であった。彼女たち以外は全員支援班に割り当てられ、こちらは民間人護送用の舟艇の警護と、突入班が万が一目標を逃してしまった場合、彼らを追跡して取り押さえる役目を負っていた。私たちは準備の為に解散し、今出撃すれば作戦地域である島の周辺に到着するのが夜になる、というタイミングで工廠に集合した。で、謎の蛮族二人組と合流し、島に向かった。

 

 作戦はこれ以上を期待できないほど上手く行った。長門と那智は陸軍の置き忘れた物資を最大限に活用しただけでなく、そこに自分たちなりの工夫まで付け加えていたのだ。二人は外で夜間歩哨として立っていた住民の足元に火をつけた爆竹と閃光手榴弾を投げ込むと、中東風の、あるいはインディアン風の雄叫びを上げながら、第三世界風の木造建築に突進した。そして那智は扉を、長門に至っては体当たりで壁をぶち破って突入(エントリー)すると、空包を装填した突撃銃を天井に向けて撃ちまくり、頑丈そうな家具なんかを手当たり次第に蹴っ飛ばして暴れ回った。その様子を寝起きに見せられたことが余程心に響いたのだろう、数分後、原始的な破壊衝動から立ち直った二人が民間人たちに猿ぐつわと目隠しをして後ろ手に縛り上げた時、彼らは誰一人として抵抗しなかった。

 

 長門の心が過去から戻ってくるのを待って、私は彼女に尋ねた。

 

「いつかこのことを書いてもいいかしら?」

「どのことを? 今日のことか?」

「それもあるし、この写真のことや、この写真を撮った時にやったことなんかもよ」

「構わないぞ。自分について書かれるなんて面白いじゃないか。それに、そこに写ってるのは全部昔のことだし……もしお前の小説を読んだ誰かが私のことを『愉快なやつ』だと勘違いして声を掛けてきても、その間違いを正してやればいいだけだからな」

 

 私は彼女が「愉快なやつ」という言葉を使ったことで少し憂鬱になり、何を喋ればいいか分からなくなってしまった。そこで私は、長門にコーヒーじゃなくて何か酒を飲みましょうよ、と持ちかけた。彼女は戦艦らしく、私の誘いを断らなかった。お陰で随分と気が楽になった。会話も元通り弾むようになり、私たちは再び思い出話に花を咲かせた。古鷹が文通相手と恋に落ちたこと。需品科のミスで海軍基地向けの食料が届かなくなった時に時雨がそれをどうやって解決したか。今だからこそ言える那智の尻に関するジョーク。グラーフ・ツェッペリンの「もしもの時用」拳銃。楽しかった。私は久々に制御できないほどの笑いの発作に襲われたほどだ。

 

 一通り話し終わってから、気だるい落ち着きの中、私たちは椅子からソファーへと場所を移し、互いの重みを肩で分かち合った。それは私に、出撃中に長門と私の双方が大破し、肩を貸し合って帰投した時のことを思い出させた。あるいは、休みが取れた日の夕方、安い居酒屋で質の悪い蒸留酒をどれだけ沢山飲めるか競った末のことを。何をしても思い出すのは昔のことばかりか、と私は笑い、「結局」と勝手に結論を出して口にした。「私にとってもあなたにとっても、まだ戦争は続いているみたいね」長門は答えないかと思ったが、かすかに「うむ」と聞き取れるようにも思える程度の反応を示した。それから一言一言はっきりと区切りながら言った。「というよりも、みんな、まだ、艦娘なのさ」

 

 私は彼女の言葉に深く納得した。私たちは艦娘だった。そしてそれは今でも変わらないのだ。多くの少女たちが十代で志願して、元の姿を捨てて艤装を身にまとい、砲や魚雷や航空機を操って戦い、殺し、殺され、幸運な者たちだけが生き延びて、家に帰ってきた。彼女らは今や働き、誰かを愛し、誰かに愛されて、子供を産んで、その子のおしめを換え、料理を作り、家の掃除をし、パートでまた働きに出たりしているのだろう。それでも、あの戦争に行った艦娘たちは、本当の意味であの時代に艦娘として生き抜いた女たちは、いつまでも艦娘であり続けるのだろう。それは嫌とか嫌じゃないとかの問題ではなくて、一人一人、個々人の人格に、一つの純粋な観念として融けきってしまっているのだ。

 

 その日は長門の家に泊まり、翌朝私は彼女に短く本題を話した。彼女はろくに考える素振りも見せずに私の申し出を受け入れ、その癖これから書く作品によって私が得る利益から謝礼を支払いたいというオファーについては、頑なに断った。その代わりに、彼女は注文をつけた。

 

「私は真面目できりっとした感じの女として書いてくれないか、旗艦にぴったりの気質だろう?」

「もちろんよ」

「それと強かったってことも」

「メモしておくわ」

 

 彼女は言葉に詰まったようだった。でもそれから軽く笑って、短く言った。

 

「恩に着る」

 

 私が家を出る直前になって、長門はとびきり濃く淹れたコーヒーと、コニャックの瓶を持ち出してきた。日伊艦娘相互派遣協定で日本にやってきたイタリアの艦娘から教わった飲み方なんだ、と言いながら、彼女はまず一杯のコニャックを私に飲ませた。次にコーヒーにそれを入れて飲ませた。そして最後にもう一杯のコニャック。空きっ腹にそれだけ流し込んだお陰で私は、駅までどうにもふらふらと覚束(おぼつか)ない足取りで歩くか、身銭を切ってタクシーを呼ぶか選ぶことになった。長門は車を持っていたが、送ろうか、なんて言わなかったし──言われたとしたって私から断っていただろう。安全に最大限配慮した結果呼ぶことにしたタクシーが家の前に到着し、私は車内に乗り込んだ。女の運転手は気を利かせて、すぐに発進することなく私が窓を開けて旧友と話す時間を作ってくれた。とは言ったものの、私たちが交わしたのはこんな言葉だった。

 

「それじゃあ」

「ああ、さよなら」

 

 駅に向かう途中、運転手が私に尋ねた。「お客さんは、艦娘だった人なんですか?」その慎重な口ぶりから、私はすぐに彼女が戦争に行かなかったか、行くことができなかったのだと理解した。少し考えてから私は答えた。

 

「いいえ、違うわ」



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04「古鷹型重巡:古鷹」

 古鷹は私が会ったことのある二人の伝説的な艦娘の内の一人である。だがもう一人の方とは違ってあの頃艦娘だった人々にしか知られていないので、彼女の何が凄かったのかということについてここで改めてお伝えしよう。彼女は、なんと海軍の最先任艦娘だったのである。これは凄いことだった!

 

 考えてみて欲しい。あなたが艦娘だとする。あなたは重巡洋艦の艤装を身に付けて、海を駆ける。休暇その他を除くと、一年の内の三百日は、少なくとも一日に一回海に出る。多い時は補給に引き返してから再出撃で夜戦に突入だ。年に一度は大規模作戦や深海棲艦の大攻勢がある。それをあなたは全部戦い、事故も起こさず、病気もせず、心を病むこともなく生き延びて、一年、二年、三年、五年、十年、十五年、二十年と続けていって、自分の同期や先輩が全員死に絶えるか退役するかして、やっと「最先任艦娘」の称号と徽章、特別手当が貰える。その称号や給料の増額に大した意味が見出せないかもしれないが、そのことについては私も同意見である。けれどとにかく、それが単純に凄いことだったというのは真実そのものだった。

 

 私が彼女と会ったのはパラオ泊地に着任してすぐのことで、艦隊旗艦を務めていた彼女は新入りの私の面倒を何くれとなく見てくれた。艦娘としての常識や戦場での立ち振る舞いを含めて、私の艦娘としての根幹を作ったのは訓練教官よりも古鷹だと言える。行いだけでなく性格もいい人で、本当に誰からも好かれる、というのを地で行く好人物だった。私の知っている艦娘で、彼女よりも素直で真っ直ぐな、完成された人格の持ち主はいない。彼女には言い訳のできない欠点がなかった。ただそれでも十五歳で軍に入った彼女は、自分に教養がないということを気にしていたが、それだって彼女本人以外の誰一人として全然問題にしなかった。たとえ古鷹が近現代文学専門の読書家で、古典文学を読んだことがろくになかろうとも、その落ち着いた知性と豊かな感性が、たちまち消えてなくなる訳ではなかったからである。

 

 彼女には勇気もあったし、機転も備えていた。こんなエピソードがある。パラオが深海棲艦の攻撃で長い間包囲下に置かれ、食料が配給制になった(膠着期にはままあったことだ)時のこと、私と彼女は連れ立って街に出かけた。料金は高いが、こっそりと肉や卵の類を食べさせてくれるという店があって、前回の出撃で死にかけた私と古鷹は何があっても今日そこで昼食を取るぞ、という覚悟を決めていたのだ。小ざっぱりしたその店に行き、先払いで殊勲手当(MVP)一回分の代金を支払い、料理を待っていると騒ぎが起こった。見ると、柄の悪い男が店員に「料理に虫が入っていた」と絡んでいた。私が口を開くよりも先に古鷹は席を立ち、店員と男の傍に寄っていって、尋ねるようなトーンで声を上げた。

 

「えっと、それって苦情ですか? それとも感謝?」

 

 このとぼけた言葉は、一瞬でその場の人々を一人残らず古鷹の味方にしてしまった。そして男は艦娘相手に騒ぎを起こせる筈もなく、素直に引き下がった。お陰で私たちは、先に払った代金の半分を店からの感謝の気持ちとして返して貰うことさえできたのである。

 

 他にもこんなことがあった。彼女はみんなに好かれていたから、しょっちゅう色々な贈り物を受け取っていた。それはちっちゃな鉢植えからもっと値の張る装飾品の類まで多岐に及んだが、古鷹本人が最も喜んだのは煙草だった。どうも長い間生きていると、そういうものが欲しくなるらしい。古鷹が喫煙という己の悪癖について言っていたことを覚えている。「健康な体でいるってのは、とても気持ちがいいものですよ。それこそ痛いくらいにね。だからこうして仕返ししてるんです」私にはどうしても彼女の理屈が理解できなかった。今でも分からない。だがそれはそれとして、古鷹は煙草を貰うと無邪気に喜んだものだった──費やす金額は一月に付き何円まで、と決めていたが、だからこそ贈り物として無償で手に入ると、嬉しかったんだろうと思う。

 

 で、ある現地人の男が封を切ってもいない一カートンの煙草から半分を古鷹に渡した。私はそれを横で黙って見ていたが、古鷹は私にも一箱やって欲しいとその男に言った。男は気前よくもう一箱を私に持たせた。彼が行ってしまってから、古鷹はにっこり笑うと、私の手の中から煙草の箱を取って自分の懐にしまい込んだ。このように、彼女は賢く、優しく、また罪のない悪ふざけへの理解を有していたのだ。

 

 私に小説の書き方を教えてくれたのも彼女だった。パラオは言わずもがな僻地である。娯楽がない訳ではないが、それでも退屈から逃れるのには心底苦労する土地だった。私たちは本当に多くのことをやった。読書に始まり、娯楽室でカードをしたり、写真を撮ったり、歌を歌ったり、グラーフに嘘を教えたり、楽器を演奏したり、裁縫をしたり、絵を描いたり……そして私は、文章を書いた。

 

 きっかけは基地の隣にあった艦娘寮の古鷹の部屋に遊びに行った時、彼女の書きかけた小説の原稿用紙の束を見つけたことだ。何作も何作も、途中で書くのをやめたものばかり。飽きずに続けられそうな趣味として、“創作”という終わりのない行為はうってつけのように思われた。絵を描くのと違って特別な技術や才能をそれほど必要とすることがなかったのも、私の興味に拍車をかけた。古鷹は最初こそ渋っていたが、やがて私が辟易するほどに熱心に教えてくれるようになった。何だかんだ言って、同じ趣味の友達を増やしたかったのだろう。

 

 戦争の最中でも、こつこつやっていけば作品を書き上げることは不可能ではなかった。その作品の内容やタイトルはもう記憶にないが、古鷹が私の作家としての第一歩をどれだけ喜んでくれたかということは覚えている。彼女は感情表現が豊かな艦娘だった。私とは対照的だったが、古鷹に言わせれば、私のその奥ゆかしさが「いい」そうだった。今日は素敵な日だと彼女は言ってくれた。それだけで私は何よりも満たされた気持ちになったものだ。

 

 ところで、彼女も艦娘であり、人間だった。だから失敗談についても一つは言っておかなければならないだろう。私がすぐに思い出せるのは、彼女の悪い癖のことだ。それは艦娘「古鷹」としてのではなく、彼女が長い生活の中で独自に身につけたものだった。出撃して被弾する度に、そのことを大袈裟に嘆くのである。撃たれるのがつらい年になってきた、とか。次の誕生日を迎えられる気がしない、とか。そんなことを本当に毎回聞かされるので、ある出撃の時、とうとうグラーフ・ツェッペリンが我慢できなくなって言い返した。

 

「いつも撃たれるのがつらい年齢だとか何とか言うが、私は何歳でも撃たれたくはないな。せっかくだから教えてくれ、日本の艦娘には『ああ神様(マイン・ゴット)、今は撃たれるのにぴったりです!』という年齢があるのか?」

 

 それ以降古鷹は二度と年のことを言わなくなり、彼女以外のみんなちょっとだけ幸せになった。

 

 彼女と作家の話をしよう。古鷹は中学生の時、図書委員会の構成員にして文芸部の一員でもあった。彼女が精力的に活動する人物であったことは、ほぼ確実だと考えている。それは古鷹のところにちょくちょく届いていた荷物からしても明白だった。それらは大半が、古鷹に対する手書きの献辞が書かれている本だった。彼女は艦娘になる前から一人の愛書家として文壇の様々な作家たちにファンレターを送っており、その習慣を艦娘になってからも続けていたのだ。

 

 彼女自身が少し自嘲的に語った言葉を引用すれば、「ただの小娘」だった古鷹に好意的な返事を寄越してくれる作家は少なかったが、彼女の立場が変わるにつれてその対応も変わっていった。まず艦娘になってからは、作家たちがちらほらと返事を寄越すようになった。お国の為に戦う艦娘さんに励ましのお便りを、というのは私たちを含む戦中世代の人間なら誰でも小中学校で体験したことだが、彼らは励ましと言うよりは自らの体面をよくする為に答えたのだろうと思う。最初は古鷹の手紙に作家が応じる形を取っていたが、古鷹が最先任艦娘に近づくに従って、逆転が始まり、やがて献辞付きの本が届くようになった。

 

 私は今でもその中の何冊かを、そこに書いてあった献辞を思い出すことができる。ある推理小説家が送ってきた最新作の最初のページには、「私のインスピレーションの母に」と書いてあった。別のジュブナイル作家からの本には「尽きせぬ勇気の源たるあなたへ」。恋愛小説家からの献辞はこう始まっていた。「あなたの燃え上がる魂に、七つの海を越えて口づけを贈ります!」古鷹は彼ら一人一人についてよく知っており、まるで経験豊かな小学校の教師が、手は掛かるが可愛い子供たちについて語るかのように、細かく細かくこの作家たちの素晴らしいところを話すことができた。たとえばさっきの推理小説家の考えるトリックが見事なこと。ジュブナイル作家の描く、胸がどきどきとするような緊迫感に満ちた冒険。恋愛小説家が形作る、まるで読んでいる自分が主人公になって登場人物と恋に落ちているかのように思わせられる、切ない純愛のストーリー。

 

 彼女は作家の長所を見抜く力に長けていた。どれだけひどい三文文士の作品からでも、優れた点を見つけることができた。だから彼女が、彼女の愛する作家たちについて語る口ぶりだけを理由とせずして、あらゆる作家にとって母親と見なされたのも無理はない話だろう。古鷹は優しかった。作品について語る時、彼女はいつでも長所を話題にした。作家について語る時、愉快な話だけを口にした。不愉快な話をしたことは一度もない。天才的トリックが売りの推理小説家は、ストーリーがいつも盗作だったこと。ジュブナイル作家の登場人物のキャラクター性が、毎回変わり映えしないこと。純愛作品で名を馳せた恋愛小説家が現実では異性との関係にだらしなく、何人もの恋人をとっかえひっかえにしていたこと。それらは全部、後になってから知ったことだ。

 

 それでも古鷹は、愛書家として彼ら作家たちを愛していた。彼女の部屋は作家連中からの本が一杯に詰まった本棚で埋め尽くされていた。古鷹がその本棚に手を伸ばすことは滅多になく、埃が積もっているのに気づいて掃除する時ぐらいだった。彼女は本当に読みたい好きな本を何冊かベッドに持ち込み、寝る時には数少ない本棚以外の家具であるサイドテーブルの上に、きちんと大きさごとに分けて平積みした。彼女は固くそのルールを守っていた。例外は一冊だけ、ただの一冊だけだ。それは私が書いた処女作を印刷して、手で()じたものだった。彼女は必ず、それを平積みした本の塔の一番上に重ねたのだ。私は彼女の部屋に遊びに行ってそれを見る度に、気恥ずかしい思いになった。

 

 本と言えば、ある時、彼女は私に一冊の本を貸してくれたことがあった。本を愛し、傷や汚れを恐れる余りどんな本でも決して他人に貸すことがなかった古鷹にしては、奇妙な振る舞いだった。私がそれを受け取ったのが何故か、さっぱり説明がつかない。どういう話になって部屋に持ち帰ったのかすら、覚えていないのだ。とにかく彼女はそれを貸してくれた。きちんと印刷され、固い紙の上に深い緑色のカバーが掛けられた、タイトルのない本だった。自分から貸してくれと頼んだ筈はないから、あっちから貸してくれたのだろう。

 

 二十年が過ぎて、私は、それが古鷹が書き上げることのできた唯一の作品なのではないかと考えている。それはまだ私の手元にある。こうしてこの文章を書いている時にも、私の右手の近くにその本は置いてある。深い緑色のカバーに覆われて、借り受けたあの日からずっと、一度たりとも読まれることなく、そこに秘められた物語も知られないまま。私はまだその本を持っている。古鷹と過ごしたあの日々から、随分と長い時間が経った。それでもまだ、私はその本を返したくてたまらない。そして、私の作品をどう思うか聞いてみたい。最初のページに古鷹への献辞を書いて、贈ってやりたい。私は彼女のことが好きだった。悪戯っぽい笑顔、きらめく瞳、きびきび動く姿、ひるがえるスカート、白い指先、波打つ髪。大好きだった。

 

 でも結局、彼女はある真夏日に轟沈してしまった。今も気になるのは、どうして彼女が私だけにあの本を貸したのかということ……。



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05「手紙」

 月に一度、本国からの荷物を満載した輸送船が来る日は、パラオ泊地に所属する艦娘の誰にとっても重要な一日だった。たとえば古鷹は前々から注文していた本が届くのを一日千秋の思いで楽しみにしていたし、那智は彼女が「パンドラの箱」と呼ぶ悪戯用小道具入れへの補給品を期待していた。

 

 だがそういった自分自身の趣味嗜好に基づく特別の欲求がない艦娘たちにとっても、やはりその船は大切な存在だった。それは手紙を運んでくるからだ。家族からの手紙、戦友からの手紙、同期からの手紙、友人たちからの手紙、顔も知らない不特定多数の子供たちからの「励ましのお便り」。どんな内容であるにせよ、艦娘たちにとっては手紙というものが本当に何にも代えがたいものだった。それは彼女たちがいる現実的でハードな世界と、彼女たちがそこから切り離された非現実的でソフトな世界とを繋ぐ細い糸であり、昔、まだ艦娘ではなかった時のことがどれだけ夢のように思われたとしても、やはり実際に今いるこことは違う素敵な場所があったのだと思い出させてくれたからである。

 

 ただ、輸送船に積んであるのは言うまでもなく、そんな気持ちのいいものばかりではなかった。資材や燃料、弾薬、食材などの必需品もたっぷりと詰まっており、それの積み下ろしや倉庫への運び込みに人手が足りなくなると、出撃任務のない艦娘たちは額に汗して働かなければならなかった。そしてこの人手というのが、毎回必ず不足した。なのである一月の朝のこと、私たちは汚れてもいい恰好をして港に向かった。

 

 この臨時任務の中で人気の仕事は、手紙の仕分けだ。何しろ港の事務所の中で空調を効かせながら、座ってできるのである。他の仕事はどれも全くの肉体労働だから、募集人数の少ないこの仕分け業務を受けることのできた艦娘は非常に幸運だとして妬まれたり羨ましがられるのが常だった。この時は私の最も古い艦娘の友人にして幸運艦として有名な時雨がその席を手に入れ、私たちは彼女がどんな手を使って事務所の玉座を手中に収めたのかと、弾薬箱や燃料の詰まったドラム缶を手や運搬機で運びながらいぶかしんだ。で、時々時雨が私たちに届いた手紙を持ってくると、その度に「裏切り者」とか、「卑しい駆逐艦め」とか、艦隊員みんなで彼女に思い思いの親しみを込めた罵声を浴びせた。時雨だって負けずに、私たちの前で自慢げに小さなお尻を振りながら笑って歩いて、勝者の余裕を見せつけた。

 

 昼の休憩を挟んで午後になって、何箱目か忘れてしまったほど沢山の弾薬箱を運んでいた時だ。長門が「何だこれは?」と声を上げた。私は普段使わない筋肉を酷使してへとへとだったので、視線を動かすだけで彼女の方を見た。長門の黒く汚れた指が、白い封筒をつまんでいた。「おい、勤務中に手紙を読むのは服務規程違反だぞ」と生真面目なところのあるグラーフが言い、那智は「なんだ、封筒に検閲印がないじゃないか」と鋭い指摘を発した。私は思わず「検閲印がないですって?」と口走った。それは重大な違反だった。戦中は未検閲の手紙なんか持っていることがバレたら、それがどんな内容でも大きなリスクだったのだ。

 

 私は「早く捨ててしまいなさい」と勧めたが、長門はそんな指示に従うような女ではなかった。彼女は私の焦った様子を見て吹き出すと、仕事の最中であるにも関わらず手紙の封を切って中身を取り、封筒だけを相棒の重巡に渡したのだ。那智は懐に収めていたメモ帳を取り出し、封筒に書いてあった送り主の住所を書き留めると、古鷹のポケットに手を突っ込んで彼女のライターを奪い、あっさり封筒を燃やしてしまった。「これで検閲印があるかないかなんて分からなくなったな」と那智は言った(因みにこういうことが横行したせいで、数年後には封筒の中身にも一々検閲印が押されることになった)。

 

 長門は手紙に目を通していたが、ふと本文が書かれた紙の裏に貼り付けられているものがあることに気付いて裏返し、感嘆の声を漏らした。「ほう、見てみろ、写真付きだぞ」まず私が好奇心の強さから陥落し、次に古鷹、最後にグラーフが堕ちた。私たちは他の働いている艦娘たちや作業員たちの目を盗んでこっそりと物陰の方へと移動し、ちくちくとした肌触りの地面に円陣を組んで座った。そして既に読み終えていた長門と那智を除く三人で回し読みをし、写真を見た。それは十五歳になったばかりの少年からの手紙で、「艦娘、特に戦艦・正規空母艦娘の大ファン」を自称する彼はこれを読んでいる誰かに対して、是非文通相手になって欲しいと書いていた。十五歳の男の子らしい気遣いの足りなさに、私たちはみんな微笑ましい気持ちになった。が、その後でちょっとした争いになった。

 

 誰が文通相手になるかで揉めたのである。無論、それは本気の争いではなかった。長門は第一発見者であることと、押しも押されもせぬ大戦艦であることを理由に自分が返事を書くと主張した。私は本気ではなかったが、長門に対抗して立候補した。彼女に任せたら、戦艦にだけでなく正規空母にも憧れを持つ純真な少年がショックを受けてしまうことが容易に想像できたからだ。そうでなくとも、何かの拍子に長門が治安紊乱(びんらん)のかどで捕まってしまうようなことになりかねず、そうなれば私たちもまとめて譴責(けんせき)を受ける恐れがあった。しかもその想像は、考えうる限り最も軽い処分で済んだ時のものなのである。未検閲の手紙を受け取って読んだことを重く見られれば、もっとひどいことになる可能性だってあった。

 

 そして那智は海軍の艦娘戦力の中核を成す重巡として、戦艦や正規空母よりも重巡の方がいいぞ、ということを教え込む為に立候補し、グラーフは手紙を自分で処分してしまう為に立候補した。私たちは見つからない程度の声でぶつぶつと言い合いをして、誰の手に渡すべきかを話し合った。だがとうとう痺れを切らした長門が殴り合いで決めようと言い出したところで、古鷹が私たちに言った。

 

「私が書きます」

 

 彼女にそう言われては、さしもの長門にも抗えなかった。だが、私たちが一言も反抗せずに古鷹へと手紙を渡したのは、彼女が旗艦だったからではない。恐らくその場にいたみんな、古鷹の声に、ふざけて権利を奪い合っていた自分たちとは違うものを感じたのだと思う。そこには真剣さと言っていいものがこもっていた。私たちは旗艦抜きで短く協議を行ってから、本気でそれを欲しがっている者に渡るのが一番いいんじゃないか、ということで意見を一致させた。古鷹がどうしてそんなものを欲しがるのか分からなかったが、彼女の様子なら返事を書くとしてもきちんとしたものをしたためることだろう、と私は思った。それなら、自分たちが少年をからかって楽しむ為に書いたものを受け取るより、遥かに彼の意に沿う筈だ。それがたとえ、期待が外れたという知らせであったとしても。

 

 私たちはすぐにその手紙のことを忘れ、持ち場に戻って働いた。次に時雨が戻ってきた時、長門は那智にこの幸運な駆逐艦娘の気をそらさせておいて、事務所の椅子目指して猛然と走り出したが、気づかれてしまえば駆逐の足に敵う筈がなかった。私たちは笑ったり、罪のない嘲りの言葉を長門に投げかけたり、普段友人同士で気を紛らわせる為に口にする色々な話題をもう一度俎上(そじょう)に載せた。

 

 手紙のことが再び私たちの間で注目されるようになったのはそれから多少の時間が経った後のことだ。夕食の後で部屋に来てくれ、と古鷹は私に頼んできた。古鷹の部屋に私が行くことはしょっちゅうあったが、彼女が私をわざわざ呼び出すということは滅多になかったので、これはきっと何かあったんだなと考えて、私はいつもの半分の量で食事を終えて彼女のところに急いだ。ノックして部屋に入ると、奥の書類机の前に置かれた回転椅子に座っていた古鷹は、ぐるりと座席を回転させてこちらを向き「余程急いで食事を取ってきたのね」と打ち解けた口調で言って笑った。取り繕わないその様子に、私はますます強い危険信号を感じた。一体何があったのか? 古鷹は着任以来散々世話になってきた相手だったから、私としても並々ならぬ恩を感じていた。彼女を悩ませる何もかもに対して、私は敵対することを決めていた。だから私は古鷹の前まで行くと膝をついて目の高さを合わせ、彼女の手を握り、その明るい色の瞳をまっすぐに見つめて、彼女が用件を言い出すよりも先に言った。

 

「どんなことがあったのかまだ知らないけれど、これだけは先に聞いておいて欲しいの。いい? 私はあなたの味方よ。あなたを悩ませているのが何であっても、あなたの力になりましょう。信じてくれるわね?」

 

 古鷹は胸を打たれた様子だった。彼女は私の手を固く握り返すと、「実はね」と切り出した。「告白されちゃったの」それはすごい、と私は純粋に思った。戦時下に艦娘と恋仲になろうとするというのは、余り推奨できることではない。女の方がいつ死ぬか分からない上に、万が一妊娠でもさせようものなら艦娘は軍法会議、男の方は刑事告訴されるか軍人なら艦娘同様の軍法会議に掛けられたからだ。特に悪質な場合は、外患罪に問われることもあったらしい。それならいっそ、さっぱりと恋愛禁止にしてしまえばいい気もするが、それは流石に人権問題が関わって不可能だったようだ。

 

 しかしそういった艦娘であるということにまつわるしがらみ全部を無視して考えるなら、古鷹を愛する誰かがいるというのは素晴らしいことだった。少しでも脳みその詰まっている男なら艦娘をもてあそぶような真似はしないに決まっているし、古鷹がその辺のことを見誤ることも考えにくかった。後は、彼女がそれを受け入れるかどうか、という段階だったのである。私は自分の役目を、その相談に乗ることなのかもしれない、と推測した。だが私の「それで、どんな男なんですか?」という質問を受けて古鷹が言ったのは、とんでもない事実だった。

 

「手紙の子」

「てが……手紙の? あの子供?」

 

 私は困惑した。確かに、十五歳というのは少年から青年へ移り変わる時期だ。当時の私や長門と一つ二つしか変わらない年齢だったのだから、あの時点の私は本来彼を子供呼ばわりするべきではなかったのだろう。けれど、古鷹には申し訳ないが、その時点で既に古鷹は彼の倍以上の年齢だったのだ。彼女の外見こそ高校生またはやや幼い顔つきの大学生という程度のものだったが、それは艦娘だからであって、もし艦娘でなくなったなら失われる仮初の若さでしかなかった。でも、私は古鷹の味方になると決めたのだ。そして、彼女の代わりにああするべきだ、こうするべきだと決めてやる、なんて決意はしていなかった。そこで「それで、どうしたいの?」と尋ねた。それ以外に聞けることもなかったし……すると彼女は長い間黙って考えてから、神妙な顔でこう言った。

 

「OKしようと思う」

 

 彼女の選択が倫理的にどんな問題を抱えていたにせよ、そのことで私が彼女への態度を変えることはなかった。単に頷いて「そう」と呟き、それから「話はそれだけ?」と確認した。古鷹は首を縦に振った。私は部屋を出て、その足で時雨の部屋に行き、彼女を連れて食堂の長門と那智、それから響を拾いに行き、最後にグラーフのところに立ち寄った。そうして古鷹を除いて全員が集まってから、全部喋った。こんな面白いことを黙っている道理はなかったし、どうせ遅かれ早かれ露見するに決まっていた。第一、それが誰だろうと仲間に話をした時点でその話が秘密でなくなるということを、艦娘になって長い古鷹が理解していなかった筈がないのである。私たちは古鷹と彼女の年若い恋人の苦難多き恋路に対して議論を重ねた結果、満場一致で「大いによし、幸いあれ」とした。

 

 だが古鷹が頭の四分の一を吹き飛ばされつつも敵を全員道連れにした後、私たちの意見は分かれた。少年に真実を伝えるべきだとグラーフと響は主張した。私は彼に無用のショックを与えるべきではない、少しの間は手紙を偽造して、徐々にフェードアウトしていけばいい、と訴えた。長門と那智はやり取りをすっぱりやめてしまった方がいいのではないか、と提案し、時雨はいつものように私に賛成した。

 

 結局、古鷹の部屋を片付けた時に少年からの手紙を手に入れていた私の主張が通った。古鷹は几帳面にも書き損じた自分の手紙も保管していたので、偽造手紙の文面作成にはそこまで困らなかった。私は古鷹から文章の書き方を教わったので、最初から彼女の文体の癖を掴んでいたというのも大きいだろう。苦労したのはもっぱら、筆跡の偽造だった。私が古鷹のふりを始めると、グラーフと響を除く私の数少ない友人たちは手紙に書くネタを一緒に考えてくれるようになったので、マンネリの恐れも免れることができた。

 

 月に一度の手紙のやり取りは、私自身驚いたことに、本土の基地に転属しても続いた。那智がいなくなった後も、残った友人たちからのネタの提供は細々と続いていた。他人のふりをしてその恋人と文通をするというのは奇妙な気分だったが、偽造に関わっていたみんな、心の何処かで楽しんでいたのではないだろうか。最早古鷹の小さな恋人は、みんなの恋人だったのだ。一つだけ心配していたのは、いつまでこれを続けるのか、ということだった。私たちも頭の中の冷静な部分では、いつかはやめなければならないと分かっていた。しかし、誰かの代わりにでも愛されるというのは、あの頃の私たちにとって捨てがたい魅力を持った体験だったのである。

 

 だから悩みながらもずるずると手紙を書き続けてしまい、とうとうある時、私はうっかり所在を特定されるようなことを書いてしまった。少年は大喜びで基地の近くまで行くから会おうと持ちかけてきた。周囲では古鷹を直接知っているメンバーは既に私、響、長門の三人しか残っていなかったが、話し合って、もう逃げられない、本当のことを告げようということになった。響は私を責めなかったが、彼女の視線は明らかに私が問題を先延ばしにした末に失敗したことを糾弾していた。私は手紙で会う場所と分かりやすいように互いに身につけておく目印を決め、ショックを受ける話があるかもしれないと、予め告げておいた。けれど彼の返事は会えることへの喜びで一色に染まっており、「ショックを受ける話」については目に入っていないかのようだった。実際、そうだったのだろう。

 

 会う予定になっていた日、私たち三人は外出許可を取って、待ち合わせ場所に向かった。彼の混乱を防ぐ為に、目印は私だけが身につけた。だがこちらの予想を裏切って、そこに現れたのはハイティーンになった古鷹の恋人ではなく、彼の母親だった。彼女は私たちを見つけると近づいてきて、己の素性を明らかにし、「いい年をして子供をたぶらかす恥知らず」だと言って私をののしり、手に持っていた缶コーヒーの中身を私の顔に浴びせかけた。その瞬間、少年が二度と“古鷹”と連絡を取ることはないだろうと、私を含めた全員が確信した。

 

 それで私たちはみんな、ものすごく安心した。



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06「暁型駆逐艦:響」

 私の親しい友人の一人でもあるこの響は、日本海軍に志願した艦娘の後ろ暗い一面をもろに(・・・)反映した人物である。それはつまり、彼女は志願したというよりも志願せざるを得なかったということであり、私のように生まれ育った地域の風土がそうするように仕向けたという類の話より、もっと救いのない話だった。そしてその話は、当時の日本にはそれなりによくあったことだったのである。

 

 彼女には自分のことを深く愛してくれる二人の両親と、年の離れた姉が一人いた。響も彼と彼女たちのことを深く愛した。両親が事故で亡くなると、響はひどく悲しんだ。それから彼女は、姉のことを前にもまして愛するようになった。たった一人血を分けた姉妹だったからね、と後になって響は私に言った。姉が十八歳の時に、子供のいない父方の叔父夫婦に妹を預け、自分は艦娘になって呆気なく戦死してしまうと、今度は実子代わりに可愛がってくれたこの義理の両親を愛するようになった。叔父の方は響の実父の弟だった訳だから、懐きやすかったのかもしれない。

 

 でも叔父夫婦に娘が生まれて自分が用済み(・・・)になった後、響は一旦、愛するということをやめてしまった。彼女は自分の愛が裏切られて無駄になるのをもう望まなかったのだ。でも何にも頼らず、誰かをちっとも愛さずに生きていくのは余りにも寂しかった。そこで響は、神様を愛することにした。神様は自分の愛を裏切ったりしないし、心も平和になる。誰かに疎まれることもないし、神様は永遠に死ぬこともない。賢い考えだ。

 

 十八歳まで居場所のない家に留まった後、高校を卒業した響は姉の後を追うようにして艦娘に志願した。彼女は舞鶴の艦娘訓練所に送られ、上から六番目の成績で訓練を終えた。その成績なら、横須賀でも呉でも行けただろう。だが他の艦娘たちが国内勤務を望むのと対照的に、響は国外勤務を望んだ。そうして、パラオにやってきたのだった。私が十六歳の時だったので、タイミングとしては長門と同時期になる。

 

 パラオ泊地に着任した当初の響は、その雪のように白い肌と淡い水色の髪が他者に与える、冷たげな印象そのものの人格の持ち主だった。いつも物静かで、思索を好むと言えば聞こえはいいが、仲間の輪に交わることなく一人で宗教書を読んでいた。食堂での食事の時も、決して他の艦隊員たちが集まっているところには近づかなかった。要するに、孤立していたのだ。同期の長門は「人にはそれぞれ性格というものがある」と言って気にしなかったし、古鷹は優しさが裏目に出て、響の拒絶を無視することができなかった。加えて時雨は「僕の艦隊員じゃないし」という態度で、私はと言えば事情も知らない癖に響の孤独に勝手なシンパシーを覚えていたので、無理に輪に引き込もうとも思えないでいた。

 

 ところが那智はそんなことを一向に気にしなかった。響を追いかけ、彼女に話しかけ、彼女と行動を共にして、うんざりした少女がとうとう白旗を上げて降参するまで、何かとまとわりついたのだ。私は今でもはっきりと、初めて響が食事時の艦隊員の集いに姿を見せた際のことを思い出すことができる。「今日はスペシャルゲストがある」と那智が言うと、その背中に隠れていた響が頬を赤く染めながら現れた……というのは嘘だ。彼女は一目で不機嫌だと分かる目つきで、歯を強く噛みしめ過ぎてか、口元がかすかに歪んでいた。それから響は艦隊員と食事を取るようになったが、食事中に私たちが話しかけても、三回に一度返事があればいい方だった。

 

 そんな風だったので、那智は一計を案じた。酒を飲ませたのだ。訓練所で別の響が飲酒にハマっているのを見たことがあった那智は、同じ響ならもしかしたら、という気持ちで試したらしい。それが大成功だった。飲酒は神の御心に沿う行いではない、と主張する響に飲ませるまでには苦労したが、飲み始めてみれば彼女は誰よりも飲兵衛だったのである。十八年ちょっとの間彼女が貯め続けたストレスの全てを吐き出さんとするかのように、彼女は大いに飲み、日本語とロシア語でまくし立てた。私たちは意味の通らない部分は無視し、意味の通る部分には相槌を打った。

 

 翌日になると元通りになっていたが、酒を飲ませるとまた彼女の舌のすべりはよくなった。そういうことを何回か続けていたある日、響は今までで最も落ち着いた表情で呟いた。「もうやめようかな、意地を張るのは」彼女がそう言ったことに、みんな気づかなかったふりをした。それを知ってか知らずか、彼女は重ねて言った。「君たちを拒み続けるのに、ちょっと疲れてしまったよ」これには黙っていられなかった。私はぴしゃりと言い返した。「そういう言い方、卑怯だと思うわ」響は面白そうな顔をして、こう言い返した。「私は、そうは思わないな」私は彼女の言葉に続きがあることを予感して、黙ったままでいた。響は初めて唇を小さく動かし、彼女の感情を表現した──それが不器用な彼女なりの微笑みだと分かったのは、かなり後だったが。それからまた、呟くように喋った。

 

「でも、うん……今回はそうかもしれないね。私が、そうしたいんだ」

 

 それっきり、その日の響はもう何も特別なことを言わなかった。私たちも無理やりに引き出そうとはしなかった。けれど私はあの時、確かに私たちは彼女の心の凍りついた部分に触れて、そしてそれを幾ばくかなりとでも溶かすことに成功したのだと信じている。その日以来、響は段々と喋るようになった。酒を飲ませる必要もなくなった。自分から飲むようになったからだ。彼女はウォッカを好み、大抵の場合は一息で飲んだ。飲み終わると、間髪入れずにテーブルを指先でとんとんと叩いた。それは「もう一杯注いでくれ」の合図だった。

 

 徐々に打ち解けるにつれて、響はその魅力的な内面を、人を寄せつけまいとする凍てついた壁を取り払うと現れた、柔らかくて傷つきやすい黄金(きん)でできた心臓を少しずつ私たちに見せてくれるようになった。やがてそれは私たちだけに向けられるものではなくなり、そうすると響はたちまち愛されるようになった。彼女が私たち以外の連中にも素直な心とそこに込められた温かな優しさを見せるようになったことは、やや私たちの嫉妬を煽りはしたが、それも喜ばしいことと言えば喜ばしいことに違いなかった。響が誰かに褒められているのを見たり、彼女のいい噂が流れるのを時々耳にすると、私たちは不思議とまるで自分が褒められたかのように感じて、うきうきした気持ちになったものだ。

 

 それだけに、私たちは響に「悪い虫」が付かないよういつも気を配っていた。特に打ち解けてすぐの彼女は加減というものを知らなかったので、誰も彼も信じてしまうところがあったのである。私だけでも、何処の馬の骨とも知らない男が彼女を口説くのを何度邪魔したか覚えていないほどだ。私たちは彼らに嫌われただろうが、せっかく愛することを思い出した響をこれ以上誰かに傷つけさせるつもりはなかった。響の問題を解決することについて初めはやる気のなかった長門や時雨も含めて、その頃には私たちはみんな、彼女のことが好きになっていたのだ。

 

 が、パラオ泊地から本土の基地に転属する頃には響にも相応の警戒心と鋭い直感が備わっていたので、それ以降は彼女が口説かれる姿を見るのも一つの楽しみになった。信じられないようなことだと思われるかもしれないが、理屈では説明できないほど、響は大勢の男性(と少数の女性)を(とりこ)にした。きっと、この響にだけ備わった一種の特別な美しさか何かがあって、それが誘蛾灯のような役割を果たしていたのだろう。私の知っているある艦娘など、響と顔を合わせる度に一つか二つは口説き文句を言わないと気が済まない性分だったらしく、中には近くで聞いていただけの私の耳にまだこびりついているようなものもある。例えば、こういうものだ。

 

「響、目を閉じてくれるかい?」

「いいよ」

「何が見える?」

「何も。真っ暗だ」

「それが君のいない僕の人生だよ」

 

 全くひどい。書いている内にこんなのも思い出した。

 

「キスしていいかい」

Нет(ダメ).」

「そうか、なら仕方ないな。ところで、僕が今言ったことを覚えてる? 覚えてるなら繰り返してみて」

「キスしていいかい」

「君がそう言うなら……痛っ!」

 

 最後は鼻に噛みつかれての悲鳴だ。二人のこういった会話を耳にすることが(はなは)だしく多かったので、私はあえてその艦娘に提案してみたことがある。「いい加減、響を口説き落とすのは諦めたらどうかしら」するとそいつは、きょとんとした顔でこう言ったのだ。

 

「口説くだって? 響を? とんでもない! 僕ら、普通の友達さ。あれは親愛表現だよ、単純に『愛してる』って伝えるよりも素敵じゃないか。そうだろう?」

 

 私は二十年経ってもこのことに関して意見を変えるつもりはない。『あれ』は、友達同士で行うやり取りの領分を越えていた。私にだって親しい友人たちぐらいいるが、これまでにそういった友達に対して「愛してるわ」なんて言ったことはない。もっと言えば、私の育った時代の日本の倫理観では、友達の唇にキスしようとはしない。それが女同士であってもだ。とすると、やはり考えられるのは……いや、よしておこう。響や彼女の普通の友達(・・・・・)がどういうつもりでああいうやり取りをしていたかなんて、外野には分からないことなのだから。

 

 正直、聞いてみたい気持ちもあるが、響はきっとはぐらかすか嘘を言って話を変えてしまうだろう。彼女は嘘を言うのが得意だ。これは那智に似たんだな、と思う。あるいは那智のせいでそうなったんだろう。いやらしさのない、後で笑えるような嘘を言うのが好きだった那智の影響を、よかれ悪しかれ響も受けたのだ。思い返してみれば、私も那智と響の二人に騙されたことがある。まだパラオにいた頃、私が最近占いに凝っているという話をすると、響が占ってくれたのだ。彼女は私の手相を見たり、誕生日を聞いたりした上で、外に出ると出会いがあるかも、みたいな当たり障りのないことを言うと、(おごそ)かにラッキーアイテムは首飾りだと告げた。運よく私は前回の外出の際にネックレスを買っていたので、早速それを身につけて、また別の日に外出許可を取り、街に出かけた。

 

 結論から言うと、那智が民間人に「艦娘とデートできるぞ」なんてことを吹き込んで、中々の大金を稼いでいた。首飾りは「デートできる艦娘」の目印だったのだ。私がネックレスを買ったということは別段秘密にしていなかったので、那智が知っていたとしてもおかしくはなかった。響はその収益の何割かを貰っていて、色欲に目がくらんでこちらに声を掛けてきた数人の若い男との食べ歩きデートを満喫して私が帰ってくると、にこにこしながら高い酒を何杯かおごってくれた。私は怒るよりもむしろ、怒られるなどとは考えもせずに私の前に姿を見せた彼女の私に対するある種の信頼に小さくない感動を覚えた。そして那智がそのとばっちりを食らったので、私はその後かなり長い間、何をするにもお金には困らなかった。ついでにスピリチュアル関連からも足を洗うことができた。

 

 響と最後に会ったのはもうかなり前のことになる。戦後に彼女の大学卒業パーティーを開いた時だったか、それとも就職祝いの時だったか。あの鈴が鳴るような可憐な声を直接聞いたのも、それが最後だろう。でも、私は自分でも意外に感じるほどよく彼女のことを思い出す。例えば友達に、私が強い酒を一息に飲んだ後、決まってテーブルを指先でとんとんと叩く癖がある、と言われた時、私は彼女の顔を思い浮かべる。あるいは、また別の友達が言う。「あなたの微笑みは、引きつりと余り大差ないわね」途端に、私の心はあの頃のパラオに舞い戻る。私は何枚かの響と私の「笑顔」が一緒に映った写真をまだ持っている。それを何も知らずに初めて見る人は、私たちが共通の悪感情を持っていると誤解することだろう。実際には、私たちは穏やかに笑っているつもりだったのだが。

 

 それと、終わりにもう一つ。言う機会もなかったので十年以上黙っていたが、そろそろ告白しておかなければいけないことがある。響が私を騙した時の適当な占いには、本当に当たったところもあったのだということを、だ。終戦後、私は一人の男性と出会い、紆余曲折の末に結婚したのだが……これが何とも驚いたことに、パラオで那智が嘘を吹き込んだ民間人の男だったのである。いやはや、まさしく出会いがあった訳だ!



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07「追想」

 戦争はありきたりな二時間映画ではない。はっきり言って、敵と撃ち合い、戦っている時間というのは戦争のごく僅かな部分でしかない。残りの大半は索敵しながら海上を航行するだけの退屈な時間や、それよりももっと暇な待機時間、そして睡眠時間が占めている。それでも戦争が持つイメージとして戦闘場面が真っ先に思い描かれるのは、そこには強い感情が渦巻いているからだ。

 

 想像してみて欲しい。あなたは海の上にいる。周りには五人の戦友たち。前方には幾つかの敵影。自分を彼女たちの砲弾から遮るものは何もない。空には味方の航空機と敵の航空機が入り乱れて飛んでいる。足元の波打つ海の下には、あなたとあなたの艦隊を待ち構えていた敵の潜水艦が潜んでいるかもしれない。彼女たちはあなたを殺そうとする。あなたは撃たれる。敵の放った弾があなたの脇を掠めていく。近くに落ちた敵弾が跳ね上げた海水があなたに降りかかる。破片が飛び散り、あなたの腕や足に突き刺さる。あなたは痛みを感じる。あなたは生きている。そしてあなたは悟る。これより痛快なことはない!

 

 こういった激情に(とら)われるのは、何も珍しいことではない。新兵には付き物だし、ベテランの艦娘だってこの興奮にわざと乗る者と、できるだけ避ける者に別れる。どちらが長生きするかと聞かれれば、統計上でどうなっているかは知らないけれど、どちらにしろ大きな差はない、と答えるだろう。私は避ける方だったが、戦闘中の激しい興奮を経験したこと自体はある。絶対に当たると思われた敵の弾が外れた時。もうこれまでだと思ったところに、救援が駆けつけてくれた時。私たちは死に近づくことによって、より一層はっきりと生を感じる。血を流すことによって、生きていたいと思うようになる。それがこの興奮の正体だ。

 

 でも、前書きでも言った通り、私があの戦争の頃を思い出そうとする時に不意に胸に浮かぶのは、そういう類のもの以外の記憶ばかりだ。何か、胸がきゅっと締めつけられるような日常の風景や、奇妙に印象に残っている特段の意味を持たない出来事。

 

 たとえば私は、任務の最中に日が暮れてきたので近くの小島に上陸して夜を明かした時のことを覚えている。夜間飛行可能な敵航空機に見つからないように十分に林の奥へと分け入った後で、私たちは見張りを残して横になった。木々の合間から見えたあの雲一つない夜空。鳥の鳴き声。負傷した腕から入った雑菌が原因で感染症を起こして入院中だった響に代わって、臨時に私たちの艦隊員になっていた時雨が、寝転がったまま懐から携帯口糧の余りを取り出して夜の暗闇に投げ込むと、犬の吠える声がした。彼女は悲しそうな顔で「置いて行かれたんだろうねえ」と呟いた。「ひどい話だよ。処分もせずに放って行くなんてさ」

 

 私は那智が基地の食堂で全然知らない何処か別の基地から来た金剛に絡んでいる姿を、今でも鮮明に思い出すことができる。二人はすっかり意気投合しているようでけらけらと笑っていた。金剛はワックスがけされた新車みたいに輝きそうなほど無傷だったが、那智は顔に切り傷ができていたし、髪の毛はしっとりと濡れていた。肩には包帯をきつく巻いていて、服なんか布切れを体に巻きつけたのと変わらない具合だった。失血で顔はげっそりとして、目だけをらんらんと輝かせて。彼女は十八時間の海上任務から帰還したばかりだったのだ。運悪く帰投直前にドックが満杯になったので、空くまでの時間を食堂で潰していたのだった。砲撃の音で耳が遠くなっていた那智が、彼女自身気づいていない様子の大声で言った。

 

NAVY(海軍)が何の略だか知ってるか、金剛?」

「当然ネ! Never Again(もう絶対に) Volunteer Yourself(志願しない)の略デース!」

 

 戦争には多くの側面があって、時にはファミリー向けのエクストラヴァガンザ(粋狂劇)とでも言うべきシーンを生み出すこともあったのである。そんな時、私たちは安心してそれを眺めていることができた。その舞台の上では、怪我をする者など滅多にいないからだ。

 

 古鷹とグラーフ・ツェッペリンはよく将来の話をしていた。そこには構想というものがあり、確固たる未来へのヴィジョンが存在した。そこには何の罠もなかった。足元に潜水艦がいるかもしれない、なんて心配もいらなかった。島影に隠れた敵もいなかった。はっきりとした問題と、はっきりとした解決策と、限りない希望があった。私たちはしばしば二人の話に、息をすることを忘れそうになるほど熱中して耳を傾けた。二人が協力して描いている未来を横から覗き見ることで、私たちもその希望のおこぼれに預かりたかったのだった。私たちにも未来というものがあると、根拠もなく信じられるように。

 

 二人の無根拠な展望を盗み聞きしていた頃から時間が経ち、悪夢のような事実として、私は四十を過ぎた。夫が一人と、子供が二人いる。戦争は終わった。もう二十年ほども前に。全ては過去に、想い出になった。私は毎日、あの日々のことを思い出す。そして忘れてゆく。実際のところ、私は多くのことを忘れてしまった。今となっては、覚えていることなど僅かなものだ。私は戦争について書く。覚えていることを書き、そうすることによって心を過去に送ろうとする。そうすればもしかしたら、忘れてしまったことも思い出せるのかもしれないと期待している。

 

 私は繰り返し同じ戦争について書く。思い出せる全てのことを書いてしまおうとする。大抵は失敗する。それでもたまに、私は埋もれてしまった古い記憶を思い出すことができる。思い出したくない記憶を掘り起こしてしまうこともある。古鷹が私の声に振り向いて笑う。一拍遅れて轟音が響く。那智が怒鳴る。グラーフが私を突き飛ばして前に出ようとする。頭を殴られたように、古鷹の首が傾ぐ。それから彼女は、弾の飛んできた方に猛然と駆け出していく。

 

 だが、もちろんそういう記憶だけが私の中に眠っている訳ではない。基地内の運動場の隅に植えられた木々の間にハンモックを吊るして、思うがままに怠惰を楽しんでいたことがある。そこに響が歩いてやってくると、彼女は暫し私の様子を眺めてから、断りも言わずにハンモックの中に体を滑り込ませてきた。私も追い払ったりはしなかった。風が強い日で、少し肌寒かったからだ。彼女を片手で胸の中に抱き、もう片方の手をハンモックの外へだらりと垂らして、私たちは二人で無言の時間を過ごした。

 

 すると時雨が現れた。彼女は私と響の様子を見て、自分が何をするべきか決めた。そして素早くハンモックに飛び乗り──紐を結びつけていた枝がぼきりと折れて──私たちはみんな仲良く土の上に転がった。その場にいる彼女以外の誰が口を開くよりも早く、時雨が言った。「君たちには失望したよ」私たちはすぐにハンモックをセットし直してまた寝転がったが、その前に時雨を木に縛りつけておくことを忘れなかった。

 

 パラオ泊地の炊事係の計算ミスと需品科のミスが重なって食料が不足し始めた時、私と長門、それからグラーフは提督から特別の命令と外出許可を得て、調達に向かった。徴発はなるべく避けるようにと言われていたが、それは言外に「必要ならそうしろ」という意味を含んだ指示でもあった。私たちはまだ飢えていなかったので理性が勝ったが、これが空腹で三日過ごした後ならどうなっていたかは分からない。私たちは命令書と外出・外泊許可証の他に、購入用の資金や軍票、手に入れた食料を入れる為の大きなバッグを一人に一つ持たされていた。市街地まで来ると、長門が言った。「三方に別れよう。大型艦娘三人は威圧的すぎる」グラーフは長門の冷静な判断に感心して理ありとした。私も賛同したが、付き合いの深さから「これは何かあるな」と勘付いた。そこで長門の提案通りに資金などを三等分し、別れるふりをして彼女を尾行した。

 

 果たして長門は市街地からどんどん出て行き、とうとう山の中に入ってしまった。そして持っていたバッグを下ろすと、中から弓を取り出した。それも、私の弓だった。そして矢は練習用の、通常の矢じりが付いたものだった。長門は弓で猟をして、資金や軍票をちょろまかそうとしていたのである。私は勝手に人の弓と矢を持ち出した彼女の背中に石をぶつけてやってから、そのアイデアに乗ることにした。すると「なるほどな」と声がして、私の背中目掛けて石が飛んできた。グラーフは私がすんなり長門の提案を認めたことを怪しんで、私を尾行していたのだ。資金と軍票はあえなくグラーフに全部没収されてしまい、彼女が買いつけをして私たちが無許可狩猟をするという分担になった。結局この食糧問題は、最後に時雨が陸軍の輸送トラックから食糧を山ほどくすねてくることで片付いた……。

 

 繰り返しになるが、世間の人々が考える戦争と違って、実際の戦争というのは退屈なものだ。私たちは長い長い時間を、持て余した暇をどうにかこうにか潰しながら過ごした。長門は赤錆の浮いたハンドグリップを持っていて、特別やることがなければ、航行中でさえ耳障りな音と共にトレーニングを続けていた。古鷹は少年と交際するようになってから、彼の写真をぼうっと見つめて過ごすことが増えた。グラーフはマイクロサイズのジョーク本を何冊か持っていたが、彼女が私たちに伝える為に読み上げるジョークはほとんど全部面白くなかった。「ほら、彼女はドイツ人だから」と響はそのことについて溜息交じりに言った。「ジョークセンスは期待できないんじゃないかな?」

 

 私の錆びついた記憶は、こういったものが多い。つまり、明確な“出だし”や“終わり”というようなものがないものが、だ。中にはきちんと終わりのあるものも存在するのだが……しかも、私自身の想像力が記憶を純然たるフィクションにしてしまうことまである。その時いなかった誰かを付け加えてしまったり、言わなかったことを言ったことにしてしまったりとだ。たまに私は、自分が間違って覚えていたことを思い出し、その誤った記憶に基づいて書いた作品のことを考えて、罪を犯したような気持ちになる。だけれども、私は戦争について語ろうとしたのであって、自伝やノンフィクション作品を書こうとしたのではない、ということを考えると、それは厳密には罪ではないのかもしれない。問題は罪の意識というものが、それが実際に罪であるかどうかに関わらず人を襲うということだ。

 

 時雨が私の部屋に息せき切って駆け込んでくると、満面の笑顔で言う。「ねえ加賀、いいニュースと悪いニュースがあるんだけどどっちから聞きたい?」「そうね、いいニュースから聞きたいわ」「臨時収入があったんだ。結構とんでもない額だよ。これを使って一緒に豪遊しよう」「悪いニュースは?」「実際に遊ぶまで何年か待っててくれないかなあ。実はちょっとした手違いで、刑務所に行くことになりそうなんだ」「あら、まあ……」「全くそうなんだよ。あら、まあ……なんだ」

 

 洋上の孤島で夜営中、見張り番を終えて休憩中に響に飲まされて酔っ払った長門が、浜に流れ着いていたヲ級の死体から帽子のような艤装を剥ぎ取って、同じく響に飲まされた挙句ぐっすり眠っていたグラーフを(おど)かした時の話。くすくす笑いながら長門はヲ級の帽子を被り、ヲ級の杖を持つと、寝転がっているグラーフの背中側から近づいていって、彼女の服で覆われた背筋を杖先でつっついた。その振動で目を覚ましたグラーフは振り返ると目を見開いて飛び上がり、殴りかかった。彼女が放ったのは夜具に足を取られたせいでややへっぴり腰気味のパンチだったが、それでも長門に尻餅をつかせ、頭の被り物を地面に落とさせるには十分だった。様子を見ていた私と響が声を押し殺して笑っていると、きょとんとしていた長門は口に手を当てて、ぽつりと言った。「歯が折れた」グラーフも笑った。

 

 または、私が那智に「どうしてあなたは、時々まともじゃなくなるの?」と尋ねた時。彼女は腕を組んで考え込んだ。それから静かな態度で、私の質問に答えた。「言いたいことは、分かるとも。貴様の言う通り、まともじゃないということも、な。だが、分かってくれ。私はただ、ある日自分が喉をかき切って死んでいる姿を誰かに見られたくないだけなんだ。分かるだろう、人生を楽しみたいんだ。人生を愛してるんだよ。なのに長い間生きてきて、生きることがつまらない習慣みたいになってしまったんだな……」

 

 あるいは本土の基地に転属した後、何かの任務で基地に来ていた、まだ提督に任じられたばかりのぴかぴか(・・・・)の少佐殿が、私が彼に敬礼しなかったのを咎めた時のこと。私はその時非常に急いでおり、自分の提督や将官ならともかく新入りの少佐殿に敬礼をしている暇はなかったのである。ところがその少佐殿は、私の腕を掴んで止めると「上官には敬礼しろ、艦娘!」ときたものだ。その上、私が改めて敬礼してその場を去ろうとすると彼は「敬礼の仕方がなっていない、練習を見てやる」と言って、敬礼を五十回繰り返せと私に命じた。言われた通りにしながら、権力を振りかざすというサディスティックな快楽に腕組みして耽るこの少佐殿に対し、失礼して顔面に一発お見舞い申し上げるべきかと考えていると、そこに私の提督が現れた。彼女は少佐に状況を説明するように命じ、彼は突然将官が現れたことで慌てながらも事情を述べた。提督は満足そうににんまりと笑うと、少佐殿の肩を叩いてこう告げた。

 

「その調子だ、実によろしい」

 

 それから、こう付け足した。

 

「ところで、上官は敬礼に対して答礼する義務があるのは覚えているだろうな? 五十回? ふうむ、それはいいな。どれ、私が見ていてやろう。どうした? 始めろ」

 

 戦争から二十年が経った。私は日々老いていく。前は走ったところを歩いて済ませるようになり、長い階段を上がる途中では一休みを入れるようになった。だが過去は、その幾らかを忘れてしまっても、あの頃の記憶は……若かった私たちの思い出は色褪せることなく、かえって鮮やかによみがえる。つらかったことも楽しかったことも、悲しかったことや、当時の私自身が最悪の出来事だと考えていたようなことでさえ、今は全ての記憶が愛おしく思える。私が今になっても戦争のことばかりを書くのは、だからこそなのかもしれない。いつか、この記憶さえ失ってしまった時の為の備えとして……。



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08「グラーフ・ツェッペリン」

 グラーフ・ツェッペリンは戦争の全期間中を通して、那智にとっても長門にとっても、最高の遊び相手だった。遊びを邪魔されている時を除けば、二人とも彼女のことが大好きだった。グラーフは二人のせいで気に入らないことが起こると、顔をしかめてドイツ語で叫んだものだ。「フェアダムト!」意味は知らない。あの頃も知らなかったし、今も知らない。本当の話、知りたくない、というのが正直なところだ。だがとにかくその言葉にはケルト的な神秘が込められており、グラーフの低めの声がかもし出す迫力と相まって、聞く者を震え上がらせた。最初の三回ぐらいまでは。艦隊員たちがすんなりそれに慣れてしまったことに気づくと、グラーフは苛立ちを込めた絶望的な叫びを上げた。「フェアダムト!」それは私が彼女のことを思い出す時、絶対に外すことのできないフレーズである。本人がそれをどう思うかは別として……。

 

 彼女がパラオに来たいきさつを説明しよう。南ドイツ出身の正規空母グラーフ・ツェッペリンは、伝統ある日独艦娘交換協定の一環でやってきた。この時には他にも駆逐艦娘Z1(レーベレヒト・マース)、Z3(マックス・シュルツ)、重巡洋艦プリンツ・オイゲンと戦艦ビスマルクなどドイツ海軍の名だたる水上艦娘が日本海軍勢力下の各基地・鎮守府に配属され、日本海軍からは大和型の二人と川内型の三人がドイツに移動した。その後駆逐艦の二人は青森に配属され、プリンツ・オイゲンとビスマルクは横須賀へ送られたが、グラーフだけは国外泊地であるパラオに送られた。理由は今もって分からないが、時として運命というものは道理に合わないようなことを引き起こすものである。何の理由があってか、グラーフはパラオ泊地に配属され──より多くの航空戦力を欲しがっていた私の提督の艦隊に配備されることとなった。

 

 慌てたのは当の提督である。何しろ、移籍して軍籍上は日本海軍所属になっているものの、グラーフは生粋のドイツ人。それも軍の編成上非常に重要な航空母艦だ。沈ませるようなことでもあれば日本海軍とドイツ海軍の間で摩擦が一つ生まれ、提督の軍歴には汚点ができる、と彼は考えたのだろう。艦娘である以上は戦死することも職務の内であるのだが、それでも他所から預かった戦力を減らす(艦娘を沈める)ということは避けたかったのだと思う。しかしだからと言って、彼にはグラーフを遊ばせておく余裕もなかった。第一、交換協定で配属された艦娘の仕事はただ戦うことだけではなく、異なるドクトリンで運用される部隊で新たな技術や視野を手に入れ、本国に持ち帰ることである。出撃させないでいれば、必ずやグラーフ本人が上層部へ訴え出たことだろう。

 

 苦肉の策として、提督は配下の優秀な艦隊にグラーフを任せることにした。ここで肝なのは、「最優秀の艦隊」ではなかったということである。それはつまり、戦闘には出るが常に最も過酷な戦闘に駆り出されるという訳ではないということを意味していた。そしてその艦隊というのが、古鷹が指揮する、私のいた第二艦隊だったのだ。提督が航空戦力を欲しがっていたのはグラーフ着任以前に私と組んでいた空母艦娘が退役した為だったので、この決定は艦隊の運用を見直す必要が最小限で済む、という点でも都合がよかった。

 

 グラーフ着任の二日前、私たち第二艦隊の五人(古鷹、長門、那智、私、響)は提督の執務室に集められ、大まかな話を聞いた。話が終わった後で、私たちは食堂に集まって話し合った。「歓迎会をしないと」と古鷹が言った。響は頷いて「Согласна(賛成だ).」と意見を表明したが、ロシア語が分かる者が誰もいなかったので日本語で言い直さなければならなかった。そして那智と長門の意見は聞くまでもなかったし、四人が賛成した以上、私一人が反対するつもりにもなれなかった。歓迎委員会の議題は次に移った……それは概ねこういうものだった。「さあ、はるばる欧州からやってきたドイツ海軍の艦娘を、どうしてやろうか?」

 

 着任日、同じ空母ということで、私がグラーフをロマン・トメトゥチェル空港に迎えに行くことになった。とは言ったものの、ありがたいことに運転手付きの車を回して貰えたので、私のやったことと言えば空港で彼女と合流して車のところまで連れて行っただけだ。彼女は緊張していたのか車内ではほぼ黙っていた為に、移動時間が退屈だったことを覚えている。基地に戻って彼女が部屋に荷物を置き、流暢な日本語で着任報告を提督に済ませると、私は艦隊員たちに紹介するから、と言って彼女を娯楽室の方へ導いた。グラーフは特に文句も言わずに付いてきたが、娯楽室で何が待ち受けているかもし知ることができていたら、彼女は踵を返して私室に戻っていたことだろう。

 

 娯楽室に近づくにつれて、怒鳴り声が聞こえてきた。私の横を歩いていたグラーフが眉をひそめるのが分かり、私は笑いをこらえた。それは那智がいい加減な、ドイツ語のように聞こえるでたらめを喚いている声だった。彼女は知っている限りのドイツ語を並べ立てた。訓練所で潜水艦の伊八と仲がよかった彼女は、断片的にドイツ語やその単語を教わっていたらしい。私もこの時の那智ぐらいがんばって、正確ではないにせよ再現してみよう。それはこんな感じだった。

 

「ダス・ロッゲンブロート・カプート! フェルトヴェーヴェル・グロッケンシュピール・フェアボーテン! イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー! プロージット!」

 

 部屋に入ると那智は部屋の奥に立って顔の前に「やさしいドイツ語」とマジックペンで書かれたノートを広げており、残りの三人は入り口に背を向けて那智を見ていた。グラーフは戸惑ったことだろう。でも生真面目すぎた彼女には、那智が何を叫んでいるのかも、何故そうしているのかも、どうして自分の艦隊員たちがそんなことをやっている真っ最中に私が彼女を連れ込んだのかも理解できなかった。困惑した彼女は那智の声にかき消されないよう、大き目の声で呼びかけた。

 

「おい、何をやっているのだ、これは?」

 

 その声をきっかけとして、那智がぱっとノートを顔の前から下ろした。黒い紙を小さく切って糊でくっつけただけの模造ちょび髭とかっ(・・)と見開かれた那智の目が露わになり、グラーフが信じられないようなものを見る目でそれを凝視した瞬間、第二艦隊の艦隊員たちは振り返って踵をかつんと打ち合わせると、那智と共に右の平手を斜め上方に突き出し、叫んだ。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

 この後に続く筈だった「第二艦隊へようこそ」という歓迎の言葉を発するよりも先に、私たちは同盟国の歴史に対する敬意不十分を咎められ、出撃時を除いて一週間の営倉入りになった。出たかと思うと、とある重巡と戦艦がグラーフと道や廊下ですれ違う度に「ジーク・ハイル! 今日はいい天気だな、艦載機妖精たちの調子はどうだ? おっと、また後でな、我らが総統万歳!」などと言ってからかったということを理由に、もう二日間入れられた。無論、この際営倉に入れられたのは実行犯たちだけだったが。

 

 こういった暖かい歓迎にも関わらず、グラーフは大きなわだかまりを作ることもなくすぐに艦隊員と打ち解けた。彼女はメルセデスのような曲線美と、そのエンジンのように複雑な心を持った女であると同時に、普段の無骨な言葉遣いがイメージさせる通りの、プロイセン軍人気質の持ち主だった。時間に細かく、規則にうるさく……要するに、那智と長門の天敵だったという訳だ。

 

 けれど、グラーフにとっても二人は天敵だった。というのも彼女は南ドイツのシュヴァーベン地方(片田舎)出身で、その中でも極めて牧歌的な暮らしをしている地域で生まれ育ったからである。こういった地域では、人々は無条件の団結という気風を持つようになる。するとどうなるか? 世間ずれしていない、物知らずの、純朴で信じやすい田舎者ができあがる。

 

 こういうことがあった。計九日間の営倉処分が明けた翌日、私たちはグラーフに「お詫びをしたい」と持ちかけたのだ。基地の外で歓迎会をやり直そう、という具合で誘うと、性根が真っ直ぐな彼女はそれを快く受け入れてくれた。酒を飲むかと那智が聞くと、彼女は恥ずかしげに「いや、実は余り飲んだことがないんだ」と言った。

 

「それじゃあ、私の知っているガールズバーにしよう。男子禁制の女の園だ。その方が気楽だろう」

 

 グラーフは那智の配慮に感謝した。再歓迎会当日の夕方、長門が意味深に「その、なんだ。私たちには用意があるのでな。分かるだろう? 悪いが、そこまでは一人で行ってくれ」と言って地図だけを渡した時も、グラーフは素直に長門へ礼を言った。彼女は慣れないパラオの道をどうにか歩き、どんな心温まる歓迎が待っているのか内心で期待しながら、私たちが教えた店に入っていったことだろう。そしてもちろん私たちはと言えば、基地から一歩も出ていなかったのだ。

 

 彼女が帰って来たのは翌日の早朝だった。私たちは前日付けの許可印が押されたグラーフの外泊届けの写しを持って、パラオ泊地の門のところで彼女を出迎えた。彼女の衣服はボタン一つ取れていなかったが、よれよれになっているという点や、首元のキスマークなんかを見ればかなり可愛がられた(・・・・・・)のは明白だった。グラーフは疲れ果てた目つきで、それでも私たちを精一杯にらみつけると言った。「最近のガールズバーの店員は、みんな同性愛者なのか?」はっはっは、と長門が外泊届けの写しをグラーフに渡しながら、気持ちよく笑って答えた。「そんな訳があるか。改めて第二艦隊にようこそ、歓迎するぞ!」

 

 彼女の苦難の日々はこうして始まった。とはいえみな弁えたもので、洒落にならないことや、取り返しのつかないようなことはしなかった。たとえばグラーフは読書好きで、よく艦隊員の持っている本を借りて読んでいた。パラオの図書館は車でないといけない距離にあったから、新しい本を読むにはその方法しかなかったのだ。しかし本については艦隊で一番の収集家だった古鷹は絶対に自分の部屋から持ち出させなかったので、自然とグラーフは彼女の部屋に入り浸ることになった。私と彼女は古鷹を交えてルールを作り、交代で彼女を訪ねたものだ。蚊帳の外だった長門と那智はいたく寂しがり、自分たちを構わないとどうなるか教えてやることにした。

 

 ある朝、那智と長門は着任から何か月かの記念だとグラーフを丸め込んで目隠しと耳栓をさせると、まずパラオの図書館に車を出して連れて行った。言うまでもなく当初グラーフは彼女たちを信じようとしなかったが、長門が腕組みをして、傷ついた感情を虚勢で隠している、という風を装いながら「私たちはお前を少しでも喜ばせようと頑張っているのに、ところがお前は、それでも私たちがまた騙そうとしていると、そう思うんだな!」と言い放つと簡単に信用した。二人は図書館の奥まった席に腰を下ろし、自分たちの部屋から持ってきた本を開くと、グラーフの目隠しと耳栓を外した。「Wunderbar(素晴らしい)!」彼女は一目見てここがどういう場所であるかを理解し、小さな声で感動を表した。十歳の少女のように瞳を輝かせた彼女は、那智と長門の方を振り返って笑い掛けると、お眼鏡に叶う本を探しに飛び出した。

 

 その間に、那智と長門は彼女たちが図書館内に持ち込んだ荷物の中からサンドイッチやホットドッグ、飲み物、それに陶器のカップを取り出すと、そこがカフェであるかのように軽食をつまみ始めた。戻って来たグラーフは仰天した。彼女は規律という概念そのものに対する反逆に、目を逆立てて怒りながら言った。「アーシュロッホ!(これはなるべく上品に意訳して『この馬鹿者!』ぐらいの意味だ)」彼女は軽食セットを指差した。「ここは図書館だろう、規則違反だぞ!」那智は「そうだ、図書館だぞ」と言い返して、人差し指を口の前に持っていった。「あ、すまない」グラーフは自分の過ちを認めることを躊躇わなかった。長門が「まあ座れ、全部答えてやるから」と言った時も、彼女は相手の話を聞く姿勢を見せた。長門はまるで秘密の協定を話し合うかのように声を潜めて言った。

 

「ここはだな、グラーフ。飲食可なのだ」

 

 再び彼女は驚いたようだった。「いや、しかし……そうなのか? だが──」「カウンターで注文するんだ」と那智が本棚の向こう、司書のいる方を指差した。

 

「試してみろ。考えてみると朝食も抜きでここに来たんだから、貴様も腹が減っているのではないか? 長門、今日のモーニングセットは何だった」

「ホットドッグとコーヒーだ。悪くないぞ。そっちは?」

「ツナと卵のサンドイッチ。一口いるか?」

「よし、交換だ」

 

 空腹の正規空母は口の中に溜まった生唾をごくりと飲み込んだ。「よ、よし」と彼女は決意して言った。

 

「私もサンドイッチを注文してくる」

 

 グラーフはカウンターのところまで行った。艦娘慣れした司書はこの見慣れない艦娘が何を求めているのか聞く為に、彼女へと近寄った。グラーフは自分自身の緊張をほぐす為に、礼儀に適った「失礼」という呼びかけから話を始めた。「サンドイッチとコーヒーを一つ。ミルクだけ、砂糖なしで頼む」司書は目を丸くして答えた。「あなた、ここは図書館ですよ」そう聞かされたグラーフは焦って「すまない」と謝ると、今度は小声でこう言った。「サンドイッチとコーヒー、コーヒーはミルクだけで」

 

 後ろから彼女の様子を眺めていた長門たちは、この見事なブロンド・ジョークの上演に耐えられなかった。彼女たちは大笑いして図書館から追い出され、被害者であるグラーフを除いて以降二度と図書館には入れて貰えなかったとか。

 

 日本語は達者だったが、一般的な習慣などの知識に関しては疎かったのも彼女の騙されやすさを助長した。彼女は提督に見つかって注意を受けるまで那智に教えられた通り、基地の傘立てに置いてある傘は全部共用だと信じていたし、日本では友達同士で手を繋いだり腕を組んだり添い寝をするのは普通のことだと教えた際にも、心配になるほどあっさり信じた。私と長門は「何だろうな、この気持ちは……」と恥らいつつ微笑む彼女を挟むようにして手を繋いで横並びになり、パラオの市街地に出かけた。そして夜になって帰ってくると長門の部屋に布団を敷き、私が「この部屋、夜は蒸し暑いから汗をかくわよ」と吹き込んで薄着にさせると、川の字になって眠った。一方その様子を全部撮影していた那智は、ビデオと写真を横須賀と青森のドイツ艦娘たちに送った。その後彼女たちからグラーフの奔放な振る舞いに対する理解を示した暖かい手紙が届いて私たちの嘘がバレた時にも、グラーフは言ったものだ。「何だろうな、この気持ちは……」と。

 

 大抵の場合、私たちがグラーフをひやひやさせたり、気まずい気持ちにさせたり、あるいは怒らせたりしたが、たまにはそういった諸々(もろもろ)が逆になることもあった。パラオにとある海軍中将が来た時には、まさにそうなった。パラオ泊地の総司令官は、日本本土でも数少ない海外艦娘であるグラーフのいる私たちの第二艦隊を、中将の案内兼護衛役に抜擢したのである。提督は真っ青になって、グラーフ以外の艦隊員たちを中将到着の前々日から度々呼びつけては後生だから真面目にやってくれと頼んだ。私たちはみんな承諾した、というか、流石に基地内で賓客(ひんきゃく)である中将相手に何かしでかすほど人生に()んでいなかったのだ。

 

 中将閣下がお越しになられると、私たちは精力的にあちらこちらを案内し、パラオ泊地所属艦娘たちの様子を見せて回った。彼は極めて深い満足感に浸り、このように精強な艦娘で構成された艦隊ならば、いかなる深海棲艦の攻撃にも打ち勝てることだろうと褒め称えた。古鷹は旗艦としてその言葉への感謝を見せ、総司令官の執務室に彼を連れて行こうとした。そこからは別の艦隊が任務を引き継ぐことになっていたので、私たちは一刻も早く彼をそこに送り届けたかった。

 

 ところが海軍中将は私たちを称える演説を一席ぶったことでお疲れになった。そして一つのプレハブを指し示すと、物腰柔らかに「あの居心地のよさそうな建物で一休みしようじゃないか」と提案した。私たちは何とか彼を説得しようとした。古鷹が言った。「基地司令が首を長くしてお待ちになっていますから」中将は片眉を動かして答えた。「彼の気持ちに配慮しろという訳か。だが、それなら私の疲れにも配慮してくれていいのではないかね?」長門が説明した。「あのプレハブはエアコンもついておりません」「結構。年寄りはエアコンが嫌いなんだ」私や那智、響の説得にも彼は耳を貸そうとせず、とうとう憤激して言った。

 

「君らにはどうしても私をあそこで休ませたくない理由でもあるのか? それとも見られると困るものでもあるというのかね!」

 

 するとグラーフが、すっと前に出た。その動きの余りの凛々しさに、中将も怒りを忘れて注目した。彼女が流れるような動作でドイツ海軍流の敬礼を行った時も、中将は答礼を忘れかけていたほどだ。彼女はきっぱりとした断定的な口調で発言した。「閣下、閣下はあの中でお休みにはなれません」「どういう理由でだね?」「あれは女子トイレであります、閣下」

 

 いたたまれない空気が流れた。私たちは固唾(かたず)()んで成り行きを見守った。中将は暫く靴の先で地面をいじっていたが、やがて基地司令の執務室の方に向きを変えると、「では、行こうか」と呟いた。その日からというもの、グラーフはパラオ泊地に所属するほぼ全ての艦娘から畏敬の視線を向けられるようになった。

 

 ところで、私が好きな彼女の美点が一つある。彼女は那智と長門に容赦しなかったが、常に分別を持っていた。彼女は艦隊員の仲間や艦娘同士以外には、たとえ手ひどい侮辱を受けた時すらも極めて忍耐強く接したのである。私や古鷹はそんな時、無礼な余所者には寛容なこの正規空母よりも、いつもあれだけ彼女をおちょくっている那智と長門を抑えることに腐心しなければならなかった。でなければ、二人はその場をパーティー会場に変えてしまうからだ。それも、血の流れるタイプのパーティーである。

 

 私や古鷹が彼女たちの近くにいない時に、一度こういうことがあった。珍しく那智、長門、グラーフの三人で飲みに行くことになり、第二艦隊がよく使う居酒屋に入ろうとしたところ満席だったので、初めての店に入ったのだ。その店の連中は艦娘には慣れていたが(泊地周辺の店なのだから当たり前だ)、海外艦を見た経験は皆無だった。たちまち、ドイツから来た正規空母は酔っ払った連中の格好の話題になった。それだけなら平和なものだったが、やがて卑猥な言葉が囁かれるようになり、当てこすりと大差ない冗談が山ほど飛び交った。その中には際どいものだけでなく、限度を大幅に超えたものが幾つも含まれていた。グラーフが至って平気な顔を保っていなかったり、気を利かせた店員の一人が電話で古鷹に連絡してくれていなければ、どうなっていたことか。古鷹が三人を連れ出した時、長門の顔は酒でなく怒りのせいで真っ赤になっていたのだ。

 

 この子供っぽい大戦艦はやたら興奮し、とうとうグラーフ本人にまで噛みついた。「悔しくないのか?」「言わせておけばいいさ」「そうか、それじゃあお前は、もし私が侮辱されていても知らんぷりを決め込むんだな?」グラーフは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、馬鹿げた質問にまともに答える気はないということを一言で示した。「アーシュロッホ!」

 

 彼女のことで思い出すことはまだまだある。たとえば、グラーフはドイツから自動拳銃一丁とその弾薬一箱を持ち込んでいた。これは彼女がルールを破った数少ない例の一つだった。ドイツの規則ではどうなのか知らないが、日本の規則ではそれは明白かつ重大な違反だったからだ。誰もそのことを通報しなかったのは、彼女が交換協定で来た艦娘だったからというのと、砲や魚雷や爆弾を扱う艦娘が今更豆鉄砲をこっそり持っていたところで何だというのだ、という意識が働いていたからに過ぎない。グラーフはそれを「もしもの時の備え」だと言った。その時が来たら、彼女は通常兵器による攻撃も有効である眼部に一発撃ち込んで、楽になるつもりだった。何人かの艦娘は「そんなことをしなくても死ぬ時は深海棲艦がきっちり殺してくれる」と言ったが、私には何となくグラーフの気持ちが分かる気がする。彼女は捻くれた形でだが、安心を求めていたのだろう。耐えがたい苦しみの中でゆっくりと死んでいくようなことは起こらないのだ、と。

 

 さて、話をもうちょっと明るいものに変えよう。先に述べた通り気難しくて真面目な人物だったが、グラーフはジョークを解さない堅物ではなかった。これは「ジョークを言うセンスはなかったが、聞いて理解する分には問題なかった」という意味の迂遠な表現である。たまに彼女が冗談を口にすると、場が白けるか喧嘩の引き金になるかのどちらかだった。そのことは本人も痛いほど理解していたので、彼女は艦隊員たち以外の人物がいると、滅多にジョークを言わなかった。それでもごく稀に他の人々の前でうっかり口にしてしまって、悲しい結果を招くこともあった。

 

 米国海兵隊所属の艦娘部隊と合同で大規模作戦を行った時のことだ。むかつくことに深海棲艦が一枚上手で、私たちはこてんぱんにやられた。米国側に文句を言うつもりはない。海兵隊の艦娘たちは精強で、よく統率されており、苦しい状況でも勇敢に戦った。そのことは彼女たちの損耗率や確認戦果が証明している。一方の日本海軍だって、かなりの敵を水底に沈めた──私たちはどっちもよくやったのだ。それでも負けたのは、単に、敵がもっとよくやったからだった。

 

 作戦が失敗に終わった後、ぼろぼろになって帰ってきた艦娘たちは、負傷程度のひどいものから順番に入渠した。米軍も日本軍も一緒くたにだ。運よく軽傷で済むか、軽傷ではないが重傷でもないと判断された不運な者は、野戦病院と化した食堂や運動場で待機を命じられた。みんな疲れきっていた。私は体中に敵航空機の機銃弾を受けていた。那智は下あごを吹き飛ばされていたが、入渠順を他の者に譲って止血処置だけで済ませていた。長門は脇腹を敵重巡の砲弾に抉られていた。古鷹は砲弾の破片で左目を失い、右手の指が全部なくなっていた。無傷なのは響とグラーフだけだったが、厳密に言えば響は至近距離に着弾した砲弾の衝撃で軽い脳震盪(のうしんとう)を起こしていた。

 

 こういうシチュエーションでは、多くの艦娘が「自分だけが何の被害もなく帰ってきた」ということに罪悪感を覚える。自分が十分に懸命に戦わなかったから負傷しなかったのだ、仲間にその分のしわ寄せが行ったのだ、などと考えてしまう。軽度なサバイバーズ・ギルトみたいなものだ。それは彼女に責任を感じさせる。どうにかしてその罪をあがなわなければいけない、と誤解させる。実際には彼女には責任なんてないし、現場の艦娘たちが置かれている苦境を打開する為に何かしなければいけないのは、彼女よりも上の人々、提督やその更に上にいる人々であって、一艦娘が自発的に行わなければいけない義務や責務など一つたりともあり得ないのだ。

 

 グラーフはそのことを理解していなかったのか、知っていてもなおそうせずにはいられなかったのか、私たちを励まそうとした。それだけならよかった。けれど、彼女は手段として最悪のものを選んでしまった。苦手な冗談である。気絶しかけていた私の肩を揺さぶって起こすと、彼女は切羽詰った顔で言った。「海兵隊(Marine)が何の略か知っているか?」この手のジョークは那智が好きでよく考えたり言ったりしていたので、グラーフも彼女から聞いたのだろう。そこまでは思考力が続いたが、バクロニム・ジョークは攻撃的なものが多いということに気づくには、余りに体力を消耗していた。

 

「『Muscle Are Required(要筋肉)Intelligence Not Essential(知性不要)』だそうだ。どうだ、面白いか?」

 

 幸い、滑ったジョークに怒るには海兵隊所属の艦娘たちも疲れすぎていた。私はその僥倖に小さく微笑んで、ずたずたの左腕より動かしやすかった右腕をどうにか持ち上げると、人差し指でグラーフの上唇を押し下げ、黙らせようとした。それでも彼女は続けてアイオワ州に関するネタを言おうとしたが、丁度彼女の横に戦艦アイオワがいたので、流石に途中でやめた。私たちはほっとして胸を撫で下ろした……。

 

 第二艦隊とグラーフ・ツェッペリンとの別れは唐突なものになった。私たちはすっかり忘れてしまっていたが、交換の期限が来たのである。それが古鷹が轟沈する悲劇の直後だったこともあって、余計に悲しかった。古鷹に続いて彼女までが艦隊を去ってしまうとは! 提督からそのことを伝えられた後、泣きっ面に蜂なんて言葉も思い浮かばないほど、私と那智、長門は打ちひしがれた。響だけはいつものように冷静だったが、内心でどうだったのかまでは分からない。私たちの深い悲しみを見て、グラーフはまたしても先走った。提督に掛け合って、予定より一日早くパラオを去ることにしたのだ。私がそのことに気づいた頃には、既にグラーフ・ツェッペリンは基地を出ていた。私は外出許可も取らずに基地から抜け出すと、タクシーを強引に止めて海港へ向かった。帰る時には来る時と違って海路を使うと聞いていたからである。

 

 運転手は私の様子を見てただならぬ事態と認識したのか、かなり素早く目的地まで送り届けてくれた。しかし、彼女の姿はもう水平線の向こう側に消えた後だった。私は胸の痛みと共に立ち尽くして、恨みがましく空と海の境界をにらみつけながら、拳を固く握り締めていることしかできなかった。

 

 その時だ、絶え間なく打ち寄せる波の音を越え、海鳥の鳴き声に混じって、轟くようなあの低く凛々しい声が確かに聞こえてきたのは。

 

「フェアダムト! アーシュロッホ!」



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09「“敵”」

 上の娘が六歳の時に、私の書いたものが掲載されている雑誌を読んだ。正確には、私の名前を見つけたので、私の作品だけ見たらしい。読めない漢字も多かっただろうが、何となく書いてあることを察することはできたのだろう。彼女は雑誌を持って母親の部屋にやって来ると、ソファーに座ってゆっくりしていた私の膝に上がり、背中を母親の胸に預けてこう尋ねた。「ねえ、お母さんは戦争に行ったの?」私は簡単に答えた。「行ったわ」彼女はちょっとだけ考え込むと、恐る恐る、特定の答えを期待するような声でもう一つ質問をした。「じゃあ、人を殺したの?」

 

 私は、三つの点でその問い掛けを誇らしく思った。まず、彼女はまともな倫理観を持っている。それから、恐れながらでも真実を知ろうとする意志がある。最後に、私が行った戦争で殺し合っていたのは、同じ人類だと思っている。彼女にとって深海棲艦は奇妙な隣人程度の存在であって、殺し合う相手ではないのだ。そういう時代になった、ということなのだろう。まだ大したことを知らない幼い子供たちが、戦争とは同族同士の殺し合いであると認識している時代というのが誇らしいものなのかどうか、考えてみると謎ではあるが。でも、私たちがあの時代を過去の歴史にしてしまった、ということは誇ってもいい筈だ。

 

 脇の下に手を入れて体を持ち上げ、くるりとこちらに正面を向けさせると、娘は緊張した面持ちで私を見ていた。だから私はできるだけ優しく微笑み、彼女の頭を撫でると「まさか」と答えた。彼女は自分の母親が人殺しでなかったことに、喜んだようだった。

 

 あるいは私は答えるべきでなかったのかもしれない。あるいは私は「ええ、殺したわよ」と言うべきだったのかもしれない。あるいは私は、全く違うことを言うべきだったのかもしれない。今となってはもう遅い。私が嘘を言ったことは変わらない。だから、ああ、そうだ。つまり──娘の危惧は正しかった。残念ながら、あなたのお母さんは人殺しだ。それは戦後、深海棲艦に人権が与えられ、彼女たちが人間として扱われるようになったから、ではない。私は一人、艦娘を殺した。それが真実だ。私のせいで戦死してしまった、なんて話でもない。私が、私の手で、殺した。

 

 これについて、私は免責されている。現行の法律では深海棲艦に対して友好的であっても罪に問われることはない。彼女たちとコミュニケーションを取ることで争いを避けられる、と主張しても、誰もそのことを責めたりしない。何を当たり前のことを、と変な目で見られることはあるかもしれないが、犯罪者を見る目で見られることはない。

 

 昔は違った。もしあなたが深海棲艦との講和の可能性を外で口にしようとするなら、人生を棒に振る覚悟が必要だった。あなたのところにはすぐに官憲からの訪問者が行っただろうし、抵抗すれば身の安全の保証はされなかった。抵抗しなくても無事に帰れない人の方が多かった。そういう時代だった。今とは全く認識が異なっていたのだ。そう、私がその時殺したのは、深海棲艦と手を結ぶことにして軍を脱走した艦娘であり……いわゆる“融和派”と呼ばれたグループの一員だったのである。

 

 古鷹が戦死し、グラーフ・ツェッペリンが祖国に帰った後、私の第二艦隊は長門が臨時の旗艦となって戦闘や遠征以外の任務をこなすようになった。偵察や監視だ。那智と長門、私と響の二組に分かれて、島嶼地帯の島々に密かに設置された監視ポストに引きこもって、艦載機で敵の動きを調べては暗号通信で基地に連絡するのがその内容だった。退屈で、暇な仕事だ。一週間に一度基地に戻るまで、風呂にも入れない。シャワーもない。濡らした手拭いで体を拭くのが精一杯だ。おまけにもし敵がこちらの位置に気付いたら、最優先攻撃目標にされる。敵の目と耳を潰すのは戦争の常道だからだ。そして私たちにはそこから逃げる手立てがない。気付かれたと分かった時には手遅れなのだ。この時私の航空隊に配備されていたのは艦上偵察機が主で、それ以外は艦上戦闘機が少しいるだけだった。念の為に副砲も装備していたが、それ一つで敵艦隊を撃滅できるほど私は強くなかった。響もだ。

 

 私たちはじっとして過ごした。水を飲み、食事をし、時々野外便所に行き、また水を飲み、食事し、転属したいと愚痴を漏らし、長門たちは今頃何をしているだろうかと考え、グラーフが無事にドイツに着いているといいがと話し合った。食事が携帯口糧ばかりで味気ないので、石を投げて二、三羽のほどほどな大きさの鳥を捕まえ、焼いて食べたりもした。以前、似たようなことがあった時に時雨がくれたアドバイスのお陰で、私の作った焼き鳥は響に好評だった。「いいかい」と、時雨は打ち明け話をするように顔を寄せて私に言ったものだ。

 

「鳥を焼く時は必ず、枝を削って作った串を使わなきゃいけない。面倒くさがって鉄串なんか持っていっちゃ全部台無しさ、バーベキューするんじゃないんだから。それから、きちんと味を見ること。鳥のじゃなくて、枝を噛んでその味を確かめるんだ。分かったね? 忘れちゃいけないよ……」

 

 昼も夜も私は偵察機を飛ばし、妖精飛行士の報告を分析して基地に送り続けた。有力な敵の遊撃部隊がこの海域にいることは分かっていたが、具体的な位置はまだ分かっていなかった。私たちの監視・偵察任務はその艦隊を発見する為のものだったのだ。

 

 監視任務に就いてから三週間目、一時帰投の前日に、私と響は別の島にある監視ポストに移動することにした。そっちの方がパラオ泊地に少しだけ近かったのと、いつまでも一つの監視ポストにいると発見される確率がどんどん上がっていくからだ。私たちは宵闇に紛れて移動した。浜に上がり、山の中腹に設置された拠点に転がり込むと、交代で海上を監視した。明け方、航空機の運用が可能になると、ただちに私は偵察機を発艦させて響と二人で休憩を取った。私たちは二人とも、体も心も酷使されて、摩耗しきっていた。

 

 昼頃に目を覚ました私たちは、もう一、二時間もすれば偵察機が帰ってくる時間だと考えた。そこで妖精たちが帰って来る前に、食事の用意をしようかということになった。私はぶつけるのに手頃な石を持ち、大きくて邪魔になる弓と矢だけは置いて監視拠点を出た。少し強い雨が降っていたことを覚えている。空を分厚い雲が覆っていたせいで、世界に青か灰色の薄いフィルターが掛かってしまったかのようだった。その他にも足元がぬかるむことや偵察機の視界が制限されるという欠点はあったが、鳥が無闇に飛び回ることがないという点では、これは好都合とも考えられた。

 

 鳥の姿を探して雨の降る山の中を歩いていると、響が私の腰を軽く叩いた。鳥を見つけたのかと思ったが、彼女は首を振って手振りで伏せるように示した。私はつべこべ言わずに従った。何もなければ泥だらけになって、笑い話で済む。何かあれば? 二度と笑えなくなるかもしれない。私たちは茂みの中で伏せて、息を殺して待った。すると雨が木々や枝葉を叩く音に混じって、がさがさという何かの動く音が聞こえてきた。犬か? 猫か? 猪その他の野生動物だろうか? 砲で片付く相手なら、最悪の場合発砲して始末したら、一目散にパラオ泊地へと逃げればいい。私は心臓の鼓動をやけに大きく感じながら、次にどう動けばいいかを考えた。監視任務の規定では一度でも発砲したら逃げることになっていたから、撤退することに躊躇いはなかった。

 

 伏せてから数分が経ったが、まだ物音は消えなかった。私はここから離れるべきか、それとも静かに身を潜めて、物音の発生源が何処かに行ってしまうのを待つべきか迷った。すると響がそろそろと動き出した。私は焦ったが、彼女の後を追って茂みの中を這いずり進んだ。彼女は邪魔な魚雷発射管を艤装から取り外してから、ぐるりと回り込むように這って行き、ある地点で動きを止めた。私は彼女の横に並んで、茂みの隙間から何が音を立てていたのか確かめた。

 

 そこにいたのは、ノースリーブのセーラー服を着て赤いスカートを履き、明るめの茶髪に白いヘアバンドを身につけた艦娘、軽巡名取だった。すっかり雨に濡れ、温まる為に火を起こそうとしていた。がさがさしていたのは、燃料になりそうなものを探していたようだ。茂みの下になら、まだ雨に濡れていない枯葉や枝が見つかるかもしれないと思ったのだろう。彼女は懐から取り出した固形燃料の助けもあって、じきに火を起こすことができた。彼女は艤装を下ろして火から遠い木の下に置き、濡れた体を温めようとし始めた。私と響は目配せをして、魚雷発射管のところまで戻って装備を回収すると、回り込んだ時と同程度のろのろと後退した。そしてもうこちらの動く音を聞かれずに済むと確信すると、立ち上がって監視ポストに走った。近辺で名取を含む艦隊と連絡が取れなくなったりしていないか、聞く為にだ。

 

 思いつく限りの質問を投げかけたが、答えはどれに対しても芳しくないものだった。それはさっきの彼女が、脱走兵であるということを意味していた。そしてかなりの場合、艦娘で脱走兵であるということは、そのまま深海棲艦融和派であるということだった。私たちは決断を迫られた。道は四つだ。一、名取を射殺し、撤退する。二、名取を捕まえてパラオに連れ帰る。三、名取が何処かに行くまで待つ。四、名取を置いて撤退する。四番は私たちまで内通を疑われかねなかった。その次に穏やかな解決方法である三番は、単純に無理だった。偵察機は間もなく戻ってくる筈だったからだ。名取がまだ島にいるのに戻ってきたら、彼女は私たちの存在に気づく。連絡すればもう少しの間だけ遠くで待機していて貰うことはできただろうが、その間に敵に、特に空母系に見つかったら終わりだ。もし敵機から逃げ切れたとしても、燃料切れで帰ってこれなくなる。

 

 では名取を捕まえるか? 彼女が無線で周囲にいるかもしれない彼女の御同輩その他に支援要請を送るより早く無力化できるか? ここにいるのが長門と那智なら間違いなくできたことだろう。だが、私にはその自信がなかった。

 

 偵察機が戻ってくる前に殺すしかない、と私は考えた。響に彼女の意見を尋ねると、数秒で同等の結論に至った。パラオ泊地にそう連絡すると少し経ってから、仮に名取が脱走兵でなかったとしても、私と響は免責される旨が伝えられた。けれども、そんなことで気が楽になることはなかった。私と魚雷発射管を置いた響は監視所から出発したが、これから艦娘を撃つのだと思うと、どうしても私の意志は鈍りそうになった。その度に私は、名取を生かしておけば自分が死ぬかもしれないのだ、いや、自分だけでなく掛け替えのない戦友である響までもが死んでしまうかもしれないのだと己に言い聞かせて、この恐ろしい行為を正当化しようとした。私たちは降り続く雨の中を無言で進んだが、足取りは重かった。まるで両足ともが鉛になったかのようだった。流石にそんなことはないとは思うが、這って進んだ時の方が早かったかもしれない。

 

 名取はまだ焚き火のところにいた。私たちは彼女の背後から匍匐(ほふく)前進で近づいた。かすかに、ぱちぱちと焚き火の中で何かが爆ぜる音がした。二十メートルほど離れたところで、私は止まった。急に、それ以上近づくと見つかるのではないかという恐怖に襲われたからだ。私の後ろから付いてきていた響はそんなものを感じてはいない様子だったが、心優しい彼女は戦友を置いて行きはしなかった。私は姿勢を膝立ちに変え、木々と草葉の合間に見える名取の背中に向けて副砲を構えたが、どんなに努力しても、撃った弾が目標を貫く光景を思い描くことができず、発砲に踏み切れないでいた。響は小声で私にどうしたのかと尋ねたが、やがて彼女は返事も動きもないことに痺れを切らして、彼女にしては冷静さを欠いた乱暴な動作で前に出ようとした。隠れていた茂みががさりと大きく鳴り、私は咄嗟に伏せた。

 

 名取の背中がびくりと跳ねると、彼女は手元へと置き場を変えていた十四センチ単装砲を素早く右手に掴んで振り返った。左手には湯気の立つステンレス製の蛇腹カップが握られており、大きく呼吸をするとほんの僅かにコーヒーの香りがした。コーヒーを飲んでいたのだ。彼女はコーヒーを飲んでいたのだ。それは、私たちや私たちの友人が基地で一休みをしている時にするのと、全く同一のことのように思えた。ほら、今の今まで彼女はコーヒーを飲んでいたのだ! 私は驚いて、横に転がっている響の肩をぎゅっと握った。そこには生活というものがあった。それも突然現れたのだ。それまで私たちにとって融和派とは身近な存在ではなかった。そういった連中はニュースや新聞で見るものであって、触れ合えそうなほどの距離に近づける相手ではなかったからだ。私たちはそういう人々が実際に存在するということは知っていたが、それが生きている者だと、命ある存在なのだと理解していなかった。この時まで、その存在は純然とした概念でしかなかったのだ。

 

 敵だ、人類の裏切り者だ、深海棲艦の手先に堕ちた融和派の艦娘だ! それが私たちの目と鼻の先にいた。そしてそこでさっきまで落ち着いて、温まって、コーヒーを飲んでいたのだ。私は彼女たちがそういうことをする様子を思い浮かべたことがなかった。そのせいで、何故かそれが奇妙なことのように思えた。コーヒーを飲むなんて! 私たちがやるのと変わらないことをするなんて! しかし、そうしてはいけないという法があるとでも言うのだろうか? 人類を裏切ったとしても、喉が渇くことぐらいあるだろう。当然のことだった。私は最早、ほとんど喜劇を見るかのように面白がり始めていた。私は胸が痛くなるほどの感動と興奮に震えつつ、こう考えていた──名取は空腹になれば食事をし、喉が渇けば飲み物を飲み、眠くなれば寝て、催せば用を足すのだろう。私たちがそうするように。

 

 名取はさっきまでいたところから何歩かこちらへ進んできていたので、私は茂みの中から彼女の目を覗き込むことさえできた。泥で汚れた指で触ったのか、彼女の頬や額には黒い筋がうっすらと付いていた。疲れた顔で、目の下は腫れぼったくなっていた。それが彼女の外見年齢を、十歳も二十歳も引き上げていた。

 

 私は十五歳で海軍に入り、自分の戦争を始めた。この名取と出会った時、私が艦娘になってからはもう二年以上経っていた。それだけの年数を艦娘でいると、人間は戦争という状況に慣れ、その中で生きていく為の精神構造とでも言うべきものを獲得する。近づいてくる敵を前にして、私の中から感情と理性の両方が消えた。伏せたまま副砲を構え直し、名取の腰の辺りに狙いを定めた。私は頭の中で十からのカウントダウンを始めた。それが終わった時、発砲しようと決めていた。名取は音を立てた何かを探しているのか、棒立ちのままだった。さっきとは打って変わって、外すとは思えなかった。私の撃った弾は名取を必ず殺すだろうという確信があった。

 

 四つ目のカウントで、名取は右手で構えていた砲を下ろした。そして自分の度を越した警戒を恥じるように微笑むと、左手に持っていたコーヒーの入ったカップを口元に持って行き、一口すすった。私はそれを見て、そのカップから上る湯気を見て、私も暖かい飲み物が欲しいな、と思ってしまった。雨に濡れて体は冷え切っていたし、喉もやたらと渇いていた。そういうことに気が行くと、途端に私は自分が今、何をしようとしているかを意識してしまった。私は同じ人間を殺そうとしているのだと、私が狙いを定め、私が引き金を引いて、私が殺そうとしているのだ、と。

 

 響と違って、私には比較的選択の自由があった。艦娘になるかどうかは、本人の適性と志願で決まるものだ。私には適性があり、そして志願するかどうかの選択権があった。私の地元は「適性がある女子は全て志願するべし」という気風の土地だったが、それでもそうしたくなければ志願しないという決断をすることもできたのだ。その選択は多くの人々を失望させただろうが、道がなかった訳ではないのだ。だが私は、内心はどうあれ、志願した。あの戦争に参加した。従ってこの時、私は何の迷いもなく発砲するべきだった。遠回しな射殺命令も出ていたのだから、何を恐れる必要もなかったのである。ところが、私は撃つのではなく、何故自分が撃たないでいるのかを考えていた。

 

 私は何度も何度も海に出て戦った。深海棲艦を何隻も沈めた。だから、連中の仲間と言ってもいい存在である融和派や、私たちを裏切って逃げ出した脱走兵を撃つことは筋の通った自然な成り行きだった。私には撃つ権利があり、それはまた同時に義務でもあった。でなければ、艦娘というのが何の為にいるのか、分からなくなるではないか。私は撃つべきだった。撃たなければならなかった。でもそうする代わりに、私は落ち着いて思考を繰り広げていた。目前十数メートルのところに撃つべき相手がいて、こちらは砲を構えていたというのに。それは撃てば当たる距離だった。反撃を受けることなく全てを終わらせることができた。名取は死ぬだろう。彼女の命は私が握っていた。一人の人間の命……そうだ、私の前にいたのは顔のない漠然とした“敵”という概念でもなければ、深海棲艦でもなかった。彼女は人間だった。私は人間の命を奪おうとしていた。人間の命を! 私や響と変わらない人間の命を!

 

 私には、もうそれを戦争の中で起こる普通の出来事として捉えられなくなっていた。これは殺人だ(・・・・・・)、と私は考えた。戦争ではなく、治安の悪い路地裏を歩く不注意な人間を後ろから刺すのと同質のことだと思えた。それは罪だった。拭い去ることのできない大罪だ。私は砲を下ろそうとした。何とか殺さずに生きたまま捕まえる方法を考えようとした。私は彼女を救いたかった。

 

 だがその時、偵察機が戻ってきた。私は妖精たちに連絡し忘れていたのだ。プロペラ音を聞きつけた名取が、大きく体を動かした。その動きに、私の精神ではなく肉体が反応した。十五.五センチ三連装副砲から放たれた一発の砲弾が、名取の胸に当たった。彼女は映画のようにもんどりうって倒れるようなこともなく、かといって後ろに倒れそうになって踏み留まる、ということもなく、ただあっさりとその場所に崩れ落ちた。

 

 「お見事」と響が言った。



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10「妙高型重巡:那智」

 那智は面白い経歴の持ち主だった。彼女の生まれは千葉で、育ったのは兵庫、訓練を受けたのは長崎の佐世保、その後書類のミスで二ヶ月だけ択捉島の単冠湾泊地に送られ、最後にパラオ泊地にやってきた。日本を縦断した末に、国外に出て行った訳だ。その経験から、彼女はかなり顔が広かった。ひっきりなしに手紙を受け取っていたし、それと同じぐらい頻繁に返事を出していた。昨日は千葉の親戚に、今日は兵庫の古馴染みに、明日は佐世保で訓練を共にした同期に、明後日は単冠湾で知り合った先任艦娘に、といった具合だった。彼女は筆まめで、しかも彼女の書く字はお手本のように綺麗だった。何でも中高生の頃、習字をやっていたのだとかで、パラオで私たちを指揮した提督は執務室に那智の手による『パラオ泊地』掛け軸を飾っていたほどだ。

 

 ところで日本人という人々には不思議なところがあって、字が綺麗だと人間性についても保証されているような気分になってしまうのだが、那智はその反例として取り上げるに相応しい人物だろう。彼女は長門と同じか、それ以上に問題児だったからだ。私よりも七つ上だったにも関わらず、である。私の七つ上ということは、つまり長門にとってみれば八つ年上だったことになる。長門がやっと人間らしく言語を操り始めた時分には、那智は既に小学校を卒業するかしないかという年頃だったのだ。そんな年の離れた女二人が、親友同士としてパラオ泊地に悪名を轟かせることになるとは、一体何処の誰が予想できただろうか。しかし事実としてそれはそうなったのである。

 

 那智は二十二歳で海軍に入隊した。これは当時としては極めて一般的でないことだった。普通は十五歳ですぐ入隊するか、遅くとも響のように十八歳で高校を出てから入隊するものであり、艦娘適性のある女性にとって大学に進学するということは入隊しないという意思表示とほとんどイコールで結ばれた行為だったからだ。このことについて尋ねた時、那智はあっけらかんと言ったものである。

 

「戦争が終わった後、大卒の方が就職に有利だろう? いつまでも海軍にいるという訳にはいかないし……」

 

 それを聞いて、中卒だった私と長門は彼女が取らぬ狸の皮算用をしていると言って笑い飛ばした。「それで、戦争はいつ終わるって?」と長門はにやにやしながら訊いた。那智は気分を害したりすることなく言い返した。「知らんよ、だが祭日だろうな」彼女がそう考える理由を知りたくて、私は口を挟んだ。「どうして祭日なの?」「そりゃ、その日が終戦記念日になるからさ」私はその言葉を聞いて二回笑った。最初は彼女の言葉を理解した時。そして二回目は、彼女の言ったことが実現した時だ。

 

 彼女はその所業から、周りにいい加減な奴だと思われていた。けれど実際は、プロの軍人として自分の体を知り尽くしており、己の肉体をどう動かせば求める結果が得られるか、完全に把握していた。私はパラオ時代の、こんなことを覚えている。日本海軍の正規空母艦娘の多くは弓を使って艦載機を発艦するのだが、その為の訓練には弓道が取り入れられていて、私も訓練所時代からずっと自己鍛錬の一環として弓道に取り組んでいた。日本海軍の鎮守府、基地、泊地などには必ず弓道場が設置され、弓を使う空母艦娘たちはそこで訓練したものである。ある日私がいつものように訓練していると、弓道場に那智が入ってきた。腰にナイフを下げて、だ。

 

 言っておくと、ナイフというものが艦娘の正式な装備に含まれたことはない。天龍型の刀や薙刀、叢雲の槍など近接武器を正式に供与されている艦娘はいるが、彼女たちすら実際にその装備を使って敵と交戦することは滅多にない。艦娘の戦闘の基本は砲戦であって、砲で撃ち合っている時に刃物は役に立たないからだ。だが那智は「備えよ常に」という確固たる考えの持ち主であり、パラオにいた頃から必ず出撃にはナイフを持っていったし、本土に転属した後はそこの明石に頼んでわざわざ特注のナイフを何本も作らせていた。一時期など、出撃時でなくともナイフをぶら下げてその辺をうろついていたので、新入りの艦娘たちを無闇に怖がらせる結果になったりしたことさえある。艦娘「那智」は決して目つきのいい方ではないというのも、その傾向に拍車をかけたことだろう。

 

 弓道場に入ってきた彼女は邪魔にならないよう私の後ろに腰を下ろすと、大人しく訓練を見ていた。でも私がそろそろ訓練を終えよう、と考えて弓を片付けようとすると、那智は自分も弓を引いてみたいと言い出した。反対する理由はなかった。その時には運よく他の空母もいなかったし、訓練をやめた後で何かしなければいけない用事があるのでもなかったからだ。どうせ本気で弓道をやってみたいのでもないだろう、と考えた私は、基礎の基礎だけ教えて射掛けさせてみた。そうすると驚いたことに、那智は初めてとは思えないほどよく()てた。「すごいわ」と私が褒めると、彼女は私の射を見ていて、それを真似したのだと言った。「お手本がよかったんだな」それとあなたのセンスもね、と私は本当のところを付け加えておいた。

 

 パラオ泊地から本土に転属した後、右腕を失って艦隊を去った那智は艦娘の訓練教官になった。そこで彼女は、一人の有望な教え子に目をつけて鍛え上げた。後で聞いたことだが、初めて見た時は(あお)(ちろ)いもやしっ子が、と思えてちっとも気に入らなかったらしい。だがそのもやしっ子は予想を裏切って那智のしごきによく耐え、彼女自身が太鼓判を押すほどのよい艦娘へと育った。後には復帰した那智の旗艦を務めたのだから、教官としてはさぞ鼻高々だったことだろう。しかし私が残念なのは、彼女はその艦娘や他の教え子たちの前では、パラオ泊地時代などに彼女がやった様々な悪行のことを決して口にしなかった、ということだ。まるで私たちと共に過ごしたあの日々を、ないがしろにしているようではないか?

 

 と、いう訳で、この章に入る前にも既に幾つか暴露させて貰ったが、それに加えてもう一つ二つ、特にどうしようもない話を晒してしまうことにしよう。どちらも臭くて、品がなくて、情けない話だ。

 

 やや記憶が定かではないが、このエピソードに登場する人物から推察して、これは本土基地に移ってからのことだったように思う。那智はいつものようにろくでもないことをやり、罰則を食らった。これについても何をやったのかよく覚えていないけれど、因縁のある演習相手の艤装に“仕込み”をしたとか、男子トイレに放送室の音響機器とリンクさせた無線マイクを仕掛けて基地中に誰かの排尿音声をライブ中継したとか、「やってみたらどうなるか確かめてみる」為だけに零式水上観測機に肉抜きその他の非公式な改造を施す実験を行ったりしたとか、多分そんな類のことだろう。とにかく那智はお遊びの代償に一ヶ月もの長きに渡って続く罰を受けなければならなかった。それは基地に設置された仮設トイレの糞尿処理だった。私が知る限り一番汚くて、きつい仕事だ。

 

 この時基地にあった仮設トイレの仕組みは簡単なもので、薄い組み立て式の壁に覆われた個室の中に粗末な作りの便座があって、その下には半分に切ったドラム缶が置いてあるだけのものだった。缶の中身が溜まると誰かがそれをトイレの下から引っ張り出して、燃料を入れてから軽くかき回し、火のついた古新聞を投げ込んで、中身がからからになるまで更にかき回し続けなければいけなかった。それから指定の場所に中身入りのドラム缶を運び、もう一人の運のない誰かに後の処理を任せて、新しく空っぽの清らかなドラム缶を運んでセットして、やっとトイレ一つ分の処理が終わるのだった。そしてその仮設トイレというのが、一つ二つではなかったのである。

 

 これは大変な作業だった。焼く前の中身入りドラム缶は重いし、臭いは鼻の奥までこびりつくし、煤で手といい顔といい黒ずむし、おまけに出撃は罰則のことなどお構いなしに行われるのだ。私も那智の前に一度だけ経験があったが、毎日自分を呪ったものである。しかしその時は誤爆で友軍に被害を与えかけた(幸い、ギリギリのところで無傷だった)かどでの罰だったので、まだ自分に「仕方ない」と言い聞かせることもできた。だが那智にはできなかった。

 

 彼女は任務をこなし、トイレの処理をこなし、空いた時間で“平和と除臭に役立つ機械”を作るのを手伝ってくれるよう、工廠の明石を説得した。工廠のボスは一回目こそ断ったが、二回目の訪問で那智の頼みを聞き入れた。何故か? それはもちろん、那智が移動する悪臭発生源と化していたからである。彼女以外の艦娘はみんな、自分を守る為にマスクを購入しなければいけなかったほどだ。私は以前その時の那智と同じ立場だったのでむしろ愉快な気分になったが、長門などからすれば「またか」という気分だったことだろう。那智が通った後は、たとえそれから数分経っていてもすぐにそれと分かった。シャワー室に入った後は、シャンプーやボディソープの匂いと混じった上に湿気で不快感が倍増され、徹底的な換気が終わるまで誰もシャワーを浴びられなかった。

 

 そんな彼女が明石に頼んだのは、真空乾燥装置の作成だった。よく知られている事実として、水分は低気圧環境下ではより低温で沸騰する。一例を挙げると、我々の生きている地球の大気圧は一般に一〇一.三キロパスカルとされているが、これを一二.三キロパスカルほどまで減圧すれば水は摂氏にして約五十度で沸騰するようになる。当然もっと減圧すると、もっと低温で沸騰し始め、やがて凍りつき、最後には蒸発する。後に残されるのは固体部分のみだ。臭いも遥かに少なくなる。「つまり」と私に説明した時、那智は笑った。「クソのフリーズドライだな」やれやれ。もうそろそろ小説家になってから長いと言えるだろう私だが、よもやこんなセリフを書く日が来るとは思わなかった。でも彼女がそう言ったのだから仕方ない。

 

 装置が完成すると、もう那智は前ほどには悪臭に悩まされなくなった。提督が「それでは罰にならんだろうが」なんてタイプの人間ではなかったことも那智の計算通りだった。精々が装置を作動させる為の電力について嫌味を言われただけで、それはあの提督を知る者からしてみれば手放しで褒められたようなものだったのだ。すると那智の心の中で、むくむくと小学生じみた遊び心が頭をもたげ始めた。あんなに臭くてつらい罰を与えた提督は、自分に対してやりすぎだったんじゃないか? と那智は考えた。加賀みたいに仲間を吹き飛ばし掛けたのでもないのに、という訳である。

 

 そう考えるともう彼女は何かせずにいられなかった。彼女は例の“フリーズドライ”を削り出してトイレットペーパーの芯半分ぐらいの大きさにすると、パラオで鳥を射ようとした時のようにまたしても私の弓と矢を無断で持ち出した。次に矢じりを訓練用のゴム製のものに換えると、“フリーズドライ”に突き刺した。そして最後に、提督の執務室の窓を目掛けて射掛けたのである。その時執務室にいたのは提督と彼女の秘書艦、それに私の三人だった。運用している航空機を新型に更新して欲しい、という陳情の為に、私は執務室を訪れていたのだ。もうお分かりだろう。窓を割り、カーテンを押しのけて飛び込んできた“フリーズドライ”付きの矢は、航空機の更新によって具体的にどういった運用上の利点があるか、などを説明していた私の横っ面に直撃した。

 

 ありがたいことにカーテンが勢いの大半を殺していてくれたので、私は殴られた程度にしか感じなかった。それでも矢の先にくっついていたものが何かということに思い至った時、それが私の気分にもたらした決定的な荒廃は、避けられうるものではなかった。

 

 秘書艦は大いに怒った。彼女は提督の指示さえあれば那智のところに飛んで行って、体中の骨をへし折っていただろう。だが提督は私の言葉に耳を傾けた。「私にお任せください、提督」「任せた」話はそれで決まりだった。証拠は一切なかったが、私には誰の仕業か分かっていたからだ。とはいえ、自白すらなしに直感で罰する訳にはいかない。そこで私は那智を探し出すと、彼女に言った。「那智、秘書艦が探してたわ」「そうか? 何の用事だろう」「はあ、どうせまた何かやったんでしょう」「ちょっとした戦術行動をな」それだけのことを言って貰えれば、自白と見なすのには十分だった。私は那智が所定の位置に片付けていた弓矢を持ってきて、返し(・・)のない鋭い矢じりがセットされていることを確認すると、那智の後ろから右尻を射た。威力は加減したが、それでも矢はしっかり那智の尻に突き立った。

 

 彼女は尻を押さえると飛び上がった。相当に痛かったろう。けれど「あなたの戦術行動はね、私に当たったのよ」と告げると文句は言われなかった。自分の悪ふざけで実際に傷ついた人間には復讐を実行する権利があるということを、彼女は律儀にも認めていたからである。私は矢が刺さったままの那智を連れて提督のところに行き、片付いたということを報告した。幸運にも、秘書艦は窓の修繕を業者に頼む為に執務室を出ていた。提督は那智の尻を見て鼻で笑ってから「戦闘中の負傷以外での入渠は認められん」と言い渡した。これは私もやり過ぎだと思って抗議したが、提督は意見を変えなかった。お陰で那智は、暫くの間仰向けで寝ることさえできなかったのである。

 

 付け加えておくと、彼女は化膿を防ぐ為に一日二回、傷口に軟膏を塗らなければならなかった。しかし尻の傷に手探りで塗りこむというのは現実的ではなかった。そこで彼女は、時間が来ると私を連れて医務室に入り、カーテンで仕切りを作ってからベッドに上がるとスカートをめくってタイツを下ろし、四つん這いになって尻を突き出した。そして私がそこに軟膏を塗った。それがよりによって、茶色のものだった。加えてこれがまた水っぽくて、よく染み出したのだ。なので塗ってから暫くすると、那智の黒いスカートには薄くだが染みが浮き上がった。私たちは二人とも自分のことを無様に思った。誰一人として那智の下半身に関する冗談を言わなかったことだけが救いだった。

 

 那智が教官をやめて基地に戻って来たのは、私が二十二か二十三の時だ。当時の提督の下で新規編成された艦隊の二番艦を務める為に戻ってきた彼女は、もう入渠しても生えてこなくなった右腕の代わりに、義手を身に着けていた。彼女の艦隊は旗艦を始めとした艦隊員の半数が那智の教官時代の教え子で固められており、その誰もが那智教官を恩師として慕っていたのは明らかだった。その艦隊の中で唯一那智の過去を知る響は、豹変ぶりに呆れてしばしば昔のエピソードを口にしようとしたが、那智は決して彼女にそうはさせなかったものだ。

 

 戦後、那智は退役艦娘が通う為の特設高校の教諭になった。彼女は大学で教育学部を出て高校の教師資格を取っていた上、教官経験もあってまさにうってつけだったのだ。艤装は軍預かりだったが、肉体は艦娘のままでいることにも許可が出た。彼女を慕う昔の教え子たちは、こぞって那智が赴任した特設高校の門を叩いた。その中にはかつての那智の旗艦も含まれており、またしても那智はその艦娘を教えることになったのである。私は、那智が退役してから一年か一年半ほど後に会った時、彼女が自分たちの数奇な運命に言及して笑ったことを覚えている。「あいつ、大学は教育学部に行くつもりらしい」と那智が私に言ったので、私も笑い返してこう答えた。

 

「もしかしたら、この高校の校長になる気かもしれないわね」

「じゃあそれまでに、私は教頭にでもなっておかなければな。全く、あいつは私が面倒を見た中で一番できの悪い教え子だったが、まさか退役してまで手を掛けさせられるとは」

 

 ここでこっそり言わせて貰おう。一番できの悪い、手の掛かる教え子、ですって? 一番かわいい教え子の間違いじゃないのかしら、ねえ、那智教官(・・・・)

 

 彼女は今でも同じ高校で教え続けている。この数年は手紙や葉書のやり取りばかりで直接会っていないが、元気でやっているだろうことには疑いがない。その手紙によれば、最近、歴史的・教育的見地から回顧録の執筆を求める声も一部で上がったが、取り合わなかったそうだ。「私には文才がないからな」と書いていたが、何となく私には、彼女が何冊か本を読めばそれなり以上のものを書いてしまいそうな気がしている。また、回顧録は書かないにせよ自分の経験を誰かに伝えるということには熱意を持っているようで、戦争が終わってから二、三年ほど経ってから行われた艦娘たちによる講演会に出て以来、精力的にその手の集まりに話者として参加している。私も彼女が講演を始めた頃に何回か聴衆として参加したが、堂に入った話しぶりと途中途中で笑いを挟んで疲れをほぐす手腕には、往年の経験が活かされていたように思う。久々に会って話をしたいし、次の彼女の講演会には顔を出してみるのもいいかもしれない……。



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11「卑怯者」

 私は長い間、戦争に行った。砲を撃ち、航空機を飛ばし、敵を殺し、敵に殺されないように努力し続けて、どういう訳かそれに成功した。そして戦争が終わって故郷に帰ると、私を待っていたのは想像もしていなかったほどの大歓迎だった。これは皮肉ではない。わざわざ隣町からやってきた人もいるぐらいだった。誰もが私の肩を力強く叩いて、「お帰り」とか、「よく無事で戻ったね」とか、友愛の気持ちがこもった温かな言葉を口にした。私以外の地元出身の艦娘たちにも、考えうる限り最高のおもてなしと呼べる厚意が向けられた。その気風は今でも変わっていない。

 

 たとえば私が、隣町の更に隣町にでも出かけるとする。喫茶店に入り、そこにいた地元の客と話をする。私が言う。「昔、私は艦娘でした」客と喫茶店の店長は言うだろう。「ありがとう、戦争に行ってくれて」そして、飲んでいたコーヒーを無料にしてくれるだろう。ケーキの一つもおまけにつけてくれるかもしれない。

 

 多分、私は幸運だったのだ。世界中で深海棲艦に対してのシンパシーが犯罪と見なされなくなって以来、艦娘に対して批判的な主張を掲げるグループが大手を振って活動できるようになり、日本でもごくごく一部ではそういう思想に染まってしまった地域もあると聞いている。その土地出身の艦娘に比べれば、あるいは艦娘として戦争に行ったということそのものに無関心な土地出身の者たちと比べれば、私は恵まれているのだと思う。少なくとも誰も私に唾を吐きかけたりしてこないし、大量殺人者呼ばわりされることも、単純に無視されることもないからだ。昔艦娘だったお陰で、小説家としての収入以外に年金だってつく。五年前までは税制上の優遇措置だって存在した。昔話がしたくなれば、在郷艦娘会の集まりに行くことができる。人々は私を尊敬してくれる。昔、己の身を戦争の中に投げ入れたから。

 

 彼らは私のことを英雄だと言う。勲章がなくても、通りに私の名前がつけられることがなくても、ドキュメンタリー番組への出演依頼が来なくても、名もなき英雄の一人ぐらいにはなれるらしい。あの頃家庭に息子しかいなかった家の父親が、あの頃自分の娘を戦争に送り出した母親が、妹を失った兄姉が、姉を失った弟妹が、艦娘になれないことを苦にして自殺した子供らの親たちが、艦娘にならないことを選んだ子供らの親たちが、誰もが私のことを褒め称える。社会が危機に陥った時、世界の平和が脅かされていた時、燃え盛る死の炎の中に進んで我が身を投じた、勇気ある人物。行くのを拒むこともできたのに、それをよしとすることができなかった正義感の持ち主。私がかつて戦争に行ったということを知っているだけなのに、みんな私のことを私自身よりもよく理解しているみたいな口ぶりだ。

 

 そういう善き隣人たちに混じりけのない敬意や好意を示される度に、私はパラオにいた頃の出来事を思い出す。当時の私たちは大規模作戦に参加しており、一つの島の周辺海域を巡って深海棲艦と激烈な争いを繰り広げていた。その島が手に入れば前進基地を設置して補給拠点とし、そこを足がかりにして人類の勢力圏を大幅に拡大できる見込みだったからである。深海棲艦たちは日本海軍上層部以上にそのことをよく理解していて、文字通り決死の抵抗を見せていた。パラオ泊地の艦娘は日夜戦闘に投入され、時には島を確保しようとする我々とそれを阻止しようとする深海棲艦の間で、陸上での肉弾戦すら繰り広げられたほどだ。私の艦隊も何度も苦しい状況に追い詰められたが、古鷹の長い経験に基づいた的確な指揮と、正規空母としては異色なほど夜戦に慣れのあるグラーフの活躍、それから長門や那智の砲戦力と、響の巧みな雷撃で難局を切り抜け続けていた。

 

 そして何度目の出撃か忘れた頃にようやく、私たちの艦隊と他泊地所属の艦隊とで構成された即席連合艦隊、計十二人の艦娘たちは、付近から深海棲艦を一掃して目標であるその島を確保したのだった。私たちはみんな死にそうなほど疲れていたが、それでも任務を達成することができたという気持ちで胸が満たされていた。終わった、やっと終わった! さあ、交代を待って基地に戻ろう! 島に上陸して木々に覆われた周囲を望める高地に陣取り、そこに腰を下ろすと、私を含む空母艦娘は警戒の為に航空機を上空に送った。すると、私の艦載機が接近してくる敵の艦隊を見つけた。その一隊には鬼級・姫級などの能力が高い深海棲艦も属しており、遠くから砲撃して脅かした程度では、逃げ帰ってくれるように思えなかった。なので、私たちは死力を振り絞って彼女たちを迎え撃たなければならなかった。

 

 交戦はまず敵の先制攻撃から始まった。彼女らは私たちが島に隠れていると考えたのか、でなければ知っていたのだろう、かなり時間を掛けて砲爆撃を加えたのだ。これは正しい判断だった。私たちは陸軍の兵隊がするように蛸壺(たこつぼ)を掘って隠れる時間も道具も持っていなかったので、倒木や砲弾の落ちた後にできるクレーターを利用して、敵弾から身を守った。被害は少なかったが、響が砲弾の破片で右の上腕と左足の付け根をやられた。彼女は降り続ける鉄の雨の中、切らしてしまった希釈修復材の代わりに普通の包帯を使って、伏せたまま自分で止血処理を施した。痛かったろうに、彼女は「ここが土の上で助かったよ」と物事の明るい面に目を向けた。私たちはみんなその楽観主義を尊敬した。

 

 砲爆撃の後、深海棲艦たちはゆっくりと近づいてきた。それは警戒しての鈍さではなく、どちらかと言えば「もう敵は全滅しているだろう」という慢心に基づくようなものに思えた。しかしさにあらず、私たちの急造連合艦隊は疲労困憊の上に響が負傷で海に出られなくなりはしたが、戦闘の準備はできていた。私たちは敵を引きつけた。必中の距離まで待って、連合艦隊は砲撃を開始した。集中攻撃を受けて、一際目立つ巨大な艤装をまとっていた姫級深海棲艦が沈んだ。私やグラーフは戦闘機を空に送り、艦戦妖精たちには制空権を取られないことを主目的とした消極的な戦術を実行するように命じた。

 

 敵は最初の一撃にこそ不意を突かれて被害を出したが、立ち直りは迅速だった。別艦隊の旗艦を務める摩耶がしきりに乱暴な言葉を喚きながら対空射撃を繰り返していたのを覚えている。「クソが」と彼女は罵った。「こちとら二回目の改装済ませた直後だってのによ!」深海棲艦たちは地形を利用してできるだけこちらの射線上に入らないようにしながら、上陸を始めた。艦隊の総指揮を取っていた私たちの艦隊の古鷹が、摩耶に負けない大声で命令を下した。「突撃!」そして彼女は駆け出していった。私たちはそれを唖然として見た。私たちは海軍だ。陸軍じゃない。

 

 でも、古鷹は行ってしまった。追いかけなければ、彼女があっさり殺されてしまうのは目に見えていた。だから私たちも、高地の上から下へ、深海棲艦たちの上陸地点へと走り出した。敵もそれを黙って見てはいなかった。彼女らはこちらの動きに気づくと猛烈な射撃を浴びせかけてきたが、普段縦に移動する目標に対して射撃する経験を積んでいなかった彼女たちの砲撃は、ほとんどが私たちの後方に着弾した。思い出してみると私たちの行動は、まるで第二次大戦時代の焼き直しのようだった。陸海の違いは忘れるとして……。

 

 我々自身さえ予想していなかったこちらの突撃と、その迎撃の失敗が深海棲艦たちの命運を分けた。私たちは勢いに乗って、慌てた彼女たちを海に追い落とし、距離を取って仕切り直そうとする背中に砲爆撃を浴びせて撤退させた。連合艦隊は負傷した響を入れて十人に減っていたが、持ちこたえたことは持ちこたえた。けれどそれが古鷹の大胆な行動のお陰であり、二度目は通用しないということも認識されていた。我々は泊地に交代の連中を急がせるよう連絡し、また高地に引きこもったが、同じ高地でも身を隠す場所を変えることだけは徹底した。

 

 陽が傾き始めても、交代は来なかった。私たちはぴりぴりし始めた。何かの拍子に響の血が顔に飛んだ飛ばないで長門と別艦隊の木曾が喧嘩を始めそうになり、摩耶と私が仲裁に入って、何とか事なきを得た。しかし、血の問題は重大だった。駆逐艦娘である響は体が小さい分、失血の許容量が私や長門などと比べると遥かに少なかったからだ。その上、傷を負ったのが太い血管の近くだった。彼女の顔は、夕日の赤い光の下でも分かるくらいの土気色になり始めていた。完全な止血ができなければ、いずれ失血死するのは不可避のことと思われた。

 

 完全に陽が落ちた頃になって、やっと泊地は命令を寄越した。だがそれを受け取った古鷹はみるみる内に厳しい顔になった。私は彼女と長い付き合いと言えるほどの時間を共に過ごすことはできなかったが、後にも先にも彼女の激しい怒りの表情を見たのはこの時きりである。命令は、端的に述べるとこういうものだった。「複数の海域で目標の制圧に失敗。現在、貴艦隊は突出している状態にある。この命令を受け次第、泊地まで後退せよ」怒り狂ったのは古鷹だけではなかった。摩耶は命令を聞いて理解するや近くに転がっていた倒木を蹴りつけ、吠え声を上げた。

 

「撤退だと? ふざけやがって、クソが! 撤退してどうなるってんだ? またぞろ明日にゃ『目標周辺の深海棲艦を撃滅し、目標を制圧せよ』なんて命令が来て、もう一回このクソったれな島に行かされるんだろ!」

 

 枝を何本か踏み折ると、彼女は横倒しになった木の幹にどっかと腰を下ろし、腕組みをして口を真一文字に引き結んだ。彼女の目と態度は、「抵抗一つせず敵にこの島をお返しする気はさらさらないね」と語っていた。それも仕方のないことだろう。何しろ、彼女の艦隊員が死んだのだ。彼女の血の繋がらない二人の家族は、このクソったれな島(・・・・・・・・・)で死んでいったのだ。この島が彼女たちの墓標であるからには、摩耶にとってそれを敵に渡すなんてことは、道理の埒外にある行為だったのだと思う。それを抜きにしても摩耶の言った通り、どうせ撤退しても再び同じ目標の為に戦うことになるのは分かりきっていた。そしてそうなれば、次はもっと沢山の艦隊員が死ぬかもしれなかった。

 

「たとえ絞首刑になっても、あたしはここを動かねえからな」

 

 摩耶は自分の命について、自暴自棄だが固い覚悟を決めていた。けれど後方の連中は摩耶の弱いところを突いた。もし彼女が命令を無視し続けるなら、彼女の艦隊員についても命令不服従と反逆の責任を問うと宣言したのである。摩耶も古鷹も、自分の怒りに指揮する艦隊の構成員らを巻き込むことができるほど、自分勝手ではなかった。私たちは戦死者の体を抱え、真夜中に島を出て、泊地へ向かった。夜戦では余り役立てない私には、響を運ぶという最重要任務が割り当てられた。

 

 泊地に戻ると、帰投するや否や入渠させられた響を除いて、私たちは撤退命令を発した海軍少将のところに連れて行かれた。彼はパラオ泊地付近における大規模作戦の指揮を任されていた人物だった。軍の宣伝によれば北方海域で目覚しい戦果を上げたとかで、その指揮手腕を買われてその度の方面作戦総指揮を任されていたらしい。

 

 彼は私たちの「抗命とも取られない行動」に対して理解を示したが、どうして私たちが──というより摩耶が──そういう行動に出たかについては、完全に誤解していた。彼は私たちが彼自身そうであるように深海棲艦を殺すことを心から楽しんでおり、そのお楽しみを中断しろなんて命令には従いたくないと考えた、と思っていたのだ。私としては何故彼が、パラオ泊地の安全な司令室から深海棲艦を殺すように指示を出すことと、実際に海に出て彼女たちと撃ち合うことをイコールで結べたのか、今日に至るまで理解できないでいる。でも一つの事実として、彼はそう考えていたのだ。

 

 彼はその場にいた九人の艦娘たちを励まし、優秀さを褒め、戦闘意欲の旺盛であることを称えた。摩耶は呆然として、何も言えないようだった。少将は気分よく私たちを激励していたが、死者が摩耶の艦隊にしか出ていないことに気づいた。彼は古鷹に尋ねた。「今回の出撃で、君の艦隊はいつから交戦していた? 敵はどれほどいた?」古鷹は可能な限り正確な交戦時間を述べ、確認できた敵艦種と数などを伝えた。少将は眉を寄せて言った。「それだけ戦って片方の艦隊にしか戦死者が出ないとは奇妙なことだ。君の艦隊員は臆病者なのか?」古鷹の顔は真っ白になった。横からでも、彼女が歯を食いしばって恥辱と激情に耐えているのが分かった。少将は古鷹が答えないことに何も言わなかった。答えを求めてさえいなかったのだろう。解散の命令を受けて、私たちは入渠し、休息を取った。

 

 翌々日、摩耶の予想通り、再攻撃命令が下った。だがそれは古鷹や、二名の補充を受けた摩耶の艦隊に対してではなかった。私たちはその『精強さ』とやらを見込まれて少将が別の拠点に移動する際の護衛を命じられたのだ。響は感染症で入院させられていたが、残りはこの憂鬱な任務から逃げられなかった。少将は大規模作戦の最中だというのに、「艦娘の視点で海を見たい」などという大層立派な考えの下、パラオ泊地の司令官が提案した空路での移動を断ったのである。彼は自分の連れてきた少数のスタッフだけ航空機で先に移動させると、泊地司令官の説得にも耳を貸さず、操縦手を二人連れてボートに乗り込んだ。泊地司令官を黙らせた少将の最後の言葉は、「私は臆病者ではない。それに、護衛についてくれる彼女たちを信用している」だった。

 

 確かに彼は私たちを信用していたようだった。操縦手たちがどれだけ「危険ですからボートの中にいて下さい」と言っても、馬耳東風という様子だったからだ。彼は椅子を持ってきてデッキに座り、潮風を気の向くままに楽しんでいた。時々、私の航空機が一、二隻の駆逐イ級を見つけると、彼は遠くでイ級たちが爆撃される様子を双眼鏡で観察して、子供のように手を叩いて喜んだ。言葉にはしなかったが、彼はどう見てもこう言いたがっていた。「見ろ、君たちの上官は敵を恐れていないぞ、君たちの上官は戦場を恐れたりなどしないぞ」彼の態度は万事がそういう風だったのだ。

 

 だが、私とグラーフ、それから摩耶の艦隊にいた祥鳳の航空機による警戒網を一隻のイ級がかいくぐり、砲撃による奇襲を仕掛けてきた時には、彼もさぞ慌てたことだろう。何故なら砲撃はボートの至近距離に着弾し、少将は椅子から放り出されて、ボートの(へり)に片手でやっと掴まっていたからだ。イ級はすぐに沈められたが、少将をボートに引き上げる者はいなかった。操縦手は二人とも深海棲艦から砲撃を受けた経験がなかったせいでパニックに陥っていたし、私たちはというと……ただ離れて、視界の端に少将を捉えつつも、黙って別の方向を見ていたから、である。

 

 彼は今にも落ちそうだった。放っておけば、海の藻屑になるのは九分九厘確実といったところだった。だが私は、相手がこの少将だったとしても、そんな風に見殺しにするのは正しいことではないようにも思えた。私は長門に声を掛けた。彼女は言った。「やめておけ」摩耶も同じことを私に言った。私は迷っていた。少将を助けることが何を意味するか、私は理解していた。それは戦友たちを失望させることになる。何物にも代えがたい信頼を失うことになる。

 

 艦娘が戦場に立って戦えるのは、横にいる戦友が信用できるからだ。もしそれを失えば、もうその艦隊は艦隊として機能しなくなる。でも、戦友たちの失望を避ける為に、人を殺すのか? ああ、少将の判断は間違っていたかもしれない。その権限があったとしても、彼の判断は罪だったかもしれない。けれども、それを裁くことができるのは私でもなければ摩耶でも古鷹でも長門でも誰でもない。この場にその権利のある艦娘など、誰一人としていないではないか──私はそう考えもしていたのである。

 

 そのまま、更に三十秒でよかったから誰も何もしなければ、少将は魚の餌になっていただろう。しかしそこで、摩耶の艦隊にいた補充の艦娘が動いた。彼女は少将のところに駆けつけると、彼をデッキ上に押し上げた。彼は救い主をちらりとも見ずに、ボートの中に入っていくと、拠点到着まで二度と姿を見せなかった。

 

 拠点に着いて少将が何処かに行ってしまった後、補充艦娘を除いた別艦隊の四人は、少将を助けた艦娘に冷たく接した。「黙って見てりゃよかったんだ」と摩耶は彼女に向けて、吐き捨てるように言った。「卑怯者が」

 

 私は、それは違うと思う。彼女は自分で決断し、少将を助けた。摩耶たちは自分で決断して、少将を見殺しにすると決めた。どちらも卑怯者ではなかった。あの場にいた卑怯者は、どちらに加担することもできないでいた一人だけ、私だけだったのだ。それはその場だけのことではなかった。艦娘になる前も私はそうだったし、戦争が終わってからも私はそのままだった。私は、自分から戦争に行こうと決めた訳ではなかった。はっきり言えば、戦争になど行きたくなどなかった。誰が好き好んで死にに行きたがる? しかし私は艦娘になった。そして戦争に行った。それは両親や、近隣住民たちや、友人たちが自分に何を期待しているのか、知っていたからだ。彼らに失望されるのが怖かったからだ。だから私は艦娘になった。だから私は卑怯者だった。私は英雄などではなかった。私は、戦争に行ったのだ。



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12「白露型駆逐艦:時雨」

 時雨とは呉の艦娘訓練所で出会った。が、それはハッピーなファーストコンタクトという風には行かなかった。まだ艦娘としての体を手に入れていない頃、食堂で私の隣に席を取った彼女は、こちらの意識の隙を突いて私のプレート上に置いてあったパンを一個かすめ取ったのだ。私はお返しに彼女のシチューから肉を何個か盗んでやった。驚くことではない。こういった小さな盗みはよくあったことだ。人間の女性はストレス環境下で脂肪を貯め込む性質がある為、訓練中は日々の食事量を管理されていて、お陰で艦娘候補生たちは大体いつでも空腹を抱えていたのだから。

 

 私たちは食事を済ませてから二人で仲良く連れ立ってトイレに向かい、お互いに何個かたんこぶを作って、ついでに騒ぎを聞いて飛んできた教官に二発ずつ殴られて、その後何年も続く(うるわ)しい友情の最初の一歩をスタートさせた。私たちは何でも一緒にやった。訓練隊が丸ごと放り込まれる宿舎でも、海上訓練でも、訓練修了直前の休暇だって一部は彼女と過ごした。訓練所で時雨と一緒にいなかったのは、ベッドと個室トイレの中程度だった。

 

 この頃から既に時雨は優秀だったことを覚えている。彼女は少しの訓練で砲の操作、雷撃や対空射撃のコツ、敵が狙いを定めにくい動き方など、多くのことを身につけられた。一を聞いて十を知る、を地で行く優等生だった。とはいえ本人の努力はなかったどころか、彼女は手を抜くべきところと全力で取り組むところを区別していて、訓練は後者に分類していた。人間が本気を出すとどれだけのことができるか、というのを彼女は証明していた訳だ。教官は手放しで彼女を褒めた。これは本来、訓練教官が絶対にやってはいけないことの一つだったから、時雨がいかに優秀だったか、ということを理解して貰えると思う。

 

 しかし、彼女は真面目で有能なだけの人物ではなかった。時雨はいつでも何処かにコネクションというものを持っていて、何か必要なものや欲しいものがあると候補生たちは必ず彼女に頼んだ。時には彼女をべた褒めした教官さえ顧客になった。今は時雨の話をするべき時だが、それにしてもそういう手合いに比べると、那智は本当にいい教官だったんだろうな、と思う。時雨は教官には僅かな対価を求め、訓練生たちには不満が出ないほどの見返りを要求した。食事の副菜を一品とかだ。少女たちは、どうせ一品減ったところで空腹を感じるのが少し早くなるだけだ、と考えて、自分の欲しいものの為に喜んで一品差し出した。そのせいで時雨は訓練所を出た時、驚いたことに入った時よりも少しだけ体重が増えていたのだ。これは海軍史上、未曾有(みぞう)の出来事だった。

 

 愛想の良さや要領の良さもあって、時雨は途中まで横須賀鎮守府配属間違いなしと見られていた。私もそれが当然だと考えていたし、栄光の横鎮に自分の友達が行くなんてすごいことだ、と思って喜んでいた。何と言っても訓練教官の一人が横須賀にいる知り合いを呼んで、時雨に引き会わせまでしていたのだ。これで配属地が違うなんてことは、あり得ないと思われた。時雨の評判は呉の訓練所全体の誇りになった。

 

 彼女の新しい噂を耳にしない日はなかった。時雨が訓練隊対抗演習で殊勲賞を獲った……訓練所に入り込もうとした不審者を捕まえた……訓練所の中で手に入るものだけでラジオを組み立てた……その話題にはしばしば私のことも引き立て役として出てきた。最大限よく言っても、「デカいコバンザメ」というのが私の評判だった。しかし私は気にしなかった。他人に何を言われようと、時雨の隣という立ち位置を気に入っていたからだ。彼女は面白い人物で、他人を楽しませることが大好きで、しかも私の友達だったのである。それに、私は彼女の秘密を一つ知っていた。

 

 艦娘訓練所の訓練課程は大きく二つに分けることができる。前期は普通の人間のまま、体を鍛えられ、座学をやる。それから宣誓式で海軍に入るかどうかを再確認し、志願を取り消さなければ妖精の手によって順次艦娘になり(これを私たちの隠語で建造(・・)と呼ぶ)、後期に入る。後期では艦娘としての戦い方や動き方を学び、海にも出るのだ。時雨の秘密は、宣誓式の時に彼女がやろうとした悪戯のことである。訓練教官の一部は彼女に懐柔されていたが、そうではない教官たちに時雨は常日頃から一泡吹かせてやりたいという気持ちを持っていた。宣誓式は彼女にとって、その為の最高の舞台に見えた。

 

 彼女は注意深く計画を練り、事前の準備をして、訓練所の門番を上手に買収した。もしその門番が計画実行のまさにその日に風邪を引いて病欠になってさえいなければ、時雨が呼び寄せた二人のコールガールが宣誓式をどう台無しにするかを、私や他の訓練生は特等席で見られたことだろう。教官たちは九死に一生を得たのである。

 

 が、言うまでもなく時雨は一回の失敗で手を引かなかった。訓練所を出る直前、修了式で雪辱を果たしたのだ。呉鎮守府の総司令が車で訓練所にやってきた時、彼は適当にそこいらを歩いていた艦娘を呼び止めて「訓練所付属の工廠で車をチェックさせるように」と命じた。ブレーキの利きが遅いとか何とか言ったらしいが、伝聞なのではっきりしない。その艦娘が工廠の整備員に伝えに行く途中、時雨に会って話をした。彼女はその艦娘に「僕がやっておくから」と言って任務から解放してやった。そして車を工廠の防音壁で仕切られた区画に持っていくと、防弾性能のチェックを始めたのである。

 

 時雨はその結果を手短に報告書の形でまとめると、スクラップになった呉鎮守府の車の、かつてはボンネットと呼ばれていた箇所にそれを置いて、とっととその場を逃げ出した。修了式の後で総司令のところに持っていく為に車を受け取りに来た教官たちは、みんな顔面蒼白になった。ただちに捜査が始まり、ものの数分で「時雨が当該区画から出ていくのを見た」という信頼できる証言が上がった。だが、それだけだった。教官たちは困り果てた。何しろ時雨という駆逐艦娘は、決して珍しい存在ではない。違う訓練隊にいる者も含めれば、同期だけで十人は間違いなく下らなかった。時雨が怪しい、なるほど。で、どの時雨だ? という寸法だった。同じ疑問は、最初に総司令の命令を受けた艦娘についても発生した。そして私たちは、みんな何も知らないふりをした。

 

 総司令はとても怒った。彼の機嫌を損ねない為にも、この期の時雨を横須賀や呉や舞鶴には行かせることはできなかった。私の友人である時雨がパラオに来たのは、そういう経緯があってのことだ。

 

 パラオで同じ提督の下に配属されたまではよかったが、成績優秀の証明書を貰って訓練所を出た彼女は第一艦隊、一方で並の私は第二艦隊だった。でも私は最初から時雨の優秀さを知っていたし認めていたので、嫉妬することはなかった。彼女は新入りの駆逐艦娘として、侮られた状態でスタートした。第一艦隊の一番下っ端というのは、周りがそう思っているほど楽しい立場ではない。

 

 そんな中でも時雨はめきめきと頭角を現した。仕事がなければ探し、自発的に活動した。地元民たちの困りごとを二、三解決するとあっという間に彼らと仲良くなってしまい、泊地と現地民たちの間に何か交渉事があると必ず引っ張り出された。彼らが「あの時雨を寄越せ」と要求するからだ。彼女が出れば取引も九割がたまとまるので、泊地側もそれを拒否することはなかった。また時雨は、軍紀粛正運動の有力な活動家でもあった。時雨の抜け目ない監視の下では、上官である提督たちですら、失態を見つけられないように気を張ってこそこそしなければいけなかった。でなければ即座に何がしかの違反を見咎められ、罰金を取られるか、さもなければ恩を売りつけられた。そしてその恩は大抵、高くついた。

 

 時雨は一年もしない内に艦隊の二番艦にまで上り詰めた。これは陸軍で言えば小隊長に当たる旗艦を補佐する、小隊付軍曹の役目を任されたということだ。艦隊を一つにがっちりとまとめるのが仕事の、旗艦の次に重要なポジションである。当然、普通はこんなに早くなれるものではなかった。私は心から彼女を祝福し、その日の夕食をおごったものだ。既に時雨は泊地中の艦娘から「大物」だと考えられていた。今はまだ僻地に所属する提督の第一艦隊で二番艦をやっている身だが、やがては旗艦になり、そしてその次は何処か立派な鎮守府に栄転するか、諸外国との艦娘交換プログラムに参加してドイツ、イタリア、あるいはアメリカに行くだろう、というのが大勢の予想だった。

 

 私は自分のことでもないのに鼻高々だった。「その内、あなたの故郷には銅像でも建つんじゃないかしら」と食堂で会った時に私が言うと、彼女は食事のプレートを持ったまま、肩をすくめて答えた。「どうでもいいよ。それは“時雨”の銅像であって、僕の銅像じゃないんだから」言われてみれば、その通りらしかった。「それより、君と一緒に食事ができた方が嬉しいね。どう、かな?」もちろん、彼女を喜ばせる以外に選択肢はなかった。

 

 暫くはそんな具合で過ごしていたが、ある時どういう訳か、時雨は筋の通らない上にとんでもないことをしでかしてしまった。パラオには軍属や全くの民間人たちも住んでいたが、その中の一人のごろつきと組んで、違法な公道レースとレース賭博を主催したのである。娯楽の少ない僻地ということもあって、レースのことはたちまちパラオ中の噂になった。本人から聞いたところによれば、時雨はあらゆるものを賭博用チップとして許可したので、三回目の開催時には土地の権利書や家まで賭けられたらしい。現地警察は途中まで袖の下を受け取って黙って見ていたが、四回目に大事故を起こしてレーサーの一人が月まで吹き飛ぶと、そうもしていられなくなった。彼らは時雨と組んだごろつきを逮捕し、何をしてでも共犯を吐かせようとした。だが実際には、肩に手を置かれた時点でその半端者はぺらぺら喋り始めたとか……。

 

 たちまち時雨はお尋ね者になり、みんなが「そんな、まさか」と話し合っている間に憲兵の手で捕まってしまった。彼女はまず現地の司法で裁かれることになり、その後で軍法会議にかけられることになっていた。裁判には私を含む何人かの艦娘と、大勢の現地民が押しかけた。時雨が犯したとされる罪を検察が一つ述べる度に、裁判官は傍聴人たちを黙らせなければいけなかった。そういう後ろ盾のせいか、時雨はかなり挑戦的な態度を取り続けた。本当にその場にいたほぼ全員と交友関係があった、ということも影響していただろう。裁判官の奥さんは時雨から高価なプレゼントを貰った経験があったし、検察官は彼の幼い息子が親の目を盗んで家を出た時、時雨に見つけて保護して貰ったという恩があった。廷吏の一人一人とも時雨は知り合いだった。執行猶予一年を申し渡されて時雨が出て行く時、警備は淑女をエスコートするかのように振舞った。

 

 軍法会議はそこまで都合よく行かなかった。だが時雨が行ったと裁判所が認めた行為を全部合わせても、罰金を食らわせたついでに時雨のキャリアを台無しにするぐらいのことしかできなかった。軍法会議の出席者たちは彼女にそれ以上の罰を与えることもできたのだが、現地民たちの感情を考慮すると、彼らの間で人気者の時雨を不当に痛めつける、というのは選びづらい道だったのである。時雨は横須賀にも呉にも舞鶴にも行かないことになった。無論ドイツやイタリア行きの話も聞かなくなった。数か月分の給料を罰金として科された。私の友人は、何らそのことを気にしなかった。余りに傷ついた様子がないので、私は心配して彼女を静かな喫茶店に連れて行って、話をした。

 

「次は何をやるつもり?」

 

 時雨はこれを、期待の表現だと誤解したようだった。よくぞ聞いてくれました、という風に笑って「そうだね、次は家を一軒爆破でもするかな」と言った。私は彼女をたしなめ、色々と言った。まともになれとか、そういういつもなら絶対に口にしないような益体もない言葉もぽろりとこぼれた覚えがある。時雨はその大半を聞き流した。と言って、別に彼女が私に対して邪険になったのでもなかった。相変わらず彼女は私の友人で、自分の艦隊員たちと一緒にいるよりも私といることを好むほどだった。私が古鷹の部屋によく行くようになると、時雨は私が廊下に出てくる時間を見計らって、古鷹の部屋の前を通りがかった(・・・・・・)

 

 レースのこと以降、時雨の立場は悪化していた。第一艦隊から外して、第三艦隊にでも入れようかという動きもあった。時雨がもしもまともな艦娘なら、多分そうなっていたんじゃないかと思う。しかしながら、彼女はそうではなかった。彼女は前にもまして活躍し始めたのだ。一つたりとも規律を破らず、別の提督の下に配属されている艦娘も交えた戦術研究会を主催して、その成果を会の参加者以外にも広く公開した。それによってそれまで艦隊ごとや提督ごとにばらばらに保有されていた有用な情報や戦闘テクニックが広まると、時雨の評判は一転うなぎ上りになった。普遍的な戦闘技術の向上でパラオ泊地に所属する艦隊の戦果数と死傷率がそれぞれ全体的に上昇・下降すると、最早彼女の過ちは一回限りの些細なこととして忘れ去られた。人々はまた彼女の栄転に関する根も葉もない噂を囁き始めた。

 

 私は安心した。時雨が道を踏み外したとは思いたくなかったからだ。彼女はずっと私にとっての大きな誇りで、たとえ彼女自身にであっても汚されたくなかったんだろう。少し傲慢だが、誰でも十代の頃はそういう傲慢さがあるものだ。私は奇しくも以前と同じ質問を彼女にした。「次は何をやるつもり?」今度は、以前と異なって、この言葉に込められたのは批難でなく期待だった。彼女は考え込むようなポーズを取って、やっぱり前と似たようなことを言った。違いはちょっと具体性が増していたという点ぐらいだった。「屋根の赤い家を吹き飛ばすんだ」私には軽く笑うだけの余裕があった。「あら、赤い屋根の何がそんなに気に入らないの?」「家を吹き飛ばすことへの文句はないのかい?」私たちは笑った。面白い冗談だと思った。

 

 冗談ではなかった。

 

 パラオ泊地に所属する提督の一人が、とある現地の女性を赤い屋根の家に囲っていた。海軍批判の材料に使われることを恐れながら言うが、これは合理的な判断による合法行為だった。提督は男性が多い。女性もいるが、やはり少数派だ。で、大半が男性である提督の部下は? そう、艦娘は原則として女性である。それも、同性から見ても見目麗しい女性ばかりだ。幼い外見の駆逐艦娘でさえ、整った容姿をしていることには誰も異論を挟めないだろう。何が起こりうるか、実際の発生を待たなくても想像できる。なので海軍は、艦娘に手を出されるよりはマシという考えの下、提督たちが愛人を作ることを否定していなかった。時雨が吹き飛ばした家の持ち主だった少佐も、そういうよくいる提督の一人だった。彼とその他の家を吹き飛ばされないで済んだ提督たちの差は一つだけ。少佐は軍の資金を私的に用いていた、という点だった。

 

 時雨はその証拠を掴むと、憲兵隊の詰め所には行かずに直接少佐の家に行った。例の赤い屋根の家だ。それは街から離れたところにある一軒家で、タクシーに乗ってきた時雨が顔馴染みの運転手を外で待たせて自分は中に踏み込んだ時、少佐たちはお楽しみの真っ最中だったそうだ。彼女は少佐がパンツを履くまで待ってから、証拠のコピーを突きつけ、決断を迫った。どういう決断を迫ったかは知らないが、私の中の素晴らしい思い出の為に、自首を迫ったのだということにしておこう。少佐は拒否して、どうにかして時雨を黙らせようとした。後で裁判所に証人として呼ばれたタクシー運転手によると、時雨はパンツを履いただけの少佐の足を引きずって、家の外に出てきたそうだ。後からは最低限の服を着込んだ女が続いて現れ、乗客を三人に増やしてタクシーはその場を去ろうとした。数百メートルほど行ったところで、家が木っ端微塵になった。鑑識は漏れた家庭用ガスに引火したことによる爆発と結論した。

 

 パラオ泊地のお偉方はこの時雨の扱いにほとほと困り果てた。彼女の功績は非常に大きかったし、公金横領をした佐官を説得しようとしたが聞き入れられず、拘束して憲兵隊に引き渡した、という行為自体は極めて結構なことだった。しかし家が一軒爆破されたということの衝撃はどうしても拭えなかった。現地警察は事故か故意かの判断を下せなかったが、パラオの艦娘たちはみんな時雨がわざとやったのだと信じていた。

 

 流石に、この度ばかりは時雨も無罪放免とは行かなかった。まだ執行猶予も明けていなかったのだ。そこでまず私人として現地の小さな女子刑務所で懲役刑を受け、その刑期満了後に、軍人として今回の件について軍法会議で下された決定に従う、ということになった。現地の人々はそれに対してかなり抗議したのだが、時雨がそれを無責任に煽ったせいで、レースの時の懲役年数に騒擾(そうじょう)罪の懲役年数まで付け足された。だから彼女が収監されてから少し後で私たちが本土の基地に転属することが決まった時、私は親友を残していくしかなかった。

 

 パラオを出る前の日に外出許可を取って時雨に会いに行ったのを覚えている。散々待たされてから面会室で話した時、住み心地は悪いがプライバシーの守られた個室を貰えている、と彼女は教えてくれた。久々に見た時雨の顔は、悲痛に歪んではいなかった。私はほとんど怒りそうになった。彼女は幾ばくかの対価を与えて看守を使い走りのように扱い、訓練所でそうしたように囚人たちの調達屋を務め、尊敬を欲しいがままにしていたからだ。そこに反省の様子は見られなかった。それでやっと分かった。彼女にとって生きるというのはそういうことだったのだ。彼女は上から押さえつけられていないと、まっすぐ立っていることもできないのだ。死にかけている時だけ、彼女は生きていられる。奪われなければ、何も得ることができない。肉体が囚われている時だけが、彼女にとって自由な精神を持つことのできる瞬間なのだ。

 

 面会時間は飛ぶように過ぎていった。私はできるだけ時間のことは考えないようにして、時雨と話をした。愉快な話だけ、二人で笑える話だけを選んで。だが物事には必ず終わりが来る。とうとう、面会室の中にまで長門と那智、響が迎えに来た。私は行かなければならなかった。「行くわ」と私が言って席を立つと、さっきまで楽しげに笑っていた時雨は、急に悲しげな顔になって、元気を失った。私は彼女を励まそうとして言った。「手紙を書くから」時雨は絶望的な微笑みを浮かべた。

 

「手紙か! いいね、きっと僕も書くよ……壁に囲まれてちゃ、それぐらいしかやることなんてないんだもの……」

 

 私は約束を守った。パラオでの刑期を終えて本土の軍刑務所に移送された後も、終戦の一年後に時雨が出所するまで、私は毎週手紙を出した。返事が来ることもあれば、来ないこともあった。頼まれれば、多少の物品は送ってやった。ハーモニカの教本とか、写真集とか、そういう誰の害にもならないものならだ。出所する、という旨の手紙を最後に、彼女は一旦姿を消した。次に会ったのは終戦から四、五年ほど後のことだ。彼女はある朝突然、私の家を訪ねてきた。艦娘の姿のままだった。私は驚いたし、少しは怒りの気持ちもあったが、それ以上に彼女が生きて目の前にいるということが嬉しかった。私はすぐに家の中に彼女を招き入れ、暖かい飲み物でもてなした。人心地ついた頃に、艦娘の姿のままであることを指摘して「軍の仕事をしているの?」と尋ねると、彼女は眉をハの字にして困ったような顔をした。

 

「軍の仕事、か。うん、そう言えなくもないね。今度から僕もそう言うことにしようかな。インスピレーションをありがとう」

「またどうせ危ないことをしているのでしょうね」

「お小言かい?」

「嫌なの?」

「その逆さ。まだ僕にそんなことを言ってくれるのは君だけなんだからね。分かるかい、僕にはもう君だけなんだよ、加賀」

 

 時雨は自分の詳しい話はしたがらなかった。私の話ばかりを聞きたがるか、さもなければ昔話ばかりしたがった。だから私たちは一日中、戦争をしていた頃の自分たちについて話し合った。翌朝別れる時、時雨は泣き出してしまった。私は彼女の目から涙が流れるのをその時初めて見た。戦争中にすら、彼女がこんなにもあからさまに涙を流したことはなかったのだ。「また来なさい」と私が言うと、時雨は頷いた。

 

 私たちは時雨の都合に合わせて年に一度だけ、私の家で会うことにしている。今年も彼女はふらりとやってくるだろう。多分、どちらかが死ぬまでこの習慣は続くのだろう……。



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13「短い後書き」

 戦後、長門は海軍に残って艦娘を鍛え上げる教官になった。響は大学を出て外務省に暫く勤めていたが、資格を取ってから転職して、退役した者を含む艦娘たちの為のカウンセラーになった。噂では、グラーフはまだドイツ海軍にいるらしい。那智は今度教頭になると手紙が来たが、私の見込みだとじきに副校長になるだろう。時雨は何をやっているか分かったものじゃないが、生きてはいる。そして私はかび臭い記憶を掘り起こしては、それを言葉にしてよみがえらせ続けている。

 

 記憶はとめどない。私は文字にすることのできない想い出を、幾つも胸に呼び起こすことができる。臭いや、音や、湿気、感情、種類は様々だ。そういうものを一つに繋ぎ合わせて、私は話を書く。戦争についての話を。多くは艦娘についての話だ。上の娘は中学生になってからというもの、繰り返し繰り返し私に「お母さんはそろそろ次のテーマに進むべき」だと言ってきた。私はその度に彼女をなだめるように笑い、尋ねた。

 

「たとえば、どんなテーマ?」

「どんなことでもいいじゃないの、とにかく戦争とか、海とか、飛んでくる砲弾とか、ばらばらになった人体とか、そういうもの全部から離れたところにある何かよ。終戦から何年経ったと思ってるの? お母さんの本が滅多に出版されないのは、そういうことばかり書いてるからよ」

 

 彼女の言う通りだと思う。二十年経っても、私は戦争のことを書いている。それも私が行った戦争のことだけを。時々、私はそのことで気まずい思いをすることさえあるのだ。もしかしたら私は、試しに平和について書いてみるべきなのかもしれない。だがそれは私にはとてつもなく難しいことのように思われる。テーマが平和だからではない。仮にテーマを家族にしてみても難しいだろう。国や社会にしてみても、私は一年中頭を悩ませて、やがておかしくなってしまうに違いない。私には戦争のことしか書けそうにない。娘は文句を言うだろう。腰に手を当てて足を開いて、不満げに首を傾げて、詰問するだろう。それは多分、こんな風だと思う。

 

「どうして書けないっていうの?」

 

 そして私はこう答えるだろう。罪悪感とか、娘の願いを叶えてやれない無念さで俯きながら。

 

「だって私の胸に浮かぶのは、あの戦争のことばかりなんだもの……」

 

 このことを説明して、分かって貰えるとは思わない。物事の中には、その渦中を通ってきた者にしか、理解を許さないものもあるのだ。時にはその条件を満たしてさえ、人は理解することができない。そういう人々にとって、それは通り過ぎてしまったことであって、まだその中を歩み続けているのではないのだ。

 

 ここで、私はある一通の手紙を引用することができる。それは赤十字が特にパラオやショートランド、トラック泊地などの、東南アジアに配属された艦娘が退役する際に、許可を得て事前に退役艦娘の家族へと送っていたもので、原型は昔々のベトナム戦争時代に遡ることができる、歴史ある内容の手紙だ。私は何処かでそれを手に入れて、今も資料ボックスに片付けてある。その手紙は、こんな風に始まる。

 

『間もなく、下記の人物が再びあなたたちの生活の中に戻ってきます。今はまだ恐怖や無気力に支配されていますが、彼女は再び、万人に与えられるべき平穏と自由を手にした一人の人間として、社会の中で彼女自身の人生と、暫くの間中断されていた幸福の追求を再開することになります。

 

 心温かに銃後の世界に彼女を迎え入れる為の前向きな準備を行う前に、あなたは彼女が不幸にも体験してきたあらゆる環境について、ある程度の覚悟と寛容を持たなければなりません。別の表現を用いるならば、国外での生活と戦争の重圧、艦娘であるという特殊な状況から、彼女は多かれ少なかれあなたの世界における常識と乖離(かいり)した常識の持ち主になっている可能性がある為、特別かつ適切な注意を払わなければならないということでもあります。先進国では通常接することのない疾病に罹患していても、驚かないで下さい。海軍病院で適切な処置を受ければ、彼女の体は元通りになります。たとえ彼女が柔らかなお腹の中に数メートルの虫を飼っていても、動揺せずに医師に受診し、虫下しを処方して貰って下さい。

 

 同様に、たとえ彼女が家の中で武器を携帯してうろついていても、心配になるぐらい少量しか昼食を取らなくても、反対に夕食では鯨のように大食をしたとしても、あるいは真夜中に夜戦の時間であるとして騒ぎ出しても、動揺を見せないで下さい。小さな子供を目で追っていても、アイスクリームのことをアイスクリンと呼んでも、最中(もなか)を食べれば疲れが取れると信じていても、多少のことなら甘味で買収して大目に見て貰えると思っていても、冷静さを保って下さい。たとえ彼女が缶詰から手掴みでものを食べても、おにぎりのことを戦闘糧食と呼んでも、気づかないふりをして下さい。たとえ彼女が、日常生活で生じうる小さな怪我のことを小破と呼んでも、風呂に入ることを入渠と呼んでも、入渠すれば怪我が治ると思っていても、笑ってそれを許してあげて下さい。たとえ彼女が消毒液のことを高速修復材と呼んでも、それを頭から被っても、大目に見てやって下さい。

 

 カレー、焼き魚、紅茶、アルコール類などの話題は必要以上にしないよう注意して下さい。彼女が皿にラップを張って使っても見ないふりをして下さい。庭に穴を掘って食べ残しを埋めても驚かないで下さい。それが彼女たちのやってきたことなのです。雨が降ってきた時に、傘も差さずに外に飛び出して行っても怒ったりしないで下さい。

 

 あなたの娘がトラック泊地所属だったのに隣人の娘が横須賀鎮守府所属だったのは何故か、などという質問は絶対にしないで下さい。隣人の娘が戦艦なのにどうしてあなたの娘は駆逐艦娘だったのかも、何があろうと尋ねてはいけません。「抜錨」「潜水艦」「轟沈」などの言葉はなるべく避けて下さい。食事に行った時に使い残しの軍票で支払おうとしたら、穏やかに支払いを肩代わりしてあげて下さい。あなたの娘が喫煙者である場合は、自分の腕や舌に押しつけて火を消すかもしれませんが、目をつぶって下さい。彼女は手紙を読みふけるでしょうが、その時には彼女の心は戦地に残してきた戦友たちのところにあります。適当なところで励ましの言葉をかけてあげて下さい。男性が周囲にいる場合、気をつけて下さい。容姿の優れた男性がいる場合は、特に気をつけて下さい。

 

 あなたの娘は一回り大きくなっているかもしれません。腕を失っているかもしれません。足を失っているかもしれません。喋れなくなっているかもしれません。何であれ、彼女の緊張した外殻の下には、柔らかで穏やかな心が眠っているということを絶えず頭に留めておいて下さい。それは彼女があなたたちと共に故郷に残してきた唯一の価値あるものなのです。どうか寛容と優しさを持って、彼女に接してあげて下さい。そして年齢が許せば、時々お酒を飲ませてやって下さい。心配する必要はありません。時間は掛かるかもしれませんが、あなたは必ずや、あなたが知っている、そしてもちろん愛している可愛らしい女の子を、この平和な社会に連れ戻すことができます。

 

 さあ、こんな手紙を読んでいる場合ではありません。すぐに冷蔵庫を飲み物で満たして、彼女のまともな服を用意して、パーティーの為の食材を買ってきて下さい。でもパーティの際には決してクラッカーを鳴らさないで下さい。また、傷つきやすい子供や男女を安全な場所に避難させて下さい。最後になりましたが、これはとても大事なことです。とにもかくにも、あなたの娘が家に帰ってくるのです』

 

 いい手紙だ。実際的なアドバイスの中に、ユーモアが含まれているのがいい。折角だからと全文引用してしまったが、実のところ取り上げたいのは最後の一文だけだ。私たちは家に帰ってきた。これは認める。私だって帰ってきた。ただし、肉体は、だ。私の頭の中にはいつでもあの頃の記憶が眠っていて、ふとした拍子にそれはよみがえる。私はその時、家で家事をこなしていたとしても、あの頃の自分に戻っている。皿を洗いながら、部屋の掃除をしながら、家族の為の夕食を作りながら、私は艦載機を飛ばし、副砲を撃ち、血を流している。潮の匂いは、時間を越えて私を追いかけてくる。それは解くことのできない呪いのようなものだ。長門に言ったことと、彼女が言ったことを私は思い出す。戦争は終わっていない。私たちはまだ艦娘だ。彼女たちはいつでも、あの頃の私自身なのだ。

 

 だからきっと、私たちは今も海にいるのだろう。これから私の娘が乗り出していく海に。彼女は十五歳になった頃から、何を思ってか、艦娘になると言い出し、つい先日の中学卒業と同時に、訓練所に入ってしまった。元「加賀」としては何とも気まずいことに、「瑞鶴」に適性があるらしい。私が既に解体されていてよかった。せめてもの(はなむけ)に、伝手を頼って、彼女が長門のいる訓練所にでも入れて貰えるように頼んでみよう。それにしても瑞鶴とは、何の因果だろうか……。



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新版発行に寄せての書き下ろし
14「笑えない話」


 「私たちの話」が出版されてから少し経ったが、私の語る戦争の話は笑いどころが多すぎる、という指摘はまだ止まない。「私たちの話」に最初に収録された中には笑えない話も少々ならず混じっていた筈なのだが、それでもやっぱり多すぎるらしい。そういう訳で、今回はどうして私が楽しい想い出についてばかり書くのか、そして何故そうではない想い出については余り取り上げないのか、もうちょっと詳しく話そうと思う。手始めに、私にとって初めて訪れた“最悪の瞬間”からスタートしたい。

 

 その時、私たちはいつものように航行中だった。太陽の光が肌を焼く感触を覚えている。全身に塗りたくった日焼け止めの上からでもお構いなしで、海面の照り返しも相まって、夜には痛みと火照りから逃げられそうになかった。私は憂鬱に溜息を吐いた。するといきなりばしゃり、と音がして、冷たくて塩気のある水が私の胸に飛び散った。私の前を行く那智が、海水を蹴って私に潮水を引っ掛けたのだった。いきなり何をするの、と私が言うと、那智は身と首を捻ってこちらに顔を向け、二発目を私の顔面に放った。私はあえて避けなかった。焼けた肌に多量の塩分を含んだ水が染みて痛みを感じていたが、それと同じぐらい冷たくて気持ちよかったからだ。

 

 私の様子を見た那智は、濡れ女、と言って笑った。彼女の隣の長門は船幽霊説を唱えた。グラーフ・ツェッペリンと響は、自分たちが子供を相手にするには大人すぎるとでも言うかのように、そっぽを向いていた。だから私は隙だらけの二人に海水をお見舞いした。ケープごとべったりと服が貼りついたグラーフの背中のラインを見て、那智は軽く口笛を吹く。私と長門は小さく笑い声を上げる。響がこちらを向いて文句を言おうとしたが、狙い澄ました連撃が彼女の口の中に直撃してむせ返ってしまう。私は先頭に立つ古鷹の名を呼ぶ。彼女は首を回してこちらを見る。

 

 この次に起こったということと、私が見たと思っているものは、ぴたりとは一致しない。私には古鷹が微笑んだように見えた。そして彼女は小首を傾げた。辺りにぱしゃぱしゃと音を立てて何かが飛び散った。轟音が耳朶を打った。ぽかんとした古鷹の顔が、泣き出しそうな表情に変わり、それからすぐ歯を食いしばってこらえるような顔になった。那智が罵声を吐き出しながら砲撃を始め、グラーフが私の肩を強く押した。「発艦を始めろ」と彼女は怒鳴った。

 

 もしあなたが私と同じように戦争に行ったというのなら、あなたには私の言っていることが分かる筈だ。戦争の中で、あなたは時々、見たくないものを見ることになる。あなたは「うえっ」と思い、俯いて目を伏せる。あなたが見るのは事実の片鱗と、その結果だけだ。過程はほとんどが認識されずにあなたの前を通り過ぎていく。でもあなたの脳は、あなたの記憶がいい加減な状態であることを遺憾に思う。そこであなたの想像力が断片的な事実を繋ぎ合わせ、一つの見栄えのよいエピソードを作り上げてしまう。混じり気のない、純正のフィクションを。

 

 大体、戦争の話というのは疑わしいものが多い。私の話だって、うろ覚えで書いているところがあると白状しなければならないだろう。那智は古鷹が撃たれる直前に発砲したような気もするし、グラーフが私の肩を押したのは古鷹を助ける為に駆け寄ろうとしてのことだったような気もする。「発艦を始めろ」と叫ぶ彼女の声が私の耳に響くと同時に、「古鷹避けろ」と悲鳴を上げるグラーフの声もまた、私の心によみがえる。大抵の場合、こういった記憶の真偽を確かにすることは不可能だ。それは実際的にできないということであると同時に、私自身がしたいと思わないからでもある。

 

 およそ、フィクションは望まれて作られる──意識的にではないにせよ。それは、あなたは友達が死ぬところを目の前で見たということを認めたくないからだ。そんなことを素直に受け止められるほど愚鈍ではないからだ。だからあなたは目を閉じたり、耳を塞いだり、息を止めたり、そういうちょっとした動作で虚偽の入り込む余地を生み出し、ストーリーを粉飾する。そしてほとんどの場合、そこにはユーモアが一緒に入り込む。するとあなたはそれを何かとても面白い出来事として語ることができるようになる。

 

 私と艦隊員たちが作戦中に補給基地に立ち寄った時、そこに所属していた何人かの艦娘が、彼女たちの戦死した友人について話していた。ある艦娘は心配性で、出撃に際していつも紐で肩掛けできる袋を個人装備として持っていったそうだ。中にはありとあらゆる「必要になるかもしれない」何かが詰め込まれており、その艦娘は常日頃から「備えあれば憂いなし」と口にしていたという。彼女の首元を砲弾が突き抜けていった時、何について備え忘れたせいでそうなったのか彼女が疑問に思ったことは確実だろう。

 

 戦友たちは彼女の仇を討った後、艤装が外れたせいでまだ浮かんでいた彼女の頭と胴体を見つけ、袋を取り外すと、中身を捨てて頭をその中に入れて持ち帰ったらしい。そこまで語ると、私にその話をしてくれた艦娘たちは言った。「ホント、あの子の言ってた通りだったよね、備えあればって」「それに何てったってもう最高に憂いないよ今のあの子は、だって死んじゃってるしさ」そして彼女の首が撃ち抜かれた時、頭がどれだけ高く跳んだかについて話し合った。一人が回転しながら一メートルは跳んだと言うと、別の一人がだるま落としのようにただぼちゃんと落ちたと主張し、また別の一人は空高く跳び上がって敵の艦載機を一機撃墜したと言い出した。

 

 多分、彼女たちは戦友の死体を袋に入れて持ち運んだのだろう。多分、その戦友は口癖のように「備えあれば」と言っていたのだろう。それ以外のことは、全部疑ってしかるべきだ。頭が跳んだかどうかとか、敵の弾が当たったのが首だったのかどうかとか、それが夜だったか昼だったかとか、雨が降ってたか晴れてたかなんてことは、全部が全部眉唾物だ。私たちの記憶というのは、その程度のものなのだ。私たちは見ようとしない。私たちは聞こうとしない。私たちには受け入れられない。直面した事態がハードすぎて、何かで薄めずにはいられない。

 

 一つはっきりさせておこう。あなたが誰か元艦娘だという人から戦争の残酷な話を聞く時、その人がもし立て板に水のように喋るなら、加えてその話がすとんと胸に落ちるように受け止められ、理解することができたとしたら、あなたは彼女を疑った方がいい。もしかしたら彼女は艦娘だったかもしれない。彼女が話しているのは彼女が百パーセント真実だと信じていることなのかもしれない。そうだったとしても、彼女の話は事実ではない可能性が高い。何故なら、先に言ったことと似ているが、本当に起こったことを話すことは不可能だからだ。海の上で起こった嫌な出来事について語る時、私たちはいつでも、蝋燭(ろうそく)の炎のように頼りなく揺らめく記憶を口にすることになる。記憶している何が真実で何がフィクションなのか、私たちはどうにか区別して話そうとする。当然、話し方はたどたどしくなり、最初に言ったことを後になって訂正することもしばしばだ。それが本当の話であり、本当の話をしている艦娘の喋り方というものなのだ。

 

 だが仮にあなたの話し相手がそんな喋り方だったとしても、もしそこにユーモアの香りがしなかった場合は、やっぱり気をつけた方がいいだろう。こんな話をしよう。ある艦隊が、深海棲艦の大軍勢に直面する。逃げても背中を撃たれるだけだということになって、無駄死にするぐらいならみんなで暴れた末に死ぬことに決め、真っ直ぐ敵に突っ込んでいく。ところがそれがかえって敵を驚かせたのか、艦隊は無傷で敵陣を突破して人類の勢力圏にある補給基地に帰り着く。これは実際にあったことだとされている。でも、私は信じない。あなたがこれを信じるのを止めはしないが、そうするつもりならそれについて私は断言する。あなたは軍のプロパガンダの犠牲者であり、まだこんな古臭い手に引っかかっているお間抜けさんだ。

 

 これを本当の話にしようとするなら、私たちはこう語らなくてはならない。ある艦隊が、深海棲艦の大軍勢に直面する。逃げても背中を撃たれるだけだということになって、無駄死にするぐらいならみんなで暴れた末に死ぬことに決め、真っ直ぐ敵に突っ込んでいく。ところがそれがかえって敵を驚かせたのか、艦隊は無傷で敵陣を突破して人類の勢力圏にある補給基地に帰り着く。でも結局追ってきた深海棲艦の大軍に基地は蹂躙され、そこにいたみんな死んでしまう。これは実際には起こらなかったことだろうが、それでも私はこれを本当の話だと信じることができる。そこにはアイロニーがあり、ユーモアがある。

 

 無論上述の通り、ユーモアは虚飾の混じった証でもありうる。けれどだからこそ、私たちはそれが──その話の幾らかが──本当にあったのだと信じられる。ユーモアがないというのは真実がないというのと同じことだ。私たちがそれを笑ったのは、笑わずに受け止められないほど辛かったからなのだ。それだけひどかったということなのだ。戦場で私たちが見たものの幾らかは、笑いというフィルターを通してでなければ受容することができないものだったのである。

 

 たとえば、古鷹が死んでグラーフが去った後、長門と那智は二人での警戒任務から帰投する最中に、重巡リ級と偶然遭遇して交戦した。そのリ級が単独だったということもあり、二人はあっさりと敵を片付けたが、戦闘が終わると那智は普段からぶら下げていたナイフを引き抜き、リ級の首を切り取った。帰ってきた二人は、誰彼(だれかれ)なしにその首を見せつけ、ナイフを棒に縛り付けて作った槍の先に刺し、戦旗のように上下に振りながら基地を練り歩いた。食事の時には椅子の上に箱を置いてその上に首を載せ、(うやうや)しい態度で「召し上がれ」と言ってプレートの上にあった中で一番人気のおかずを口に押し込み、水を飲ませ、口元をナプキンで拭い、見せ掛けの敬意を払った。

 

 その時の彼女たちを「どうかしていた」とか「頭がおかしい」などと表現することは簡単だ。でも本当はそうじゃなかったということを私は知っている。二人がこんなことをしたのは、彼女たちにはどうやって戦友を失った後に残された自分の気持ちを処理したらいいか分からなかったからだ。彼女たちはまだ若くて、友達が死ぬということについて慣れていなかった。打ちのめされるということを知らなかった。だからふざけるしかなかった。残酷で悪趣味なジョークを言い、生死そのものを馬鹿にして、死んでいる者を生きているかのように扱うことによってでしか、古鷹を失ったことと、彼女がいなくても世界は続くという悲しみから目を背けられなかったのである。

 

 結局のところ、戦場で私たちが見たものについて話をするというのは、そういうことについて話をするということだ。それは古鷹の四分の三の頭について話すことであり、那智がリ級の口に押し込んだスプーンに付着した黒っぽい粘液について話すことであり、聞いているだけで胸が悪くなってくるようなあらゆる悲惨さについて話すということであり、見ることも聞くことも知ることさえも望まなかった何かについて語るということなのである。

 

 そして私は、そんな話なんか誰にもしたくなかったのだ。



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15「陽炎型駆逐艦:不知火」

 彼女自身がそのことをどう感じているにせよ、私が艦娘だった頃に一番気に入っていた後輩の名前を一人挙げるならば、私としてはそれを不知火とするということに全く揺らぎや迷いがない。

 

 彼女は私が二十歳の時に横須賀の訓練所からやってきた。季節は春で、本土に移った後のことだ。優秀な駆逐艦娘だということで、配属される艦隊は違ったものの私や響は大いに期待を掛けていた。駆逐艦娘や軽巡艦娘は補給線の守り神でもあり、また対潜戦闘におけるキーパーソンでもあったからだ。それに前評判によれば、彼女は艦娘として配属されるよりも先に、訓練所で手柄を上げていた。しかもそれが半端なものではなく、何とも驚いたことに海軍からの感状を受け取るほどのものであったというのだから、私たちはみんな、いやが上にも希望を膨らませていったのである。

 

 しかし不知火は全然そういった評判通りの人物ではなかった。優秀ではあったが、しばしば迂闊な失敗をすることが彼女の優秀さをほぼ無意味にしていたのだ。そのことに気づいた時、私たちは初めがっかりした。でもすぐに、不知火が自分を高めることに余念のない人物であるということを発見して、評価を変えざるを得なくなった。彼女は滅多に二度同じ失敗をしなかったし、段々と場数を踏んで慣れるにつれて自分のミスを他人にフォローさせることなく、自分自身の力で挽回できるようになっていったのだ。そういうひたむきさに弱かった私は、すっかり彼女のことを好きになってしまった。戦艦並の眼光、と形容されることの多い彼女の外見ではあったが、少し打ち解けると沢山の面白い話を知っていたというのも好感触だった。

 

 なので私は、私の知っている役立ちそうな知識を惜しみなく彼女に与えた。それはつまり、徹底的に訓練してしごいて痛めつけて、戦場での立ち振る舞いを教え込んだという意味だ。駆逐艦に空母の私の技術がそのまま使えたとは思わないが、不知火が最終的に戦争を生き延びたことを考えると、きっと有用なものもあったのだろう。

 

 そんな具合だったので嫌われても仕方ないと思っていたが、ある時彼女は私にこっそり、感状を受け取るに至った顛末を話してくれた。どうしてかは分からないが、そうするのに十分なほど私が信頼できると考えてくれたのだと思う。まあ何にせよ、この話というのがまた下らない勘違い話だった。

 

 艦娘訓練所では、訓練しかしないのではない。艦娘候補生(まだ入隊宣誓を済ませておらず、艦娘としての肉体を持っていない者を指す)や訓練生(宣誓を済ませて艦娘になった者を指す)は、訓練の合間に種々の仕事を与えられるのが普通だった。掃除や歩哨、夜警の類だ。この中で最も魅力的なのは、食事時の配膳係だった。それというのも、自分のプレートに好きなだけ盛ることができた上、気に入らない奴のプレートにはほんのちょっとだけしか乗せてやらないとか、そいつが嫌いな豆料理をこんもり盛ってやる、というようなこともできたからである。無論、あんまりやりすぎれば喧嘩になって教官たちに知られ、職務に対する真摯さの欠如を咎められて罰則を申し渡されるのが関の山なので、気のせい程度の違いしか作らないのが普通だったが。

 

 本人の話によれば、不知火はその威圧感から立哨などの警備系任務を任されることが多かったらしい。言うまでもなく立哨とは、やることもなく立っているばかりの仕事だ。運がよければ規定されたルートを歩いて警備することもできるが、それだって同じルートを何度も何度も馬鹿みたいにぐるぐるしているだけのことでしかなく、段々自分の人生に疑問を感じ始めてしまうのを止められるほどの幸運ではない。

 

 でもこの時、配属命令受領数日前の不知火訓練生は抜群にツイていた。工廠の、艤装保管庫内の警備を任されていたのだ。それが他の哨兵たちとどう違うかというと、空調の効いた室内で、椅子に座って過ごすことができたのである。しかも原則として内部の警備は一人に任せられていたから、他人の目を気にせずのんびりしていることができたし、何かあっても大体は、保管庫の厳重な鉄扉の外に立っている二人の歩哨が対応してくれるのだ。実に気楽な、任務と呼ぶよりも休暇と呼んだ方が正確な形容になるであろう任務だった。不知火が訓練を受けたのは冬だったので、彼女は外で震える歩哨たちを尻目に、暖かな室内で安らかにしていられた。するとどうなるか? まぶたが下がり始めたのである。彼女は伸びを一つして、リラックスして、生理的欲求に従った。それは要するに居眠りだった。

 

 次に彼女が目を覚ましたのは、鉄扉の外で銃声がした時だった。何事かと思って不知火がそこを飛び出すと、たちまちそこにいた正規の艦娘や訓練教官たちに「よくやった、訓練生!」などと褒められ、撫でられ、もみくちゃにされた。それからはあれよあれよと言う間に表彰、感状授与だ。ところが当の不知火には何で自分が褒められているのか分からなかった。そして、とにかく居眠りがバレるとマズいということだけは知っていた。なので必死で話を合わせ、求められるがままに振舞った。彼女はどうにか、配属命令が下って訓練が終了するまで、みんなを騙すことに成功した。

 

 実際に起こったのはこういうことだったらしい。まずこれ自体ほとんど信じられないことに、訓練隊に過激な融和派、つまり深海棲艦のシンパ連中が紛れ込んでいた。彼女たちは艦娘になって、それから武装蜂起しようとしていた。そしてこのテロリストたちはそれに半分まで成功した──艦娘になり、軍事訓練を受け、最低限ながら戦い方を身につけたのだ。連中は最後の仕上げに取り掛かることにし、二手に分かれた。一方で騒ぎを起こし、もう一方がその騒ぎに乗じて艤装保管庫を開けさせ、装備や弾薬、燃料を奪取する計画だったらしい。騒ぎを起こすところまではよかった。いや、艤装保管庫前の哨兵たちを持ち場から離れさせたところまでが、彼女たちの成功と言うべきものかもしれない。

 

 だがそこで彼女たちは行き詰まってしまった。どれだけ外から声を掛けても、中にいる不知火が頑として扉を開けようとしなかったからだ。「融和派が攻撃を仕掛けてきたの」「私たちも艤装を着けて戦わなきゃ」と呼びかけても、軍法会議なんかのことを口にして脅しても、不知火は決して扉を開けなかった。すっかり眠っていたんだから、まあ当然のことだ。そうこうしている内に、横須賀鎮守府から駆けつけた艦娘や訓練所の教官たち、それからまともな訓練生たちによって陽動班が鎮圧され、次いで艤装保管庫前で騒いでいた残りの半分も捕まった。不知火を目覚めさせた銃声は、その時に行われた威嚇発砲音だったという訳だ。

 

 私は不知火が感状を授与された時の写真を持っている。彼女に頼んで焼き増しして貰ったのだ。その中には引きつったような、強張った笑顔で、横須賀鎮守府総司令代理から感状を受け取る不知火の姿が写っている。周りには同期の艦娘たち。誰もが不知火に尊敬の念と、友人への愛情を込めた視線を向けている。彼女たちの顔を見ればすぐにそうだと分かる。いい写真だ。不知火という艦娘が、彼女という人間がどういう人物であったかを端的に示しているではないか。失敗はするが、そんなのは誰だって同じことだ。一度も失敗せずにいられる人間は少ない。落ち度のない人間だけが、彼女を責めることができる……でもそんな人間がいたら、私がそいつに石を投げつけてやるつもりだ。

 

 彼女のエピソードで私が気に入っているものには、不知火には申し訳ないのだけれども、失敗談が多い。たとえばこんなものがある。不知火は第四艦隊に配属されたのだが、この艦隊は何でも屋の一面があった。工廠で多種多様な作業に当たる明石や夕張もこの艦隊に入っており、不知火は彼女たちの手伝いや、基地周辺の水上警戒、対潜哨戒、その他の雑用、それ以外だと訓練所時代でお馴染みの歩哨任務などをしなければいけなかった。つまり、駆逐艦娘としてのプライドを傷つけられる仕事だ。不知火は純然たる戦闘艦であって、明石のような工作艦や、夕張のような兵装実験軽巡ではないのだから。それでも不知火は腐らずに任務をこなし続けた。で、時々やらかした。

 

 ある夜のことだ。不知火は立哨を命じられていた。インフルエンザが流行していて、本来そこに立つ筈だった警備兵が寝込んでいたせいだ。予定外の勤務だったこともあって、またしても不知火はうとうとし始めた。そこに提督が通りかかった。考えうる限り最悪のタイミングである。立哨は上官が近くに来た場合、敬礼して現在の状況を報告する義務があったのだ。眠りかけていたせいで提督に気づくのが遅れた不知火は、彼女が持っていた杖(提督は女性で、足と性格が悪かった)で頭をがつんと打たれた。目を白黒させる駆逐艦娘に提督は言った。

 

「お前はたった今死んだ」

「しかし」

「しかしも何もない。お前は死んだ。今や幽霊だ。それらしくしろ」

 

 不知火は本当に困った。

 

「あの、司令──」

「上官命令だ」

 

 困ったけれど、上官命令だと言われ、二度も命令されては逆らえなかった。それで不知火はとにかく自分が思いついた最も幽霊らしい振る舞いをやってみることにした。手を顔の高さに上げ、手首の力を抜いてだらんと垂れ下げたのである。ついでに精一杯の努力の証として、恨めしそうな呻き声を演出した。提督はそれを見て満足すると、ふとこう質問した。

 

「お前は地縛霊か?」

 

 この鋭い駆逐艦娘は、ここで「はい」と答えるとどうなるか即座に理解した。『時間になっても交代を許されず、司令の気が済むまでここに立たされる』と見抜いたのである。だから彼女は「いいえ司令、不知火は浮遊霊です」と答えた。提督は頷いてから彼女に告げた。「じゃあ一体お前はいつまで同じ場所に立っているつもりだ? とっとと徘徊しろ!」それは海軍始まって以来のユニークな命令だった。不知火は徘徊を始めた。幽霊らしくしろとの命令も効力を発揮し続けていたので、“幽霊のポーズ”を解くことも許されなかった。呻き声を上げながら幽霊っぽく(・・・・・)基地内を歩き回る不知火の姿を見て、彼女と運よく出くわした夜間当直は一人残らず笑ったそうだ。

 

 他にもこんな出来事を覚えている。私と長門は仲間内だとよく食べる方で、お腹一杯食べることができない昼間はいつも空腹を持て余していた。食糧の不足が原因ではなく、午後からの戦闘任務中に腹部に被弾した時のことを考えると、どうしても食事量を減らさざるを得なかったのだ。自分の腹の中で昼食の成れの果てがぶちまけられるというのは、経験がある身から言わせて貰うが、二度体験したいものではない。で、私と長門は食堂から離れたところにある工廠の裏で時間を潰すのが昼下がりのよくある風景だった。そこに不知火が現れた。手に薄めの小さな鋼材を持っていた。手伝いのようには見えなかった。それに私たちに見られて「あっ」と声を漏らしたので、私たちは即座に彼女を捕まえた。

 

 そうして話を聞くと、彼女も私たちと同じ悩みの持ち主だった。私や長門に比べて不知火は食べる量そのものが少ないが、それでもやっぱり足りないものは足りなかったのである。だが出撃任務を午後に控えた艦娘が食堂で沢山昼食を食べていると後で提督にたっぷり嫌味を言われるということが既に知られていたので、鋼材の余りをくすねてフライパン代わりにし、基地内の鳥の巣から取った卵で、目玉焼きなり卵焼きなり炒り卵なりを作ろうと不知火は考えていた。そしてそこを私たちに見つかったのだ。

 

 もちろん、同じ苦しみを抱えた者として、私と長門は彼女を提督に突き出しなどしなかった。こっそり火を起こし、工廠のガラクタで足を作ってくすねた鋼材にそれを取り付けた。私たちは鉄板が熱くなるのを待って、意気揚々と卵を割った。私たちは現代っ子で、自然の卵を食べようとする時に生じうる問題というものを認知していなかったのだ。

 

 私たちの割った卵からは半分鳥の雛のような形になった何かが出てきて、それが鉄板の上にびちゃりと落ちた。私や長門はそれよりも遥かにグロテスクなものを見てきたが、その時の不知火はまだ違っていた。文字に起こすなら「ひゃああああ」になるであろう悲鳴が彼女の口から漏れ出て、何だ何だと工廠から整備員や明石が現れた。で、全部バレてしまった。

 

 私たちが揃って執務室に出頭した時、提督は嬉しそうな顔をしていた。まるで部下を罰するのが楽しくてたまらない様子だった。というか、そうだったのだろう。彼女は私たちが取るべきでない食事を取ろうとしたことをちくちくと責め、果てしない食欲の為に命を粗末にしたことを責めた。私と長門は聞き流していたが、不知火はそれを丸っきり本気で受け止めてしまい、黙って泣き出す始末だった(仕方のないことだ。彼女はその時まだ十五歳だったのだから)。お陰で私はほっこりした(これも仕方ない)。

 

 長々と続いた皮肉と当てこすりの後、提督は私たちに「かわいそうな小鳥さん」の為の墓穴を掘って墓碑を建てることと、完全な軍葬を執り行うよう命じた。私たちは小鳥の為に穴を掘り、板を使って墓碑を建て、弔辞を読み上げ、慰霊飛行を行い、弔砲を発射して、最後には集まった他の艦娘や基地職員たちの前で、罪のない雛を焼き殺したことについて公式に謝罪しなければならなかったのである。加えて「完全な軍葬」の定義に従い、その後二週間に渡って一日につき八時間も小鳥の墓前で儀仗兵任務を行わなければならなかった。

 

 こういう巻き込み型の落ち度もあったが、それでも誰もが不知火を好きになった。そして私を含む多くは、今でも彼女を好きなままでいる。きっとこれはかつて長門が持っていて、那智の右腕と共に失ってしまった才能と同じものなのだろう。だから私は、不知火が戦後に特設高校に行こうとしていたのに、出願の期限を勘違いしていたせいで一般高校に通うことになった時も、本人が新しい環境や艦娘ではなかった人々に囲まれての生活に不安を感じていたにも関わらず、何の心配もしていなかった。そしてそれは正しかったのだ。彼女はよい友達に恵まれ、よい教師たちに教えられ、とうとう国立大学の医学部に進学して小児科医になった。己を不知火の友人だと考えている全ての人々は、その時思ったことだろう。

 

 ……どうしてよりによって医者になんかなってしまったの、不知火?



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16「とりとめのない話」

 「私たちの話」を書く少し前のことだが、下の娘が通っている小学校で話をしてくれないかと担任教師から頼まれた。テーマはもちろん、戦争についてだ。報酬も出るということで受けたのだが、正直、私としては教師の意図が掴めない依頼だった。私が参加したのが人間同士の戦争だったなら簡単だった。戦争はとにかく悲惨だ、よくないことだ、避けなければいけない、と教えれば済むことだからだ。ところが私たちが潜り抜けてきた戦争は、人類史上初の種族間戦争だった。それも相互に憎悪と無理解が蔓延しており、「殺さないと殺される」という状況での戦争だ。こうなると、問題が出てくる。「とにかく悲惨」はいいとしても、「よくないことだ」と「避けなければいけない」が言えなくなるのである。

 

 かといって教師にせよ保護者たちにせよ、「戦争はいいことだ」「どんどんやりなさい」なんてことを自分の大事な子供たちに吹き込んで欲しくはなかっただろう。私としてもそんな言葉は口にしたくなかった。そこで私は、自分の経歴と戦争そのものについて軽く説明をした後で、実際に戦場に赴いて戦い、生き残った元艦娘である私に対して子供たちが質問する、という形式を取ろうと考えた。これなら古鷹の頭がどんな風に飛び散ったかについて自分から話さなくて済むし、母親たちから子供がうなされるようになったと苦情を受ける心配もしなくていいと思ったのだ。

 

 ところが約束の日に学校に出向いてみると、私と学校側で意識の差があったことが判明した。私は教室で子供たちに話をするだけだと考えていたのだが、向こうは私に子供たちだけではなく大人も参加できる講演会を開いて貰いたいと思っていたのである。しかし私は動揺をおくびにも出さず、きちんと自分の仕事をやり遂げることにした。私は自分の経歴を話し、深海棲艦との戦争がどのように始まり、どのように状況が推移し、どのように終わったかをなるべく簡単に説明した。それから、子供たちだけではなく大人たちの為にも、彼ら彼女らも聞いて楽しめる話を幾つかした。その時は注意深く、子供が聞いても夜トイレに行けなくなることがないような軽い話を選んだ。

 

 たとえば足柄の話だ。本土の基地に移ってからの戦友だった足柄は誇り高く勇猛果敢な艦娘で、砲戦力において戦艦である長門に一目置かれる数少ない重巡の一人だったのだが、そういった荒っぽいイメージとは裏腹に、繊細な趣味を一つ持っていた。それは時計だった。

 

 誰でも知っての通り、時計というものにはピンからキリまであって、かつその値段にはおよそ天井というものがない。そもそも種類からして一つではないのだ。腕時計もあれば、懐中時計もあり、柱時計や壁掛け時計、置時計だってある。機構だって様々で、砂時計や水時計といった変り種は趣味人でなくとも惹かれるものが時にある。流石にそういった変種や大型の時計は足柄の守備範囲外だったようだが、最初の二つ、特に腕時計について足柄は本当に惜しげもなく給金をつぎ込み、蒐集(しゅうしゅう)に励んだ。何かの用事で彼女の部屋に行くことがあると、私や他の艦隊員たちはみんな、絶え間なく時を刻む無数の針の音が聞こえる気になったものだ。

 

 そんな彼女が時計で失敗を犯したことが一度だけあった。大規模作戦前々日のブリーフィングで艦娘、提督共に全員がぴりぴりしていた時のことだ。提督は、というか彼女の命令を受けた吹雪秘書艦は、以前に行った筈の作戦説明をもう一度最初からしている最中だった。これは私たちのもの覚えが悪すぎて一度では十分に説明を覚えられなかったからではなく、私たちと共同して任務に当たる別の提督の隷下にある艦隊に対して、改めて連絡しなければいけなかったからだった。作戦室の後ろの方に座っていた足柄は、前にも聞いた説明をまた聞かされて退屈になり、舟をこぎ始めた。

 

 それだけでも私たちの提督からたっぷりと罰を受けるのには申し分のない失態だったが、その時の足柄が着けていたのが勤務時間用の安価なデジタル時計だった。で、何とも運の悪いことに、そのアラームが絶妙なタイミングで鳴ってしまったのだ。小さな電子音だったが、それは作戦室にいる他の人々の目を足柄に集め、居眠りしていた彼女の目を覚まさせ、気を動転させて体を椅子からずり落とさせるには十二分な効果を発揮した。自分の艦娘が大規模作戦前のブリーフィングで居眠りをした挙句、「んにゃっ!」と珍妙な声を上げて尻から床に落ちた訳だから、提督にとっては赤っ恥である。その場の誰もが足柄に何らかの罰が与えられることを確信した──そして、私たちの提督がどのような人物かを知る者たちは、どんな罰が与えられるのだろうと思って震え上がった。

 

 翌日の朝、提督は足柄に命じて艦娘たちが暮らす寮の前にドラム缶を設置させた。そのドラム缶の上の方は輪切りにしてあって、丁度ふた付きのドラム缶風呂のようになっていた。それから提督は吹雪秘書艦に足柄をその中へと放り込ませた。彼女が哀れな罪人を缶の中に押し込むと、足柄の冷酷な上官は居眠りと彼女に恥をかかせた罰として今日一日その中にいるように命じ、加えて「誰かがドラム缶を蹴ったら、椅子から落ちた時のような声と共に立ち上がって現在時刻を叫び、もう一度(くだん)の奇声を上げて引っ込むように」と言いつけた。提督と秘書艦が去っていくと、後には足柄の入ったドラム缶と、彼女がどんな罰を受けるのだろうと離れたところから興味津々で眺めていた私たちが残された。

 

 誰も最初の一歩を踏み出そうとするものはいなかった。すると私は突然、自分がこれを何とかしなければいけないという義務感に駆られた。私は駆け出した。そしてドラム缶に必要なだけ接近すると、ほどほどの力で蹴飛ばした。

 

 中身がしっかり詰まっていないドラム缶を蹴った時の、あの鈍くて虚ろな音が響いた。私は蹴った足を引っ込めもしないまま、固唾を飲んで次に何が起こるのかを待ち構えた。実際には数秒のことだったろうが、次の動きが来るまでに、何分も待たなければいけなかった気がする。突然ドラム缶のふたが勢いよく持ち上がり、頭にドラム缶のふたを載せて顔を真っ赤にした足柄が「うにゃっ!」と叫んで現れ、はっと思い出したように「〇八三七(マルハチサンナナ)よ!」と声を張り上げると、「うにゃー!」というやけっぱちな喚き声と共に下がって行って姿を消した。私と何人かの艦隊員たちは提督の嗜虐的な独創性に心底感服し、その後も暇を見つけては、やり過ぎだと言われて妙高に怒られるまでドラム缶を蹴り飛ばして遊んだ……。

 

 この話は子供たちに大いに受けた。大人たちの半分も笑っていた。だが残りは「私の子供が真似をして乱暴な遊びを覚えたらどうしてくれるの」という顔をしていたので、私は慌てて別の話をしなければならなかった。平和で、皮肉が効いていて、ちょっと笑える話だ。それは小賢しい川内にまつわる話で、これにもまた、我らが提督が関わっていた。

 

 事の起こりはシンプルなものだ。川内が音楽の楽しみに目覚め(これは問題ではなかった)、自分でも演奏するようになり(これも大丈夫)、とうとう出撃時に携帯用ミュージックプレイヤーを持っていくようになった(これだ)。無論、提督の忠実な艦娘にして、艦隊についてなら大体何でも知っている吹雪秘書艦がそれに気づかない筈がなかった。

 

 提督は川内の頭にプレイヤーをテープで縛り付けた。その日から彼女は「川内型ミュージックプレイヤー」として、吹雪秘書艦か提督から「プレイ」するように言われると、何をしていようと立ち止まって、知っている歌を何でもいいから歌わなければならなかった。命令には他にも「スキップ」「ボリューム上昇/下降」「リピート」「一曲リピート」「シャッフル」などがあり、面白がった提督によって執務室を含むあちこちで歌わされたせいで、川内の声はすぐにがらがらになってしまった。お陰で、私たちは静かな夜の艦娘寮というものがいかに快適かということを知った。

 

 そんな罰が一週間も続き、とうとう川内は反撃に出ることにした。提督の「プレイ」という命令を無視したのである。川内は経験から、この提督がこういった反抗に対して即座に暴力的な反応に出ないことを見抜いていた。皮肉なり当てこすりなり、会話によって何らかの働きかけをしてくるだろうと推測していたのである。これは非常に正確な理解だった。提督は尋ねた。

 

「どうした、川内。プレイだ」

 

 川内は待ってましたとばかりに満面の笑顔で答えた。

 

「バッテリー切れです、提督!」

 

 そういう訳で、川内は車載用バッテリーをダクトテープで体にくくりつけられることになった。お陰で彼女は二度と提督に歯向かわないことを覚えたが、これはかなり高い授業料だったと川内自身が後に認めている。

 

 他にも危うく友軍誤射するところだった不知火が演習に口鉄砲で参加させられた話などをしてから、私はやっと質疑応答の時間に入ることができた。聴衆は意欲的に手を上げてきたが、その内の大半が既に何処かで答えたことがあるような新鮮味のない問いかけだった、と言っても罪にはならないだろう。子供たちからは「人を殺しましたか?」という、上の娘が六歳の時にしたのと全く同じ質問も寄せられた。大人気ない連中は責めるべきではない子供の無知さを笑ったが、私が「そのことは弁護士に話すなって言われてるの」と返すと、それはもう少し明るくて受け入れやすい笑いになった。

 

 覚えている中には、不躾な質問もあった。代表的なものとしては、「退役後、PTSDには悩まされませんでしたか?」を挙げられる。これはある男性から尋ねられたものだ。ふちの細い眼鏡を掛けた、見るからにデスクワーカータイプの彼は、戦闘経験のある退役艦娘がその手の問題に直面する割合が大きいことを信用できるデータから引用したが、私ははっきりと言い返した。「あなた、痔に悩まされてない?」彼は面食らった様子だったが、少し気を悪くした顔でその話は今関係ないことと、それは非常に繊細かつ個人的な問題だと反論した。ありがたいことに彼は自分の言葉が私への質問の答えになることに気づいてくれたので、この質問はこれで打ち切ることができた。

 

 個人的に最も考えてみて楽しかったのは、子供から寄せられた「もしまた戦争が始まったら、もう一度艦娘に志願しますか」という質問だったと思う。はっきり言って感情を顔に出すことの少ない私だが、これには口元が緩んだ。私にとって、艦娘時代の思い出の大半は長門や那智、あるいはグラーフや時雨、響たちなどと過ごした、あの不思議なほど平和で愉快な時間の中にあったからだ。またあんな時間を過ごすことができたなら、それはどれだけ幸せだろうと私は考えた。戦争に付き物の死の危険は、その際一切無視された。「志願するでしょうね」という言葉が喉元まで出掛かった。でも結局、私は「しないわ、戦争は一回で十分よ」と答えた。

 

 それは感情ではなく、理性が導いた答えだった。「今日は笑い話で散々軍隊にポジティブなイメージを与えたのだから、この上戦争にまで同じイメージを与える必要はないでしょう」と私は考えたのだ。その後も質問は続いたが、覚えていないということはそこまで私の感情を動かすものではなかったのだろう。私はそつなく講演を終え、内心で冷や汗を流しながら退場し、学校側と報酬についての話を軽くしてから下の娘と一緒に家に帰った。玄関に入る前に太陽の赤い光に目が眩んだ記憶があるので、夕方頃の筈だ。上の娘はもう帰ってきていてもよかった時間だったが、彼女はいなかった。学校帰りの寄り道のせいだな、と私は推測し、夕食の用意をしながら、帰ってきたら彼女を少したしなめようと決めた。

 

 しかし実のところ、彼女は学校帰りに寄り道をしたのではなかった。そもそも学校にさえ行っていなかったのだ。その代わりに、私の講演を聞いていたのである。「だって、学校に行くより大事なことだと思ったんだもの」と娘は夕食の席で言った。

 

「実際、学校じゃ聞けないような話が聞けたし。お母さん、艦娘時代のことあんまり話してくれないじゃない」

「私の本があるでしょう。私の部屋から持っていって読んでいいわ」

「お母さんが書いた誰かの戦争についての話じゃなくて、お母さんの体験した戦争の話を知りたいの」

 

 私は困惑した。そんな風に言われたことがなかったからだ。けれど言葉を探していると、やがて娘は溜息を一つ吐いて「でも、聞いたって意味ないのかもね。だって、もう全部終わったことだもの。そうなんでしょう?」と言った。気まずい会話を終わらせられるかもしれないと思って、私は作り笑いを浮かべ、「そうね」と答えた。「全部昔の話よ」すると娘は私を責めるように見て、「嘘つき」と言った。



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17「人を食った話」

 艦娘は戦う。戦うということは殺すということだが、とりもなおさず死ぬということでもある。私たちは殺し、死んでいく。運がよければ、自分の順番が回ってくる前に、除隊という形でその輪廻から解き放たれることもある。が、ほとんどの艦娘はそんな僥倖(ぎょうこう)を信じてはいなかった。とりあえず、今日を生きることで精一杯だったからだ。心配事は沢山あったが、その大半は目の前のことだとか、精々が次の出撃に関することであって、遠い将来や未来のことを思い煩う艦娘は少数派だった。

 

 とはいえ、例外はある。私たちの誰もが悩んでいたことの一つに、自分が死んだ後のことがあった。つまり葬儀だとか、納骨だとか、そういう事柄である。表立ってそんな悩みを打ち明ける者は、滅多にいなかった。死にまつわる生々しい話題を口にするのは、ある種のタブーと見なされていたのだ。しかし言葉にしなかったとしても、誰もが気にしていたのは明らかである。

 

 事実として、艦娘は死ぬ──九分九厘は海の上で。彼女の体は底へと沈み、戦死者名簿に名前が載る。私たちは、棺に戦友との思い出を入れて焼く。それくらいしか入れるものが残っていないからだ。遺族は、棺の灰で満たされた骨壺を受け取る。彼らがそれをどうするのか、生きている艦娘たちには想像もできなかった。

 

 私たちの誰も、これを気に入らなかった。当たり前だ。海の底で自分の死体が腐っていくことを喜ぶ人間は少ない。灰を除けば空っぽの骨壺は、遺族の心の救いにはならない。それは役所的で血の通っていない、軍隊らしい形式主義的な態度だった。ただ、私たちにはどうしようもなかった。余裕があれば戦死者の死体を、またはその一部を持ち帰るのは慣例だったが、海の上で余裕があった試しなど、私の経験では数えるほどもなかったのだ。死んだ戦友より、生きている己が大事だと感じることを、誰に責められよう。

 

 従って艦娘たちは内心で不満を覚えながらも、自分がそうなることも含めて、海軍用語で“葬儀”と呼ばれる空の棺を焼く儀式を受け入れていた。古鷹にせよ、長門にせよ、響にせよ、グラーフにせよ、私にせよ……那智以外は。彼女は全くこれを受け入れようとしなかった。そもそも普段から自分が死ぬなどとは思ってもみなかったようで、戦争が終わって除隊したら教師になるんだという(当時の基準では)与太話を、平気で他人に話すくらいだった。

 

 そんな彼女でも、一度死を想ったことがある。これを知っているのは私だけだ。いや、今や公開しようとしている訳だから、これまでは私だけだったと言うべきだろうが。彼女は自らの生と死について深く考えを巡らせ、その思索の果てに思いついた「解決策」を私に語った。結論から言えば、私たち二人ともそのせいでとんでもない目に遭ったのだが、もう二十年近く前のことだ。刑法に触れることでもなし、書いてしまってもいいだろう。

 

 時期はおおよそ、鉄底海峡攻略作戦の頃である。率直に言わせて貰えば、あれはひどい戦いだった。敵の深海棲艦は精鋭揃いで、どうかすると抜錨(ばつびょう)後一戦で帰投しなければならなかったし、敵の増援が次々と押し寄せていたこともあって、昼夜の区別なく出撃させられた。駆逐艦や巡洋艦、戦艦たちには夜戦もそこまで悪くないかもしれないが、空母艦娘である私にとっては、艦載機の運用に問題の起こる夜戦は鬼門であった。

 

 どうして私や私の艦隊があの作戦を生き延びられたのか、今になっても分からない。熱心な主の信徒である響が言っていたところの、「神の思し召し」なのかもしれない。一日ごとに、沢山の艦娘たちが沈んでいった。それを上回る数の深海棲艦たちも。それが一か月、私にとっては四週間も続いたのである。士気と呼べるものがあったのは二週間目までで、三週目は「どうか生きて帰れますように」と祈りながら戦っており、四週目など「死ぬなら一瞬で済みますように」と願っていたものだ。この願いは儚くも裏切られたが、安らかに死ぬより苦しんで生還する方が好みの私としては、裏切られてよかったと思っている。

 

 さて、那智の話だ。彼女は冗談好きで悪戯っぽく、その倫理においては重大な欠落を有していた。彼女が何かもめ事を起こす度に、古鷹か私が関係各所に謝りに行かなければならなかった。艦隊の誰からも愛されていた響にはそんな役割を押しつけられず、那智とは親友の長門では、余計に状況を悪化させるからである。そういう縁があったので、作戦開始から四週目のある日、基地での夕食後に那智が私の部屋を訪れ、真面目な顔で相談を持ち掛けてきた時、私は心底から警戒していた。

 

 ところが話を聞く内に、すっかりそういった警戒心はなくなった。彼女は自分すら死ぬことがあるかもしれないということを、大激戦によってとうとう自覚したのだった。意地を張ったような態度で、彼女は言った。「死ぬのは怖くない」嘘だと指摘するのは簡単だったが、私は黙っていた。それが戦友への敬意ある対応というものだ。前線で戦う艦娘にとって、勇敢さという個人的資質は、他者から一片の疑いも持たれてはいけない不可侵の領域だった。

 

「だが私の骨壺に、木灰の為のスペースはない」

「そうは言っても、戦死者の遺体を持ち帰る余裕なんてないでしょう。特に夜戦では、持ち帰りたくても死体が沈んで、すぐに見えなくなってしまうもの」

「うむ、余分な荷物を持たせて戦死者を増やすのも、本意ではないしな。それで考えたんだが」

「考えないで」

 

 最後のセリフを言えればよかったのだが、当時の私にはそれができなかった。那智は、響が知ったら彼女の私室へと十字軍を送り込みかねない、悪魔のような発想を得ていた。ここで一旦少し違う話になるが、艦娘が深海棲艦に対して勝っている点は、幾つかある。たとえば、深海棲艦たちを遥かに凌駕するその多様性だ。日本海軍系の艦娘だけでも、戦艦は十二種、正規空母も装甲空母「大鳳(たいほう)」を入れれば十種が存在する。一方で深海棲艦の鬼・姫級ではない戦艦はル級、タ級、レ級の三種。正規空母はヲ級のみとなっている。

 

 でも、もっと狭い視野、現場の艦娘にとって重要なアドバンテージは何かとなれば、私たちには高速修復材があったという一点に尽きる。深海棲艦にはドックこそあったが、高速修復材は持っていなかった。少なくとも私は、彼女たちがそれに類するものを使っているところを見た記憶はない。私たちはほぼ毎回の出撃で希釈した修復材を水筒に詰めて持ち運び、負傷すればそれを用いて応急処置をした。修復材は希釈されていてさえ、欠損レベルの傷を完璧に止血してくれた。流石に原液で使った時のように、()()まではしてくれなかったにせよ。

 

 那智が目をつけたのは、この()()という修復材の効用だった。というのも実にその力が、半端なものではなかったからである。仮に艦娘が海から四肢を失って戻ってきても、修復材さえあれば五体満足に戻ることができた。まあ、そのような場合はまず希釈修復材で止血を行い、その後で輸血などの処置をしつつ修復材を投与しなければ、血液循環量の不足からショックを起こして死んでしまうので、万能という訳ではなかったのだが……けれど身体の欠損が許容できるのは大きな優位になった。

 

 つまり、那智の目論見はこういうことだったのである。初めに、腕を切り落とす(こんな工程が第一に来る時点でどうかしている)。修復材で欠損を治療し、切断した腕を肉と骨に分ける。肉は捨て、骨は洗浄して保存しておき、戦死時には骨壺へ入れて貰う。万が一不要になれば、砕いて粉にでもすれば処分は簡単だ。正気の沙汰ではなかった。ただ悲しいことに、その時点で私も大概、正気を失っていた。

 

 信じられないことに、私は那智のアイデアを悪くないと感じた。高速修復材は軍の資材だが、新規着任したのでもなければどんな艦娘も、何かの折に少しずつちょろまかして自分用に貯め込んでいた。また、経験から言って腕を切断される痛みは絶大なものだが、那智は予め医務室から鎮痛剤と注射器を盗み出していた。腕一本分の血液は小さくない損失だが、死ぬほどではなかった。最悪、那智に輸血パックを取りに行かせればいい。私は彼女の案に乗った。自ら腕を切除する苦行を避けられることになって、那智はほっとしたようだった。

 

 プランが決まれば、躊躇はしないのが艦娘だ。私たちは早速用意に取り掛かった。必要な道具の多くは那智が既に揃えていたが、計画の中の細かい部分を詰めていかなければならなかった。特に、肉の廃棄には困った。那智は海に捨てようと言ったのだが、私がそれを拒否したのである。食堂でしばしば供される魚料理は、基地近辺での漁で得た魚で作られており、私はそれと知らずとも、人肉を餌にした魚を食べたくなかったのだ。

 

 そこで、生ごみに混ぜて捨てようということになったが、ここでも問題が発生した。腕の肉をそのまま二本生ごみに出せば、それが誰かに見つかった時どんな事態を招くか分からなかった。原形を留めていてはならない、と那智が主張し、私は需品倉庫からハンドル式の肉挽き機(ミンサー)を持ってくることを提案した。以前に厨房でそれを使っているのを見たことがあり、予備が一つはあるだろうと踏んだのである。

 

 後はあっという間だった。その日は幸い翌朝まで出撃しないことになっていたから、施術後の心配もしていなかった。那智はものの十分十五分で肉挽き機を持ってきて、言った。「さあ、やるぞ」そして立案者である彼女が、先に腕を切断することになった。私は自分の部屋にブルーシートを敷き、あちこちで那智がかき集めてきた生理用品を傍らに配置すると、立案者の言葉に従って鎮痛剤を注射した。それが効果を発揮するのを待って、私は戦友の腕を取り、紐で肩口の少し下をきつく縛ってから、へし折った。皮膚や筋肉を切るのはともかく、骨を切るのは大変だ。手間取れば、それだけ血を失う。なら、先に折っておけば楽だろうという考えだった。

 

 この考えはそこそこ当を得ており、それと那智が調達してきた、よく研がれた大(なた)のお陰で、手早く彼女の腕を切り取ることができた。私はすかさず修復材を使用し、血を拭き取って、那智の様子におかしいところがないのを確かめてから、腕を清潔なバケツの中に入れた。那智の鎮痛剤の効果が切れたら、私の番だった。

 

 那智に注射を打った一時間後には既に、二本の腕がバケツの中で仲良く過ごしていた。善は急げの精神で、私たちは肉に刃を入れ、骨と分離させた。そして骨はバケツに残し、爪を外した肉をミンサーへ放り込むと、ハンドルを回した。悪夢のような光景だったにも関わらず、私はその様子を今でも別段動揺することなく、思い出すことができる。那智はできあがったミンチ肉を絞って血を切り、それを半透明の袋に入れると、生ごみとして捨てる為に出ていった。

 

 彼女が戻ったのはやはり十数分後である。しかし、前回と違って浮かない表情をしていた。彼女は予定通りに捨てようとしたのだが、腕二本分の挽肉はどうやっても目立って仕方なかったらしい。それで、厨房の冷凍室の奥まったところに隠してきたのだと那智は言った。普段そこには、何の用途に使うのか分からない、畳んだ段ボール箱が置かれていた。そこなら見つかるとしても、来月や再来月の話ではない。気味の悪い腐肉として、捨てられることになるだろう。私たちはそれをよしとして、器具や血まみれのごみなどを片付けた。

 

 そうして最後に綺麗に洗浄された骨を木箱に入れ、では解散にするか、と那智が言ったところで、緊急呼集が掛かった。こちらの夜間警戒網をかいくぐった深海棲艦の艦隊が、基地への直接砲撃を加えようとしていたのだ。私たちは失血と鎮痛剤の影響で取るものも取りあえず、ふらふらしながら出撃し──その報いを受けた。那智も私も負傷した挙句、感染症に罹って一週間もの長きに渡り、病院に入れられていたのだ。入院の間に、攻略作戦もほとんど終わってしまっていた。

 

 帰ってくると、優しい古鷹と響、それに悪友(那智)がいなくて寂しかった長門から私たちは大いに歓迎された。特に古鷹の喜びは(はなは)だしく、夕食時に私たちを食堂に連れて行くと、そこを切り盛りしていた給糧艦娘「間宮」に予め頼んでいた、特別メニューを出させたほどだった。那智と私は感動し、大皿に盛られたその料理を奪い合うように競って食べた。満腹になり、その幸せを噛み締めていると、重い腹を抱えて気だるげな雰囲気をまとった那智が言った。

 

「入院する度にこんな料理が食べられるなら、毎月一回は病院に入るぞ」

 

 厨房から出てきた間宮がそれを聞いて、苦笑気味に答えた。

 

「余分の材料がないから無理ですよ。そのハンバーグ、冷凍室の段ボール箱の下に隠してあった挽肉で作ったんです。きっと糧食担当補給士官か誰かが、納入品リストから消して横領しようとしてたんでしょうけど……」

 

 私たちはもう聞いていなかった。席を立ち、食堂を出て、一番最初に見つけたトイレに駆け込んだ。個室に入り、ドアに鍵も閉めず、便器に顔を突っ込んで、全部戻してしまった。一通り出してしまってから、私は嘔吐時の自然な反応として、涙をぼろぼろこぼしながら顔を上げた。那智は一足先に立ち直ったのか、洗面所で口をすすいでいた。その背中に私は声を掛けた。

 

「他の子には秘密にしましょう、特に響と古鷹には」

「ああ……」

 

 口の中の水をぺっと吐き捨てると、那智は呻くように答えた。それから私の方を振り返り、口元を指で拭いながら、思い出そうとするように呟いた。

 

「だが、味は悪くなかったな」

 

 私はもう一度便器に顔を突っ込んだ。



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18「最上型重巡:鈴谷」

 私は椅子に腰掛け、パソコン用のデスクを前にして、モニター上に表示された、ほとんどまっさらな原稿用紙を見ている。キーボードのホームポジションに手を置いたまま、私はぼんやりと彼女について思いを馳せる。エメラルドグリーンの髪。屈託のない笑顔。濡れたような光沢の、艶やかな両唇。(そば)を横切った時にふわりと香った匂い。そうしながらも、私は、彼女について書くべきかどうか──書いてよいものかどうか──確信が持てないでいる。

 

 長門は、生きている。響も、那智も、時雨も、不知火も、足柄も、川内も、グラーフだってそうだ。一方で、古鷹はこれ以上ないほど死んでしまった。私がこの作品で名前を出した艦娘たちは大抵の場合、明らかに生きているか、明らかに死んでいるかのどちらかなのだ。しかし彼女はどちらなのか、私は知らなかった。調べようとして手は尽くしたのだが、終戦後に実施された海外泊地の規模減縮と、それに伴う人員等引揚げの混乱で資料が散逸してしまったらしく、彼女の足取りは我が懐かしのパラオからはるばる二千キロ、ブルネイ泊地を最後にすっかり途絶えていた。

 

 それでも彼女がブルネイにいたことは間違いないし、更に言えば終戦の一、二年前までは確実に生存していたのも、僅かながら残存していた資料から読み取ることができたので、私は楽観的に考えることにしたいと思う。彼女はあの戦争を生き延び、退役するか軍に残留するかして、今も幸福に生き続けているのだと。私は一人の艦娘の姿を脳裏に浮かべ、そこで彼女が歯を見せて笑うのを見る。砂浜に立ち、太陽に照らされ、こちらを向いて眩しそうに眼を細めた顔。潮風が吹き、前髪が煽られて目に入りそうになり、その艦娘は短く悲鳴を上げる。彼女は最上型重巡洋艦「鈴谷」。ほんの半月にも満たない間、私の人生に立ち寄っていった人物だ。

 

 まず、どうして私がブルネイ所属の彼女と出会うことになったか、というところから話を始めよう。その頃、私はまだパラオ泊地の艦娘だった。古鷹は生きており、グラーフはドイツに帰っていなかった。長門は愉快で、那智には両腕がついていて、響とはそこそこ打ち解け始めた時分だった。懐古主義に身を任せて、艦隊の最盛期だったと言い換えてもいい。年月と共に膨れ上がった自尊心を抜きにしても、私たちは特に秀でた艦隊の一つだったのだ。どれくらい優秀だったか具体的な例を挙げると、泊地総司令隷下の第一艦隊が討ち漏らした姫級深海棲艦とその護衛艦隊を追跡し、深海まで送り届けて差し上げる任務に抜擢されるくらいには、能力を見込まれていたのである。もしかしたら任務にかこつけて、厄介者の長門と那智を戦死させたかっただけかもしれないが。

 

 逃げたとされる方向がブルネイ泊地方面だった為、私たちは空路でそちらに向かい、任務に当たった。幸いだったのは、向こうの基地航空隊の偵察機により、大まかながら目標の足取りが掴めていたことだ。当時の提督がブルネイと交渉し、情報支援を取り付けてくれていたのである。彼の努力がなければ、私たちは今も南シナ海をさまよっていただろう。恥ずかしながら、一部の艦娘は往々にして、自分たちだけで戦争に勝ったように誤解しがちだが、この出来事はその認識が誤っていることを、実に明確に示してくれる。私にとって、よい思い出の一つである。

 

 さて、提督のお陰で捜索範囲を大幅に限定することができた私たちは、とっとと仕事を終わらせることにした。艦隊は昼となく夜となく出撃し、昼は私とグラーフの航空機で、夜は古鷹や那智に配備された夜偵を使って、目標を探し回った。その甲斐あって、驚いたことに私たちはブルネイ到着後数日の間に標的を発見し、片付けてしまったのである。パラオの方では望み薄と思っていたのか、一月ほど探して見つからなかったら戻ってくるように、という程度の指示しか受けておらず、定期報告も免ぜられ、二週間後に中間報告をすればよいとされていた。

 

 これに大喜びしたのが那智と長門である。二人の理屈で言えば、私たちは仕事を早く終わらせたご褒美として、十日ちょっとの休暇を貰ったのと同じらしかった。当たり前だがグラーフと響はこの意見に難色を示し、私はいつもの日和見主義で傍観に徹していたので、決断は旗艦である古鷹に委ねられた。熟練の指揮官である彼女は、ただちに決断した。「古鷹、お休みします!」そういう訳で、私たちの艦隊は思いがけない休みを楽しむことになったのである。一度決まってしまえば、反対派の二人も逆らわなかった。

 

 悪童二人組は勇んで何処かに出掛け、生真面目な二人も考えがあるのか、肩を並べて去っていった。書物中毒の古鷹は、基地の外にあるという大型書店に単独突撃してしまった。私だけがやりたいこともなく、基地内に取り残された。臨時に割り当てられた宿舎で、ひたすらごろごろしているというプランもあったが、十日間に渡って怠惰を(むさぼ)り続けるのは、私に我慢できそうなことではなかった。なので、とりあえず基地内をぶらぶらしようと思い立ったのである。鈴谷と出会ったのは、その際だった。たまたま暇をしていた彼女は、私を連れ回すことにし、決して退屈させてくれなかった。私たちは十年来の友人のように親しくなり、パラオに帰る日まで、共に過ごすことで合意した。

 

 ただ実を言えば、その時点で鈴谷とは初対面ではなかった。初めに与えられた任務の遂行中に、多少話す機会があったのだ。補給で戻ってきた時や、ドックでの入渠のタイミングが同じだったりして、私と彼女はそのシチュエーションで誰もがするような世間話程度なら、既に交わしていた。でもそういう表面的で浅い付き合いが、より個人的で意味のあるものになったのは、この散策の折に彼女と出会ってからだ。

 

 鈴谷は婉曲的に言うなら、風変わりな人物だった。もしくは艦娘らしく、もっと平易で陳腐な言葉を使って表現するべきかもしれない。馬鹿、と。そう書くと、随分と辛辣に見えるのだからおかしなものだ。でも事実として、彼女は決して聡明という訳ではなかった。鈴谷が思い付きで何かをやると、大抵それは悲劇的な結末で終わったし、時には被害が彼女自身のみに留まらないこともあった。数学的才能にも欠けていて、自分で砲戦はからきしだと認めているほどだった。なのに訓練所を出られたのは、海軍がとにかく頭数だけでも揃えたかったからだろう。

 

 それである時、彼女の提督は鈴谷が言語的能力に偏った才を持つのではないかと推測し、大規模作戦後の戦闘レポートの作成を任せたそうだ。彼女が精魂込めて執筆したそれを一読して、提督は秘書艦にこう言って罵ったという。「馬鹿というのは全く、本を読ませりゃ指を切り、神に祈れば額をぶつけて怪我をする!」この話は鈴谷が即興ででっちあげた数々の冗談話の一つだったのだが、私は今でもこれを思い返す度に、少し温かな気持ちになって、口角が自然に上がるのを感じる。ざっくり言ってしまえば、彼女は、長門や那智とはまた異なるタイプのムードメーカーであり、愉快なやつ、だったのだ。

 

 無論、鈴谷はホテルからテレビを盗んだり、フリーズドライの排泄物を矢に刺して執務室に放ったりはしなかった。意図して人に迷惑を掛けようとはしない点、パラオの二人との最も大きな違いはそこだろう。だからたまにとばっちりを受けても、鈴谷を好く人は結構多かった。特に出撃前の艦娘からとなると、絶大な人気を誇ったものである。それは鈴谷にまつわる、重大なジンクスがあったからだった。

 

 ジンクスというのは、些細なことから生まれる。いいジンクスも悪いジンクスも、始まりは変わりない。あなたが出撃を命じられた艦娘で、基地を出てからずっと、右手を腰につけて航行していたとする。それは癖であり、あなたはいつもそうしている。けれどふと、同じ姿勢を取り続けることに飽きて、あなたはその手を左肩にやる。するとその後、艦隊員が深海忌雷にやられてばらばらになり、あなたと生き残った艦隊員は戦友の破片を何個か拾って帰る。海をゆくあなたの右手は、もう二度と、左肩に触れられなくなる。ジンクスはそういう風にして誕生する。

 

 こう言えるのは幸せなことだが、鈴谷の関係するジンクスは、もう少し平和なものだった。彼女の艦隊には雪風がいて、ある出撃の前に鈴谷に、冗談で「幸運の女神のキス」をねだったのだ。鈴谷はそれに応じて、雪風の頬に軽く口づけをした。そしてその出撃で、雪風は九死に一生を三、四回ほど得た。次の出撃から、彼女は毎回鈴谷にキスして貰うようになった。この風習は段々と他の艦隊員にも広がっていった。

 

 暫くして、彼女の艦隊が大規模作戦に参加した時のことだ。鈴谷たちは他の艦隊と連合を組むことになった。その艦隊の五人はキスを受け入れたが、拒んだ者がいた。彼女は一人だけジンクスを信じずに出撃し、一人だけ死に掛けて帰ってきた。その時、鈴谷の唇には何か運命を引き寄せるような力があるのだと、そのジンクスを知る全ての艦娘は悟ったのだ。で、それ以降、出撃を間近に控えた艦娘たちは、女神の加護を求めて鈴谷の前に長蛇の列を成すようになったのだった。

 

 しかし彼女が本物の幸運の女神だったかどうかについては、正直な話、疑問が残る。というのも彼女は、本人の話を信じるならだが、期せずしてバイオテロの犯人になってしまったことがあるからである。幸運の女神なら──いや、女神じゃなくても──普通、そんなことにはなるまい。

 

 それはこういう順番で起こった。まず、悲しいことに、彼女の戦友の一人が轟沈した。そういう場合、つまり艦娘が戦死した場合だが、遺品は規定の手続きを経て遺族に引き渡されるか、処分されることになるのがルールだ。もちろん手続きの後、遺品の一部が何かの不手際で「紛失」され、紆余曲折の後に戦友の手に渡ることはある。だがその前に遺品に手を付けることは基本的にご法度であり、その行為は戦死者からの窃盗と見なされ、極めて強く軽蔑された。鈴谷もそのことは承知していた。でも、彼女はやらざるを得なかった。誰あろう、当の失われた戦友の為に。

 

 その艦娘の部屋からは、大量の()()()()()()()が発見されたのである。

 

 鈴谷は偶然、彼女に小物を貸していて、それを回収する為に部屋に立ち入ることができた。他には誰も、そのような権利を持っていなかった。第一発見者は鈴谷であり、死んだ戦友の名誉や、彼女の家族が心に留めている、美しい記憶を守ることができる唯一の人物もまた、鈴谷だった。彼女は迷わなかった。おもちゃを一つ残らず回収し、素知らぬ顔で自室に運び込んだ。鈴谷が守ろうとした戦友は、祖国と世界平和の為に全てを捧げた英雄として敬意を受け、立派に葬られた。一人遊びの達人と知られていたら、そうはいかなかったろう。

 

 が、問題はそこからだった。回収したおもちゃの量が、尋常ではなかったのである。鈴谷はいつまでもそんなものを私室に置いておきたくなかったが、どう処分したらいいのか、さっぱり分からなかった。さりとて、誰に聞ける訳でもない。余人に見られて自分のものだと勘違いされたらと思うと、さしもの彼女もたちまち赤面し、冷静ではいられなくなった。結局、彼女はおもちゃを詰めた段ボール箱の山を、泊地の人目につかない場所に放り捨てて逃げ帰った。

 

 次にそれを見つけたのが泊地の警備兵だったら、この話はそれで終わっていただろう。でも、そうはならなかった。おもちゃの山を見つけたのは、艦娘だった。彼女は怪しげな箱に好奇心を催し、中を覗き見て仰天した。枯草が燃えるように、話はたちまち広がった。彼女らの退屈な日常は、謎とエロスで一変してしまったのだ。鈴谷以外の艦娘たちはこの落とし物を心底面白がり、無味乾燥な日々の中で燦然と輝く思い出の記念品として、平等に分かち合った。

 

 何週間かして、泊地の医務室には、陰部のかゆみを訴える患者が急増した。医務官の報告はすぐさま提督たちの間で共有され、彼らは艦娘たちが軍規を破って、こっそり男遊びに勤しんでいると思い込んだ。とんだ誤解である。ことがことだけに、穏便な解決を求めて、提督たちは症状を呈していない艦娘を選び、患者たちから事情を聴取するように命じた。結果は、徹底した沈黙。だが短気な提督の一人がそれに激怒し、病室に乗り込んだ。彼は拒否しがたい権威を以て、彼の艦娘を詰問した。彼は言った。

 

「だんまりで通ると思うか。本土に後送して、家族に連絡してやろうか、え? 嬉しいだろうが? 何処で何をくわえ込んできたかここで言わないなら、お前の親から訊ねさせるぞ」

 

 艦娘は白状した。全部白状した。捨てられていたおもちゃを見つけたこと。友人たちにそれを広めたこと。分け合ったこと。興味本位で試しに使ってみたこと。そうしたらこうなったこと。「お前ら、正気か?」提督は、ほとんど恐ろしいものを前にしたかのような表情で、そう言うのが精一杯だった。「何を考えとるんだ」もっともな指摘だ。泊地の艦娘全員には通達が出され、彼女たちはあの日分け合ったピンク色の思い出を、全て供出した。それから泊地付の憲兵隊による念入りな調査が行われたが、誰も鈴谷にはたどり着かなかった。彼女は死せる戦友と、己の名誉を守り抜いたのである。

 

 ところで、彼女について不思議なことが一つある。私は彼女を覚えている──姿や表情、どんな話をしたか。昼食時、食堂から流れてきたカレーの匂いに、鼻をひくひくとさせたこと。私たちがパラオに帰ることになって、別れる前、工廠で最後の握手をした時に彼女が込めた力の強さ。その直後、私の頬に触れた唇の柔らかさ。でも、私は鈴谷の言葉を、ほとんど覚えていない。彼女が何を語ったかは記憶にあるのに、どのように語ったかとなると、ぽっかり抜け落ちたように消えてしまっているのだ。思い出せるのは、二つっきり。だがその二つを書いてしまうには、先に別の話から始めないといけない。

 

 それが起こったのは、中間報告予定日の三日前。分厚い雲に空が覆われた、昼下がりの時間帯だ。鈴谷の艦隊はその日、夜間哨戒を命じられていて、泊地内で待機していなければならなかった。私は鈴谷を通して、彼女の艦隊員たちともそこそこ仲良くなっていたので、出撃まで彼女たちと娯楽室で遊ぶ腹積もりだった。娯楽室には軍で用意してくれたカードやボードゲームから、艦娘が勝手に持ち寄ったテレビやゲーム機まで揃っており、やる遊びには事欠かない筈だった。

 

 初め、私と鈴谷たちはカードで遊んだ。誰かが賭けゲームにしないかと持ち掛けてきたが、雪風の一人勝ちになったら気まずいからという理由で却下され、楽しいだけのゲームが二時間ほど続いた。でも段々飽きてきたので、別のゲームに変えようという話になった。と、そこで、泊地に警報が鳴り響いた。アラーム音のリズムと音程から、それは深海棲艦が危険なほど泊地に接近しつつあることを示しているのだと、見当がついた。艦隊群が近海警備を厳とし、基地のレーダーが監視を怠らずとも、時にはそういうこともあるのだ。パラオでも、年に何回かは同じことがあった。大した脅威ではない。そうやって近づいてくる深海棲艦は、十中八九単独の、駆逐級だからだ。でなければレーダーが見落とす訳がない。砲撃されたとしても、余程運が悪くなければ、当たることはない。落ち着いて、退避場所へ向かえばいいだけだ。

 

 しかし、そこはパラオではなくブルネイだった。私は何処に退避すればいいか知らず、まごまごしているしかなかった。すると、こちらの内心を知ってか知らずか、鈴谷は私の手を掴むと娯楽室を飛び出したのである。彼女の力強い手は私を安心させ、行先についての心配を忘れさせた。忘れるべきではなかった。彼女は何故か自室に寄ると、デジカメを取って、工廠方面に向かったのである。

 

 彼女が私の手を放してくれたのは、泊地内の埠頭倉庫の前でだった。そこに連れて来られた理由も分からず、呆気に取られていると、鈴谷は倉庫側面の階段を上がり始めた。混乱のままに後を追い、上へ上へと進んで、私はとうとう倉庫の屋根にまで上がった。鈴谷は屋根の端に立ち、海に向かってカメラを構えていた。あろうことか、彼女は近づいてくる深海棲艦の写真を撮ろうとしていたのだ。何の為にかは知らない。訊くこともできなかった。今でも分からない。深海棲艦を撮影することで、写真以外の何が得られるというのだろう? 精々それは、彼女がボウリングボールサイズの肝っ玉と、ビー玉サイズの判断力を持っていることを証明してくれるだけだ。

 

 が、ともあれ鈴谷は、その撮影には被るリスクに見合ったリターンがあると考えていたようだった。彼女は撮影ボタンを押した。理想的なシーンを逃すことを恐れた彼女は、事前の設定を顧みずに撮影に踏み切った。それが彼女の運命を、過酷な方向へと一歩進ませた。彼女のカメラは、強制発光モードになっていたのである。海に向かってフラッシュが焚かれて、にも関わらず鈴谷は何の危惧もないようだった。私は違った。新しい友人をむざむざ死なせるつもりはなかった。彼女の下に駆け寄り、正規空母の剛力を発揮して抱え上げると、私は階段を二段三段飛ばしで駆け下り始めた。手早くやったのだが、それでも遅すぎた。私たちが下り切る前に、倉庫に深海棲艦の砲撃が着弾して炸裂した。私たちは階段から転落し、地面に叩きつけられた。

 

 死なずに済んだのは、深海棲艦が次弾を発砲できるほど長生きしなかったからだ。即応艦隊の空母艦娘が航空機を発艦し、始末をつけてくれたのだと、私は鈴谷と一緒に入った入渠施設で聞いた。ドックを出ると、彼女は他の艦隊の艦娘に引っ立てられ、提督の執務室に連れていかれて、厳しい、実に厳しい叱責を受けた。その理由というのがまた笑える話で(今となっては、という補足さえ付ければだが)、あの倉庫には泊地全体の為の生活用品が保管されていたのである。つまり、破壊によって失われた物資には、基地中のトイレで使われるトイレットペーパーまで含まれていたのだ。これが艦娘たちに与える絶望と士気への影響は、計り知れないほどであった。

 

 従って、とても訓告だけでは済まされず、鈴谷は大変な懲罰的労役を科された。海岸の清掃だ。空き缶、ガラス片、ビニール袋なんかのゴミを拾い集めるのではない。ブルネイ泊地の近くには、海流の関係で艦娘や深海棲艦の死体が流れ着きやすい海岸が複数あり、鈴谷が命じられたのはそこでの清掃……漂着した遺体の回収だったのだ。艦娘にとっては悪夢のような作業であり、それを鈴谷一人に押しつけて見て見ぬふりをすることは、私にはできなかった。

 

 襲撃の日の翌朝早くに、私と鈴谷は三人乗りの二トントラックで基地を出た。二人とも運転はできなかったが、この懲罰任務には監視兼ドライバーとして、破壊された倉庫の警備を担当していた、陸軍歩兵の一人がつけられていた。彼は不機嫌さを隠そうともせず、こちらも彼と仲良くしようとはさらさら思わなかったので、道中はひどく居心地の悪いものとなった。最初の目的地である海岸に着くと、彼はさっさと車を降りて姿を消してしまった。近くの露店にでも行ったのだろう。まあ、いない方が気は楽だったのは確かだから、止めたりはしなかった。

 

 私たちはマスクをつけ、厚手のゴム手袋をし、車に積んであった専用の作業着を服の上から着ると、仕事に取り掛かった。探すまでもなく、波打ち際に横たわった死体は、異様な存在感と共にそこにあった。数はどうだっただろう、三人か、四人だったと思う。どの遺体も、ものすごい臭気を発していた。髪は抜け落ち、肌は蝋のように白く、体は膨れ上がっていた。服はずたずたで、布切れを体に巻いているようにも見えた。艤装は残っていないか、あってもその残骸がへばりついている程度。目は例外なく眼窩(がんか)だけになっていて、鼻は崩れ、口は、ガスで膨張した頬が唇を引っ張っていたせいで、歯をむき出しにして怒っているかのようだった。

 

 規定の手順に従い、私と鈴谷は処理を始めていった。最初にするのは、遺体を探り、私物などが残っていないかを調べることだ。運がよければ、遺体の身元が分かるものが残っていることがある。そうすれば、比較的早期に遺体を遺族へ返還できる。死亡宣告を待たずに、遺族年金の受給も始められる。戦友たちは、あるべきものがあるべき姿でではなかったにせよ、あるべき場所へと戻ったのを知ることができる。

 

 一人目の遺体は、服の端に辛うじて付いていたバッジで特Ⅲ型だと分かったが、その中の誰なのかまでは分からなかった。だがそのバッジ一つがあっただけでも、彼女は幸運なのだ。最近轟沈した特Ⅲ型の艦娘を照合すれば、一気に身元判明に近づける。車から持ってきた死体袋(バッグ)に、彼女の遺体を入れるのには、細心の注意が必要だった。皮膚は脆く、掴むとずるりと剥げるか、嫌な音を立てて肉と共に潰れ、悪臭を放ったので、私たちは努めて骨か服を掴んで、遺体を動かさなければならなかった。バッグは大人二人が横になって入れるくらい大きく、本来は遺体を入れた後、付属のベルトでバッグの余った部分を締めるのだが、この時は到底締めることなどできなかった。

 

 遺体をバッグに入れたからと言って、その死者の回収が終わったことにはならない。彼女の体があった場所の近くには、遺留品や肉体の一部が残っていることがあるからだ。鈴谷がそれをトングで拾い集めている間に、私は次の遺体を回収する準備をした。そうやって協力して、海岸に横たわっていた最後の遺体の前に集まった時だ。ドライバーの兵士が戻ってきた。案の定、露店に行っていたらしく、手にはビニール袋を掴んでいて、その中からはストローが飛び出ていた。袋にはジュースが直に入れてあって、白い袋の下から、黄色っぽい液体が透けて見えていた。()と、脂肪()の色だ。

 

 彼は臭いを嫌ってか近寄ってこなかったので、私と鈴谷はその存在を忘れることにして、最後の遺体を見下ろした。服は身にまとっておらず、うつ伏せになった彼女の手は握られていて、砂を掴んでいるようにも見えたのを覚えている。私は早く片付けてしまおうとしたが、鈴谷に制止された。彼女は遺体の前にしゃがみ込むと、その右手を取って、指を開かせようとし始めた。だから私も彼女の横にしゃがみ、左手を取った。

 

 とどのつまり、それはほぼ無駄だった。遺体が握っていたのはちぎれた指と、艤装の小さな破片だけだったのである。身元に繋がりそうなものは、一つもなかった。私たちは彼女をバッグに包み、ジッパーを上げた。そうしてバッグを持ち上げようとすると、鈴谷は呟くような声で、どうしてこの遺体は指や艤装の破片なんかを掴んでいたんだろう、なんてことを言った。答えを求められた気がして、私は少し考えてみてから、とにかく何でもいいから掴もうとしたんでしょうね、と返事をした。彼女は納得の様子を見せなかったけれど、深く話し込むこともできなかった。運転席に乗り込んだドライバーが、私たちを急かして、クラクションを何度も鳴らしていたからだ。死者に相応しい静けさを破るその行為に対して、私たちのどちらも、かなり腹に据えかねていた。鈴谷が言った。

 

「仕事が終わったら、陸軍の兵舎に寄っていこうよ」

「礼儀を教えてあげるのね?」

 

 鈴谷はマスクを外し、眼を細めて笑った。太陽が彼女を照らし、その顔に影を差した。

 

「でなきゃ、泳ぎをね。あいつが何を掴むか、見せて貰おうじゃん?」



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19「那智が以前使っていた儀礼用ロングブーツがどうしてあんなに上等だったかについての真実」

 話嫌いの艦娘というのは少ない。口下手な者はいるし、そうでなくとも、人に話して楽しませることのできるエピソードをどれだけ多く持っているかとなると、これはもう運だとか経験の長さに左右される問題になってくるが、しかし雑談や冗談話が嫌いだとはっきり言うような艦娘は、かなりの少数派である。それというのも、既に何度か書いたことではあるが、艦娘たちが過ごす時間というのはそのほとんどが暇なものであるからだ。

 

 私たちは暇という大敵と戦う為にあらゆる手段を講じた──テレビゲーム、テーブルゲーム、読書、映画鑑賞、音楽鑑賞や演奏。古鷹や私は本を読むのみならず執筆にも手を出していた。那智や長門は人をからかって遊ぶことに傾倒していた。グラーフに響も、なにがしかの独自の暇潰しを持っていたことだろう。でも、私たちが退屈と戦う為に使った手段で何が最も多用されたかと言えば、それは間違いなく戦友同士の打ち解けた会話という、古来から続く伝統的な儀式であった。

 

 時雨はこれの名手で、三度続けて同じ話をして三度相手を笑わせることができる、稀有な人物だったことを覚えている。しかもその三度というのが、毎回違う笑いどころなのだから、私などにはとても真似のできない話術だった。彼女は現地住民たちの間で起きた滑稽な出来事にも通じており、時に艦娘のみならず現地民たちを彼ら自身の失敗で笑わせまでもしたものである。そういう滅多にない才能を彼女が持っていたのもあって、私が古鷹や響たち、自分の艦隊員と一緒にいて下らない世間話や思い出話で盛り上がっている時、時雨がふらっと現れると、私たちは決まって彼女に物語をせがんだ。彼女がまず語り、それから私たちがそれに応じて別の話をし、最後にまた時雨が一笑いさせる。それがお定まりのコースだった。

 

 こういった場には不文律とも言える種々のしきたりがあって、語り手の話がどんなに奇想天外なストーリーを持っていても、信憑性に疑問を呈するのは基本的に無礼で無粋、恥知らずな行為とされた。もちろん例外もあって、相槌代わりに驚きの声を上げるのはむしろ親切として推奨される。また、語り手の技量が劣っているが為に不自然な話の繋ぎ方をしてしまった場合、それを批判するのにちょっとした感動詞(「えー?」)等を用いる程度なら咎められることはなかった。同じ者が続けて語り手になろうとするのは「話したがり」として戒められ、いつも聞くばかりで話そうとしない者は、周りの承認を得ない限り(一例として、その艦娘が駆逐艦「山風」なら、本人が余程希望するのでもなければ、語り手を免れることができた)「聞き上手」と揶揄されるのを甘んじて受けなければならなかった。語り手は特に何らかの効果を求めてのことでないなら、聞き手の一人を注視することは不作法とされ、常にその場にいる全ての聞き手に対し、まさに語り掛けるように話すことを期待された。ルールは他にも色々とある。中にはパラオ泊地でしか通用しないルールもあったから、他所の基地や鎮守府から来た連中とこの手の話をする際には、何事も大目に見るというのが決まり事だった。

 

 今でも誰かと話をすると、その規律を守ろうとしている自分や、話し相手がルール違反を犯していることに対して、小さな不満を覚えている自分に気づかされることがある。まあ、延々とだらだらぺちゃくちゃやり続けて、一言だって相手に喋らせないような人間と話していれば、誰だって不満を感じるとは思うが。

 

 ところで、優れた物語はいつまでも語り継がれることがままある。誰かがかつて先任から聞いた話が、そのまた先任から聞いた話だ、ということも珍しくはなかった。選ばれて記憶され続けてきただけあって、そういった話は誰にも通用する普遍的な面白さを持っていたように思う。従って、古話を多く知る者はそれだけ深い尊敬を受けた。特に古鷹は最古参、海軍最先任艦娘ともあって沢山のストーリーを継承していたから、彼女が口を開けば、どんな内容であれ誰もが黙ってそれを聞いた。そして、そこにはそれだけの価値があったのだ。

 

 そのことをよく分かっていたある艦娘は、古鷹に給料数か月分と録音機器を渡して、知っている限り全ての話を吹き込んで欲しいと頼んだほどである。語られるものの中に存在する、無名にして数限りない艦娘の息遣いがどうとかこうとか言って……古鷹は喜んでそれを受けたが、彼女が戦死するまでに全部を吹き込み終えられたかは、疑わしいものだ。彼女の部屋に残されていた録音機器には十数時間分のデータが入っていたが、私は彼女がある時、休憩を挟みつつとはいえ二十四時間に渡って話芸を見せてくれたことがあるのを覚えている。それは長門との「知っている話を合わせたら二十四時間を超えるか否か」という賭けによって行われたものだった。賭けはもちろん長門が負けた。

 

 このように、多くの引き出しを持っているのは古鷹で、話術そのものが達者なのは時雨だが、しかし私の艦隊には、二人にすらない才能を持っている艦娘がいた。那智である。彼女は古鷹や時雨、それ以外の艦娘たちも活用していた、即興で話の内容に嘘を付け加えるというテクニックを使わなかった。彼女は写実主義的な語り手だったのだ。彼女の話は大抵、それが何年の何月の何日、どんな頃合いの何処で始まったことか、という説明から始まる傾向にあった。そうまで詳細に語らないにしても、そこには嘘の存在する余地がなかった。推測や憶測はあっても、虚偽はなかったのである。

 

 もっと言えば、彼女にわざわざ嘘を付け足す必要はなかったのだ。嘘は必要に駆られて使われることもあったが、大体はリスクを現実に冒さずに話をもっと面白くしたり、聞き手を笑わせたり、感心させたりする為だった。だが那智はそれを、ありのままで成し遂げることができる人物だ。それなのに、どうして手管を要するだろう? 彼女に必要なのは、曰く“ル那智ック”なアイデアと、営倉行きのチケット、ささやかな称賛を受け取る覚悟だけだった。目的や動機は違うものの、似たようなことをやった時雨が営倉を通り越して真っすぐ刑務所行きになったところを見ると、あれで那智は一線を見極めることに優れていたのかもしれない。

 

 数ある那智の実話(やらかし)の中でも艦娘受けがいいのは、やはりと言うべきか、陸軍絡みのものだろう。多数の一般軍人(彼ら)と少数の陸軍艦娘(彼女ら)には悪いが、当時から海軍と陸軍が親友のように仲良しであった訳ではない以上、話の性質は概ねいつも、艦娘が陸軍をやり込める、というような物語になる。大ぼら吹きの艦娘の舌先に掛かれば、喧嘩で数人の陸軍兵士を相手取っただけの出来事が、いつの間にか機甲大隊と撃ち合ったことになっていることもしばしばであったが、那智の語りはそういう紋切り型のものとは異なった。

 

 たとえば、ある大規模作戦の数日前のこと──那智ならどの作戦か明言するだろうが、彼女の身の安全の為にここでは伏せる──彼女は金を用立てなければいけなかった。別に借金をしていたとかではなく、彼女の欲しがっていたものが手に入りそうで、その為には貯蓄だけでは足りなかったのだ。そこで那智は身の回りにあるいらないものを売り払った。前線では常時物資が不足しており、その影響でほとんど全てのものに値段が付く。それこそ煙草一箱、マッチ一本に至るまでだ。そうやってもまだ、十分な金額にはならなかった。彼女は二つの選択肢の間に挟まれた。他の艦娘に溜め込んだ高速修復材を売るか、民間人相手に“体を売る”*1かだ。

 

 でもどちらを選んでも、高速修復材を使ってしまう。那智は艦娘の命綱でもあるそれを、金と引き換えにしたくはなかった。そこで、彼女は第三の選択をした。官品の横流しである。当然だが違法であり、それだけに入ってくる額と、発覚した時に周りに掛かる迷惑は桁違いであった。那智は部屋のクローゼットから支給された儀礼用の制服一式を出すと、専用長靴(ちょうか)を適当な布袋に詰め込み、外出許可を取って市街地へ出かけた。帰ってきた時、彼女はパラオ泊地で一番幸せな艦娘だったろう。が、それも、その日の夜の連絡事項で、「作戦前日に閲兵式*2を行う為、礼装を準備しておくように」との通達があって、台無しにされてしまった。

 

 翌日、出撃から帰ってくると、那智は早速長靴を店へ買い戻しに行った。でも告げられたのは、既に買い手がついてここにはない、という無慈悲な答えだった。買った者を教えろと言っても、顧客の情報を教えることはできない、新しいのでも作って履け、と返されればそれまでである。那智は追い込まれた。そして、追い込まれた時こそ、艦娘の真価が発揮される時だった。

 

 艦娘が出撃に際して着る制服は、それぞれ艦型ごとに異なることが多い。睦月型駆逐艦は黒や濃紺、白のセーラー服。川内型軽巡洋艦は柿色に白のセーラー服。金剛型戦艦は肩を出した巫女服のような衣装を着ている。那智の属する妙高型重巡洋艦は、紫色のジャケットにタイトスカートと白タイツだった。靴型の脚部艤装は、通常であれば脛の半ばほどまでの鼠色半長靴(ブーツ)。改二であれば、白のロングブーツ型となる。

 

 ただ、礼装は艦種ごとに、ほぼ全員が同じデザインだった。上衣も下衣も、黒い革製長靴も。そこに活路があった。那智は自室に戻ると、工廠に出掛けて、自分用の装備品からナイフだけを持ち帰った。彼女は決して、周囲に焦りを感じさせなかった。何をすればいいか分かっていて、その為の手段も、能力も彼女は備えていたので、焦る理由がなかったのだろう。

 

 真夜中、那智は行動を開始した。要ると思った道具を持って部屋からそっと抜け出すと、夜間の巡視や警邏を掻い潜り、泊地の周囲を取り巻く壁まで越えてしまった。バレれば脱走と見なされる行為である。まして大規模作戦前となれば、敵前逃亡に問われる危険性もあった。それでも彼女はあえてやり、成功して、その足で陸軍の基地に向かった。

 

 パラオの現地民は概して日本に好意的だったが、全員が熱狂的な支持者だった訳ではない。時には夜陰に乗じて忍び込み、物資を盗もうとするような輩もいた。窃盗などは可愛らしい方で、放火事件もあった筈である。なので海軍泊地にせよ陸軍基地にせよ、己と戦友の命の為に、警備はしっかりと行われていた。彼らは居眠りなど絶対にせず、衛兵は検問所にて、夜の暗がりを千里先まで見通すような目つきでにらんでいた。それで那智は門を通らずに、外周を覆うフェンスを抜けた。警備兵はいたが、見つからないよう、捕まらないよう逃げ隠れするのは、那智の大得意とするところだった。彼女は首尾よく車両倉庫に潜り込み、その中に保管されていた、陸軍基地司令用の高級大型セダン車を見つけ出した。

 

 恐らくだが当初の予定では、そこで用を済ませて、徒歩で立ち去るつもりだったのではないだろうか? 明らかにその方が安全だったと思うし、私の知る那智は安全性と危険性の天秤を正しく見計ることができる人物だ。多分、本当にそうだったのだろう。つまり、その天秤を正しく見計らってしまった結果、行けると感じ取ってしまったんだと思う。

 

 倉庫の、その区画には、基地司令用の車の鍵も一緒に保管されていた。車にはガソリンが満タンに入っていた。那智は民間人時代に車の免許を取っていた。基地司令の車はAT車だった。やったら最高に楽しいぞ、と彼女は思った*3。那智は司令の車に乗り込むと、すぐさまエンジンをスタートさせた。警備兵は最初聞き間違いか、でなければ馬鹿な同僚が火遊びをしていると考えたのかもしれない。結局、彼らが真実に気づいたのは那智がアクセルを踏み込み、車両保管庫の大扉をぶち破って外に出た時だった。

 

 陸軍の兵士たちは仰天した。だが彼らも訓練された軍人だ。銃を構え、安全装置を解除し、引き金に指を掛けるところまではスムーズだった。そこでこう思った、と私は推測する。()()()()()()()? 司令の専用車に乗っているのが誰か、明確に見られた者はいなかったろう。夜で暗かったし、車は止まっていたのではなかったから、責められる話ではない。上位者の許可もなしに撃って、乗っている誰かに当たって、それがマズい相手だったら?

 

 実際がどうであれ、銃を撃つ者がいなかったことは、那智を調子に乗らせた。彼女は来る時に避けざるを得なかった検問所を、中から食い破ることにした。衛兵は英雄的だったと彼女は後で語ったものだ。彼らは、高速で迫ってくるトン単位の重さを持った乗り物に対して、持ち場を放棄することを拒んだ。衛兵詰め所に備えられた可動式ライトを使い、那智に向かって強い光を浴びせたのだ。

 

 元より人を轢き殺すつもりなど毛頭なかったドライバーは、光を避けるようにして車を走らせ、車止めのバーを破壊し、衛兵詰め所の横を通り過ぎた。追手の軽装甲車がその後を追ったが、撒かれてしまった。彼らが夜を通しての捜索でとうとう陸軍基地司令専用車を発見した時、そこに残されていたのは、粉砕されたガラスとハンドル、それにシャーシの一部だけだったそうだ。後は何もかも、陸軍に先んじて車を見つけていた現地民たちが、持ち去ってしまっていたのだった。

 

 それで陸軍は初め、この事件を日本軍に不満を持った、不逞の現地住民によるものだと決めつけた。彼らには手が出せないほどの高級車から素材を剥ぎ、売り飛ばして小銭を稼ぐのが目的だったのだと。だが実際は違ったし、陸軍も最後にはそれに気づいた。事件から暫くの後、闇市で不相応に上等な素材を売っている露天商を尋問して、どうにか聞き出したことによれば、現地民たちには地面に残していったものの他に、一つだけ車から持ち出せなかった品があったのだ。

 

 黒い革製シートである。

*1
この“体を売る”は、修復材を活用して体の一部(髪の毛や手首から先など)を安全に切り離し、売りつけることを指す。あくまで冗談であり、それを実際に行ったという艦娘には私も会ったことがない。

*2
艦娘が主戦力になってからの海軍用語では、「観艦式」は海上での観閲式(対象は艦娘もしくは通常艦艇、あるいはその双方)、「閲兵式」は陸上での観閲式(対象は艦娘か海軍陸戦隊)を指す。

*3
本人談。



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20「ある八月の出撃」

 深海棲艦が人間同様に歌を歌うという話を聞いたことがある艦娘は、少なくない。私が初めてそれを聞いたのは、パラオ時代、古鷹からだった。その古鷹も、彼女が海軍最先任艦娘*1となるよりずっと前に、別の誰かによって「先任から聞いた話」として教えられたそうだ。その話を丸々信じるなら、歌が聞こえるのは一定以上の規模の敵を相手にしている時が多いという。無線から聞こえたと主張する者もあれば、己の耳に直接届いたと語る者もあったらしい。しかし、どちらにせよそれは、少なくとも公的な場においては、眉唾ものの与太話でしかなかった。歌というのは文化の一つであり、深海棲艦にそういったものはない、というのが当時の通説だったからである。

 

 でも私は、それを聞いた時、そういうこともあるかもしれない、と思ったのだ。私がその歌を耳にしたことがあったからではない。十年の従軍期間において、私の無線機も私の耳も、深海棲艦の歌声とはとうとう無縁であった。そうではなくて、その時の私は、深海棲艦にまつわる色々な噂話、特に憲兵連中の前で口にするにはいささか危険な類の噂を、ほんのちょっとくらいは信じたっていい、そんな気持ちになっていたのだ。嵐の中からの帰り道、頭から爪先まで雨に濡れて、唇は紫で、肌の色は真っ白になって、風が吹く度に吐きそうなほどの冷たさが身に染みて、でも右手だけがやけに温かく感じていた、その時の私は。

 

 始まりは、一つの任務が泊地司令部から下達(かたつ)されたことであった。それがどういう内容だったかは、もう覚えていない。多分、そんなに大したものでもなかったのだろう。覚えているのは、任務がとても上首尾とは言えない終わり方をしたということだけだ。轟沈もなく目標は達成できたが、私たちは持っていた弾をほとんど使い果たし、その上、余りにも母港から離れすぎていた。燃料計と弾薬の残量、それから海図を突き合わせて考えてみて、古鷹は余裕を持って到着できる、近くの補給拠点に向かうことを決めた。そこで弾と油の(できることなら消耗した艦載機も)補充を受けて休息を取り、元気になってから家に帰ろうという訳だ。

 

 悪くないアイデアだった──もっと強く表現するなら、全く文句のない指示だった。弾も燃料も不足している状態で、いつ敵と出くわすか分からないような場所をほっつき歩いていたくはない。古鷹は無線を使って各所に連絡と報告を回し、受け入れ可能な拠点を探した。それには少し掛かったが、やがて司令部から一つの座標が送られてきた。それは、一番近い訳でもないが、一番遠い訳でもない、ほどほどに離れた地点を示していた。私たちは上層部の人々を見習って、ほどほどに不満や悪口を呟きながら、その座標へと進み始めた。古鷹は私たちを慰めるように、補給基地からヘリを出して、最寄りの飛行場まで連れて行って貰えることになった、と教えてくれたが、これはどちらかというと悪報だった。つまり、一休み抜きでパラオまで帰らなくてはならないからだ。

 

 私たちは警戒しつつ、退屈な移動時間をやり過ごす為に、あれこれと話をした。皆が最も興味を示していたのは、少し前に起きたと言われていた、タウイタウイ泊地での反乱についての噂だった。それが何処から流れてきたものか知る者はいなかったが、当該泊地について厳しく情報統制が行われていたのは事実で、上官たちは気を尖らせていたものだ。それで、反乱と呼ばれるものではないとしても、何か提督連中が心底気に入らない出来事がその辺で起きたらしいことは、誰もが感じ取っていた。那智は言った。「艦娘によるデモ行進があったらしい」「デモ行進?」那智はそれを長門に向けて言ったのだったが、私は思わず聞き返した。意外な言葉だったからだ。隊列を組んで歩きながら何かシュプレヒコールを上げるとか、そういうのは民間人向けのスポーツみたいなものであって、艦娘がやることではないと思っていた。那智は私の割り込みに気分を害することなく、続きを話してくれた。

 

「この間、補給船が来ただろう? 丁度それが起こった時、あの船はタウイタウイに寄港していたそうだ。船員から話を聞けた……そいつだって、自分の目で見たんじゃないとは思うが」

「デモ行進には要求が付き物だ。一体何を要求していたんだろうな」

 

 長門の問い掛けには、私たちを考えさせる何かがあった。「休暇とか?」響が言った。ありそうな答えだった。古鷹は言った。「もっとマシな泊地や鎮守府への転属、だったりして」なるほど、それももっともらしかった。グラーフは言った。「私の要求はだな、口を閉じて警戒をしていてくれということだ」残念なことに、この要求が容れられる余地というのは存在しなかった。グラーフが望む水準で警戒していたら、私たちの精神は戦争を生き抜けなかっただろう。まあ、もしかしたらその場合、古鷹は彼女の最後の戦いを生き延びられたかもしれないが……。

 

 結局、艦隊で二番目の問題児の疑念には、彼女の親友が答えを出した。あくまで船員から聞いた話が真実であるとするならばだが、響が言ったことが正しかったのだ。どうも、艦娘を酷使して文句を言わせないことが優れた提督となるに当たって必要な条件である、と勘違いした男が、タウイタウイに着任していたらしかった。彼は精力的に、次々と任務を請け負ってそれを成し遂げていった。あるいは、彼の艦娘が成し遂げていったと言うべきだろう。基本的に、提督は深海棲艦を殺さないし、何の任務も達さない。やるのは全部私たち艦娘と、その妖精だ。そうではないのは提督を艦娘が兼任する時だけだが、それは軍全体でも皆無と言ってもいいほどの、まさしく例外に過ぎなかった。*2

 

 で、勘違い男にはツケが回ってきた。たとえ高速修復材を使って穴ぼこだらけの体を元通りにできたとしても、疲労が消えてなくなるのではない。配下の艦娘たちは、その心も体も、戦争の重圧に悲鳴を上げていた。結果が四個艦隊と予備艦隊員によるデモ行進だ。鎮圧の為に駆り出された他の提督隷下の海軍艦娘たちは、憲兵隊が到着するまで、デモ隊のすることに見て見ぬふりを決め込んでいたとか。

 

 那智は見てきたかのようにそう語ったが、彼女自身、その話を信じている風には見えなかった。さもあらん、提督はこの話で出てきたような馬鹿に務まる仕事ではないし、万が一そうだったとしても、彼に対する艦娘の反応は、この噂話の中に出てきたもの以外の形を取った筈である。というのも、低劣な指揮官を嫌うのは、何もその配下のみではないからだ。むしろ、一人の無能や無策の尻拭いをさせられるのを憎む気持ちについては、佐官将官の位を持つ人々の方が、所詮兵隊でしかない私たち艦娘より強いのではないかと思う。従ってわざわざ反乱まがいのことまでしなくとも、遅かれ早かれ彼は任を解かれていただろう。

 

 となると、何が原因なのか。私たちにはさっぱり分からなかった。タウイタウイ泊地の艦娘たちが培ってきた気風や文化の中では、パラオ泊地の艦娘には思いもよらないことが許容されるのだろう、と結論づけるしかなかった。私たちは今一番ホットな話題を失って黙り、グラーフは溜飲を下げた……と言えればよかったのだろうが、生憎とグラーフの溜飲が下がるのはもう少し後のことだった。今度は長門がとんでもないことを言い出したのだ。「私は虐殺があったと聞いた」それは本当に耳を疑う発言だった。誰もが唖然とした。虐殺とは穏やかではない話だ。長門は周囲の沈黙を嫌ってか、早口に言った。

 

「タウイタウイ泊地の受け持っている海域*3にある島で、住民が虐殺されたらしい」

「虐殺って、艦娘、かい?」

 

 響の言葉には幾つかの重要な単語や要素が抜けていたが、それでも言いたいことは分かったし、それはその場で話を聞いていた全員が知りたいことでもあった。その頃、私たちは艦娘で、艦娘とは私たちだった。何処かで艦娘が恥を晒したなら、それは私が恥を晒したのと同じことだったのだ。軽い服務規程違反程度なら構いやしないが、人類に対する重大な罪ともなれば、それを背負うことになる時の気持ちなんか、考えたくもないことだった。幸い、長門は響が代表して訊ねたことを否定してくれた。が、その否定が即ち私たちの完全な安心に繋がったかと言えば、そうでもなかった。まるで事実確認が済んでいることを語るかのように、長門は淡々と言った。

 

「夜間に接近する深海棲艦の一隊を、わざと見逃した艦隊がいた。そいつらが島に着いて、無防備な住民を砲爆撃した。厳密な数までは知らないが、かなり大勢が死んだそうだ」

「フェアダムト!」

 

 言うまでもないだろうが、この聞き慣れた一単語を口にしたのは、ドイツ海軍が誇る生真面目な正規空母艦娘、グラーフ・ツェッペリンその人だ。彼女の罵り文句がどちらに向けられていたのかは、今もって分からない。黙れと言っているのにいつまでも喋っている同輩たちにか、怠惰か怯懦かによって、守るべき人々を裏切った日本海軍の艦娘たちにか。どちらでもよかった。多分、どちらにも向けられていたのだろう。そうするに足る正当性が彼女にはあった。私たちが気にしなかっただけで。

 

 極めてセンセーショナルで悲劇的なニュースを信じたくなくて、私は話を逸らそうとした。でも、古鷹がそれを許さなかった。私が何か言う前に、彼女は長門にその噂の裏付けを訊ねたのだ。その時の古鷹の有無を言わせぬ様子と言ったら、応じようとした長門が声を上ずらせたほどだった。気の毒なことだが、私としては仕方のない振る舞いだったと当時の旗艦を擁護してやりたい。彼女は海軍最古参艦娘であり、海軍にその時所属していた艦娘は、古鷹自身を除けば全員が可愛い後輩のようなものであった。たった一度洋上ですれ違ったことさえない相手に対してであっても、彼女の認識は変わらなかった。彼女は他の艦娘たちを愛し、慈しんでいたのである。それ故に、面汚しに対しては余計厳しく反応したし、長門が確かな証拠もなく侮辱的な流言を口にしたのではないと、明らかにしようとしていた。

 

「《張り切り屋》の中佐のところにいる矢矧を知っているだろう? ほら、あの……妹と()()()の」

 

 私と同時期にパラオ泊地にいた艦娘なら、長門が言っているのがどの提督か分かるだろう。この中佐についての評価は置いておくとして、彼の第一艦隊には一人の矢矧がいた。彼女と彼女が「妹」と呼ぶ人物にまつわる面白い話もあるにはあるのだが、本人たちに頼むからやめてくれと言われているので、それは割愛する。重要なのは、彼女の愛する()がタウイタウイ泊地にいたということと、二人は軍事郵便を使わずに私信をやりとりする方法を持っていたという二つの点だった。船員からのまた聞きなど、くすんでしまうほどの信頼できる情報源だ。古鷹は目に見えて落ち込み、隊列の中ほどにいたのを、増速して先頭に立った。顔を見られたくなかったのだと思う。那智は迂闊な親友を蹴っ飛ばし、長門は旗艦に聞こえないよう、身振りだけで「私が悪いのか?」と返した。自分が悪いと思っていないのは明白だった。

 

 その後、長門の話で平静を失ったのが理由でか、古鷹はミスをした。司令部との連絡で、針路上に嵐が来ており、大きく迂回して避けるよう指示されていたのに、それを忘れて直進してしまったのだ。その命令を聞いていたのは彼女だけだったから、こっちの方で過ちを指摘することもできなかった。たちまち辺りは真っ暗になり、大粒の雨が降り出し、風が吹き荒れて、波は普段の何倍もの高さになって足元でうねり始めた。こうなるともう、針路変更など夢のまた夢だ。ただただ姿勢を保ち、嵐を抜けるまで進み続けることしかできない。転べば最後、凪の海なら姿勢を回復できようものを、荒波の下で揉みくちゃにされて怪我一つないのに深海行きである。

 

 私たちは急いで個人携行品から雨合羽を出し、それを着込んだ。個々人の艤装の形に合わせて作られた、上等の品である。これは本土の鎮守府所属の艦娘には見られない生活の知恵というもので、艦娘が東南アジアで雨季を健康に過ごす為の必需品だった。嵐にはいかんせん力不足の感が否めなかったが、ないよりはずっといい。

 

 それから、艦隊は単横陣を組んで手を繋ごうとした。そうすれば、誰かが転びそうになった時、隣の艦娘が引き上げてやることができるかもしれない。響は大型艦娘より身体が小さくて転倒の危険が大きかったから、古鷹に左、グラーフに右手を掴まれて真ん中に回された。元々近くにいた那智と長門は早々と手を繋ぎ、グラーフ側から三人に合流しようとしていた。そして私はと言えば、古鷹から少し離れたところにいて、彼女に近づこうとしては波に押し戻されていたのである。

 

 雨はますますひどくなり、飛沫は霧となって世界をおぼろげにして、被った合羽は視界を狭めていた。私は冷静ではなかった。注意力も足りていなかった。不確かな海面の上でまっすぐ立ち続けることと、艦隊員たちと手を繋ぐことだけを考えていた。その私の視界に、黒髪が見えた。長門だ、と私は思った。波に翻弄されている間に、私は位置を大きく変えていたのだろう。それで古鷹ではなく、彼女の姿が見えたのだ、と。筋が通った、無理のない判断だった。私は何度目かになる大自然への挑戦を行い、この時やっと成功した。波に阻まれることなく、その黒髪の持ち主がだらんと下げた右手を、左手で掴んだのである。彼女は反応しなかった。その余裕がなかったのだろう。

 

 一方で私は、とりあえずこれで一安心と思い込み、周りを見る余力があった。右手に古鷹が見えた。波と戦いながら、私は古鷹の方へ寄っていった。彼女は響とグラーフの方を見ていた。手を伸ばし、彼女の左手を取るまで、彼女は私に気づかなかった。そして古鷹が気づいた時、私もようやく気づいたのだった。どうして私は右側に古鷹を見ているのか? 長門が先に見えていたなら、古鷹は私の左にいた筈なのだ。それなのに、今、私は古鷹を右隣にしている。その奥には誰がいる? 響。グラーフ。那智。長門。

 

 バランスを保つことを忘れて、ぐるん、と首を左に回す。それは左にいた黒髪の持ち主が、私の方を向き直るのと同時だった。私は──私はこの時に初めて、生きている深海棲艦の目を、間近で見た。あの特徴的な盾型の艤装を捨てたのであろう、ル級の目を。おかしなことに、彼女も驚いているようだった。びっくりしたように目を大きく見開いて、ぽかんと口まで開けていた。

 

 そこから察するに、気の抜け具合は彼女の方が上だったのだと思う。波が一際激しく打ち付けて、そのル級はバランスを崩した。私の体が咄嗟に動いたので、私はそれが為された後にそうと知ったほどだった。私は腕を強く引っ張って、ル級が立ち直るのを助けたのだ。今度はこっちが呆気に取られる番だった。しかも、自分の行いに、だ。敵を助けるなんてどういうことだ? 艦娘が深海棲艦を助けるなんて!

 

 見れば、ル級の向こうには他にも深海棲艦がいた。ネ級やタ級、ヲ級の姿を覚えている。彼女たちがわざわざ嵐の中にいた理由は知らない。しかし彼女たちは、それを乗り切る為に私たちと同じことをやっていたのだ。ラジオから大音量で流れるノイズのような轟音を立てる嵐の中ででも、横で古鷹が息を呑むのが分かった。彼女も見てしまったのだ。それは響やグラーフ、那智や長門にも伝わった。常識に従えば、私は手を離すべきだった。でも、そうするには、嵐の海が恐ろしかった。私はぎゅっと力を込めてル級の手を握った。彼女も私の手を強く握った。もう私は彼女の方を見なかった。彼女もまた、こちらを見ることはなかった。それでも手だけは繋いでいた。深海棲艦の手も温かいものなのだな、と私は考えていた。

 

 二時間かそこら、だろうか。三時間掛かったとグラーフが後で言っていたような気がする。私たちは嵐を抜けた。その直前、どちらからともなく、私とル級は手を離した。別れの挨拶に相当するような、どんな振る舞いもなかった。お互いの体温だけを残して、属する世界を異とする二個の艦隊は、それぞれの道に戻った。「撃つべきかな」と深海棲艦たちに目をやることもなく、那智が言った。「撃つべきだろうよ」と長門がぶっきらぼうに答えた。だが二人とも、撃つ気配はなかった。響は祈りを捧げていた。グラーフは実直な軍人らしく、前だけを見据え、口をつぐんでいた。古鷹は私たちがあえて見ることをしなかった彼女らを見やって、肩をすくめた。そこには経験から来る、何とも重みのある知性と、疲れ切った諦念が宿っていた。

彼女は言った。

 

「見なかったことにしましょう」

 

 私たちは一も二もなく賛成した。

 

*1
しばしば誤解されているが、他国海軍と異なり、日本海軍においては、海軍最先任艦娘は文字通りを意味する称号であり、階級ではない。他国海軍における海軍最先任艦娘に相当する現代日本海軍の階級は、海軍参謀本部付先任艦娘である。

*2
一例を挙げると、空挺艦隊の提督は艦娘が務めていた。これは空挺艦隊が、その任務の性質上、現場において高度な戦略的判断を即座に下すことを求められる可能性が、一般の艦隊に比べて遥かに高かった為である。

*3
フィリピン南方からインドネシア北方の海域。概ねであって、厳密な縄張りがあったのではない。



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